最終更新日 2025-08-26

三木合戦(1578~80)

播磨三国志:三木合戦(1578-1580)全詳報 ― 干殺しの城、その栄光と悲劇の二百二十箇月

序章:天下布武の波、播磨に寄せる

天正年間、織田信長による天下統一事業「天下布武」は、畿内をほぼ平定し、その次なる矛先を西国の雄・毛利氏へと向けていた 1 。毛利氏は、備後の鞆の浦に将軍・足利義昭を庇護し、反信長勢力の最大最後の拠点として、織田政権と全面的に対峙する構えを見せていた 2 。この織田と毛利、二大勢力の衝突は、両者の緩衝地帯に位置する播磨国を、必然的に天下の趨勢を決する最前線へと変貌させたのである 5

播磨国は、古くは守護・赤松氏の領国であったが、戦国期にはその支配も揺らぎ、国人領主が群雄割拠する複雑な勢力図を呈していた 6 。その中で、東播八郡に広大な勢力圏を築いていたのが、赤松氏の庶流たる名門・別所氏であった 7 。別所氏は、東の織田、西の毛利という二大勢力の間で巧みな外交を展開し、独立を保っていた 6

しかし、この均衡は信長の西国進出によって崩れ去る運命にあった。当時、信長は石山本願寺との長期にわたる抗争(石山戦争)の渦中にあり、毛利氏がその背後から海上補給路を通じて本願寺を支援する構図が続いていた。信長にとって播磨の完全な掌握は、毛利と本願寺の連携を陸路から断ち切るための、避けては通れない戦略的要衝の確保を意味した。

別所氏の離反とそれに続く三木合戦の悲劇は、単に一個人の感情や一族内の対立のみに起因するものではない。それは、播磨国が織田・毛利という巨大な地殻プレートの衝突点に位置し、緩衝地帯としての平和な時代が終わり、いずれどちらかの勢力に踏み潰される運命にあったという、地政学的な脆弱性に深く根差している。平時には利益をもたらす中立的立場も、全面対決の時代においては、最初に戦火に焼かれる危険性を内包していたのである。別所氏の決断は、この避けられない運命の中で、自家の存続と権益を賭けた、極めて厳しい戦略的判断の結果であったと言えよう。

第一章:亀裂 ― 別所長治、信長に叛旗を翻す

秀吉の播磨入りと初期の平定

天正5年(1577年)10月、織田信長は羽柴秀吉を中国方面軍総大将に任命し、播磨へと派遣した 2 。秀吉は播磨の国人・小寺孝高(黒田官兵衛)の献策を受け入れ、彼の居城である姫路城を拠点とすると、瞬く間に播磨の国衆から人質を徴し、平定作戦は順調に進むかに見えた 2 。東播磨の大身である別所長治も、当初は信長に恭順の意を示していた。

離反の多角的要因分析

しかし、天正6年(1578年)2月、突如として別所長治(当時23歳または26歳)は信長から離反し、毛利氏に通じた 2 。この決断に至った背景には、複数の要因が複雑に絡み合っていた。

第一に、名門意識と出自の低い秀吉への反発が挙げられる。加古川城で行われた軍議(加古川評定)の席で、長治の叔父であり、別所家の実権を握っていた別所吉親が、「農民上がり」と秀吉を侮り、対立したことが亀裂の始まりであったとされる 6 。赤松氏の血を引く名門としての自負が、秀吉の麾下に入ることを潔しとしなかったのである 6

第二に、織田方に対する戦略的な懸念があった。このまま織田方に与しても、播磨一国は秀吉に与えられ、別所氏はその一部将として都合よく利用されるだけではないか、という不満が家中で燻っていた 11

第三に、外部勢力からの積極的な働きかけである。毛利氏の庇護下にあった前将軍・足利義昭は、各地の反信長勢力に御内書を送り、蜂起を促していた 2 。毛利氏もまた、播磨の有力者である別所氏を味方に引き入れるべく、様々な調略を行っていたと考えられる 11

第四に、家中における主戦派の台頭、特に叔父・吉親の強い影響力である。若年の長治に代わり家中の実権を握っていた吉親は、強硬な反織田派であり、毛利との連携に勝機を見出し、長治に謀反を強く勧めたとされている 2

【最新研究】離反の直接的引き金

そして、これらの背景に加えて、離反の直接的な引き金となった事象が、近年の研究で明らかになっている。2024年2月、兵庫県立歴史博物館と東京大学史料編纂所は、秀吉が信長に宛てた書状の調査結果を発表した。それによれば、「秀吉が東播磨にある別所方の城をいくつか破城したことに対し、別所方が不満を持って離反した」という具体的な経緯が判明したのである 11 。これは、従来の情勢論や感情論に加え、織田方による直接的な軍事行動、すなわち別所氏の領土と権益への物理的な侵害が、離反の最終的な決定打となったことを示す極めて重要な発見である。

別所氏の離反は、単一の理由によるものではなく、複合的な要因が連鎖した結果と捉えるべきである。吉親の反織田感情や長治の名門意識は、いわば発火しやすい「可燃物」であった。そこに、秀吉による破城という「着火剤」が投じられたことで、それまでの不満や懸念が一気に燃え上がり、毛利と結んでの離反という大火へと発展したのである。この複合的な視点こそが、彼らの破滅的な決断を深く理解する鍵となる。

一族の相克 ― 吉親と重宗

この決断の裏には、別所一族内の深刻な対立があった。長治の叔父である別所吉親(賀相)は、徹底した主戦派であり、離反の首謀者と目されている 2 。一方で、吉親の弟であり長治のもう一人の叔父、別所重宗(重棟)は、一貫して親織田の立場を貫いていた 7 。重宗は信長の強大な武威を冷静に評価し、兄や甥の無謀な決断を諌めたが、その声が届くことはなかった 12 。結果、重宗は一族と袂を分かち、合戦中は織田方として行動することになるのである 14

第二章:両雄、対峙す ― 織田・別所両軍の陣容

織田(羽柴)軍の編成

三木城攻略の任を負った織田軍の陣容は、まさに信長配下の精鋭部隊であった。

  • 総大将:羽柴秀吉: 中国方面軍司令官として、全軍の指揮を執った 1 。播磨侵攻当初の兵力は、約7,000から8,000名と推定される 15
  • 二人の軍師「両兵衛」: 秀吉の躍進を支えた二人の天才軍師も、この合戦に深く関わった。
  • 竹中半兵衛: 後に「三木の干殺し」と称される兵糧攻めを献策したとされる稀代の軍略家 6 。しかし、かねてより結核を患っており、合戦の半ばで陣中に没することになる 6
  • 黒田官兵衛: 播磨の地理と人脈に精通し、秀吉の播磨経略を補佐した 10 。しかし、合戦序盤に謀反を起こした荒木村重の説得に向かった際、逆に捕らえられ有岡城に一年近く幽閉されるという苦難に見舞われた 6
  • 信長からの援軍: 戦局が膠着すると、信長は嫡男・織田信忠を総大将とする約30,000とも言われる大軍を播磨へ派遣した 15 。この援軍には、明智光秀、丹羽長秀、滝川一益、佐久間信盛といった、織田軍団の中核をなす宿将たちが名を連ねていた 15

別所軍の陣容

対する別所軍は、三木城を拠点に、一族郎党と東播磨の国人衆を結集させて籠城した。

  • 総大将:別所長治: 三木城主。若年ながらも一族の命運を背負い、籠城戦の指揮を執った 9
  • 一族: 離反を主導した叔父・別所吉親、そして長治の弟である別所友之、別所治定らが脇を固めた 10
  • 籠城兵力: 三木城に籠もったのは、別所氏の兵だけでなく、同心する東播磨の国人衆、その家族、さらには浄土真宗の門徒なども含まれ、総勢約7,500から8,500名に達した 5 。これは「諸篭り(もろごもり)」と呼ばれる籠城形態であり、兵士以外の非戦闘員を多数抱え込むため、兵糧の消費が極めて激しいという致命的な弱点を内包していた 11
  • 支城ネットワーク: 別所氏の支配は三木城単体ではなく、淡河城、神吉城、志方城、高砂城、野口城など、約30に及ぶ支城が有機的に連携し、広域な防衛ネットワークを形成していた 2

【表1:三木合戦における主要武将と推定兵力】

陣営

役職

武将名

推定兵力

備考

織田軍

総大将

羽柴秀吉

約8,000(初期)

中国方面軍司令官。

軍師

竹中半兵衛、黒田官兵衛

-

「両兵衛」と称される。

援軍大将

織田信忠

約30,000

信長嫡男。織田軍の主力部隊を率いる。

主要部隊長

明智光秀、丹羽長秀、滝川一益、佐久間信盛

-

織田軍団の宿将たち。

別所軍

籠城主

別所長治

約7,500~8,500

三木城主。籠城軍全体の総大将。

一族

別所吉親、別所友之、別所治定

-

吉親が主戦派筆頭。

支城主

神吉頼定、櫛橋伊定、淡河定範、梶原景行

-

三木城を支える支城ネットワークの城主たち。

備考

別所軍の兵力は非戦闘員を多数含む「諸篭り」。


第三章:戦端開かる ― 包囲網の形成と支城の陥落(天正六年/1578年)

三月~四月:三木城包囲と緒戦

天正6年(1578年)3月29日、羽柴秀吉は三木城への攻撃を開始し、ここに約22ヶ月に及ぶ長き戦いの火蓋が切られた 2 。しかし、三木城は北に美嚢川を天然の堀とし、三方を険しい崖に囲まれた難攻不落の要害であった 6 。力攻めの困難を悟った秀吉は、戦略を転換。三木城を支える周辺の支城群を一つずつ切り崩し、孤立させる作戦へと移行した。その手始めとして、4月3日には支城の一つである野口城を攻略した 2

四月~七月:上月城の攻防と毛利軍の動向

秀吉の計画は、西からの脅威によって早くも頓挫する。4月中旬、毛利輝元率いる3万の大軍が、播磨西端の要衝・上月城を包囲したのである 2 。上月城には、秀吉が毛利攻めの先鋒として配置した尼子勝久・山中鹿介が籠城していた。秀吉は直ちに救援に向かうも、東に三木城の別所軍、西に上月城を囲む毛利本隊と、完全に挟撃される形となり、2ヶ月にわたって身動きが取れないという苦境に陥った 2

戦況報告を受けた信長は、極めて合理的な、しかし非情な決断を下す。「上月城に拘泥せず、軍を収めて三木城の攻略を優先せよ」との命令であった 2 。秀吉は断腸の思いで上月城を見捨てて撤退。織田軍に見捨てられた上月城は7月に落城し、尼子勝久らは自刃、山陰の名門・尼子氏はここに滅亡した 2

この秀吉による上月城の見捨ては、単なる一つの城の失陥に留まらなかった。それは、戦力を集中させて主目標を叩くという信長の冷徹な合理主義の現れであると同時に、織田軍内部に深刻な疑心暗鬼を生むきっかけとなった。特に、秀吉と共に上月城救援に向かっていた摂津の荒木村重は、この「見殺し」に「明日は我が身」という強い危機感を抱いた可能性がある 21 。戦国時代の複雑な人間関係と戦略が、意図せざる連鎖反応を引き起こす前触れであった。

七月~八月:支城ネットワークの切り崩し

上月城の軛から解放された秀吉は、信長から派遣された織田信忠率いる大軍団と合流し、三木城の支城ネットワーク解体へと本格的に乗り出した 2

  • 神吉城の戦い: 織田信忠を総大将とする3万の軍勢が、神吉城に殺到した 22 。城主・神吉頼定はわずか2,000の兵で奮戦するも、圧倒的な兵力差の前にはなすすべもなく、壮絶な討死を遂げ、城は陥落した 22
  • 志方城の戦い: 神吉城を落とした織田軍は、その勢いのまま志方城へ進軍。織田信雄と細川藤孝率いる部隊がこれを攻めた 22 。城主・櫛橋伊定は抵抗を試みるが、衆寡敵せず、城兵の助命を条件に降伏・開城した 22

神吉・志方という二大支城の陥落により、三木城は西からの支援を大きく削がれ、孤立化が急速に進んだ 25

十月~十一月:荒木村重の謀反という激震

播磨での戦いが織田方有利に進む中、天正6年10月、戦局を根底から揺るがす大事件が発生する。信長の重臣であり、摂津一国を任されていた荒木村重が、突如として謀反を起こし、居城の有岡城(伊丹城)に籠城したのである 21

この謀反により、秀吉軍は前方の播磨(別所氏)と、背後の摂津(荒木氏)から挟撃されるという、絶体絶命の危機に瀕した 27 。別所方にとっては、西の毛利、東の石山本願寺、そして南の荒木村重と連携し、織田軍を包囲殲滅する千載一遇の好機が到来したかに見えた 15

この機を逃さず、10月22日、別所長治の弟・治定が手勢を率いて秀吉の本陣である平井山へ奇襲を敢行した。しかし、秀吉はこれを予期しており、弟の羽柴秀長隊がこれを迎撃。激戦の末、治定は討ち死にし、奇襲作戦は失敗に終わった 2

事態を重く見た信長は、自ら大軍を率いて出陣し、有岡城を包囲 26 。秀吉は播磨の戦線に釘付けにされながら、この未曾有の難局に対応するという、極めて困難な指揮を要求されることになった。

第四章:蟻の這い出る隙もなく ― 「三木の干殺し」戦術の全貌(天正七年/1579年)

荒木村重の謀反という危機を乗り越え、戦線が膠着する中、秀吉は三木城に対して戦国史上でも類を見ない、大規模かつ徹底した兵糧攻め、すなわち「三木の干殺し」を実行に移す 2 。これは、軍師・竹中半兵衛の献策であったと伝えられている 6

秀吉の巨大包囲網構築

秀吉の戦術は、単に城を囲むだけではなかった。三木城の周囲に、自身が本陣を置く平井山を中心に、30から40箇所以上もの付城(攻撃用の砦)を体系的に構築したのである 5 。さらに、付城と付城の間を深い堀や土塁、柵で連結し、文字通り蟻の這い出る隙間もない、巨大な包囲網を完成させた 10 。この包囲網は、兵糧や武器の搬入を完全に遮断する物理的な障壁であると同時に、城内の情報を遮断し、籠城側の心理を圧迫する精神的な檻でもあった。これは、単なる力攻めや待ちの戦術ではなく、土木技術、兵站管理、情報戦を駆使した、当時としては極めて先進的な複合戦術であった。

「三木の干殺し」は、静かに敵が飢えるのを待つ「静」の戦術というイメージとは裏腹に、その実態は極めて能動的で「動」的な作戦であった。付城を次々と「築き」、残る支城を「攻め落とし」、城から打って出る敵を「迎え撃ち」、救援に来る毛利軍を「撃破する」。これらの絶え間ない軍事行動はすべて、三木城の補給路と外部との連携を断つという一点に集約されていた。秀吉は、敵を飢えさせるという最終目標のために、あらゆる軍事的手段を駆使して外部環境をコントロールし続けたのである。


【表2:三木城包囲網を構成した主要付城一覧】

付城名

位置(方角)

担当武将

規模・構造の概要

戦略的役割

平井山ノ上付城

羽柴秀吉(本陣)

城域面積約38,000㎡。付城群中、最大規模。

全軍の指揮・監視拠点。三木城全体を見渡せる要衝。

平井村中村間ノ山付城

竹中半兵衛

-

本陣の後見・補佐。軍師の拠点。

シクノ谷峯構付城

(不明)

Iタイプ。馬出や外枡形など複雑な虎口を持つ強固な構造。

南側からの主要補給路(明石道)の監視・遮断。

君ヶ峰城

南東

木下與市郎

Gタイプ。駐屯機能を重視した構造。

最前線に位置し、三木城への直接的な圧迫を加える。

慈眼寺山城

(不明)

Eタイプ。付城群の中で最高所に位置し、遠くは高砂沖まで一望できた。

広範囲の監視と情報伝達の拠点。

出典: 28 に基づく。構造タイプは報告書 32 の分類による。


二月~四月:補給路をめぐる攻防

天正7年(1579年)に入ると、包囲網の効果は徐々に現れ始める。2月6日、焦った別所軍は毛利との連絡路を確保すべく城外へ打って出るが、秀吉軍に迎撃され丹生山へと敗走。立てこもった明要寺も間もなく攻め落とされた 2

支城の一つ、淡河城を守る知将・淡河定範は、羽柴秀長軍の侵攻に対し、多数の牝馬を放って敵の牡馬を興奮・混乱させるという奇策を用いて一度は撃退に成功する 33 。しかし、圧倒的な物量の前に抗しきれず、最終的に定範は三木城に合流。後の野戦で壮絶な討死を遂げた 33 。4月には、再び織田信忠の軍勢が播磨に着陣し、包囲網はさらに強化された 2

六月:将星墜つ ― 竹中半兵衛の陣没

6月13日、秀吉にとって最大の精神的支柱であった軍師・竹中半兵衛が、平井山の陣中にて病のためこの世を去った。享年36 5 。一度は京で療養したものの、秀吉の苦境を見かねて死を覚悟で戦場に戻った末の陣没であった 38 。秀吉の悲嘆は計り知れないものであったが、彼が遺した兵糧攻めの基本戦略が揺らぐことはなかった。

九月:最後の救援作戦 ― 平田・大村合戦

9月10日、三木城の窮状を見かねた毛利・本願寺の連合軍が、最後の兵糧搬入作戦を決行する 2 。主将・生石中務大輔に率いられた部隊は、秀吉方の平田砦(守将:谷衛好)を急襲し、谷を討ち取ることに成功 2 。これに呼応して、三木城内からも別所吉親率いる決死隊が出撃した 2

しかし、秀吉はこの動きを完全に読んでいた。これを好機と捉え、全軍に出撃を命令。飢えと疲労で衰弱していた別所軍は、秀吉本隊の前にあっけなく撃破され城内へ逃げ帰った。一方、平田砦を占領しかけていた毛利・本願寺軍も、秀吉の援軍の前に大損害を出して敗走 11 。この敗北により、外部からの大規模な兵糧搬入の望みは完全に絶たれた。

十月:決定打 ― 宇喜多直家の離反

そして、三木城に追い打ちをかける決定的な出来事が起こる。毛利方の有力国衆であった備前の宇喜多直家が、突如として織田方に寝返ったのである 11 。これにより、毛利の領国と播磨は完全に分断され、毛利氏による三木城への組織的な救援は、事実上不可能となった 6 。三木城は、完全な孤島と化したのである。

第五章:地獄の釜 ― 飢餓に喘ぐ三木城

秀吉の執拗な包囲網により、外部からの補給を完全に断たれた三木城内は、時を経るごとにこの世の地獄へと変貌していった。

兵糧の枯渇

籠城者が兵士だけでなく、その家族や門徒など、非戦闘員を多数含む7,500名以上であったことが、悲劇を加速させた 2 。膨大な数の人間が日々消費する食料は、当初の備蓄を瞬く間に食い潰し、天正7年(1579年)の後半には、城内の兵糧は完全に底を突き始めた 2

飢餓の実態

『信長公記』や『別所記』といった同時代の記録には、城内の凄惨な状況が克明に記されている 10

人々はまず、糠や馬の飼料である秣(まぐさ)を口にした 2 。やがて、城内の牛や馬、犬、猫といった動物を食べ尽くし、ついには鳥、蛇、鼠に至るまで、動くものは全て食料となった 10 。それすらも尽きると、草の根を掘り、木の皮を剥いでその甘皮を啜り、飢えを凌いだ 40 。中には壁土を舐め、紙を煮て食べる者まで現れたという 10

そして、籠城戦が2年近くに及んだ末、城内はついに最終的な禁忌を破る。餓死した者の人肉を食らうという、凄惨な状況に陥ったのである 2 。城内は、まさに地獄の釜の様相を呈していた。

士気の崩壊

長期にわたる極度の飢餓は、兵士たちの肉体だけでなく、精神をも蝕んでいった。体力は失われ、重い鎧を身に着けることすらままならず、心では勇んで敵に向かおうとしても、手足が思うように動かない 2 。織田軍が攻撃を仕掛けてきても、もはや組織的な抵抗は不可能であり、城の塀や櫓の下でなすすべもなく討ち取られていったと伝えられている 2

秀吉の兵糧攻めがもたらした恐怖の本質は、単なる肉体的な飢餓(物理的崩壊)に留まらない。それは、救援の望みが次々と絶たれることによる希望の喪失、人肉食という禁忌に象徴される人間性の崩壊、そして軍隊としての機能を失う共同体の秩序崩壊という、深刻な心理的ダメージを伴うものであった。秀吉の戦術は、城兵の肉体を疲弊させると同時に、その精神を内側から完全に破壊することを目的としていた。城の物理的な壁よりも先に、籠城者たちの心の壁を打ち砕いたことこそが、この戦術の真の恐ろしさであった。

第六章:落日の賦 ― 長治の決断と一族の最期(天正八年/1580年)

地獄の苦しみが続いた末、ついに合戦は終焉の時を迎える。

一月六日:織田軍の総攻撃

年が明けた天正8年(1580年)1月6日、秀吉は好機と見て、三木城内の高地に位置する宮ノ上砦を占拠。そこを拠点として、城内への総攻撃を開始した 2 。もはや別所軍に組織的な抵抗力は残っておらず、本丸に追い詰められるのは時間の問題であった 2

一月十五日:降伏交渉

万策尽きた城主・別所長治は、ついに降伏を決意する 2 。織田方に属していた叔父・別所重宗が仲介に入り、城内から家臣を呼び出して長治の説得にあたった 14 。長治は秀吉に対し、ただ一つの条件を提示した。それは、「自分と弟・友之、叔父・吉親ら一族の首と引き換えに、長きにわたり苦しみを共にした城兵、そして領民全ての命を助けてほしい」というものであった 19

一月十六日:最後の酒宴

秀吉は長治の悲壮な覚悟と条件を快諾し、その義を称えて、城内に酒と肴を送り届けさせた 40 。その夜、長治らは城兵たちと最後の宴を催し、これまでの労をねぎらい、別れを告げた 40

一月十七日:別所一族、自刃

翌17日、運命の日が訪れた。

長治はまず、自らの手で3歳になる我が子を膝の上で刺し殺し、続いて妻・照子にも刃を向けた 40 。そして、弟の友之と共に広縁に進み出ると、集まった家臣たちを前に「我らが腹を切ることで皆の命が助かるのであれば、これに勝る喜びはない」と言い残し、潔く腹を十文字に掻き切り、果てた 40 。介錯は重臣の三宅治忠が務め、主君の後を追い、彼もまた殉死した 9

最後まで主戦を唱えた叔父・吉親もまた自刃した。一説には、最後まで抵抗しようとしたため、家臣によって討たれたとも伝わる 42 。吉親の妻・波も、二人の息子と一人の娘を手にかけた後、自害するという壮絶な最期を遂げた 13

長治が最期に遺した辞世の句は、彼の心境を静かに、しかし力強く後世に伝えている。

「今はただ 怨みもあらず 諸人の いのちにかはる 我身と思へば」

9

この句は、自らの死が多くの家臣や領民の命を救うための尊い犠牲となるのであれば、もはや敵である秀吉への恨みも、運命への嘆きもない、という若き城主の澄み切った自己犠牲の精神と、武士としての覚悟を見事に示している。

別所長治の最期は、単なる敗北者の死ではなかった。戦国時代において「いかに死ぬか」は「いかに生きたか」と同等以上に重要視された。彼は、城兵の助命を条件とした自刃という、最も武士道的な価値観に沿った「美しい死に様」を自ら選び取ったのである。これにより、彼は軍事的には敗北しながらも、武士としての名誉を最後まで守り抜き、後世に「民を想い、潔く散った悲劇の英雄」としての記憶を刻み込むことに成功した。それは、敗者が歴史の中で自らの評価をコントロールしようとした、最後の、そして最も成功した戦略であったと言えるだろう。

第七章:戦後の播磨と歴史的意義

22ヶ月に及んだ三木合戦の終結は、播磨一国のみならず、織田信長の天下統一事業全体に大きな影響を及ぼした。

秀吉による戦後処理

合戦終結後、秀吉は直ちに戦後処理に着手した。まず、飢餓と戦火で荒廃した三木城下の復興を急ぐべく、無税とするなどの布告を出し、民心の安定を図った 27 。同時に、別所氏の与党として最後まで抵抗を続けていた宇野氏の長水城、小寺氏の英賀城などを攻略し、播磨を完全に平定した 2

中国攻めへの影響

播磨の完全平定は、秀吉にとって最大の戦略的成果であった。これにより、彼は背後の憂いを完全に断ち切り、本来の任務である西国の雄・毛利氏の攻略に全戦力を投入できる体制を整えた 15 。三木合戦は、秀吉の中国攻めを本格化させるための、最大の布石となったのである 2

さらに、この合戦で成功を収めた「三木の干殺し」という大規模な兵糧攻めの戦術は、秀吉にとって大きな成功体験となった。この経験は、後の天正9年(1581年)の因幡・鳥取城攻めにおける「鳥取の渇え殺し」 15 、そして天正10年(1582年)の備中・高松城攻めにおける「高松城の水攻め」へと応用・発展され、秀吉の得意戦術として確立されていくことになる。

天下統一史における三木合戦の位置づけ

三木合戦は、日本の戦国史において、以下の三つの点で極めて重要な意義を持つ。

  1. 織田・毛利戦争の転換点: 播磨という東方戦線の巨大な防波堤を失った毛利氏は、織田軍の圧力を直接受けることになり、戦略的に著しく不利な立場に追い込まれた。この合戦の勝利は、両者の勢力争いにおける織田氏の優位を決定づけた 15
  2. 反信長勢力への打撃: 播磨における反織田勢力の一掃は、依然として大坂で抵抗を続けていた石山本願寺にも大きな動揺を与えた。最大の支援者であった毛利氏の敗退は、本願寺の戦意を喪失させ、同年8月の和睦・退去へと繋がる遠因となった 2
  3. 秀吉の台頭: 2年近くに及ぶ困難な攻城戦を、独創的な戦術と粘り強さで成功させた秀吉の軍事的才能は、織田家中において不動のものとなった。信長からの信頼は絶大なものとなり、この功績が、後の天下人への道を大きく開くことになったのである 15

【表3:三木合戦 詳細時系列年表】

年月(西暦)

織田(羽柴)軍の動向

別所・毛利軍の動向

周辺の出来事・結果

天正5年 (1577)

10月

秀吉、播磨へ入国。姫路城を拠点とする。

別所長治ら播磨国衆、信長に恭順。

秀吉の中国攻め開始。

天正6年 (1578)

2月

別所長治、信長から離反。毛利方につく。

三木合戦、勃発。

3月29日

秀吉、三木城の包囲を開始。

長治、三木城に籠城。

4月

上月城救援に向かうも、毛利軍と対峙し膠着。

毛利輝元、3万の軍で上月城を包囲。

秀吉、東西から挟撃される危機。

7月

信長の命で上月城から撤退。神吉・志方城攻めへ転じる。

上月城落城。尼子勝久・山中鹿介ら滅亡。

織田軍、播磨平定を優先。

8月

織田信忠軍、神吉城・志方城を攻略。

神吉頼定は討死、櫛橋伊定は降伏。

三木城の支城ネットワークが大きく崩れる。

10月22日

平井山本陣を奇襲されるも、秀長隊が撃退。

別所治定、平井山を奇襲するも討死。

荒木村重が有岡城で謀反。秀吉、再び挟撃の危機に。

天正7年 (1579)

2月

丹生山へ敗走した別所軍を撃破。

別所軍、城外へ出撃するも敗退。

4月

織田信忠軍が再び播磨入り。包囲網を強化。

6月13日

軍師・竹中半兵衛が平井山の陣中で病没。

秀吉、最大の参謀を失う。

9月10日

平田・大村合戦で毛利・別所軍を撃破。

毛利・本願寺軍、最後の兵糧搬入を試みるも失敗。

三木城への組織的救援の望みが絶たれる。

10月

備前の宇喜多直家が織田方に寝返る。毛利と播磨が分断。

天正8年 (1580)

1月6日

宮ノ上砦を占拠し、三木城への総攻撃を開始。

1月15日

長治、一族の自刃を条件に降伏を申し入れる。

1月17日

秀吉、降伏を受け入れ開城。

別所長治、友之、吉親ら一族が自刃。

22ヶ月に及ぶ三木合戦、終結。


終章:怨みもあらず ― 三木合戦が後世に遺したもの

三木合戦は、播磨の一地方における攻防戦に留まらず、戦国時代の戦争のあり方そのものが大きく変貌していく様を象徴する戦いであった。

若き城主・別所長治は、謀反に至る経緯には様々な評価があるものの、その最期に見せた自己犠牲の精神は、敗者でありながらも武士の鑑として、後世に強い感銘を与え続けている。彼の決断がなければ、城内に籠もった数千の命は、飢餓か、あるいは落城後の殺戮によって無残に失われていた可能性が高い。その辞世の句とともに、彼の名は悲劇の英雄として播磨の地に深く刻まれている。

一方、勝利者である羽柴秀吉は、この戦いを通じてその軍事的才能を完全に開花させた。付城と土塁を組み合わせた巨大包囲網の構築、兵站の完全な遮断、そして敵の心理を巧みに突く持久戦術。これらは、従来の野戦における武勇の応酬とは一線を画す、兵站、土木技術、諜報、心理戦を駆使した「総力戦」の萌芽であった。秀吉が見せた近代的とも言える合理的な戦術と、それに翻弄され、極限状況下で人間性の尊厳を問われた籠城者たちの悲劇は、戦国という時代の凄惨な光と、その中から新しい時代を切り拓こうとする強烈な影を、今なお我々に鮮烈に映し出しているのである。

引用文献

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