三刀屋城の戦い(1562)
三刀屋城の戦い(1562)は、毛利元就の出雲侵攻における兵站線確保の重要戦。尼子氏から毛利氏に寝返った三刀屋久扶の三刀屋城を尼子軍が攻撃。毛利軍は尼子軍を撃退し、翌年の地王峠でも心理戦で退けた。毛利の出雲平定を決定づけた戦略的勝利である。
永禄五年 出雲国人衆の決断 ― 毛利の補給線を巡る「三刀屋城の戦い」時系列全詳解
序章:戦いの前提 ― 誤解の氷解と史実の探求
日本の戦国時代、中国地方の覇権を巡る尼子氏と毛利氏の興亡は、数多の合戦と武将たちのドラマに彩られている。その中で「三刀屋城の戦い」として語られる戦役は、しばしば後年の「尼子再興運動」と混同され、その本質が見過ごされがちである。利用者様が提示された「尼子再興運動の拠点を毛利方が攻め落とす」という概要は、尼子宗家が滅亡した永禄9年(1566年)以降、山中幸盛(鹿介)らが尼子勝久を奉じて繰り広げた再興戦争、特に永禄13年(1570年)の「布部山の戦い」を彷彿とさせるものである 1 。
しかし、本報告書が主題とする永禄5年(1562年)に発生した「三刀屋城の戦い」は、その構図も戦略的意義も全く異なる。これは、尼子氏の支配下にあった出雲国の有力国人・三刀屋城主の三刀屋久扶が、中国地方の新たな覇者となりつつあった毛利元就に寝返ったことに端を発する。この離反に対し、尼子軍が「裏切り者」を討伐すべく三刀屋城に攻め寄せた、いわば「懲罰の戦い」であった。そして毛利氏にとっては、自陣営に加わった国人を守り抜き、出雲攻略の生命線となる兵站線を確保するための、極めて重要な「防衛戦」だったのである 3 。
したがって、この戦いは尼子氏の衰亡と毛利氏の台頭という、時代の大きな転換点において、出雲の国人衆がいかに生き残りをかけて苦悩し、決断を下したか、そして毛利元就がいかにしてその人心を掴み、巨大な尼子氏を内部から切り崩していったかを象徴する出来事であった。本報告書は、この永禄5年の「三刀屋城の戦い」の真実に迫り、合戦の経過を時系列で詳細に再現するとともに、その背景にある戦略的意図と歴史的意義を徹底的に解明することを目的とする。
第一章:覇権への道程 ― 毛利元就、出雲侵攻のグランドデザイン
永禄5年(1562年)の出雲侵攻は、毛利元就の深謀遠慮が結実した、彼の覇業における集大成とも言うべき軍事行動であった。その背景には、十数年にわたる周到な戦略的布石が存在する。
厳島以降の情勢と防長経略
全ての始まりは、天文24年(1555年)の厳島の戦いであった。元就はこの戦いで、西国随一の大勢力を誇った大内義隆を事実上滅亡に追い込んだ陶晴賢を討ち取り、中国地方の勢力図を劇的に塗り替えた 1 。この勝利を契機に、元就はすぐさま大内氏の旧領である周防・長門国への侵攻(防長経略)を開始し、弘治3年(1557年)には大内氏を完全に滅亡させる。これにより、安芸の一国人に過ぎなかった毛利氏は、中国地方西部に広大な領国を持つ大大名へと飛躍を遂げたのである。
石見銀山の掌握と経済的基盤の確立
次なる元就の目標は、出雲の尼子氏であった。しかし、尼子氏は依然として山陰に強固な地盤を持つ強敵であり、正面からの激突は大きな消耗を強いる。そこで元就が着目したのが、尼子氏の重要な経済基盤であった石見銀山であった。当時、世界有数の銀産出量を誇ったこの鉱山は、軍資金の源泉として計り知れない価値を持っていた。元就は尼子氏との間で熾烈な争奪戦を繰り広げ、永禄5年(1562年)までにはこれを完全に掌握する 5 。石見銀山の確保は、毛利軍の継戦能力を飛躍的に高めると同時に、尼子氏の経済力を著しく削ぐという二重の効果をもたらした。潤沢な資金は、大規模な軍勢の動員と長期戦を可能にし、出雲侵攻の成功を支える揺るぎない土台となった。
出雲侵攻の開始と大包囲網の形成
経済的基盤を固め、防長を平定した元就は、いよいよ尼子氏の本国・出雲へと狙いを定める。永禄5年6月、元就はまず石見国に残存する尼子方の有力国人・本城常光を降伏させ、石見を完全に平定 6 。後顧の憂いを断った上で、同年7月3日、自ら大軍を率いて出雲への侵攻を開始した 1 。この侵攻は、単独の軍事行動ではなかった。元就は事前に備中の三村家親や因幡の武田高信といった周辺勢力と連携し、尼子氏の領国を東西南から包囲する巨大な戦略的ネットワークを構築していたのである 6 。この周到な準備により、尼子氏は領国の各地で同時に圧力を受け、兵力を分散させざるを得ない状況に追い込まれた。毛利の出雲侵攻は、まさに「戦う前に勝つ」という元就の戦略思想を体現したものであり、三刀屋城の戦いは、この壮大なグランドデザインの序盤における重要な一局面であった。
第二章:岐路に立つ国人 ― 三刀屋城主・三刀屋久扶の苦悩と決断
毛利氏と尼子氏という二大勢力の狭間で、出雲の国人領主たちは常に厳しい選択を迫られていた。その中でも、三刀屋城主・三刀屋久扶の決断は、出雲侵攻の趨勢に大きな影響を与えることになる。
尼子十旗の名門・三刀屋氏
三刀屋氏は、その祖を越後国の諏訪部氏に持つ一族で、承久の乱(1221年)後に地頭として出雲国三刀屋郷に入ったとされる名門であった 8 。戦国期には尼子氏に仕え、その精強さから尼子氏の主要な支城群を指す「尼子十旗」の第三に数えられるほどの有力な国人領主として重きをなしていた 8 。三刀屋城は、尼子氏の本拠・月山富田城を防衛する上で重要な戦略拠点の一つと位置づけられていたのである。
リアリスト・三刀屋久扶の経歴
その当主である三刀屋久扶(通称:新四郎、官途名:弾正忠)は、激動の時代を生き抜いてきた現実主義者(リアリスト)であった 8 。彼は尼子氏の惣侍衆として6,785石を領し、主君・尼子晴久が毛利元就を討つべく安芸国へ侵攻した天文9年(1540年)の「吉田郡山城の戦い」にも尼子軍の一員として参加している 3 。しかし、この戦いで尼子軍は大内氏の援軍を得た毛利軍に大敗を喫し、久扶もまた敗走の屈辱を味わった 11 。この経験は、彼に毛利元就の恐ろしさと、尼子氏の勢威にかげりが見え始めたことを痛感させたに違いない。事実、彼はその後一度大内氏に降伏し、大内氏が出雲侵攻に失敗すると再び尼子氏に帰順するなど、常に時勢を見極め、自家の存続を第一とする柔軟な立ち回りを見せている 11 。弘治3年(1557年)には、尼子晴久の子・義久から「久」の一字を賜り「久扶」と名乗るなど、表面上は尼子家中において重用されていた 13 。
尼子を見限る決断の刻
しかし、永禄3年(1560年)末に尼子氏の屋台骨であった晴久が急死し、若年の義久が跡を継ぐと、出雲の国人衆の間に動揺が走る。晴久のような強力な求心力を義久は持ち合わせておらず、一方で毛利氏の威勢は日増しに高まっていた。この力関係の変化を冷静に見極めた久扶は、ついに尼子氏に見切りをつける決断を下す。彼は同じく出雲国人の三沢為清らと共に、毛利氏への帰順を表明したのである 3 。これは単なる裏切り行為ではない。吉田郡山城で毛利の強さを肌で知り、その後の厳島の戦い、防長経略、石見銀山の掌握という毛利の破竹の勢いを目の当たりにしてきた久扶にとって、それは抗いがたい時代の潮流に乗り、三刀屋家を存続させるための唯一の道であった。この一国人の苦渋に満ちた決断が、やがて出雲全土を巻き込む戦乱の引き金となる。
第三章:戦いの舞台 ― 戦略拠点・三刀屋城の地政学的重要性
三刀屋久扶の離反が単なる一国人の寝返りでは済まされない重大事件であったのは、彼が居城とする三刀屋城が、毛利の出雲攻略において死活的に重要な地政学的価値を持っていたからに他ならない。
毛利軍の生命線 ― 兵站拠点としての三刀屋城
毛利軍の出雲侵攻は、主として石見国から国境を越えて出雲国へと進軍するルートを取っていた。最終目標である尼子氏の本拠・月山富田城は、天下に名だたる堅城であり、攻略には長期にわたる包囲戦が必至であった 14 。長期戦を遂行するためには、前線の兵士たちに兵糧や武具を絶え間なく供給し続ける安定した補給路、すなわち兵站線の確保が絶対条件となる。
三刀屋城は、まさにこの石見から出雲中枢部へと至る進軍ルートのほぼ中間に位置していた 3 。つまり、毛利軍にとって三刀屋城は、後方の石見から送られてくる物資を集積し、前線の各部隊へと分配するための中継基地として、これ以上ない理想的な拠点だったのである。三刀屋久扶が味方である限り、この生命線は安泰である。しかし、もし敵の手に落ちれば、毛利軍は補給を断たれ、出雲国内で孤立し、侵攻作戦そのものが頓挫する危険性があった。
尼子方の戦略 ― 補給路の切断
当然ながら、尼子方も三刀屋城の戦略的価値を熟知していた。彼らにとって三刀屋城への攻撃は、裏切り者である久扶への懲罰という戦術的な目的以上に、毛利軍の兵站線を断ち切るという、より大きな戦略的目標を持っていた 3 。もし三刀屋城を奪還、あるいは無力化できれば、毛利の本隊は前線で兵糧不足に陥り、継戦能力を失う。それは、月山富田城を包囲するどころか、出雲国内での作戦行動自体を麻痺させることを意味した。
このように、三刀屋城は毛利にとっては「侵攻作戦の楔」、尼子にとっては「防衛線の要」という、双方にとって絶対に譲れない戦略的要衝であった。この城の支配権を巡る攻防は、単なる局地戦ではなく、出雲侵攻全体の成否を左右する「兵站の戦い」という本質を帯びていた。元就が一国人の救援に、一門の重鎮である宍戸隆家らを惜しげもなく投入した事実こそが、彼がこの城の持つ地政学的重要性をいかに深く理解していたかを雄弁に物語っている。戦いの火蓋は、この兵站線を巡って切られることとなったのである。
第四章:三刀屋城攻防戦 ― 合戦のリアルタイム・クロニクル
永禄5年(1562年)、三刀屋城を巡る攻防は、毛利の出雲侵攻作戦の序盤における最初のクライマックスであった。その戦いは、物理的な激突と、敵の戦意を挫く心理戦の二つの様相を呈していた。
【フェーズ1:永禄五年 尼子軍の出撃と毛利の応手】
毛利軍の出雲侵攻が開始され、三刀屋久扶が毛利方に寝返ったとの報は、直ちに月山富田城の尼子義久のもとへ届いた。尼子家中にとって、尼子十旗の一角である三刀屋氏の離反は、他の国人衆の動揺を招きかねない看過できない事態であった。義久は即座に討伐軍の派遣を決定する。
この討伐軍の大将に任じられたのは、尼子方の有力武将であった熊野入道西阿(熊野氏の一族とみられる)であった 3 。数千と推定される軍勢は月山富田城を出陣し、一路、三刀屋城を目指して進軍を開始した。
一方、尼子軍接近の急報を受けた三刀屋久扶は、すぐさま城の守りを固めて籠城の準備を整えると同時に、毛利本陣に使者を飛ばし、緊急の救援を要請した。この報告を受けた毛利元就の対応は迅速かつ的確であった。彼は、自陣営に寝返ってきた国人を見捨てる行為が、今後の調略活動に致命的な悪影響を及ぼすことを熟知していた。味方になれば必ず守るという信頼を内外に示す絶好の機会と捉えた元就は、即座に強力な救援部隊の派遣を命じる。
その大将として白羽の矢が立ったのは、毛利一門衆の重鎮である宍戸隆家と、備後の有力国人である山内隆通であった 3 。特に宍戸隆家は、元就の次女・五龍局を妻とし、毛利一門筆頭の扱いを受けるほどの重要人物である 15 。彼の本拠は安芸国北部の五龍城であり、決して出雲に近いわけではなかった 17 。この最重要人物を、一国人の救援のために即座に派遣するという元就の決断は、三刀屋城を絶対に死守するという毛利方の強い意志の表れであった。
【フェーズ2:八畔峠の激突】
宍戸隆家と山内隆通が率いる毛利の救援部隊は、驚くべき速さで安芸・備後から出雲へと進軍し、三刀屋城近辺で籠城する久扶の軍勢と合流を果たした。連合軍は、進撃してくる尼子軍を平地で迎え撃つのではなく、三刀屋城へと至る道筋にある要害、八畔峠(やつかとうげ)に布陣し、地の利を活かしてこれを迎撃する策を選んだ。
やがて、八畔峠にて両軍は激突する。この戦いの詳細な経過は軍記物に依拠する部分が大きいが、戦況は地の利と士気、そして兵の質に勝る毛利・三刀屋連合軍が優位に進めたと推測される。峠という狭隘な地形は、大軍を展開しにくい一方で、防御側にとっては少数の兵で敵の進軍を食い止めるのに有利に働く。
表1:八畔峠の戦いにおける両軍の構成(推定)
陣営 |
総大将/城主 |
主要武将 |
推定兵力 |
備考 |
毛利・三刀屋連合軍 |
三刀屋久扶 |
宍戸隆家、山内隆通 |
数千 |
毛利からの迅速な援軍が主力。三刀屋勢は籠城しつつ一部が合流か。 |
尼子軍 |
熊野入道西阿 |
(不明) |
数千 |
月山富田城からの討伐軍。兵站線の破壊が目的。 |
連合軍は、宍戸・山内といった歴戦の将の指揮のもと、峠道を攻め上ってくる尼子軍に対して効果的な防御戦を展開した。激戦の末、熊野入道西阿が率いる尼子軍は、ついに峠を突破することができず、多大な損害を出して月山富田城への撤退を余儀なくされた 3 。この八畔峠での戦術的勝利により、三刀屋城は陥落の危機を脱し、毛利軍の出雲侵攻における生命線はひとまず確保されたのである。この一戦は、毛利が味方した国人を必ず守るという事実を、出雲全土に知らしめる結果となった。
【フェーズ3:永禄六年 地王峠の対峙と心理戦】
八畔峠での敗北は尼子方にとって痛手であったが、彼らは三刀屋城の戦略的重要性を鑑み、その奪還を諦めてはいなかった。翌永禄6年(1563年)、尼子軍は前年を上回る2,000騎という大軍を編成し、再び三刀屋城へと侵攻した 19 。
尼子軍は斐伊川を渡り、地王峠(じおうとうげ)まで進軍。これに対し、三刀屋軍も城から打って出てこれを迎え撃つべく布陣し、両軍はにらみ合いの状態となった 3 。尼子軍がさらに三刀屋川を渡り、城本体への攻撃を開始しようとした、まさにその矢先であった。
突如、尼子軍の陣中に「毛利の大軍が、本陣を置く宍道湖北岸の洗合(みあい)を出発し、こちらへ向かっている」という噂が疾風のごとく駆け巡ったのである 19 。この噂が、元就による意図的な情報操作であったのか、あるいは前年の敗戦による尼子方の恐怖心が生み出した幻であったのかは定かではない。しかし、その効果は絶大であった。
前年の八畔峠で毛利の精鋭部隊の強さを身をもって知っていた尼子軍の将兵は、毛利本隊の来援という報に色めき立ち、戦意を完全に喪失した。もし毛利の大軍に背後を突かれれば、退路を断たれて壊滅する危険性がある。この恐怖が、2,000の軍勢を支配した。結局、尼子軍の指揮官は決戦を断念し、大規模な戦闘に至ることなく、全軍を月山富田城へと引き返させた 19 。
この地王峠での一件は、もはや物理的な兵力差だけでなく、心理的な面においても毛利が尼子を圧倒し始めていたことを如実に示す象徴的な出来事であった。毛利軍の強大さという「評判」そのものが、敵軍を撤退させる強力な兵器として機能したのである。吉田郡山城の戦い以降、十数年をかけて逆転した両者の力関係が、この時、決定的なものとなった。
第五章:戦いがもたらした波紋 ― 出雲侵攻における戦略的帰結
永禄5年から6年にかけての三刀屋城を巡る一連の攻防戦は、単なる局地的な勝利に留まらず、毛利元就の出雲侵攻作戦全体に決定的な影響を及ぼす戦略的な帰結をもたらした。
兵站線の完全確保と作戦基盤の確立
最大の成果は、毛利軍が石見から出雲中枢部へと至る補給路を完全に確保したことであった。三刀屋城の防衛成功により、兵站線は盤石なものとなり、元就は安心して月山富田城攻略という本丸の作戦に注力できるようになった。この安定した兵站基盤があったからこそ、毛利軍は長期にわたる包囲作戦を遂行することが可能となったのである。もしこの戦いに敗れていれば、出雲侵攻計画は初期段階で頓挫していた可能性が極めて高い。
国人衆の雪崩現象と尼子氏の孤立
第二の重要な成果は、政治的・心理的な影響である。毛利元就が、味方についた三刀屋久扶を迅速かつ強力な軍事力で守り抜いたという事実は、日和見を決め込んでいた他の出雲国人衆の心を大きく揺さぶった。「毛利につけば、尼子の攻撃から必ず守ってもらえる」という信頼感が醸成されたのである。この「三刀屋モデル」の成功は、強力なメッセージとなった。事実、この戦いの後、出雲国赤穴の赤穴氏をはじめとする国人衆が、堰を切ったように続々と尼子方から離反し、毛利方へと寝返っていった 6 。これは尼子氏にとって、領国の足元が崩れ去っていくことを意味し、その国内における孤立を決定的なものにした。元就の狙いは、まさにこのドミノ効果を誘発することにあった。
月山富田城攻略への道程
盤石な兵站線と、国内国人衆の協力という二つの有利な条件を手に入れた毛利軍の進撃は、ここから加速する。三刀屋城での勝利からわずか数ヶ月後の永禄6年(1563年)10月、毛利軍は島根半島に位置する尼子方の重要補給拠点・白鹿城を攻略し、月山富田城と日本海との連絡を絶つことに成功する 1 。さらに永禄8年(1565年)には、福頼山城や十神山城を陥落させて中海を封鎖し、月山富田城を陸からも海からも完全に孤立させる包囲網を完成させた 7 。
この一連の作戦遂行を可能にしたのは、間違いなく三刀屋城を拠点とする安定した兵站線であった。三刀屋城での勝利は、尼子氏を内部から崩壊させ、天下の堅城・月山富田城を兵糧攻めによって陥落させるという、壮大な攻略計画の礎となったのである。この戦いは、毛利による出雲平定への道を切り開いた、決定的な戦略的転換点であったと言える。
終章:歴史の再評価 ― 「三刀屋城の戦い」が語るもの
永禄5年(1562年)の「三刀屋城の戦い」は、その名称から一つの城を巡る攻城戦と見なされがちであるが、その実態は毛利元就の卓越した戦略眼を凝縮した、複合的な戦役であった。それは、武力による正面からの激突のみに頼るのではなく、周到な調略によって敵の内部を切り崩し、味方した者には迅速な軍事行動をもって信頼で応え、そして兵站という近代的な概念にも通じる戦略的思考を駆使して敵を追い詰めていく、元就の戦いの真髄を示す象徴的な事例である。
この戦いは、まず、戦国大名という巨大な権力が、その基盤である国人領主たちの支持なくしてはいかに脆弱であるかを物語っている。山陰の覇者として君臨した尼子氏が、その足元である出雲国内の国人衆の離反によって、徐々に、しかし確実に崩壊へと向かっていく過程がここにある。そして、三刀屋久扶という一人の国人領主の、家の存続をかけた苦渋の決断が、結果として中国地方の勢力図を塗り替える大きな歴史のうねりの一部となったことを示している。
毛利元就は、この戦いを通じて、単に軍事的な勝利を得ただけではなかった。彼は「毛利は味方を見捨てない」という強固なブランドを確立し、それがさらなる国人衆の寝返りを誘発するという、好循環を生み出した。八畔峠での物理的な勝利と、翌年の地王峠での心理的な勝利は、毛利の力がもはや誰も抗うことのできない時代の潮流となったことを内外に知らしめたのである。
派手な野戦や数万の軍勢が対峙する大規模な籠城戦の影に隠れ、歴史上大きく注目されることは少ないかもしれない。しかし、毛利の出雲侵攻の生命線であった兵站線を巡るこの攻防こそが、その後の尼子氏攻略の成否を分けた、真の決定戦の一つであったと結論づけることができる。この戦いを正しく理解することなくして、毛利元就による中国統一の偉業を語ることはできないであろう。
引用文献
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- 尼子再興軍の雲州侵攻 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BC%E5%AD%90%E5%86%8D%E8%88%88%E8%BB%8D%E3%81%AE%E9%9B%B2%E5%B7%9E%E4%BE%B5%E6%94%BB
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- SamuraiWorld_古城紀行 - 五龍城跡 - FC2 https://samuraiworld.web.fc2.com/yamajiro3_hiroshima_goryujo.htm
- あきたかた NAVI | 五龍城跡 - 安芸高田市観光ナビ https://akitakata-kankou.jp/touristspot/484/
- 超訳!三刀屋の歴史(鎌倉時代~戦国時代編)ー地域の歴史って ... https://note.com/machanome/n/n5e602122eac9
- ,昭和 49年 (1974)7月 に島 この地点と200〜 300mほ 31年 (1956)8月 刊の『古 https://sitereports.nabunken.go.jp/files/attach/19/19063/14200_2_%E5%87%BA%E9%9B%B2%E3%83%BB%E4%B8%8A%E5%A1%A9%E5%86%B6%E5%9C%B0%E5%9F%9F%E3%82%92%E4%B8%AD%E5%BF%83%E3%81%A8%E3%81%99%E3%82%8B%E5%9F%8B%E8%94%B5%E6%96%87%E5%8C%96%E8%B2%A1%E8%AA%BF%E6%9F%BB%E5%A0%B1%E5%91%8A.pdf