雪舟、七十六歳にして国宝「破墨山水図」を成す。戦国の世、中国画法を昇華し「破墨」を確立。自賛と高僧賛は画業継承を証し、大内氏庇護下の山口文化を映す。時代と精神を凝縮せし傑作なり。
国宝「破墨山水図」は、室町時代の画僧・雪舟等楊(1420-1506?)がその晩年に到達した画境を示す、日本水墨画史上の最高傑作の一つとして広く知られている。しかし、この一幅の絵画を単に老大家の円熟した作品としてのみ捉えることは、その本質を見誤る可能性がある。本作が制作された明応四年(1495年)という年は、応仁の乱(1467-1477)後の混沌が収束するどころか、中央の権威が完全に失墜し、日本全土が本格的な戦国時代へと突入する、まさに歴史の巨大な転換点であった 1 。
本報告書は、「破墨山水図」をこの戦国黎明期という激動の時代精神の中に位置づけ、多角的な視点からその全貌を徹底的に解明することを目的とする。一見静謐な山水の情景には、時代の底流にあった深刻な緊張感と、それに動じない禅の精神、そして中央の衰退と対照的に隆盛を極めた地方文化圏の成熟といった、複雑で多層的な意味が密かに込められている。本報告書では、作品の物理的実相の分析から始め、その革新的な技法、雪舟自身の言葉である自賛の解読、そして作品を生み出した社会的・政治的背景の考察を経て、後世に与えた深遠な影響に至るまでを包括的に論じる。これにより、「破墨山水図」が単なる美術作品に留まらず、一個人の芸術的達成と時代の精神とが見事に交差し、凝縮された、類稀なる歴史的ドキュメントであることを明らかにしていく。
作品の深層的な意味を解き明かす前に、まずそれを客観的な「モノ」として捉え、その物理的特徴と形式を精密に分析することが不可欠である。この章では、「破墨山水図」の基本的な情報、詩画軸としての特異な構造、そして描かれた情景について詳述する。
表1:国宝「破墨山水図」基本情報
項目 |
内容 |
正式名称 |
紙本墨画山水図〈雪舟筆/〉 |
通称 |
破墨山水図(はぼくさんすいず) |
作者 |
雪舟等楊筆 雪舟自序・月翁周鏡ら六僧賛 |
制作年 |
室町時代・明応4年(1495) |
材質・技法 |
紙本墨画 |
法量(寸法) |
縦148.9cm × 横32.7cm |
所蔵 |
東京国立博物館 |
文化財指定 |
国宝(1952年1月22日指定) |
出典: 3
上に示した基本データは、本作の客観的な位置づけを明確にするものである 3 。特に重要なのは、制作年「明応四年」と雪舟自身の署名・序文が明確に記されている点である。これにより、本作は数ある雪舟作と伝わる作品群の中で、彼の真筆であることを疑う余地のない「基準作」として、極めて重要な学術的価値を有している 7 。雪舟が76歳の時の作であり、彼の晩年の画風を研究する上で、この上ない第一級の資料となる 3 。
本作は、下部に絵画を描き、その上部に絵に関連する漢詩や文章を書き添える「詩画軸」という形式をとっている 5 。これは中国から伝わり、日本の禅宗文化圏で特に発展した様式である。しかし、本作の構成は単なる定型に留まらない、極めて意図的な構造を持っている。
画面は大きく三つの階層から成る。最下部には主題である山水画が描かれている。その直上には、作者である雪舟自身による長文の序文(自賛)が配されている。そして、さらにその上には、二段にわたって、当時の京都五山(禅宗寺院の最高格付け)を代表する六名の高僧による賛詩が記されている 4 。
この構成は、単に絵と言葉が一体となった総合芸術であるという以上に、作品の権威性を多重に保証する装置として機能している。まず、絵画そのものが雪舟の芸術的権威を示す。次に、雪舟自身の言葉(自賛)が、その画業の正統性と作品に込めた意図を画家自らが保証する。そして最後に、当時の禅林における最高の知的・宗教的権威であった京都五山の高僧たちが、その作品と作者、さらにはこれを受け取る弟子を公的に「承認」するのである。このように、「破墨山水図」は、絵画的価値、作者自身の権威、そして禅宗コミュニティからの公的な認証という三つの要素が一体となった、極めて強力な「権威のパッケージ」として設計されている。実力が全ての戦国という時代において、文化的な権威をこのように可視化し、固定化する行為自体が、非常に高度な戦略性を含んでいると言えるだろう。
絵画空間に目を移すと、そこには伝統的な山水画のモチーフが、雪舟独自の革新的な筆致で描かれている。近景には、鋭い筆線で骨格が示された岩山がそそり立ち、その麓には墨の濃淡で表現された樹木が見える。画面中央やや下、湖上には一艘の小舟が浮かび、そこには二人の人物が語り合う姿が描かれている。これは俗世を離れた賢者の対話を描く「漁樵問答図」の伝統に連なるものとも解釈できる 10 。
中景には、簡略化された筆致で橋や酒屋らしき建物が暗示され、人々の営みが感じられる。そして遠景には、墨の飛沫や滲みがそのまま大気となり、その中に遠山がおぼろげに浮かび上がる 5 。極端に筆数を減らした「減筆体」と、意図的に残された余白が、画面に無限の奥行きと禅的な静寂、そして鑑賞者の想像力をかき立てる詩的な空間を生み出している 11 。描かれているのは具体的な風景ではなく、雪舟の心象風景であり、禅の精神が投影された理想郷そのものである。
雪舟が76歳という老境に至りながら、いかにしてこれほど革新的で力強い表現を生み出し得たのか。その秘密は、彼が駆使した特異な水墨技法にある。本章では、自賛に記された「破墨」という言葉を手がかりに、その技法的内容と、雪舟の画業における位置づけを深く掘り下げる。
雪舟は本作の自賛の中で、弟子に「破墨の法」を示したと記している 12 。この一文により、本作は古来「破墨山水図」の名で親しまれてきた。しかし、美術史研究の進展に伴い、本作で実際に用いられている技法は、厳密には「潑墨(はつぼく)」に近いのではないかという指摘がなされている 10 。
本来、「破墨」とは、先に塗った淡い墨(淡墨)が乾かないうちに、その上から濃い墨(濃墨)を重ね、滲みや濃淡の変化によって立体感や質感を表現する技法を指す。「墨を以て墨を破る」という言葉にその本質が示されている 10 。
一方、「潑墨」は、より大胆で動的な技法である。輪郭線を用いず、紙の上に墨を潑(そそ)ぎ、あるいは叩きつけるように置き、その偶然的な滲みや形を活かしながら、手早く筆を加えて対象のイメージを完成させる。中国・南宋末の画僧、玉澗(ぎょっかん)が得意としたことで知られ、その作風は極めて粗放で抽象的である 10 。
本作に見られる、輪郭線に頼らず、墨の面的な広がりと飛沫によって一気呵成に対象を描き出すスタイルは、明らかに「潑墨」の系譜に連なるものである 12 。ではなぜ雪舟は、自ら「破墨」と記したのか。この用語の選択には、単なる混同や誤用を超えた、雪舟の深い制作意図が隠されている。
雪舟が中国(明)に渡った際、玉澗の画風に深く傾倒し、その技法を学んだことは確実視されている。彼は玉澗の様式にならった作品を複数制作しており、本作もその影響を色濃く反映している 10 。しかし、雪舟の作品は玉澗の単なる模倣ではない。玉澗の画が奔放で、時に形態が溶解してしまうほどの自由さを見せるのに対し、雪舟の「破墨山水図」は、大胆な筆致と抽象的な墨面を用いながらも、画面全体には揺るぎない安定感と構築性が貫かれている 12 。
近景の岩山は、鋭く力強い筆線によってその骨格が明確に示され、遠景の山々は、墨の濃淡によって遠近感が巧みに表現されている。抽象と具象、動と静、破壊と構築といった相反する要素が、一つの画面の中で奇跡的なバランスを保っているのである。これは、雪舟が中国で学んだ先進的な技法を、日本で培った自身の強固な画面構成力と融合させ、全く新しい次元の表現へと昇華させたことを物語っている。
この観点から雪舟が自らの技法を「破墨」と称した理由を考察すると、一つの仮説が浮かび上がる。彼は、中国由来の「潑墨」という奔放な技法を、自らの秩序ある画面構成力によって乗りこなし、制御した。その上で、この技法に「破墨」という新たな名前を与えたのではないか。それは、中国画法の正統な継承者であると自認しつつも、その技法を日本において自らが完成させ、新たな基準を打ち立てるという、強い自負の表れであった。この命名行為は、単なる技術論を超え、日本水墨画の「文化的独立宣言」とも言うべき、深い意味を帯びていたのである。
雪舟の長い画業の中で、本作はどのような位置を占めるのだろうか。彼の代表作としてしばしば比較されるのが、60代後半に制作された記念碑的大作「四季山水図巻(山水長巻)」(毛利博物館蔵)である 16 。全長16メートルに及ぶこの長大な画巻は、緻密で堅固な筆線によって四季の壮大な風景が描き込まれており、雪舟の構成力と描写技術の頂点を示す作品である。
もし「山水長巻」が、一画一画を丁寧かつ正確に描いた書道の「楷書」に相当するとすれば、76歳の「破墨山水図」は、内面的な精神性を一気呵成に表現した「草書」に例えることができる 17 。本作では、細部の描写は大胆に省略され、墨の面的な表情そのものが主題となっている。これは、単に老いによって筆致が粗くなったというような単純な変化ではない。むしろ、あらゆる技術を究め尽くした巨匠が、その円熟の先に到達した、意図的な表現の深化と見るべきである。形態の束縛から解放され、筆と墨と精神が一体となった境地。それこそが、雪舟が晩年に目指した芸術の極致であり、「破墨山水図」はその輝かしい達成を雄弁に物語っている。
「破墨山水図」が持つ価値を決定づけているのが、画面上部に記された雪舟自身の長文の序文、すなわち「自賛」である。これは単なる作品解説に留まらず、雪舟の半生を綴った自叙伝であり、自身の画業に対する揺るぎない自負と、弟子へ託す未来への展望が刻まれた、極めて重要なテクストである。
(※以下は、自賛の要約である。)
雪舟の自賛は、明応四年(1495年)の春、周防国(現在の山口県)において、長年画の道を学んできた弟子、如水宗淵(じょすいそうえん)が故郷の相模国(現在の神奈川県)へ帰るにあたり、餞別としてこの絵を求められた、という経緯から始まる 3 。
続いて雪舟は、自らの画業のルーツを語る。かつて自分は遥々中国(明)へ渡り、都(北京)で李在(りざい)や長有声(ちょうゆうせい)といった当代一流の画家に画法を学んだこと。しかし、彼らから学ぶべきことは学び尽くし、真の師は中国の大自然そのものであったと述懐する。そして、日本に帰国してみると、日本の画壇には師とすべき人物はおらず、改めて自身の師である如拙(じょせつ)や周文(しゅうぶん)の偉大さを再認識したと記す 3 。
この一連の記述は、弟子・宗淵のために、自らが受け継いできた画の学統、すなわち「画学の系譜」を明確に示すものである 12 。それは「如拙・周文 ― 雪舟 ― 宗淵」という日本における正統な流れと、「李在・長有声」という中国画壇の権威をも取り込んだ、壮大な系譜であった。宗淵にこの絵と自賛を与えることは、彼がこの輝かしい系譜の正統な後継者であることを証明する「印可の証」、すなわち免許皆伝の証書を授与することを意味した 5 。
如水宗淵は、臨済宗の僧侶であり、故郷の鎌倉円覚寺に戻るために雪舟のもとを辞去した 19 。彼がこの「破墨山水図」を携えて帰ることは、単に師との思い出の品を持ち帰る以上の意味を持っていた。それは、当時最高の文化的権威であった「雪舟」ブランドを背負い、関東の地で新たな活動を展開するための、この上ない後ろ盾となったはずである。
この師弟関係は、戦国時代の武家社会における主君と家臣、あるいは家督相続の構造と驚くほど似ている。雪舟は、自らが一代で築き上げた文化的権威という「領地」を、信頼する弟子に「相続」させようとした。自賛の中で自らの輝かしいキャリアと正統な系譜を語る行為は、自らのブランド価値を最大限に高め、定義する戦略的な文書作成に他ならない。そして、その価値あるブランドを特定の弟子に継承させることを公に宣言する。これは、芸術の世界における「家督相続」であり、文化的な権威を次代に断絶させることなく継承させようとする、雪舟の老練な戦略家としての一面を浮き彫りにしている。
宗淵は、師からこの上ない餞別を受け取った後、さらに周到な行動に出る。彼は帰郷の途中で京都に立ち寄り、当時の禅林を代表する六名の高僧に賛詩を依頼したのである 18 。
表2:「破墨山水図」の賛者一覧
賛者 |
当時の立場・概要 |
雪舟等楊 |
作者本人。自らの画業の系譜と弟子への餞別の辞を記す。 |
月翁周鏡 |
禅僧。五山文学を代表する詩僧の一人。 |
蘭坡景茝 |
禅僧。五山文学の重鎮。 |
天隠龍沢 |
禅僧。五山文学を代表する詩僧。 |
正宗龍統 |
禅僧。五山文学僧。 |
了庵桂悟 |
禅僧。五山文学僧。雪舟の死を悼む詩も遺している 9 。 |
景徐周麟 |
禅僧。五山文学僧。 |
出典: 3
この六人の高僧たちは、単なる知識人ではなく、当時の日本における最高の知的権威であり、文化的な価値を決定づける存在であった。彼らがこぞって賛を寄せたという事実は、雪舟から宗淵へと与えられた私的な「印可」を、禅宗界全体の公的な「承認」へと昇格させる決定的な意味を持った 9 。これにより、「破墨山水図」という作品、そしてそれを所有する如水宗淵の価値は、社会的に不動のものとなったのである。この一連のプロセスは、一個の芸術作品が、いかにして社会的な権威を獲得していくかを示す、見事な実例と言えるだろう。
「破墨山水図」という芸術的達成が、いかなる社会的・経済的土壌の上で可能となったのか。この問いに答えるためには、作品が描かれた1495年という時点の歴史的文脈、とりわけ雪舟の活動拠点であった周防国と、その支配者であった大内氏の存在を深く理解する必要がある。
1495年という年は、日本の歴史における大きな分水嶺であった。京都を中心とする室町幕府の権威は、応仁の乱によって決定的に失墜した。さらにその直前の1493年には、管領・細川政元がクーデターを起こし、将軍・足利義材を追放するという「明応の政変」が発生。これにより、幕府の中央統制力は事実上消滅し、日本は力ある者が自らの領国を支配し、覇を競い合う本格的な戦国時代へと突入した 2 。奇しくも「破墨山水図」が描かれたこの年、伊豆では北条早雲が小田原城を奪取し、関東における下剋上の嚆矢となっている 1 。中央の秩序が崩壊し、各地で戦乱の火の手が上がる、まさに混沌の時代の幕開けであった。
表3:1495年前後の歴史年表
年 |
中央(幕府・朝廷)の動向 |
関東の動向 |
西国(大内氏)の動向 |
雪舟の動向 |
1467 |
応仁の乱 勃発 |
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大内政弘、西軍の主力として上洛 |
大内氏の遣明船で入明 |
1469 |
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明より帰国 |
1477 |
応仁の乱 終結 |
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大内政弘、周防に帰国 |
豊後、石見などを歴遊 |
1486 |
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「山水長巻」を制作 |
1493 |
明応の政変 (将軍追放) |
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周防・雲谷庵を拠点に活動 |
1495 |
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北条早雲、小田原城入城 |
大内政弘 没、義興が家督継承 |
「破墨山水図」を制作(76歳) |
1506 |
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大内義興、勢力を拡大 |
逝去(87歳?) |
出典: 1
このような中央の混乱とは対照的に、雪舟が晩年の拠点とした周防国(山口県)は、守護大名・大内氏の統治下で驚くべき安定と繁栄を享受していた。大内氏は、朝鮮半島や中国大陸に近いという地理的利点を活かし、日明貿易(勘合貿易)を独占的に掌握。大陸から輸入される生糸や陶磁器、典籍、そして輸出される銅や硫黄、刀剣といった品々から莫大な富を蓄積し、西国随一の勢力を誇る戦国大名へと成長した 26 。
雪舟自身の画業も、この大内氏の国際的なネットワークと経済力なくしては考えられない。彼が48歳の時に中国へ渡ることができたのも、大内氏が派遣した遣明船団の一員としてであった 22 。大内氏は単なる芸術の後援者(パトロン)であるだけでなく、雪舟の芸術を国際的なレベルにまで引き上げるための、いわば社会的なインフラそのものであったと言える。
大内氏の富と権力は、山口の地に高度な文化を花開かせた。応仁の乱で焦土と化した京都から、戦乱を逃れた多くの公家や僧侶、文化人たちが大内氏を頼って山口へ下向した。29代当主の大内政弘は、自らも優れた歌人であり、彼ら文化人を厚く庇護し、山口には壮麗な館や寺社が次々と建立された 22 。その結果、山口は「西の京」と謳われるほどの文化都市へと発展し、京都の伝統的な公家文化(北山・東山文化)と、日明貿易がもたらす最新の大陸文化とが融合した、独自の「大内文化」が形成されたのである 22 。
「破墨山水図」は、このような時代の大きな地殻変動を象徴する作品である。すなわち、中央(京都)の文化的衰退と、地方(山口)の文化的隆盛というダイナミズムの中で生み出されたのだ。戦乱のない安定した環境、国際貿易がもたらす知的刺激、そして文化を理解する優れたパトロンの存在。これら全ての条件が揃ったからこそ、雪舟は老いてなお、新たな芸術的探求に没頭することができたのである。
本作に描かれた、賢人が静かに対話する穏やかで秩序ある山水の世界は、戦国の動乱からの単なる逃避として描かれたものではない。むしろ、それは動乱の時代だからこそ、人々が希求してやまない「秩序と安定の理想郷」の姿であった。そして、その理想郷を現実世界で実現し得ていたのが、まさにパトロンである大内氏の領国・周防であった。
この観点に立つと、「破墨山水図」は極めて高度な政治的寓意を帯びてくる。この静謐な絵画は、大内氏がもたらした平和と繁栄を視覚的に表現し、その優れた統治能力を賛美する、文化的な装置として機能した可能性がある。芸術が為政者の権力を正当化し、その栄光を装飾する役割を担うという現象は、同時代のルネサンス期ヨーロッパの宮廷でも見られたが、雪舟の作品もまた、そうした政治的文脈の中で読み解くことができるのである。奇しくも、長年雪舟を支えた大内政弘が本作制作の年に世を去り、子の義興が家督を継いだ 23 。一つの時代の終わりと新しい時代の始まりが重なるこの年に、雪舟が自らの画業の集大成と後継者への継承をテーマにした作品を描いたことは、決して偶然ではなかったのかもしれない。
「破墨山水図」は、雪舟個人の画業の頂点を示すだけでなく、その後の日本の絵画史に計り知れない影響を与えた。本章では、本作に凝縮された雪舟の芸術と精神が後世にどのように受け継がれていったか、そして作品自体がたどった流転の歴史を追跡する。
雪舟が確立した画風は、彼の死後、様々な形で後継者たちに受け継がれていった。直接的な後継者として挙げられるのが、安土桃山時代に大内氏の後継者である毛利氏に仕えた雲谷等顔(うんこくとうがん)を祖とする雲谷派である 30 。彼らは雪舟の旧跡である雲谷庵を継承し、「雪舟正系」を自称した 30 。雲谷派の画家たちは、雪舟の「山水長巻」などを手本としながら、特に「破墨山水図」に代表される、墨面を主体とした「草体」の山水画をよく描き、雪舟様式を一つの流派として定着させた 17 。
一方、雪舟の精神をより深く継承し、独自の芸術へと昇華させたのが、桃山時代を代表する巨匠・長谷川等伯である。当時、画壇の覇権を握っていた狩野派に対抗するため、等伯は自らを「雪舟五代」と称し、狩野派とは異なる美の源流として雪舟を強く意識した 32 。彼は雪舟、とりわけ中国南宋の画僧・牧谿(もっけい)の影響を受けた作品群から、空間の捉え方や湿潤な大気の表現を学び、それを日本の自然観と融合させることで、幽玄な水墨画の世界を切り開いた 34 。雪舟が示した革新的な水墨表現は、後の画家たちにとって乗り越えるべき巨大な目標であり、創造の源泉となったのである。
江戸時代に入ると、雪舟の評価はさらに高まり、一種の神格化が進む。その大きな要因となったのが、江戸幕府の御用絵師として画壇に君臨した狩野派の存在であった。狩野探幽をはじめとする狩野派の絵師たちは、自らの流派の権威を高めるため、その源流に雪舟を位置づけ、始祖として崇めた 8 。画壇の支配者が雪舟を師と仰いだことで、雪舟の作品は諸大名がこぞって求める垂涎の的となり、その名は「画聖」として不動のものとなった。
このような雪舟の神格化において、「破墨山水図」のような自賛を持つ真筆の基準作が果たした役割は計り知れない。自らの言葉で画業の系譜と芸術的信念を語ったこの作品は、雪舟という画家の偉大さを証明する何よりの証拠となり、後世に形成された「画聖雪舟」というイメージを強力に補強したのである。
本作は、弟子・如水宗淵に与えられた後、どのような経緯をたどったのか。その後の来歴は、日本の社会や文化の変遷を映す鏡となっている。
記録によれば、本作は宗淵の手を離れた後、京都の禅宗寺院・相国寺に伝来し、江戸後期の文政13年(1830)までは寺宝として大切に保管されていた 36 。その後、相国寺の塔頭(山内寺院)である慈照院へと移されたが、明治維新後の廃仏毀釈の混乱の中で寺院の手を離れ、民間に流出したとみられる 5 。近代に入り、文化財保護の気運が高まる中で再発見され、最終的には国の所有となり、現在の東京国立博物館に収蔵されるに至った 5 。禅宗寺院による庇護から、近代国家による文化財保護へ。本作の所有と管理のあり方の変遷は、日本の歴史そのものを物語っている。
そして、この作品が後世に遺した最大の遺産は、単なる画風や技法以上に、雪舟が体現した「芸術家としての生き方」のモデルであったのかもしれない。雪舟は、ただ絵を描く職人ではなかった。彼は禅僧としての深い精神性を持ち、大陸に渡る国際性を持ち、そして大名という権力者と対等に渡り合う政治感覚をも兼ね備えていた。自らの作品と言葉(自賛)によって自己の権威を確立し、後継者を育て、流派を形成しようとした主体的な芸術家像は、それまでの御用絵師とは一線を画すものであった。後の等伯らが雪舟に惹かれたのは、その画技だけでなく、このような自立した「マスター」としての在り方への憧憬があったからに他ならない。「破墨山水図」は、その雪舟の思想と戦略が最も凝縮された形で現れた作品であり、後世の芸術家たちにとっての永遠の道標となったのである。
本報告書で詳述してきたように、国宝「破墨山水図」は、多層的かつ深遠な意味を内包する、日本美術史上の奇跡的な作品である。
第一に、本作は雪舟等楊という一人の芸術家が76歳にして到達した、画業の究極的な達成点を示している。「潑墨」という中国由来の技法を自らの強固な造形力で完全に消化し、「破墨」と再定義したその筆致は、技術的な円熟を超え、精神が直接紙上に顕現したかのような凄みを持つ。それは、形態の束縛から解放された、真に自由な芸術の境地であった。
第二に、本作は師から弟子へと画の奥義と精神が継承される瞬間を記録した、感動的なドキュメントである。雪舟自身の言葉で綴られた自賛と、禅林の最高権威たちが寄せた賛詩は、この作品が単なる絵画ではなく、一個人の画業の正統性を証明し、未来へと託すための「印可の証」であったことを雄弁に物語る。
第三に、そして最も重要な点として、本作は「戦国黎明期」という時代の精神を見事に凝縮している。中央の権威が崩壊し、日本全土が混沌の渦に巻き込まれる中で、地方の有力大名・大内氏の庇護下にあった山口は、文化的な理想郷とも言うべき爛熟の時を迎えていた。雪舟が描いた静謐で秩序ある山水の世界は、この動乱の時代にあって平和と安定がいかに希求されていたか、そしてそれを実現し得た地方権力の文化的成熟を象徴している。
結論として、国宝「破墨山水図」は、雪舟個人の芸術的偉業であると同時に、師弟の精神的継承、戦国時代という歴史の転換点における文化的ダイナミズム、そして芸術と社会の密接な相互作用を、わずか一幅の掛軸のうちに見事に結晶させた、類稀なる歴史的遺産である。我々はこの絵画を通じて、一人の老画僧の眼差しと、彼が生きた時代の息遣いを、今なお生々しく感じ取ることができるのである。