本報告書は、戦国時代の日本において織田信長が入手したとされる地球儀について、その歴史的背景、地球儀自体の詳細、信長の理解と影響、そして日本における地球儀受容の文脈を、現存する史料に基づき詳細かつ徹底的に調査し、明らかにすることを目的とします。
織田信長(1534-1582年)の時代は、日本がヨーロッパの文化や技術と本格的に接触を開始した時期と重なります。特にイエズス会宣教師を通じて、鉄砲、時計、眼鏡、そして本報告の主題である地球儀といった南蛮文化がもたらされました。信長はこれらの新奇な文物や知識に対して強い関心を示し、積極的に受容しようとしたことで知られています 1 。この姿勢は、彼の革新的な政策や天下統一事業とも無縁ではなかったと考えられます。信長の南蛮文化への関心は、単なる異国趣味や好奇心に留まるものではありませんでした。むしろ、既存の国内的権威や伝統的価値観に対抗し、自身の政治的・文化的権力基盤を強化するための一つの戦略的手段であった可能性がうかがえます。当時最先端であった新しい知識や技術は、旧体制を打破し、新たな時代を切り拓こうとする信長にとって、象徴的、あるいは実質的な力となり得たのでしょう。彼が地球儀をはじめとする南蛮由来の知識を積極的に取り入れ、家臣たちにも示そうとした行動 3 、さらには仏僧の伝統的な宇宙観を批判するために天文地理の知識を用いたとされる逸話 4 などは、まさに南蛮文化を既存の権威(例えば仏教勢力)を相対化し、自身の革新性を際立たせるために利用した可能性を示唆しています。
16世紀の日本において、人々の間で広く共有されていた世界観は、仏教的な須弥山宇宙観や、日本・中国(唐)・インド(天竺)を世界の主要な構成要素とする「三国観」といったものが支配的でした 6 。大地は基本的に平面であると認識されており、我々が今日当然のものとして受け入れている地球が球体であるという概念は、一般には全く知られていませんでした 7 。
その一方で、ヨーロッパでは15世紀末からルネサンスの気運とともに大航海時代が到来し、探検家たちが次々と未知の海域へと乗り出していました。フェルディナンド・マゼランの艦隊による世界周航(1519-1522年)などを通じて、地球球体説は実証的に裏付けられ、世界の地理に関する知識は飛躍的に拡大していました 9 。この技術革新と知識の爆発的増加という時代背景のもと、カトリック教会、特にイエズス会は世界各地への宣教師派遣を積極的に進め、その波はやがて日本にも到達することになります。
1549年、イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルの鹿児島上陸によって日本へのキリスト教伝来が果たされると、その後も多くの宣教師が来日し、日本各地で布教活動を展開しました。彼らはキリスト教の教義だけでなく、当時のヨーロッパにおける進んだ科学技術や天文学、地理学の知識をも日本にもたらしました 6 。地球儀もまた、そうした西洋知識の具体的な表象の一つであり、それまでの日本の知識人が持っていた伝統的な世界観とは根本的に異なる、新たな宇宙像・世界像を提示するものでした。宣教師による地球儀の提示は、単に新しい地理情報や珍しい文物を紹介するという以上の意味を持っていました。それは、日本の伝統的な宇宙観や平面的な世界観に対する根本的な挑戦であり、知識人たちの間に知的な揺さぶりをかけるものであったと言えます。織田信長のような、既存の枠組みに囚われない柔軟な思考を持つ人物にとっては、この新しい世界像こそが、旧来の価値観を疑い、新たな視点や発想を得るための重要な契機となった可能性が考えられます。信長が合理性を重んじ、新しい知識に対して極めて開かれた態度を取ったことは多くの記録に残されており 3 、地球儀は彼の知的好奇心を刺激し、伝統的世界観の相対化を促す格好の対象となったことでしょう。
織田信長が地球儀を手に入れた経緯については、主に当時の日本で活動していたイエズス会の宣教師、特にルイス・フロイスやグネッキ・ソルディ・オルガンティノが深く関わっていたと記録されています。
ポルトガル出身の宣教師ルイス・フロイス(Luís Fróis, 1532-1597)は、信長と長期にわたり親密な関係を築き、その言行を詳細に記録した『日本史』を著しました。この『日本史』やその他の書簡において、フロイスが信長に地球儀を献上し、地球が丸いことなどを説明したという記述が散見されます 9 。
イタリア出身の宣教師グネッキ・ソルディ・オルガンティノ(Gnecchi‐Soldo Organtino, 1533-1609)もまた、信長から厚い信頼を得て頻繁に安土城などで会見を重ねていました。記録によれば、オルガンティノが献上した地球儀を信長が実際に手に取り、それを見ながら宣教師たちと世界の地理や来日経路について問答を交わしたとされています。特に1579年(天正7年)の安土城における会見の記述は、この文脈で非常に重要視されています 10 。
地球儀が信長に献上された具体的な時期としては、これらの記録から1579年(天正7年)が有力と考えられています。この年、信長は安土城にオルガンティノやフロイスらを招き、地球儀を前にして世界の広大さや諸国の位置、宣教師たちが辿ってきた航路などについて熱心に質問を重ねた様子が伝えられています 10 。さらに、その2年後の1581年(天正9年)2月には、イエズス会の東インド管区巡察使であったアレッサンドロ・ヴァリニャーノが本能寺に滞在中の信長に謁見した際にも、信長は世界地図(おそらく平面図)を見ながら、ヴァリニャーノに彼が経験してきた海路について説明させたと記録されています 10 。これらのエピソードは、信長が地球儀や世界地図といった新しい情報媒体を通じて、世界の地理に対する理解を深めようとしていたことを明確に示しています。
ここで特筆すべき重要な点として、織田信長の時代には、現代我々が用いる「地球儀」という言葉はまだ日本で一般的に使用されておらず、球体の世界地図模型は「地之図(ちのず)」などと呼ばれていた可能性が高いことが指摘されています 11 。そもそも「地球」という漢語自体、16世紀末から17世紀初頭にかけて中国で活動したイエズス会宣教師マテオ・リッチが、世界地図を漢訳する際に用いた造語が起源とされており、この言葉が日本に伝わり定着するのは江戸時代に入ってからと考えられています 11 。
「地之図」という呼称が用いられていたとすれば、それはその文物がまずもって「世界の地理を描いた図」としての側面、すなわち情報媒体としての機能が重視されていたことを示唆しています。もちろん、それが球体であるという形状そのものへの驚きや関心もあったでしょうが、信長の強い関心は、単に「地球は丸い」という抽象的な事実認識に留まらず、その「地之図」に描かれた未知の国々の存在、それらの位置関係、そしてヨーロッパから日本へ至る長大な航路といった、より具体的で実用的な地理情報に向けられていたのかもしれません。この関心の方向性は、信長の天下統一事業が一段落した後の、海外との交易(南蛮貿易)や国際関係への視野、あるいは世界における日本の位置づけといった、より大きな構想と結びつけて考えることができるでしょう。彼が宣教師たちに来日経路を詳細に尋ねたり、世界各地の情勢について問答を重ねたりした行動 10 は、地球の形状そのものへの知的好奇心に加え、具体的な地理的知識、すなわち世界の広がり、他国の存在、そしてそれらをつなぐ交易ルートなどへの強い実践的関心があったことを物語っています。この関心は、信長の統一事業が単に国内に留まるものではなく、国際的な視野をも含んでいた可能性を間接的に裏付けるものと言えるかもしれません。
史料名 (主な記録者) |
関連記述の要約 |
言及されている主な宣教師 |
該当記録の年代 (推定含む) |
関連スニペット例 |
ルイス・フロイス『日本史』 |
信長への地球儀献上、地球球体説への信長の理解(「理に適う」)、天文地理に関する問答、家臣への知識共有の様子など。 |
ルイス・フロイス、オルガンティノ |
1569年~1582年頃 |
4 |
イエズス会年報・書簡集(オルガンティノ等) |
1579年、信長がオルガンティノ献上の地球儀を用いて来日経路や世界について質問。ヴァリニャーノ謁見時の世界地図を用いた問答(1581年)。信長の知的好奇心と合理的理解。 |
オルガンティノ、フロイス |
1579年、1581年 |
10 |
その他二次的言及・研究 |
信長が地球儀を所有し、地球球体説を理解していたことの確認。 |
(宣教師名不特定の場合あり) |
(特定困難) |
3 |
この表は、信長と地球儀に関する記述がどのような史料に基づいているのかを一覧で示すことで、本報告書における議論の信頼性と透明性を高めることを意図しています。読者は、どの情報がどの宣教師の記録に由来するのかを容易に把握でき、多角的な史料検討の基礎となり得ます。
織田信長に献上された地球儀の製作者として、最も有力視されているのは、16世紀にドイツのケルンで活動した地図製作者カスパル・フォペル(Caspar Vopel, または Caspar Vopelius, 1511-1561)です 12 。複数の研究や資料において、ルイス・フロイスらが信長に贈った地球儀は、このフォペルが製作したものであった可能性が高いと指摘されています 12 。フォペルは、地理学者、数学者としても知られ、天球儀や地球儀、地図などを製作しました。特に1536年に木版印刷によって製作された地球儀は、その代表作の一つとされています。
信長が目にした可能性のあるカスパル・フォペル作の地球儀は、以下のような特徴を持っていたと考えられます。
カスパル・フォペルが1536年に製作したとされる地球儀は、現存するものが世界に数点しか確認されていませんが、その中でも極めて保存状態が良いとされる貴重な一点が、日本の奈良県天理市にある天理大学附属天理図書館に収蔵されています 12 。この地球儀は、直径約28センチメートルで木版刷りの地図が貼り付けられており、まさに信長が献上されたとされる地球儀と同型である可能性が非常に高いと考えられています 12 。この現存するフォペル地球儀は、信長が目にしたであろう16世紀中葉の世界像を具体的に今に伝える、学術的に極めて価値の高い実物資料と言えます。その存在は、信長と地球儀をめぐる歴史的考察に、確かな物的証拠を提供しています。
16世紀中頃のヨーロッパにおける地球儀製作は、高度な技術と知識を要するものでした。印刷技術の発達により、木版や銅版を用いて地図を複製することが可能になりましたが 17 、それを正確に球面に貼り合わせる作業は依然として手工業的な熟練を必要としました。
地理的知見に関しても、大航海時代によって世界の全体像が徐々に明らかになりつつあったとはいえ、未だ多くの限界がありました。ジェラルドゥス・メルカトルが航海に適した図法として知られるメルカトル図法を発表したのは1569年のことであり 18 、フォペルが地球儀を製作した1536年の時点では、地図投影法も発展途上にありました。そのため、特にヨーロッパから遠い地域、例えばアジアの東端、アメリカ大陸の西海岸、太平洋の広大な海域やそこに点在する島々、オーストラリア大陸などの描写は、不正確であったり、あるいは全く描かれていなかったりしました。国立科学博物館に所蔵されている後の時代の日本製の地球儀(渋川春海作など)に見られる詳細な経緯度線や色彩豊かな陸地の区分 19 は、フォペルの時代のものとは製作技術や情報量において隔たりがあったと考えられます。
信長が手にしたとされるフォペル作地球儀も、当時の最先端の地理知識を反映したものではあったものの、現代の正確な世界地図と比べれば、多くの誤りや未知の部分を含んでいたことは間違いありません。しかし、その「不完全さ」や「未知の領域」こそが、織田信長のような旺盛な知的好奇心を持つ人物にとっては、かえって強い刺激となり、さらなる問いや探求心を生み出す源泉となった可能性が考えられます。「日本は実際には世界のどのあたりに位置するのか」「この『ジパング』と記された島は本当に我々の国なのか」「この広大な海の向こうには、まだ何があるのか」といった具体的な疑問が、宣教師との対話を深め、彼の既成の世界観を揺るがし、新たな視点を開く上で重要な役割を果たしたのではないでしょうか。地球儀に描かれた不正確な海岸線や、空白のまま残された海域は、信長にとって単なる情報の欠落ではなく、むしろ彼の想像力をかき立て、世界への関心を一層深めさせる触媒として機能したとも推測されます。
項目 |
詳細 |
関連スニペット例 |
製作年 |
1536年 |
12 |
製作者 |
カスパル・フォペル (Caspar Vopel) |
12 |
直径 |
約28cm |
12 |
材質・製法 |
木版印刷された地図を木製の球体に貼付、彩色 |
17 (当時の一般的製法) |
主な地理的特徴 |
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日本の描写 |
「Zipanga」等として、実際とは異なる位置・形状で記載された可能性 |
12 |
アメリカ大陸の描写 |
南アメリカは新大陸として認識、北アメリカはアジアと繋がっているなど不正確な部分あり |
12 |
その他の特筆点 |
未知の海域や大陸が多い、当時のヨーロッパ中心の世界観を反映 |
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現存状況 |
同型とされるものが天理大学附属天理図書館に所蔵 (世界最古級) |
12 |
この表は、信長が目にした可能性のある地球儀の具体的な姿を読者に提示することを目的としています。製作年や大きさ、そして当時の地理的認識を示す特徴をまとめることで、信長がどのような「世界」のイメージに触れたのかを具体的に想像する手助けとなります。特に天理図書館所蔵品との関連を示すことで、現物資料へのアクセス可能性も示唆できます。
イエズス会宣教師から地球が球体であるという、当時の日本人にとっては驚天動地の概念を説明された際、織田信長は臆することなく、あるいは既存の観念に囚われることなく、即座に「理に適っている (ことにかなっている)」と述べ、その合理性を理解し受け入れたと、ルイス・フロイスをはじめとする複数の史料が一貫して伝えています 3 。これは、大地を平面と捉える当時の日本の一般的な世界観 6 とは全く対照的な反応であり、信長の柔軟な思考様式、既成概念に捉われない知性、そして合理的な判断力を象徴する逸話として、今日まで広く知られています。家臣たちの多くが宣教師の説明を容易には理解できなかったのに対し、信長一人がその本質を直観的に把握したという記述 3 は、彼の非凡さを際立たせています。
信長は、地球儀を通じて得たこの新しい宇宙観や世界の知識を、自身の個人的な興味関心の対象として秘匿するのではなく、積極的に家臣や子供たちにも見せ、教えようと努めたとされています 4 。ルイス・フロイスの『日本史』には、信長が安土城などで多くの武将たちが列席する場で、あるいは広間の窓を開け放ち、身分の高くない者たちにも聞こえるように配慮した上で、オルガンティノ神父やロレンソ修道士といった宣教師たちに地球儀について多くの質問を投げかけ、時には反論を試みながら議論を交わした様子が生き生きと描かれています 4 。このような行動は、信長が新しい知識を独占するのではなく、それを共有することで家臣団全体の意識改革を図り、旧来の固定観念から脱却させようとした意図の表れと解釈することができます。
信長は、特に信頼を寄せていた宣教師、とりわけオルガンティノやイルマン・ロレンソ(日本人修道士)らを頻繁に自室や公の場に呼び寄せ、天文や地理に関して極めて熱心に、かつ詳細に質問を重ねました 4 。一度の会見が三時間にも及ぶこともあったと記録されており 4 、その飽くなき探究心の深さがうかがえます。彼は、宣教師たちが語る宇宙の構造や世界の成り立ちに関する知識が、日本の仏僧たちが説く伝統的な宇宙観とは著しく異なっていることを見抜き、その合理性や新規性を高く評価し、重視したようです。信長は、目に見えない神や霊魂の存在といった宗教的な教義に対しては懐疑的な態度を示しつつも 4 、天文地理のような実証的(と彼が判断した)知識については強い関心と信頼を寄せたと言われています。
織田信長が地球儀や宣教師との対話を通じて獲得した新しい世界観や広範な地理的知識が、彼の具体的な政策決定、外交戦略、あるいは天下統一後の国家構想にどの程度直接的な影響を与えたのかを、現存する史料のみから明確に断定することは困難です。信長は天下統一の道半ばで本能寺の変に倒れたため、その国際的な視野が具体的な政策として展開される機会は限られていました 21 。
しかしながら、彼の徹底した合理主義的な思考様式、既存の権威や伝統に対する挑戦的な態度、そして南蛮貿易や海外の文物に対する強い関心などを総合的に考慮すると、これらの新しい知識が、彼の世界を見る目、大局的な判断、そして将来に対するビジョンに間接的ながらも少なからぬ影響を与えた可能性は十分に考えられます。例えば、宣教師から得た天文地理の知識を用いて、仏僧たちの説く宇宙観や来世観の誤りを家臣団に示し、彼らを地獄や極楽といった観念の束縛から解放しようとしたという解釈 4 は、信長が新しい知識を既存の国内的権威を相対化するための知的武器として利用した可能性を示唆しています。
信長の地球儀への深い関心と、それによってもたらされた地球球体説への迅速な理解は、単なる知的好奇心の発露に留まらず、彼の統治イデオロギーを形成する上での一つの要素となった可能性があります。宣教師がもたらした「合理的」かつ「実証的」と信長が認識したであろう知識は、伝統的な仏教勢力などが提示する閉鎖的な宇宙観や、来世に重きを置く価値観の権威を揺るがし、現世における自身の絶対的な権力を確立し、それを正当化する上で有効に機能したかもしれません。「予は来世などというものを信じない。人間が見、また知りうるもの以外には、何ものも存在しないことを確信している」といった、ルイス・フロイスが伝える信長の言葉 4 は、まさにこのような文脈の中で理解することができます。彼にとって、地球儀が示す広大な世界と、そこに存在する多様な国家や文化の姿は、日本の伝統的な三国観を打ち破り、世界の中の日本という新たな視点を提供するものでした。この世界認識の拡大は、国内統一後の海外交易のさらなる推進や、より積極的な国際関係の構築といった構想へと繋がる萌芽を秘めていたと考えられます。もし本能寺の変という悲劇がなければ、信長のこのグローバルな視点は、より具体的で大胆な形で日本の歴史に現れていたかもしれません。彼の先進性や構想のスケールの大きさは、地球儀という一つの文物への対峙の仕方に、象徴的に表れていると言えるでしょう。
織田信長が16世紀後半に手にしたとされるヨーロッパ製の地球儀から約1世紀の時を経た江戸時代初期、元禄8年(1695年)には、江戸幕府の初代天文方であった渋川春海(しぶかわ はるみ、1639-1715年)によって、日本で最初の実用的かつ現存する最古の地球儀が製作されました 19 。
信長が入手した地球儀(カスパル・フォペル作と推定)が、主にイエズス会宣教師からの献上品であり、信長の知的好奇心を満たし、新しい世界観を提示する象徴的な文物としての性格が強かったのに対し、渋川春海の地球儀は、より実用的な目的、すなわち暦学の研究や天文観測の補助のために製作されたという点に大きな違いが見られます 22 。渋川春海の地球儀は、材質も紙を幾重にも貼り重ねて作る紙張子製であり 19 、その地理情報は、主に17世紀初頭に中国の明朝で活動したイエズス会宣教師マテオ・リッチが作成した漢訳版世界地図『坤輿万国全図(こんよばんこくぜんず)』など、中国を経由してもたらされた西洋の地理知識に基づいていました 20 。信長の時代にはまだ天動説が主流でしたが、渋川春海の時代には地動説も徐々に知られるようになりつつありました(ただし、日本で地動説が本格的に紹介されるのは18世紀後半です) 20 。
織田信長による地球儀の受容は、日本の指導者層や知識人が、体系的な西洋の科学的知識に本格的に触れるようになった初期の重要な事例の一つと言えます。彼のこの経験は、直接的な影響の範囲は限定的であったかもしれませんが、日本の知性史において、西洋知識への関心の扉をわずかながらも開いた象徴的な出来事でした。
その後、江戸時代に入ると、幕府は鎖国政策を敷きましたが、長崎の出島を通じてオランダとの交易は継続され、限定的ながらも西洋の学術情報(蘭学)が途切れることなく流入し続けました。17世紀初頭には、輸入品を模倣する形ではありましたが、国内でも地球儀の製作が始まったとされています 6 。そして18世紀末頃には、単なる模倣に留まらず、様々な地図を参照して独自の工夫を加えた地球儀も作られるようになり、幕末には現代の地球儀と遜色ないものが量産されるまでになりました 6 。
信長の時代に蒔かれた西洋の地理的世界観への関心の種は、すぐには大きな花を開かなかったものの、渋川春海による国産地球儀の製作や、その後の蘭学を通じた地理学・天文学の発展という形で、間接的にではありますが、日本の知的伝統の中に繋がり、受け継がれていったと捉えることができます。信長の地球儀受容は、孤立した点としての出来事でありながら、日本における世界認識の変容と科学的知識の受容という、長い歴史的連続線の遠い起点の一つとして位置づけることができるでしょう。彼の個人的な強い関心と深い理解が、直ちに社会全体の変革や学問の隆盛をもたらしたわけではありません。しかし、西洋の進んだ知識や技術に対する門戸を、日本の最高権力者自らがわずかに開いたという事実は、その後の時代における知識導入の素地を、たとえ僅かであっても醸成する上で、決して無意味ではなかったと考えられます。
織田信長による地球儀の入手と、それに対する彼の深い理解は、単に珍奇な舶来品を手に入れたという個人的な出来事を超えた、重要な歴史的意義を内包しています。それは、日本の指導者が初めて、具体的に地球の真の姿と世界の広大さを視覚的に認識した画期的な瞬間であり、それまでの日本社会に根強く存在した旧来の固定的かつ平面的な世界観に対して、強烈な揺さぶりをかける象徴的な出来事でありました。
信長の際立った合理的な精神と、未知のものに対する旺盛な知的好奇心は、この新しい宇宙観・世界観を臆することなく積極的に受け入れさせ、さらにはその驚きと発見を独占することなく、家臣や子供たちといった周囲の人々と共有しようとする先進的な姿勢へと繋がりました。地球儀を通じて得た知識が、信長の具体的な政策や外交戦略、あるいは天下統一後の国家構想にどの程度直接的な影響を及ぼしたのかを、現存する史料のみから断定的に論じることは難しい側面があります。しかしながら、彼の革新的な諸政策や、既存の宗教的権威や伝統的価値観に果敢に挑戦する態度を精神的に補強し、その行動を後押しする一助となった可能性は十分に考えられます。
ドイツの地図製作者カスパル・フォペル作と推定されるその地球儀は、まさに大航海時代のヨーロッパが生み出した最新の地理的知見を、遠く離れた日本にもたらし、信長とイエズス会宣教師との間で活発な知的対話を生み出す貴重な媒体となりました。この一連の出来事は、日本が西洋の科学技術や思想と本格的に接触し、それらを徐々に選択・受容していく長い歴史的プロセスの、極めて初期における重要な一場面として明確に位置づけられるでしょう。
織田信長の地球儀に関する研究は、現状では主にルイス・フロイスをはじめとするイエズス会宣教師の記録に大きく依存しています。これらの一次史料のさらなる精密な読解、異本間の比較検討、そして当時の他の日本人(武将、公家、僧侶など)によって書かれた日記や記録との比較研究を多角的に進めることで、地球儀という文物が信長個人に与えた影響のみならず、彼の周囲の人々、ひいては当時の日本の知識層の一部に与えた影響の広がりや深さについて、より詳細かつ立体的な知見が得られる可能性があります。
また、天理大学附属天理図書館に現存するカスパル・フォペル作の地球儀に関して、美術史的、科学史的、そして文献学的な分析をさらに深化させることで、16世紀における地球儀製作技術の具体的な様相や、それが内包し伝達しようとした世界像について、新たな発見がもたらされるかもしれません。特に、描かれた地理情報や地名の分析は、当時のヨーロッパにおける日本やアジアに対する認識の変遷を辿る上で貴重な手がかりを提供するでしょう。
さらに、信長の世界認識の形成と、彼の具体的な政治行動や政策決定との間の関連性をより明確に解明するためには、地球儀という単一の文物に留まらず、彼が接触した他の南蛮文物(時計、眼鏡、地図、絵画、書物など)や、宣教師から得た様々な情報が、彼の意思決定プロセスや戦略的思考にどのように複合的に作用したのかを、より広い文脈の中で総合的に検証していくアプローチが求められます。