最終更新日 2025-08-07

兵庫

兵庫壺は、荒木村重が摂津兵庫で拾い、豊臣秀吉を経て織田信雄に贈られたとされる葉茶壺。現存せず、その実在性も不明だが、村重の生涯と戦国時代の茶の湯の価値観を象徴する「幻の名物」。
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戦国時代の名物「兵庫壺」に関する総合的考察 — 荒木村重の生涯と茶の湯文化の交点から

序章:幻の名物「兵庫」— 伝承の輪郭

戦国時代の数多の名物茶器の中でも、ひときわ謎に包まれた存在として語り継がれるのが、葉茶壷「兵庫」である。その伝承の骨子は、「摂津兵庫で荒木村重が拾い上げたことからこの名がついた。後に豊臣秀吉が大金で譲り受け、織田信長の次男・信雄に贈ったといわれる」というものである 1 。この簡潔な記述は、一つの茶壷が戦国の権力者たちの間を渡り歩いたドラマを想起させる。

しかしながら、この「兵庫壺」は、その輝かしいとされる来歴とは裏腹に、現存が確認されておらず、その存在を同時代の一次史料によって直接的に裏付けることも困難である 2 。その実在性すら、歴史家や茶道研究者の間で議論の対象となっており、まさに「幻の名物」と呼ぶにふさわしい 3

本報告書は、この「兵庫壺」という存在の不確かさを単なる情報の欠落として捉えるのではなく、むしろその曖昧さこそが、所有者であった武将・荒木村重の数奇な運命と、彼が生きた戦国時代における茶の湯の特異な価値観を象徴的に映し出す「鏡」であるという視座に立つ。物理的な存在として以上に、物語られることによってその意味を増幅させてきた文化的記憶の結晶体、それが「兵庫壺」の本質である。本報告書は、この幻の名物の実像に迫るべく、伝承そのものと、それが生まれた歴史的背景を多角的に分析し、徹底的に考察するものである。

第一章:荒木村重 — 栄華と反逆、そして数寄者としての再生

葉茶壷「兵庫」の物語は、その所有者であった荒木村重(1535-1586)の特異な生涯と分かち難く結びついている。彼の栄光と転落の軌跡を理解することなく、「兵庫壺」にまつわる逸話の本質を解き明かすことはできない。

下克上による台頭と信長の臣下へ

荒木村重は天文4年(1535年)、摂津国の土豪・荒木義村の子として生まれた 4 。当初は摂津池田氏の家臣であったが、主家内の混乱に乗じて実権を掌握し、ついには主君であった池田氏を自らの家臣として組み込むという、戦国乱世を象徴する下克上を成し遂げた 4

その才覚と豪胆さは、天下布武を推し進める織田信長の目に留まる。元亀2年(1571年)の白井河原の戦いでの勝利などを経て、信長の直臣へと取り立てられた村重は、破竹の勢いで出世を遂げる 4 。天正2年(1574年)には伊丹城を攻略して摂津一国を任されるに至り、城を「有岡城」と改称して、自らの支配体制の拠点とした 4 。信長の家臣団の中でも屈指の大名へと成り上がったのである。

栄華の絶頂と突然の謀反

村重は信長の配下として、越前一向一揆討伐や石山合戦など各地を転戦し、輝かしい武功を重ねた 4 。しかし天正6年(1578年)10月、石山本願寺攻めの最前線にありながら、村重は突如として信長に反旗を翻す。この謀反は信長にとって青天の霹靂であり、彼は驚愕し、明智光秀らを派遣して翻意を促したとされる 4

謀反の理由については、現代に至るまで定説がない。石山本願寺や毛利輝元からの調略に応じたとする説、家臣が本願寺へ兵糧を横流ししたことの発覚を恐れた説、信長の猜疑心や将来への不安説など、複数の要因が複雑に絡み合っていたと推測される 4 。いずれにせよ、この不可解な決断が、村重の運命を大きく暗転させることになる。

有岡城の攻防と悲劇的結末

謀反に踏み切った村重は、居城・有岡城に籠城し、織田の大軍を相手に一年にも及ぶ徹底抗戦を繰り広げた 4 。しかし、腹心であった高山右近や中川清秀といった有力家臣が信長方に寝返ったことで戦況は絶望的となる 6

そして天正7年(1579年)9月2日、追い詰められた村重は、城に残した妻子や家臣団を見捨て、僅かな供だけを連れて有岡城を脱出する 4 。この時、彼は背中に名物「兵庫壺」を背負い、腰には愛用の鼓「立桐筒(たてぎりづつ)」を結わえていたと伝えられている 6 。この行動は、後世において「妻子よりも茶道具を選んだ男」として、彼への非難を決定づける象徴的な逸話となった。

村重の脱出後、信長の報復は凄惨を極めた。有岡城に残された人々は降伏したが、信長は約束を反故にし、女房衆122名を尼崎で惨殺。さらに、村重の妻・だし(当時21歳)をはじめとする一族・重臣の家族36名は京の六条河原で斬首された 4 。『信長公記』は、その処刑の様を「見る人目もくれ心も消えて、感涙押さえ難し」と記し、事件の悲劇性を生々しく伝えている 4

茶人「道薫」としての復活

一族を無残な死に追いやりながらも、村重自身は毛利氏を頼って尾道へ落ち延び、生きながらえた 4 。天正10年(1582年)に本能寺の変で信長が横死すると、村重は歴史の表舞台に再び姿を現す。彼は商人の町・堺に移り住み、名を「道薫(どうくん)」と改め、茶人として第二の人生を歩み始めたのである 6 。一説には、自らの所業を恥じ、一時期「道糞(どうふん)」と自虐的な名を名乗ったともいう 6

驚くべきことに、彼は千利休や津田宗及といった当代一流の茶人たちと親しく交わり、その茶の湯の技量は高く評価された 4 。かつて信長に反逆した大罪人でありながら、最終的には利休の高弟七人を指す「利休七哲」の一人に数えられるほどの地位を確立するに至る 6 。この劇的な復活は、村重が単なる武将ではなく、茶の湯の世界に深い造詣と人脈を持つ当代屈指の文化人であったことを証明している。彼の生涯は、武将としての野心と、数寄者としての美への執着という二つの強力な力によって引き裂かれ、その代償として失った全てを、茶の湯という世界で贖おうとした苦難の道程であったと解釈できる。


荒木村重 略年表

年代(西暦)

主要な出来事

関連人物・役職

天文4年(1535)

摂津国にて誕生

父:荒木義村

永禄11年(1568)頃

池田氏の実権を掌握し、下克上を果たす

池田勝正、池田知正

元亀2年(1571)

白井河原の戦いで勝利し、織田信長の家臣となる

織田信長

天正2年(1574)

伊丹城を攻略し、摂津一国を支配。有岡城と改称

摂津守護

天正6年(1578)

突如、織田信長に対し謀反を起こし、有岡城に籠城

石山本願寺、毛利輝元

天正7年(1579)

有岡城を脱出。妻子・一族が信長により処刑される

妻:だし

天正10年(1582)

本能寺の変。信長死去。村重は堺に移る

天正11年(1583)

「道薫」と名乗り、茶人として活動を再開

千利休、津田宗及

天正14年(1586)

堺にて死去(享年52)

利休七哲の一人


第二章:戦国の茶の湯 — 権力と美の交差点

荒木村重が「兵庫壺」に異常なまでの執着を見せた背景を理解するためには、戦国時代における茶の湯の特異な位置づけを解明する必要がある。当時の茶道具は、単なる美術工芸品ではなく、権力と富、そして文化的な権威が凝縮された、極めて政治的な意味合いを帯びた存在であった。

「一国一城」の価値を持つ茶道具

戦国時代、特に織田信長が覇権を握って以降、優れた茶道具、すなわち「名物」は、土地や金銀に代わる最高の恩賞としての価値を持つようになった 9 。松永久秀が名物茶入「付藻茄子(つくもなす)」を信長に献上して大和一国の支配を安堵された逸話に代表されるように、小さな茶入一つが一国の領地にも匹敵すると見なされたのである 11

この価値観は、現代の我々から見れば異常とも思えるが、領地の再分配に限界が生じ始めた中で、信長が新たな価値体系を創出した結果であった。茶道具は、その希少性と美的価値に加え、天下人からの恩賞という「権威」が付与されることで、武将のステータスを証明する絶対的な象徴となったのである 14

織田信長の「名物狩り」と茶の湯御政道

信長は、この新たな価値体系を確立するため、畿内の有力な寺社や商人たちが所蔵する名物茶器を、時に権力に物を言わせて献上させる「名物狩り」を断行した 16 。これにより、価値の源泉である名物を天下人である自身のもとに集中させ、それを論功行賞の道具として家臣に再分配することで、自らを頂点とする新たな支配秩序を構築した。

さらに信長は、家臣が勝手に茶会を開くことを許可制にするなど、茶の湯そのものを政治支配のツールとして巧みに利用した 10 。この一連の政策は「御茶湯御政道」と呼ばれ、茶の湯は武将にとって必須の教養であると同時に、主君への忠誠を示すための重要な儀礼となった 17 。荒木村重もまた、この信長が作り上げたシステムの中で成功を収め、一流の数寄者として認められることで、摂津一国という大きな権力を手にした人物であった。彼にとって名物茶器は、この体制下で勝ち得た自らの地位と文化的権威の証そのものであり、その価値観は骨の髄まで染み込んでいたはずである。

葉茶壷(ちゃつぼ)の役割と象徴性

「兵庫壺」は、粉末の抹茶ではなく、その原料となる茶葉(葉茶)を保管し、熟成させるための「葉茶壷」である 1 。葉茶壷は、茶の湯の世界において特別な役割を担っていた。

毎年11月頃、茶道の世界では「茶人の正月」とも称される「口切の茶事」という、一年で最も格式の高い茶会が催される 22 。これは、その年の初夏に摘まれた新茶を詰めて封印されていた茶壷の口を亭主が初めて切り、熟成された茶を客に振る舞う儀式である。この儀式において、主役となるのがまさに葉茶壷であった。美しく荘厳な紐で飾られた茶壷は、茶会の格を象徴すると同時に、茶の湯文化の豊穣と永続性を願うシンボルでもあった 21

村重が執着した「兵庫壺」もまた、単なる容器ではなく、茶の湯の最も神聖な儀式の中核をなす、極めて象徴性の高い器だったのである。それを手放すことは、武将としてだけでなく、一流の数寄者としての自らのアイデンティティそのものを失うに等しい行為であったのかもしれない。

第三章:「兵庫壺」を巡る考察 — 逸話と史料の狭間で

本章では、報告書の中核として、「兵庫壺」に関する断片的な情報を集積し、その由来、逸話、来歴を多角的に分析・考察する。史実の記録と後世の物語との間に横たわるこの名物の実像に迫る。

名称の由来 — 「摂津兵庫」という場所

「兵庫壺」の名の由来は、「摂津兵庫で荒木村重が拾い上げた」ことによるとされる 1 。この地名は、単なる発見場所以上の意味を内包している。摂津国は村重が信長から一国支配を任された本拠地であり、その中の兵庫津(現在の神戸市兵庫区)は、古来より瀬戸内海航路の要衝として栄えた国際貿易港であった。

唐物(からもの)と呼ばれる中国渡来の美術品や茶道具が数多く集積するこの地は、文化的な先進地としての響きを持つ。したがって、「兵庫」という名は、村重の政治的権勢の象徴であると同時に、その壺が持つであろう文化的価値の高さを暗示する、二重の意味が込められた命名であったと推察される。この壺が実際に舶来品であったか、あるいは丹波焼などの国産品であったかは定かではないが、その名は村重の支配領域と文化的権威を分かち難く結びつけている。

有岡城脱出の逸話 — なぜ妻子ではなく茶壷だったのか

村重の生涯で最も非難を浴びるのが、有岡城から妻子を見捨て、背に「兵庫壺」、腰に鼓「立桐筒」を携えて逃亡したとされる逸話である 2 。この行動は、彼の人間性、特に情の薄さや武将としての責任感の欠如を糾弾する格好の材料として、後々まで語り継がれてきた。

しかし、前章までの考察を踏まえるならば、この選択は異なる側面から解釈されうる。彼は、信長によって構築された「茶の湯御政道」という価値観の中で頂点を極めた人物である。その彼にとって、「兵庫壺」のような名物は、失われゆく城や領地、そして家族に代わる、唯一手元に残された「価値」そのものであった。それは、全てを失った後の再起を図るための、最後の文化的・経済的資本であったかもしれない。彼の行動は、冷酷な現実主義と美的価値への異常な執着が混じり合った、戦国数寄者ならではの究極の選択であったと見ることもできる。

来歴の諸説とその信憑性

「兵庫壺」の来歴については、いくつかの説が伝えられているが、いずれも確証に乏しい。

  • 武野紹鷗の旧蔵品説 : 複数の資料において、千利休の師である茶の湯の大家・武野紹鷗(たけのじょうおう)がかつて所持した名物であったと示唆されている 2 。もしこれが事実であれば、「兵庫壺」は村重が入手する以前から由緒正しい大名物であったことになる。しかし、これを直接証明する同時代の一次史料は見当たらず、後世の伝聞に基づく可能性が高い。
  • 秀吉から信雄への下賜説 : 伝承によれば、村重の手を離れた後、豊臣秀吉がこれを大金で入手し、信長の次男である織田信雄に与えたとされる 1 。この逸話は、この壺が天下人の間を渡るほどの価値を持っていたことを示唆するが、これもまたその後の行方を追うことができず、伝承の域を出ない。
  • 情報の不在 : 最も重要な点は、これらの来歴に関する情報がいずれも断片的であり、その後の消息が全く不明であることだ 2 。例えば、市立伊丹ミュージアムで近年開催された大規模な荒木村重展の出品リストにも、「兵庫壺」そのものの名は見当たらない 23 。名物としての来歴がこれほどまでに曖昧なのは、他の著名な大名物と比較しても極めて異例である。

史料批判 — 物語はいかにして形成されたか

「兵庫壺」の逸話が具体的に記述されているのは、主に江戸時代中期以降に成立した『常山紀談』のような逸話集である 2 。これらの書物は、厳密な歴史書というよりも、武士の教訓や興味深い逸話を集めた読み物としての性格が強い。

一方で、太田牛一による『信長公記』のような、比較的信頼性の高いとされる同時代の記録には、村重の謀反から籠城、そして一族の悲惨な処刑に至る経緯は詳述されているものの、「兵庫壺」を背負って逃げたという具体的な記述は見られない 4 。この史料間の差異は極めて重要である。

このことから、「兵庫壺」の逸話は、荒木村重の裏切りという歴史的事実に対して、後世の人々が「茶の湯に深く通じた村重であれば、さもありなん」という解釈を加え、物語として肉付けしていく過程で形成・増幅された可能性が極めて高いと考えられる。つまり、「兵庫壺」は、史実の記録の隙間に生まれた「物語的真実」の産物なのである。村重という人物の不可解な行動を説明するための、後世の創作的解釈が、この幻の名物を生み出したと言っても過言ではない。この逸話の流布こそが、村重の「卑劣な裏切り者」というパブリックイメージを決定づけたのである。

第四章:比較考察 — 他の名物茶器が照らし出す「兵庫」の特異性

「兵庫壺」を孤立した存在としてではなく、同時代の他の著名な名物茶器と比較することで、その歴史的・文化的な位置づけと特異性をより鮮明に浮かび上がらせることができる。特に、同じく信長に反逆した松永久秀の「古天明平蜘蛛」と、天下第一の名物と称された「初花肩衝」との対比は、示唆に富む。

松永久秀と「古天明平蜘蛛」— 破滅の美学との対比

松永久秀もまた、信長に二度目の反逆を起こし、信貴山城に籠城した武将である。追い詰められた久秀に対し、信長は降伏の条件として、彼が秘蔵する名物茶釜「古天明平蜘蛛(こてんみょうひらぐも)」の献上を要求した。しかし久秀はこれを拒絶し、「平蜘蛛の釜と我らの首、二つは信長公にお目にかけるまい」と言い放ち、茶釜に火薬を詰めて木っ端微塵に砕き、自らも城と運命を共にしたと伝えられる 2

村重と久秀は、共に「名物を命よりも重んじ、信長に反逆した数寄者」という点で共通している。しかし、その結末は対照的である。久秀の行動は、天下人に屈しないという壮絶な意志表示であり、一種の「破滅の美学」として後世に語り継がれた。対して村重は、「兵庫壺」と共に生き延びる道を選んだ。この選択の違いが、両者の歴史的評価を大きく分かつことになる。久秀は「梟雄」とされながらもその壮絶な最期が一種の敬意をもって語られる一方、村重の行動は「卑怯」の烙印を押される最大の要因となったのである。

天下三肩衝「初花」— 盤石な来歴との対比

天下三肩衝の一つにして、その筆頭と称される唐物茶入「初花肩衝(はつはなかたつき)」は、「兵庫壺」とは対極に位置する名物である。その来歴は極めて明瞭かつ輝かしい。室町幕府八代将軍・足利義政に愛でられた後、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という天下人の手を渡り歩き、徳川将軍家の至宝として長く伝えられた 11 。その時々の所有者や、茶会での使用記録などが、複数の信頼できる史料によって裏付けられている。

この「初花」の盤石な来歴は、「兵庫壺」の曖昧で断片的な伝承と鮮やかな対照をなす。「初花」が天下統一の正史を彩る「勝者の道具」であるとすれば、「兵庫壺」は歴史の傍流へと消えていった「敗者の物語」を象徴する道具と言えるだろう。その記録の不確かさこそが、「兵庫壺」の歴史的性格を物語っている。

「兵庫壺」の特異性

これらの比較から明らかなように、「兵庫壺」の特異性はその「物語の不完全さ」にある。他の名物、特に「平蜘蛛」や「初花」が、所有者の生き様や時代の中心的なテーマと強く結びつき、ある種完結した物語を形成しているのに対し、「兵庫壺」の物語は途中でぷつりと途切れ、その後の行方は深い謎に包まれている。この「未完の物語」こそが、栄華を極めながらも歴史の表舞台から一度は完全に姿を消し、茶の湯という異世界で再生を果たした荒木村重自身の人生を、最も的確に象徴しているのかもしれない。


主要名物茶器の比較表

項目

兵庫壺

古天明平蜘蛛

初花肩衝

種類

葉茶壷

茶釜

肩衝茶入(唐物)

主要所有者

荒木村重、(伝)豊臣秀吉

松永久秀

足利義政、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康

主要な逸話

有岡城籠城の末、村重が妻子を見捨てて背負い脱出したとされる 6

信貴山城籠城の末、信長への献上を拒み、久秀が茶釜もろとも爆死したとされる 25

天下人の間を渡り歩き、権威の象徴とされた。小牧・長久手の戦いの和睦の際に家康から秀吉へ贈られた 27

結末(逸話上)

秀吉を経て織田信雄に渡ったとされるが、その後は完全に消息不明 1

久秀と共に爆砕・焼失したとされる(異説あり) 26

徳川将軍家に伝来し、現在は徳川記念財団が所蔵 27

典拠となる主要史料

『常山紀談』など後代の逸話集が中心 2

『信長公記』には爆死の記述はないが、後代の軍記物で劇的に描かれる 26

『信長公記』、『松屋会記』など複数の一次史料や茶会記に記録が残る 27

現在の状況

所在不明、実在性も不確か

所在不明(復元品や伝承品は存在する)

現存(徳川記念財団所蔵、重要文化財) 28


結論:荒木村重と「兵庫壺」が物語るもの

本報告書を通じて行ってきた多角的な分析の結果、葉茶壷「兵庫」は、その実在性が確証できないにもかかわらず、戦国史および茶道文化史において極めて重要な意味を持つ存在であることが明らかになった。

「兵庫壺」の本質は、物理的な陶製の器物というよりも、荒木村重という一人の武将の栄光、裏切り、悲劇、そして数奇な再生の物語を凝縮した「文化的記憶装置」と呼ぶべきものである。それは、茶の湯が政治と権力の中枢に据えられた時代の狂気的とも言える価値観と、その価値観に翻弄された人間の複雑な生き様を、ありのままに映し出す鏡である。村重が妻子を見捨ててまでこの壺を携えて逃げたという逸話は、彼の非情さを示すと同時に、名物茶器が「一国一城」に匹敵する、あるいはそれを超えるほどの価値を持つとされた時代の異常性を我々に突きつける。

最終的に、「兵庫壺」の最大の価値は、その来歴の謎や実在の不確かさそのものにあると結論付けられる。その歴史的記録における「空白」こそが、後世の人々の想像力をかき立て、荒木村重という毀誉褒貶の激しい人物を巡る多様な解釈を生み出す源泉となった。したがって、我々が真に研究すべきは、失われた「兵庫壺」そのものではなく、それについて語り継がれてきた「物語」である。その物語こそが、荒木村重という人物の歴史的評価がどのように形成されてきたかを解き明かし、ひいては戦国という時代をより深く理解するための、他に代えがたい貴重な史料なのである。

引用文献

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  3. 利休十哲/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/103984/
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  6. 美人妻より「茶壺」を選んだ武将・荒木村重。一族を見捨てひとり生き延びたその価値観とは https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/82923/
  7. 武将茶人・大名茶人/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/99966/
  8. 荒木村重の武将年表/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/65407/
  9. 戦国武将と茶の湯「信長」第三回 - 日本文化のよろづブログ http://kotonohaan.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-5e88.html
  10. その価値、一国相当なり!戦国時代の器がハンパない件。 | 大人も子供も楽しめるイベント https://tyanbara.org/sengoku-history/2018010125032/
  11. 戦国大名や商人が熱狂した「茶器」|初花肩衝など有名な茶器を解説【戦国ことば解説】 | サライ.jp https://serai.jp/hobby/1143333
  12. 戦国武将が愛した茶道具 「世界に3つのみ」貴重な国宝の茶わん【グッド!いちおし】【グッド!モーニング】(2024年10月8日) - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=0wv2iT-8Qew
  13. 天下の大名物「唐物茶入」 談 - 心の時空 https://yansue.exblog.jp/239169364/
  14. 信長の茶器は「土地」を超えた!天下統一を裏で操ったブランド戦略とは?|De:partment - note https://note.com/department/n/n5d81f33a6b74
  15. 特別展天下一茶陶会 慶長編 - 古陶磁鑑定美術館 https://www.oldbizen.com/%E7%89%B9%E5%88%A5%E5%B1%95%E5%A4%A9%E4%B8%8B%E4%B8%80%E8%8C%B6%E9%99%B6%E4%BC%9A-%E6%85%B6%E9%95%B7%E7%B7%A8
  16. 戦国時代と茶道/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/sado-sengokuperiod/
  17. 織田信長の茶会/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/117556/
  18. 信長・秀吉 御茶湯御政道|樋熊克彦 - note https://note.com/higuma_katsuhiko/n/n610ec56f5aeb
  19. 茶道お茶の子 茶会初参加 - FC2 https://ochanoko.web.fc2.com/rekisi.html
  20. 御茶湯御政道 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E8%8C%B6%E6%B9%AF%E5%BE%A1%E6%94%BF%E9%81%93
  21. 茶壺―武家の美意識― | 彦根城博物館|Hikone Castle Museum|滋賀県彦根市金亀町にある博物館 https://hikone-castle-museum.jp/exhibition_old/14692.html
  22. 茶道具「茶壷」について、歴史や特徴、扱い方や保管方法まで徹底解説 - 骨董品買取ガイド https://xn--eckp2gv22ot7an06opgmyj0a.com/column/sadou/chatsubo.php
  23. リニューアル・オープン記念 信長と戦った武将、荒木村重展 | 展覧会 | I/M 市立伊丹ミュージアム https://itami-im.jp/exhibitions/%E3%83%AA%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%97%E3%83%B3%E8%A8%98%E5%BF%B5%E3%80%80%E4%BF%A1%E9%95%B7%E3%81%A8%E6%88%A6%E3%81%A3%E3%81%9F%E6%AD%A6%E5%B0%86/
  24. 第1章 - 市立伊丹ミュージアム https://itami-im.jp/wp/wp-content/uploads/2023/09/murashige_list.pdf
  25. 信長も欲するぬいぐるみ? 伝説の茶釜「平蜘蛛ぬいぐるみ」が人気のあまり完売 再販も予定 https://nlab.itmedia.co.jp/cont/articles/3318433/
  26. 松永久秀が死に際して、運命を共にした名物の茶器とは? - 歴史人 https://www.rekishijin.com/16073
  27. 初花肩衝 - 名刀幻想辞典 https://meitou.info/index.php/%E5%88%9D%E8%8A%B1%E8%82%A9%E8%A1%9D
  28. 初花肩衝 はつはなかたつき - 鶴田 純久の章 https://turuta.jp/story/archives/5049
  29. 家康が秀吉に贈った初花肩衝~使者は石川数和:小牧・長久手の戦い~ - 中世歴史めぐり https://www.yoritomo-japan.com/sengoku/ikusa/komaki-nagakute-hatuhana.html
  30. 古瀬戸肩衝茶入 銘 横田 - 文化遺産オンライン https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/90570
  31. 松永久秀は何をした人?「信長を二度も裏切った極悪人で平蜘蛛を抱えて爆死した」ハナシ|どんな人?性格がわかるエピソードや逸話・詳しい年表 https://busho.fun/person/hisahide-matsunaga
  32. 唐物肩衝茶入〈銘松屋/〉 - 文化遺産オンライン https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/154798