最終更新日 2025-08-28

上原城の戦い(1542)

天文十一年 諏訪侵攻:武田信玄、信濃制覇への道

序章:甲斐の若き虎、信濃への野望

天文十一年(1542年)、日本の歴史が大きく動いたこの年、甲斐国(現在の山梨県)に一人の若き武将がその名を轟かせようとしていた。武田晴信、後の信玄である。彼の視線の先には、隣国・信濃国(現在の長野県)の広大な大地が広がっていた。本報告書は、晴信が信濃侵攻の第一歩として断行した「上原城の戦い」を含む一連の諏訪侵攻作戦について、その背景、詳細な時系列、そして歴史的意義を徹底的に分析・解説するものである。

天文年間初期の東国情勢

当時の東国は、相模の北条氏、駿河の今川氏、そして関東管領たる上杉氏が覇を競う、まさに群雄割拠の時代であった。四方を山に囲まれた内陸国である甲斐の武田氏にとって、領国の発展と安全保障のためには、外への出口を確保することが至上命題であった。特に信濃国は、豊かな穀倉地帯を抱え、越後や関東へと通じる戦略的要衝であり、武田氏がその勢力を拡大するためには避けて通れない土地であった 1

若き当主・武田晴信

天文十年(1541年)、晴信は突如として父・信虎を駿河へ追放するというクーデターを敢行し、武田家の家督を掌握した 3 。これは単なる代替わりではなく、武田家の対外政策における一大転換点を意味していた。信虎は周辺勢力との同盟や和睦を基軸とする比較的安定志向の外交を展開していたが、若き晴信は武力による積極的な領土拡大路線を選択した。その最初の、そして最も象徴的な標的が、信濃の玄関口に位置する諏訪郡であった。この諏訪侵攻は、晴信が新たな当主として、その力量と決意を甲斐の内外に満天下に示すための、最初の試金石となるべき戦いであった 5

父・信虎は諏訪氏と婚姻同盟を結び、関係を安定させていた 4 。しかし晴信は家督を継ぐや否や、その義兄にあたる諏訪頼重を攻撃の対象とした 5 。これは単なる裏切り行為に留まらない。父・信虎が築いた「協調・同盟」路線を自らの手で完全に破壊し、これからは「武力による征服・拡大」の時代であることを宣言する、極めて意図的かつ象徴的な行動であった。すなわち、諏訪侵攻は武田家の内部的な権力闘争の最終幕であり、晴信による新体制の樹立を内外に知らしめるための政治的デモンストレーションだったのである。

信濃の玄関口・諏訪

諏訪郡は、甲斐から信濃へ至る主要な経路上にあり、地政学的に極めて重要な位置を占めていた。さらに、この地は古来より諏訪大社が鎮座する信仰の中心地であり、その神威は信濃全域に及んでいた 8 。諏訪大社は軍神としても篤い信仰を集めており、この地を支配することは、軍事的な優位を確保するだけでなく、信濃の国人衆に対する精神的な影響力をも手中に収めることを意味した。晴信は、諏訪を制することが信濃全域の攻略に向けた決定的な布石となると確信していたのである 10

しかし、義兄の国を攻めるには相応の理由が必要であった。晴信は、単に軍事力で蹂躏するのではなく、「100年ほど滞っていた諏訪社の御頭役(祭事における役割分担)を復活させる」という大義名分を巧みに掲げた 8 。これは、侵略という実態を「神社の秩序回復」という神聖な行為に見せかけるための、高度な政治的プロパガンダであった。神事を口実にすることで、諏訪郡内の国衆や民衆の反感を和らげ、自らの軍事行動を正当化する狙いがあった。この一点からも、晴信が家督相続の当初から、軍事と謀略を両輪として駆使する冷徹な戦略家であったことが窺える。

第一部:崩壊への序曲 ― 諏訪に渦巻く不和の種

武田晴信の侵攻が成功した背景には、彼の卓越した戦略眼もさることながら、標的とされた諏訪氏が内包していた深刻な構造的脆弱性が存在した。晴信は、諏訪内部に深く根差した対立の火種を見抜き、それに巧みに油を注ぐことで、最小限の力で最大限の成果を上げたのである。

第一章:信虎が結び、晴信が断つ ― 武田・諏訪の婚姻同盟とその変質

かつて武田氏と諏訪氏は、信濃の覇権を巡り幾度となく干戈を交える宿敵同士であった。しかし、武田信虎の代になると両者は和睦し、天文九年(1540年)、信虎の三女・禰々が諏訪惣領家の当主・諏訪頼重の正室として嫁いだ 4 。この婚姻により、両家は強固な同盟関係を築き、一時的な安定期を迎えていた。

しかし、この同盟は晴信の家督相続によってその意味を大きく変える。晴信にとって、父が結んだこの同盟は、もはや尊重すべき外交資産ではなかった。むしろ、諏訪頼重を油断させ、警戒を解かせるための絶好の偽装として機能した。頼重は、晴信が実の妹婿である自分に牙を剥くとは想定しておらず、その油断が命取りとなったのである 3

第二章:現人神の家中に潜む亀裂 ― 惣領家、高遠氏、下社の三者鼎立

当時の諏訪郡は、一枚岩とは到底言えない状況にあった。複数の対立軸が複雑に絡み合い、いつ内部崩壊が起きてもおかしくない火薬庫のような状態だったのである。

諏訪大社上社と下社の歴史的対立

諏訪大社は、諏訪湖を挟んで南に上社、北に下社が鎮座する。上社を奉じてきたのが諏訪氏惣領家であり、下社を奉じてきたのが金刺(かなさし)氏であった。両者は鎌倉時代からどちらが本社であるかを巡って争いを続けており、戦国時代に至る頃には、上社の諏訪氏が下社の金刺氏を武力で圧倒し、その勢力を大きく削いでいた 1 。このため、金刺氏をはじめとする下社勢力は、諏訪惣領家に対して深い恨みと反感を募らせており、外部勢力と結びついてでも惣領家を打倒しようとする潜在的な反乱分子となっていた 15

惣領家と分家・高遠氏の対立

さらに深刻だったのが、諏訪一族内部の対立である。伊那郡の高遠城を本拠とする高遠頼継は、諏訪氏の分家筋でありながら、常に惣領家の地位を虎視眈々と狙っていた 3 。彼は、現当主である諏訪頼重を打倒し、自らが諏訪郡全体の支配者となる野望を抱いていた。この野心を達成するためならば、外部の力、すなわち武田の軍事力を利用することも厭わない、危険な野心家であった 14

晴信は、この諏訪内部に渦巻く二つの大きな亀裂、すなわち「上社対下社」と「惣領家対高遠氏」という対立構造を正確に見抜いていた。そして、高遠頼継と下社の金刺氏に密かに接触し、調略によって彼らを味方に引き入れることに成功する 1 。これにより、晴信は諏訪を攻めるにあたり、敵地内部に強力な協力者を得るという、極めて有利な状況を作り出したのであった。

第三章:人物像の考察

この歴史的悲劇を演じた三人の主要人物の性格と立場を理解することは、戦いの本質を掴む上で不可欠である。

諏訪頼重(1516-1542)

信濃四大将の一人に数えられる武将でありながら、同時に諏訪大社の最高神官である「大祝(おおほうり)」を務める、現人神(あらひとがみ)とされた人物 4 。彼は、世俗的な領主としての顔と、神聖な祭司としての顔を併せ持つ、特異な存在であった。この二重の権威は、平時においては彼の支配を絶対的なものにしたが、乱世においては致命的な脆弱性を生んだ。宗教的権威は絶対的であるはずが、高遠氏との世俗的な権力闘争によってその神聖さは揺らぎ、敵対者にとっては「打倒可能な人間」と見なされる隙を与えた。晴信は、この「神でありながら人である」という構造的矛盾を冷徹に見抜き、宗教的権威に臆することなく、一人の戦国大名として攻略対象と見なしたのである。頼重は武田信虎との同盟を信じ、義兄である晴信の侵攻意図を最後まで見抜けなかった 3 。その生涯は、乱世に翻弄された悲劇の将として記憶されている。

高遠頼継(生年不詳-1552?)

諏訪惣領家の地位への野心にその身を焦がした人物 17 。彼にとって、武田晴信の出現は、長年の野望を達成するための千載一遇の好機であった。彼は武田と手を結ぶことで頼重を排除できると考えたが、それは同時に、自らの領地に虎を招き入れる行為に他ならなかった。彼の短絡的な野心は、結果として諏訪惣領家を滅亡に導き、最終的には彼自身の破滅をも招くこととなる。

武田晴信(1521-1573)

父を追放して若くして国主となった、冷徹なリアリストであり、卓越した戦略家。彼は諏訪内部の対立構造を巧みに利用し、最小限の犠牲で最大の戦果を挙げることを目指した。婚姻同盟を反故にし、義兄を躊躇なく攻め滅ぼす非情さ。敵の敵を味方につける巧みな調略。そして、神聖な権威をも恐れぬ大胆さ。この諏訪侵攻において、後の「戦国最強」と謳われる信玄の片鱗が、遺憾なく発揮されていたのである 16

第二部:電光石火の侵攻 ― 諏訪惣領家、滅亡への七日間

天文十一年(1542年)六月下旬、武田晴信による諏訪侵攻作戦の火蓋は切られた。それは、周到な調略と軍事行動が一体となった、まさに電光石火の短期決戦であった。諏訪惣領家が滅亡に至るまでの、運命の七日間を時系列で追う。

第一章:【天文十一年六月二十四日~七月一日】 侵攻開始と矢崎原の対峙

六月二十四日

武田晴信は躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)を出陣し、全軍に諏訪侵攻の号令を発した 19。その日の夜には、早くも武田軍来襲の報が諏訪頼重の元にもたらされる。しかし頼重は、晴信が義理の弟であることから、この報告をにわかには信じることができなかった。「まさか晴信殿が…」。この疑念と油断が、諏訪方の初動を致命的に遅らせることになった 3。

六月二十九日

武田軍本隊は、甲斐と諏訪の国境地帯に位置する御射山(みさやま、現在の富士見町)に広大な陣を敷いた 3。その軍勢は数千から二万とも言われ、諏訪方が動員しうる兵力を遥かに凌駕していた 3。

七月一日

武田軍はさらに前進し、上原城の目と鼻の先である長峰(現在の茅野市宮川)にまで迫った 3。ここにきてようやく頼重も迎撃を決意し、上原城から兵を出して矢崎原(やさきはら)に布陣。両軍はついに直接対峙することとなった 1。しかし、この時点で諏訪軍の兵力は騎馬150、歩兵700から800人程度に過ぎず、武田の大軍を前にしては、その戦力差は歴然としていた 19。

第二章:【七月二日】 挟撃 ― 杖突峠を越える高遠軍と、上原城放棄の決断

七月二日、早朝から昼にかけて

矢崎原で両軍が睨み合いを続ける中、戦況を決定づける動きが諏訪軍の背後で起きていた。晴信と密約を交わしていた高遠頼継の軍勢が、険しい杖突峠(つえつきとうげ)を越え、諏訪盆地へと雪崩れ込んできたのである 1。

午後

高遠軍は、諏訪上社の要衝である安国寺門前(現在の茅野市)に火を放った 21。突如として背後に現れたもう一つの敵。これにより、矢崎原に布陣する諏訪軍は、前方から武田本隊、後方から高遠軍に挟撃されるという、絶望的な戦術的劣勢に陥った 1。

この挟撃の危機を前に、頼重は苦渋の決断を下す。本拠地である上原城での籠城戦は不可能と判断し、城に自ら火を放って放棄。全軍を率いて、詰城(つめのしろ)である桑原城へと退却を開始したのである 1。上原城から立ち上る黒煙は、諏訪惣領家の栄華の終わりを告げる狼煙となった。

第三章:【七月三日~四日】 桑原城、絶望の籠城と降伏

七月三日

頼重が逃げ込んだ桑原城は、上原城の支城であり、大規模な籠城戦を想定した堅固な城ではなかった 27。武田軍は高橋口から、高遠軍は大熊口から、たちまち城を幾重にも包囲した 1。城兵は必死の抵抗を見せるが、多勢に無勢の状況は覆しがたい。この攻防戦の中で、諏訪家の重臣であった千野伊豆入道や千野南明庵らが次々と討死を遂げた 1。さらに、主君が本城をあっさりと焼き捨てて逃げたという事実は、家臣たちの士気を著しく低下させた。多くの兵が頼重を見限り、城から逃亡し始めたのである 28。

七月四日

城内の兵は四散し、もはや組織的な抵抗は不可能な状態に陥った。これ以上の籠城は無意味な殺戮を増やすだけであると悟った頼重は、ついに降伏を決意する。晴信からの和議の申し入れを受諾し、桑原城の城門を開いた 1。この時の和議の具体的な内容は史料に残されていないが、頼重自身の助命が条件として提示されたと推察される 1。

日付

武田軍(晴信)の動向

諏訪軍(頼重)の動向

高遠軍(頼継)の動向

戦況の要点

天文11年6月24日

甲府を出陣。諏訪侵攻を発令。

武田軍来襲の報を受けるも、義兄弟関係から半信半疑で初動が遅れる。

(武田と密約済み)

武田軍の侵攻開始。諏訪方の油断。

6月29日

諏訪国境の御射山に着陣。

-

-

武田軍、諏訪領へ進駐完了。

7月1日

長峰へ前進。

矢崎原に布陣し、武田軍と対峙。

-

両軍が初対峙。兵力差は歴然。

7月2日

矢崎原で諏訪軍を牽制。

挟撃の危機に陥る。

杖突峠を越え、諏訪盆地に侵入。安国寺門前に放火。

高遠軍の背後からの奇襲により、諏訪軍は挟撃される。

同日夜

桑原城への追撃を開始。

上原城を自焼し、桑原城へ退却。

桑原城包囲に合流。

諏訪軍、本拠地を放棄。戦いの主導権は完全に武田方へ。

7月3日

高橋口から桑原城を包囲攻撃。

桑原城で籠城戦。重臣が討死し、兵の士気が崩壊。

大熊口から桑原城を包囲攻撃。

絶望的な籠城戦。諏訪軍は内部から崩壊。

7月4日

和議を受諾。

降伏し、桑原城を開城。

-

諏訪惣領家の軍事抵抗が終結。

第四章:【七月二十一日】 約束の行方 ― 甲府・東光寺に消えた諏訪の血

頼重が信じた和議の約束は、しかし、晴信にとっては最初から守るつもりのない口約束に過ぎなかった。城を出た頼重と、弟の頼高は、その場で捕縛され、武田氏の本拠地である甲府へと護送された 1

甲府の東光寺に幽閉された兄弟に待っていたのは、武士としての名誉ある死ではなく、屈辱的な自刃の強要であった 4 。天文十一年七月二十一日、諏訪頼重は弟・頼高と共にその短い生涯を閉じた。享年二十七 4 。この日をもって、鎌倉時代から続く信濃の名門・諏訪惣領家は、事実上滅亡したのである 4

第三部:偽りの同盟者 ― 高遠頼継の野望と宮川の合戦

諏訪惣領家の滅亡は、諏訪郡の混乱の終わりを意味しなかった。むしろ、それは新たな争乱の始まりであった。武田晴信は、かつて諏訪頼重を滅ぼすために利用した協力者・高遠頼継を、今度は「秩序を乱す逆賊」として討伐する側に回る。ここには、晴信の冷徹なマキャベリズムが色濃く表れている。

第一章:諏訪郡分割統治と、頼継の誤算

頼重の死後、晴信と頼継の間で交わされた密約通り、諏訪郡は宮川を境として分割統治されることになった。東半分を武田氏が、西半分を高遠頼継が領有するという取り決めである 1

しかし、諏訪郡全体の支配者となることを夢見ていた頼継にとって、この結果は到底満足できるものではなかった 3 。彼は、今回の戦勝は自らの功績によるところが大きいと考えており、武田に領地の半分を奪われることに強い不満を抱いた。そして、彼は致命的な誤算を犯す。武田の力を過小評価し、今度は武田を追い払って、自らが諏訪の唯一の支配者になれると思い込んでしまったのである。

第二章:【九月】 寅王を掲げた武田軍、再び諏訪へ

九月十日

頼継はついに武田に対して反旗を翻した。手始めに、武田の支配下にあった諏訪氏のかつての本拠・上原城を攻撃し、これを占拠。返す刀で諏訪下社をも制圧し、諏訪郡全域の武力統一に乗り出した 3。

九月十一日~十九日

頼継謀反の報は、直ちに甲府の晴信の元に届いた。晴信の対応は迅速かつ的確であった。まず、譜代家老の板垣信方を先発隊として諏訪へ急行させ、自身も直ちに出陣の準備を整えた 33。

この時、晴信は驚くべき政治的パフォーマンスを見せる。彼は、滅ぼしたばかりの諏訪頼重の遺児、すなわち正室・禰々(晴信の妹)が生んだばかりの赤子・寅王(とらおう)を輿に乗せて掲げ、自らは「諏訪家の正統な後継者である寅王の後見人」であるという立場で出陣したのである 3

これは、状況に応じて敵と味方を自在に入れ替え、常に自らが正義の側に立つよう演出する、晴信の非情なまでの計算高さを示すものであった。つい二ヶ月前には、高遠頼継を「味方」として利用し、最大の障害であった諏訪頼重を排除した。そして今度は、頼重の息子である寅王を「味方(の象徴)」として利用し、用済みとなった高遠頼継を「諏訪家の正統な後継者に弓引く逆賊」として討伐しようというのである。この「使い捨て」の調略術こそ、晴信の真骨頂であった。

第三章:【九月二十五日】 宮川での激突と、武田軍の圧勝

晴信の戦略は、諏訪の国人衆の心を的確に捉えた。高遠頼継は、諏訪惣領家を打倒する際に武田という外部勢力の力を借りたため、諏訪郡内での求心力はもともと弱かった。彼には「諏訪の正統な支配者」という大義名分が欠けていたのである。一方、晴信は寅王を擁することで、「諏訪氏の正統を守る」という、誰もが否定できない大義名分を手に入れた。

結果は明白であった。頼重の叔父・諏訪満隆をはじめとする諏訪一族や旧臣たちは、次々と「逆賊」頼継を見限り、正嫡・寅王を掲げる武田軍へと馳せ参じた 3

九月二十五日、未の刻(午後2時頃)

晴信率いる武田軍と、高遠頼継の軍勢は、安国寺前の宮川を挟んで激突した(宮川の合戦) 23。

酉の刻(午後6時頃)

戦いはわずか数時間で決着した。人心を失った高遠軍は総崩れとなり、頼継の弟である蓮芳(れんほう)をはじめ、700名から800名もの兵が討ち取られた 33。武田軍の圧勝であった。総大将の頼継は、命からがら杖突峠を越え、本拠地である高遠城へと敗走していった 33。この戦いの敗北により、頼継が諏訪の支配者となる夢は、完全に潰えたのである。

第四部:諏訪を手中に ― 信濃侵攻の礎を築く

宮川の合戦の勝利により、武田晴信は諏訪郡全域を完全にその手中に収めた。しかし、彼の諏訪支配の戦略は、単なる軍事占領に留まらなかった。統治体制の確立と、血縁による支配の正当化という、二段構えの深謀遠慮が巡らされていたのである。

第一章:板垣信方による統治と、諏訪の武田領化

宮川の合戦後、諏訪郡は名実ともに武田氏の領国に組み込まれた 3 。晴信は、譜代家老の中でも特に信頼の厚い板垣信方を初代の「諏訪郡代」に任命した 24

信方は上原城を拠点とし、諏訪の統治体制を固めていった。これにより、諏訪は単なる占領地から、武田氏の信濃侵攻における恒久的な前線基地へとその姿を変えた 10 。甲斐からの兵站線が確保され、ここを足掛かりとして、武田軍はさらに北の佐久郡や小県郡へと、その侵攻の矛先を向けていくことになる 36 。諏訪の平定は、武田氏の信濃攻略事業における、まさに礎石となったのである。

第二章:血による支配の完成 ― 諏訪御料人と武田勝頼の誕生が持つ意味

軍事と政治によって諏訪を支配下に置いた晴信は、さらにその支配を盤石にするための、驚くべき一手を打つ。天文十一年十二月、彼は滅ぼした仇敵・諏訪頼重の娘(側室・小見氏の子)を、自らの側室として甲府に迎えたのである。彼女こそ、後に「諏訪御料人」と呼ばれる女性である 4

そして天文十五年(1546年)、二人の間に一人の男子が誕生する。武田四郎勝頼である 37

この一連の出来事は、単なる政略結婚や、戦利品として敵の娘を奪うといった次元の話ではない。それは、武田氏による諏訪の「神威の簒奪」とも言うべき、壮大な戦略であった。諏訪氏は、現人神を輩出する神聖な家系である 40 。晴信がその血を引く娘を娶り、子を成すことは、単に領地を支配するだけでなく、諏訪氏が代々受け継いできた「神性」そのものを、武田家に取り込むことを意味した 8

武田勝頼は、父である武田晴信の武威と、母である諏訪御料人の神威を、その一身に体現する存在として、意図的にこの世に生み出された。これにより、武田氏の諏訪支配は、軍事力や政治力による支配から、血と信仰によっても正当化される、永続的で絶対的なものへと昇華されたのである。これこそ、晴信の深謀遠慮の極致であった。

第三章:歴史的意義 ― 諏訪平定が信濃侵攻に与えた影響

天文十一年の諏訪侵攻と、それに続く一連の平定作戦は、武田信玄の生涯、そして戦国時代の勢力図に計り知れない影響を与えた。

第一に、武田氏は信濃侵攻のための最重要拠点を手に入れた。諏訪という確固たる足場を得たことで、武田の軍事行動は飛躍的に容易になり、佐久郡、小県郡、そして伊那郡へと、その版図を着実に拡大していくことが可能となった。やがて、この信濃侵攻は北信濃の雄・村上義清との死闘(上田原の戦い、砥石崩れ)へと発展し、さらには越後の長尾景虎(上杉謙信)との川中島の戦いへと繋がっていく。その全ての原点が、この諏訪平定にあったと言っても過言ではない 36

第二に、この戦いは若き当主・晴信の評価を絶対的なものにした。父を追放した新当主に対する家中の不安や不満を、鮮やかな勝利によって一掃し、強力なリーダーシップを確立した。

第三に、諏訪平定は、その後の武田信玄の戦いのスタイルを決定づけた。すなわち、正面からの武力衝突を極力避け、まずは調略によって敵の内部を切り崩し、自壊させ、軍事力の行使は最後の仕上げに用いるという、極めて合理的で損害の少ない戦い方である。この諏訪侵攻の成功体験が、信玄を戦国最強の戦略家へと成長させる礎となったのである。

結論:謀略と戦略の結晶

天文十一年(1542年)の「上原城の戦い」と、それに続く一連の諏訪平定作戦は、単なる一地方の合戦として片付けることはできない。それは、若き武田晴信の戦略家としての才能が初めて世に示された、周到に計画された一大軍事キャンペーンであった。

諏訪氏が内包していた内部対立を的確に見抜き、それに巧みにつけ込む調略。侵略を正当化するための大義名分の構築。電光石火の軍事行動による短期決戦の実現。そして、戦後の支配体制を盤石にするための巧みな政治工作と、神威さえも取り込む血縁戦略。これら軍事、政治、謀略の全てが有機的に連動し、一つの目的のために機能した点において、この諏訪侵攻は芸術的なまでの完成度を誇っていた。

この戦いは、武田信玄という戦国武将の原点である。ここで得た成功体験は、彼のその後の戦国大名としてのスタイルを確立し、甲斐の一国人領主に過ぎなかった武田氏を、天下を窺う大大名へと飛躍させる最初の、そして最も重要な一歩となった。

もし、諏訪氏に深刻な内部対立が存在しなかったならば。もし、諏訪頼重が義兄弟の絆という幻想を信じず、早期に迎撃態勢を整えていたならば。その後の信濃の歴史、ひいては戦国時代全体の勢力図は、我々が知るものとは大きく異なっていたに違いない。上原城から立ち上った一筋の煙は、一つの名門の終焉を告げると共に、戦国最強と謳われる巨星の誕生を告げる狼煙でもあったのである。

引用文献

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  28. 第四章 万死一生(ばんしいっしょう)6 - 集英社文庫 https://bunko.shueisha.co.jp/serial/kaitou/69_01.html
  29. 諏訪頼重(すわ よりしげ) 拙者の履歴書 Vol.190~神事と刀の間に ... https://note.com/digitaljokers/n/n625f74b221d8
  30. 武田信玄の歴史 - 戦国武将一覧/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/7482/
  31. 諏訪頼重の墓~甲府:東光寺~ - 中世歴史めぐり https://www.yoritomo-japan.com/kai/tokoji-suwahaka.html
  32. 高遠城の戦い - BIGLOBE https://www7a.biglobe.ne.jp/echigoya/ka/TakatooJou.html
  33. 宮川の合戦 - BIGLOBE http://www7a.biglobe.ne.jp/echigoya/ka/Miyagawa.html
  34. 上原城 - - お城散歩 - FC2 https://kahoo0516.blog.fc2.com/blog-entry-185.html
  35. 【武田軍】諏訪侵攻戦 諏訪家の滅亡。 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=pCTA7DjOzX8
  36. 「上田原の戦い(1548年)」信玄が初めて敗北を喫した屈辱の一戦とは? | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/770
  37. 父を死に追い遣った敵将・武田信玄の側室となり武田家の後継・武田勝頼を産んだ薄幸の佳人【諏訪御料人】 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/42456
  38. 諏訪御料人 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%8F%E8%A8%AA%E5%BE%A1%E6%96%99%E4%BA%BA
  39. 「諏方四郎勝頼」として育てられた武田勝頼の実際の地位 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/20322
  40. 諏訪頼重の生涯、北条時行最大の支援者である謎多き神官の史実の姿とは? https://hono.jp/kamakura/suwa-yorishige/