三河一向一揆(1563~64)
三河一向一揆(1563-64)全史 ― 分裂する家臣団と若き家康、生涯最大の試練
序章:若き松平家康、生涯最大の危機へ
戦国乱世を駆け、天下泰平の礎を築いた徳川家康。その七十五年の生涯には、数多の苦難と決断があった。中でも、後の世に「家康三大危機」と語り継がれる三つの死線が存在する。武田信玄に完膚なきまでに打ちのめされた「三方ヶ原の戦い」、織田信長の横死により、僅かな供回りで死地を駆け抜けた「伊賀越え」。そして、本報告書で詳述する「三河一向一揆」である 1 。
この三河一向一揆は、他の二つの危機とはその本質を著しく異にする。三方ヶ原と伊賀越えが、強大な「外部」の敵からもたらされた軍事的・物理的な危機であったのに対し、三河一向一揆は、家康がその手で築き上げつつあった領国三河の「内部」から発生した、深刻な内乱であった。信頼していたはずの譜代家臣が、主君である家康に刃を向け、敵味方に分かれて血で血を洗う。それは、領国支配体制の崩壊のみならず、主従という人間関係の根幹をも揺るがす、精神的にも最も過酷な試練であったと言えよう 2 。
なぜ、鉄の結束を誇ったはずの三河武士団は分裂したのか。若き日の家康は、この未曾有の内乱にどう立ち向かい、そして何を学んだのか。本報告書は、一揆勃発に至る三河国の社会構造的背景から、約半年にわたる戦闘のリアルタイムな時系列、分裂した家臣団の動向、そして偽りの和睦とその後の非情なる結末までを丹念に追い、この内乱の全貌を解き明かすものである。
第一部:一揆前夜 ― 三河国に燻る火種
第一章:桶狭間以降の情勢と家康の三河統一事業
永禄3年(1560年)5月、桶狭間の地で今川義元が織田信長に討たれたことは、松平元康(後の家康)の運命を劇的に転回させた 5 。長きにわたる人質生活の軛から解き放たれた元康は、祖父・清康以来の故地である岡崎城への帰還を果たすと、今川氏からの独立を宣言。休む間もなく、三河一国の統一事業へと乗り出した 3 。
その動きは迅速であった。電光石火の勢いで西三河を平定し、永禄5年(1562年)には宿敵であった織田信長と清洲同盟を締結 7 。これにより西方の憂いを断った家康は、東三河の平定へと駒を進める。しかし、この急速な領国拡大と支配体制の構築は、新たな火種を生み出していた。合戦に次ぐ合戦は、当然ながら莫大な兵粮米と軍役を必要とする。家康は、支配下に置いた国人や地侍、そして農民層に対して、これまで以上の貢租・軍役を課すことでこれを賄おうとした 7 。桶狭間以降の解放感も束の間、新たな領主による負担の増大は、三河の民衆の間に不満のマグマを静かに溜め込ませていったのである 9 。家康の焦りは、自らの支配基盤を固めようとするあまり、領内に存在する巨大な宗教勢力との潜在的な対立を見過ごさせていた。
第二章:「不入の特権」と三河本願寺教団の権勢
当時の三河国、とりわけ西三河地方は、浄土真宗本願寺派(一向宗)の教えが深く浸透した地域であった。その中核をなしていたのが、安城市野寺の本證寺、岡崎市上佐々木の上宮寺、そして同市針崎の勝鬘寺であり、これらは「三河三ヶ寺」と総称されていた 1 。これら三ヶ寺は、三河のみならず尾張、美濃、伊勢にまで100を超える末寺・道場を擁する中本山として、絶大な宗教的権威と経済力を誇っていた 9 。
彼らの権勢を支えていたのが、「守護使不入(しゅごしふにゅう)」の特権である 13 。これは、家康の父・松平広忠の代に認められたもので、寺院の境内や寺領内には、たとえ罪人の追捕や徴税のためであっても、守護やその代官の立ち入りを認めないというものであった 1 。これにより、寺院は課税を免れ、領主の警察権も及ばない、一種の治外法権領域、すなわち「アジール(聖域)」を形成していたのである。
この状況は、家康が目指す領国の一元支配と根本的に矛盾するものであった。領内のすべての人と土地から税を徴収し、軍役を課す中央集権的な支配を確立しようとする家康にとって、「不入の特権」を盾に支配が及ばない広大な領域が存在することは、領国経営上の「穴」であり、断じて許容できるものではなかった。戦国大名による新しい政治秩序と、中世以来の寺社勢力が持つ古い特権との衝突は、もはや避けられない運命にあった 9 。
第三章:衝突への導火線 ― 発端をめぐる諸説
永禄6年(1563年)、燻り続けていた対立は、ついに火を噴く。その直接的なきっかけについては、史料によっていくつかの説が伝えられている。
一つは、大久保忠教が記した『三河物語』に見られる「本證寺発端説」である。これによれば、永禄5年(1562年)、ある無法者が本證寺に逃げ込んだ際、西尾城主の酒井正親がこれを追って寺内に立ち入り、捕縛した。これが「不入の特権」を侵害する行為であるとして寺側が猛反発し、一揆へと発展したという 1 。
もう一つは、『三州一向宗乱記』などが伝える「上宮寺発端説」である。永禄6年(1563年)、家康の家臣である菅沼定顕(その実在には諸説ある)が、上宮寺の近隣に砦を築き、寺が備蓄していた兵糧米を強制的に徴収した。これに激怒した上宮寺の門徒が蜂起した、とするものである 1 。
どちらの説が真実であったにせよ、本質は同じである。これらの事件は、家康による「不入の特権」への明確な侵害行為であり、領国支配を強化せんとする松平氏と、既得権益を守らんとする本願寺教団との、長年にわたる構造的対立が、ついに暴力という形で表面化した瞬間であった 3 。家康側から見れば「支配権確立のための正当な行為」であり、一揆側からすれば「信仰と生活の基盤を守るための防衛戦」であった。双方にとって、もはや一歩も引くことのできない戦いの幕が切って落とされたのである。
第二部:合戦のリアルタイム詳報 ― 永禄六年から七年へ
この内乱は、単一の大規模な会戦によって決着したわけではない。岡崎城を中心とした極めて狭い地域で、約半年にわたり、血生臭い拠点争奪戦が延々と繰り広げられた。それは、家康が自らの本拠地の目と鼻の先で、昨日までの家臣や領民と泥沼の市街戦・近郊戦を繰り広げるという、異常な事態であった。
第一章:永禄六年(1563年)秋~冬:一揆の蜂起と戦線の拡大
9月、三河動乱
本證寺の第十代住持であり、本願寺第八世・蓮如の孫にあたる空誓(くうせい)が、三河全土の一向宗門徒に向けて檄文を発した 1。これを合図に、各地の門徒が一斉に蜂起。その勢いは瞬く間に西三河全域を覆った。さらに、この動きに呼応し、かねてより家康の台頭を快く思っていなかった勢力が立ち上がる。足利一門の名家でありながら家康に所領を奪われつつあった東条城主・吉良義昭、上野城主・酒井忠尚といった国人領主たちが、一揆と結び、反家康の旗幟を鮮明にした 14。事態は単なる宗教一揆の範疇を超え、家康の領国支配そのものを転覆させかねない、大規模な内乱へと発展した。
11月25日、小豆坂の初戦
一揆勢の最初の大きな軍事行動は、岡崎城攻略を目指すものであった。針崎の勝鬘寺を拠点とする一揆勢が、岡崎城南東の要衝・小豆坂に進出。これを阻止すべく、家康は譜代の重臣・大久保忠世率いる大久保一党を派遣した 22。両軍は小豆坂で激突。この時、一揆方の将であった蜂屋半之丞(貞次)は、敵陣に家康の馬印を見つけるや、戦わずして兵を引いたと伝えられる。『三河物語』によれば、追撃してきた家康方の水野忠重に対し、蜂屋は「主君の渡らせ給う故に逃ぐるぞ(我が主君である家康様がいらっしゃるから退くのだ)」と言い放ったという 22。この逸話は、一揆方に与しながらも、本来の主君である家康への忠誠心との間で引き裂かれる三河武士の複雑な心理を、如実に物語っている。
第二章:永禄七年(1564年)正月:上和田・小豆坂の激闘
年が明けた永禄7年(1564年)正月、戦況は一気に緊迫の度を増す。岡崎城の南方に位置する上和田砦は、大久保一党が守る家康方の重要拠点であったが、ここが一揆勢の集中攻撃の的となった 25 。
正月3日、針崎勢との再戦
家康は自ら兵を率いて出陣し、大久保弥三郎を案内役として針崎の一揆勢を攻撃。小豆坂周辺で再び激しい戦闘が繰り広げられた 23。一進一退の攻防が続き、両軍ともに決定打を欠いたまま、血と硝煙の匂いだけが戦場に残された。
正月11日、上和田の死闘
この日、土呂の本宗寺と針崎の勝鬘寺を拠点とする一揆勢、約800名が上和田砦に総攻撃を仕掛けた 22。守る大久保勢は奮戦するも、衆寡敵せず。砦の守将であった大久保忠世は片目を射られ、弟の忠勝も深手を負うなど、まさに落城寸前の危機に陥った 27。
この急報に接した家康は、自ら手勢を率いて救援に駆けつける。しかし、この戦場で家康自身が生涯最大の危機に直面することになる。乱戦の中、一揆勢の放った一発の鉄砲玉が家康を狙った。その瞬間、一人の家臣(土屋重治、あるいは本多忠次の説がある)がとっさに家康の前に立ちふさがり、身代わりとなって胸を撃ち抜かれ絶命したという 4 。後に岡崎城へ戻った家康が鎧を脱ぐと、着物の中からさらに二発の弾丸が転がり落ちたと伝えられており、まさに九死に一生を得た瞬間であった 4 。
正月13日、再びの窮地
家康の出陣は、味方の中に潜む内通者によって一揆勢に筒抜けであった。13日、家康が小豆坂を進軍中、待ち伏せていた一揆勢の伏兵に襲われる。供回りを引き離され、窮地に陥った家康は、馬上から自ら弓を射かけながら、単騎で辛くもその場を脱出した 23。本拠地のすぐ側で、いつどこで裏切られるか分からない。この戦いが家康に与えた精神的消耗は計り知れないものがあった。
第三章:決戦、馬頭原
一連の攻防で岡崎城に肉薄した一揆勢は、勝機ありと見て総攻撃を計画する。対する家康も、これ以上の消耗戦は領国の崩壊に繋がると判断し、乾坤一擲の決戦を決意した。
正月15日、馬頭原の戦い
岡崎城下に迫る一揆勢に対し、家康は持てる兵力のすべてを率いて城から出撃。矢作川を渡り、馬頭原(現在の岡崎市馬頭町周辺)で両軍は対峙した 7。ここに、三河一向一揆の趨勢を決する最大の野戦が開始された。
戦いは熾烈を極めた。双方ともに退路を断つ覚悟でぶつかり合い、馬頭原は敵味方の血で赤く染まったという。詳細な戦闘経過は史料に乏しいが、この戦いで家康方は辛くも勝利を収め、一揆方の首級130を挙げたとされる 10 。この馬頭原での勝利は、軍事的に極めて大きな意味を持った。これにより、家康はようやく戦いの主導権を握り、一揆勢の攻勢を頓挫させることに成功したのである 1 。この勝利が、膠着した戦況を動かし、後の和睦交渉への道筋をつける決定的な転換点となった。
第三部:分裂する松平家 ― 誰が敵で、誰が味方か
この内乱が家康にとって何よりも過酷であったのは、敵が譜代の家臣、さらには一門衆であったという事実である。忠誠を誓ったはずの主君に弓を引く者、信仰を捨てて主君のために戦う者、そしてその狭間で苦悩する者。三河武士団は、かつてない分裂の危機に瀕していた。
第一章:家康方として戦った主要武将
絶望的な状況の中にあって、家康への忠誠を貫いた者たちもいた。後の徳川四天王に数えられる本多忠勝や榊原康政、そして鳥居元忠らは、若年ながら家康の側にあって奮戦した 30 。特に、本多忠勝や石川数正は、熱心な一向宗門徒の家系にありながら、主君への忠義を優先し、浄土宗に改宗してまで家康方として戦った 14 。上和田砦での死闘を演じた大久保忠世をはじめとする大久保一党の働きも、崩壊寸前の家康軍を支える大きな力となった 23 。彼らの存在なくして、家康がこの危機を乗り越えることは不可能であっただろう。
第二章:一揆方に馳せ参じた者たち ― 譜代家臣の離反
家康に最大の衝撃を与えたのは、彼が最も信頼していたはずの譜代家臣団の半数近くが敵に回ったことであった 1 。その数は『寛政重修諸家譜』によれば800余名に達したともいう 4 。
その顔ぶれは、家康を愕然とさせるに十分であった。後の家康の懐刀、謀臣として天下統一を支えることになる 本多正信 と、その弟・ 正重 2 。「槍半蔵」の異名をとる猛将・
渡辺守綱 2 。後に三方ヶ原の戦いで家康の身代わりとなって討死する忠臣・
夏目吉信 3 。そして、重臣・石川数正の父でありながら、一向宗との深い繋がりから一揆方に与した
石川康正 2 。彼らは皆、松平家にとって欠くべからざる人材であった。
さらに深刻だったのは、松平一門衆の離反である。桜井松平家の当主・松平家次、大草松平家の松平昌久といった一族までもが一揆に加担した 2 。これは、この内乱が単なる宗教上の対立に留まらず、松平宗家である家康のリーダーシップに対する、一門内部からの不満や権力闘争の側面をも含んでいたことを示唆している。
三河一向一揆 主要参戦武将一覧
勢力 |
身分 |
氏名 |
備考 |
典拠 |
松平(徳川)方 |
徳川四天王 |
本多忠勝 |
浄土宗に改宗し家康に従う。 |
14 |
|
徳川四天王 |
榊原康政 |
家康方として奮戦。 |
30 |
|
徳川家臣 |
石川数正 |
父は一揆方だが、自身は改宗し家康に従う。 |
14 |
|
徳川家臣 |
大久保忠世 |
上和田砦の防衛で奮戦。 |
23 |
|
徳川家臣 |
酒井忠次 |
東三河の旗頭として家康を支える。 |
30 |
|
徳川家臣 |
鳥居元忠 |
家康の幼少期からの忠臣。 |
30 |
一揆方(離反者) |
徳川家臣 |
本多正信 |
後の家康の謀臣。一揆鎮圧後に出奔。 |
2 |
|
徳川家臣 |
渡辺守綱 |
槍の名手。熱心な門徒。後に帰参。 |
2 |
|
徳川家臣 |
夏目吉信 |
捕縛後、赦免。後に三方ヶ原で家康の身代わりとなる。 |
13 |
|
徳川家臣 |
石川康正 |
石川数正の父。一向宗との繋がりが深い。 |
2 |
|
徳川家臣 |
蜂屋貞次 |
徳川十六神将の一人。後に帰参。 |
2 |
|
徳川家臣 |
内藤清長 |
蟄居処分となるも、子は家康方に付く。 |
2 |
一揆方(反家康勢力) |
三河国人 |
吉良義昭 |
足利一門の名家。反家康の旗頭。 |
14 |
|
三河国人 |
荒川義広 |
八面城主。 |
2 |
|
松平一門 |
松平家次 |
桜井松平家当主。 |
2 |
|
松平一門 |
松平昌久 |
大草松平家当主。 |
2 |
|
宗教指導者 |
空誓 |
本證寺住持。一揆の精神的指導者。 |
1 |
第三章:忠誠と信仰の狭間で
なぜ、彼らは主君を裏切ったのか。その根底には、現代人の感覚では理解し難い、当時の武士たちが抱えた深刻なジレンマがあった。彼らの多くは、家康に仕える武士であると同時に、阿弥陀如来の救済を信じる熱心な一向宗の門徒でもあった 13 。
彼らにとって、主君への忠義は現世における武士の道であり、それを違えることは裏切りであった。しかし、阿弥陀如来への信仰は、死後の極楽往生を約束する来世の救いであった。家康が、彼らが信仰の拠り所とする寺院に弓を引いた時、彼らは「主君への忠義」と「阿弥陀如来への信仰」という、二者択一を迫られたのである 1 。主君に背けば現世で裏切り者の汚名を着る。しかし、信仰を捨てて寺を攻撃すれば、来世での救いを永遠に失うことになる。この究極の選択の苦悩こそが、鉄の結束を誇った三河武士団を内側から引き裂き、この内乱をより一層悲劇的なものにした最大の要因であった。
第四部:偽りの和睦とその後 ― 宗教勢力への非情なる一手
第一章:浄珠院における和睦交渉とその条件
永禄7年(1564年)2月に入ると、戦況は新たな局面を迎える。馬頭原の戦いでの敗戦と、半年に及ぶ戦闘の長期化により、一揆方の士気は著しく低下し、厭戦気分が蔓延し始めていた 2 。一方の家康方も、辛くも軍事的優位は確立したものの、領内の疲弊は激しく、決定打を欠いたままこれ以上戦いを長引かせることは得策ではなかった。双方の利害が一致し、和睦への機運が高まっていった。
交渉の舞台となったのは、激戦地であった上和田にほど近い浄珠院であった 12 。一揆方を代表して蜂屋貞次らが交渉の席に着き、『三河物語』によれば、以下の三つの条件を提示したとされる 29 。
- 家臣たちの謀反を許すこと(離反した家臣の赦免)
- 寺を以前のままに置いておくこと(不入の特権の再確認)
- 一揆の首謀者を赦免とすること
これは、一揆の目的であった「信仰と生活の維持」と、参加した武士たちの「生命と所領の安堵」を求める、包括的な和睦案であった。
第二章:約束の反故と一向宗弾圧
家康は当初、裏切った者たちへの厳正な処分を考えていたようだが、大久保忠俊ら重臣たちの「これ以上の戦いは国を滅ぼす」との進言を受け入れ、一揆側の条件を全面的に受諾。浄珠院の太子像の前で和睦が成立した 4 。
しかし、これは家康の仕掛けた巧妙な罠であった。一揆勢が武装を解除し、各地の砦から門徒たちがそれぞれの村へと帰っていくのを見届けると、家康は和睦の約束を一方的に破棄した 7 。寺院側が「寺を以前のままに、という約束であったはずだ」と抗議すると、家康は冷徹に言い放ったと伝えられる。「以前は野原であったのだから、もとのように野原にせよ」と 8 。
この言葉通り、家康は三河三ヶ寺をはじめとする領内の一向宗寺院を徹底的に破却。空誓をはじめとする僧侶たちを三河国外へと追放した 12 。これにより、三河国は以後、天正11年(1583年)に赦免令が出されるまでの約20年間、浄土真宗が禁制の地となったのである 1 。
第三章:離反家臣への寛大な処置とその真意
寺院に対する苛烈極まる弾圧とは対照的に、一揆に加担した家臣たちへの処置は驚くほど寛大であった。酒井忠尚のように最後まで抵抗した者や、一部の首謀者を除き、その多くが赦免され、松平家への帰参を許されたのである 8 。一時は出奔した本多正信でさえ、後に重臣・大久保忠世のとりなしによって帰参を許され、家康の側近として再び重用されている 2 。
この一見矛盾した戦後処理にこそ、この内乱を通じて家康が身につけた、冷徹な統治術の本質が隠されている。家康にとって、本願寺教団という組織は、領主である自分とは別の権威と権力を持ち、領民を動員しうる「対抗勢力」であった。この組織の存在そのものが、自身の目指す一元的な領国支配の障害であり、再び反乱の温床となりかねない。したがって、組織そのものは物理的に破壊し、その指導者たちを追放する必要があった。これは家康にとって「許されざる敵」であった 33 。
一方で、本多正信や渡辺守綱といった家臣たちは、卓越した能力を持つ「人材」であった。彼らが反乱に至った動機は、あくまで「信仰」であり、その信仰の対象となる教団組織を解体・無力化してしまえば、彼らの忠誠心を再び自分のもとに向けることが可能だと家康は判断した。彼らを赦免し再登用することは、家臣団の分裂を修復し、有能な人材を失わずに済むという実利的なメリットがあった。さらに、主君の寛大さを示すことで、家臣団の結束をかえって強固にするという政治的効果も計算されていた。この「組織は潰すが、人は生かす」という巧みな分離戦略は、極めて高度な政治判断であり、この苦しい内乱の経験が、家康を単なる武将から、非情なまでのリアリズムを兼ね備えた政治家へと成長させたことを示している。
終章:三河一向一揆が徳川家康に遺したもの
約半年にわたる三河一向一揆の鎮圧は、若き家康に計り知れない影響を与え、その後の彼の治世と人生を大きく規定することになった。
第一に、家康は信仰が持つ強大なエネルギーと、それが領主の権威をも根底から揺るがす恐るべき力となりうることを、骨身に染みて学んだ 1 。この経験は、彼の宗教政策に生涯にわたる警戒心として刻み込まれる。後年、石山合戦後に本願寺が東西に分裂した際、家康が教如の東本願寺を積極的に支援したのは、本願寺の勢力を二分し、弱体化させるための深謀遠慮であり、三河での苦い経験がその背景にあったことは想像に難くない 1 。また、江戸幕府成立後にキリスト教の禁教へと舵を切ったのも、自らの統制下に置くことのできない宗教組織への根強い不信感の発露と見ることができる 33 。
第二に、この内乱を乗り越えたことは、徳川家臣団の結束を逆説的に強固なものにした。一度は敵対した者さえも許し、再び家臣団に迎え入れるという過程を経て、徳川家臣団は、単なる主従関係を超えた、運命共同体としての意識を醸成していった。この強固な家臣団こそが、その後の徳川家躍進の最大の原動力となる。
そして最後に、この一揆の鎮圧は、家康が名実ともに三河国主としての支配権を確立したことを意味した 1 。領内の抵抗勢力を一掃し、家臣団を再編したことで、家康は戦国大名として大きく飛躍する盤石な基盤を築き上げたのである。
結論として、三河一向一揆は、若き家康に生涯最大の危機をもたらした。しかし同時に、この試練は彼を、単なる地方の小領主から、冷徹な現実主義と巧みな統治術を身につけた政治家へと脱皮させた。それは、天下人・徳川家康の誕生を告げる、血塗られた通過儀礼であったと言えるだろう。
引用文献
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- 三河一向一揆 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B2%B3%E4%B8%80%E5%90%91%E4%B8%80%E6%8F%86
- 波乱万丈!若かりし徳川家康が直面した<三大危機>「三河一向一揆」「三方ヶ原の戦い」「伊賀越え」 - 城びと https://shirobito.jp/article/1777
- 家康の最初の危機にして最大の難関、三河一向一揆 Wedge ONLINE ... https://wedge.ismedia.jp/articles/-/29540?page=2
- 徳川家康の遠江支配 - お茶街道/昔ばなし http://www.ochakaido.com/rekisi/mukashi/muka10-2.htm
- TOP|幾多の危機に見舞われながらも、天下人としての土台を築いた 岡崎時代の徳川家康 https://okazaki-kanko.jp/feature/ieyasu-in-okazaki/top
- 三河一向一揆~松平家康(徳川家康) 対 一向宗~ - 中世歴史めぐり https://www.yoritomo-japan.com/sengoku/ikusa/mikawa-ikki.html
- 三河一向一揆の鎮圧後、徳川家康はなぜ離反した家臣に寛大だったのか? - 歴史人 https://www.rekishijin.com/26838
- 三河一向一揆 についての補足説明 https://okazaki.genki365.net/group_1043/assets/3-%E4%B8%89%E6%B2%B3%E4%B8%80%E5%90%91%E4%B8%80%E6%8F%86-Ver2.pdf
- 三河一向一揆(みかわいっこういっき)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E4%B8%89%E6%B2%B3%E4%B8%80%E5%90%91%E4%B8%80%E6%8F%86-138329
- 三河一向一揆- 维基百科,自由的百科全书 https://zh.wikipedia.org/zh-sg/%E4%B8%89%E6%B2%B3%E4%B8%80%E5%90%91%E4%B8%80%E6%8F%86?oldformat=true
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- どうした家康(1)一向一揆への対処で見せた家康の「冷酷」と「寛大」|Biz Clip(ビズクリップ) https://business.ntt-west.co.jp/bizclip/articles/bcl00007-093.html
- 家康 最大の危機「三河一向一揆」をいかに切り抜けたか!! https://tekuteku-namisaki.jimdofree.com/app/download/14186639389/%E4%B8%89%E6%B2%B3%E4%B8%80%E5%90%91%E4%B8%80%E6%8F%86%E3%81%A8%E5%AE%B6%E5%BA%B7.pdf?t=1684385301
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- 史跡小豆坂古戰場保存伝承会 http://yasuyama.la.coocan.jp/fubukifureai/azukizaka-kosenhozonkai-10nen.pdf
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