三増峠の戦い(1569)
武田信玄は、北条氏の小田原城を陽動で攪乱後、撤退中に追撃する北条軍を三増峠で迎え撃ち、山県昌景の奇襲で大勝。この勝利は駿河平定を確実とし、北条氏の外交方針を転換させる契機となった。
永禄十二年 甲相激突:三増峠の戦いに関する戦術・戦略的全貌
序章:崩壊した三国同盟 ― 戦いの火種
甲相駿三国同盟の成立と機能
天文23年(1554年)、甲斐の武田信玄、相模の北条氏康、駿河の今川義元という東国を代表する三人の戦国大名の間で、画期的な和平協定が成立した。甲相駿三国同盟として知られるこの同盟は、それぞれの娘を互いの嫡男に嫁がせるという婚姻関係によって強固に結ばれ、東国における勢力均衡の礎となっていた 1 。この同盟により、各大名は背後の憂いを断ち、信玄は信濃侵攻、氏康は関東経営、義元は尾張への進出という、それぞれの戦略目標に兵力を集中させることが可能となったのである。
パワーバランスの崩壊
しかし、この安定した関係は永禄3年(1560年)5月、桶狭間の戦いにおける今川義元の討死によって根底から揺らぐこととなる 3 。偉大な当主を失った今川家は、後継者である氏真の時代に急速にその勢力を減退させ、三国間のパワーバランスは大きく崩壊した。この力学の変化は、虎視眈々と領土拡大の機会を窺う周辺大名にとって、新たな野心を抱かせるに十分であった。
信玄の戦略転換と駿河侵攻
長年にわたる信濃平定をほぼ完了させた武田信玄にとって、今川家の弱体化は千載一遇の好機であった。内陸国である甲斐の宿願、すなわち海への出口を確保するため、信玄は次なる標的を弱体化した今川領駿河国に定めた 4 。永禄11年(1568年)12月、信玄は三河の徳川家康と密約を交わし、大井川を境として今川領を東西から分割するという壮大な計画のもと、駿河への電撃的な侵攻を開始したのである 4 。
甲相同盟の破綻と新たな対立軸
信玄による駿河侵攻は、今川氏真の舅である北条氏康との同盟関係を完全に破綻させるものであった 2 。義理の息子を見捨てることを潔しとしない氏康は、今川家への支援を即座に決定。武田軍を牽制すべく、長年にわたって敵対してきた越後の上杉謙信と手を結ぶという外交上の大転換、すなわち越相同盟を締結した 5 。これにより、東国の情勢は一変し、「武田・徳川」対「北条・今川・上杉」という新たな対立構造が形成された。三増峠の戦いは、単発の軍事衝突ではなく、桶狭間の戦いを起点とする約10年間にわたる東国国際情勢の地殻変動が帰結したものであり、信玄が駿河獲得という大戦略を完遂するために、北条という障害をいかに無力化するかという、極めて戦略的な軍事行動の一環として位置づけられるのである。
第一部:信玄、関東を駆ける ― 小田原への道
陽動としての関東侵攻
永禄12年(1569年)8月、信玄は再び駿河へ兵を進め、北条軍の注意を完全に駿河方面へ引きつけた 7 。これは、これから敢行する北条領心臓部への侵攻を成功させるための、周到に計算された陽動であった。信玄の狙いは、北条軍の主力を駿河に釘付けにし、その隙に関東の本拠地を急襲することにあった。
電撃的な侵攻経路
北条軍主力が駿河へ展開したのを見計らった信玄は、突如として軍を転進させる。かねてより準備していた2万の大軍を率い、碓氷峠を越えると、北条領の心臓部である武蔵国へと雪崩れ込んだ 7 。この侵攻経路は完全に北条方の意表を突くものであり、その防衛体制の虚を突くことに成功した。
支城での攻防 ― 鉢形城と滝山城
武田軍はまず、北条氏邦が守る鉢形城(現在の埼玉県寄居町)を包囲するが、氏邦が籠城策を取ると見るや深追いをせず、速やかに南下した 6 。次いで、北条氏照が守る滝山城(現在の東京都八王子市)に殺到した。ここでは信玄の嫡男・武田勝頼を大将とする部隊が猛攻を加え、二の丸まで攻め込む激戦となったが、氏照の必死の抵抗に遭い、信玄はこれ以上の時間と兵力の消耗は得策ではないと判断し、攻略を断念した 7 。この滝山城での攻防は、広大な城域に対して曲輪間の連携が取りにくいという防御上の弱点を露呈させ、後に氏照がより堅固な八王子城を築城する一因となった 10 。信玄の目的は個々の城を落とすことではなく、あくまでも小田原へ迅速に進軍することであり、その戦略目標は一貫していた。
小田原城下の攻防 ― 心理戦の応酬
10月1日、武田軍はついに北条氏の本拠地・小田原城に到達し、城を包囲した 2 。しかし、信玄は難攻不落を誇る小田原城を力攻めにするつもりはなかった。その真の狙いは、城下に火を放ち、繁栄の象徴である城下町を焼き払うことで、関東の覇者たる北条氏の権威を失墜させ、駿河に展開している北条軍主力を本国に引き戻させることにあった 7 。氏康・氏政親子は信玄の挑発には乗らず、徹底した籠城策を維持した 8 。
わずか4日後の10月4日、信玄は戦略目標を十分に達成したと判断し、突如として撤退を開始する 7 。一見すると攻略失敗に見えるこの行動こそ、信玄の描いた壮大な絵図の次なる段階への移行を意味していた。小田原攻めは軍事的な「破壊」を目的としたのではなく、政治的・戦略的な「攪乱」を目的とした、計算され尽くした行動であった。信玄は、撤退する自軍を追撃するために北条軍が城から出てくること、そしてその迎撃部隊を野戦で撃滅することまでを視野に入れていたのである。
第二部:決戦の刻 ― 三増峠の死闘(時系列分析)
10月4日~5日:撤退と追撃 ― 決戦場への序曲
10月4日、小田原の包囲を解いた武田軍は、「鎌倉の鶴岡八幡宮へ参詣する」との偽情報を流布させ、一度東へ向かう姿勢を見せた後、進路を北へ転じた 2 。酒匂、七沢、荻野、田代、半原といった地を経由し、甲斐への最短帰還路である三増峠越えを選択したのである 8 。
この動きを察知した北条氏康・氏政は、撤退する武田軍を討つ絶好の機会と捉え、追撃を決断した 8 。氏政が率いる本隊が小田原から武田軍の背後を追う一方、氏照・氏邦、そして一門きっての猛将・北条綱成らが率いる別働隊約2万が、武田軍の進路を遮断すべく三増峠へと急行した 2 。北条方の作戦は、三増峠で氏照・氏邦部隊が武田軍の足を止め、そこへ氏政の本隊が追いつき、挟撃するというものであった 5 。
当初、山岳戦の定石通り、地の利を得るために三増峠の高所に布陣したのは北条軍であった 14 。しかし、武田軍を追撃する氏政本隊の到着が想定よりも遅れていた。単独で2万の武田軍と決戦に及ぶリスクを避けるためか、氏照は10月5日の夜、占拠していた高所を放棄し、麓の平坦地へと陣を移すという致命的な判断を下してしまう 8 。この決断が、武田信玄に戦局を覆す絶好の機会を与えることになった。信玄は、北条軍が自ら明け渡した峠の高所を即座に占拠し、戦場全体を見下ろす絶好の位置を確保したのである。
表1:三増峠の戦い 両軍の編成と主要武将
軍勢 |
総兵力 |
指揮系統 |
主要武将 |
武田軍 |
約20,000 |
総大将 |
武田信玄 |
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本隊 |
武田勝頼、武田信廉、内藤昌豊、馬場信春 |
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左翼 |
浅利信種†、浦野重秀† |
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右翼(別働隊) |
山県昌景 |
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殿(しんがり) |
曽根昌世、真田昌幸 |
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小荷駄奉行 |
内藤昌豊 |
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津久井城牽制 |
小幡信貞 |
北条軍 |
約20,000 |
総大将 |
北条氏照、北条氏邦 |
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主力部隊 |
北条綱成、北条氏繁、原胤栄、成田氏長 |
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追撃本隊 |
北条氏政 |
注:†は戦死者を示す。兵力及び編成は諸史料
7
10月6日 午前:開戦 ― 鉄砲の轟音と猛将の死
永禄12年10月6日(一説に8日)、夜明けと共に三増の地に戦端が開かれた 2 。高所を占拠した武田軍に対し、麓に陣を敷いた北条軍が攻めかかる形で激戦の火蓋が切られた。
緒戦は、果敢に攻勢をかけた北条軍が優勢に進めた。特に「地黄八幡」の異名を持つ猛将・北条綱成が率いる鉄砲隊が猛威を振るい、峠を駆け上がろうとする武田軍の左翼に容赦ない集中砲火を浴びせた 14 。この銃撃により、武田軍左翼を率いていた侍大将であり、譜代家老衆の一人であった浅利信種が胸を撃ち抜かれて討死 13 。大将を失った浅利隊は一時混乱に陥ったが、軍監として部隊に付けられていた曽根昌世が即座に指揮権を掌握し、崩壊寸前の戦線を必死に立て直した 16 。
10月6日 昼:転機 ― 赤備えの奇襲
高所に陣取り、戦況全体を冷静に見極めていた信玄は、この好機を逃さなかった。内藤昌豊に命じていた小荷駄隊を囮として大きく動かし、北条軍の注意を正面に引きつけた 7 。北条軍がこの囮に気を取られ、正面の敵に集中した瞬間こそ、信玄が待ち望んでいた勝機であった。
これこそが信玄の描いた絵図であった。あらかじめ志田峠(三増峠の南西約1km)を密かに迂回させていた山県昌景率いる精鋭部隊、武田軍最強と謳われた「赤備え」が、北条軍の側面に突如として出現し、猛烈な奇襲攻撃を仕掛けたのである 7 。
北条軍にとって、この側面からの攻撃は全くの想定外であった。正面の敵との激戦に加え、高所からの武田本隊の圧力に晒されていた彼らは、山県隊の奇襲によって完全に意表を突かれ、大混乱に陥った 13 。有利であったはずの戦況は、この赤備えの一撃によって劇的に反転した。戦場の勝敗は、兵の勇猛さ以上に、地形の有利性をどちらが確保したか、敵の動きをどれだけ正確に予測し裏をかいたか、そして好機と見るや躊躇なく部隊を動かす指揮官の決断力によって決定づけられたのである。
10月6日 午後:決着 ― 北条軍の敗走
山県隊の奇襲を合図に、信玄は本隊にも総攻撃を命じた。高所からの攻撃と側面からの奇襲という挟撃の形となり、北条軍の陣形はもはや維持できなかった。ついに総崩れとなり、将兵は我先にと敗走を始めた 13 。総大将の北条氏照も乱戦の中で馬を失い、自刃寸前まで追い詰められたが、駆けつけた家臣に助けられ、辛うじて戦場を離脱したと伝えられている 13 。
この時、小田原から追撃してきた氏政の本隊は、三増峠まであと一里半ほどの荻野新宿(現在の神奈川県厚木市)付近まで進軍していた 2 。しかし、眼前の三増峠から敗走してくる味方の兵と、氏照・氏邦部隊が壊滅したという衝撃的な報を受け、挟撃作戦が完全に失敗したことを悟る。これ以上の追撃は不可能と判断した氏政は、小田原城へと引き返した 2 。
信玄は敗走する北条軍を深追いすることはせず、戦場で勝ち鬨をあげさせると、速やかに軍を収め、津久井方面へと抜け、翌日には甲府への帰路についた 2 。撤退戦という極めて困難な状況を、逆に敵を誘い込む罠へと転化させ、見事な勝利を収めたのである。
第三部:戦いの遺したもの ― 損害と戦略的帰結
両軍の損害 ― 史料に見る「戦果」のプロパガンダ
三増峠の戦いにおける両軍の損害については、史料によってその記述が大きく異なる。武田方の軍記物である『甲陽軍鑑』は、北条方の戦死者を3,269人、武田方の戦死者を900人と記し、武田軍の圧倒的な大勝利を強調している 13 。一方、『北条五代記』をはじめとする北条方の史料では、損害は20人から30人程度の軽微なものであったと記されている 5 。事実、北条氏照は戦後、同盟者である上杉謙信に宛てて「此度の合戦に勝利した」との書状を送っている 5 。
この極端な数字の差異は、両陣営が戦後、自らの武威を内外に誇示し、政治的優位性を確保するために戦果報告を操作した、戦国時代における情報戦の一端を如実に示している。近年の研究では、『諏訪家文書』や信玄自身の書状などを基に、武田方の損害が約1,000人、北条方の損害が約2,000人であったと推定するのが妥当とされている 23 。いずれにせよ、武田方が浅利信種という譜代の重臣を失った一方で、北条方もそれに倍する甚大な人的被害を被ったことは間違いない。
表2:小田原攻めから甲斐帰還までの時系列
日付(永禄12年) |
場所 |
武田軍の行動 |
北条軍の行動 |
8月24日 |
碓氷峠 |
2万の兵を率いて関東へ侵攻開始 |
駿河方面に注意を向けられていた |
9月下旬 |
鉢形城・滝山城 |
支城を攻撃するも深追いせず南下 |
氏邦・氏照が籠城し頑強に抵抗 |
10月1日 |
小田原城 |
小田原城を包囲、城下に放火し挑発 |
氏康・氏政親子が籠城策を徹底 |
10月4日 |
小田原城 |
包囲を解き、撤退を開始 |
氏政が追撃、氏照らが三増へ迎撃準備 |
10月5日 |
三増周辺 |
三増峠へ進軍、北条軍の布陣変更を好機とし高所を確保 |
氏照らが三増峠に布陣後、麓へ移動 |
10月6日 |
三増峠 |
緒戦の劣勢を挽回し、山県隊の奇襲を機に北条軍を撃破 |
緒戦は優勢も、側面を突かれ大敗。氏照・氏邦ら敗走 |
10月6日 |
荻野新宿 |
勝利を確認し、深追いせず撤退を継続 |
氏政本隊が敗報を聞き、追撃を断念し小田原へ帰還 |
10月7日 |
津久井方面 |
三増峠を越え、甲斐への帰路につく |
- |
11月 |
駿河 |
再び駿河へ侵攻、蒲原城を攻略 |
駿河への大規模な援軍を送れず |
引用資料:
2
戦略的帰結 ― 駿河平定への道
三増峠における戦術的勝利は、信玄にとってより大きな戦略的勝利への重要な布石となった。この手痛い敗戦により、北条氏は関東での防衛体制の立て直しに追われ、駿河方面へ大規模な援軍を派遣する余力を完全に失った 2 。
信玄はこの好機を逃さなかった。三増峠の戦いの直後である同年11月には、三度目となる駿河侵攻を敢行。北条方からの有効な妨害を受けることなく、要衝である蒲原城を攻略し、駿河国の大部分をその手中に収めることに成功したのである 7 。小田原攻めから三増峠の戦いに至る一連の関東侵攻作戦は、最終的に駿河平定という本来の戦略目標を達成するための、壮大かつ見事な陽動であったことがここに証明された。
外交への影響 ― 越相同盟の亀裂と甲相同盟の復活
北条氏にとって、三増峠での敗戦は軍事的な打撃に留まらなかった。同盟者である上杉謙信への不信感を決定的に増大させる結果となったのである。武田軍の侵攻という国家の危機に際し、謙信からの有効な援軍が得られなかったことへの不満が、越相同盟に修復困難な亀裂を生じさせた 5 。
この戦いの衝撃と戦略的劣勢は、北条氏の外交方針を大きく転換させる。2年後の元亀2年(1571年)、氏康の死を契機に、北条氏は上杉氏と手を切り、宿敵であったはずの武田氏と再び同盟を結ぶ(甲相同盟の復活)という驚くべき決断を下す 5 。三増峠での半日の戦闘が、その後の数年間にわたる東国の勢力図を塗り替える、大きな外交的転換の遠因となったのである。
戦場の記憶 ― 愛川町に残る史跡と伝承
激戦の舞台となった現在の神奈川県愛川町三増には、今なお戦いの記憶を伝える史跡や伝承が数多く残されている。この地で討死した武田の将・浅利信種を祀る「浅利明神」 6 、夥しい数の戦死者を弔うために築かれたと伝わる「首塚」や「胴塚」 6 、そして信玄が本陣を置き、采配を振るったとされる「旗立松」の跡地 25 などが点在し、450年以上前の激戦の様子を静かに今に伝えている。
結論:戦国史における三増峠の戦いの意義
三増峠の戦いは、戦国時代の数ある合戦の中でも、特筆すべき意義を持つ一戦であった。
第一に、この戦いは武田軍が誇る総合的な軍事能力、特にその卓越した機動力を天下に証明した。甲斐から関東深くまで侵攻し、複数の城を攻撃しながらも迅速に移動し、計算された撤退行動の中で敵の迎撃部隊を殲滅するという一連の作戦行動は、当時の軍事常識を覆すものであった。
第二に、戦国時代における陽動作戦の最も成功した事例の一つとして高く評価される。本来の戦略目標である「駿河平定」を達成するために、全く別の方面である「関東侵攻」で大規模な軍事行動を展開し、敵の主力を引きつけ、その間に本来の目的を達成するという、極めて高度な戦略性が示されている。
そして第三に、この戦いは関東の勢力図における重要な転換点となった。北条氏に関東での野戦における敗北という屈辱を与え、その後の対武田戦略、さらには対上杉外交にまで大きな影響を及ぼした。一つの戦術的勝利が、方面作戦全体の成功、さらには大名家間の外交関係の再編にまでドミノ倒しのように影響を及ぼす、「総合戦」としての戦国時代の様相を鮮やかに示しているのである。三増峠の戦いは、単なる一地方の合戦に留まらず、東国全体の歴史を動かした、重要な一戦であったと言えるだろう。
引用文献
- 甲相駿三国同盟 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B2%E7%9B%B8%E9%A7%BF%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%90%8C%E7%9B%9F
- 三増合戦について - ポケットに愛川 https://pocketniaikawa.com/mimase-battle/
- 歴史用語コラム 甲相駿三国同盟とは|株式会社アイセレクト - note https://note.com/aiselect0903/n/nb915b5531219
- 「駿河侵攻」信玄の大胆すぎる外交転換でカオスと化した外交関係。武田 vs 北条の全面戦争へ! https://sengoku-his.com/778
- 三増峠の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%A2%97%E5%B3%A0%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
- 三増峠の戦い古戦場:神奈川県/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/dtl/mimasatoge/
- 三増峠の戦い / 陽動の陽動、そして激闘へ。信玄、北条を翻弄し裏をかく - YouTube https://m.youtube.com/watch?v=vNHz-t30i6k
- 「三増峠の戦い(1569年)」北条方の本拠・小田原城まで進出した武田信玄。その退却戦で明暗分かれる | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/779
- 三増峠の合戦について http://yogokun.my.coocan.jp/mimasetouge.htm
- 【三増峠の戦い】 - ADEAC https://adeac.jp/lib-city-tama/text-list/d100010/ht051220
- 武田信玄 https://www.lib.city.tsuru.yamanashi.jp/contents/history/another/jinmei/singen.htm
- 逸話とゆかりの城で知る! 戦国武将 第10回【武田信玄・後編】武田家の運命を変えた駿河侵攻 https://shirobito.jp/article/1483
- 愛川町教育委員会発行 三増合戦パンフレット https://pocketniaikawa.com/wp/wp-content/uploads/2020/12/MIMASE-VATTLE.pdf
- 三増峠の戦い - バイクツーリングガイド「DOKO IKO」 https://imagines.xsrv.jp/entry119.html
- 【三増峠の戦い(2025年02月)】総攻撃と大手柄武将 | 「ニッポン城めぐり」運営ブログ https://ameblo.jp/cmeg/entry-12886203753.html
- 8代目箕輪城代:浅利信種 https://minowa1059.wiki.fc2.com/wiki/%EF%BC%98%E4%BB%A3%E7%9B%AE%E7%AE%95%E8%BC%AA%E5%9F%8E%E4%BB%A3%EF%BC%9A%E6%B5%85%E5%88%A9%E4%BF%A1%E7%A8%AE
- 三増合戦史跡 - 愛川町役場 https://www.town.aikawa.kanagawa.jp/aikawa_kankoukyoukai/Sightseeing/1497668770359.html
- 北条綱成は何をした人?「勝った!勝った!地黄八幡の旗を振りかざして突撃した」ハナシ|どんな人?性格がわかるエピソードや逸話・詳しい年表 https://busho.fun/person/tsunashige-hojo
- 浅利信種 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E5%88%A9%E4%BF%A1%E7%A8%AE
- ~三増峠の戦い~日本最大の山岳戦!その結末とは? - YouTube https://m.youtube.com/watch?v=9RKMpdObb_4&pp=ygUNI-mrmOWdguaYjOWFgw%3D%3D
- 三増合戦 (もののふ戦国バスツアー) - 歴旅.こむ - ココログ http://shmz1975.cocolog-nifty.com/blog/2013/06/post-159b.html
- 【あいかわ景勝10選・5】三増合戦碑と志田峠 - 愛川町 https://www.town.aikawa.kanagawa.jp/aikawa_kankoukyoukai/keisyo10sen/1527041098030.html
- 三増合戦史跡(神奈川県愛甲郡愛川町)を訪問しました - らしんばん航海日誌 https://rashimban1.blog.fc2.com/blog-entry-944.html
- 三増峠の戦いと今川家滅亡~武田・徳川の挟撃で戦国今川氏が滅亡! - まっぷるウェブ https://articles.mapple.net/bk/1182/
- 三増峠: 北条VS武田 激突の地 山と歴史の連なる道 (0007)|10zan - note https://note.com/10zan_info/n/n89f47bf74299
- 三増 P6.ai https://www.town.aikawa.kanagawa.jp/material/files/group/28/mimaseP6.pdf
- 「三増峠合戦の道」02-三増 - TEIONE BLOG - 平山 貞一 - エキサイトブログ https://teione.exblog.jp/24014106/