最終更新日 2025-05-30

カステラ

「カステラ」の画像

戦国時代におけるカステラの受容と初期変容に関する歴史的考察

序章:戦国時代における南蛮菓子とカステラ

戦国時代(1467年~1615年 1 )は、室町幕府の権威が失墜し、各地の武将が覇を競った激動の時代であると同時に、新たな文化が日本にもたらされ、受容された変革期でもありました。この時代の日本の食文化は、米を主食とし、魚介や野菜を中心とした伝統的な献立に加え、中国から伝来した点心、例えば饅頭や羊羹などが、甘味を加えた菓子として独自の発展を遂げていました 2 。このような状況下で、16世紀半ば以降の南蛮貿易を通じて、ポルトガルやスペインなどヨーロッパの菓子、いわゆる「南蛮菓子」が日本にもたらされました。

これらの南蛮菓子は、鶏卵や砂糖をふんだんに使用する点が大きな特徴であり、当時の日本では極めて斬新かつ貴重なものでした 2 。カステラ、金平糖、ボーロなどがその代表例として挙げられ、特に砂糖の豊かな甘みは、従来の日本の菓子文化に大きな影響を与えたと考えられます 2 。実際に、長崎からもたらされた砂糖や砂糖を用いた菓子は「甘い衝撃」として全国に広まったと形容されています 4 。それまでの日本の菓子、例えば千利休が茶席で用いたとされる「ふの焼き」のように味噌が使われるなど、必ずしも甘味を主としないものも存在したことを考えると 3 、南蛮菓子の強烈な甘さは、当時の人々に鮮烈な印象を与えたことでしょう。この「甘味」は、単に味覚上の新奇性にとどまらず、富や権力の象徴、あるいは異文化との接触という社会的な意味合いも帯びていた可能性があります。カステラを含む南蛮菓子の伝来は、日本の菓子における「甘味」の価値観を大きく変える契機となり、その後の和菓子の発展にも少なからぬ影響を与えたと推察されます。

本報告では、この戦国時代に日本へ伝来したとされるカステラに焦点を当て、その語源、伝来の経緯、原材料、製法、当時の文献記録、消費層、そして日本における初期の変容について、現存する史料や研究成果に基づいて多角的に考察します。特に、カステラが戦国時代の日本社会においてどのように受容され、どのような意味を持っていたのかを明らかにすることを目的とします。

戦国時代は下剋上が頻発し、旧来の権威が大きく揺らいだ時代でした 1 。このような社会の流動性は、一方で新たな価値観や文物が受け入れられる素地を生み出したとも考えられます。織田信長に代表されるように、新しいものを積極的に取り入れる気風を持った武将が登場し 2 、南蛮貿易は鉄砲などの軍事技術のみならず、カステラのような文化的な産物も日本にもたらしました 3 。このような時代背景が、伝統に必ずしも縛られない新しい価値観や物品、特に異国情緒あふれる南蛮菓子への関心を高め、一部の権力者層による受容を促進した側面があったことは想像に難くありません。社会の流動性が高まる時期には、異文化に対する開放性が増し、新たな文化要素が取り入れられやすいという歴史的傾向の一端を、カステラの受容事例が示しているのかもしれません。

第一章:カステラの日本伝来

カステラの日本への伝来は、16世紀中頃、ポルトガル人が種子島に漂着した1543年(天文12年)以降に本格化した南蛮貿易と深く関連しています 3 。この時期はまさに戦国時代の動乱期にあたります。

具体的な文献記録としては、1550年(天文19年)にポルトガルの貿易船が平戸(現在の長崎県平戸市)に来航し、時の平戸領主であった松浦隆信(道可)にカステラ、あるいはその原型となる菓子が献上されたという説が存在します 7 。また、より詳細な年代を記すものとして、1557年(弘治3年)に肥前唐津(現在の佐賀県唐津市)において、キリスト教の宣教師が作ったとされる菓子類の中に「角寺鐵異老」(カステイラと読む)という名称の菓子があったとする記録も伝えられています 7 。これらの記録は、カステラが16世紀半ばには既に日本に伝来していたことを示唆しています。

伝来の経路としては、ポルトガルから伝えられたというのが通説です 6 。その原型は、当時イベリア半島に存在したカスティーリャ王国の菓子「パン・デ・カスティーリャ」あるいは「ボロ・デ・カステリア」(カステラ王国のパンまたは菓子の意)であったとされており、これがポルトガルを経由して日本にもたらされたと考えられています 6 。これらの菓子は、ポルトガル船によって主に九州地方の港町、特に平戸や後の長崎といった南蛮貿易の拠点にもたらされました 4 。中でも長崎は、江戸時代の鎖国体制下においても唯一ヨーロッパとの貿易が許された窓口となり、カステラ文化が深く根付き、発展していく中心地となりました 11 。平戸においては、カステラの元祖ともいわれる「カスドース」という菓子が生まれたとの伝承もあります 12

南蛮貿易は、生糸や鉄砲といった主要な交易品だけでなく、カステラのような菓子類も日本にもたらしました。これらの菓子は、貿易全体から見れば「おまけ」のような副次的なものであった可能性も指摘されていますが 13 、文化交流という側面においては極めて重要な役割を果たしました。特にイエズス会の宣教師たちは、日本での布教活動を円滑に進めるため、あるいは有力者との良好な関係を築くための手段として、織田信長などの時の権力者に対し、カステラを含む南蛮菓子を献上したことが記録されています 2 。これらの甘美な贈り物は、異文化への関心を喚起し、交渉を有利に進めるための有効なツールとして機能したと考えられます。

カステラの伝来は、単に新しい「物」が異国から運ばれてきたという事象に留まりません。宣教師たちがカステラや金平糖といった南蛮菓子を献上品として用い、布教活動の戦略の一つとしていたことは複数の資料からうかがえます 10 。例えば、ルイス・フロイスから金平糖を献上された織田信長がそれを大いに喜んだという逸話は 2 、菓子が外交的、あるいは交渉を円滑にするためのアイテムとして機能したことを示しています。たとえ経済的な主要交易品ではなかったとしても 13 、その文化的・戦略的価値は決して小さくなかったと言えるでしょう。戦国時代のカステラは、単なる嗜好品としてではなく、当時の国際関係や宗教的影響力の拡大といった、より大きな歴史的文脈の中で理解する必要があるのです。

また、カステラ伝来初期の拠点が、平戸、長崎、唐津といった九州北西部の港町に集中していた点は注目に値します 3 。これらの地域は南蛮貿易の初期の窓口であり、宣教師の活動も活発でした。このような特定の地域への文化伝播の集中が、菓子製造に関する技術や知識の集積を促し、後の時代に「長崎カステラ」として全国的な名声を得るための地理的、そして文化的な基盤を形成したと考えられます。特定地域への文化要素の集中的な伝播が、その後の地域ブランド形成に長期的な影響を与える可能性を示唆する事例として、カステラの歴史は興味深い考察対象となります。

第二章:「カステラ」の語源と初期の呼称

「カステラ」という菓子の名称は、その異国的な響きからもわかるように、外国語に由来します。最も有力とされている語源説は、16世紀当時のイベリア半島に存在した「カスティリャ王国」(Castilla、現在のスペイン中央部から北部にかけての地域)に由来するというものです 6

具体的には、ポルトガル語で「ボーロ・デ・カステーラ」(Bolo de Castella)、すなわち「カスティリャのパン(または菓子)」と呼ばれていたものが、日本に伝わる過程で「カステラ」という呼称として定着したと考えられています 6 。江戸時代初期の日本人にとって、「カステラ」という言葉は、現在のスペインを指す地名として認識されていた可能性も、当時の世界地図に関する研究から示唆されています 10 。発音の面から見ても、スペイン語では「カスティーリャ」または「カスティージャ」と聞こえるのに対し、ポルトガル語では「カステーラ」に近い発音となることも、この説を補強しています 10

日本に伝わった当初、カステラは様々な当て字や呼称で記録されています。これは、外来の新しい言葉を日本語で表現しようとした際の試行錯誤の過程を反映していると考えられます。

1600年頃の成立と推定される現存最古級の南蛮菓子製法書『南蛮料理書』には、「かすてほうろ」という名称でその製法が記されています 10 。これは「ボーロ・デ・カステーラ」の音写に近いと考えられます。また、江戸時代の随筆『長崎夜話草』には「カステラボウル」という呼称も見られます 10

さらに時代を遡る可能性のある記録として、1557年(弘治3年)の出来事として、川北温山の『原城紀事』(1846年成立)が江戸時代中期の著作とされる『耶蘇天誅記』を引用する形で、「角寺鐵異老」(カステイラと読む)という当て字が登場します 7 。この他にも、「家主貞良」「加須底羅」「粕底羅」といった、音や縁起を考慮したと思われる漢字表記も存在しました 9 。これらの多様な表記は、カステラという言葉が日本語に定着するまでの過渡的な様相を示しています。

なお、スペイン語で城を意味する「カスティーリョ」(Castillo)から、「城のように高く(生地が膨らめ)」という願いを込めた掛け声が転じて「カステラ」になったという異説も紹介されていますが 19 、学術的には「カスティリャ王国」由来説が主流とされています。

このように多様な初期呼称や当て字が存在したことは、外来語である「カステラ」が日本語の音韻体系や文字体系に取り込まれる際の、当時の人々の音韻的・意味的な試行錯誤の過程を如実に反映しています。「かすてほうろ」や「カステラボウル」、「カステイラ」といった音写に近い呼称と、「角寺鐵異老」や「家主貞良」、「加須底羅」といった意味や音、あるいは縁起の良さを考慮して漢字を当てた表記が混在している状況は、未知の外国語の音を聞き取り、それを既存の日本語の音や漢字で表現しようとした際の自然なプロセスと言えるでしょう。特に当て字には、単に音を写すだけでなく、商品名としての魅力や、何らかの肯定的な意味合いを持たせようとする意図がうかがえる場合もあります。カステラの名称の変遷は、単なる言語学的な興味に留まらず、異文化の産物がどのように受容され、土着化していくかの一つのモデルケースを示していると言えます。

また、語源が「カスティリャ王国」であるという認識は、当時の日本人がカステラを単なる菓子としてだけでなく、特定の「異国(スペイン)」を象徴する物品として捉えていた可能性を示唆します。江戸初期の日本人が「カステラ」をスペインの地名として認識していた可能性が指摘されているように 10 、「カスティーリャの焼き菓子」という名称はその出自を明確に示しています。戦国時代から江戸初期にかけて、日本人はポルトガルやスペインといった南蛮諸国に対して強い関心と、ある種の畏敬の念を抱いていたと考えられます。したがって、カステラを食すことは、遠い異国の文化に触れるという体験的な意味合いも持っていたのかもしれません。カステラの名称の由来は、当時の国際情勢や日本人の異国観と結びつけて考察することで、単なる菓子の名前以上の文化史的意味を見出すことができるのです。

以下に、戦国時代におけるカステラの主な呼称と語源に関する情報をまとめます。

表1:戦国時代におけるカステラの呼称と語源

初期 の 呼称 (日本語 表記)

推定 さ れる 原語 (ポルトガル語/スペイン語)

語源 に 関する 説

主 な 史料 (出典)

かすてほうろ

Bolo de Castella (ポルトガル語)

カスティーリャ王国 の パン (菓子)

『南蛮料理書』 10

カステラボウル

Bolo de Castella (ポルトガル語)

同上

『長崎夜話草』 10

角寺鐵異老

Castella (ポルトガル語/スペイン語 の 音写)

同上 (音写)

『原城紀事』(『耶蘇天誅記』引用) 7

カステラ

Castella (ポルトガル語/スペイン語)

同上

複数の資料 6

加須底羅・粕底羅

Castella (ポルトガル語/スペイン語 の 当て字)

同上 (当て字)

『和漢三才図会』など後代の文献、一部商品名 9

この表は、カステラという言葉が日本に定着するまでの多様な呼称の存在を示し、当時の人々がこの新しい菓子をどのように呼び、認識しようとしていたかを具体的に理解する一助となるでしょう。

第三章:戦国時代のカステラの原材料と製法

カステラの基本的な原材料は、戦国時代に日本へ伝来した当初から現代に至るまで、主に小麦粉、砂糖、そして鶏卵です 7 。これらのシンプルな材料から、あの独特の風味と食感が生まれます。

特筆すべきは、鶏卵の使用です。当時の日本の菓子製法において、鶏卵を主材料としてふんだんに用いることは画期的なことでした。それまで日本では、仏教思想の影響などから殺生を避ける意識があり、鶏卵を食用とする習慣は一般的ではありませんでした 10 。南蛮菓子、とりわけカステラの伝来が、鶏卵を食品材料として積極的に用いる文化を日本に広める大きなきっかけとなったと指摘されています 10

当時の原材料の入手状況とその価値についても見ていきましょう。まず砂糖ですが、戦国時代から江戸時代初期にかけて、日本で使われる砂糖は主に中国や東南アジアからの輸入品であり、極めて高価で貴重なものでした 2 。長崎などの貿易港を通じて輸入され 4 、「シュガーロード」と呼ばれるルートを経由して国内各地へ運ばれましたが、その量は限られていました 4 。ポルトガル船の積荷として年間150キログラム前後の砂糖が輸入されていたという研究もあります 23 。17世紀初頭の平戸オランダ商館の時代には、砂糖の輸入量は年間100トン程度であり、輸入品全体の仕入れ高に占める割合は1%にも満たなかったとされますが、江戸時代半ばにはその割合が約30%に達したという記録もあります 23 。これは、戦国末期から江戸初期にかけて砂糖の供給が徐々に増加しつつあったものの、依然として庶民が気軽に使えるようなものではなかったことを示唆しています。元禄5年(1692年、戦国時代より後)の京都における輸入白砂糖の小売価格は、現在の貨幣価値に換算して1キログラムあたり約1600円程度であったという試算もあり 23 、高価ではあったものの、全く手が届かないというほどではなかった可能性も示唆されますが、戦国時代においてはさらに高価であったと推測するのが自然でしょう。

次に鶏卵ですが、前述の通り、戦国期頃まで鶏卵を食べる習慣は日本では稀でした 10 。しかし、南蛮貿易が盛んになった九州地方などでは、ポルトガル人との接触を通じて肉食や鶏卵食の習慣が徐々に広まり始めたと考えられています 10 。江戸時代に入ると養鶏が本格化し、鶏卵も一般的に食べられるようになっていきますが 25 、戦国時代においてはまだ貴重品であり、それを菓子にふんだんに使うカステラは、極めて贅沢な品であったと言えます。

初期の製法については、現存する数少ない南蛮菓子の製法書と目される『南蛮料理書』(慶長年間、1600年前後成立と推定)の記述が重要な手がかりとなります 4。この書物には、「かすてほうろ」という名称でカステラの製法が以下のように記されています。

「たまこ(卵)拾こに、砂糖百六十目、麦の粉百六十匁。此三色こねて、鍋に紙を敷き、粉を振り、その上に入れ、上下に火を置いて焼き申す也。」 10

この記述から、卵、砂糖、小麦粉をほぼ同量(当時の度量衡で1匁は約3.75グラム、1目はその10分の1程度だが、ここでは重量比としてほぼ等量と解釈できる)で配合し、「こねる」という表現が用いられている点が注目されます。このことから、当時の「かすてほうろ」の生地は、現在のカステラのように流動的なものではなく、パン生地に近い、比較的固いものであった可能性が推測されます 10。焼き方も、専用のオーブンではなく、鍋を用いて上下から炭火などで加熱するという、素朴な方法でした。

このような製法から推測すると、日本に伝来した当初のカステラ(かすてほうろ)は、現在の私たちが知るカステラのような、ふんわりとしてきめ細かく、しっとりとした食感ではなかったと考えられます 10 。スペインの原型とされる「ビスコチョ」も、元々は保存食としての堅焼きのパンのようなものであったとされています 10 。ある資料では「それ以前のカステラは堅くてパサパサしていたようです」との記述もあり 28 、これは初期の製法を反映している可能性があります。現代の長崎カステラの特徴である底のザラメ糖や、生地にしっとり感を与える水飴の使用は、明治期以降の改良によるものであり 9 、戦国時代の製法には含まれていませんでした。

戦国時代のカステラの価値は、単に珍しい外来の菓子であったというだけでなく、その原材料の希少性と製法の手間が複合的に作用して高められていたと考えられます。高価な輸入品であった砂糖 4 、そしてまだ一般的な食材ではなかった鶏卵 10 を用いること自体が贅沢でした。加えて、『南蛮料理書』に記された製法 10 は、材料を「こねて」鍋で焼くというもので、現代から見れば単純ではあるものの、当時の調理技術や道具を考えると、決して容易ではない手間のかかる作業であったと推測されます。ある資料では、カステラは「生まれた当時からふんわりと焼き上がるまでに1~2時間もかかるとても手のかかる貴重品だった」と述べられていますが 18 、これは後の時代のカステラについてではあるものの、手間のかかる菓子であるという一般的な認識を示唆しています。これらの要素が組み合わさることで、カステラは特別な菓子としての地位を確立したのでしょう。物の価値が、その希少性だけでなく、製造に関わる人的・時間的コストによっても規定されるという経済原理が、戦国時代のカステラにも当てはまっていたことを示しています。

鶏卵の本格的な使用は、日本の菓子史における「テクスチャー革命」の萌芽であったと言えるかもしれません。鶏卵、特に卵白の起泡性を利用することで、従来の日本の菓子には少なかった軽やかさ、柔らかさ、そして豊かな膨らみといった新しい食感(テクスチャー)を生み出すことが可能になります。『南蛮料理書』の「こねる」という製法 10 では、まだその特性が十分に活かされていなかったかもしれませんが、鶏卵という素材の導入自体が、将来的な食感の多様化への道を開いたと言えます。実際に、「卵の気泡技術が、南蛮(ポルトガル、スペイン)から渡来」したという記述もあり 16 、素材だけでなく技術の伝播も示唆されます。「江戸中期ほどから卵と砂糖を多く使うようになり、さらに時代の移り変わりとともに材料の質が良化し現代のカステラの様になっていった」という記述 11 からも、鶏卵の持つ可能性が徐々に理解され、活用されていった過程がうかがえます。カステラの伝来は、単に新しいレシピが持ち込まれただけでなく、鶏卵という新しい食材とその潜在的な調理特性(起泡性など)が導入された点で、日本の菓子製法に長期的な革新をもたらす可能性を秘めていたのです。

さらに、初期の製法に見られる「こねる」という表現と鍋での焼成は、カステラがパンに近い起源を持つことを示唆しており、その後の日本における「菓子」としての洗練化の出発点を示していると考えられます。『南蛮料理書』の「こねる」という記述から、生地がパンのように比較的しっかりとしたものであったと推測されることは既に述べました 10 。カステラの原型とされるスペインの「ビスコチョ」が、元々堅焼きのパンのような保存食であったという事実もこれを裏付けています 10 。鍋で上下から焼くという製法 10 も、オーブンが普及していなかった時代のパンやそれに類する焼き物の製法と共通性が見られます。これが、日本で徐々に人々の嗜好に合わせて改良され、より柔らかく、甘く、きめ細かい「菓子」へと変化していく原点であったと考えられます 9 。カステラの歴史は、元々は実用的な「パン」に近い食品が、異なる文化圏で嗜好品としての「菓子」へと洗練・変容していくプロセスの一例として捉えることができ、戦国時代の製法はその初期段階を具体的に示していると言えるでしょう。

以下に、『南蛮料理書』に見る「かすてほうろ」の原材料と推定される製法の特徴をまとめます。

表2:『南蛮料理書』に見る「かすてほうろ」の原材料と製法(推定)

項目

記述内容(『南蛮料理書』より)

推定・考察

出典

原材料

たまこ(卵)拾こ、砂糖百六十目、麦の粉百六十匁

卵、砂糖、小麦粉をほぼ等量使用

10

生地調整

此三色こねて

流動性の低い、パン生地に近い比較的固い生地であったと推定される

10

焼成方法

鍋に紙を敷き、粉を振り、その上に入れ、上下に火を置いて焼き申す也

専用の窯ではなく鍋を使用。上下から炭火などで加熱したと推定される

10

食感・形状

(直接的な記述なし)

現在のカステラより固く、パサついた食感であった可能性。形状は鍋に依存か。

10

この表は、『南蛮料理書』という貴重な史料に基づいて、当時のカステラの姿を具体的に描き出す試みです。現代のカステラとの違いを明確にすることで、その後の日本におけるカステラの変遷を理解するための基礎情報を提供します。

第四章:戦国時代のカステラの消費と文化的意義

戦国時代において、カステラのような南蛮菓子を日常的に、あるいは容易に口にすることができたのは、ごく一部の人々に限られていました。その主な消費層は、各地に割拠した大名や有力な武将、そして彼らと結びついた豪商といった上流階級でした 2

その背景には、まず原材料である砂糖が極めて高価であったという経済的な要因があります 4 。また、もう一つの主原料である鶏卵も、当時はまだ一般的な食材ではなく、それを菓子にふんだんに使うことは贅沢の極みであったと考えられます 10 。このような理由から、カステラは庶民にとっては高嶺の花であり、その存在すら知られていなかった可能性も否定できません。

カステラは、その希少性と異国情緒あふれる斬新さから、有力者への献上品や贈答品として非常に重宝されました 2 。特に、日本での布教の許可を得ようとしたり、あるいは貿易を有利に進めようとしたりした宣教師や南蛮商人たちは、時の権力者に対してカステラや金平糖といった南蛮菓子を盛んに贈った記録が残っています 2

歴史上の著名な武将とカステラの関わりも伝えられています。新しいものを好んだとされる織田信長は、宣教師ルイス・フロイスから献上された金平糖を大変喜んだと伝えられており 2 、カステラも同様に献上された可能性が高いと考えられます 5 。ある資料では、当時伝えられた南蛮菓子として、金平糖、有平糖、カスティラ(カステラ)、カルメラ、ボーロ、ビスカウトなどが列挙されており 5 、信長がカステラに接した可能性を強く示唆しています。

また、天下統一を果たした豊臣秀吉もカステラを食したとされています。初代長崎代官であった村山等安が、南蛮商人からカステラの製法を習得し、それを秀吉に献上したという逸話が残っています 7 。秀吉はキリスト教に対しては厳しい弾圧政策を取りましたが、カステラそのものについては大いに喜び、歓迎したと伝えられています 7

イエズス会の宣教師たちは、日本での布教活動を円滑に進める上で、有力な大名や武将との良好な関係構築を極めて重視しました 10 。その際、カステラをはじめとする南蛮菓子は、有効な「外交ツール」として活用されました。珍しい甘い菓子は、日本の権力者たちの好奇心を引き、心を開かせる効果があったと考えられます 10 。実際に、『甫庵太閤記』には、宣教師たちがカステラなどの菓子を用いて信者を増やそうとしたという旨の記述もあるとされています 10

これらの事実から、戦国時代のカステラは単なる食品ではなく、「食の権力装置」として機能し、社会的地位や文化的先進性を象徴するアイテムであったと見ることができます。カステラを消費できたのは、経済力と情報アクセスを併せ持つ一部の支配層に限られていました 2 。信長や秀吉といった最高権力者がカステラを評価し、享受したという事実は 2 、カステラに「権威の味」とも言うべき付加価値を与えました。珍しい異国の菓子を所有し、それを他者に振る舞うことは、自身の富や権力、さらには国際的な情報に通じているという文化的先進性を示す行為であったと考えられます。このように、カステラの消費は、単なる個人的な嗜好を超え、戦国時代の権力構造や社会的階層を反映し、さらにはそれを強化する役割を担っていた可能性がうかがえます。

南蛮菓子、特にカステラの贈答は、異文化接触における「ソフトパワー」戦略の一環であり、物質的な価値以上の文化的影響力を持っていたとも言えるでしょう。宣教師は、カステラなどの菓子を布教戦略の一環として利用しましたが 10 、これは武力や強硬な交渉ではなく、魅力的な文化(この場合は食文化)を通じて影響力を行使しようとする試みと見なせます。信長の喜びよう 2 や秀吉の歓迎ぶり 21 は、これらの菓子が単なる「甘いもの」としてではなく、異文化の魅力や洗練性を伴うものとして受け止められたことを示唆します。これにより、宣教師や南蛮文化に対する肯定的なイメージが醸成され、布教や貿易交渉が円滑に進む素地が作られた可能性も考えられます。カステラのような文化的な品々は、国際関係や異文化理解において、時として政治的・経済的な力以上に有効な影響を及ぼし得ることを、戦国時代の事例は示しているのかもしれません。

興味深いのは、豊臣秀吉のキリスト教禁教政策とカステラ受容の間に見られる「ねじれ」とも言える現象です。秀吉はキリスト教を禁じ、宣教師を追放するなど厳しい政策を取りましたが 7 、その一方で、宣教師がもたらしたカステラのような菓子は喜んで受け入れたとされています 7 。これは、外来文化を全て無差別に受容・拒絶するのではなく、自らの価値観や実利に基づいて選択的に取り入れるという、当時の日本の為政者に見られたプラグマティックな姿勢を反映していると考えられます。カステラは、宗教的イデオロギーとは切り離された「美味なもの」「珍しいもの」として純粋に評価されたか、あるいは外交儀礼上の産物として受容されたのかもしれません。この事例は、文化受容が一様なプロセスではなく、政治的・社会的状況や個々の文化要素の特性によって複雑な様相を呈することを示しています。特に、実利を重んじる戦国武将の気風が、このような選択的受容を促した可能性も考えられます。

第五章:カステラに関する歴史的記録と文献

戦国時代におけるカステラの存在や受容の様相を探る上で、当時の記録や文献は不可欠な手がかりとなります。しかしながら、直接的かつ詳細な一次史料は限定的であり、多くは後代の編纂物や間接的な記述に依拠しているのが現状です。

比較的早い時期の記録として注目されるのが、1846年(弘化3年)に成立した川北温山の著書『原城紀事』です。この書物には、江戸時代中期に書かれたとされる『耶蘇天誅記』からの引用として、1557年(弘治3年)に肥前唐津で宣教師が作った菓子類の中に「角寺鐵異老(カステイラ)」という名称が見られると記されています 7 。この記述が事実であれば、戦国時代におけるカステラの存在を示す重要な証拠となります。ただし、『原城紀事』自体が幕末の成立であり、引用元とされる『耶蘇天誅記』の成立時期や史料としての信憑性については、さらなる慎重な検討が必要です 31

その『耶蘇天誅記』は、村井昌弘によって輯録されたとされる文献で、天草四郎に関する記述などが含まれているようです 32 。国立公文書館にも写本が所蔵されています 32 。『原城紀事』が引用するように、「角寺鐵異老」に関する記述が実際に『耶蘇天誅記』の原本または信頼できる写本に存在するかどうかは、直接的な史料批判によって確認する必要があります。国立公文書館所蔵の『耶蘇天誅記』の書誌情報からは、「角寺鐵異老」に関する記述の有無は確認できませんでした 32 。また、この文献がキリスト教弾圧側の視点から書かれたものである可能性も考慮し、記述内容を慎重に解釈する必要があります。

戦国時代の日本社会や文化を知る上で非常に貴重な史料として、イエズス会宣教師ルイス・フロイスが著した『日本史』が挙げられます 14 。フロイスの記録には、織田信長に金平糖を献上したことなどが具体的に記されており 2 、カステラについても同様に献上された、あるいは日本で食されていた状況が間接的に示唆される可能性があります。実際に、ある資料ではフロイスら宣教師たちがカステラや有平糖、ボーロなども日本に持ち込んだと明記されています 14 。他の宣教師たちが本国やローマへ送った書簡や年次報告書 38 にも、南蛮菓子に関する記述が含まれている可能性があり、これらの欧文史料の日本語訳や詳細な研究を通じて、当時のカステラの状況をより具体的に把握できるかもしれません。

製法に関して最も重要な史料は、既に何度か言及している『南蛮料理書』です。1600年(慶長5年)前後の成立と推定されるこの書物は、「かすてほうろ」の具体的な製法を伝える現存唯一の専門書とされ、戦国末期から江戸初期にかけてのカステラの姿を知る上で不可欠な史料と言えます 4

これらの主要な文献以外にも、当時の大名や豪商、あるいは公家などの日記や、茶会における献立や菓子を記録した茶会記 20 、さらには南蛮貿易に関する記録 24 などにも、南蛮菓子やカステラに関する記述が断片的に含まれている可能性があります。例えば、薩摩藩の記録である『薩藩旧記雑録』には、1608年(慶長13年、戦国時代の終わり頃)の正月に、伴天連(宣教師)が新年の挨拶として「南蛮菓子一折」を持参したという記述が、南蛮菓子という言葉の初見として紹介されています 20 。これらの多様な史料を網羅的に調査し、関連記述を丹念に拾い上げていくことで、新たな発見がもたらされるかもしれません。

戦国時代のカステラに関する直接的な一次史料は限定的であり、多くは後代の編纂物や間接的な記述に依存しているため、史料批判が極めて重要となります。『原城紀事』 9 は19世紀の著作であり、それが引用する『耶蘇天誅記』自体の成立年代や原本の状況が、カステラに関する記述の信憑性を大きく左右します 32 。ルイス・フロイスの『日本史』 14 は同時代の貴重な史料ですが、カステラについてどれほど詳細な記述があるかは、翻訳版の索引等で網羅的に確認する必要があります 36 。『南蛮料理書』 10 は製法を知る上で非常に貴重ですが、これも1600年頃の成立とされ、戦国時代の中でも末期にあたります。これらの状況から、戦国時代の「初期」や「中期」のカステラに関する具体的な記録はさらに乏しい可能性があり、断片的な情報を慎重に繋ぎ合わせる作業が求められます。歴史研究においては、史料の性質(一次史料か二次史料か、成立年代、筆者の立場や意図など)を厳密に吟味し、その記述の信頼度を判断する史料批判のプロセスが不可欠であり、カステラの初期史研究もその例外ではありません。

また、カステラの記録は、キリスト教の伝播と弾圧という、当時の日本における大きな歴史的文脈と分かちがたく結びついています。そのため、記録者の立場や意図を考慮した多角的な解釈が必要です。宣教師の記録(例えばフロイスの『日本史』)は、布教活動の成果や日本の文化・習慣を本国に報告するという明確な目的を持って書かれており、その視点からのバイアスが含まれる可能性を念頭に置く必要があります 39 。一方で、『耶蘇天誅記』のような文献は、キリスト教弾圧側の視点から書かれた可能性があり 33 、南蛮文化や宣教師の活動に対して否定的な評価や歪曲された記述がなされているかもしれません。カステラが宣教師によってもたらされ、献上品として用いられたという事実は 10 、これらの記録においてカステラがどのように記述されるかに影響を与えたと考えられます。同じ「カステラ」という対象であっても、記録者の立場や記録の目的によって、その描かれ方や評価が異なる可能性があるため、複数の異なる視点からの記録を比較検討することで、より客観的で立体的な歴史像に近づくことができるでしょう。

そのような中で、『南蛮料理書』の存在は特筆すべき意義を持ちます。この書物にカステラの製法が具体的に記録されたということは、単なる口伝や一時的な流行に終わらず、カステラの製法が日本国内で記録され、技術として定着し、他者へ伝承され始めたことを示す重要な指標と言えます 10 。口頭での伝承だけでなく、文字による記録が残されたということは、その技術がある程度体系化され、他者へ伝達可能な知識として認識されていたことを意味します。これは、カステラが単に舶来の珍品として消費されるだけでなく、日本国内で再生産されるための基盤が整い始めたことを示唆しています。記録によれば、カステラの老舗とされる福砂屋の初代・寿助がポルトガル人から製法を学んだとされるのは寛永元年(1624年)であり 6 、『南蛮料理書』の成立時期(1600年頃)と近接している点も興味深いところです。『南蛮料理書』は、カステラが日本文化に根付き、独自の発展を遂げるための初期の重要なステップ、すなわち技術の記録と標準化の試みを示していると考えられ、これは後の長崎カステラの隆盛へと繋がる萌芽と言えるでしょう。

第六章:日本におけるカステラの独自発展の萌芽

日本に伝来したカステラは、その後、日本人の嗜好や環境に合わせて独自の発展を遂げ、現在の私たちが知る「日本のカステラ」へと姿を変えていきました。戦国時代は、その変容のまさに初期段階、萌芽期にあたります。

前述の通り、伝来当初のカステラ、すなわち『南蛮料理書』に記された「かすてほうろ」は、現在の日本のカステラとは異なり、比較的固く、甘さも控えめであった可能性が高いとされています 10 。ポルトガルには「カステラ」という名の菓子や、日本のカステラと全く同じ見た目・製法の菓子は現存しないとされ、日本のカステラは伝来したものを元に日本人の嗜好に合わせて独自に発展した和菓子であるという見解が一般的です 9

しかし、カステラの原型の一つではないかと考えられている菓子も存在します。ポルトガルの伝統菓子である「パン・デ・ロー」(Pão de Ló)は、鶏卵、砂糖、小麦粉を主原料とし、その製法や焼き上がりの食感に日本のカステラとの類似性が見られるものがあります 10 。ある資料によれば、パン・デ・ローには生地を完全に焼き切ったものと、中心部がとろりとした半熟状態に焼き上げるものがあり、後者は日本のカステラのしっとりとした食感との関連性を想起させます 46

戦国時代は、カステラが日本に伝来し、初めて日本人の手で作られ始めた時期にあたります。この段階では、まだ大幅な「日本化」は進んでいなかったと考えられます。しかし、全く変化がなかったわけではないでしょう。例えば、南蛮料理を日本で供する際に、盛り付け方法は日本風に従う必要があったという記録があり 10 、これは味覚以前の視覚的な面での「日本化」の始まりと言えるかもしれません。

また、原材料の入手状況、特に高価であった砂糖の量や、当時の日本人の嗜好に合わせて、微妙な調整が試みられていた可能性は否定できません。ある資料では「江戸中期ほどから卵と砂糖を多く使うようになり、さらに時代の移り変わりとともに材料の質が良化し現代のカステラの様になっていった」と述べられており 11 、戦国末期から江戸初期にかけて、徐々に変化が始まった可能性を示唆しています。

現代の長崎カステラの特徴である、生地にしっとり感と独特の風味を与える水飴の使用や、底に敷かれたザラメ糖の食感といった要素は、戦国時代にはまだ見られず、江戸時代以降、特に明治期にかけての改良によるものです 9 。また、カステラを焼くための専用の窯、例えば「引き釜」と呼ばれる和製オーブンのような製菓道具の改良も、日本独自の発展を促した重要な要素ですが 29 、これも江戸時代以降の進展と考えられます。

戦国時代は、カステラが「異文化の模倣」から「自国文化への適応(日本化)」へと移行する、極めて初期の段階であったと推測されます。その変化は、一足飛びに進んだのではなく、緩やかであったと考えられます。伝来当初の製法は、『南蛮料理書』に見られるように 10 、比較的原型に近いものであったと推測されます。日本のカステラが独自発展した結果であるという見解 9 は正しいとしても、その大きな変化が顕著になるのは江戸時代以降、特に明治時代に入ってからでした 9 。戦国時代においては、まず舶来の製法を学び、それを忠実に再現することが主眼であり、そこから日本人の嗜好に合わせた大胆な改良に着手するには、ある程度の時間と経験の蓄積、そして材料の安定供給が必要だったと考えられます。「江戸中期から」という変化の時期を示唆する記述 11 は、戦国末期から江戸初期がその過渡期、助走期間であったことを示しているのかもしれません。文化の受容と変容は一朝一夕になされるものではなく、長期的なプロセスであり、戦国時代のカステラはそのプロセスの出発点に位置づけられるのです。

カステラの「日本化」は、単に日本人の味覚の嗜好に合わせるという側面だけでなく、入手可能な材料の制約や、既存の日本の調理道具・技術との融合といった、より現実的な要因にも影響された可能性があります。例えば、砂糖は非常に高価でした 4 。そのため、伝来したレシピ通りの砂糖量を使用できたのはごく一部で、多くの場合、砂糖の量が減らされたり、あるいは(戦国時代に一般的な甘味料があったかは不明ですが)他の甘味料で代用されたりする試みがあったかもしれません。また、専用のオーブンがなかったため、鍋で焼くという工夫がなされましたが 10 、これは既存の日本の調理法への適応と言えます。鶏卵の泡立て技術なども、当初は未熟であった可能性があり、それが初期のカステラの食感に影響したとも考えられます 16 。これらの制約の中で、日本の菓子職人たちは試行錯誤を重ね、徐々に独自の製法を編み出していったと推測されます。文化変容は、理念的な嗜好だけでなく、物質的・技術的な環境要因によっても大きく左右されることを、カステラの日本化の過程は示唆しています。それは、創造性と現実的制約との間の相互作用の結果と言えるでしょう。

ポルトガルに現存する「パン・デ・ロー」と日本のカステラの比較研究は、伝来の原型と日本での変容の具体的な様相を明らかにする上で重要です。特に、パン・デ・ローのレシピや製法には、日本のカステラと共通する要素(卵、砂糖、小麦粉の使用、泡立ての工程など)と相違する要素(シナモンなどの香辛料の使用、焼き加減の多様性など)が含まれています 10 。『南蛮料理書』に記された「かすてほうろ」の記述 10 は非常にシンプルであり、パン・デ・ローの多様なバリエーションのうち、どのタイプに近いものであったのか、あるいはさらに素朴な形態であったのかは断定できません。「こねる」という表現は、泡立て器で合わせるといったパン・デ・ローの一般的な製法とはやや異なる印象も与えます。したがって、パン・デ・ローを原型の一つとみなしつつも、戦国時代の日本に具体的にどのような形態で伝わったのかについては、史料の記述を元に慎重に推測する必要があります。ある文化要素が別の文化に伝播する際、元の形がそのまま伝わるとは限らず、伝達の過程で既に何らかの変容や選択が起こっている可能性があることを、カステラの起源を探る際には考慮に入れる必要があるでしょう。

終章:戦国時代におけるカステラの歴史的意義

戦国時代に日本へ伝来したカステラは、単に一つの新しい菓子が紹介されたというに留まらず、その後の日本の食文化、特に菓子文化の発展に対して少なからぬ影響を与えました。鶏卵や多量の砂糖を用いたその製法は、当時の日本の伝統的な菓子とは一線を画すものであり、ある種の「食の衝撃」として受け止められたことでしょう。

当初は、その希少性と高価さから、一部の上流階級の嗜好品に過ぎませんでしたが、その製法は長崎を中心とする地域で着実に受け継がれ、江戸時代を通じて徐々に日本独自の改良が加えられていきました 11 。この過程で、日本人の繊細な味覚や美意識が反映され、今日のカステラへと繋がる原型が形成されていったのです。戦国時代におけるカステラの受容は、その後の日本の洋菓子文化の発展の遠い源流となっただけでなく、和菓子における素材の選択や製法の多様化にも間接的な影響を与えた可能性があります。

総括すると、戦国時代のカステラは、大航海時代という世界史的な背景の中で展開された南蛮貿易と、それに伴うキリスト教布教という国際的な動向の中で日本にもたらされ、当時の権力者たちに珍重されました。その異国風の名称、主原料である砂糖と鶏卵の斬新さ、そして初期の素朴な製法には、異文化接触の様相が色濃く反映されています。

現存する史料は断片的であり、特に戦国時代の初期から中期にかけての具体的な情報は限られています。しかし、利用可能な文献を丹念に読み解き、それらを総合的に考察することで、その歴史的輪郭をある程度明らかにすることができます。

戦国時代のカステラは、その後の日本の菓子文化における「甘味」の追求と「卵の使用」という二大要素の普及と発展の、まさに原点として位置づけられるでしょう。カステラは砂糖と卵を主要材料とする南蛮菓子の代表であり 10 、砂糖の贅沢な使用は「甘い衝撃」を与え 2 、鶏卵の使用は日本の菓子製法に革命的な変化をもたらしました 10 。これらの要素は、江戸時代を通じて日本の菓子作りに取り入れられ、洗練されていきました 11 。現代の和菓子・洋菓子の多くが、これらの要素を基本としていることを考えると、戦国時代のカステラの伝来は、日本の菓子文化の大きな転換点の一つであったと言えます。戦国時代の一つの外来菓子が、長期的に見て日本の食文化全体に大きな影響を与えた事例として、カステラは文化変容のダイナミズムを示しています。

今後の研究においては、未発見の地方史料や個人文書(日記や書簡など)からの情報発掘、あるいは当時の消費生活を示す遺構からの考古学的なアプローチ(例えば、菓子作りに用いられた可能性のある道具の発見など)、さらにはポルトガルやスペイン側の史料とのより詳細な比較検討などが期待されます。戦国時代のカステラ研究は、文献史学だけでなく、食文化史、言語史、国際関係史、宗教学史など、多様な学問分野からのアプローチを統合することで、より深みのある理解が可能になります。カステラの語源と名称の変遷は言語史のテーマであり 10 、原材料の入手や製法の変遷は食文化史・技術史の対象です 10 。そして、南蛮貿易や宣教師との関わりは国際関係史・宗教学史の領域に属します 10 。これらの分野の研究成果を組み合わせることで、カステラという一つの食品を多角的に捉え、その歴史的背景や文化的意義をより豊かに解釈することができるでしょう。カステラ史研究は、学際的なアプローチの有効性を示す好例であり、今後の研究においても、より広い視野からの考察が求められます。

引用文献

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