上ノ郷城攻略(1562)
永禄五年 上ノ郷城攻防戦 ― 若き家康、奇策をもって運命を切り拓く
序章:桶狭間後の激動と、若き松平元康の決断
今川氏という巨大な庇護の喪失と自立への道
永禄三年(1560年)五月、桶狭間の地で轟いた織田信長の鬨の声は、駿河・遠江・三河を支配した海道一の弓取り、今川義元の命運を断ち切ると同時に、戦国乱世の勢力図を根底から塗り替える歴史的な転換点となった 1 。この一戦は、長年にわたり今川家の人質として忍従の日々を送っていた若き武将、松平元康(後の徳川家康)にとって、主家の崩壊という危機であると同時に、自らの運命をその手に取り戻す千載一遇の好機でもあった。巨大な庇護を失った元康は、もはや誰かの駒として生きることをやめ、自らが乱世の打ち手となるべく、茨の道ともいえる自立への歩みを開始する。この決断こそが、二年後に繰り広げられる上ノ郷城を巡る激戦の直接的な引き金となるのである。
岡崎城帰還と西三河平定の電光石火
今川義元討死の報に接した元康は、織田軍の追撃を警戒しつつも、兵糧入れに成功したばかりの大高城を密かに退去し、祖父・清康、父・広忠以来の故郷である岡崎城への帰還を果たした 1 。故郷の土を踏んだ元康は、休む間もなく今川氏からの完全独立を宣言。その行動は電光石火の如くであった。岡崎城を拠点とすると、彼は堰を切ったように周辺の今川方勢力へと攻勢をかけ、西三河の諸城を次々と攻略、あるいは帰順させていった 1 。この驚異的な速度での西三河掌握は、元康が単なる幸運に恵まれた若者ではなく、非凡な政治的センスと軍事的指導力を兼ね備えた器であることを内外に示し、彼の次なる目標が三河一国の統一にあることを明確にした。
駿府に残された妻子という「鎖」
しかし、元康の華々しい独立劇の裏には、常に重く冷たい鎖が付きまとっていた。彼の正室である瀬名姫(築山殿)と、嫡男・竹千代(後の松平信康)、そして長女・亀姫は、依然として今川氏の本拠地である駿府に人質として留め置かれていたのである 1 。これは、元康の行動を掣肘し、その首筋に常に冷たい刃を突きつける、今川氏真が握る最後の、そして最強の切り札であった。元康が今川氏に反旗を翻せば、いつ妻子が処刑されてもおかしくない状況にあった。事実、今川氏真は元康の離反に対抗し、見せしめとして他の離反者の人質を串刺しにするなど、凄惨な処刑を行っている 6 。妻子奪還は、元康にとって三河統一という領土的野心と並ぶ、いや、時としてそれ以上に焦眉の急を要する、一個の人間としての、そして一家の主としての至上命題であった 7 。
この合戦は、単なる領土拡大を目的とした城盗りの物語ではない。それは、松平元康という一人の武将が、今川氏の「元家臣」という立場から完全に脱却し、独立した戦国大名として立つための、公私にわたる「独立戦争」のクライマックスであった。彼の行動の根底には、三河を統一するという政治的野心と、危険に晒された家族を救いたいという人間的な動機が不可分に結びついていた。この公私の動機が複雑に絡み合う点こそ、上ノ郷城攻防戦の本質を理解する上で最も重要な鍵となる。
第一章:三河湾の要衝、上ノ郷城と今川の守護者・鵜殿長照
地理的・戦略的分析:なぜ上ノ郷城が重要だったのか
上ノ郷城は、三河湾に面した東三河の沿岸部、現在の愛知県蒲郡市に位置していた 1 。標高52メートルの独立した丘陵上に築かれたその主郭からは、眼下に広がる蒲郡市街と三河湾の青い海原を一望することができた 11 。この立地は、単に風光明媚であるだけでなく、極めて重要な戦略的価値を持っていた。
第一に、陸上交通の要衝であった。西に位置する元康の本拠・岡崎城と、東に位置する今川方の最重要拠点・吉田城のほぼ中間にあり、両者を結ぶ街道を押さえる戦略拠点であった 8 。今川氏にとって、この城は西三河へ睨みを利かせ、自らの影響力を維持するための楔(くさび)そのものであった。逆に元康から見れば、上ノ郷城を攻略することは、東三河への進出路を確保し、今川勢力を東西に分断する上で絶対に避けては通れない関門だったのである 13 。
第二に、海上交通の拠点としての機能である。資料には「水軍拠点」と明確に記されてはいないものの、三河湾を一望できるその立地は、湾内の船舶の動きを完全に掌握できることを意味する 11 。当時の今川氏が水軍を擁していたことを考え合わせれば、上ノ郷城が三河湾の制海権を握り、物資の補給や兵員の輸送を担う重要な港湾拠点として機能していたことは疑いようがない。この城を失うことは、今川氏にとって三河における陸海の支配権を同時に喪失することを意味した。
城郭構造の徹底解剖:土塁と自然地形が織りなす要害
上ノ郷城は、後世に築かれた名古屋城や姫路城のような、壮麗な天守閣や堅固な石垣を持つ近世城郭ではなかった。それは、土を突き固めて壁とした「土塁」と、水の張られていない「空堀」を主たる防御施設とする、典型的な中世の山城であった 15 。
城は標高約50メートルの丘陵に築かれ、周囲の平地との高低差(比高)は約10メートルから15メートルほどであった 19 。この高低差は、攻め寄せる敵兵の勢いを削ぎ、防御側が有利に戦うための重要な要素であった。さらに、城の背後はチャートと呼ばれる非常に硬い岩石でできた急峻な山地に守られており、大軍が展開できる攻め口は極めて限定されていた 8 。
自然地形を巧みに利用するだけでなく、人為的な防御施設も充実していた。城の東側を流れる兼京川は、城を抱え込むように蛇行しており、これは防御用の外堀として機能させるために人工的に流路が変更された可能性が高いと推測されている 11 。また、城の南西に現存する熊ヶ池も、かつては城の最外郭に位置する水堀の一部であったと地元では言い伝えられている 11 。
近年の蒲郡市教育委員会による発掘調査では、V字型に掘られた堀の跡や、主郭に存在した7~8棟の掘立柱建物の痕跡が確認されている 14 。さらに、調査では火縄銃の弾丸も出土しており、この城が当時最新の兵器であった鉄砲を運用し、激しい籠城戦に備えていたことを物語っている 14 。土塁と堀、そして自然の地形が織りなす上ノ郷城は、まさに要害堅固の名にふさわしい城だったのである。
城主・鵜殿長照の人物像:今川一門としての誇りと孤立
この難攻不落の城を守る将は、鵜殿長照。彼は単なる今川家の譜代家臣ではなかった。彼の父・鵜殿長持が今川義元の妹を正室に迎えていたため、長照は義元の甥、そして現当主である今川氏真の従兄弟という、極めて近しい血縁関係にあった 9 。この「今川一門」という出自こそが、彼の行動原理を決定づける。それは揺るぎない誇りであると同時に、彼の運命を縛る重い枷でもあった。
元康とは浅からぬ因縁を持つ。桶狭間の戦いの直前、織田軍に包囲されて兵糧が尽きかけていた大高城の城代こそ、この鵜殿長照であった。そして、その窮地を救うべく、決死の兵糧入れを成功させたのが、当時今川方として戦っていた松平元康だったのである 3 。かつての恩人が、今や自らの城に牙を剥く。長照の胸中には、複雑な思いが去来していたに違いない。
彼の人物評価には、二つの側面が見られる。一つは、主君・義元の死後も今川家への忠誠を貫いた「忠義の人」という評価である 26 。しかしその一方で、鵜殿一族の記録である「鵜殿由緒書」には、父・長持の死後「行いが悪くなった」と記されており、一族の中で次第に孤立していった可能性も示唆されている 27 。
鵜殿長照の孤立は、単に彼の個人的な資質の問題ではなかった。それは、桶狭間という歴史の分水嶺によって引き起こされた、三河国における政治情勢の急変が生んだ悲劇であった。義元の死後、三河の国人領主たちは、沈みゆく今川という船から逃れるように、雪崩を打って元康のもとへ靡いていった 3 。鵜殿一族とて例外ではなく、下ノ郷や柏原といった分家は早々に元康方に寝返っている 3 。このような状況下で、今川一門という血筋ゆえに「裏切る」という選択肢を持たない長照の立場は、周囲から見れば時勢の読めない頑固者と映ったであろう。しかし彼自身にとっては、それは誇りと忠義を貫くための、あまりにも孤独な戦いであった。彼は「忠義」と「孤立」を同時に体現する、時代の転換点に翻弄された悲劇の武将だったのである。
表1:上ノ郷城の戦いにおける両軍の戦力比較
項目 |
松平軍(攻撃側) |
今川軍(防御側) |
総大将 |
松平元康(後の徳川家康) |
鵜殿長照 |
主要武将 |
久松俊勝、大久保忠俊、石川家成、松井忠次、松平清善 |
鵜殿長忠(長照の弟)、その他城兵 |
推定兵力 |
数千規模(初期攻撃隊は400名 21 ) |
数百規模 3 |
特殊戦力 |
甲賀衆(伴与七郎ら数十名) |
なし |
戦略目標 |
主目標: 鵜殿長照の子息(氏長・氏次)の生け捕り 副次目標: 上ノ郷城の攻略、東三河への進出拠点確保 |
城の死守、松平軍の撃退、今川本家からの援軍を待つ |
この戦力比較表は、両軍が置かれた状況の非対称性を明確に示している。松平軍は兵力において圧倒的に優位に立っていたが、その真の目的は城を破壊し尽くすことではなく、特定の人物、すなわち鵜殿長照の息子たちを生きたまま捕らえるという、極めて精密なものであった。これは、駿府にいる妻子との人質交換という高度な政治的目標があったからに他ならない。一方、鵜殿軍は寡兵ながらも堅城に籠もり、その目標は単純明快な防衛であった。この「目標の非対称性」こそが、元康に力押しの正攻法を諦めさせ、忍者という特殊戦力を用いた奇策へと戦略を転換させる根本的な要因となったのである。
第二章:攻城戦の幕開け ― 堅城を前にした松平軍の苦戦
永禄五年二月、開戦
永禄五年(1562年)二月、ついに松平元康は東三河攻略の第一歩として、上ノ郷城への攻撃を開始した。元康はまず、先手として竹谷城主・松平清善に400余の兵を与え、上ノ郷城を包囲させた 3 。清善は長照と異父兄弟であったともいわれ、元康はまず縁者による説得と牽制を試みたのかもしれない。しかし、鵜殿長照の抵抗の意志は固く、城兵は果敢に防戦した。松平の先遣隊は三日間にわたる猛攻で敵兵70の首級を挙げるなど奮戦したが、城の堅い守りを打ち破ることはできず、自軍にも多くの損害を出して頓挫してしまった 21 。
元康、自ら出陣
先遣隊の攻撃失敗の報を受け、元康は上ノ郷城が容易ならざる敵であることを再認識した。彼は事態を重く見て、自ら主力を率いて岡崎城から出陣。城の北西約2キロメートルに位置する名取山に本陣を構え、全軍の指揮を執ることとなった 3 。総大将の親征により、松平軍の士気は一気に高まった。
第二次総攻撃の様相と挫折
名取山に陣を敷いた元康は、軍団の主力を投入し、本格的な総攻撃の命令を下した。攻撃の主軸を担ったのは、母・於大の方の再婚相手である義父の久松俊勝、そして大久保忠俊、石川家成、松井忠次といった、松平家譜代の重臣たちであった 3 。彼らは手勢を率いて、四方から上ノ郷城へと猛然と攻めかかった。しかし、土塁と堀、そして自然の地形に守られた上ノ郷城の防御力は、松平軍の想像をはるかに超えていた。鵜殿長照率いる城兵は、寡兵ながらも地の利を活かして巧みに防戦し、松平軍の攻撃をことごとく跳ね返す。松平軍は幾度となく波状攻撃を仕掛けたが、堅城を前に一歩も中へ入ることができず、いたずらに死傷者の数を増やすばかりであった 18 。
松平軍のこの苦戦は、単に上ノ郷城が堅固であったという物理的な理由だけではない。それは、桶狭間の戦い以降、旧今川方からの帰順者などを加えて急拡大した元康の家臣団が、まだ一枚岩の強力な戦闘集団として成熟しきっていなかったことを示唆している。元康は西三河を電光石火の速さで平定したが、それは元々松平氏の旧領であり、抵抗よりも帰順を選ぶ者が多かったため、大規模な攻城戦を経験することは少なかった。対して上ノ郷城は、今川一門が文字通り命を懸けて守る城であり、若き元康軍にとって初めて経験する本格的な「力と力のぶつかり合い」であった。この初期段階での手痛い失敗は、若き元康と彼の軍団が、三河統一という大事業を成し遂げるために乗り越えなければならない「成長の痛み」だったのである。そしてこの経験は、彼に「力押しだけでは乱世を勝ち抜けぬ」という貴重な教訓を与え、常識にとらわれない奇策を用いる、柔軟な思考へと導いていくことになる。
第三章:闇夜の奇策 ― 甲賀衆、上ノ郷城に潜入す
正攻法から奇策へ:元康の決断
度重なる総攻撃の失敗に、元康は業を煮やした。これ以上、力攻めを続けても貴重な兵を失うだけだと判断した彼は、ついに正攻法に見切りをつける。この絶体絶命の状況で、一つの画期的な策が献じられた。家臣の松井忠次が元康に進み出て、「甲賀(こうか)の忍びを使い、夜陰に乗じて城内に忍び込ませ、火を放って混乱を引き起こし、その機に乗じて一気に攻め落とす」という奇策を進言したとされる 21 。武士の誉れである正々堂々の戦いとはかけ離れたこの策に、当初は躊躇もあったかもしれない。しかし、元康は現状を打破するため、この前代未聞の作戦の採用を決断した 13 。
甲賀衆の投入と作戦指揮官
この極秘作戦の実行部隊として白羽の矢が立てられたのは、近江国甲賀郡を拠点とする忍びの一団、甲賀衆であった 18 。彼らは山岳でのゲリラ戦や情報収集、破壊工作に長けたプロフェッショナル集団であり、その能力は各地の戦国大名に高く評価されていた。
作戦の指揮を執った中心人物は、甲賀武士の中でも名うての忍者、伴与七郎(ばん よしちろう)、本名を資定(すけさだ)という男であった 32 。彼は数十名の精鋭を率いて、この困難な任務に臨んだ 34 。
なお、後世に「鬼半蔵」として名を馳せる服部半蔵(正成)の関与については諸説が存在する。伊賀者である半蔵がこの作戦に参加した、あるいは指揮したという記録もあるが 1 、その役割は定かではないとする史料も多い 25 。この上ノ郷城攻めにおける闇夜の主役は、あくまで伴与七郎率いる甲賀衆であったと考えるのが妥当であろう。
【時間軸再現】永禄五年二月四日、夜半
永禄五年二月四日の夜、空には月もなく、漆黒の闇が上ノ郷城を包み込んでいた。城内の兵たちが度重なる戦闘の疲れからしばしの休息をとる頃、歴史を動かす奇襲作戦が静かに始まった 30 。
- 亥の刻(午後10時頃) : 伴与七郎率いる甲賀衆が、松平軍の陣地を密かに出立。草木や獣に擬態しながら、音もなく城の警戒網に接近する。彼らは事前に城の地形、構造的な弱点、警備が手薄になる時間帯や抜け道などを徹底的に調査していた。鉤縄や石垣を登るための特殊な手甲鉤(てっこうかぎ)、打ち釘といった道具を駆使し、常人には不可能と思えるような土塁や塀を次々と乗り越えていった 38 。
- 丑の刻(午前2時頃) : 甲賀衆、城内への潜入に完全に成功。部隊をいくつかに分け、風下にある兵糧庫、武具蔵、物見櫓といった重要施設に狙いを定める。彼らは携帯していた油や火薬を用いた発火装置を、音を立てぬよう慎重に仕掛けていった 40 。
- 丑三つ時(午前2時半頃) : 作戦決行の刻。合図と共に、城内の各所で一斉に火の手が上がった 30 。乾燥した冬の夜、折からの風にあおられた炎は、木造の建物をなめるように瞬く間に燃え広がり、夜空を赤く染め上げた。
- 混乱の醸成 : 甲賀衆の真骨頂は、ここからであった。彼らは単に火を放つだけでは終わらない。放火と同時に、城内の闇に潜み、腹の底から絞り出すような大声で叫び始めた。「裏切り者が出たぞ!」「大手門が開かれた!」「敵はすで本丸にあり!」。これらの虚報は、炎と煙によるパニックと相まって、城兵の間に致命的な疑心暗鬼を生み出した 34 。誰が味方で誰が敵なのか、どこから敵が侵入したのか、指揮系統は完全に麻痺し、鵜殿軍は組織的な抵抗力を内側から完全に破壊されたのである。
この作戦の成功の鍵は、単なる「放火」という物理的な破壊ではなく、虚報による「心理戦」を巧みに組み合わせた点にある。当時の武士にとって、最も恐ろしいのは正面からの敵襲よりも、内部からの裏切りであった。甲賀衆はこの恐怖心を的確に突き、鵜殿軍を戦闘不能に陥れた。これは、忍術の秘伝書に記されている「敵の心を乱し、戦わずして勝つ」という教えを実践したものであり、彼らが単なる破壊工作員ではなく、人間の心理を巧みに操る高度な戦術家集団であったことを如実に示している。
第四章:落城と鵜殿長照の最期
混乱に乗じた松平軍の総攻撃
城内から火の手が上がり、鬨の声にも似た絶叫が夜空に響き渡るのを合図に、名取山で息を潜めて待機していた松平軍の本隊が動いた。元康の号令一下、数千の兵が鬨の声をあげ、地の底から湧き上がる津波のように城へと殺到した 3 。城内の鵜殿兵は、燃え盛る炎を消し止めようとする者、虚報に惑わされて右往左往する者、そして城壁に殺到する松平軍に応戦しようとする者と、完全に混乱状態に陥っていた。火事への対応と敵襲への防御という二正面作戦を強いられた彼らに、もはや組織的な抵抗は不可能であった。
主郭での攻防と鵜殿長照の死
松平軍は、抵抗力を失った城兵を蹴散らし、大手門を打ち破って城内へと雪崩れ込んだ。彼らの目標はただ一つ、城主・鵜殿長照が最後の抵抗を試みているであろう主郭であった。
鵜殿長照の最期については、複数の説や伝承が残されている。
最も信憑性が高いとされるのは、甲賀衆の働きによるものである。『改正三河後風土記』などの史料によれば、城内での乱戦の末、あるいは炎上する城から落ち延びようとしたところを、この奇襲作戦を指揮した甲賀忍者・伴与七郎その人によって討ち取られたとされている 33。後日行われた首実検の際、討ち取った首が本当に大将・長照のものであるか確証がなかったが、その首から長照が日頃から愛用していた高級な香木である伽羅(きゃら)の香りがしたことから、本人であると確認されたという逸話も伝わっている 35。
一方で、地元である蒲郡市には、より人間味あふれる伝説が根強く残っている。それは、城から辛くも逃れた長照が、安楽寺近くの坂道まで落ち延びたところで追手に追いつかれ、一騎討ちの末、不運にも木の根につまずいて転倒したところを討たれた、というものである 21 。この坂は長照の無念にちなんで「鵜殿坂」と呼ばれ、「この坂で転ぶと怪我が治らない」という言い伝えが今なお残っている。これは、長照の非業の死を悼む地元の人々の心情が、後世に生み出した伝承としての側面が強いと考えられる。
二人の息子の捕縛:作戦目標の達成
凄惨な乱戦の中、甲賀衆はもう一つの、そして最大の任務を着実に遂行していた。彼らは鵜殿長照の二人の息子、鵜殿氏長と鵜殿氏次を発見すると、殺害することなく生きたまま捕縛することに成功した 1 。これにより、松平元康がこの合戦に賭けた最大の戦略目標は、完璧な形で達成された。上ノ郷城は、夜明けを待たずして完全に陥落したのである。
終章:人質交換と三河統一への道 ― 戦いがもたらした深遠なる影響
石川数正による交渉と歴史的な人質交換
上ノ郷城の陥落と鵜殿長照の討死、そしてその息子たちの捕縛という報は、直ちに元康のもとへ届けられた。彼はただちに次なる行動、すなわちこの戦いの最終目的であった人質交換の交渉へと移る。元康は、捕虜とした鵜殿氏長・氏次兄弟の身柄と引き換えに、駿府に囚われている自身の妻子(瀬名、信康、亀姫)を解放するよう、今川氏真に要求した 1 。
この極めて繊細かつ重要な交渉の使者として駿府へ赴いたのは、譜代の重臣であり、優れた外交手腕を持つ石川数正であった 45 。今川氏真は、父・義元を討たれ、家臣の離反が相次ぐ中で、元康からの要求に激しい怒りと屈辱を覚えたであろう。しかし、彼にとって鵜殿兄弟は単なる家臣の子ではない。亡き父の甥であり、自らの従兄弟にあたる近しい血縁者であった。この二人を見殺しにすることは、今川一門の権威を自ら貶める行為であり、残った家臣たちの忠誠心をも揺るがしかねない 18 。苦渋の決断の末、氏真はこの交換条件を呑まざるを得なかった。交渉は成立し、瀬名姫、竹千代、亀姫は無事、岡崎城へと帰還を果たした 1 。元康はついに、長年彼の行動を縛り付けてきた最大の枷から解放されたのである。
今川氏の威信失墜と元康の三河における覇権確立
この人質交換は、東海地方の勢力図に決定的な影響を与えた。今川氏にとって、それは単なる人質の交換以上の、致命的な権威の失墜を意味した 6 。重要拠点を奇策によって落とされ、一門の者を人質に取られて元家臣の要求に屈したという事実は、今川氏真の求心力を著しく低下させた。これを機に、三河国内の今川方勢力は完全に一掃され、さらには遠江国においても今川氏を見限る離反者が続出する結果を招いた 6 。
一方、勝利者である元康は、公私にわたる全ての障害を取り除き、名実ともに三河の新たな支配者としての地位を確立した。今川氏との関係を完全に断ち切った彼は、これより三河一国の統一へと本格的に邁進していく 1 。この上ノ郷城での勝利と人質奪還の成功は、若き元康が一個の独立した戦国大名として飛躍する、極めて重要な一局面となったのである。
「忍者」の価値の再定義と、後の徳川軍団への影響
上ノ郷城の戦いは、軍事史においても特筆すべき意義を持つ。それは、史料で確認できる中では、忍者の活躍によって城が陥落した、日本史上最古級の事例とされるからである 16 。この戦いは、忍びが単なる間諜や暗殺者ではなく、戦局そのものを覆す力を持った特殊戦力であることを証明した。
そして、この戦いが後世に与えた最も深遠な影響は、元康が伴与七郎に与えた一通の「感状」に集約される。感状とは、主君が家臣の武功を公式に称えるための褒賞状である。戦後、元康は伴与七郎の功績を高く評価し、この感状を授与した 35 。この「永禄五年二月六日付 伴資定宛 松平元康感状」と記された実物は、奇跡的に現存しており、泰巖歴史美術館に所蔵されている 31 。
この感状の授与は、単なる褒賞以上の、画期的な意味を持っていた。当時の武士社会において、武功とは槍働きに代表される表舞台での華々しい活躍が第一とされ、忍びの働きは有効であっても裏方の「汚い仕事」と見なされる傾向があった 18 。しかし元康は、正攻法では全く歯が立たなかった堅城を、忍びの力によって鮮やかに攻略した。彼はこの事実を隠したり、矮小化したりするのではなく、公式な文書という形で記録に残し、正規の武功として認定したのである。これは、元康が身分や旧来の慣習にとらわれない、極めて実利主義的かつ先進的な思考の持ち主であったことを示している。この上ノ郷城での成功体験と、忍びの働きを正当に評価する姿勢こそが、後の徳川家における伊賀同心・甲賀組の重用へと繋がり、本能寺の変の直後の「神君伊賀越え」といった絶体絶命の危機を救う礎を築いた。上ノ郷城の戦いは、徳川家と忍びの固い絆が結ばれる、まさにその原点となったのである。
鵜殿一族と上ノ郷城のその後
戦いの後、主を失った上ノ郷城には、この合戦で功のあった元康の義父・久松俊勝が城主として入った 3 。一方、人質交換によって今川方に戻された鵜殿氏長・氏次兄弟は、歴史の皮肉というべきか、今川家が滅亡した後に徳川家康に仕え、その家臣となっている 3 。そして上ノ郷城は、天正十八年(1590年)に家康が豊臣秀吉の命により関東へ移封されると、その戦略的価値を失い、歴史の舞台から静かに姿を消して廃城となった 9 。現在、城跡には往時を偲ばせる土塁が残り、訪れる人々に若き日の家康とその運命を懸けた戦いの記憶を静かに語りかけている。
引用文献
- 上ノ郷城の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E3%83%8E%E9%83%B7%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
- 鵜殿長持・長照 | 歴史 - みかわこまち https://mikawa-komachi.jp/history/udononagamochi.html
- 上ノ郷城 https://ss-yawa.sakura.ne.jp/menew/mikawa/shiseki/higashi/kaminogo.j/kaminogo.j.html
- TOP|幾多の危機に見舞われながらも、天下人としての土台を築いた 岡崎時代の徳川家康 https://okazaki-kanko.jp/feature/ieyasu-in-okazaki/top
- 瀬名と子供たちの人質交換はあったのか?(「どうする家康」20) https://wheatbaku.exblog.jp/32896214/
- 無謀な「瀬名奪還作戦」に今川氏真が苦悩した裏側 価値の釣り合わない人質交換に渦巻いた思惑 https://toyokeizai.net/articles/-/651047?display=b
- 徳川家康の正室・瀬名姫とは?39歳で殺害された美貌の姫を3分で解説 - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/204821/
- 「上ノ郷城の戦い」と地形・地質【合戦場の地形&地質vol.2-1】 - note https://note.com/yurukutanosimu/n/n820220ced3cd
- 上ノ郷城跡(かみのごうじょうせき) https://www.sena-vision.jp/tourism/detail/62dfe895c18eb/
- 上ノ郷城@蒲郡(その2) - 徳川家康で学ぶ科学・技術 https://ieyasu.hatenablog.jp/entry/2023/05/03/041035
- 上ノ郷城跡、日本史専攻として。 - 鈴木まさひろ(鈴木将浩) 蒲郡市議会議員 https://suzukimasahiro.jp/archives/598
- 上ノ郷城跡 愛知県蒲郡市 鵜殿氏 https://kaminogojo.com/
- 名将 鵜殿長照 対 甲賀忍者 伴七郎。蒲郡市在住の作家、新井聡渾身のデビュー作『忍者 伴七郎 ~上ノ郷城合戦~』発売!永禄5年(1562年)徳川家康が落城させた、上ノ郷城合戦を小説化。 | 株式会社パレードのプレスリリース - PR TIMES https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000357.000046294.html
- 上ノ郷城跡について - 蒲郡市博物館 - 愛知県蒲郡市公式ホームページ https://www.city.gamagori.lg.jp/site/museum/kaminogo-index.html
- www.city.gamagori.lg.jp https://www.city.gamagori.lg.jp/site/museum/kaminogo-index.html#:~:text=%E4%B8%8A%E3%83%8E%E9%83%B7%E5%9F%8E%E8%B7%A1%E3%81%AF%E3%80%81%E6%88%A6%E5%9B%BD%E6%99%82%E4%BB%A3,%E3%81%9F%E3%81%A8%E8%80%83%E3%81%88%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%BE%E3%81%99%E3%80%82
- 蒲郡市観光協会公式サイト「がまごおり、ナビ」 » 上ノ郷城址 https://www.gamagori.jp/spot/1423
- 上ノ郷城 竹谷城 余湖 http://yogokun.my.coocan.jp/aiti/gamagoorisi.htm
- 家康を辿る城旅「上ノ郷城」!要害堅固の城に挑む家康、甲賀忍者を用いた攻城戦 https://favoriteslibrary-castletour.com/aichi-kaminogojo/
- 「上ノ郷城の戦い」と地形・地質【合戦場の地形&地質vol.2-2】 - note https://note.com/yurukutanosimu/n/n7e55b1acd33f
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