最終更新日 2025-09-30

高槻城下町整備(1586)

天正14年、豊臣秀吉は高槻城下町を整備。高山右近転封後の空白を機に、職人町・寺町を配置し、大坂城の兵站・防衛拠点として再編。キリシタン色を払拭し、豊臣政権の畿内支配を強化した。
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天正十四年(1586年)高槻城下町整備の真相:豊臣政権の畿内支配戦略と都市改造

序章:問いの再設定 — 1586年、高槻で何が起きていたのか

天正14年(1586年)という年は、日本の歴史において画期的な意味を持つ。この年、豊臣秀吉は太政大臣に就任し、朝廷の最高職を手中に収めた 1 。前年の関白就任と合わせ、名実ともに天下人としての地位を盤石にしたのである。この中央集権体制の確立期に、畿内の枢要の地、摂津国高槻で実施されたとされる「城下町整備」は、単なる一地方の都市計画に留まらず、秀吉の国家構想を色濃く反映した戦略的事業であった可能性が極めて高い。

一般に「高槻城下町整備(1586)」は、「職人町・寺町を配置し領政基盤を整備した」事変として要約される。しかし、この簡潔な記述の裏には、戦国末期の激しい権力移行と、統一政権による新たな国土経営の論理が複雑に絡み合っている。史実を丹念に追うと、この整備事業には大きな謎が浮かび上がる。高槻に先進的な城下町を築き上げたキリシタン大名・高山右近は、整備の前年である天正13年(1585年)に播磨国明石へと転封されている 2 。そして、その後任として高槻城主となった羽柴秀勝(織田信長の四男にして秀吉の養子)は、天正13年12月10日(西暦1586年1月29日)に夭折しているのである 3

この事実は、1586年という年における高槻が、安定した領主の支配下にあったのではなく、むしろ権力の空白期間にあったことを示唆している。であるならば、この「整備」を主導したのは一体誰だったのか。そして、その真の目的は何だったのか。本報告書は、この根源的な問いに答えるため、1586年前後の高槻における政治的・軍事的状況を時系列に沿って再構築し、豊臣政権が推し進めた畿内支配戦略という広範な視座から、「高槻城下町整備」の実態と、それが持つ歴史的意義を徹底的に解明することを目的とする。

第一章:高山右近が遺した都市遺産 — キリシタン城下町の構造と特質

1586年の豊臣政権による整備事業を理解するためには、まずその「土台」となった高山右近時代の高槻城下町が、いかに先進的で特異な都市であったかを把握する必要がある。豊臣政権による整備は、全くの白紙から始まったのではなく、右近が遺した物理的・社会的遺産を前提として、それを再利用、あるいは意図的に再定義する形で行われたからである。

高山右近の城主就任と城下町建設の開始

高槻城の歴史は古いが、本格的な城郭と城下町の建設が始まるのは戦国時代である。織田信長の上洛後、高槻は和田惟政の支配下に入るが、惟政の死後、家中は混乱する 2 。天正元年(1573年)、和田惟長との抗争に勝利した高山飛騨守・右近父子が実権を掌握し、右近が実質的な城主となった 5 。右近は就任後、荒廃していた城を整備し、武士、農民、職人といった多様な身分の人々を城下に住まわせ、近世的な城下町の基礎を築き始めた 4

キリスト教信仰を核とした都市計画

右近の都市計画が他の戦国大名と一線を画すのは、その中心にキリスト教信仰が据えられていた点である。熱心なキリシタンであった右近は、城下に壮麗な教会やセミナリオ(神学校)を建設し、宣教師を積極的に招聘した 2 。宣教師ルイス・フロイスの記録によれば、天正4年(1576年)には、かつて神社のあった場所に大規模な木造の教会堂が建てられたという 8

この政策により、高槻は畿内におけるキリスト教布教の一大拠点へと変貌する。天正9年(1581年)の復活祭には、巡察師ヴァリニャーノを迎え、パイプオルガンが鳴り響く中で盛大な祝祭が催された 9 。当時の領民2万5千人のうち、7割強にあたる1万8千人がキリスト教徒であったともいわれ、領内には20を超える教会が建てられた 10 。近年の発掘調査では、三の丸跡の教会推定地付近からキリシタン墓地が発見され、十字架が墨書された木棺や木製のロザリオが出土しており、信仰が領民の生活に深く根付いていたことを物語っている 9

先進的な防御思想「惣構え」と「障子堀」

右近は、武将としても、また築城家としても非凡な才能を持っていた。彼の高槻城は、当時の最先端の防御思想を取り入れた堅城であった。その最大の特徴が、城郭本体だけでなく、職人や農民が居住する城下町全体を広大な堀と土塁で囲い込む「惣構え(そうがまえ)」と呼ばれる構造である 9 。これは、主君であった荒木村重の有岡城(伊丹市)でも採用された新しいスタイルであり、領主と領民が一体となって籠城するという思想の現れであった 9

宣教師の記録には、天正6年(1578年)に信長が高槻城を攻撃した際の様子が「水を満たした広大なる堀と周囲の城壁」と記されており、惣構えの存在を裏付けている 9 。実際に、しろあと歴史館周辺で発見された外堀は幅24メートルを測り、その一部は後の近世高槻城の外堀としても利用された 9

さらに、二の丸跡の発掘調査では、堀の底を土手で格子状に仕切ることで、侵入した敵兵の動きを阻害し、多方向からの攻撃を可能にする「障子堀」の遺構が確認されている 9 。これは近畿地方でも最古級の事例であり、右近の軍事技術者としての卓越した能力を示すものである。

右近が遺したこの堅固で計画的な都市基盤、すなわち惣構えの堀や基本的な町割は、物理的なインフラとして後世に残った。1586年の豊臣政権による整備は、この既存のインフラを無視して行われたのではなく、むしろそれを前提とし、その区画や防御線を巧みに利用しながら、都市の性格を全く異なるものへと「上書き」する作業であったと考えるべきであろう。

第二章:天正十三・十四年の激動 — 城主交代と権力の真空

高山右近によって築かれたキリシタン城下町・高槻は、天正13年(1585年)から翌14年(1586年)にかけて、激動の時代を迎える。城主の相次ぐ交代と、それに伴う権力構造の劇的な変化が、中央政権による直接的な都市改造を可能にする土壌を形成したのである。

高山右近の転封とその政治的背景

天正13年(1585年)、秀吉は右近に対し、高槻4万石から播磨国明石6万石への加増転封を命じた 2 。これは右近の能力を高く評価した上での処遇であったが、その背後には秀吉の冷徹な国家戦略があった。

この時期、秀吉は石山本願寺跡地に巨大な大坂城の築城を開始し(1583年)、畿内を自らの政権の絶対的な本拠地として固める政策を強力に推進していた 1 。その一環として、大坂周辺の摂津、河内、和泉といった枢要の地から既存の大名を転出させ、代わりに自らの一族や腹心の部将を配置する「大名の配置換え」を行ったのである 4 。摂津の池田恒興を美濃へ転封させたのがその典型例である 14 。高山右近も、その能力や信長以来の功績は認めつつも、キリシタン大名という特異な存在であり、畿内を血縁者で固めたい秀吉の構想からは外れる存在であった。こうして右近は、12年間にわたって心血を注いだ高槻の地を去ることになった 11

後任城主・羽柴秀勝の短い治世と夭折

右近の後任として高槻城主となったのは、羽柴秀勝であった 15 。この秀勝は、信長の四男・於次丸(おつぎまる)であり、本能寺の変後に秀吉の養子となった人物である 3 。秀吉が信長の後継者であることを天下に示す上で象徴的な存在であり、彼を高槻に配置したことは、畿内親族配置政策の核心であった。

しかし、この秀吉の構想は予期せぬ形で頓挫する。秀勝は天正13年(1585年)7月には権中納言にまで昇進するが、かねてより病弱であり、同年12月10日、丹波亀山城にて18歳の若さで病死してしまう 3 。高槻城主としての在任期間はわずか数ヶ月であり、実際に高槻で政務を執ったかどうかさえ定かではない。

1586年の権力構造:豊臣蔵入地としての高槻

秀勝の早逝により、高槻は再び城主不在の状態となった。秀吉は後任の城主をすぐには置かず、この地を豊臣家の直轄領、すなわち「太閤蔵入地(たいこうくらいりち)」とした可能性が極めて高い 18

蔵入地は、全国に約200万石存在したとされ、豊臣政権の巨大な財政基盤であった 21 。その約7割は畿内に集中しており、大坂城のお膝元である摂津国は特に重要視されていた 21 。蔵入地の統治は、城主大名ではなく、秀吉が直接任命した代官によって行われた 24

この状況は、1586年の高槻城下町整備を考える上で決定的に重要である。通常、城下町の整備は、その地の領主である大名の意向が強く反映される。しかし、この時期の高槻にはその領主が存在しなかった。統治の主体は豊臣政権そのものであり、現地の統治を担うのは中央から派遣された代官であった。これは、領主個人の思惑や地域の利害関係に一切縛られることなく、秀吉の国家戦略、すなわち大坂を中心とした広域的な視点に基づいた都市改造を、トップダウンで迅速かつ効率的に実施できる状況が生まれたことを意味する。秀勝の夭折という偶然の出来事が、高槻を中央集権的な都市計画の実験場へと変貌させたのである。

年 / 月

高槻城主

高槻での主要動向

関連する豊臣政権の動向

天正11年 (1583)

高山右近

キリシタン城下町として繁栄

大坂城築城開始 1 、賤ヶ岳の戦い 1

天正12年 (1584)

高山右近

小牧・長久手の戦いに参陣 11

小牧・長久手の戦い

天正13年 (1585)

高山右近 → 羽柴秀勝

右近、播磨明石へ転封 2 、秀勝が城主に

四国平定 1 、関白就任 1

天正13年12月

(不在)

城主・羽柴秀勝が丹波亀山城で病死 3

-

天正14年 (1586)

(不在 / 豊臣蔵入地)

豊臣政権による城下町再整備開始

太政大臣就任 1

天正15年 (1587)

(不在 / 豊臣蔵入地)

-

バテレン追放令発布 26

【表1】高槻城主の変遷と主要動向(天正11年〜15年)

第三章:豊臣政権による「再整備」— 職人町・寺町の配置とその意図

城主不在という特異な状況下で始まった1586年の「再整備」は、豊臣政権の代官が主体となり、高槻の都市機能を根本から作り変えることを目的としていた。その計画は、大坂という巨大都市を支えるための「軍事・経済的需要への対応」と、旧体制のイデオロギーを払拭するための「思想的・宗教的統制の強化」という、二つの明確な意図に基づいていた。

職人町の配置 — 大坂城建設の兵站基地化

江戸時代の高槻城下の絵図や記録には、「本町」「魚屋町」などと共に「紺屋町(こうやまち)」という町名が見られる 27 。紺屋(染物職人)をはじめとする各種職人が集住する区画が、この1586年の整備において計画的に配置されたと考えられる。

この背景には、当時国家事業として進行していた大坂城の巨大な築城プロジェクトがあった 1 。この空前の大事業は、瓦、木材、石材といった建材はもちろん、武具や甲冑を製作する職人、そして膨大な数の労働者を支えるための食料や日用品を供給する、巨大な兵站システムを必要とした。高槻は、京と大坂を結ぶ西国街道と、物流の大動脈である淀川水系に近接する交通の要衝である 16 。この地に職人町を整備し、生産拠点を設けることは、大坂への物資供給を円滑にし、高槻を大坂城建設のための後方支援基地へと変貌させる上で、極めて合理的な政策であった。

寺町の形成 — キリシタンからの脱却と新たな社会秩序の構築

高山右近時代の高槻が教会を中心とする町であったのに対し、豊臣政権下では、城郭の防御線を兼ねる形で寺院を特定の区画に集約した「寺町」が形成されたと推察される。これは、秀吉が京都の都市改造(聚楽第建設)の際に、市中の寺院を寺町や寺之内に強制移転させた手法と同様である 29

この寺町の形成は、単なる都市の区画整理に留まらない、高度に政治的な意味合いを持っていた。それは、高山右近が残したキリシタンの色彩を物理的に、そして思想的に払拭し、豊臣政権の統制下にある仏教寺院を中心とした新たな社会秩序を構築する、という明確な意図の現れであった。支配者が変われば、都市の象徴も変わる。右近の象徴が「教会」であったならば、豊臣政権はそれに代わる新たな統治の象徴として「寺町」を創出したのである。寺院は、民衆の把握(後の寺請制度につながる)や社会秩序の維持において、政権にとって統制しやすい存在であった。教会群を放置せず、意図的に寺院を集めることは、旧体制(右近のキリシタン共同体)を解体し、新体制(豊臣政権の支配)を視覚的に示す強力な手段であった。この動きは、翌年の天正15年(1587年)に発布されるバテレン追放令を事実上先取りするものであり、秀吉の宗教政策の転換点を告げるものであったと言える 2

領政基盤整備 — 太閤検地による支配の一元化

「領政基盤整備」の核心は、豊臣政権による土地と人民の直接的な把握、すなわち太閤検地の実施にあった。秀吉は、全国で統一された基準(度量衡の統一、京枡の使用など)による検地を実施し、田畑の面積、等級、石高(収穫量)、耕作者を検地帳に登録した 21 。これにより、大名や荘園領主といった中間支配者を排除し、農民から直接年貢を収取する一元的な支配体制を確立した。これが近世的な幕藩体制の基礎となる。

高槻が高山氏の支配を離れ、豊臣蔵入地となった1586年前後には、この地でも太閤検地が実施されたと考えられる 20 。これにより、右近時代の在地構造は解体され、石高を基準とする新たな支配システムが導入された。職人町や寺町の配置といった物理的な都市改造と、検地による社会・経済構造の再編は、まさに一体のものであり、高槻を豊臣政権の支配下に完全に組み込むための両輪であった。

比較項目

高山右近時代 (〜1585年)

豊臣政権時代 (1586年〜)

都市の象徴的施設

教会、セミナリオ 4

寺社(寺町) 29

主要な町名・機能

武家地、キリシタン関連施設

職人町(紺屋町など)、寺町、武家地 27

宗教政策

キリスト教の奨励、畿内布教の一大拠点化 2

キリスト教の影響排除、仏教寺院による統制 26

経済的役割

独立した領国(高槻藩)の中心都市

大坂の衛星都市、兵站基地 33

防御思想

領主と領民が一体となった籠城思想(惣構え) 9

広域防衛網の一部としての拠点城郭 34

【表2】高槻城下町の構造比較:高山右近時代 vs 豊臣政権時代

第四章:大坂城の衛星都市として — 畿内惣構想における高槻の役割

1586年の高槻城下町整備は、高槻という都市単体で完結するものではなく、豊臣秀吉が構想したより広域的な安全保障体制の中に位置づけることで、その真の戦略的価値が明らかになる。高槻は、巨大城塞都市・大坂を防衛する衛星都市として、新たな役割を与えられたのである。

高槻城の再評価と改修

高山右近が築いた惣構えや障子堀を備えた堅固な城郭は、豊臣政権にとっても高い軍事的価値を持っていた 9 。政権はこれを破却するどころか、大坂防衛網の重要拠点として積極的に活用・改修したと考えられる。

その物的な証拠が、高槻城跡から出土した金箔押軒平瓦である 9 。この瓦は、秀吉が京都に築いた政庁兼邸宅である聚楽第で用いられたものと同タイプであり、豊臣政権が直接関与する城郭や寺社でしか使用が許されなかった、権威の象徴であった。この瓦の存在は、1586年以降、豊臣政権が何らかの形で高槻城の建物に手を入れたことを示唆しており、高槻が単なる蔵入地の管理拠点ではなく、政権にとって重要な軍事拠点として認識されていたことを物語っている。

また、発掘調査では、右近時代の堀を一度埋め立て、その上からさらに大規模な堀が掘られた痕跡が確認されている 35 。防御力を格段に向上させるこの大規模な改修が、大坂防衛の必要に迫られた豊臣政権下で実施された可能性は極めて高い。

広域防衛網「畿内惣構え」における戦略的位置づけ

秀吉は、大坂城を絶対的な中心核とし、その周囲に郡山城、高取城、宇陀松山城といった畿内の主要城郭を戦略的に配置・連携させることで、畿内全体を一つの巨大な要塞と見なす、いわば「畿内惣構え」とも言うべき広域防衛構想を抱いていた 34 。この壮大な構想の中で、高槻城はどのような役割を担っていたのか。

大坂城の防衛上の弱点は、大軍を展開できる南側の陸続きであったことは、後の大坂の陣における真田丸の攻防が示す通りである 28 。しかし同時に、政治の中心である京都との連絡路(西国街道)を確保し、かつ京都方面からの脅威に備えることも、政権の安定にとって死活問題であった。高槻は、まさにこの京・大坂間の要衝に位置する。

この地にある右近築城の堅城を、豊臣政権がさらに強化し、政権の権威を示す金箔瓦で飾り、直轄地として兵站機能を付与する。これら一連の措置は、高槻を大坂の防衛・兵站システムに完全に組み込み、大坂城の「北の玄関口」を固めるための、極めて合理的な戦略であった。1586年の整備事業は、個別の都市計画ではなく、この畿内惣構えという大戦略の一環として位置づけることで、初めてその全体像と必然性が理解できるのである。

他の豊臣系城下町との比較

秀吉が建設した城下町としては、政権の本拠地である大坂や、後の関白の政庁となる伏見が代表的である 33 。これらの都市に共通するのは、武士、商人、寺社といった異なる身分の居住区が明確に分離され、計画的に配置されている点である 33 。高槻における「職人町」「寺町」の配置も、この豊臣流の都市計画思想に沿ったものであった。

しかし、その役割には明確な違いがある。大坂や伏見が政権の中枢として、政治・経済の中心機能そのものを担うために建設されたのに対し、高槻は、それら中枢都市を外部の脅威から守り、その活動を後方から支える「支援・防衛拠点」として再整備された。この機能分担こそが、豊臣政権下における高槻の新たな存在意義であった。

結論:1586年高槻城下町整備の歴史的意義

天正14年(1586年)の「高槻城下町整備」は、特定の城主による自律的な領国経営ではなく、豊臣秀吉の中央集権体制確立期における、国家的な都市改造事業であったと結論付けられる。それは、高山右近の転封と後任城主・羽柴秀勝の急死という政治的空白を好機として、豊臣政権が直接介入し、高槻という都市を、その物理的構造から社会的・思想的性格に至るまで、自らの支配体制に完全に適合させるプロセスであった。この事変が持つ歴史的意義は、以下の三点に集約される。

第一に、 近世城下町への移行を象徴する画期 であった点である。高山右近という一個人の大名の信仰と個性が色濃く反映された「キリシタン城下町」から、中央政権の戦略的意図に基づき、職能(職人町)や統治機能(寺町)によって機能的に再編された都市へと変貌した。これは、戦国大名の城下町が持つ多様性や自律性が、兵農分離と身分制を前提とした、より均質で計画的な近世城下町へと移行していく過渡期の典型的な事例と言える。

第二に、 豊臣政権の宗教政策の転換点 を示す事象であった点である。翌年のバテレン追放令に先立ち、物理的な都市構造の改変(教会から寺町へ)を通じてキリスト教の影響力を削ぐという手法は、秀吉の宗教に対する姿勢が、融和から統制へと大きく舵を切ったことの萌芽を明確に示している。高槻は、その新たな政策が試行された実験場であった。

第三に、 広域的な都市システムの形成 という、より大きな文脈の中に位置づけられる点である。大坂城という巨大な中心都市(メトロポリス)を核とし、その周辺に機能分担された衛星都市(兵站・防衛)を配置するという構想は、近世以降の日本の国土構造にも通じる先駆的な試みであった。高槻の整備は、この壮大な都市システムの構築に向けた、具体的かつ重要な一歩だったのである。

したがって、「高槻城下町整備(1586)」は、単に職人町や寺町が配置されたという表層的な事実以上に、戦国乱世の終焉と、統一政権による新たな国土経営の始まりを、畿内の一都市の変貌を通じて鮮やかに映し出す、日本都市史における画期的な出来事だったのである。

引用文献

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