大友宗麟の「白檀塗浅葱糸縅腹巻」は、二十二間椎実形筋兜の重要文化財。白檀塗は宗麟の富と美意識を象徴。椎実形は鉄砲戦に対応した機能性を追求。
西国の群雄、大友義鎮(宗麟)が所有した兜として、一つの伝承が語り継がれてきた。「吹返しに大友家の家紋『杏葉』が打たれ、朱色の鉢に金色の筋を巡らせた豪華な筋兜」。このイメージは、南蛮貿易で栄華を極め、北九州六ヶ国を支配下に置いたキリシタン大名・大友宗麟の、華やかで豪奢な人物像と見事に合致する 1 。戦国武将の武威を象徴する甲冑の中でも、特に「赤」や「金」といった色彩は、武田氏や井伊氏の「赤備え」に代表されるように、勇猛さや精強さの証として広く認識されていた 2 。この伝承が宗麟の兜を「朱と金」で彩るのは、彼をそうした典型的な猛将の系譜に位置づけようとする、後世の人々の集合的な記憶の表れとも考えられる。
しかし、この鮮烈な伝承と、今日、大友宗麟所用として現存し、国の重要文化財に指定されている甲冑「白檀塗浅葱糸縅腹巻(びゃくだんぬりあさぎいとおどしはらまき)」の実像との間には、看過できない差異が存在する 4 。現存する兜は「朱色」ではなく、金箔の上に半透明の漆を塗り重ねる「白檀塗」という、より高度で繊細な技法によって、奥深い黄金色の輝きを放っている 6 。この伝承と物証との間の乖離は、単なる情報の誤りとして片付けるべきではない。むしろ、それは歴史上の人物や事物が、時を経ていかにして単純化され、より象徴的なイメージへと再構築されていくかという、歴史記憶の形成過程そのものを示す貴重な手がかりである。
本報告書は、この「朱と金の兜」という伝承を入り口としながら、その奥に存在する歴史的実像、すなわち国指定重要文化財「白檀塗浅葱糸縅腹巻」の徹底的な分析を通じて、大友宗麟という稀代の戦国大名の精神性に迫ることを目的とする。その探求は、甲冑という「モノ」自体の工芸的・技術的な解明に始まり、所有者である宗麟の人物像、彼が生きた戦国時代九州の政治的・文化的背景、そして一領の甲冑が神社に奉納されたという行為に秘められた、複雑な宗教的・戦略的意図の解読へと進む。かくして本報告書は、一領の甲冑を多角的な視点から照射することで、その黄金の輝きに凝縮された、戦国九州の覇者の武威と信仰、栄光と苦悩の物語を解き明かしていく。
大友宗麟の甲冑として現存する「白檀塗浅葱糸縅腹巻」は、兜、胴、袖、小具足が一揃いで伝来する、極めて保存状態の良い一領である 8 。その各部は、室町時代後期の伝統的な様式を踏襲しつつも、戦国時代特有の新しい技術と美意識を随所に反映しており、甲冑史における過渡期の様相を示す貴重な作例として高く評価されている。
本甲冑の中でも、所有者の個性が最も顕著に表れるのが兜である。その形式と装飾は、宗麟の時代の最先端を行くものであった。
兜鉢の形状は、その頂部が鋭く尖り、全体としてブナ科の樹木である椎の実に似た形態を持つことから「椎実形」と呼ばれる 9 。この形式は、室町時代末期から桃山時代にかけ、当世具足(とうせいぐそく)の代表的なスタイルとして、特に長宗我部氏など西国の武将たちの間で流行した 9 。その鋭角的な形状は、単なる奇抜な意匠ではない。当時、戦の様相を大きく変えつつあった鉄砲の脅威に対処するため、頭頂部への着弾を逸らし、衝撃を側面へと受け流すことを意図した、極めて実戦的な機能性を追求した結果であった 12 。伝統的な丸みを帯びた兜鉢から、より防御力を高めた先鋭的なフォルムへの移行は、合戦の現実が甲冑の進化を促したことを如実に物語っている。一部では、こうした形状に南蛮、すなわち西洋の兜からの影響を指摘する声もあり、国際貿易都市を支配した宗麟の先進性を象徴しているとも解釈できる 4 。
兜の名称に含まれる「二十二間」とは、兜鉢を構成する縦長の鉄板の枚数、すなわち筋の数を指す。これは当時の筋兜としては標準的な仕様であり、堅牢性と製作効率のバランスが取れた構造であった。しかし、その仕上げは決して標準的なものではない。それぞれの筋の上には金色の覆輪(ふくりん)が丁寧に施されており、これは「総覆輪」と呼ばれる豪華な仕様である 14 。この手間のかかる装飾は、兜全体に華やかさと格調高さを与えるとともに、これを発注し所有し得た者の、比類なき身分と財力を明確に示している。
本兜の美観を決定づけているのが、その最大の特徴である「白檀塗」という高度な漆工芸技法である 4 。これは、下地となる鉄地に金箔を押し、その上から「透漆(すきうるし)」と呼ばれる、精製された半透明の漆を幾重にも塗り重ねることで生み出される 6 。この技法により、箔の金属的な輝きが漆の層を通して和らげられ、奥深くから光を放つような、独特の飴色がかった黄金色となる。単なる金色の塗装とは一線を画すこの深みのある色調は、見る角度や光の加減によって微妙に表情を変え、優美かつ荘厳な印象を与える。白檀塗は非常に手間と費用を要する最高級の仕上げの一つであり、これを甲冑全体に施している点は、宗麟の洗練された美意識と、南蛮貿易によって蓄積された莫大な富を何よりも雄弁に物語っている 1 。
兜鉢から下がり、首周りを防御する𩊱は、鮮やかな浅葱色(あさぎいろ)の組紐を用いて、隙間なく緻密に威した「毛引威(けびきおどし)」で仕上げられている 4 。白檀塗の黄金色と浅葱色の爽やかな青のコントラストは、甲冑全体に気品と華麗さを添えている。𩊱の形式は、従来の大きく張り出した大振りのものとは異なり、肩の動きを阻害しないようコンパクトにまとめられた「日根野𩊱(ひねのじころ)」と呼ばれる実用的な形式である 17 。
ユーザー情報にあった「吹返しに杏葉紋」という点については、現存する重要文化財の公式な資料や公開画像では、明確な紋様の存在を確認することは困難である。しかし、大友氏の定紋が「抱き杏葉」であることは歴史的事実であり 19、後世に製作された精巧な復元品などでは、吹返しに杏葉紋が据えられるのが一般的である 17。これは、現存品の状態と、本来あるべき姿を想定した伝承との間に生じた差異と考えられる。
なお、文化財データベースに記載されている「杏葉高19.6 幅6.1(㎝)」という寸法は 8、兜の吹返しではなく、胴の背面に垂下する「杏葉(ぎょうよう)」という、元来は馬具に由来する装飾板の寸法を指している。この部位にも大友氏の家紋が配されることがあり、情報が混同された可能性が考えられる。
本甲冑は、兜だけでなく、胴や袖、その他の小具足に至るまで、一貫した意匠と様式で統一されており、一領としての完成度が非常に高い。
胴の形式は、古くからの伝統を持つ「腹巻(はらまき)」であり、背中で引き合わせて着用する構造となっている 4 。これは、大鎧や胴丸といった伝統的な甲冑の系譜に連なるものである。しかしその一方で、腰回りを覆う草摺(くさずり)が、従来の七間や八間ではなく、十一間と細かく分割されている点は注目に値する 8 。これにより、着用者の下半身の動きがより自由になり、徒歩での戦闘における機動性が向上している。こうした細部の改良は、集団戦や白兵戦が主流となった戦国時代の戦闘形態に対応した「当世具足」への過渡的な特徴を明確に示しており、本甲冑の甲冑史における重要な価値を裏付けている。
胴や大袖(おおそで)、佩楯(はいだて)といった主要な部分も、兜と同様に白檀塗と浅葱糸威で統一されている 8 。これにより、甲冑全体が調和の取れた一つの美術工芸品として昇華されている。特に、金箔を押した小札(こざね)を浅葱色の糸で威した胴体部分は、絢爛豪華でありながらも上品な雰囲気を醸し出し、見る者を圧倒する。この一分の隙もない美意識の貫徹は、単なる武具としてではなく、大友宗麟という大名の権威と美意識を体現する「芸術作品」として、この甲冑が製作されたことを示唆している。
これほどの名品を製作した甲冑師は誰であったのか。残念ながら作者銘はなく、正確な特定は困難である。しかし、兜鉢の後頭部にかけての深いカーブの造形などから、甲冑師の名門として名高い「明珍(みょうちん)」系の工人の作ではないかとの指摘がある 22 。明珍派は室町時代から続く甲冑師の家系で、特に鉄の鍛錬と打出しの技術に優れていた 23 。一方で、当時の豊後府内には、南蛮貿易によって集まった富を背景に、多くの優れた職人たちが居住していたことも記録されている 24 。宗麟が、これら領内のお抱え甲冑師集団に、最高の素材と技術を結集させて作らせた可能性も十分に考えられる。九州には、奈良を拠点とした岩井派や、現代に続く薩摩の甲冑工房の伝統もあるが 26 、本作との直接的な関連を示す史料は見出されていない。
この甲冑は、その一つ一つの要素に、時代の要請と所有者の意図が複雑に絡み合って形成されている。伝統的な「腹巻」という形式は、大友氏が持つ家柄と歴史への敬意を示しつつ、鉄砲戦に対応した「椎実形」の兜は、新しい軍事技術へ即応する先進性を表している。そして、その全てを覆う高価な「白檀塗」は、実用性や伝統といった文脈を超越し、着用者である大友宗麟個人の絶対的な富と、洗練された文化的権威を誇示する。それは、伝統と革新、実用と装飾、日本の武と西洋の知が融合した、まさに戦国という時代の矛盾と活力を体現した存在なのである。
表1:国指定重要文化財「白檀塗浅葱糸縅腹巻」仕様一覧
項目 |
詳細 |
典拠 |
主名称 |
白檀塗浅葱糸威腹巻〈兜・大袖・小具足付/〉 |
5 |
員数 |
1領 |
8 |
時代 |
室町時代(16世紀) |
8 |
寸法(主要部) |
兜鉢高18.0 cm、胴高32.3 cm、大袖高38.8 cm |
8 |
品質・形状 |
鉄地金箔押白檀塗、浅葱糸毛引威、二十二間椎実形筋兜、日根野𩊱、草摺十一間 |
8 |
指定年月日 |
昭和55年(1980年)6月6日 |
8 |
所蔵者 |
柞原八幡宮(大分県大分市) |
4 |
一領の甲冑は、その所有者の精神性を映し出す鏡である。「白檀塗浅葱糸縅腹巻」を深く理解するためには、その主、大友義鎮(宗麟)という人物の類いまれなる生涯をたどる必要がある。彼は北九州の覇者として君臨する一方で、異文化に魅了され、ついには伝統的な信仰を捨ててキリスト教に帰依するという、戦国時代においても極めて特異な道を歩んだ大名であった。
大友宗麟の人生は、波乱の幕開けと共に始まった。1550年、父・義鑑が宗麟を廃嫡し、異母弟に家督を譲ろうとしたことに反発した重臣らによって、父と弟が殺害されるという政変「二階崩れの変」が起こる。この事件により、宗麟は21歳で大友家の当主となった 1 。若くして家督を継いだ彼は、優れた家臣団の補佐と巧みな外交戦略を駆使し、瞬く間に勢力を拡大。最盛期には豊前、豊後、筑前、筑後、肥前、肥後の北九州六ヶ国の守護職を兼ね、室町幕府から「九州探題」に任じられるに至った 1 。
この栄華を経済的に支えたのが、ポルトガルなどとの南蛮貿易であった。宗麟が本拠地とした豊後府内(現在の大分市)は、東アジア有数の国際貿易港として繁栄を極めた 1 。海外から もたらされた珍しい文物や先進技術、そして莫大な富は、大友氏の権勢の源泉となった。前述の「白檀塗浅葱糸縅腹巻」のような、贅を尽くした甲冑の製作が可能であったのも、この経済的基盤があればこそである。
宗麟の西洋文化への関心は、単なる異国趣味に留まるものではなかった。彼は1551年に来日した宣教師フランシスコ・ザビエルと会見し、深く感銘を受ける 1 。後には、伊東マンショらをローマ教皇のもとへ派遣する「天正遣欧少年使節」を組織するなど、その関心は政治的・思想的な次元にまで及んでいた 1 。彼の武具である椎実形兜が「西洋の兜の影響」を受けていると指摘されるように 4 、宗麟の思考には常に世界へと開かれた窓があり、その国際感覚と先進性が、彼の政策や文化の随所に色濃く反映されていたのである。
宗麟の複雑な内面を最もよく表しているのが、その信仰の遍歴である。当初、彼は禅宗に帰依し 1 、また領地である豊後国一宮・柞原八幡宮を篤く崇敬するなど、当時の戦国武将としてごく一般的な宗教観を持っていた 30 。幼少期、乳母が柞原八幡宮で彼の将来を祈願した際、「九州の主になれますように」と祈ったのに対し、宗麟が「なぜ日本の主と祈ってくれなかったのか」と嘆いたという逸話は、彼の野心の大きさと共に、大友氏と八幡宮の伝統的な深い関係性を示している 30 。
しかし、ザビエルとの出会いは、彼の精神世界に大きな転換をもたらした。キリスト教の教義、特に唯一神デウスの概念に強く惹かれた宗麟は、領内での布教を許可し、宣教師たちを厚く保護した。そしてついに1578年、長年の関心の末に正式に受洗し、「ドン・フランシスコ」という洗礼名を授かったのである 1 。
キリシタン大名としての彼の後半生は、その信仰の深さゆえに、過激な側面を帯びていく。特に、耳川の戦いで島津氏に大敗を喫した後、彼は失地回復と自らの理想郷建設のため、日向国に侵攻。その過程で、自らの手で領内の神社仏閣を徹底的に破壊したと、ルイス・フロイスなどの宣教師が記録している 31 。この偶像破壊行為は、伝統的な価値観を重んじる家臣や国人衆の離反を招き、大友氏衰退の一因ともなった。
宗麟の性格は、しばしば「利己的」で「酒色に溺れた」と評される記録が残っている 1 。この飽くなき欲望と自己顕示欲は、彼の弱点であると同時に、行動の原動力でもあった。最高級の甲冑「白檀塗浅葱糸縅腹巻」を身に纏うことで自らの世俗的な権威を極限まで高めようとした欲望と、伝統的な神仏を破壊してでも「キリシタン王国」という絶対的な精神世界を地上に建設しようとした野心は、表裏一体のものであったのかもしれない。彼の人生は、現世における最高の「富」と、来世における最高の「救い」の両方を、同時に手に入れようとした、一人の人間の壮大な試みとその結末を物語っている。この栄華と信仰の間に存在するアンビバレンス(両義性)こそが、大友宗麟という人物の尽きない魅力の源泉なのである。
大友宗麟所用の「白檀塗浅葱糸縅腹巻」は、現在、大分市の柞原八幡宮に所蔵されている 4 。キリスト教に帰依し、後年には神社仏閣を破壊したとされる宗麟が、なぜ日本の伝統的な神である八幡神に、自らの武威の象徴たる甲冑を奉納したのか。この一見矛盾した行為の背後には、当時の複雑な政治情勢と、宗麟個人の揺れ動く信仰心が深く関わっている。
柞原八幡宮は、八幡神の総本社である宇佐神宮の別宮として創建され、豊後国で最も社格の高い「一宮(いちのみや)」として、古くからこの地域の信仰の中心であり続けた 14 。鎌倉時代に源頼朝から豊後の守護職に任じられ、この地に入った大友氏にとって、武家の守護神である八幡神を祀る柞原八幡宮は、自らの支配の正統性を担保する上で極めて重要な存在であった。大友氏は代々にわたって柞原八幡宮を篤く崇敬し、社殿の造営や寄進を重ね、両者は氏神と氏子というべき強固な関係を築き上げていった 34 。宗麟にとっても、柞原八幡宮は単なる一神社ではなく、大友家の繁栄と武運を司る、特別な守護神だったのである。
この奉納行為の謎を解く鍵は、その「時期」にある。甲冑の様式が16世紀中頃、すなわち当世具足への過渡期のものであること 21 、そして宗麟がキリスト教に深く傾倒し、偶像破壊という過激な行動に走るのは1578年の受洗以降、特に日向侵攻の頃からであること 31 を踏まえると、この奉納は彼がキリスト教徒になる以前、すなわち
1578年より前 に行われたと考えるのが最も合理的である。その上で、奉納の動機は、単一ではなく、複数の要因が絡み合った複合的なものであったと推察される。
第一に、 伝統的な宗教的動機 である。合戦に臨むにあたっての戦勝祈願、あるいは勝利を収めたことへの感謝の証として、自らが所有する最も価値ある武具を神に捧げるという行為は、武士にとってごく自然な信仰の発露であった 37 。この甲冑は、宗麟が北九州の覇権を争った数々の戦いの一つに際して、奉納されたものであろう。
第二に、 高度な政治的動機 である。領国支配の要である一宮に、自らの権威の象徴である最新・最高の甲冑を奉納するという行為は、領内の家臣団や民衆に対して、大友氏の揺るぎない武威と財力を視覚的に誇示する、絶好の機会であった。特に、大友家内部には、宗麟の先進的な気風や素行に眉をひそめる立花道雪のような伝統的な価値観を持つ重臣も少なくなかった 1 。彼らの忠誠心をつなぎとめ、領国の一体感を醸成するために、宗麟はあえて伝統的な儀礼を盛大に執り行う必要があった。この奉納は、そうした政治的計算に基づいた、巧みなパフォーマンスであった可能性が高い。
第三に、 宗麟個人の精神的な動機 である。奉納が行われたと推定される1570年代、宗麟はすでにキリスト教に強い関心を持ち、宣教師たちと交流を深めていた 1 。しかし、それは長年慣れ親しんだ日本の神々への信仰を、即座に完全に捨て去ることを意味しなかった。当時の日本人の宗教観は、ルイス・フロイスら宣教師から見れば多神的で寛容なものであり、唯一絶対神の概念はすぐには根付かなかった 39 。宗麟の内面においても、伝統的な八幡神への信仰と、新しいキリスト教への傾倒が、しばらくの間は共存していたのではないか。この甲冑は、まさにその「信仰の過渡期」にあった宗麟の、揺れ動く精神状態を映し出す物証と捉えることができる。
この奉納は、宗麟が後に進むキリスト教という新しい道への関心を深めつつも、自らの権力の基盤である伝統的な社会秩序を維持しようとする、絶妙なバランス感覚の表れであった。それは、保守的な家臣団や領民の支持を確保するための「政治的な保険」であり、来るべき変革の時代を乗り切るための戦略的な布石でもあった。かくして、一領の甲冑は、八幡神への供物であると同時に、宗麟の野心と戦略、そして信仰のアンビバレンスを封じ込めた、タイムカプセルのような存在として、今日に伝えられることとなったのである。
大友宗麟の「白檀塗浅葱糸縅腹巻」の歴史的価値は、同時代に九州の覇権を争ったライバルたちの甲冑と比較することで、より一層鮮明になる。それは、単なる武具の優劣を超え、各大名家が掲げた権力戦略と文化意識の違いを浮き彫りにする。
九州の南に君臨した薩摩の 島津氏 に伝来する甲冑は、質実剛健な気風を反映したものが多い。例えば、島津貴久が奉納したとされる「色々縅胴丸兜大袖付」は、伝統的な様式を重んじた格調高い作りであり 41 、また島津家久所用と伝わる腹巻には、槍や刀による生々しい傷跡が残されているという 41 。これらは、島津氏の武勇と、幾多の激戦を潜り抜けてきた長い歴史を物語る。
一方、肥前で急速に台頭した 龍造寺氏 の当主、龍造寺隆信所用の「紺糸縅桶側二枚胴具足」は、横長の鉄板を繋ぎ合わせた機能的な桶側胴であり、新興勢力らしい実用主義を体現した、典型的な当世具足である 42 。
これら九州のライバルたちの甲冑が、一様に「武」の力強さや実戦での機能性を前面に押し出しているのに対し、大友宗麟の甲冑は全く異なる次元の価値観を提示している。もちろん、椎実形の兜が示すように、実戦での機能性も十分に考慮されている。しかし、それ以上に際立つのは、白檀塗や浅葱糸威が放つ、圧倒的なまでの「富」と「文化的洗練」、そして南蛮文化の影響を感じさせる「国際性」である。島津や龍造寺の甲冑が、武士団の棟梁としての武勇を象徴するとすれば、宗麟の甲冑は、武力に加えて、経済力と文化資本をも権力の源泉とした、ルネサンス的君主の威光を象徴している。この違いは、各大名がどのような力をもって領国を統治し、敵に対峙しようとしていたかという、根本的な戦略思想の差異を反映しているのである。
表2:九州主要戦国大名の甲冑比較
項目 |
大友宗麟 |
島津貴久 |
龍造寺隆信 |
代表的な甲冑 |
白檀塗浅葱糸縅腹巻 4 |
色々縅胴丸兜大袖付 41 |
紺糸縅桶側二枚胴具足 42 |
兜の形式 |
二十二間椎実形筋兜 |
三つ鍬形前立筋兜 |
不明(具足のみ現存) |
主要な色彩 |
黄金色(白檀塗)、浅葱色 |
多色(色々縅)、黒 |
紺色、鉄錆地 |
様式の特徴 |
豪華絢爛、南蛮風、当世具足への過渡期 |
伝統的、儀礼的、重厚 |
実用本位、典型的な当世具足 |
象徴する文化的背景 |
国際貿易による富、文化的先進性、個人的カリスマ |
薩摩の武門としての伝統と誇り |
肥前の新興勢力としての実用主義と武勇 |
戦国時代の合戦において、色彩は重要な戦略的要素であった。その代表例が、武田信玄配下の飯富虎昌や山県昌景、そして後に徳川家康配下の井伊直政が率いた「赤備え」である 2 。甲冑から旗指物に至るまで、武具一切を朱色で統一したこの部隊は、戦場で際立って目立ち、敵に強烈な威圧感を与え、味方の士気を高揚させる効果があった 3 。赤備えは「精鋭部隊の証」とされ、組織としての武威を示す色彩戦略であった。
これに対し、大友宗麟の甲冑が纏う「白檀塗」の黄金色は、全く異なる意味合いを持つ。これは特定の部隊色ではなく、宗麟という「個人」の権威と富を象徴するために選ばれた色である。黄金色は、洋の東西を問わず、太陽や光を想起させ、神聖さや至高の権力を象徴する。キリスト教の祭具や仏教美術においても金は多用されるが、この甲冑の場合、宗教的な意味合い以上に、世俗の王者が放つ輝き、すなわち絶対的な君主のカリスマを表現していると解釈できる。
つまり、「赤備え」が組織的な戦闘能力の高さをアピールするための色彩であるとすれば、宗麟の「白檀塗」は、君主個人の卓越した地位と、他者を圧倒する文化的な洗練度を誇示するための、より貴族的でパーソナルな色彩戦略であったと言える。それは、戦場で兵士たちを鼓舞する色ではなく、敵味方の誰もがひれ伏すほかない、唯一無二の支配者のための色だったのである。
本報告書で詳察した大友宗麟所用の「白檀塗浅葱糸縅腹巻」は、「二十二間筋兜」という形式名称や、「朱と金の兜」といった後世の伝承だけでは到底捉えきれない、極めて多層的な意味を内包する歴史的遺産である。その分析を通じて見えてきたのは、一人の傑出した、そして矛盾に満ちた戦国大名の複雑な精神宇宙であった。
この一領の甲冑には、宗麟の生涯のあらゆる側面が凝縮されている。北九州六ヶ国を束ねた覇者としての**「武威」 。南蛮貿易を掌握し、莫大な利益を上げた者の 「富」 。鉄砲戦に対応した兜の形状や、西洋の美意識をも感じさせる意匠に見て取れる 「先進性」 。そして、大友家の守護神である八幡神への 「伝統的信仰」 と、魂を揺さぶられた外来の 「キリスト教」**との間で揺れ動いた、彼の精神的な遍歴。これら全てが、黄金色の輝きと浅葱色の威糸の中に織り込まれている。
したがって、この甲冑は単なる防具や美術工芸品の範疇に留まるものではない。それは、戦国という激動の時代、特に東アジア世界との交流の最前線であった九州という特異な地域性を背景に、一人の大名が、自らのアイデンティティをいかに構築し、内外に示そうとしたかを物語る、第一級の「歴史資料」なのである。それは、島津や龍造寺といったライバルたちとは一線を画す、文化と経済を武器とした宗麟ならではの権力戦略の物証であり、また、神とデウスの間で揺れ動いた信仰の記念碑でもある。
「白檀塗浅葱糸縅腹巻」の黄金の輝きは、450年以上の時を経た今なお、我々に戦国時代の権力と信仰、富と文化、そして人間の精神の複雑さについて、静かに、しかし雄弁に語りかけているのである。