三方ヶ原の戦い(1572)
元亀三年、武田信玄は三方ヶ原で徳川・織田連合軍を壊滅させ、家康に生涯最大の敗北を喫した。しかし、信玄の急死により武田家は衰退。家康はこの敗戦を教訓とし、忠臣との絆を深め、後の天下統一の礎を築いた。
三方ヶ原の戦い(1572年):徳川家康、生涯最大の敗北と天下への礎
序章:天下人の生涯最大の敗北
元亀3年12月22日(西暦1573年1月25日)、遠江国三方ヶ原(現在の静岡県浜松市)において、後の天下人・徳川家康は、その生涯で最大かつ最も惨めな敗北を喫した。甲斐の虎・武田信玄が率いる大軍の前に、徳川・織田連合軍はわずか二時間あまりで蹂躙され、家康自身も命からがら居城の浜松城へと逃げ帰ったのである。この敗走の凄惨さは、恐怖のあまり馬上で脱糞したという逸話や、多くの忠臣が身代わりとなって散っていった事実によって、後世に生々しく伝えられている 1 。
この戦いを象徴するのが、通称「しかみ像」として知られる一枚の肖像画、『徳川家康三方ヶ原戦役画像』である 3 。憔悴し、顔を歪めたその姿は、敗戦直後の家康が自らの慢心を戒めるために描かせ、生涯座右に置いたと伝えられてきた 1 。この逸話は、家康の人間的な弱さと、それを乗り越える強靭な精神力を示すものとして広く受け入れられ、彼の人物像を形成する上で重要な役割を果たしてきた。
しかし、この戦いの歴史的意義を深く理解するためには、史実としての軍事的敗北そのものと、後世に「物語」として構築された側面を区別して考察する必要がある。近年の研究では、「しかみ像」にまつわる有名な伝承が、史料的根拠に乏しく、後世、特に昭和期に入ってから形成されたものである可能性が指摘されている 4 。これは、三方ヶ原の戦いが単なる一合戦の記録に留まらず、徳川幕府の権威を裏付けるための教訓譚として語り継がれる過程で、その意味合いが変容していったことを示唆している。家康の人間的弱さ、それを乗り越える精神力、そして夏目吉信に代表される家臣たちの自己犠牲的な忠誠心という三つの要素は、理想的な君臣関係の象徴として、江戸の泰平の世を支える物語の源泉となったのである 6 。
本報告書は、この三方ヶ原の戦いについて、その戦略的背景から合戦のリアルタイムな経過、そして敗走の逸話や後世への影響に至るまで、あらゆる側面を徹底的に分析・詳述するものである。単なる勝敗の記録を超え、一人の武将が天下人へと成長する過程で経験した決定的瞬間、そして日本の歴史が大きく動いた転換点としての三方ヶ原の戦いの実像に迫る。
第一章:西上する甲斐の虎 ― 戦略的背景
三方ヶ原の戦いは、突発的に生じた局地戦ではなく、当時の日本の政治情勢全体が複雑に絡み合った末に必然的に引き起こされた、大規模な戦略的衝突であった。その中心にいたのが、戦国最強と謳われた武田信玄と、彼の周到な戦略であった。
第一節:信長包囲網と将軍義昭の策謀
元亀年間(1570年-1573年)、天下布武を掲げる織田信長の勢力は、破竹の勢いで拡大していた。これに危機感を抱いたのが、信長によって擁立された室町幕府第15代将軍・足利義昭である。当初は信長と協調関係にあった義昭だが、次第に信長を自らの権威を脅かす存在と見なすようになり、諸大名に御内書(将軍の命令書)を送り、反信長連合の結成を画策した 8 。
この呼びかけに応じ、近江の浅井長政、越前の朝倉義景、さらには石山本願寺や比叡山延暦寺といった宗教勢力が次々と蜂起し、信長は四方を敵に囲まれる絶体絶命の危機に陥る。これが世に言う「信長包囲網」である 8 。この包囲網の切り札として、義昭が最も期待を寄せたのが、甲斐の武田信玄であった。信玄もまた、信長が元亀2年(1571年)に行った比叡山焼き討ちに対して、仏門に帰依する者として強い反感を抱いており、義昭の要請は信長との対決を決意させる大きな要因となった 8 。
第二節:西上作戦の真意 ― 上洛か、徳川制圧か
信玄が開始した大規模な軍事行動は「西上作戦」と呼ばれるが、その真の目的については、今日に至るまで議論が続いている。
一つは、イエズス会宣教師ルイス・フロイスの記録などに見られる「上洛説」である。これは、信玄が信長を討ち果たして京に上り、将軍義昭を奉じて天下に号令するという、壮大な野望を抱いていたとする見方である 10 。
対して近年有力となっているのが、主目的を徳川領の制圧に置く「徳川領制圧説」である 2 。この説によれば、信玄の当面の目標は、信長の最も重要な同盟者である徳川家康を無力化し、遠江・三河の両国を完全に支配下に置くことであった。これにより、東海道の覇権を確立し、信長との決戦に備えるための盤石な基盤を築くことが狙いであったとされる 12 。
両説を総合的に勘案すれば、信玄の戦略はより柔軟かつ段階的なものであったと推察される。すなわち、当面の最大目標はあくまで「徳川の撃破と遠江・三河の併呑」であり、それが順調に達成された暁には、その先の最終目標として「上洛と天下への号令」も視野に入れていた、と考えるのが最も妥当であろう。
第三節:崩壊する同盟、迫る開戦
かつて武田・今川・北条(後北条)の間で結ばれていた甲相駿三国同盟は、桶狭間の戦いで今川義元が討死したことで瓦解した 8 。その後、武田信玄と徳川家康は、今川領を大井川を境に分割するという密約を結び、東西から侵攻を開始する。しかし、家康が約束を破って遠江の奥深くまで侵攻したことなどから、両者の関係は急速に悪化。信玄が残した書状には、家康に対する「三か年の鬱憤」を晴らすという言葉が見られ、この戦いが信玄にとって積年の恨みを晴らすという個人的な動機をも含んでいたことが窺える 14 。
一方、家康が結んでいた織田信長との「清洲同盟」も、その性質を変化させていた。当初は対等な軍事同盟であったが、信長の勢力が飛躍的に増大するにつれ、家康は実質的に信長に従属する立場へと追いやられていた 15 。この西上作戦において、家康は信玄という巨大な脅威の矢面に立たされながら、同盟者である信長からは十分な支援を得られないという、極めて苦しい状況に置かれていたのである。
信玄の西上作戦は、単なる軍事行動に留まらなかった。それは、周到に練り上げられた外交戦略の集大成でもあった。信玄は作戦開始に先立ち、長年の宿敵であった越後の上杉謙信に対し、北条氏を介して和睦の動きを見せるなどして、背後の安全を確保する工作を行っていた 17 。これにより、信玄は後顧の憂いなく西へ全戦力を投入することが可能となった。一方で、信長は浅井・朝倉連合軍との戦いに忙殺されており、家康へ大規模な援軍を派遣する余力はなかった 8 。これは偶然の産物ではなく、信玄が信長包囲網の各勢力と巧みに連携し、意図的に作り出した戦略的状況であった。家康は、信玄の圧倒的な軍事力によってだけでなく、この緻密に張り巡らされた外交網によっても完全に包囲され、孤立無援の状態に追い込まれていた。三方ヶ原の戦いは、戦端が開かれる以前から、すでに戦略的・外交的な劣勢という形で、その趨勢が大きく傾いていたのである。
第二章:遠江蹂躙 ― 開戦への序曲
元亀3年(1572年)秋、甲斐の虎はいよいよ牙を剥き、徳川家康の領国である遠江へとその大軍を差し向けた。決戦の地・三方ヶ原へと至る道程は、武田信玄の圧倒的な軍事力と老獪な戦術によって、徳川方の城が次々と蹂躙されていく血塗られた道のりであった。
第一節:武田軍、侵攻開始
10月3日、武田信玄率いる約2万2千の本隊は甲府を出陣。時を同じくして、山県昌景・秋山虎繁らが率いる別動隊は信濃から三河方面へと侵攻を開始し、徳川領に対する挟撃態勢を整えた 19 。信玄の本隊は青崩峠を越えて遠江に入ると、徳川方から寝返った天野藤秀らの案内で南進。その進路上にある徳川方の諸城を瞬く間に攻略していった 18 。進軍ルートは、海岸線を進んで高天神城に立ち寄り、そこから北上して見付(現在の磐田市)を経由し、遠江支配の要衝である二俣城へと向かうものであった 14 。
第二節:前哨戦 ― 一言坂の戦いと本多忠勝の武勇
武田軍の進軍速度と規模を測りかねていた徳川家康は、偵察のために本多忠勝、内藤信成らの一隊を派遣した。しかし、彼らが一言坂(現在の磐田市)に差し掛かったところで、武田軍の先鋒隊と不意に遭遇してしまう 8 。徳川方にとっては想定外の開戦であり、兵力も圧倒的に不利であったため、即座に撤退を決断。この絶体絶命の撤退戦で殿(しんがり)を務めたのが、若き日の本多忠勝であった 18 。
忠勝は鬼神のごとき奮戦を見せ、幾度となく反転しては武田軍の追撃を食い止め、味方の退路を確保した。その凄まじい働きぶりは、敵である武田方の将兵をも感嘆させ、「家康に過ぎたるもの二つあり、唐の頭に本多平八」と賞賛されたと伝えられている 18 。この一戦は徳川方にとっては敗北であったが、三河武士の精強さと本多忠勝の名を天下に知らしめることとなった。
第三節:二俣城の攻防 ― 信玄の奇策
一言坂で徳川軍を退けた武田軍は、遠江支配の要である二俣城を包囲した。二俣城は天竜川と二俣川の合流点に位置する天然の要害であり、城将・中根正照以下約1,200の兵は、2万7千を超える武田の大軍を相手に善戦し、籠城を続けた 8 。
力攻めでは容易に落ちないと判断した信玄は、ここで常人では思いもつかない奇策を講じる。二俣城には井戸がなく、城兵は天竜川の断崖に組まれた井戸櫓から釣瓶で水を汲み上げていた。これに目を付けた信玄は、大量の筏を組ませて天竜川の上流から流し、井戸櫓の柱に激突させて破壊するという作戦を実行したのである 22 。この奇策は見事に成功し、水の供給を断たれた二俣城は抗戦不能となり、12月19日、ついに開城を余儀なくされた 20 。
第四節:浜松城素通り ― 家康を誘う挑発
遠江北部の最重要拠点を手中に収めた武田軍は、いよいよ家康の居城・浜松城へと迫る。家康と城兵たちは籠城による徹底抗戦を覚悟していた。しかし、信玄はまたしても意表を突く行動に出る。武田の大軍は浜松城を攻撃することなく、城の北側を悠然と西へ向かって通過し始めたのである 25 。
これは、家康を野戦の場におびき出すための、信玄による巧妙な心理戦であった。自らの居城の眼下を敵軍に素通りされることは、戦国武将にとってこの上ない侮辱である。もしこれを黙認すれば、家康の威信は失墜し、遠江の国人衆が次々と武田方になびくことは火を見るより明らかであった。信玄は、家康の武将としてのプライドと、領主としての責任感を巧みに突き、籠城という安全策を捨てさせ、野戦に打って出ざるを得ない状況へと追い込んだのである 25 。
開戦に至るまでのこれら一連の動きにおいて、戦いの主導権は常に信玄が握っていた。進軍ルートの選定から、二俣城の攻略法、そして最後の「浜松城素通り」という挑発に至るまで、全ては信玄の描いた筋書き通りに進行した。家康は常に後手に回り、信玄の仕掛ける手に反応することを強いられ続けた。信玄は、家康の思考を先読みし、彼が最も屈辱を感じ、最も焦りを覚える選択肢を突きつけることで、精神的に追い詰めていった。家康の出陣という決断は、冷静な戦略的判断の結果ではなく、信玄によって引き起こされた「怒り」と「焦り」という感情の産物であり、両軍が刃を交える前から、家康はすでに心理戦において敗北していたと言っても過言ではなかった。
第三章:三方ヶ原の激闘 ― 運命の二時間(時系列解説)
信玄の巧妙な挑発に乗り、徳川家康は籠城の策を捨てて野戦を決意する。元亀3年12月22日の昼過ぎから日没後にかけてのわずか数時間が、彼の運命を、そして戦国の勢力図を大きく揺るがすこととなる。
午後一時頃:出陣の決断
浜松城内では、緊急の軍議が開かれていた。織田家からの援軍を率いる大将・佐久間信盛は、信長からの「信玄の挑発に乗るな」という忠告を伝え、籠城を強く主張した 27 。酒井忠次をはじめとする徳川家の重臣たちの多くも、3万近い武田軍に対し、援軍を合わせても1万1千程度の兵力では勝ち目がないとして、籠城策を支持した 28 。
しかし、家康は重臣たちの反対を押し切る。「敵がわが城外を踏みにじって通るのを黙認することはできぬ。勝ち目がなくとも、ここで一戦せねば、家臣や遠江の国衆の心が離れてしまう」 29 。武士としての意地、そして領主としての責任感が、この無謀とも思える決断を家康に下させたのである。
午後二時頃:三方ヶ原への道
決断が下されるや、徳川・織田連合軍約1万1千は、浜松城の北門である玄黙口から次々と出陣した 30 。目指すは、武田軍が進軍している浜松城北方の広大な台地、三方ヶ原である。家康の狙いは、武田軍が台地を下る祝田坂(ほうださか)で隊列が伸びきったところを背後から急襲することにあった 31 。
しかし、家康の動きは信玄に筒抜けであった。徳川軍出撃の報を受けるや、信玄は進軍を停止。三方ヶ原の台地上で全軍を反転させ、徳川軍を迎え撃つべく、万全の迎撃態勢を整え始めた 17 。家康は奇襲を仕掛けるつもりが、逆に待ち構える敵の掌中へと自ら進み込む形となった。
午後四時頃:対峙と布陣
冬の日は短く、両軍が三方ヶ原で対峙した頃には、すでに日は西に傾き始めていた。眼前に広がる敵陣を見て、家康は自らの誤算を悟ったであろう。武田軍は微動だにせず、徳川軍を待ち構えていた。
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武田軍:魚鱗(ぎょりん)の陣
武田軍が敷いたのは、大将を頂点とする三角形の陣形で、中央突破に特化した攻撃的な布陣である「魚鱗の陣」であった 32。この陣形は、先鋒が消耗しても、後方に控える第二、第三の部隊が次々と繰り出されるため、分厚い波状攻撃を可能にする 34。信玄の狙いは明らかであった。手薄になりがちな敵の中央を一点突破し、家康の本陣を直接叩き潰すことで、短期決戦に持ち込むことである 20。 -
徳川軍:鶴翼(かくよく)の陣
対する家康が選択したのは、鶴が翼を広げたように両翼を前方に展開し、敵を包囲殲滅することを目的とする「鶴翼の陣」であった 33。しかし、この陣形は本来、兵力で優勢な側が用いるのが定石である。圧倒的に兵力で劣る家康がこの陣形を敷いたことは、戦術上の大きな謎とされている 32。これは、信玄の挑発によって冷静な判断力を失った家康が、一か八かの包囲攻撃にわずかな勝機を見出そうとした、苦し紛れの選択であった可能性が高い。
項目 |
武田軍 |
徳川・織田連合軍 |
総兵力 |
約25,000 - 30,000 18 |
約11,000 - 15,000 18 |
主要指揮官 |
武田信玄、武田勝頼、山県昌景、馬場信春、内藤昌豊、高坂昌信、穴山信君、一条信龍 20 |
徳川家康、酒井忠次、石川数正、本多忠勝、榊原康政、鳥居元忠、大久保忠世、佐久間信盛、平手汎秀、水野信元 20 |
陣形 |
魚鱗の陣 |
鶴翼の陣 |
この両軍の戦力と布陣を比較すれば、その優劣は開戦前にしてすでに明白であった。歴戦の猛将たちが率いる大軍が、一点突破を目指す集中攻撃の陣形を敷く一方、若き家康が率いる寡兵は、自らの兵力を分散させる包囲の陣形を取る。この戦術的ミスマッチが、この後の悲劇を決定づけることになる。
午後四時半頃:開戦
膠着状態を破ったのは武田方であった。武田軍の一部が投石(つぶて)を行い、徳川軍の前衛を挑発した 17 。この挑発に徳川方の血気にはやる兵士たちが応戦し、小競り合いが始まった。これをきっかけに、徳川軍の左翼を担う石川数正の部隊が武田軍に突撃。序盤は徳川軍も勇猛果敢に戦い、一時的に武田軍の先鋒を押し返すなど、奮戦を見せた 2 。
午後五時頃:崩壊
しかし、徳川軍の奮戦も長くは続かなかった。信玄は少しも慌てることなく、第二陣、第三陣として控えていた山県昌景や内藤昌豊といった中核部隊を次々と投入。厚みのある波状攻撃が、徳川軍の薄い前線に襲いかかった 34 。
兵の数、将の経験、戦術の全てにおいて勝る武田軍の猛攻の前に、鶴翼の陣形で中央が手薄になっていた徳川軍の陣形は、瞬く間に切り裂かれ、崩壊を始めた 30 。頼みの綱であった織田の援軍も、佐久間信盛隊が早々に戦線を離脱し、大将の平手汎秀が討死するなど、有効に機能することはなかった 37 。
午後六時頃:潰走
戦闘開始からわずか二時間。徳川軍は完全に統制を失い、総崩れとなった 30 。将兵は我先にと浜松城を目指して逃げ惑い、戦場は阿鼻叫喚の地獄絵図と化した。武田軍はこれを猛追し、逃げる徳川兵を次々と討ち取っていく。徳川家康は、生涯忘れ得ぬ屈辱的な大敗北を喫したのである。
第四章:死線を越えて ― 敗走と浜松城の夜
三方ヶ原での戦闘は終わったが、徳川家康にとっての戦いはまだ続いていた。それは、生き残るための、そして主君としての尊厳を守るための、長く絶望的な夜の始まりであった。
第一節:家康、決死の逃避行
総崩れとなった戦場で、家康自身も討死寸前まで追い詰められた。武田軍の追撃は熾烈を極め、その恐怖は、家康が馬上で失禁、脱糞したという有名な逸話に象徴されている 1 。浜松周辺には、この時の家康の凄惨な逃走劇を伝える数々の伝承が残っている。
追手に追われ、腹を空かせた家康が立ち寄った餅屋で代金を払わずに逃げ出し、後から老婆に追いかけられて代金を支払わされたという「小豆餅」「銭取」の地名由来 39 。あるいは、浜松城を目前にしながらも追撃が激しく、浜松八幡宮の境内にあったクスノキの洞に身を隠して難を逃れたという話 30 。これらの伝承の史実性を確定することは困難であるが、一国の大名が供回りも僅かな状態で、なりふり構わず逃げ惑った当時の混乱と窮状を雄弁に物語っている。
第二節:忠臣たちの盾
家康が生きて浜松城に帰り着くことができたのは、彼の命を救うために自らの命を盾とした忠臣たちの存在なくしてはあり得なかった。三河武士の忠誠心が最も輝いた瞬間であった。
- 夏目吉信: 浜松城で留守居役を務めていた吉信は、味方の敗北を知るや手勢を率いて戦場に駆けつけた。討死を覚悟する家康を説得し、強引に馬の向きを変えさせて城へ逃がすと、自らは家康の兜を借り受け、「我こそは徳川家康なり」と名乗りを上げて武田軍の真っ只中に突入。身代わりとなって壮絶な討死を遂げた 7 。
- 本多忠真: 徳川四天王の一人、本多忠勝の叔父である忠真は、殿軍(しんがり)の任を引き受けた。甥の忠勝に「お前は殿を守れ。お前の死に場所はここではない」と言い残すと、一人敵陣に切り込み、奮戦の末に命を落とした 42 。
彼らの他にも、鳥居元忠らが殿軍の一翼を担い、多くの名もなき家臣たちが主君の退路を切り開くためにその命を散らしていった 45 。この自己犠牲的な忠誠こそが、徳川家臣団の強固な結束力の源泉であり、後の徳川幕府を支える礎となったのである。
第三節:浜松城の「空城の計」
九死に一生を得て浜松城に逃げ込んだ家康を、武田軍の追撃隊が城門にまで迫ってきた。城内は敗残兵で混乱し、もはや防戦の余力もない。この絶体絶命の状況で、家康は一か八かの奇策を講じたとされる。いわゆる「空城の計」である 47 。
家康は、城の全ての門を開け放ち、内外に煌々と篝火を焚かせた。そして重臣の酒井忠次に命じ、城の櫓の上で陣太鼓を激しく打ち鳴らさせたのである 41 。追撃してきた武田軍の将・山県昌景は、この常軌を逸した光景を目の当たりにして、城内に伏兵がいるのではないかと警戒。罠を疑い、城内への突入を断念して兵を引き返したと伝えられている。この逸話の真偽については議論があるものの 4 、事実であれ伝説であれ、家康の窮地における類稀なる胆力と機転を示すものとして語り継がれている。
第四節:犀ヶ崖の夜襲
惨敗を喫したその夜、家康はただ打ちひしがれているだけではなかった。武田軍に一矢報いるべく、夜襲を敢行する。浜松城から北へ約1キロメートルに位置する犀ヶ崖(さいががけ)付近で野営していた武田軍の一部隊に対し、大久保忠世らが率いる少数の鉄砲隊が闇夜に乗じて奇襲を仕掛けたのである 24 。
不意を突かれた武田軍は混乱に陥り、多くの兵が暗闇の中で犀ヶ崖の断崖から転落して命を落としたという 51 。地元には、徳川方が崖に白い布を渡して橋に見せかけ、武田兵を誘い込んで転落させたと「布橋」の地名由来伝説も残っている 53 。この夜襲による戦果は限定的であったが、大敗を喫した徳川軍の士気をわずかながらも回復させ、武田軍に警戒心を抱かせるには十分であった。後に、この犀ヶ崖で亡くなった兵士たちの怨霊を鎮めるため、家康が僧侶を招いて大法要を営んだことが、現在まで続く郷土芸能「遠州大念仏」の起源になったと伝えられている 52 。
この敗走から浜松城での一夜に至るまでの出来事は、軍事的には紛れもない敗北の連続であった。しかし、それは同時に、徳川という組織の真価が問われ、そして証明された夜でもあった。家臣の忠義、主君の胆力、そして一矢報いんとする不屈の闘志。これらの要素が組み合わさることによって、単なる惨めな敗走劇は、「徳川家臣団の強固な結束と不撓不屈の精神を証明した試練の物語」へと再定義された。家康は戦には大敗したが、君主としての徳や家臣からの信頼という、武力以上に重要なものを失わなかった。この「敗北の再定義」こそが、家康がこの最大の危機を乗り越え、後の天下統一へと再び歩み出すための、精神的かつ政治的な基盤となったのである。
第五章:勝者と敗者のその後
三方ヶ原の戦いは、武田信玄の軍事的才能を天下に知らしめ、徳川家康に生涯最大の屈辱を与えた。しかし、歴史の皮肉は、この戦いのわずか数ヶ月後に、勝者と敗者の運命を劇的に逆転させることになる。
第一節:戦いの損害
この戦いにおける両軍の損害は、その勝敗を如実に物語っている。徳川・織田連合軍は、死者・負傷者を合わせて約2,000人に上ったのに対し、武田軍の損害はわずか200人程度であったと記録されている 31 。徳川軍は、夏目吉信、本多忠真、鳥居忠広、そして二俣城で降伏した雪辱を期した中根正照、青木貞治といった多くの有能な家臣を失った 37 。この人的損失は、当時の徳川家にとって計り知れない打撃であった。
第二節:信玄、進軍を止める
圧勝を収めたにもかかわらず、武田信玄は浜松城を本格的に包囲攻撃することなく、三方ヶ原の北方にしばらく留まった後、三河方面へと軍を進めた。この不可解とも思える行動の背景には、いくつかの理由が考えられる。
第一に、信玄の当初の戦略目的が、浜松城という「点」の攻略ではなく、徳川軍の主力野戦部隊という「面」を撃破することにあったためである 11 。その目的は三方ヶ原で達成されており、堅城である浜松城の攻略に時間と兵力を費やすことは得策ではないと判断した可能性が高い。浜松城周辺の複雑な地形も、大軍による攻城戦を困難にする要因であった 13 。
そして第二に、この頃から信玄自身の健康状態が深刻化していたという説である。持病が悪化しており、長期にわたる攻城戦を指揮するだけの体力が、もはや彼には残されていなかったのかもしれない。
第三節:巨星墜つ ― 武田信玄の死
三方ヶ原の戦いの後、武田軍は三河へ侵攻し、野田城を攻略するなど、その勢いは衰えを知らないかに見えた 56 。徳川家康の拠点である三河の岡崎城も風前の灯火であり、徳川家は滅亡の瀬戸際に立たされていた 2 。
しかし、まさにその時、歴史は大きく動く。野田城攻めの陣中で信玄の病状が急激に悪化。武田軍は突如として進軍を停止し、全軍が甲斐への撤退を開始したのである 34 。そして元亀4年(1573年)4月12日、帰国の途上であった信濃駒場にて、戦国最強と謳われた武将、武田信玄は53年の生涯を閉じた 56 。死因は労咳(肺結核)や胃癌、あるいは風土病であった寄生虫症など諸説あるが、定かではない 58 。「自分の死を三年間は秘匿せよ」という彼の遺言は、自らの死が武田家にもたらすであろう衝撃の大きさを予見していたかのようであった。
信玄という絶対的な支柱を失った武田家は、その勢いを急速に失っていく。後を継いだ息子の勝頼は、父の偉業を継承しようと奮闘するも、天正3年(1575年)の長篠の戦いで織田・徳川連合軍に歴史的な大敗を喫する。これを境に武田家は衰退の一途をたどり、天正10年(1582年)、織田・徳川連合軍による甲州征伐によって、ついに滅亡の時を迎えた 2 。
第四節:敗戦を糧に ― 家康の再生
最強の敵であった信玄の突然の死は、滅亡寸前であった家康にとって、まさに天佑であった 2 。九死に一生を得た家康は、この三方ヶ原での手痛い敗北を、決して忘れることはなかった。彼はこの敗戦を生涯の教訓とし、信玄の巧みな戦術や兵の動かし方を徹底的に研究し、学んだとされる 24 。かつての猪突猛進な戦い方を改め、慎重かつ堅実な戦略を重視する、忍耐強い武将へと変貌を遂げていったのである 2 。
また、自らの命を救うために多くの家臣が犠牲になった経験は、家康と徳川家臣団との絆を、より一層強固で絶対的なものにした 2 。この敗戦を通じて培われた君臣間の信頼関係は、他のどの大名家にも見られない徳川家の最大の強みとなり、後の天下統一、そして260年以上にわたる江戸幕府の盤石な基盤を築く上で、決定的に重要な要素となったのである。
終章:三方ヶ原が歴史に残した教訓
三方ヶ原の戦いは、徳川家康の人生と日本の戦国史における、極めて重要な転換点であった。その歴史的意義は、単なる軍事的な勝敗の結果に留まらず、敗北という経験がどのように記憶され、解釈され、そして未来への教訓とされたかという点にこそ見出される。
第一節:「しかみ像」の真実 ― 記憶と伝説
本報告書の冒頭で触れた「徳川家康三方ヶ原戦役画像」、通称「しかみ像」。この肖像画にまつわる「敗戦直後に自戒のため描かせた」という有名な伝承は、家康の人間性を象徴する逸話として、長らく日本人に親しまれてきた。失敗から学び、それをバネにして大成するという物語は、多くの人々の共感を呼んだ 4 。
しかし、近年の綿密な史料研究により、この伝承が史実である可能性は極めて低いことが明らかになっている。この肖像画は、江戸時代の尾張徳川家の記録では、当初単に「家康の肖像画」として、後には「長篠合戦図」として扱われていた 4 。それが「三方ヶ原」と結びつけられ、さらに「自戒のため」という物語が付与されたのは、徳川美術館が開館した昭和初期以降のことである 4 。
また、美術史や風俗史の観点からも、描かれている甲冑や装束の様式が、三方ヶ原の戦いがあった16世紀後半のものではなく、より古い時代の様式であることが指摘されている 4 。これらのことから、この肖像画は家康の死後、彼を神格化し礼拝する目的で描かれたものではないか、という説も提唱されている。
史実ではないとしても、この逸話がなぜこれほどまでに人々の心を捉え、広く定着したのか。それは、この物語が持つ普遍的な教訓性にある。完璧な英雄ではなく、大きな失敗を犯し、恐怖に打ち震えながらも、そこから立ち上がった人間・家康の姿は、神格化された「東照大権現」としての家康像よりも、遥かに人々の心に響くものであった 4 。しかみ像の物語は、史実を超えて、失敗を乗り越えることの尊さを伝える文化的記憶として、今なお生き続けているのである。
第二節:戦国史の転換点
三方ヶ原の戦い、そしてそれに続く武田信玄の死は、戦国時代の潮流を決定的に変えた。もし、信玄が病に倒れることなく西上作戦を継続していたならば、織田信長と徳川家康の運命は尽き、天下の覇権は武田家のものとなっていた可能性は極めて高い 2 。その意味で、この戦いは武田信玄という不世出の軍事的天才が、その生涯で最も輝いた頂点の瞬間であった。
しかし、その頂点こそが、武田家の栄光の終焉の始まりでもあった。最強の当主を失った武田家は、坂道を転げ落ちるように滅亡へと向かった。一方で、この戦いの敗者であったはずの徳川家康は、最大の危機を乗り越え、最も重要な学びを得た。信玄という最強の敵から戦の厳しさと深さを学び、家臣というかけがえのない財産の尊さを再認識した。
勝者が敗者となり、敗者が最終的な勝者への道を歩み始める。この劇的な逆説こそが、三方ヶ原の戦いが持つ最大の歴史的意義である。それは、徳川家康にとって、単なる敗北ではなく、天下人へと飛躍するために不可欠な、最も痛みを伴う試練だったのである。
【付録:西上作戦から信玄の死までの時系列年表】
年月日(元亀3年/西暦1572年) |
出来事 |
10月3日 |
武田信玄、甲府を出陣。西上作戦を開始。 |
10月10日 |
武田軍、遠江国犬居城に入城。 |
10月中 |
一言坂の戦い。徳川軍が敗走。 |
10月18日 |
武田軍、二俣城の攻撃を開始。 |
12月19日 |
二俣城、水の手を断たれ開城。 |
12月22日 |
三方ヶ原の戦い。 徳川・織田連合軍が大敗。 |
12月22日夜 |
犀ヶ崖の夜襲。徳川軍が武田軍に一矢報いる。 |
(元亀4年/西暦1573年) |
|
2月10日 |
武田軍、三河国野田城を攻略。 |
3月 |
信玄の病状が悪化し、武田軍が甲斐への撤退を開始。 |
4月12日 |
武田信玄、信濃国駒場にて病没(享年53)。 |
引用文献
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- 【漫画】三方ヶ原の戦い~徳川家康の生涯最悪の敗北~【日本史マンガ動画】 - YouTube https://m.youtube.com/watch?v=WqkX87-kK3o
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- 【史跡散策】実走!三方ヶ原の戦い 家康敗走ルートを辿る - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/2054
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- その数10人超!戦国時代「三方ヶ原の戦い」で討ち死にした徳川軍の武将たちそれぞれの最期を紹介 - Japaaan https://mag.japaaan.com/archives/248353
- NHK大河ドラマ「どうする家康」にも出てきた武将がかつての郡内領主って知ってた?!都留を支えた鳥居氏 - つるのルーツ https://tsuru-roots.jp/special2/torii/
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- 空城の計と夜襲 - 犀ケ崖古戦場 - フォートラベル https://4travel.jp/dm_shisetsu_tips/15224431
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- 武田信玄の死因はなんだった?歴史に刻んだ戦いと名言も詳しく解説 - 戦国 BANASHI https://sengokubanashi.net/person/takeda-shingen-death/
- 三方ヶ原の戦い(徳川家康×武田信玄)/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/11095/
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