最終更新日 2025-08-26

七尾城の戦い(1577)

天正五年 七尾城の戦い - 難攻不落の巨城はなぜ、いかにして陥落したか

序章:能登に吹く嵐

天正5年(1577年)9月15日、能登国(現在の石川県北部)に聳える天下の堅城、七尾城が陥落した。この戦いは、天正4年(1576年)11月から足掛け1年にわたり、越後の「軍神」上杉謙信と、能登の名門守護・畠山氏との間で繰り広げられた攻防戦の終結を意味するものであった 1 。しかし、その歴史的意義は、単なる一地方の城の争奪戦に留まらない。この戦いは、織田信長の天下統一事業と、それを阻止せんとする上杉謙信の生涯最後の戦略が北陸の地で激突した、極めて重要な戦役であった 2

七尾城の陥落は、そのわずか8日後に起こる「手取川の戦い」の勝敗を事実上決定づけた前哨戦であり、戦国後期の勢力図を大きく塗り替える可能性を秘めていた 2 。本報告書は、この七尾城の戦いを、リアルタイムの時系列に沿って詳細に再現するとともに、その背景にある戦略的必然性、城内に渦巻いていた根深い内紛、そして難攻不落と謳われた巨城が内側から崩壊に至る力学を多角的に分析し、その全貌を解明するものである。

第一部:開戦前夜 - 崩壊の序曲

第一章:天下布武と軍神の対峙 - 北陸を巡る二大勢力の角逐

七尾城の戦いを理解するためには、まず当時の日本全体を覆っていた巨大な地政学的対立、すなわち織田信長と上杉謙信の角逐という視座が不可欠である。

織田信長の北陸進出

天正年間に入り、織田信長は「天下布武」を掲げ、破竹の勢いでその勢力圏を拡大していた。美濃・尾張・近江から畿内を制圧した信長の次なる目標は、中国方面の毛利氏、そして北陸方面へと向けられていた 4 。北陸において、信長は長年敵対してきた加賀一向一揆の鎮圧を大義名分とし、方面軍司令官である柴田勝家を派遣。越前を平定し、加賀南部へと侵攻を開始していた 5 。この動きは、加賀の北に位置する能登、そしてその先の越中を勢力圏とする上杉謙信にとって、座視できない直接的な脅威であった。

第三次信長包囲網と謙信の役割

信長の急速な台頭に対し、危機感を抱いた諸勢力は反信長で結束する。京を追われた室町幕府第15代将軍・足利義昭の呼びかけに応じ、西国最大の雄・毛利輝元、畿内に強大な宗教ネットワークを持つ石山本願寺、そして越後の上杉謙信らが連携し、世に言う「第三次信長包囲網」が形成された 6 。この包囲網において、謙信は東の主軸であり、将軍義昭が最も頼みとする存在であった 7 。謙信自身も、信長との天下を賭けた決戦を視野に入れており、上洛して信長を討伐するという大義を担っていた 3

謙信の戦略目標:なぜ能登だったのか

謙信の最終目標が信長との決戦と上洛にある以上、その進軍経路は越中から加賀、越前を経て京に至る北陸道が主軸となる。しかし、この戦略を遂行する上で、能登半島の存在は無視できない戦略的要衝であった。当時、加賀は依然として一向一揆の勢力が強大であり、謙信は彼らと和睦を結んでいたものの 9 、完全に背後を任せられる状況ではなかった。

この状況で、もし能登の支配者である畠山氏が織田信長と手を結んだ場合、上杉軍は極めて危険な状況に陥る。加賀で織田軍主力や一向一揆と対峙している最中に、能登半島から側面を突かれ、補給線を断たれる可能性があるからだ 10 。そうなれば、上杉軍は挟撃され、退路を失いかねない。

したがって、謙信にとって能登の制圧は、単なる領土拡大や機会主義的な軍事介入ではなかった。それは、彼の生涯最後にして最大の戦略目標であった「対信長決戦」を遂行するための、計算され尽くした 戦略的布石 だったのである。西進を開始する前に、背後の脅威となりうる能登を確実に掌握し、兵站線と退路を確保することは、作戦全体の成否を左右する絶対的な必須条件であった。能登侵攻は、守りであると同時に、来るべき大決戦に向けた攻勢基盤の構築に他ならなかった。

第二章:名門の落日 - 能登畠山氏、内紛の系譜

上杉謙信が能登に目を向けたとき、その地の支配者である能登畠山氏は、すでに内部から崩壊しつつあった。落城の直接的な原因となった内紛は、一朝一夕に生じたものではなく、数十年にわたる権力闘争の歴史に深く根差していた。

守護権威の形骸化と重臣の台頭

能登畠山氏は、室町幕府の三管領家に連なる足利一門の名家であり、約170年間にわたり能登を統治してきた 11 。しかし、戦国の世の倣いとして守護の権威は次第に失墜。天文19年(1550年)には、当主・畠山義続に不満を抱いた重臣たちが蜂起する「七頭の乱」が発生し、以降、国政は遊佐続光、温井総貞、長続連といった「畠山七人衆」と呼ばれる有力重臣たちによって牛耳られる寡頭政治体制へと移行した 12

終わらない権力闘争

家中を掌握した重臣たちであったが、彼らの間でも権力闘争は絶えなかった。特に、筆頭家老の地位を巡る遊佐氏と温井氏の対立は激しく、互いに加賀一向一揆などの外部勢力を引き入れて内乱を繰り返した 12 。この混乱の中、もともとは将軍直属の奉公衆という立場で畠山家には服していなかった長氏が、その強大な軍事力を背景に台頭し、政権の中枢へと食い込んでいった 16

親織田派 vs 親上杉派

謙信の侵攻が現実味を帯びてくると、畠山家中の対立は新たな局面を迎える。外部の二大勢力である織田と上杉、どちらに与するかを巡って、国論は真っ二つに割れた。織田信長との連携を模索する 長続連・綱連父子 を中心とする「親織田派」と、地理的にも近い上杉謙信を頼るべきとする 遊佐続光・盛光父子 や温井景隆らを中心とする「親上杉派」の対立が先鋭化したのである 2

傀儡当主の悲劇

この間、畠山家当主は完全に重臣たちの傀儡であった。永禄9年(1566年)、親政を目指した畠山義綱が重臣たちによって追放され、その子である幼い義慶が当主に据えられた 16 。しかし、その義慶も成長すると重臣たちにとって邪魔な存在となり、天正2年(1574年)に不審死を遂げる(遊佐・長らによる毒殺説が有力) 14 。さらにその後を継いだ弟の義隆も天正4年(1576年)に急死し、最終的にはわずか数歳の

畠山春王丸 が当主として擁立されるに至っては、もはや家中に求心力は皆無であった 1

この統治機構の完全な崩壊こそが、七尾城落城の根本原因であった。当主が紛争を調停する権威も権力も持たない中、家臣団は二大派閥に分裂し、互いを排除することのみを目的としていた。この内部対立は、もはや能登国内の軍事力だけでは決着がつかない。どちらかの派閥が最終的に勝利するためには、織田か上杉という圧倒的な外部の軍事力を「招き入れる」以外に選択肢はなかった。

したがって、七尾城の落城を決定づけた遊佐氏の「内応」は、単なる個人の裏切りというよりも、数十年間にわたる権力闘争の末に生まれた、構造的欠陥が顕在化した必然の帰結であったと言える。謙信の侵攻は、親上杉派である遊佐氏にとって、長年対立してきた親織田派の長氏を一掃し、能登の実権を握るための千載一遇の好機だったのである。

第三章:天空の要塞 - 七尾城の構造と防御戦略

上杉謙信が攻略に1年もの歳月を要した七尾城は、いかなる城だったのか。その構造と防御機能は、当時の築城技術の粋を集めたものであり、「難攻不落」の名に恥じないものであった。

日本五大山城の威容

七尾城は、上杉謙信の居城・春日山城や、尼子氏の月山富田城などと並び称される「日本五大山城」の一つに数えられる、戦国期を代表する巨大山城である 21 。標高約300メートルの城山全体を要塞化し、その規模は南北約2.5km、東西約1kmにも及んだ 23 。七つの尾根(龍尾、虎尾、松尾、竹尾、梅尾、菊尾、亀尾)に曲輪が配されたことから「七尾」の名が付いたとされ、まさに山そのものが城であった 26

縄張りと防御施設

城の縄張りは、山頂の本丸を中心に、二の丸、三の丸といった主要な曲輪が尾根沿いに連なる「連郭式」であった 28 。さらに、それらの周囲には遊佐屋敷、長屋敷、温井屋敷といった重臣たちの広大な屋敷群が独立した曲輪として配置され、城の中枢部を幾重にも固めていた 26

これらの曲輪は、山肌を削り取って造成された急峻な切岸や土塁によって防御されていたが、七尾城を特徴づけるのは、当時の山城としては異例なほど多用された石垣である 29 。特に本丸や桜馬場周辺では、自然石をほぼ加工せずに積み上げる「野面積み」の石垣が3段から5段にもわたって築かれており、圧倒的な威容を誇っていた 26 。登城路は巧みに折り曲げられ、攻め手は常に上方からの攻撃に晒される構造となっていた 32

城下町と惣構え

七尾城の特筆すべき点は、山上だけでなく山麓の防御も極めて強固であったことだ。山麓には「千門万戸」と称されるほど繁栄した広大な城下町が形成されており 25 、その外周は土塁や堀によって囲い込む「惣構え」が施されていた 32 。これにより、七尾城は山上の軍事拠点と山麓の政治・経済の中心地が一体となった、一大防衛拠点となっていたのである。

しかし、この「難攻不落」性は、皮肉にも長期籠城戦における致命的な脆弱性を内包していた。七尾城は単なる軍事要塞ではなく、多くの家臣とその家族、さらには領民までが居住する「山上の都市」であった。第二次籠城戦において、畠山方が領民約1万5千人を城内に退避させたのは、兵力と人心を確保する目的があったが 32 、これが自らの首を絞める結果となる。

限られた空間に膨大な数の人間が密集すれば、食料と水の消費は急増し、兵站は極度に圧迫される。さらに深刻だったのは衛生問題であった。糞尿などの排泄物処理が追いつかず、城内の衛生環境は劣悪を極めた 35 。これが水源の汚染などを引き起こし、やがて城内に疫病(赤痢やチフスなどと推測される)を蔓延させる直接的な原因となった。結果として、物理的には鉄壁の防御を誇った城が、内部から疫病という「見えざる敵」によって崩壊していくのである。城の強大さが、自らを滅ぼす要因を内包していたという、まさに堅城のパラドックスであった。


【表1】七尾城の戦い 主要関連人物と所属勢力

勢力

主要人物

役職・立場

備考

上杉軍

上杉謙信

総大将

越後の戦国大名。「軍神」と称される。

鰺坂長実

家臣

能登攻略の現地指揮官の一人。

上条政繁

畠山氏一門

謙信が擁立しようとした名目上の当主 20

畠山家

畠山春王丸

当主

わずか数歳の傀儡当主。籠城中に病死 1

畠山家(親織田派)

長続連

重臣筆頭

親織田派のリーダー。遊佐氏に暗殺される 11

長綱連

続連の嫡男

籠城戦の事実上の総指揮官。父と共に暗殺される 38

長連龍

続連の三男

織田信長への援軍要請のため城を脱出。長氏唯一の生き残り 12

畠山家(親上杉派)

遊佐続光

重臣

親上杉派のリーダー。謙信に内応し、長氏を暗殺 37 。※近年の研究では子の盛光とする説も有力 13

遊佐盛光

続光の子

続光と共に内応を主導したとされる 13

温井景隆

重臣

遊佐氏と共に謙信に内応 36

三宅長盛

重臣

遊佐氏と共に謙信に内応 14

織田軍

織田信長

天下人

畠山氏(長氏)の援軍要請に応じ、派兵を決定 36

柴田勝家

宿老

北陸方面軍司令官。七尾城救援軍の総大将 42

羽柴秀吉

家臣

援軍の将の一人。勝家と対立し、戦線離脱 41


第二部:死闘 - 一年余にわたる攻防の軌跡


【表2】七尾城攻防戦 詳細年表

年月日(天正)

上杉軍の動向

畠山軍(七尾城)の動向

城内外の状況・その他

4年9月-10月

越中を平定 9

籠城の準備を進める。

畠山家中で親織田派(長氏)と親上杉派(遊佐氏)の対立が深刻化 17

4年11月

2万の軍勢で能登へ侵攻開始 1

諸城を放棄し、七尾城に兵力を集中させ籠城 43

-

4年冬

支城群(富木、熊木、穴水等)を次々攻略し、七尾城を孤立させる 9

長綱連、一向門徒を扇動し上杉軍の背後を攪乱しようとするが失敗 9

謙信、石動山に本陣を置き、能登で越年 9

5年1月-2月

七尾城への攻撃を繰り返す。

上杉軍の攻撃を度々撃退 32

戦況は膠着状態に。

5年3月

関東の北条氏政の越後侵攻の報を受け、本隊を率いて一時撤退 9

-

上杉軍は押さえの兵を能登に残す 1

5年春

-

謙信不在を好機と見て反撃開始。熊木城、富来城を奪還 9

-

5年夏

-

穴水城を包囲 9

-

5年閏7月

関東情勢を安定させ、再び能登へ出兵 9

上杉軍の反撃に遭い、多大な犠牲を出し七尾城へ撤退 9

第二次籠城戦開始。領民も城内に入れ、約1万5千人で籠城 32

5年閏7月23日

七尾城を厳重に包囲。

当主・畠山春王丸が病死 36

城内で疫病が蔓延し始める 18

5年8月

調略を開始。遊佐続光に内応を促す密書を送る 12

長綱連、弟の長連龍を城から脱出させ、織田信長に援軍を要請 38

8月8日、信長が柴田勝家を総大将とする4万の援軍派遣を決定 36

5年9月上旬

-

城内の士気は疫病により著しく低下。

織田の援軍、加賀一向一揆の抵抗に遭い進軍が遅れる 36

5年9月13日

遊佐続光らから内応了承の書状を受け取る 20

遊佐続光・温井景隆らが謙信への内応を決断。

-

5年9月15日

遊佐氏の手引きで城内に突入。

遊佐続光らが長続連・綱連父子ら長一族を謀殺。城門を開く 1

七尾城、陥落。 能登畠山氏、事実上滅亡。

5年9月17日

末森城を攻略し、能登を完全に掌握 41

-

-

5年9月23日

手取川にて織田軍を奇襲、撃破(手取川の戦い) 41

-

織田軍は七尾城落城を知らずに進軍していた 41

5年9月26日

七尾城に帰陣し、城の普請を開始 36

-

-


第四章:第一次侵攻(天正四年九月~天正五年三月)

天正4年(1576年)9月、上杉謙信は周到な準備の末、行動を開始した。まず越中の諸城を次々と攻略し、後背地の安全を確保すると 9 、同年11月、満を持して約2万の大軍を率いて能登国へと雪崩れ込んだ 1

謙信の戦術は巧妙であった。彼は難攻不落の七尾城にいきなり力攻めを仕掛ける愚を犯さなかった。まず、七尾城の周囲に点在する支城群、すなわち富木城、熊木城、穴水城などを次々と攻略し、それぞれの城に上杉方の将兵を配置していった 1 。これは、七尾城の手足をもぎ取り、外部からの補給や連絡を完全に遮断して孤立させるという、兵糧攻めの定石であった。同時に、籠城する将兵の心を「もはやどこからも助けは来ない」と追い詰める、極めて効果的な心理戦でもあった 44

これに対し、畠山方も手をこまねいていたわけではない。彼らは各支城での玉砕を避け、兵力を七尾城に集中させることで、決戦に備えた 43 。籠城軍の事実上の指揮官であった長綱連は、加賀の一向門徒を扇動して上杉軍の背後を突かせようと画策するが、情報戦に長けた謙信にこれを看破され、逆に急襲を受けて失敗に終わる 9 。その後、上杉軍は幾度となく七尾城に攻撃を仕掛けるが、畠山軍はこれをことごとく撃退し、天下の堅城の名に恥じぬ戦いぶりを見せた 32

戦況が膠着し、冬が訪れると、謙信は七尾城の麓に石動山城を築いて本陣とし、長期戦の構えを見せた 9 。しかし、天正5年(1577年)3月、謙信のもとに急報が舞い込む。長年の宿敵である関東の北条氏政が、謙信不在の越後へ侵攻したというのである 14 。本国の危機を前に、謙信は決断を迫られた。彼は七尾城の包囲を一部の将兵に任せると、本隊を率いて電光石火のごとく越後へと撤退していった 9

第五章:束の間の反撃と再度の絶望(天正五年三月~閏七月)

軍神の撤退は、籠城する畠山軍に束の間の希望をもたらした。長綱連はこの好機を逃さなかった。彼は即座に城兵を率いて反撃に転じる。甲斐庄親家の謀略を用いて上杉方の斉藤帯刀を寝返らせて熊木城を奪還し、富来城にも杉原和泉を大将とする軍勢を送り込んで陥落させるなど、目覚ましい戦果を挙げた 9 。さらに返す刀で穴水城を包囲し、一時的に能登国内の上杉勢力を駆逐する勢いを見せた 9 。この反攻は、七尾城の将兵の士気が依然として高く、継戦能力を十分に有していたことを示している。

しかし、彼らの希望は長くは続かなかった。関東の北条軍を牽制し、本国の守りを固めた謙信は、同年閏7月、再び能登へと大軍を率いて戻ってきたのである 9 。軍神の再来に、畠山軍の勢いは完全に削がれた。穴水城を包囲していた長綱連らは、勢いに乗る上杉軍の猛烈な逆襲に遭い、多くの将兵を失いながら命からがら七尾城へと逃げ帰った 9

ここに、第二次籠城戦の幕が切って落とされた。後がないと悟った畠山方は、能登国を挙げた総力戦を決意。城下の領民をも強制的に城内へと退避させ、その数、実に約1万5千人という空前の規模で籠城に突入した 32 。それは、能登の命運を賭けた壮絶な戦いの始まりであったが、同時に、城内を地獄へと変える疫病発生の引き金ともなったのである。

第六章:城内の地獄 - 見えざる敵との戦い

第二次籠城戦が始まると、七尾城は外部からの攻撃以上に、内部からの崩壊という「見えざる敵」との戦いに直面することになる。

長期にわたる大人数の籠城は、城内の環境を急激に悪化させた。特に、1万5千人もの人間が排出する糞尿の処理が追いつかず、城内は極めて不衛生な状態に陥った 35 。井戸や湧水といった貴重な水源も汚染されたとみられ、これが引き金となって城内に恐ろしい疫病が蔓延し始めた 18 。戦闘による死者をはるかに上回る病死者が続出し、堅城の守りは内側から静かに、しかし確実に蝕まれていった。

この悲劇は、城の指導者層をも襲った。閏7月23日、名目上の当主であった 畠山春王丸 が、わずか5歳でこの疫病の犠牲となったのである 36 。これにより、能登畠山氏の血筋は事実上断絶。城内の求心力は完全に失われ、将兵の士気は地に落ちた 47 。以降、親織田派の重臣・長綱連が「七尾城代」として指揮を執り続けるが、もはやそれは城主不在の絶望的な籠城戦であった 43

この地獄のような状況の中、長綱連は最後の望みを託す。彼は弟(一説には子)の長連龍を密かに城から脱出させ、織田信長に最後の援軍を要請する使者として安土城へと向かわせた 12 。報せを受けた信長は、この好機を逃さなかった。天正5年8月8日、信長は北陸方面軍司令官の柴田勝家を総大将とし、丹羽長秀、滝川一益、そして羽柴秀吉らを加えた総勢4万ともいわれる大軍の派遣を決定した 36 。織田の援軍接近の報は、風前の灯であった七尾城に、最後の希望の光を灯したかに見えた。

第七章:落城(天正五年九月十五日)

織田の援軍という最後の希望は、しかし、七尾城の運命を救うにはあまりにも遅すぎた。柴田勝家率いる大軍は、加賀の一向一揆勢力の頑強な抵抗に遭い、進軍が遅々として進まなかったのである 36

援軍到着が遅れる中、城内の対立はついに臨界点に達した。織田の援軍を信じ、最後まで徹底抗戦を主張する長綱連に対し、親上杉派の遊佐続光や温井景隆らは「もはや落城は時間の問題であり、上杉に降伏する以外に生き残る道はない」と主張。両者の対立は決定的となった 14

上杉謙信は、この城内の亀裂を見逃すはずがなかった。彼は遊佐続光に対し、「こちらに内応するならば、能登一国と、敵対する長一族の旧領をすべて与える」という、破格の条件を提示する密書を送った 12 。疫病による士気の崩壊と、このままでは織田の援軍が到着する前に共倒れになるという絶望感に苛まれていた遊佐続光、温井景隆らは、この甘い誘いに乗ることを決断。9月13日付で、謙信に内応を了承する旨の書状を送った 20 。彼らは最後の説得を試みるべく長綱連に降伏を促すが、綱連は「信長公に援軍を要請した以上、降伏は不義である」として、これを断固として拒絶した 36

交渉は決裂した。遊佐続光は、非情な決断を下す。天正5年9月15日の夜、彼は軍議と偽って、籠城戦の主軸であった長続連・綱連父子を自らの屋敷に誘い出し、謀殺した 36 。時を同じくして、城内にいた長一族百人あまりも、遊佐・温井派の手によってことごとく殺害された 1

城内の抵抗勢力を完全に排除した遊佐続光は、深夜、固く閉ざされていた城門を開け放ち、上杉軍を城内へと引き入れた 1 。内部からの裏切りによって、難攻不落を誇った七尾城は、ほとんど組織的な抵抗もできないまま、その日のうちに陥落した。ここに、約170年間にわたり能登に君臨した名門・畠山氏は、完全に滅亡したのである 11

この落城のタイミングは、軍事的に見て絶妙であった。それは、織田の援軍がまさに手取川を渡り、能登へ入ろうとする直前の出来事だったからである。これは単なる偶然ではない。謙信は、織田軍の進軍状況を正確に把握し、遊佐氏に対して「行動を起こすなら今しかない」という無言の圧力をかけ続けたと推測される。結果として、謙信は「七尾城の攻略」と、来るべき「織田援軍の撃破」という二つの目標を、一つの調略によって同時に達成する盤面を整えた。七尾城の陥落は、次の戦いである手取川の戦いの序曲であり、その勝敗を決定づける運命の一撃となったのである。

第三部:戦後の動乱と遺されたもの

第八章:手取川の戦い - 追撃と殲滅

七尾城の運命が決した頃、柴田勝家率いる織田の救援軍は、依然としてその事実を知らないまま、能登を目指して北上を続けていた 41 。しかし、その進軍は決して順調ではなかった。総大将の柴田勝家と、部将の羽柴秀吉との間で以前からあった確執が表面化し、秀吉は勝家に断りなく無断で軍を離脱するという前代未聞の事態が発生していた 41 。この内輪揉めは、織田軍の結束を大きく乱し、士気を低下させていた。

9月17日に能登南部の末森城を攻略し、能登一国を完全に掌握した謙信は 41 、織田軍の接近を冷静に待ち構えていた。やがて、織田軍が手取川を渡ったところで、ようやく七尾城落城の報が彼らの元に届く。目標を失い、敵中で孤立したことを知った勝家は、全軍に急ぎ撤退を命じた。しかし、時すでに遅かった。

9月23日の夜、折からの豪雨で増水し、濁流と化していた手取川を渡って撤退しようとする織田軍の背後を、謙信率いる上杉軍が奇襲した 41 。不意を突かれ、増水した川に退路を阻まれた織田軍は、大混乱に陥った。文字通りの「背水の陣」となった彼らは、上杉軍の猛追の前に為す術もなく、鯰江貞利をはじめとする1,000人以上の将兵が討ち取られ、さらに多数の兵が濁流に飲み込まれ溺死するという、壊滅的な大敗を喫した 41

この手取川の戦いの圧勝により、上杉謙信は加賀・能登・越中の北陸三カ国における覇権を完全に確立した 41 。9月26日、謙信は意気揚々と七尾城に凱旋した。城の高みから能登の絶景を眺めた彼は、「聞きしに勝る名地で、加賀・越中・能登の要にあり、要害は山海相応し」とその戦略的価値と美しさを称賛し、城の普請に着手したという 36 。謙信の生涯は、まさにその頂点を迎えていた。

第九章:それぞれの結末

七尾城を巡る戦いは、関係者たちにあまりにも対照的な結末をもたらした。それは、戦国乱世の無常と、一つの戦いの勝敗だけでは決まらない歴史の皮肉を雄弁に物語っている。

謙信の急死

手取川で織田軍を粉砕し、北陸を完全に手中に収めた謙信は、次なる上洛への準備を進めていた。信長との天下分け目の決戦は目前かと思われた。しかし、手取川の戦いからわずか半年後の天正6年(1578年)3月、謙信は居城・春日山城で突如として倒れ、帰らぬ人となった 6 。死因は脳溢血であったと伝えられる。軍神のあまりにも早い死は、上杉家の勢いを急速に失速させ、能登の支配もまた、幻と消えた。戦術的・戦略的に完璧な勝利を収めた謙信であったが、自身の寿命という最大の不確定要素によって、その全ての成果は水泡に帰したのである。

内応者の末路

謙信から能登一国を与えられ、長年の野望を達成したかに見えた遊佐続光(あるいは盛光)であったが、その栄華は束の間であった。最大の庇護者であった謙信の死後、織田信長はすかさず能登へ再侵攻。後ろ盾を失った遊佐氏は織田軍に降伏する 37 。しかし、彼の運命は、生き残った一人の男の執念によって暗転する。かつて上杉に与したこと、そして何よりも長一族を謀殺した罪を、長連龍によって信長に告発されたのである。天正9年(1581年)、遊佐氏は信長の命令により、一族もろとも処刑された 37 。彼の勝利は、極めて脆弱な基盤の上に成り立っていたものであり、その結末は悲惨なものであった。

復讐者の執念と長氏の再興

父と兄、そして一族のほとんどを謀殺されるという悲劇に見舞われた長連龍は、ただ一人生き残った 39 。彼は織田信長に仕え、能登平定戦で目覚ましい活躍を見せる 53 。本能寺の変後は前田利家の与力となり、その生涯で41回の合戦に参加する猛将として名を馳せた 53 。彼はついに遊佐一族への復讐を成し遂げ、主君・前田利家からも高く評価された。最終的に、長家は加賀藩の中で「加賀八家」と称される3万3千石の大身となり、かつてを上回る繁栄を勝ち取ったのである 52 。一族虐殺という壊滅的な敗北から、ただ一人の執念が家を再興させた、戦国史上稀に見る物語であった。

この一連の出来事は、七尾城の戦いにおける短期的な勝者(謙信、遊佐氏)が歴史から退場し、短期的には敗者であった織田方(信長、長氏)が、最終的に能登の支配者として歴史に名を刻んだという皮肉な結果を示している。戦国時代の覇権争いが、個別の戦いの勝敗だけでなく、指導者の寿命や後継者問題、そして時流を読む外交的な立ち回りといった、より大きな要因によって決定されることを示す好例と言えよう。

終章:七尾城の戦いが歴史に刻んだもの

天正5年の七尾城の戦いは、戦国時代の歴史において、多くの重要な教訓と示唆を残した。

第一に、この戦いは戦国期の城郭攻防戦における教訓の宝庫である。七尾城の事例は、物理的な堅牢さだけでは城は守れないこと、そして長期籠城における兵站と衛生管理の重要性を如実に示している。さらに、どれほど強固な城壁も、内部の結束が崩れれば一夜にして無力化するという、調略と人心掌握の決定的な重要性を後世に伝えている。

第二に、名門・能登畠山氏の滅亡は、組織論的な悲劇として捉えることができる。外部からの攻撃以上に、数十年にわたる内部の権力闘争と、それを抑止できない指導者層の機能不全が、いかに組織を致命的に蝕むかを示す歴史的教訓である。派閥争いに明け暮れ、外部環境の変化に対応できなかった組織の末路は、現代にも通じる普遍的なテーマを内包している。

最後に、この戦いは天下の趨勢におけるその位置づけもまた、極めて示唆に富んでいる。七尾城攻略から手取川の勝利に至る一連の流れは、間違いなく上杉謙信の生涯における最後の、そして最大の輝きであった。しかし、その勝利は彼の急死によって、織田信長の天下統一事業を決定的に阻止するには至らなかった。むしろ、最大のライバルであった謙信が自滅したことで、信長は労せずして北陸の覇権を手に入れる道が開かれたのである。

七尾城の戦いは、一人の英雄の最後の栄光と、一つの名門の悲劇的な終焉、そして生き残った者たちの執念が交錯した、戦国乱世の縮図であった。現在、城跡として静かに佇む七尾城は、訪れる者に、かつてこの地で繰り広げられた人間たちの壮絶なドラマを静かに語りかけている。

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