最終更新日 2025-08-26

上月城の戦い(1577~78)

上月城の戦い(1577-78):織田・毛利の激突と尼子再興の夢の終焉

序章:西国の空に漂う戦雲

天正年間、日本の歴史は大きな転換点を迎えようとしていた。「天下布武」を掲げ、破竹の勢いで畿内を平定した織田信長は、その視線を西へと向けていた 1 。彼の前には、中国地方に十ヶ国以上の版図を誇る西国の雄、毛利氏が巨大な壁として立ちはだかっていた。祖父・毛利元就の遺産を受け継いだ若き当主・毛利輝元を、叔父である吉川元春と小早川隆景、すなわち「毛利両川」が盤石の体制で支えるこの一大勢力は、信長の天下統一事業における最後の、そして最大の障害と目されていた 4

当初、織田氏と毛利氏は表向き友好関係を保っていた 10 。しかし、天正4年(1576年)、信長によって京を追われた室町幕府第15代将軍・足利義昭が、毛利輝元を頼ってその領国である備後国鞆の浦に下向したことで、両者の関係は決定的に破綻する 9 。毛利氏は「公儀(幕府)」を庇護する立場として反信長勢力の中核となり、信長にとって毛利討伐は、単なる領土拡大以上の、「天下」の再編をかけた戦いという大義を帯びることとなった。この対立は、旧来の権威である室町幕府を奉じる伝統的守護大名と、実力によって新たな秩序を構築しようとする革新者との、イデオロギー闘争の側面を色濃く反映していた。

この二大勢力が激突する最前線となったのが、畿内と中国地方の結節点に位置する播磨国であった 14 。播磨を制する者が西国への道を制し、また畿内への侵攻路を確保する。この地は、両者にとって一歩も引けない戦略的要衝だったのである。

そして、この大国間の争いに、もう一つの勢力が深く関わってくる。かつて毛利元就によって国を追われた出雲の名門・尼子氏の再興を悲願とする、山中幸盛(鹿介)率いる尼子残党軍である 18 。彼らは主君・尼子勝久を擁し、打倒毛利の執念に燃えていた。その一途な願いは、織田信長の中国侵攻という巨大な歯車と噛み合い、播磨国西端の小城・上月城を舞台に、壮絶な悲劇を生み出すことになる。

本報告書は、天正5年(1577年)から天正6年(1578年)にかけて繰り広げられた「上月城の戦い」を、関係諸勢力の動向を時系列で追いながら、その戦略的背景、戦闘の推移、そして歴史的意義を詳細に分析するものである。

表1:上月城の戦いを巡る動向(1577-1578)

年月

織田軍(信長・秀吉)

毛利軍(輝元・両川)

播磨国衆(別所・小寺)

尼子再興軍

その他(宇喜多など)

天正5年 (1577)

10月

羽柴秀吉、播磨に着陣。姫路城を拠点とする。

織田軍の播磨侵攻を警戒。

黒田官兵衛の説得により、別所長治、小寺政職ら多くが織田方に従属。

秀吉軍の客将として従軍。

宇喜多直家、毛利方に属す。

11月

福原城を攻略。

11月29日

**【第一次上月城の戦い】**開始。赤松政範の守る上月城を包囲。

秀吉軍の先鋒として参戦。

宇喜多直家、上月城救援に出陣するも敗退。

12月3日

上月城を陥落させる。城兵・家族らを処刑。

秀吉より上月城を与えられ、再興の拠点とする。

天正6年 (1578)

2月

別所長治、織田方から離反し、三木城に籠城。小寺政職らも同調。

3月29日

秀吉、三木城の包囲を開始。

4月18日

**【第二次上月城の戦い】**開始。輝元、両川率いる大軍が上月城を包囲。

上月城に籠城。徹底抗戦。

宇喜多直家、毛利軍の先鋒として参戦。

4月下旬

秀吉、三木城の包囲を一部に残し、上月城救援に出発。高倉山に布陣。

秀吉軍と高倉山を挟んで対峙。

救援軍を目前にしながら孤立状態が続く。

6月26日

信長の命令により、秀吉は上月城の救援を断念。高倉山から撤退。

織田軍に見捨てられ、完全に孤立無援となる。

7月3日

尼子勝久、城兵の助命を条件に自刃。

7月5日

上月城を開城させる。

山中幸盛、捕虜となる。尼子氏、事実上滅亡。

7月中旬

山中幸盛、護送途中の備中「阿井の渡し」にて謀殺される。

第一章:播磨平定、光と影(天正5年/1577年)

羽柴秀吉、播磨に着陣

天正5年(1577年)10月、織田信長は満を持して中国方面への本格的な侵攻を開始した。その総司令官に抜擢されたのが、羽柴秀吉である 2 。秀吉は、弟の羽柴秀長や竹中半兵衛、そして後に彼の「両兵衛」と称されるもう一人の軍師・黒田官兵衛らを伴い、播磨国へと入った。

当時の播磨は、守護大名・赤松氏の権威が衰え、別所氏、小寺氏、三木氏といった有力国衆が割拠する状態にあった。彼らは織田と毛利という二大勢力の間で、巧みな外交を展開し、自家の存続を図っていた。この複雑な情勢を打開するため、秀吉は黒田官兵衛の献策を受け入れ、官兵衛の居城である姫路城を譲り受け、ここを中国経略の拠点とした 23 。姫路城という戦略的拠点を手に入れた秀吉は、官兵衛を介して播磨の国衆たちに巧みな調略を展開。東播磨の雄・別所長治や、官兵衛の主君である小寺政職をはじめ、多くの国衆が大きな抵抗なく織田方への従属を表明した 23 。秀吉は播磨入国からわずか半月で、ほぼ全域を手中に収めたかに見えた。

第一次上月城の戦いと秀吉の非情

播磨の大部分を平定した秀吉は、次に毛利勢力との最前線である西播磨へと軍を進めた。目標は、播磨・美作・備前の三国国境に位置する要衝・上月城であった 16 。当時、上月城は毛利方に与する赤松政範が守り、その背後には備前の梟雄・宇喜多直家が控えていた 16

天正5年11月28日、秀吉軍はまず上月城の支城である福原城を攻撃し、これを陥落させる 16 。そして翌29日、ついに上月城への総攻撃が開始された。これが「第一次上月城の戦い」である。秀吉軍の先鋒を務めたのは、竹中半兵衛と黒田官兵衛であり、彼らは城の東に位置する高倉山に陣を敷いた 16

毛利方は、宇喜多直家が救援の軍を送るが、秀吉はこれを撃退 20 。完全に孤立した上月城に対し、秀吉軍は圧倒的な兵力で猛攻を加え、12月3日、ついに城は陥落。城主・赤松政範は自害して果てた 20

この戦いで秀吉が見せた戦後処理は、彼の冷徹な戦略家としての一面を如実に示している。秀吉は降伏を一切認めず、城内に残っていた城兵はもとより、その家族である女子供200人余りを捕らえると、播磨・備前・美作の三国境まで連行し、見せしめとしてことごとく磔や串刺しにして処刑したのである 16 。この残虐な行為は、播磨の国衆たちに織田方への抵抗がいかなる結末を招くかを強烈に印象づけ、毛利方に対する徹底抗戦の意思を明確に示すための、計算され尽くした恫喝であった。

秀吉の播磨平定は、黒田官兵衛を通じた懐柔策という「軟」の側面と、上月城で見せた徹底的な殲滅という「硬」の側面を巧みに使い分けることで、驚異的な速さで進められた。しかし、この効率的だが非情なやり方は、特に名門意識の強い国衆たちのプライドを深く傷つけ、後の播磨における新たな動乱の火種を蒔くことにもなったのである。

尼子再興軍、束の間の栄光

焦土と化した上月城の新たな城主として、秀吉は尼子勝久と山中幸盛を指名した 16 。これは、彼らの打倒毛利への執念を、対毛利戦線の楔として利用しようという秀吉の戦略的判断であった。尼子再興軍にとって、この上月城入城は、長年の流浪の末にようやく手にした念願の拠点であり、滅亡した尼子家再興の夢が現実のものとなるかのように思われた、束の間の栄光の瞬間であった。

第二章:亀裂、そして反旗(天正5年末~天正6年2月)

播磨国衆の不満

羽柴秀吉による播磨平定は、表面上は順調に進んでいるように見えた。しかし、その水面下では、秀吉の強引な支配に対する播磨国衆たちの不満が渦巻き始めていた。秀吉は服属の証として各家に人質の提出を強要し、さらに但馬国への遠征では播磨勢を危険な先鋒として酷使した 23 。これらの措置は、織田政権下における国衆の立場が、従来の独立した領主ではなく、中央の司令官に従属する一武将に過ぎないことを明確に示すものであった。

特に、東播磨八郡に広大な勢力を持つ名門・別所氏にとって、この状況は屈辱的であった。別所氏は赤松氏の庶流という由緒ある家柄であり、農民出身と噂される秀吉の指図を受けることに強い抵抗感を抱いていた 29 。当主の別所長治はまだ若く、実権は叔父の別所吉親が握っていた。吉親は強硬な反織田派であり、親織田派の重臣・別所重棟との間で、家中の意見は真っ二つに割れていた 32

別所長治、離反す

こうした不満と葛藤の中、別所氏の離反を決定づける複数の要因が重なっていった。第一に、毛利方からの執拗な調略である。鞆の浦に座する将軍・足利義昭は、毛利輝元を通じて別所氏に味方するよう繰り返し働きかけていた 23 。第二に、秀吉による直接的な圧力である。近年の研究では、秀吉が播磨平定の過程で、別所氏の支配下にあった支城をいくつか破却(城の防御機能を破壊すること)したことが、離反の直接的な引き金になった可能性が指摘されている 34 。これは、別所氏の領主としての権威を根本から否定する行為であり、彼らにとって到底容認できるものではなかった。

これらの要因が複合し、天正6年(1578年)2月、別所長治はついに織田信長からの離反を決意。居城である三木城に籠城し、毛利方に与することを天下に表明した 23 。この決断は、戦国末期の国衆が直面した「生き残りのジレンマ」を象徴している。織田に従えば、中央集権的な支配体制に組み込まれ、領主としての自立性は失われる。一方で、毛利に従えば、旧来の権益は保たれるかもしれないが、織田の圧倒的な軍事力の前に滅亡する危険性が高い。別所氏は、長期的な安定よりも、短期的な領主としての誇りと自立性を守る道を選んだのである。

別所氏の反旗に呼応し、黒田官兵衛の主君であった小寺政職をはじめ、一度は秀吉に恭順した播磨の国衆の多くが雪崩を打って毛利方へと寝返った。これにより、播磨平定をほぼ完了したはずの秀吉は、突如として背後の三木城と、前方の毛利本隊から挟撃されるという、絶体絶命の窮地に陥った。

この混乱は、一人の智将の運命をも狂わせる。主君・小寺政職の翻意を促すため、説得に向かった黒田官兵衛は、小寺と通じていた摂津の荒木村重に捕らえられ、有岡城の土牢に幽閉されるという悲劇に見舞われた 36 。播磨の情勢は、完全に混沌の渦へと飲み込まれていった。

第三章:月はどっちに出ている(天正6年3月~6月)

毛利本隊、上月城を包囲

別所長治の離反は、毛利輝元にとって千載一遇の好機であった。輝元はこれを、織田軍の勢いを削ぎ、播磨における主導権を奪い返す絶好の機会と捉えた。天正6年(1578年)4月、輝元は自ら備中高松城まで出陣し、吉川元春、小早川隆景の両川を中核とする3万(一説には6万とも)と号する大軍を動員した 9 。その矛先が向けられたのは、播磨における織田方の最前線基地であり、尼子再興の象徴でもある上月城であった。

4月18日、毛利軍は上月城を完全に包囲した 41 。宇喜多直家の軍勢もこれに加わり、城の四方は大軍によって埋め尽くされた。対する上月城内の尼子軍は、わずか3,000弱。その戦力差は絶望的であったが、山中幸盛らは不屈の闘志で城兵を鼓舞し、徹底抗戦の構えを見せた 40

表2:第二次上月城の戦いにおける両軍の布陣

毛利軍(包囲側)

織田軍(救援側)

尼子軍(籠城側)

総大将

毛利輝元(備中高松城に在陣)

羽柴秀吉

尼子勝久

現場指揮官

吉川元春、小早川隆景

羽柴秀長、竹中半兵衛

山中幸盛

主要な参加勢力

吉川軍、小早川軍、宇喜多軍

羽柴直轄軍、但馬・因幡衆

尼子旧臣団

総兵力

約 30,000

約 15,000

約 3,000

高倉山での対峙

背後の三木城と前方の毛利本隊という二正面作戦を強いられた秀吉は、まず3月29日に三木城の包囲を開始し、背後の脅威を封じ込める動きを見せた 21 。そして4月下旬、上月城が包囲されたとの報を受け、三木城の包囲を一部の部隊に任せると、自らは約1万5千の主力軍を率いて上月城の救援へと向かった 23

秀吉軍は、上月城を挟んで毛利軍と対峙する高倉山に布陣した 16 。眼下には孤立する上月城、そしてその向こうには毛利の大軍が堅固な陣を敷いている。しかし、秀吉は決戦に踏み切ることができなかった。敵の兵力は自軍の倍以上であり、もしこの決戦に敗れれば、織田の中国方面戦略そのものが頓挫しかねない。

この膠着状態は、織田と毛利の戦争に対する思想の違いを浮き彫りにした。毛利は、当主と宿将が一体となり、総力を挙げて短期決戦を挑む「総力決戦型」の布陣を敷いた。対して織田は、方面軍司令官に大きな裁量権を与え、複数の戦線を同時に維持する「分権的・持続型」の戦争を展開していた。秀吉はあくまで一方面軍の司令官であり、独断で全軍の命運を賭けた決戦に臨むことは許されなかったのである。

こうして、高倉山を挟んだ両軍の睨み合いは、2ヶ月にも及ぶこととなった 23 。救援軍をすぐ目の前にしながら、兵糧も援軍も得られない上月城内の状況は、日を追うごとに悪化の一途を辿った。城兵たちの士気は低下し、絶望の色が濃くなっていった。

第四章:非情の采配(天正6年6月下旬)

信長の戦略的判断

高倉山での膠着状態を打開できない秀吉は、安土城の織田信長に使者を送り、戦況を報告して指示を仰いだ 23 。報告を受けた信長は、播磨の一拠点である上月城を巡る攻防ではなく、中国方面戦略全体の戦局を俯瞰していた。彼の目には、上月城の尼子残党軍よりも、播磨平定の最大の障害となっている三木城の別所長治の方が、はるかに重要な戦略目標として映っていた。

信長の思考は、極めて合理的であった。不確実で損害の大きい毛利本隊との決戦に固執するよりも、まずは背後の脅威である別所氏を確実に叩き潰し、播磨を完全に平定することこそが、中国侵攻の確固たる足掛かりを築くための最優先事項である。この大局的な判断に基づき、信長は秀吉に対して、冷徹極まる命令を下した。

「上月城は見捨てよ」 43

信長は秀吉に、上月城の救援を断念し、全軍を三木城の包囲に振り向けるよう命じたのである 16 。これは、尼子再興軍という有用な「駒」を犠牲にしてでも、播磨平定という戦略目標の達成を絶対的に優先する、信長の非情な合理主義の現れであった。彼の戦争観において、個々の武将の武勇や名誉、あるいは同盟相手への信義よりも、天下統一という最終目標達成のための効率性こそが、至上の価値を持っていたのである。

秀吉の撤退と見捨てられた尼子軍

主君からの絶対命令を受け、秀吉は苦悩した。勇将として名高い山中幸盛を見殺しにすれば、「信長は味方を見捨てる」という悪評が天下に広まりかねないことを懸念していた記録も残っている 44 。しかし、信長の決定に逆らうことはできない。天正6年6月26日、秀吉は断腸の思いで高倉山の陣を払い、軍を三木城へと転進させた 27

上月城に籠る尼子軍にとって、それは死刑宣告に等しかった。昨日まで眼前の山に翻っていた味方の旗指物が、一夜にして跡形もなく消え去っていたのである。救援の最後の望みが絶たれた城内は、完全なパニックに陥った。絶望した城兵たちの脱走が相次ぎ、士気は完全に崩壊。城は、もはや落城を待つだけの孤城と化した 43

第五章:落月の賦(天正6年7月初旬)

尼子勝久の決断

織田軍の撤退により、上月城は完全に孤立無援となった。もはやこれまでと悟った尼子勝久は、主君として最後の決断を下す。彼は毛利方との降伏交渉を開始し、自らと一族の命を差し出す代わりに、城兵たちの命を救うよう嘆願した 20 。これは、単なる敗北者の降伏ではない。擁立された象徴的な主君であった勝久が、最後の最後に、自らの命を犠牲にして家臣を守るという、主君として最も重い責任を果たした瞬間であった。

毛利方はこの条件を受け入れた。天正6年7月3日、尼子勝久は城内で一族郎党と共に見事に自刃して果てた 40 。辞世の際、彼は長年苦楽を共にした山中幸盛に対し、「一時なりとも尼子家を再興できたことに感謝する」と、最後の言葉を遺したと伝えられている 20

そして7月5日、上月城は静かに開城され、毛利軍の手に渡った。ここに第二次上月城の戦いは終結し、尼子家再興をかけた十数年にわたる戦いの歴史も、事実上の終焉を迎えたのである 21

山中幸盛の最期

降伏した山中幸盛は捕虜となり、毛利輝元の本陣が置かれている備中松山城へと護送されることになった 16 。しかし、毛利首脳部は、幸盛の不屈の闘志と、その存在が反毛利勢力を再び結集させかねない危険性を深く恐れていた。

同年7月中旬、護送の途中、備中国の「阿井の渡し」(現在の岡山県高梁市)に差し掛かったところで、幸盛は護送役の毛利家臣・福間元明らによって謀殺された 45 。享年34、あるいは39。その首は、毛利氏の権威を示すため、鞆の浦の足利義昭のもとへと送られた 16 。「我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈ったと伝えられる悲運の勇将は、その志半ばで、非業の最期を遂げた。ここに、尼子再興の夢は完全に潰えたのである 16

第六章:戦いの後、そして次なる戦いへ

戦いがもたらした影響

上月城の戦いは、織田と毛利の力関係、そして中国地方の勢力図に決定的な影響を及ぼした。

第一に、尼子氏の完全な滅亡である。山中幸盛というカリスマを失ったことで、尼子再興の動きは完全に終息した 16 。これにより、毛利氏は長年の宿敵を葬り去ることに成功した。

第二に、備前の梟雄・宇喜多直家の離反である。この一連の戦いで毛利方として戦った直家は、毛利の組織的な硬直性と、信長の非情だが合理的な戦略性を目の当たりにした。彼は、もはや毛利に未来はないと判断し、天正7年(1579年)、ついに毛利を裏切り織田方へと寝返った 47 。宇喜多領は毛利領と織田領の間に位置する重要な緩衝地帯であり、彼の離反は毛利にとって防衛線の崩壊を意味する、極めて大きな戦略的打撃となった。

第三に、主戦場の固定化である。上月城という西の憂いがなくなった羽柴秀吉は、播磨平定に全力を注ぐことが可能となった。彼の軍団は三木城に対する包囲網を一層強化し、「三木の干殺し」と後に呼ばれる、日本戦史上でも類を見ない大規模かつ凄惨な兵糧攻めへと移行していく 30

毛利氏にとって、上月城の戦いは戦術的には紛れもない勝利であった。しかし、その勝利と引き換えに、宇喜多直家という重要な同盟者を失い、結果的に秀吉に播磨平定に集中する時間を与えてしまった。目先の敵を排除することには成功したが、その代償としてより大きな戦略的損失を被ったのである。この戦いは、いわば「ピュロスの勝利(損害が大きく、得るものの少ない勝利)」であり、長期的に見れば、毛利氏の中国地方における覇権が後退していく序章となった。

一方、戦略的価値を失った上月城は、この戦いの後に廃城となり、二度と歴史の表舞台に登場することはなかった 15

結論:上月城が語るもの

上月城の戦いは、日本の戦国時代末期における、いくつかの重要な力学を象徴する出来事であった。

第一に、それは織田信長の天下統一という巨大な戦略の前で、一個人の、あるいは一族の悲願がいかに儚いものであったかを示している。山中幸盛がその生涯をかけて追い求めた尼子家再興の夢は、信長の冷徹な戦略的判断によって、あっけなく切り捨てられた。

第二に、この戦いは羽柴秀吉の播磨平定における決定的な転換点であった。一時的には毛利の攻勢によって後退を余儀なくされたものの、結果として「上月城」という足枷が外れたことで、秀吉は播磨における反織田勢力の分断と各個撃破を可能にした。尼子軍の犠牲の上に、播磨平定は確実なものとなり、中国攻めの強固な基盤が築かれたのである。

最終的に、上月城の戦いは、織田信長と羽柴秀吉が、毛利氏という巨大な敵を打ち破るためには、いかなる非情な選択も、そしていかなる犠牲も厭わないという覚悟を天下に示した戦いであった。それは、戦国という時代の論理、すなわち大局のためには小を切り捨てるという非情な現実を、後世に生々しく伝えている。そしてこの戦いを経て、秀吉はさらなる力を蓄え、やがて本能寺の変へと続く、激動の時代の中心へと躍り出ていくのである。上月城の攻防は、その壮大な歴史劇の序曲の一つとして、記憶されるべき戦いと言えるだろう。

引用文献

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  36. 有岡城の戦いが勃発した際、荒木村重に謀反を思いとどまるよう説得に向かった智将とは? https://www.rekishijin.com/16222
  37. 豊臣家臣を儂が紹介する 〜黒田官兵衛〜 - 名古屋おもてなし武将隊ブログ https://busho-tai-blog.jp/wordpress/?p=18290
  38. 黒田官兵衛 名軍師/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/90105/
  39. 黒田官兵衛・有岡城幽閉の中で到達した思いとは - WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/1895
  40. 赤松、尼子、毛利、豊臣…血に塗られた名城・上月城【兵庫県佐用郡佐用町】 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/30411
  41. 上月城の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9C%88%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  42. 四)上月城の戦い - 播磨時報 https://www.h-jihou.jp/feature/kuroda_kanbee/1574/
  43. 上月城の戦い~尼子勝久、山中鹿助の無念。お家再興ならず - WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/4067
  44. 山中鹿之助(山中幸盛)の歴史 - 戦国武将一覧/ホームメイト https://www.touken-world.jp/tips/97873/
  45. 山中幸盛 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E4%B8%AD%E5%B9%B8%E7%9B%9B
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  47. www.bitchu.jp https://www.bitchu.jp/muneharu/mizuzeme/kankei.html
  48. 宇喜多直家 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%96%9C%E5%A4%9A%E7%9B%B4%E5%AE%B6
  49. 感状山城の歴史的位置 http://www2.aioi-city-lib.com/bunkazai/den_min/siro/siro02.htm
  50. 宇喜多直家⑤ - 備後 歴史 雑学 - FC2 http://rekisizatugaku.web.fc2.com/page019.html
  51. [合戦と城郭] 三木合戦と陣城 「包囲に使われた付城と多重土塁線」 /RE:戦国覇王 - YouTube https://m.youtube.com/watch?v=IrKA3UJWc-A&pp=ygUNI-WIpeaJgOmVt-ayuw%3D%3D
  52. 【兵庫県】上月城の歴史 山中鹿介が拠った播磨の山城! - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/983
  53. 上月城と黒田官兵衛|お知らせ - 佐用町 https://www.town.sayo.lg.jp/cms-sypher/www/info/detail.jsp?id=2236