松屋肩衝は、南宋時代の唐物肩衝茶入で、奈良の塗師・松屋家が代々守り伝えた。松永久秀の逸話や、利休・織部・遠州による仕覆の「見立て」が特徴。現在は根津美術館所蔵の重要文化財。
日本の美術史、とりわけ茶の湯の歴史において、数多の名物道具が戦国武将たちの権勢と欲望の対象となり、その手を渡り歩いてきた。城一つ、領地一国にも匹敵するとされた茶器は、単なる美術品ではなく、政治的権威と武功の象徴であった 1 。その中にあって、ひときわ異彩を放つ存在が、漢作大名物「松屋肩衝(まつやかたつき)」である。
この茶入は、「初花(はつはな)」「油屋(あぶらや)」と並び称される最高峰の唐物茶入でありながら、その歴史の大部分において、時の権力者の所有となることなく、大和国奈良の一商人「松屋」の家で代々守り伝えられてきた 3 。織田信長の苛烈な「名物狩り」や、豊臣秀吉の絶対的な権勢が吹き荒れる時代の激流の中、なぜ一介の商人が、天下人が渇望したであろうこの至宝を所有し続けることができたのか。この問いこそが、「松屋肩衝」の物語を解き明かす鍵となる。
本報告書は、この類稀な茶入の来歴を、器物そのものの美術的価値、所持者であった松屋一族の特異性、そして彼らが根を下ろした奈良という土地の政治的・文化的背景から多角的に分析し、その歴史的意義の全貌を明らかにすることを目的とする。その過程で浮かび上がるのは、武力や政治的権威とは異なる、もう一つの「力」―すなわち文化の力が、いかにして時代を生き抜き、至宝を守り得たかという、日本の歴史における文化と権力の深遠な関係性である。この茶入の物語は、戦国という時代が単なる武力闘争の時代ではなく、複雑な価値観が交錯する豊かな文化の時代であったことを、何よりも雄弁に物語っている 5 。
「松屋肩衝」の価値の根源は、その比類なき造形美にある。この茶入は、単なる容器ではなく、悠久の時を経て洗練された美の結晶体として、見る者を魅了し続けてきた。
この茶入は、中国の南宋から元時代(13~14世紀)にかけて、現在の福建省福州市周辺に位置する福州窯、あるいはその系統の窯で焼かれたと推定されている 7 。日本の時代区分では室町時代の前期にあたり、その古格こそが、後世の茶人たちに尊ばれる第一の要因となった 9 。薄く挽かれた器体は軽く、精緻な作りの内に、大陸の高度な陶芸技術が凝縮されている 8 。
茶入の形状による分類では、その名の通り「肩衝(かたつき)」に属する 10 。肩衝とは、胴の上部が角張って水平に張り出した姿を特徴とし、その堂々たる風格が、武士が正座した威厳ある姿を彷彿とさせることから、特に戦国武将たちに好まれた器形であった 11 。
しかしながら、「松屋肩衝」は典型的な肩衝茶入と比較してやや背が低いという特徴を持つ。この点から「半肩衝(はんかたつき)」とも評されることがある 12 。通常、基準からの逸脱は欠点と見なされかねないが、この茶入においては、その背の低さが逆に、どっしりとした安定感と風格、さらには一種の愛らしささえ生み出していると、古来より高く評価されてきた 9 。完璧な威風堂々たる姿を尊ぶ価値観から一歩進み、少し外れた形姿の中に独自の深い味わいを見出すという、わび茶の美意識の成熟がこの評価の背景にある。これは、完全性よりも不完全さの中に美を見出す、日本特有の美学の表れと言えよう。
具体的な造形を見ると、口縁は端反り気味に捻り返され、力強く張った肩から、胴はゆったりと丸みを帯びて膨らみ、その中ほどには一条の沈線(刻線)がアクセントとして巡らされている。底は平らで、制作時に粘土を板から起こした跡が残る「板起こし」となっている 15 。文化庁や根津美術館の記録によれば、その寸法は高さ約7.7cmから7.8cm、胴径は約8.5cmから8.9cmと、小ぶりながらも凝縮された存在感を示している 4 。
器物の表面を彩る釉薬の表情、すなわち「景色」は、「松屋肩衝」の最大の魅力の一つである。素地は淡い灰褐色のきめ細やかな土で、これに暗褐色や黒褐色の地釉が薄く掛けられている 14 。さらにその上から、黄褐色を帯びた茶釉が流れるように掛かり、複雑な紋様を描き出している 14 。
この二重、三重に重なった釉薬が、焼成の過程で溶け合い、流動することで、「なだれ」と呼ばれる美しい景色を生み出す。特に、半面には四か所もの「なだれ」が見られるとされ、その複雑な表情は、見る角度や光の加減によって千変万化し、尽きることのない興趣を誘う 4 。この景色の多様性と複雑さこそが、後述するように、千利休、古田織部、小堀遠州といった大宗匠たちに、それぞれ異なる「見立て」をさせる源泉となったのである。
一つの茶入が辿った軌跡は、時に時代の精神史を映し出す鏡となる。「松屋肩衝」の伝来史は、まさにその典型である。それは単なる所有者の変遷ではなく、「わび茶」という新たな価値観が社会の各階層を縦断しながら継承され、確立されていくプロセスそのものを物語る、生きた証左に他ならない。
この茶入の物語は、室町文化の頂点に始まる。多くの記録が、その最初の所持者を室町幕府第八代将軍・足利義政であったと伝えている 3 。これは、この茶入が将軍家のコレクションである「東山御物」に連なる、極めて高い格を持つ道具であったことを意味する。
義政の手を離れた茶入は、わび茶の祖として知られる村田珠光(1423-1502)へと渡った 3 。この継承は決定的に重要である。これにより、「松屋肩衝」は単なる豪華な舶来品から、茶道の精神性を体現する正統の道具へと、その意味を昇華させた。
珠光の後は、その随一の弟子とされた古市播磨守澄胤(ふるいち はりまのかみ ちょういん、?-1508)へと受け継がれる 13 。澄胤は興福寺の衆徒でありながら、大和国の実力者でもあった武将茶人である。彼の存在は、茶の湯が武家社会へと浸透していく過渡期を象徴しており、茶入が文化人だけでなく、武力を背景に持つ者たちの間でも価値を持つようになったことを示している。
その後の伝来については、複数の記録が存在する。一つは、茶人・松本珠報(まつもと しゅほう)が所持したという流れである。彼が所有したことから、この茶入は「松本肩衝」という別名を持つに至った 3 。もう一つは、古市澄胤から直接、奈良の塗師・松屋源三郎家へと伝わったとする流れである 13 。
これらの伝来経路は、必ずしも相互に矛盾するものではない。足利義政から珠光、そして古市澄胤へと続く系譜は、この茶入の権威と精神性の源流を示している。一方で、「松本肩衝」という別名の存在は、松本珠報がその歴史において重要な役割を果たしたことを物語る。最も合理的な解釈は、義政から珠光を経て古市澄胤に伝わった後、何らかの経緯で松本珠報の手を経て、最終的に松屋源三郎家へと収まった、という流れであろう。あるいは、古市澄胤から松屋へ渡る過程で、松本珠報が仲介役を果たした可能性も考えられる。
いずれにせよ、この伝来の軌跡は、将軍家(政治的権威の頂点)から、珠光(文化の創始者)、古市澄胤(武将茶人)、そして松屋(文化的担い手としての町衆)へと、茶の湯という文化が社会の階層を越えて広がり、根付いていった歴史そのものを凝縮している。松屋家がこの至宝を手に入れたという事実は、戦国時代において、町衆が単なる文化の享受者ではなく、その中核を担う重要な主体として歴史の表舞台に登場したことを象徴する画期的な出来事であったと言える。
「松屋肩衝」の物語において、その器物としての価値と並んで重要なのが、長きにわたりこれを守り抜いた所持者、松屋一族の存在である。彼らは単なる富裕な商人ではなく、職人、文化人、そして記録者という三つの顔を併せ持つ、類例の少ない一族であった。この三位一体の特性こそが、戦国の動乱期に名物を守り、その価値を後世に伝え得た原動力であった。
松屋家は、姓を土門、屋号を「松屋」、通称を代々源三郎と称した 13 。その生業は、奈良の大寺である東大寺八幡宮の御用達を務める塗師(ぬし)、すなわち漆工芸家であった 18 。この事実は二つの重要な点を示唆する。一つは、興福寺や東大寺といった強大な寺社勢力と深い結びつきを持っていたこと。これは、戦国大名の直接支配が及ばない大和国において、彼らの財産と文化を守るための強力な庇護となった可能性がある。もう一つは、彼らが工芸品の製作に直接携わる職人であったことである。これにより、道具の素材、技術、そして美の本質を見抜く、極めて高い審美眼を養っていたと考えられる。
松屋一族は、単に名物を所有するコレクターではなかった。彼らは茶の湯の実践者であり、その時代の文化創造の最前線にいた。初代とされる久行は、わび茶の祖・村田珠光の直弟子である古市播磨に師事し、茶の湯の世界に深く分け入った 18 。
その跡を継いだ三代・久政(1521-1598)、四代・久好(?-1633)、五代・久重(1566-1652)の三代は、いずれも当代一流の茶人として知られる。彼らは千利休や小堀遠州といった茶道史上の巨人たちと親しく交流し、常に時代の最先端の美意識に触れていた 20 。特に、天文13年(1544年)に久政が利休を招いて茶会を開いた記録は、利休の名が史料に登場する最初期のものとして極めて重要である 23 。さらに、天正15年(1587年)に豊臣秀吉が主催した北野大茶湯には、久政と久好が「奈良三十六衆」の一員として参会しており、彼らが地方の豪商というだけでなく、中央からも認められた高名な茶人であったことが証明されている 13 。
松屋家の文化史における最大の功績は、茶会記『松屋会記』の編纂である。これは、久政、久好、久重の三代が、天文2年(1533年)から慶安3年(1650年)に至る約120年間にわたり、自らが参加した茶会の様子を詳細に記録したものである 18 。
『津田宗及茶湯日記』などと並び、茶道史研究における根本史料の一つとされ、その価値は計り知れない 27 。この記録を通じて、私たちは千利休の初期の茶風、唐物道具が中心であった時代から和物道具が重視されるわび茶への移行期の実態、そして北野大茶湯のような歴史的事件の具体的な様子を知ることができる 23 。松屋一族は、自らの文化活動を客観的に記録し、歴史の中に位置づけるという、極めて近代的な意識を持っていた。彼らは物を所有するだけでなく、その物が持つ「物語」を創造し、記録し、継承する主体だったのである。この意識こそが、「松屋肩衝」を単なる財産ではなく、家の文化的アイデンティティの核として、何としても守り抜くべき対象たらしめたと言えよう。
「松屋肩衝」は、単独でその価値が語られることは稀である。常に、「徐煕筆 白鷺図(じょきひつ さぎず)」と「存星の長盆(ぞんせいのながぼん)」と共に、「松屋三名物」として一括りで称されてきた 13 。この三つの名物は、いずれも村田珠光が所持し、古市播磨を経て松屋家に伝来したとされ、珠光以来のわび茶の正統性を象徴する、いわば三種の神器のような存在であった 18 。この三名物の組み合わせは、わび茶の世界観を構成する完璧なアンサンブルであり、これらを一揃えで所有していたことは、松屋家の審美眼が包括的かつ最高水準であったことを示している。
三名物の中核をなすのが、本報告書の主題である「松屋肩衝」である。これは茶事の中心儀式である「濃茶」を点てるための、最も重要な道具(用の美)である。その詳細は他の章で詳述する通りであるが、この茶入が三名物の筆頭に挙げられるのは、茶の湯という文化における茶入の格別の地位を反映している。
第二の名物は、中国・五代南唐の画家、徐煕の作と伝えられる水墨画「白鷺図」である 28 。これは双幅の掛物で、蓮の咲く池中に二羽の白鷺が描かれていたと記録されている 30 。茶事において、精神的な中心となる「床の間」を飾る掛物(観賞の美)であり、その空間の格式と趣を決定づける役割を担う。
この「白鷺図」が特筆されるのは、千利休がこの絵を高く評価し、「わびの美を象徴するもの」「侘茶の真髄がある」と絶賛したと伝えられている点である 19 。利休の美意識の根幹に関わる重要な作品と見なされていたこの掛物を所持していたことは、松屋家が利休の目指すわび茶の精神を深く理解し、共有していたことを物語る。残念ながらこの絵画は現存しないが、その名声は『松屋会記』などの記録を通じて後世まで語り継がれている 4 。
第三の名物は、「存星の長盆」である。「存星」とは、中国の宋・元・明代に作られた高度な漆芸技法、またはその製品を指す言葉である 32 。色漆で文様を描き、その輪郭線を沈金(鎗金)と呼ばれる技法で彫り、金を埋め込むという、極めて手間のかかる技法で作られる 32 。
室町時代において、存星は舶来品の中でも「稀なるもの」として極めて珍重され、千利休ですら生涯に三点しか見ることができなかったと言われるほどの、まさに幻の漆器であった 33 。このような希少な道具を、茶入やその他の道具を客に拝見させる際に用いる盆(荘厳の美)として所有していたことは、松屋家の財力と文化的な格の高さを端的に示している。
この三つの名物は、それぞれが「陶磁器(茶入)」「絵画(掛物)」「漆器(盆)」という異なる工芸分野の頂点を代表するものであった。そして、これらは茶事という一つの総合芸術を構成する上で、それぞれが不可欠な役割を担っている。つまり、「松屋三名物」は、理想的な一つの茶事を完結させるための「究極の道具組」であったと言える。松屋家がこれを揃えていたという事実は、彼らが単なる名物コレクターではなく、茶の湯を深く理解し、その理想を追求した真の実践者であったことの何よりの証明なのである。
戦国時代、茶道具、とりわけ「名物」と称される一級品は、単なる趣味の道具ではなかった。それは武将のステータスを可視化し、時には領地一国にも匹敵する価値を持つ、政治的・経済的な戦略物資であった 2 。織田信長が断行した「名物狩り」は、名物道具を召し上げることで自らの権威を確立し、それを恩賞として与えることで家臣団を統制するという、茶の湯の高度な政治利用であった 36 。このような時代背景の中、「松屋肩衝」が武将たちの手に渡らず、一商家の元にあり続けたという事実は、極めて異例であった。
この茶入の文化的価値が、時の武将にさえ深く認識されていたことを示す最も有名な逸話が、松永久秀との関係である。永禄10年(1567年)、戦国きっての梟雄として知られる松永久秀が、三好三人衆との戦いの過程で東大寺大仏殿を焼き討ちにするという暴挙に出た。その前夜、久秀は松屋源三郎のもとへ使者を送り、「明日、南都(奈良)を焼き払うゆえ、貴殿が所持する二品(松屋肩衝と徐煕筆鷺図)を持って、今夜のうちに立ち退かれよ」と、事前に警告したと伝えられている 4 。
この逸話は、敵対勢力を滅ぼすためには聖域である大仏殿の焼失さえ厭わない久秀が、一方で文化的な至宝に対しては破壊を避けようとする敬意を払っていたことを示している。これは、久秀自身が当代一流の茶人であったことにも起因するが、それ以上に「松屋三名物」が、武力をもってしても侵すべからざる特別な価値を持つと、広く認識されていたことの証左である。
「松屋肩衝」は、権力者による「所有」の対象とはならなかったが、その代わりに「供覧(きょうらん)」、すなわち正式な拝見の機会を通じて、その権威を示した。松屋家の記録によれば、豊臣秀吉、徳川家康、徳川秀忠といった天下人をはじめ、霊元天皇や諸大名が、わざわざこの茶入を拝見するために松屋を訪れたり、取り寄せて鑑賞したりしたことが記されている 4 。これは、松屋家が単に武家に従属する存在ではなく、文化的な権威として、時の最高権力者と対等に近い立場で接していたことを示唆する、驚くべき事実である。
茶入の世界には、最高峰を示す「天下三肩衝」という番付が存在する。一般的には「初花」「楢柴」「新田」の三つを指し、これらは織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった天下人の手を渡り歩いた、いわば「表舞台」の最高位の名物である 2 。
一方で、「松屋肩衝」もまた、その旧名である「松本肩衝」として、「投頭巾」「楢柴」と共に三肩衝の一つに数える異説が存在した 4 。この点に関して、極めて興味深い評価が記録されている。「投頭巾と楢柴は将軍家にあったので、松屋が所持する松本(松屋肩衝)は、地下(じげ)にては天下一といわれました」というものである 4 。
「地下では天下一」という言葉は、戦国時代に二元的な価値体系が存在したことを浮き彫りにする。一つは、天下人が所有することで権威づけられる「政治的価値」の序列。もう一つは、茶人や数寄者といった専門家たちの審美眼によって評価される「文化的価値」の序列である。「松屋肩衝」は、後者の頂点に立つ存在と見なされていた。それは、政治権力では測れない「文化の力」の象徴であり、武将ではなく、文化の担い手である町衆がその至宝を所有しているという事実そのものが、その価値をさらに高めていたのである。松永久秀の逸話も、この侵しがたい文化的権威が、武将にさえ敬意を払わせる力を持っていたことの、何よりの証明と言えよう。
「松屋肩衝」の価値は、その来歴や逸話、そしてそれに付随する付属品によって、さらに重層的なものとなっている。特に、各時代の茶の湯の指導者たちがこの茶入と対峙し、それぞれの美意識を反映させた痕跡は、この器物が単なる静的な美術品ではなく、時代を超えて「対話」を促す動的な存在であったことを物語っている。
この茶入が当代の数寄者たちからどれほど渇望され、敬意を払われていたかを示す逸話は数多い。
戦国武将であり、千利休の高弟でもある細川三斎(忠興)は、この茶入を拝見する際に長袴を着用した。亭主である松屋が恐縮すると、三斎は「これは亭主への礼ではない。この名物そのものに対する礼である」と述べたと伝えられる 4 。道具に対して人格を認めるかのようなこの態度は、名物が単なる器物を超えた存在であったことを示している。
時代は下り、江戸時代を代表する大茶人・松平不昧(治郷)もこの茶入に魅了された一人であった。不昧は二度にわたって礼服を着用して拝見に臨み、二度目の際には千両箱を三つ、すなわち三千両という破格の金額を積んで譲渡を懇願した。しかし、松屋はこれを断固として断ったという 4 。この時、不昧がその素晴らしさを称えて松屋に与えたとされる感状が今も残ると言われ、大名さえも手に入れることのできなかった至宝としての伝説を不動のものにした。
「松屋肩衝」の複雑な「景色」は、見る人によってその魅力の捉え方が異なった。その懐の深さを象徴するのが、千利休、古田織部、小堀遠州という茶道史に燦然と輝く三人の大宗匠が、それぞれに好みの「置形(おきがた、茶入の正面と見なす部分)」を定め、それに合わせて仕覆(しふく、茶入を保護し装うための袋)を作らせたという伝承である 4 。一つの道具が、異なる時代の、異なる美学を持つ指導者たちの解釈を受け止めるだけの普遍性と多様性を備えていたことを物語る、類例のない逸話である。
この茶入を「テクスト」とするならば、各仕覆は利休、織部、遠州による卓越した「解釈」または「批評」であり、その集積こそが、この茶入が持つ文化史的な厚みそのものである。利休が見出した「わび」、織部が見出した「破格の美」、遠州が見出した「綺麗さび」。この茶入は、それぞれの時代の美学を映し出す鏡のような役割を果たしたのである。
仕覆の名称(裂地) |
文様・特徴 |
関連する茶人・見立て |
歴史的意義・備考 |
龍三爪緞子(珠光緞子) |
紺色の平織地に、金茶の絵緯(えぬき)で三つ爪の龍、小牡丹唐草、火焔文を柔らかく織り出す 17 。 |
村田珠光(利休も見立てか) |
わび茶の祖・村田珠光が足利義政から拝領した胴服の裂地と伝わる名物裂 16 。名物裂の中でも特に古格とされ、珠光伝来の象徴。この仕覆が本歌と認められている 45 。経年劣化が著しかったが、根津美術館と龍村美術織物により復元された 17 。 |
木綿間道 |
(詳細な文様は資料に乏しいが)間道は縞模様の織物。木綿製。 |
古田織部(織部見立て) |
利休の静謐な美に対し、「へうげもの」と評される大胆で破格の美を追求した織部。豪華な金襴や緞子ではなく、素朴で力強い素材である木綿を選ぶ点に、織部らしい斬新な美意識が窺える 4 。 |
波梅鉢緞子 |
(詳細な文様は資料に乏しいが)波と梅鉢を組み合わせた優美な文様。 |
小堀遠州(遠州見立て) |
「綺麗さび」と称される、理知的で洗練された王朝的な美を確立した遠州。その美学を反映した、典雅で格調高い緞子が選ばれている 4 。 |
捻梅唐草緞子 |
(詳細な文様は資料に乏しいが)ねじれた梅と唐草を組み合わせた文様。 |
(諸説あり、遠州か) |
四つ目の仕覆として伝わる。これもまた、異なる角度からの美の発見を物語るものであり、この茶入が持つ多面的な魅力を象徴している 4 。 |
長きにわたり奈良の松屋家で守られてきた「松屋肩衝」も、時代の変化とともに新たな運命を辿ることになる。その軌跡は、日本の文化財が「家の秘蔵」から「社会の遺産」へと、そのあり方を変えていく近代化のプロセスを象徴している。
松屋家の栄華も永遠ではなかった。江戸時代後期、安永・文化年間(18世紀末から19世紀初頭)頃から家運は次第に傾き、経済的に困窮していったと記録されている 18 。そして幕末の動乱期、ついに数百年にわたって守り継いできた「松屋三名物」を手放さざるを得ない状況に追い込まれた 4 。一商家の手によって奇跡的に守られてきた至宝が、再び歴史の表舞台へと姿を現すことになる。
松屋家の手を離れた「松屋肩衝」は、大坂の道具商・勝兵衛らの仲介を経て、薩摩藩主である島津家の所有となった 4 。これにより、名物は「地下の天下一」たる商家の至宝から、大大名の威光を象徴する秘蔵品へと、その性格を大きく変える。この茶入が、かつて豊臣秀吉や徳川家康が供覧したという歴史を持つことを考えれば、大名家のコレクションに加わることは、ある意味で本来あるべき場所への回帰と見ることもできるかもしれない。
明治維新後、多くの大名家は経済的な苦境に立たされ、伝来の宝物を手放す例が相次いだ。島津家も例外ではなく、昭和3年(1928年)、財政整理のために所蔵する美術品の入札会(オークション)を開催した 3 。
この歴史的な入札会に、一人の男が臨んだ。東武鉄道の創業者であり、近代日本を代表する実業家、そして当代随一のコレクター・茶人として知られた初代・根津嘉一郎(号・青山)である 46 。彼はこの入札会で「松屋肩衝」を見事に落札し、その新たな所有者となった 3 。この出来事は、単なる所有者の交代を意味するものではなかった。それは、旧時代の権威の象徴であった名物が、近代産業社会が生んだ新たな担い手へと継承され、新たな時代における新たな役割を担うことになった転換点であった。
根津嘉一郎の手に渡った「松屋肩衝」は、昭和34年(1959年)12月18日、その歴史的・美術的価値の高さから国の重要文化財に指定された 13 。
そして現在、この名物は根津嘉一郎が自らのコレクションを広く公開するために設立した根津美術館(東京都港区)に所蔵されている 7 。かつては将軍や天下人、大名といった限られた人々しか目にすることができなかった至宝は、今や美術館を訪れる誰もが鑑賞できる「国民の文化遺産」となった。松屋家による「守護」、島津家による「秘蔵」を経て、根津嘉一郎による「公開」という新たな段階へと至ったのである。その物語は、今もなお根津美術館で静かに続き、訪れる人々にその深い歴史を語りかけている。
漢作大名物「松屋肩衝」の徹底的な調査を通じて浮かび上がるのは、単一の美術品の来歴に留まらない、日本の美意識と社会の変遷を映し出す壮大な物語である。中国大陸の窯で生み出された一つの小さな壺は、海を渡り、日本の地で唯一無二の価値を与えられ、歴史の激動を生き抜いてきた。
その価値は、決して単一の要素で成り立つものではない。南宋から元時代の作とされる古格と、背が低くとも風格ある「半肩衝」の絶妙な造形美。足利義政から村田珠光へと続く、わび茶の正統性を証明する伝来の権威。これを代々守り、茶人として、記録者としてその価値を深化させた奈良の商人・松屋家の類稀な文化的功績。梟雄・松永久秀さえ敬意を払ったという、文化の力を示す逸話の数々。そして、利休、織部、遠州といった各時代の茶の湯の巨匠たちが、それぞれの美意識を投影した仕覆の存在。これら全てが分かちがたく結びつき、「松屋肩衝」という重層的な文化遺産を形成しているのである。
この茶入は、まさに歴史の証人であった。足利将軍家が育んだ東山文化の雅、戦国武将が茶の湯に求めた権威と精神性、近世初期に爛熟期を迎えた町衆文化の熱気、泰平の世における大名家の威光の象徴、そして近代資本主義の勃興と共に生まれた新たな文化財保護の理念。この小さな器は、これら全ての時代の空気を吸い込み、その表面の「景色」の如く、深い奥行きを持つ物語をその身に刻み込んできた。
結論として、「松屋肩衝」を調査することは、それを取り巻いた人々の情熱、時代の価値観、そして日本の歴史そのものを深く理解する旅に他ならない。一介の商人が「地下では天下一」と評された至宝を守り抜いたという事実は、日本の歴史において、政治的権力とは別の次元で、文化がいかに強靭な力と権威を持ち得たかを示している。その物語は、根津美術館に静かに佇む今もなお、我々に日本の美と歴史の深淵を静かに語りかけているのである。