「瀟湘夜雨図」は、中国画題にして戦国日本の権力と美の象徴。牧谿と玉澗の画風は文治・武断両派の信条を映し、大内家中の争乱と共に流転。その運命は、乱世の美意識と権力の密接な関係を物語る。
戦国時代の日本において、一幅の絵画が武将の権威を象徴し、時には政争の具となることがあった。その代表格が、中国南宋時代の画僧、牧谿(もっけい)や玉澗(ぎょくかん)によって描かれた「瀟湘八景図(しょうしょうはっけいず)」、とりわけその一景である「瀟湘夜雨図(しょうしょうやうず)」である。この絵画がなぜ、遠く離れた日本の戦国武将たちにとって垂涎の的となったのか。その価値の源泉を解き明かすには、画題そのものが持つ文化的な深層、二人の巨匠の対照的な画風、そして日本における独自の受容形態を理解する必要がある。
「瀟湘八景」とは、中国湖南省に位置する洞庭湖(どうていこ)と、そこに注ぎ込む瀟水(しょうすい)と湘江(しょうこう)が織りなす、風光明媚な水郷地帯の八つの景観を主題とした山水画の伝統的な画題である 1 。その内訳は、「山市晴嵐(さんしせいらん)」、「遠浦帰帆(えんぽきはん)」、「漁村夕照(ぎょそんせきしょう)」、「瀟湘夜雨」、「煙寺晩鐘(えんじばんしょう)」、「洞庭秋月(どうていしゅうげつ)」、「平沙落雁(へいさらくがん)」、そして「江天暮雪(こうてんぼせつ)」の八景から成る 4 。
この画題の創始者は、北宋時代(11世紀)の文人画家・宋迪(そうてき)と伝えられる 3 。しかし、瀟湘の地は単なる景勝地ではなかった。古代神話において、帝王・舜がこの地で没し、その二人の妃(湘君・湘妃)が後を追って湘江の神となったという伝説や、戦国時代の詩人・屈原(くつげん)が失意のうちにこの地を彷徨い、身を投げたという悲劇の舞台でもあった 3 。すなわち「瀟湘八景」は、美しい風景画であると同時に、詩情や故事、歴史的な悲哀といった重層的な文化の記憶を内包した、深い奥行きを持つテーマだったのである。
この画題は中国で流行した後、日本にも伝播した。平安時代の文献にもその名が見え、室町時代には広く受容されるに至る 6 。後に、近江八景や金沢八景といった日本各地の名所八景が選定されるが、これらはすべて瀟湘八景を模範としたものであり、この画題が日本の文化にいかに深く根付いたかを物語っている 3 。
瀟湘八景図の中でも、特に日本の武将たちが渇望したのが、南宋末期(13世紀)に活躍した二人の禅僧画家、牧谿と玉澗の作品であった。両者は同じ禅僧でありながら、その画風は実に対照的であり、日本での受容のされ方も異なっていた。
牧谿(もっけい):幽玄と静謐の美学
牧谿の画風は、墨の濃淡を巧みに操り、湿潤な大気や光の陰影、空間の広がりを表現することに長けていた 7。彼の作品は、極限まで無駄を削ぎ落とした構図の中に、自然の幽玄な気配を漂わせる。例えば、現存する国宝「観音猿鶴図」では、墨のぼかしによって靄(もや)や大気の動きを見事に表現し、静謐でありながら生命感あふれる空間を創出している 8。このような画風は、中国本土では「粗悪で古法なし」と評され、一時の流行に終わった。しかし、禅宗文化が花開いた室町時代の日本では、その精神性の高さが至上のものとされ、「和尚様(おしょうよう)」と尊称されるほど熱烈に受容されたのである 7。その影響は絶大で、後の長谷川等伯による国宝「松林図屏風」も、牧谿の画風を深く学んだ成果の結実と見なされている 11。
玉澗(ぎょくかん):破格と奔放の気風
一方、玉澗もまた禅僧画家であったが、その作風は牧谿とは正反対の性格を持つ。彼は、墨を紙上に注ぎ、あるいは飛ばすかのような「溌墨(はつぼく)」という技法を用い、極度に簡略化された奔放な筆致で対象を描いた 13。その画面は、荒々しい筆の勢いと大胆な墨の対比によって、雄大な気迫に満ちている。この型破りで豪放な画風は、中国では正統な画法から逸脱したものと見なされ、ほとんど評価されなかった 14。しかし、日本ではその気風が武士の好みに合致したのか、室町時代には「草体山水」の規範として高く評価され、一時は牧谿以上に好まれたとも言われる 14。雪舟や海北友松といった名だたる武家好みの絵師たちに多大な影響を与えた事実が、その人気の高さを物語っている 17。
牧谿や玉澗の作品が日本でこれほどまでに珍重された背景には、室町幕府将軍家の存在が大きく関わっている。3代将軍・足利義満や8代将軍・義政らによって収集された中国渡来の美術工芸品、すなわち「唐物(からもの)」は、「東山御物(ひがしやまごもつ)」と総称され、当時の日本の美術鑑賞における絶対的な基準となった 19 。この収集活動の背景には、自らも書画に長けた北宋の芸術皇帝・徽宗(きそう)への憧れがあったとされる 23 。
ここで極めて重要なのは、日本における唐物の受容が、単なる輸入や模倣に留まらなかった点である。将軍側近の同朋衆(どうぼうしゅう)と呼ばれる鑑定家兼プロデューサーたちが、これらの唐物を日本の生活文化に合わせて積極的に「編集」し、新たな価値を付与したのである。その最も象徴的な例が、絵巻の掛幅への改装であった。中国では長大な絵巻として鑑賞されていた「瀟湘八景図」は、足利義満の命により、八景それぞれが一幅の掛軸として独立するように切断・改装された 11 。
この「価値の再創造」とも言うべき行為の背景には、書院造の確立と茶の湯文化の隆盛があった。床の間という限られた空間で、亭主の美意識を凝縮して表現する茶会の場においては、長大な絵巻よりも、一幅で完結する掛物が遥かに効果的であった。こうして、牧谿や玉澗の「瀟湘八景図」の断簡は、東山御物という最高の権威をまとった上で、茶の湯の道具「名物(めいぶつ)」として、個別に鑑賞される新たな文化的価値を獲得したのである 14 。
戦国武将たちが求めた「瀟湘夜雨図」とは、もはやオリジナルの中国絵画そのものではない。それは、室町将軍家によって権威づけられ、日本の生活文化に合わせて再創造された、日本独自の価値を持つ文化的資産であった。その所有は、単に美術品を鑑賞するという行為を超え、中央の洗練された文化と、それを理解し得るだけの教養、そして入手可能な経済力を天下に示す、極めて政治的な意味合いを帯びていたのである。
「瀟湘夜雨図」を巡る物語の主舞台は、戦国時代の西国、周防国(現在の山口県)である。この地を本拠とした守護大名・大内氏は、なぜ足利将軍家に匹敵するほどの文化資本を蓄積し、瀟湘八景図のような至高の美術品を所有し得たのか。その背景には、日明貿易による莫大な富と、それによって育まれた国際性豊かな「大内文化」の存在があった。
大内氏の繁栄の礎は、経済力にあった。室町幕府の管轄下で行われた日明貿易(勘合貿易)において、大内氏は博多商人と結びつき、細川氏との抗争に勝利してその主導権を掌握した 30 。日本からは刀剣、銅、硫黄、扇などが輸出され、明からは永楽通宝などの銅銭、生糸、織物、書物、そして陶磁器や絵画といった美術品が輸入された 30 。これらの輸入品は「唐物」として国内で極めて高く珍重され、大内氏に莫大な富をもたらしたのである 32 。
この経済力を背景に、大内氏の本拠地・山口は、未曾有の発展を遂げる。24代当主・大内弘世は、京都の都市計画を模倣し、街路を碁盤の目状に整備した 33 。その繁栄ぶりは、戦乱で荒廃した京から逃れてきた公家や文化人たちを驚かせ、「西の京」と称されるほどであった 34 。山口には、京都の北山文化や東山文化といった中央の洗練された文化と、貿易によってもたらされる明や朝鮮の大陸文化が流れ込み、それらが融合する一大文化都市が形成された 35 。
大内文化がその爛熟の極みに達したのは、31代当主・大内義隆(1507-1551)の治世下においてであった。義隆は当初、武勇に優れた武将として名を馳せたが、天文11年(1542年)の出雲遠征(第一次月山富田城の戦い)で手痛い敗北を喫して以降、軍事への関心を失い、文化活動に深く傾倒していく 38 。
義隆の治世下で、山口はまさに文化の黄金期を迎える。その象徴的な存在が、水墨画家の雪舟である。雪舟は大内氏の庇護を受け、その遣明船に乗って中国大陸へ渡り、本場の画法を学んだ。帰国後も山口を拠点に活動し、数々の傑作を生み出した 33 。また、義隆は国際的な視野も持ち合わせており、天文20年(1551年)にはイエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルの謁見を受け、山口でのキリスト教布教を許可した 34 。ザビエルが献上した望遠鏡や置時計、眼鏡といった西洋の珍品に義隆は強い関心を示し、日本で初めてクリスマスが祝われたのも、この時の山口であったと伝えられている 41 。
義隆自身も、京都から訪れる三条西実隆といった一流の公家たちと交流を深め、和歌や連歌に親しむ当代随一の文化人であった 41 。彼が蒐集した唐物の美術工芸品は、質・量ともに足利将軍家の東山御物に比肩するものであったと想像される。茶の湯の伝書によれば、義隆は「上杉瓢箪」と呼ばれる天下第一の茶入や、天下三名碗の一つ「松本茶碗」などを所持していたと記録されている 45 。さらに、大内塗や大内人形といった、山口独自の優美な工芸品も、この時代に大きく発展した 32 。
しかし、この文化への過度な傾倒は、大内家にとって諸刃の剣であった。義隆が文化に注ぎ込む資金は、領民への重税となって跳ね返り、また、文治を重んじる彼の姿勢は、武功こそを本分とする譜代の家臣団との間に、修復不可能なほどの深刻な亀裂を生じさせていた 34 。文化への投資は、他の守護大名に対する圧倒的な優位性を示すことで、義隆の権威を高めるための政治的戦略であった側面も否定できない。だが、その輝かしい文化の栄華の陰で、彼の統治基盤は静かに、しかし確実に蝕まれていたのである。富と文化が集積した西国の王都・山口は、栄華の象徴であると同時に、破滅の火種を抱えた火薬庫でもあったのだ。
大内義隆の下で爛熟した文化は、やがて家中に深刻な対立の影を落とす。軍事よりも文治を、武功よりも教養を重んじる主君の姿勢は、家臣団を二つの派閥に引き裂いた。そして、そのイデオロギー対立は、奇しくも彼らが所有する「瀟湘八景図」の画家の選択にまで、象徴的に映し出されることとなる。一枚の絵画は、もはや単なる美術品ではなく、それぞれの派閥が掲げる政治的信条を表明する、沈黙のマニフェストと化していた。
大内家中の対立軸は、義隆の寵臣・相良武任(さがらたけとう)を筆頭とする「文治派」と、譜代の重臣・陶晴賢(すえはるかた)が率いる「武断派」の間に形成された。
相良武任と文治派
相良武任は、肥後国の名門・相良氏の一門に生まれ、大内義隆に仕えた人物である 48。彼は右筆(書記官)や奉行人としてその卓越した行政手腕を発揮し、国人勢力の統制や守護代権力の抑制といった、大名権力の強化を目指す義隆の政策を実務面から支えた 48。その能力は義隆の絶対的な信任を得て、やがて評定衆(最高政策決定会議のメンバー)にまで上り詰める。彼を中心とする側近グループは、義隆の文治政治を体現する「文治派」として、大内家中枢で大きな影響力を持つに至った。
陶晴賢と武断派
一方の陶晴賢(初名は隆房)は、大内氏の庶家であり、代々周防国の守護代を務める筆頭重臣の家柄であった 50。若き頃は、その美しい容姿から義隆の寵愛を受け、尼子氏との戦い(第一次吉田郡山城の戦い)では総大将として軍功を挙げるなど、武勇に優れた武将として知られていた 39。しかし、義隆が出雲遠征に失敗して以降、軍事から遠ざかり、相良武任ら文治派を重用するようになると、武功こそが武士の本分と信じる陶晴賢ら「武断派」の不満は増大していく。両派の対立は抜き差しならないものとなり、晴賢は一度、武任を失脚させるも、武任が復帰すると再び立場を失い、ついには武任の暗殺を計画するまでに至る 39。この計画が事前に露見したことで、晴賢と義隆の関係は決定的に破綻した。
この深刻な政治対立は、両派の筆頭が所有したとされる「瀟湘夜雨図」の作者の画風に、驚くほど明確に反映されている。
相良武任と牧谿筆「瀟湘夜雨図」
文治派の旗手であった相良武任は、政治家であると同時に、茶の湯に深く通じた一流の文化人でもあった 53。茶の湯の伝書である『山上宗二記』や軍記物語の『大内物語』には、彼が「天下にかくれなき」名物として知られた「松本茶碗」をはじめ、京や堺にまで赴いて最高の茶道具を蒐集していたことが記されている 45。
彼が所有したと伝えられるのが、牧谿筆の「瀟湘夜雨図」である。前述の通り、牧谿の画風は、静謐、幽玄、そして禅的な精神性を特徴とし、室町将軍家が理想とした東山御物の美意識の頂点に立つものであった 7 。相良武任がこの牧谿の作品を所有したことは、単なる美術趣味ではない。それは、自らが主君・義隆と共に推進する文治政治が、足利将軍家が築き上げた中央の正統な文化と地続きであることを示す、強力な象徴的行為であった。牧谿を所有することは、自らの文化的正統性と政治的権威を、反論の余地なく誇示することに他ならなかったのである。
陶晴賢・青景隆著と玉澗筆「瀟湘夜雨図」
一方、武断派の領袖であった陶晴賢は、その生涯を戦場で過ごした典型的な武人である 50。彼に与した青景隆著(あおかげたかあきら)もまた、大内氏の譜代家臣であり、陶晴賢と共に義隆への謀反に加担した武断派の重要人物であった 55。
彼らが一時所有したと伝えられるのが、玉澗筆の「瀟湘夜雨図」である。玉澗の画風は、溌墨技法による奔放さ、力強さ、そして既存の形式に捉われない破格の気風を特徴とする 14 。この画風は、中国本国では「型破り」とされたが、日本ではその豪放さが武士の気質に合致し、高く評価された。
陶晴賢らが玉澗の絵を所有したことは、相良武任の牧谿とは対照的な意味合いを持つ。彼らは、義隆や武任が進める、公家風の洗練された「軟弱な」文化政策への反発として、玉澗の作品が持つ力強く、常識を打ち破るかのような気風に、自らの武断派としてのアイデンティティを投影したのではないか。それは、中央の権威や形式よりも、実質的な力や武人の気概をこそ重んじるという、武断派のイデオロギーを代弁するものであった。
このように、大内家中で所有された二つの「瀟湘夜雨図」は、単なる美術品ではなく、深刻な政治対立を映し出す鏡となっていた。牧谿の幽玄な美は文治派の理念を、玉澗の豪放な気風は武断派の反骨精神を、それぞれ代弁していたのである。一幅の絵画の選択は、まさに政治的なマニフェストであったのだ。
以下の表は、本報告書の中核をなす「美意識と政治思想の相関」という洞察を、人物対比によって明確に提示するものである。
表1:大内義隆を巡る主要人物と文化・政治的位置づけ
人物名 |
派閥 |
役職・立場 |
所有したとされる美術品/文化的逸話 |
政治的行動・結末 |
大内義隆 |
(中立→文治派寄り) |
大内家31代当主、周防・長門等六ヶ国守護 |
雪舟を庇護、ザビエルに布教許可、公家文化に傾倒、多数の唐物を蒐集 33 |
文化政策が武断派の反発を招き、大寧寺の変で自害 34 |
相良武任 |
文治派 (筆頭) |
評定衆、右筆・奉行人 |
牧谿筆「瀟湘夜雨図」 、名物茶器「松本茶碗」などを蒐集、茶の湯に通じる 45 |
義隆の信任を得て権勢を振るうが、武断派と対立。大寧寺の変で殺害される 48 |
陶晴賢 |
武断派 (筆頭) |
周防守護代、大内家重臣 |
玉澗筆「瀟湘夜雨図」 |
義隆の文治政策に反発し、クーデター(大寧寺の変)を主導。厳島の戦いで毛利元就に敗れ自害 39 |
青景隆著 |
武断派 |
大内家臣、美禰郡青景城主 |
玉澗筆「瀟湘夜雨図」 |
陶晴賢に与して大寧寺の変に参加。陶氏滅亡後は毛利氏に降るも、後に吉見氏に仕える 55 |
天文20年(1551年)、大内家中で燻り続けていた文治派と武断派の対立は、ついに破局を迎える。陶晴賢によるクーデター「大寧寺の変」は、西国の王・大内義隆とその栄華を象徴した大内文化に終焉をもたらした。この動乱は、瀟湘八景図をはじめとする数多の名物の運命をも大きく変えることになる。美術品の流転は、そのまま戦国時代の権力の流転を映し出す鏡であった。
天文20年8月、陶晴賢はついに挙兵し、山口に攻め込んだ 39 。不意を突かれた大内義隆は山口を脱出し、長門国(現在の山口県長門市)の大寧寺へと逃れるが、追撃は厳しく、9月1日、ついに自害して果てた 34 。この時、義隆の嫡男・義尊も殺害され、文治派の筆頭であった相良武任もまた、晴賢の命を受けた兵によって命を奪われた 48 。
この「大寧寺の変」と呼ばれる一連の動乱の中で、大内氏が長年にわたり蓄積してきた輝かしい文化遺産の多くが失われた。その悲劇を克明に伝えるのが、千利休の高弟・山上宗二(やまのうえそうじ)が書き残した茶の湯の秘伝書『山上宗二記』である。この書の名物目録の「御絵の次第」の項には、当時、垂涎の的であった玉澗筆の瀟湘八景図(八幅の掛物)について、次のような衝撃的な記述が残されている。
「玉澗八幅墨絵なり。紙に書き候。…(中略)…一、江天暮雪 是は大内殿御代、周防の山口にてうせ候。…」 45
これは、玉澗が描いた瀟湘八景図のうち、「江天暮雪図」が、大内氏の代に、その本拠地である周防国山口で失われたことを明確に記した一級の史料である。この「失われた」時期が、まさに大寧寺の変の混乱期であったことは想像に難くない。皮肉なことに、武断派の陶晴賢や青景隆著が所有していたとされる玉澗の瀟湘八景図の一部は、彼ら自身が引き起こしたクーデターによって、灰燼に帰した可能性が極めて高いのである。戦乱がいかに文化遺産に対して破壊的であるかを、この一節は雄弁に物語っている。
大内家の滅亡は、その文化遺産が新たな権力者たちの手に渡る「戦利品」と化す過程の始まりでもあった。
主君を討った陶晴賢も、その天下は長くは続かなかった。彼は大友宗麟の弟・晴英を大内氏の新しい当主(大内義長)として擁立し、実権を握るが 50 、やがて安芸国の毛利元就と対立。天文24年(1555年)、厳島の戦いで元就の奇襲を受けて大敗し、自害に追い込まれた 50 。その後、毛利氏は大内氏の旧領である周防・長門を併合し(防長経略)、その地に残された文化遺産を接収した 59 。大内氏伝来の甲冑や「荒波一文字」などの名刀、そして数々の美術工芸品が、戦利品として毛利家の所有となったことは間違いない 32 。
一方で、一部の名物は大友氏にも渡った。陶晴賢が大内義長を当主として迎えた関係から、あるいはその後の外交の過程で、大内家が所持していた名物が大友家に伝来したと考えられる。大友家旧蔵とされる茶道具「上杉瓢箪」(元は大友瓢箪と呼ばれた)の来歴がそれを裏付けている 63 。また、出光美術館が所蔵する玉澗筆「山市晴嵐図」も、一説には大友義鎮(宗麟)のもとにあったとされている 64 。
さらに時代が下り、天下統一の動きが本格化すると、これらの名物は、新たな覇者による「名物狩り」の対象となる。織田信長や豊臣秀吉は、自らの絶対的な権威を天下に示すため、旧守護大名家が秘蔵していた茶道具や絵画を、権力を用いて積極的に蒐集した 65 。牧谿筆の瀟湘八景図の断簡も、この時代の権力者の手を渡り歩いていく。例えば、京都国立博物館所蔵の「遠浦帰帆図」は、足利義満から織田信長、荒木村重、そして徳川家光、松平不昧へと、錚々たる権力者や文化人の手を経て伝来している 25 。
美術品の流転は、権力の流転そのものであった。大内氏の権威の象徴であった「モノ」が、次の覇者である毛利、大友、そして織田、豊臣、徳川の手に渡る。それは、単なる美術品の移動ではない。旧権力の威光が、勝利者によって剥奪され、新たな支配体制を正当化するための「権威の装置」として再利用されるという、儀式的な意味合いを帯びていた。「瀟湘夜雨図」をはじめとする大内家旧蔵の名物が辿った旅路は、そのまま戦国時代の権力地図の変遷を、モノの側から克明に物語っているのである。
以下の表は、伝牧谿・伝玉澗筆「瀟湘八景図」の主要な断簡が、大内氏滅亡後の戦国の動乱期を経て、どのように流転していったかをまとめたものである。
表2:伝牧谿・伝玉澗筆「瀟湘八景図」の主要な断簡と戦国期以降の伝来
八景の名称 |
伝承筆者 |
足利将軍家後の主要伝来(戦国〜江戸初期) |
現在の所蔵先(判明分) |
備考 |
瀟湘夜雨図 |
伝 牧谿 |
(大内家・相良武任?)→ 徳川家康 → 紀州徳川家 → 松平不昧など |
個人蔵(所在確認) |
足利義満の鑑蔵印「道有」がある大軸の一つ 5 。 |
漁村夕照図 |
伝 牧谿 |
(大内家?)→ 徳川家康 → 尾張徳川家など |
根津美術館(国宝) |
「道有」印あり 26 。 |
遠浦帰帆図 |
伝 牧谿 |
(大内家?)→ 織田信長 → 荒木村重 → 徳川家光 → 松平不昧など |
京都国立博物館(重文) |
「道有」印あり 25 。 |
平沙落雁図 |
伝 牧谿 |
(大内家?)→ 徳川家康 → 雲州松平家など |
出光美術館(重文) |
「道有」印あり 11 。 |
洞庭秋月図 |
伝 牧谿 |
(大内家?)→ 土井利勝 → 徳川家綱 → 尾張徳川家 |
徳川美術館(重文) |
「道有」印のない小軸 27 。 |
煙寺晩鐘図 |
伝 牧谿 |
(大内家?)→ 徳川家康 → 前田利常など |
畠山記念館(国宝) |
「道有」印あり 11 。 |
江天暮雪図 |
伝 牧谿 |
(大内家?)→ 佐竹義宣など |
個人蔵(所在確認) |
「道有」印あり 11 。 |
山市晴嵐図 |
伝 牧谿 |
(大内家?)→ 所在不明 |
模本のみ現存 |
「道有」印あり 11 。 |
瀟湘夜雨図 |
伝 玉澗 |
大内家(陶晴賢・青景隆著?)→ 所在不明 |
不明 |
|
山市晴嵐図 |
伝 玉澗 |
大内家? → 大友義鎮? → 黒田家など |
出光美術館(重文) |
14 。 |
遠浦帰帆図 |
伝 玉澗 |
大内家? → 徳川家康 → 尾張徳川家 |
徳川美術館(重文) |
69 。 |
洞庭秋月図 |
伝 玉澗 |
大内家? → 豊臣秀吉 → 徳川家康 → 尾張徳川家 |
個人蔵(所在確認) |
|
江天暮雪図 |
伝 玉澗 |
大内家? → 大寧寺の変で焼失か |
焼失 |
『山上宗二記』に「周防の山口にてうせ候」と記載 45 。 |
中国湖南省の詩情豊かな風景を描いた画題として生まれ、海を渡り、室町将軍家によって日本の美の絶対的な基準とされた「瀟湘八景図」。その一幅である「瀟湘夜雨図」が辿った数奇な運命は、戦国時代という激動の時代における、美と権力の密接な関係を鮮やかに映し出している。
本報告書で詳述したように、この絵画は西国の雄・大内氏の栄華と、その内部に渦巻く深刻な政治対立の象徴となった。義隆の文治政治を支える相良武任が、中央の権威と洗練の極みである牧谿の絵を所有したこと。それに対し、武功を重んじる陶晴賢ら武断派が、型破りで力強い気風を持つ玉澗の絵を好んだこと。この対比は、彼らにとって美術品の所有が、単なる趣味や慰撫の対象ではなく、自らの政治的信条を表明し、アイデンティティを確立するための極めて戦略的な行為であったことを示唆している。絵画の選択は、沈黙のうちに交わされる、イデオロギーの応酬であった。
そして、大寧寺の変という悲劇的な結末は、この文化遺産の運命を大きく変えた。大内氏の滅亡と共に、その至宝は戦利品として新たな覇者たちの手に渡り、その権威を飾るための装置として再利用されていく。大内氏の滅亡から毛利氏、大友氏へ、そして織田信長、豊臣秀吉、徳川家康へと至る名物の流転は、戦国時代の権力構造の変遷そのものを物語る。美術品は、領地や城と同じく、勝利者によって収奪され、新たな支配体制を正当化するための文化的資本として機能したのである。
戦国武将にとって、一幅の絵画や一つの茶碗は、計り知れない価値を持つ戦略的資産(アセット)であった。それは、日明貿易を掌握するほどの経済力、足利将軍家にも比肩する文化的教養、そして天下を治めるに足る器量を、言葉以上に雄弁に示すための道具であった。彼らは、瀟湘の地に降る夜の雨の情景に、自らの内面にある禅的な静寂や、あるいは乱世を生き抜く気概といった、理想の自己像を投影したのかもしれない 70 。
最終的に、大内氏の栄華と滅亡、そしてその文化遺産の流転の物語は、旧来の守護大名体制が崩壊し、実力主義の下剋上の世へと移行していく戦国という時代のダイナミズムを、美術品という「モノ」の視点から鮮やかに描き出している。瀟湘の雨は、静かに降り続きながら、日本の歴史が大きく転換する様を、ただ静かに見つめていたのである。