東南アジアの旋回砲ランタカ砲。戦国日本にはフランキ砲が伝来し「国崩し」と呼ばれた。和鉄の制約から大筒を発展させ、江戸初期には国産大砲を製造したが、泰平の世で技術は停滞。
日本の戦国時代における「ランタカ砲」という特定の兵器に関する探求は、一見すると単純な問いのように思える。南蛮渡来の船載青銅砲という初期情報 1 は、この兵器の輪郭を捉える上で有効な出発点である。しかし、この問いを深く掘り下げると、我々は時系列的な課題に直面する。ランタカ砲として知られる旋回砲がその特徴を確立し、東南アジアの海域で広く使用されたのは、主に17世紀から18世紀にかけてであり、日本の戦国時代(おおよそ1467年〜1615年)が終焉を迎えた後の時代に属する 1 。
したがって、「戦国時代のランタカ砲」を直接的に調査することは、歴史の空白を探す試みとなりかねない。本稿の目的は、この問いを再定義し、より本質的な歴史的文脈の中に位置づけることにある。ランタカ砲そのものではなく、その直接の技術的祖先であり、戦国時代の日本に実際に大きな影響を与えた兵器、すなわち「フランキ砲」に焦点を当てることで、ランタカ砲と戦国日本の関係性を解き明かす。
本稿では、まずランタカ砲の正体を東南アジア海域世界の文脈で明らかにし、次いでその祖先であるフランキ砲が戦国日本にもたらした衝撃と、それに対する日本の特異な技術的応答を追跡する。さらに、朱印船貿易の時代に日本人が再び東南アジアの旋回砲と邂逅した事実を検証し、最終的に、なぜ日本の大砲技術が独自の道を歩み、そして泰平の世と共に眠りについたのかを考察する。この探求を通じて、ランタカ砲という一つの兵器を窓として、戦国時代から江戸初期にかけての日本の軍事技術史、そして日本が海を通じてアジアのダイナミックな技術交流網にいかに接続されていたかを明らかにする。
ランタカ砲を理解するためには、まずその起源である東南アジアの海域世界に目を向ける必要がある。この兵器は、単なる武器ではなく、多様な文化と技術が交錯したこの地域の歴史を体現する工芸品でもある。
「ランタカ(Lantaka)」あるいは「レンタカ(Rentaka)」という名称は、マレー語に由来すると考えられている 2 。装填方法(前装式)を反映した「打ち込む」「突き固める」を意味する
lantakという単語や、発砲時の反動を思わせる「怒って足を踏み鳴らす」という意味のrentakが語源候補として挙げられる 2 。この種の小型砲はマレー語で
meriam kecil(「小さな大砲」の意)と総称され、中でもランタカは、より大型のレラ(Lela)砲に比べて小型のものを指す「弟分」のような存在であった 3 。
物理的には、ランタカ砲は小型で可搬性に優れた青銅製の旋回砲(swivel gun)である。全長は多くが100cm未満、口径は10mmから50mm程度と比較的小さい 3 。最大の特徴は、
cagak(マレー語)と呼ばれるY字型の砲架に据え付けられ、支柱を軸として上下左右に素早く旋回できる点にある 1 。この構造により、一人の兵士でも容易に操作が可能で、広範囲に射撃することができた 1 。
また、多くのランタカ砲には、東南アジア特有の美的感覚が反映された装飾が施されている。例えば、八弁の花びら状に開いた砲口や、砲身に施された鋸歯文(きょしもん)などの幾何学文様は、この地域で製造された砲の顕著な特徴である 1 。これらは単なる兵器としてだけでなく、所有者の富や権威を示す威信財としての側面も持っていたことを示唆している。
ランタカ砲の主戦場は海上であった。商船や軍船の舷側(ブルワーク)やマストトップに設置され、主に対人兵器として運用された 3 。射程は100mから300m程度と短く、対艦戦闘における破壊力は限定的だったが、敵船が接舷して斬り込みをかけてくる近接戦闘において絶大な威力を発揮した 4 。ぶどう弾やキャニスター弾を装填すれば、巨大な散弾銃のように広範囲の敵兵を薙ぎ払うことができた 4 。
その軽量さと可搬性は、海戦以外の場面でも活用された。上陸作戦の際には艦載艇の艇首に据え付けられ、陸戦部隊の火力支援を担い、そのまま陸揚げされて陸戦用に転用されることもあった 4 。海賊の襲撃が日常的であった東南アジアの海において、ランタカ砲は商船にとって不可欠な自衛用の火器であった 5 。
東南アジアにおける火薬兵器の歴史は、13世紀のモンゴルによるジャワ侵攻にまで遡ることができる 3 。しかし、ランタカ砲のような旋回砲の技術は、それより後の1460年以降、インド西部との緊密な海上交易を通じてヌサンタラ(東南アジア島嶼部)にもたらされた新しい波であった。これは、アラブの仲介者を通じて伝播したオスマン帝国由来の火器技術、例えば後装式の旋回砲である「プランギ(prangi)」などが源流にあると考えられている 3 。
初期のランタカ砲には、このプランギ砲のように薬室を砲尾から装填する後装式(breech-loading)のものも存在したが、植民地時代を通じて、より堅牢で構造が単純な前装式(muzzle-loading)が主流となっていった 3 。1511年にポルトガルがマラッカを占領した際には、後装式と前装式の両方の旋回砲が鹵獲されている 3 。
この兵器の存在は、東南アジアが単なる技術の受容者ではなく、外来の技術を在地化し、独自の文化と融合させるダイナミックな地域であったことを物語っている。ランタカ砲は、東南アジア古来の青銅鋳造技術 7 、アラブ商人によってもたらされたオスマン・ヨーロッパ系の火器設計思想 3 、そしてマレー世界固有の装飾美術 1 が一体となった、まさに「グローカル」な技術の結晶であった。それは、陸路ではなく海路によって結ばれた、流動的で開かれた世界の産物であり、この文脈こそが、後の日本との関わりを理解する上で不可欠な視点となる。
戦国時代の日本に、大砲という新たな兵器カテゴリーの概念をもたらしたのは、ランタカ砲の直接の祖先にあたるヨーロッパ製の青銅製後装砲であった。この砲は、アジアの海を越えて日本に到達し、一部の先進的な大名に計り知れない衝撃を与えた。
日本に初めて本格的な影響を与えたヨーロッパ式大砲は、「フランキ砲(仏郎機砲)」として知られる 9 。この名称は、当時の中国(明)がポルトガル人やスペイン人を「フランク人(仏郎機)」と呼んだことに由来する 9 。16世紀、東アジアの交易圏に進出してきた彼らがもたらした後装式の大砲が、この名で呼ばれるようになった。
フランキ砲は、特定の単一モデルを指すのではなく、後述する構造を持つ一群の大砲の総称である。その技術は、倭寇やポルトガル商人といった海の民を介して、日本にもたらされたと推測される 10 。
このフランキ砲を最も効果的に活用し、その名を日本の歴史に刻んだのが、豊後国(現在の大分県)のキリシタン大名、大友宗麟である。1576年(天正4年)、宗麟はポルトガル人からフランキ砲を入手した 9 。この大砲は、肥後高瀬津(熊本県玉名市)に陸揚げされ、修羅(そりのような台車)に乗せられて陸路で宗麟の居城である臼杵城(丹生島城)まで運ばれたという 13 。
その圧倒的な威力に感銘を受けた宗麟は、この大砲を「国崩し(くにくずし)」と命名した 14 。この名は、文字通り一国をも滅ぼすほどの破壊力を持つ兵器であるという認識を示しており、当時の武将たちがいかにこの新兵器を畏怖の念をもって見ていたかを物語っている。この「国崩し」は、南蛮貿易がもたらした最新鋭の軍事技術の象徴であり、宗麟はこれを活用して九州における覇権争いを有利に進めようとした 17 。
フランキ砲の最大の特徴は、その装填方式にあった。現代の後装砲のように砲尾が閉鎖器で開閉するのではなく、砲尾の上部が大きく開口しており、そこに火薬と砲弾を詰めた「子砲(しほう)」と呼ばれる独立した薬室を挿入する構造になっていた 9 。子砲を挿入した後、木製の楔(くさび)を打ち込んで砲身に固定し、発射した 9 。
この構造には大きな利点があった。あらかじめ複数の子砲に装薬を準備しておくことで、砲身が熱いままでも次弾を素早く装填でき、前装砲に比べて格段に高い速射性を実現できたのである 9 。
しかし、この構造は同時に致命的な弱点も抱えていた。当時の金属加工技術では、砲身と子砲の密閉を完全に保つことは困難であり、発射の際に隙間から燃焼ガスが漏れやすかった。これにより威力が減衰するだけでなく、最悪の場合、後方へガスが噴出して射手を死傷させたり、砲自体が破裂したりする事故が頻発した 9 。この信頼性の低さから、ヨーロッパでは16世紀末にはより安全で強力な一体鋳造の前装砲に主力の座を譲り、廃れていった形式であった 9 。しかし、火砲の普及が遅れていたアジア地域では、その後も比較的長く使用され続けたのである。
フランキ砲の到来は、日本の軍事史における一つの転換点であった。1543年の鉄砲伝来が歩兵戦術に革命をもたらしたように、フランキ砲は城攻めや海戦のあり方を根底から覆す可能性を秘めていた。しかし、この革命は完全な形では起こらなかった。フランキ砲は、その高いコスト、技術的な複雑さ、そして何よりもその危険性ゆえに、鉄砲のように爆発的に普及することはなかった 18 。それは、大砲という「概念」を戦国大名に植え付けたものの、実用的で信頼性の高い「解」を提供するには至らなかったのである。この「失敗した革命」こそが、次章で述べる日本の大砲開発を、世界でも類を見ない独自の方向へと導くことになる。
フランキ砲の衝撃は、先進的な大名たちに単なる輸入兵器への依存ではなく、大砲の国産化という新たな野心を抱かせた。しかし、その道は平坦ではなく、日本の技術者たちは、この国の資源と技術がもたらす特有の制約と格闘しなければならなかった。
大砲国産化の先駆者もまた、大友宗麟であった。彼は「国崩し」の導入に留まらず、その模倣と生産を試みた 10 。宗麟は、海外で「石火矢(いしびや)」(当時の日本における大砲の総称)の鋳造法と射撃術を学んできたという渡邊宗覚(わたなべそうかく)という名の鋳物師を召し抱え、国内での生産に着手した 10 。
この渡邊一族が持つ大砲鋳造の専門知識は、極めて重要な戦略的資産であった。後に大友氏が没落すると、その技術は天下人である豊臣秀吉、そして徳川家康へと流出し、日本の中心的な軍事技術として受け継がれていくことになる 19 。関ヶ原の戦いの直前、宗覚は豊後府内の領主であった早川長敏によって家康に献上され、その後、家康のために駿府で石火矢を鋳造した記録も残っている 20 。
大友氏が試みたような青銅製大砲の鋳造は可能であったが、原料となる銅や錫は高価であり、大量生産には向かなかった 18 。世界的な流れは、より安価な鉄を用いた鋳鉄砲へと移行していたが、ここで日本は深刻な壁に突き当たった。
その原因は、日本の伝統的な製鉄法である「たたら製鉄」と、それによって生産される「和鉄(わてつ)」の性質にあった。たたら製鉄で砂鉄を比較的低温で還元して作られる和鉄は、ケイ素や炭素といった不純物の含有量が少ない、極めて純度の高い鉄であった 18 。
この特性は、日本刀のように叩いて鍛える「鍛造」には理想的であった。不純物が少ないため、折り返し鍛錬することで強靭かつ鋭利な刃物を作ることができた。同様に、鉄砲の銃身製造にも適しており、これが日本の鉄砲生産が短期間で世界最高水準に達した理由の一つである 18 。
しかし、この和鉄の長所は、大砲のような大型の製品を溶かして型に流し込む「鋳造」においては、致命的な短所となった。ケイ素や炭素を適度に含む鉄が鋳造に適しているのに対し、純度の高い和鉄で鋳造した大砲は、発射時の衝撃に耐えられず、ガラスのように脆く砕け散ってしまう危険性が高かったのである 18 。この冶金学的な制約は根深く、幕末に至るまで日本の鋳鉄砲開発を悩ませ続けることになる 21 。
信頼性の高い鋳鉄砲を容易に製造できなかった日本の鉄砲鍛冶たちは、自らが最も得意とする技術、すなわち鍛造の技術を応用して、重火器の問題に対する独自の解答を導き出した。それが「大筒(おおづつ)」あるいは「大鉄砲(おおでっぽう)」と呼ばれる、大型の火縄銃である 18 。
大筒は、ヨーロッパ的な意味での「鋳造砲(cannon)」ではなく、あくまでも通常の火縄銃を極限まで大型化した「鍛造砲(gun)」であった。製造方法は鉄砲と同じく、鉄の板を熱して叩き、筒状に鍛え上げて作られた。その口径は30匁(約112.5g)弾を用いるものから、中には1貫目(3,750g)もの弾丸を発射する巨大なものまで存在した 24 。
これらの大筒は、城の石垣や軍船を破壊するのに十分な威力を持ちながらも、その出自はあくまで鉄砲の延長線上にあった。それは、日本の物質的・技術的制約の中から生まれた、必然の産物だったのである。この国の軍事技術の進化は、戦術思想や文化だけでなく、鉄鉱石の地質学的特性と、たたら製鉄の化学的プロセスによって、深く方向づけられていた。鉄砲とそれを操る足軽が戦場の主役となり、砲兵がそれに続かなかった背景には、この「和鉄のジレンマ」が存在したのである。
種類 |
主な材質 |
装填方式 |
口径・全長(代表例) |
主な使用年代 |
特徴と役割 |
ランタカ砲 |
青銅 |
前装式 |
口径 2-5cm, 全長 <1m 1 |
17-18世紀(東南アジア) 1 |
艦載旋回砲、対人、東南アジアで発展。 |
フランキ砲(国崩し) |
青銅 |
後装式 |
口径 ~9cm, 全長 ~2.9m 9 |
16世紀後半(日本) 9 |
日本初伝の大砲、後装式で速射可能だが危険。 |
国産大筒 |
鍛鉄 |
前装式 |
口径 2-10cm, 全長 多様 18 |
16世紀後半-江戸時代 24 |
日本独自の大型鍛造鉄砲、城攻めや艦載用。 |
鉄製鋳造砲 |
鋳鉄 |
前装式 |
口径 多様(例:芝辻砲 ~9.5cm) 14 |
幕末期 21 |
国産化が困難だった欧州式大砲。 |
戦国時代から江戸時代初期にかけて、大砲や大筒は戦場の様相を部分的に変え始めた。しかし、その役割は限定的であり、ヨーロッパのように戦術の中核を担うには至らなかった。火砲の真価は、物理的な破壊力以上に、敵の心理を揺さぶる戦略的な側面にこそ見出されることが多かった。
戦国期における大砲の最も華々しい実戦例は、徳川家康が豊臣家を滅ぼした大坂の陣(1614年-1615年)であろう。この戦いで徳川軍は、イギリスやオランダから購入したカルバリン砲などの輸入大砲に加え、堺の芝辻理右衛門らに製造させた国産大砲を投入した 24 。
これらの大砲は、難攻不落と謳われた大坂城に対し、昼夜を問わず砲撃を続けた 14 。最大の巨砲の砲声は、遠く京都にまで届いたと伝えられる 14 。しかし、その砲撃による物理的な損害は、城の構造を脅かすほどではなかった。むしろ、その真の威力は心理的な効果にあった。絶え間なく降り注ぐ砲弾の恐怖と轟音は、城内の兵士や女中たちの士気を著しく低下させた 14 。特に、砲弾が淀殿の居室近くに着弾した事件は、豊臣方に和議を決断させる大きなきっかけとなった。大坂の陣における大砲は、城壁を打ち砕く兵器としてよりも、籠城者の心を打ち砕く「戦略的兵器」として機能したのである。
海上では、大砲はより直接的な戦力として評価された。当時の日本の主力軍船であった安宅船(あたけぶね)は、船全体を矢倉で覆った重武装の「海の城」であり、多数の鉄砲や大筒、石火矢を搭載していた 25 。
その威力が遺憾なく発揮されたのが、1578年の第二次木津川口の戦いである。この海戦で、織田信長は九鬼嘉隆に命じて建造させた6隻の巨大な「鉄甲船」を投入した。これらの船は、船体を鉄板で装甲し、大砲や大筒を多数装備していたと伝えられる 14 。信長の鉄甲船団は、毛利水軍の焙烙火矢(ほうろくひや)による火計をものともせず、圧倒的な火力で毛利方の軍船を粉砕し、石山本願寺への補給路を完全に遮断した 14 。この勝利は、海戦における重火力の優位性を明確に示し、制海権の重要性を戦国大名に知らしめた。
しかし、これらの成功例をもってしても、当時の日本の火砲には多くの限界があった。前装式の砲は装填に時間がかかり、発射速度が遅かった。また、砲弾の精度も低く、移動目標に命中させることは至難の業であった 24 。さらに、重量のある大砲を戦場で機動的に運用することは困難であり、野戦においては、柔軟に運用できる鉄砲隊の集中射撃の方がはるかに効果的であった 14 。
結果として、日本の大砲は、攻城戦における拠点破壊や心理的圧迫、そして海戦における艦船制圧といった、極めて特殊な状況下でその価値を発揮する兵器と見なされた。それは、あらゆる戦場で活躍する万能兵器ではなく、特定の目的のために投入される「切り札」だったのである。「国崩し」という名は、その物理的な破壊力を示すと同時に、所有者の権威と技術力を誇示し、敵の戦意を挫くという、目に見えない力を象徴するものでもあった。その轟音と評判は、しばしば一発の砲弾がもたらす実際の損害よりも、はるかに大きな影響を戦局に与えたのである。
戦国時代の終焉と徳川幕府の成立は、日本の対外関係に新たな局面をもたらした。幕府が発行する朱印状(しゅいんじょう)を携えた朱印船が、東南アジアの海へと乗り出していったのである。この朱印船貿易の時代こそ、日本人がランタカ砲が活躍する世界と直接的に交わった時期であった。
16世紀末から17世紀初頭にかけて、徳川幕府の許可を得た朱印船は、日本の銀、銅、刀剣などを輸出し、中国産の生糸や東南アジアの香辛料、鹿皮(武具の材料)などを輸入する、活発な交易活動を展開した 29 。その航路は、ベトナム、タイ、フィリピン、インドネシアなど、まさにランタカ砲やレラ砲が日常的に使用されていた海域を網羅していた 3 。
この時代の東南アジアの海は、倭寇を含む海賊や、覇権を争うヨーロッパ諸国の艦船が跋扈する危険な場所であった 32 。そのため、日本の朱印船もまた、自衛のために重武装した武装商船であった。彼らが数十年にわたりこの海域で活動する中で、現地の海賊や商船が装備するランタカ砲のような小型旋回砲の有効性を目の当たりにし、自船の防衛装備として購入、あるいは模倣・採用したであろうことは、想像に難くない。これが、戦国時代後、日本人がランタカ砲の技術体系と直接接触した最も可能性の高いシナリオである。
日本の職人たちが、単なる模倣に留まらず、外来の技術を完全に消化し、独自の革新を加えていたことを示す決定的な物証が存在する。それは、オーストリアのウィーン軍事史博物館に所蔵されている一門の日本製フランキ砲である 20 。
この大砲には「慶長十五年筑前國」(1610年、筑前国)との銘が刻まれており、福岡藩主・黒田長政のために製造されたものであることがわかる 20 。別府大学の上野淳也氏らによる科学的調査は、この大砲が驚くべき技術的洗練の域に達していたことを明らかにした 20 。
この一門の大砲は、ヨーロッパ由来の基本設計、日本の武術思想に基づく照準器、東南アジアの影響を受けた装飾、そして日本の資源事情に適応した独自の合金技術が融合した、まさに技術的・文化的ハイブリッドの傑作である。
このウィーンの大砲が物語るのは、16世紀から17世紀初頭にかけての日本の驚異的な技術吸収と発展の軌跡である。大友宗麟によるフランキ砲の「導入」から始まり、渡邊宗覚による「模倣・国産化」を経て、黒田長政の時代には、元の技術を凌駕するほどの「革新・最適化」を成し遂げていた。日本は、もはや単なる技術の受容国ではなく、アジアの海域世界において、世界水準の特注大砲を生産しうる高度な技術保有国へと変貌を遂げていたのである。この大砲は、忘れられた日本の技術力の高さを雄弁に物語る、歴史の証人と言えるだろう。
日本の大砲技術が世界水準に達した矢先、その進化は突如として終わりを告げる。徳川幕府による国内の平定と、それに続く対外政策の転換が、日本の軍事技術の発展に長い停滞期をもたらしたのである。
大坂の陣を最後に大規模な内戦が終結し、「元和偃武」と呼ばれる泰平の世が訪れると、大砲のような強力な攻城兵器への需要は急速に失われた。さらに、幕府は西国大名の水軍力を削ぐ目的で大型軍船である安宅船の保有を禁じ 35 、後には「鎖国」と呼ばれる対外関係の制限政策を強化した。これにより、大型の航洋船を建造する技術も、それらを武装させるための大砲開発も、その動機と機会を完全に失ってしまった。かつて「国崩し」と恐れられた大砲の轟音は戦場から消え、その製造技術は継承者を失い、二百数十年にわたる長い眠りにつくことになった 14 。
日本が内向きの平和を享受し、技術開発を凍結させている間も、東南アジアの海域世界は、変わらず交易と紛争が渦巻くダイナミックな空間であり続けた。その現実的な脅威の中で、ランタカ砲は実用的な自衛兵器として、改良を重ねながら18世紀、さらには19世紀まで生き永らえた。日本の大筒とランタカ砲は、いわば同じ「非ヨーロッパ的な重火器」という問いに対する、異なる環境が生み出した二つの答えであった。一方は平和と共にその役割を終え、もう一方は絶え間ない闘争の中で洗練されていったのである。
当初の「戦国時代のランタカ砲」という問いは、結果として、より壮大で複雑な歴史の物語を解き明かす鍵となった。それは、ランタカ砲の祖先であるフランキ砲が戦国日本にもたらした衝撃、和鉄という素材の制約が日本の技術を大筒という独自の道へと導いた必然性、そして朱印船貿易の時代に達成された驚くべき技術的到達点と、その後の突然の断絶の物語である。
ランタカ砲は、日本と東南アジアが海を通じて密接に結ばれていた時代の証人である。その背景を探る旅は、戦国時代の日本が決して孤立した存在ではなく、アジアの広大な技術交流ネットワークの一部であったことを我々に教えてくれる。そして、二百数十年後、ペリーの黒船が江戸湾に現れ、眠りから覚めた日本が再び大砲の国産化に苦闘することになるのは 21 、この長い停滞がもたらした、また別の歴史の皮肉であった。