上田原の戦い(1548)
上田原の戦い(1548年):武田信玄、初の敗北と戦略転換の分水嶺
序章:風雲急を告げる信濃 ― 激突への序曲
天文17年(1548年)、信濃国小県郡の上田原で繰り広げられた戦いは、戦国史における一つの重大な転換点として記憶されている。若き甲斐の虎・武田晴信(後の信玄)が、その生涯で初めて喫した野戦での敗北。それは単なる一敗ではなく、彼の戦略思想を根底から揺さぶり、後の「戦国最強」と謳われる武将へと変貌させるための、痛みを伴う洗礼であった。対するは、北信濃に盤踞する猛将・村上義清。この一戦は、二人の英雄の運命を交錯させ、やがて戦国史を象徴する武田信玄と上杉謙信の宿命の対決、「川中島の戦い」へと至る直接的な導火線となったのである。
若き虎の野望:武田晴信の信濃侵攻戦略
天文10年(1541年)に父・信虎を駿河へ追放し、21歳で家督を継いだ武田晴信は、その野望の矛先を甲斐の西、信濃国へと向けた 1 。山国である甲斐にとって、信濃の広大で豊かな穀倉地帯は経済的にも戦略的にも極めて魅力的であった 2 。
その第一歩は、天文11年(1542年)の諏訪侵攻であった。晴信は妹婿である諏訪頼重を巧みに誘い出して自刃に追い込み、信濃攻略の重要な足掛かりを築く 1 。この非情な手口は、晴信の合理性と冷徹さを信濃の国人衆に知らしめるに十分であった。
晴信の信濃平定は、単なる武力制圧に留まらなかった。彼の戦略の根底には、敵の戦意を根こそぎ奪うための徹底した心理戦があった。その象徴が、天文16年(1547年)の志賀城攻めである。晴信は、城の救援に駆けつけた関東管領・上杉憲政の軍を小田井原で粉砕すると、討ち取った敵兵約3,000の首を志賀城の眼前にずらりと並べ、城兵の士気を完全に破壊して陥落させた 4 。さらに、捕虜とした城兵は奴隷とし、女子供は人身売買にかけるという、当時としても異例の過酷な処置を断行したのである 5 。
この残虐な仕打ちは、晴信の意図通り、信濃の国人衆に武田氏への凄まじい恐怖を植え付けた。しかし、それは同時に予期せぬ副作用をもたらした。恐怖は服従だけでなく、極限の抵抗意志をも生み出す。志賀城の末路を目の当たりにした北信濃の諸将は、「武田に降伏した先に未来はない」という絶望的な覚悟を固めるに至った。彼らにとって、北信濃の雄・村上義清の下に結集し、一族の存亡を賭けて戦うことは、もはや唯一の選択肢となっていた。晴信の恐怖政治は、皮肉にも敵の結束をかつてなく強固なものへと変えてしまったのである。
北信濃の巨壁:村上義清という存在
武田晴信の前に立ちはだかった村上義清は、信濃の在地領主とは一線を画す存在であった。その出自は平安時代に遡る清和源氏の名門であり、葛尾城を本拠として小県、埴科、高井、水内の四郡に勢力を広げる、北信濃最大の戦国大名であった 5 。
「猛将」として知られる義清は、その一代で村上氏の勢力を飛躍的に拡大させた傑物であり、その武勇は広く轟いていた 5 。彼は単なる猪武者ではなく、戦局を鋭く読む野生的な勘と、一糸乱れぬ統率力、そしてここ一番での思い切りの良さを兼ね備えた指揮官であった 10 。
佐久郡を平定し、自らの勢力圏に土足で踏み込んできた武田晴信は、義清にとって信濃全土の支配を巡る、打倒すべき最大の難敵であった 5 。両者の激突は、もはや避けられない運命となっていたのである 11 。
【表1】 両軍主要指揮官一覧
勢力 |
役職 |
武将名 |
兵力(推定) |
備考 |
武田軍 |
総大将 |
武田晴信(信玄) |
約7,000~8,000 |
甲斐・諏訪衆を率いる。当時28歳。 |
|
宿老(両職) |
板垣信方 |
不明 |
晴信の傅役。譜代家老筆頭。 |
|
宿老(両職) |
甘利虎泰 |
不明 |
信虎時代からの重臣。武勇に優れる。 |
|
後詰 |
小山田信有 |
不明 |
岩殿城主。郡内衆を率いる。 |
村上軍 |
総大将 |
村上義清 |
約5,000~7,000 |
北信濃の雄。当時48歳。 |
|
重臣 |
屋代源吾基綱 |
不明 |
義清の身代わりとなって戦死した説あり。 |
|
重臣 |
雨宮刑部正利 |
不明 |
村上配下の有力国人。 |
|
重臣 |
小島権兵衛 |
不明 |
義清の腹心。 |
第一部:上田原の対峙 ― 両軍の布陣と戦場の地勢
厳冬の進軍:武田軍、小県郡へ
天文17年2月1日(西暦1548年3月10日)、武田晴信は甲府を発ち、北信濃へと進軍を開始した 5 。季節は冬、折しも深く積もった雪と、雨やみぞれが降りしきる悪天候の中、軍勢は大門峠を越えるという極めて困難な行軍を強いられた 1 。この強行軍は、義清の迎撃準備が整う前に決戦を挑もうとする晴信の焦りの表れでもあった。
諏訪の上原城で板垣信方率いる諏訪衆や郡内衆と合流し、兵力を約8,000に増強した武田軍は、砂原峠を越えて小県郡南部に侵入。上田原の南方に位置する神畑(かばたけ)付近にまで兵を進めた 1 。
迎え撃つ村上軍:地の利を活かした布陣
武田軍侵攻の報を受けた村上義清は、少しも動じることなく本拠である葛尾城から出陣。支城の戸石城の兵と合流し、約7,000の軍勢を率いて南下した 5 。義清が本陣に選んだのは、上田原の北西にそびえる天白山の麓であった 14 。背後には岩鼻の断崖が控え、天然の要害となっている。何よりも重要なのは、この高台からは上田原一帯、すなわち武田軍の布陣と動きが手に取るように見渡せることであった 13 。義清は、戦う前から地の利という最大の武器を手中に収めていたのである。
戦場の地勢分析:産川を挟んだ睨み合い
こうして両軍は、千曲川の支流である産川(うぶかわ)を挟んで対峙する形となった 5 。武田軍は上田原南方の物見山を中心とする段丘地帯に陣を構え、一方の村上軍は北西の天白山麓から上田原の平坦地にかけて軍勢を展開させた 4 。
この布陣は、村上軍が常に高所から武田軍を見下ろすという、圧倒的な地理的優位をもたらした 13 。戦況の全てを把握できる義清に対し、晴信は敵の動きを窺い知ることが難しい不利な状況に置かれた。
ここから約10日間、両軍は動かず、睨み合いの状態が続いた。しかし、時間は明らかに村上軍に味方していた。甲斐からの遠征で疲弊し、慣れない土地で不利な態勢を強いられている武田軍には、日を追うごとに焦りと士気の低下が蔓延し始めていたと推察される 13 。
第二部:合戦詳報 ― 時系列で辿る上田原の激闘
膠着状態を破ったのは、痺れを切らした武田方であった。天文17年2月14日(西暦1548年3月23日)、ついに両軍は上田原の地で激突した。この日の戦いは、武田晴信の軍歴、ひいては戦国史に深く刻まれる、劇的な展開を辿ることになる。
午前8時頃(辰の刻):戦端、開かれる
信頼性の高い軍記物である『甲陽軍鑑』によれば、戦いの火蓋を切ったのは武田軍の攻撃であった 11 。先鋒を任されたのは、武田家宿老筆頭であり、晴信の傅役(教育係)でもあった板垣信方。信虎の代から武田家に仕え、数多の戦功を挙げてきた歴戦の勇将である。その猛攻は凄まじく、村上軍の先陣をたちまち打ち破り、戦いは武田軍優勢で始まった 15 。
午前中:快進撃と、勝利を確信した慢心
板垣信方率いる部隊は、破竹の勢いで村上勢を追い崩し、敵兵150ほどの首を挙げるという大戦果を上げた 16 。この快進撃に、信方、そして武田軍全体が勝利を確信した。これまでの信濃侵攻における連戦連勝の経験が、彼らの中に油断と驕りを生んでいたのかもしれない 17 。
ここで板垣信方は、彼の輝かしい武功に一点の曇りを残す、致命的な判断ミスを犯す。敵の反撃が容易に予想される敵陣深くの危険な場所で軍を止め、勝ち鬨を上げて首実検を始めてしまったのである 4 。それは、目前の敵を完全に見下した、あまりにも軽率な行動であった。
正午前後:戦局の急転 ― 猛将・義清の逆襲
老練な村上義清が、この千載一遇の好機を見逃すはずはなかった。そもそも、村上軍先陣の崩壊は、敵の主力を誘い込むために計算された「偽装後退」という名の罠であった 10 。義清は、板垣隊が完全に油断しきった瞬間を捉え、全軍に反転攻勢を命じた。
突如として反撃に転じた村上軍の前に、首実検の最中で完全に弛緩していた板垣隊はなすすべもなく大混乱に陥り、瞬く間に包囲された 15 。板垣信方は慌てて愛馬に乗ろうとしたところを敵兵の槍に貫かれ、壮絶な最期を遂げた 15 。享年56。晴信が最も信頼を寄せる宿将の、あまりにも呆気ない死であった。
この時、村上義清が用いた戦術は、当時の合戦の常識を覆す革新的なものであった可能性が指摘されている。それは、最前列に弓兵や鉄砲兵といった遠距離攻撃部隊を配置して一斉射撃で敵の陣形を崩し、混乱したところに主力の槍隊が突撃するという、兵種ごとの特性を活かした連携戦術であった 10 。この戦術は、後に上杉謙信に受け継がれ「五段隊形」として発展し、東国の合戦に大きな影響を与えたとも言われる 19 。もしこれが事実であれば、義清は単なる猛将ではなく、日本の陣形史に名を残す戦術家として再評価されるべきであろう。
午後:武田軍、崩壊
総大将に次ぐ重鎮である板垣信方の討死は、武田全軍に凄まじい衝撃となって伝播した。指揮系統の一部が麻痺し、兵卒は動揺する。勢いに乗った村上軍は、この機を逃さず隊を二手に分け、混乱する武田軍本隊に側面から襲いかかり、挟撃態勢を築いた 10 。
武田軍の崩壊を食い止めようと奮戦したのが、板垣信方と共に「両職」として武田家を支えてきたもう一人の宿老、甘利虎泰であった。彼は崩れゆく味方の中で、晴信の本陣を守るべく鬼神の如く戦ったが、村上軍の猛攻の前に衆寡敵せず、ついに討ち死にした 3 。武田家の両輪とも言うべき二人の宿老が、同じ戦場で同時に命を落とすという、前代未聞の事態であった。
本陣は風前の灯火となり、乱戦の中、村上軍の精鋭はついに晴信の馬前にまで迫った。この時、晴信自身も槍で突かれるなど、二箇所の傷を負ったと記録されている 5 。総大将の負傷は、武田軍の敗北を決定的なものとした。
この絶体絶命の危機から晴信を救ったのは、後詰として控えていた小山田信有らの決死の働きであった。彼らが身を挺して村上軍の追撃を食い止めている間に、晴信は手勢に守られ、かろうじて戦場を離脱することに成功した 13 。
夕刻:痛み分けの終結
武田軍は、二人の宿老をはじめ数多くの将兵を失い、上原城へと潰走した 5 。一方、勝利を収めた村上軍もまた、義清の身代わりとなって戦死したとも伝わる屋代源吾基綱をはじめ、雨宮刑部、小島権兵衛といった有力武将を失い、その損害は決して軽微なものではなかった 12 。そのため、村上軍は武田軍への深追いを断念。結果として、この戦いは村上軍の戦術的勝利、あるいは双方共に甚大な被害を出した「痛み分け」と評価されている 5 。
【表2】 上田原の戦い タイムライン
時刻(推定) |
戦況 |
主要な出来事 |
午前8時頃 |
開戦 |
武田軍先鋒・板垣信方の攻撃により戦闘開始。 |
午前中 |
武田軍優勢 |
板垣隊が村上軍先陣を撃破。快進撃を続ける。 |
正午手前 |
武田軍の慢心 |
板垣信方、敵陣深くで首実検を開始。 |
正午頃 |
村上軍反転 |
村上義清、偽装後退から一斉反撃に転じる。 |
|
板垣信方、討死 |
油断した板垣隊は包囲され壊滅。信方も戦死。 |
午後 |
村上軍猛追 |
勢いに乗る村上軍が、動揺する武田本隊に襲いかかる。 |
|
甘利虎泰、討死 |
本陣を守るため奮戦するも、甘利虎泰も戦死。 |
|
晴信負傷 |
村上軍が本陣に肉薄し、武田晴信も負傷。 |
夕刻 |
撤退・終結 |
小山田信有らの支援で武田軍は撤退。村上軍も深追いせず。 |
第三部:敗戦の衝撃と戦略転換
上田原での敗北は、武田氏にとって単なる軍事的な損失以上の、深刻な衝撃をもたらした。それは甲斐国全体を揺るがし、若き当主・晴信の信濃経営を根底から覆しかねない、未曾有の危機であった。
『一国ノ歎キ無限』:甲斐を揺るがした敗報
信頼性の高い同時代の記録である『妙法寺記』は、この時の甲斐国の様子を「一国ノ歎キ無限(国中の嘆きは限りない)」と記している 11 。父であり師でもあった宿老二名を同時に失い、総大将たる晴信自身も傷を負ったという敗報は、甲斐の人々に計り知れない衝撃と不安を与えた。晴信は甲府へ帰還した後、湯村の温泉(嶋の湯)で30日にも及ぶ湯治を行ったと伝えられており、その心身に受けた傷の深さが窺える 5 。
【表3】 上田原の戦いにおける両軍の主な戦死者
勢力 |
戦死した主要武将 |
役職・備考 |
武田軍 |
板垣信方 |
宿老(両職)、晴信の傅役 |
|
甘利虎泰 |
宿老(両職)、信虎以来の重臣 |
|
才間河内守 |
不明 |
|
初鹿野伝右衛門 |
不明 |
村上軍 |
屋代源吾基綱 |
重臣、義清の身代わり説あり |
|
雨宮刑部正利 |
重臣 |
|
小島権兵衛 |
重臣 |
|
若槻清尚 |
不明 |
信濃国人衆の蜂起と武田支配の危機
「武田恐るるに足らず」― 晴信の敗北は、これまで彼の武威に沈黙していた信濃の国人衆を瞬く間に勢いづかせた。村上義清や、信濃守護の名門である小笠原長時を中心に、反武田の狼煙が信濃各地で一斉に上がったのである 5 。武田の支配下にあったはずの諏訪郡ですら反乱が勃発し、晴信が数年をかけて築き上げてきた信濃支配体制は、まさに崩壊の危機に瀕した 5 。
しかし、若き虎はこのままでは終わらなかった。晴信は驚異的な早さで軍を立て直すと、同年7月、塩尻峠で小笠原長時の大軍を奇襲によって撃破する(塩尻峠の戦い)。この鮮やかな勝利により、反武田の気運を力で鎮圧し、辛うじて信濃における主導権を回復した 5 。この逆境からの回復力こそ、晴信がただの武将ではないことを証明するものであった。
「戦は力攻めのみにあらず」:晴信の戦略思想の深化
上田原での手痛い敗戦は、晴信に一つの重要な教訓を刻み付けた。それは、「力押しだけでは信濃のような国衆が割拠する地を完全に平定することは不可能である」という冷徹な現実であった 11 。慢心と油断がもたらした惨禍は、彼の戦略思想に根本的な変革を促した。
この敗戦を境に、晴信の戦略は、正面からの武力衝突を極力避け、敵の内部を切り崩す「調略」を重視する方向へと大きく舵を切る 11 。敵の結束を内側から蝕み、戦わずして勝つ。そのための情報戦、心理戦、そして謀略こそが、今後の信濃攻略の主軸となった。
この新たな戦略の尖兵として白羽の矢が立てられたのが、かつて村上義清らによって所領を追われた海野氏の一族、真田幸隆(幸綱)であった。故郷奪還に燃える幸隆の巧みな謀略は、やがて強固に見えた村上氏の支配体制を、内側から静かに、しかし確実に崩していくことになる 12 。上田原の敗北という高価な授業料は、晴信を単なる「猛将」から、謀略を駆使する「知将」へと昇華させる、決定的な契機となったのである。
第四部:長き遺産 ― 川中島の戦いへの序章として
上田原の戦いがもたらした影響は、武田信玄の戦略転換に留まらなかった。それは、信濃の勢力図を塗り替え、やがて戦国時代を代表する二人の巨雄、武田信玄と上杉謙信を、川中島という宿命の舞台へと引き寄せる直接的な原因となったのである。
雪辱戦の悪夢:砥石崩れ
天文19年(1550年)、晴信は上田原の雪辱を果たすべく、村上方の重要拠点である砥石城に大軍を差し向けた 5 。しかし、砥石城は天然の要害であり、守兵は寡兵ながらも奮戦。攻めあぐねる武田軍に対し、救援に駆けつけた村上義清が背後から巧みに奇襲をかけた。これにより武田軍は前後の敵から挟撃される形となり、再び大敗を喫した 10 。この惨敗は「砥石崩れ」と呼ばれ、武田軍は侍大将の横田高松をはじめ1,000名近い将兵を失ったとされ、上田原に次ぐ痛恨の敗北となった 16 。
調略による勝利と、義清の没落
二度にわたる力攻めの失敗により、晴信は村上義清との直接対決の困難さを改めて痛感した。彼は戦略を完全に調略へと切り替え、真田幸隆に砥石城の攻略を命じた 20 。
天文20年(1551年)、幸隆はその智謀を駆使し、砥石城の内部に調略の手を伸ばす。城内にいた親族や旧知の者を巧みに寝返らせ、ついにこの難攻不落の城を、一兵も損なうことなく内部から陥落させたのである 22 。戦場で武田軍を二度も破りながら、謀略によって拠点を奪われた義清は、「戦で勝ちながら、謀略に負けた」と大いに悔しがったと伝えられている 25 。砥石城の失陥は村上氏の勢力圏に致命的な楔を打ち込むものであり、義清は急速に求心力を失い、孤立していった。
越後の龍、動く:川中島の戦いへ
真田幸隆の調略はその後も続き、村上配下の国人衆の離反が相次いだ。もはや独力で武田の侵攻を支えきれないと悟った義清は、天文22年(1553年)、ついに本拠・葛尾城を捨て、越後へと落ち延びる決断を下す 5 。
故郷を追われた義清は、北信濃の他の国人衆と共に、越後の若き領主・長尾景虎(後の上杉謙信)に泣きついた 2 。「義」を重んじ、助けを求める者を見過ごせない性格の景虎は、この救援要請を受諾。信濃の地に大軍を率いて出兵することを決意する。
これにより、信濃の覇権を巡る争いは、武田氏と信濃国人衆という構図から、甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信という、二大勢力の代理戦争へとその様相を一変させた。天文22年から永禄7年(1564年)まで、12年の長きにわたり5回にわたって繰り広げられる、戦国史に名高い「川中島の戦い」の幕が、ここに切って落とされたのである 2 。
結論:歴史の転換点としての上田原
上田原の戦いは、単なる一地方の合戦ではなかった。それは、戦国時代の歴史の流れを大きく変えた、紛れもない転換点であった。
第一に、この戦いは若き武田晴信に初めての挫折を教え、その戦略思想を力一辺倒から謀略重視へと変革させる契機となった。この敗北なくして、後の老獪な戦略家・武田信玄は生まれなかったかもしれない。
第二に、北信濃の雄・村上義清の武名を天下に轟かせた、彼の生涯における頂点であった。しかし同時に、この勝利が武田の警戒心を最大限に高め、結果的に徹底した調略を招き、彼の没落の遠因を作ったこともまた事実である。
そして何よりも、この一戦が村上義清を越後へ走らせ、上杉謙信という新たな、そして最大の好敵手を信濃の地に呼び込む直接的な引き金となった。上田原の戦いは、信玄と謙信という二人の巨人を結びつけ、川中島という壮大な歴史ドラマの序章を告げる、運命の戦いであったと言えるだろう。この一戦がなければ、その後の戦国史は全く異なる様相を呈していたに違いない。
引用文献
- 上田原の合戦 :: 紙本墨書生島足島神社文書 https://museum.umic.jp/ikushima/history/shinano-uedahara.html
- 上杉謙信と武田信玄の5回に渡る川中島の戦い https://museum.umic.jp/ikushima/history/takeda-kawanakajima.html
- その他 - 主要人物 - 【川中島の戦い】総合サイト | Battle of Kawanakajima - 長野市 https://kawanakajima.nagano.jp/character/category/other/
- 上田原古戦場 埋もれた古城 http://umoretakojo.jp/Shiro/Tokubetsuhen/Uedahara/index.htm
- 上田原の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E7%94%B0%E5%8E%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
- 武田信玄の歴史 - 戦国武将一覧/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/7482/
- 長野市「信州・風林火山」特設サイト 川中島の戦い[戦いを知る] https://www.nagano-cvb.or.jp/furinkazan/tatakai/jinbutsu4.php.html
- 村上義清 - 川中島の戦い・主要人物 https://kawanakajima.nagano.jp/character/murakami-yoshikiyo/
- 葛尾城跡と 村上義清 - 坂城町 https://www.town.sakaki.nagano.jp/www/contents/1001000000638/index.html
- 村上義清は何をした人?「信玄に二度も勝ったけど信濃を追われて謙信を頼った」ハナシ|どんな人?性格がわかるエピソードや逸話・詳しい年表 https://busho.fun/person/yoshikiyo-murakami
- 上田原古戦場 /【川中島の戦い】史跡ガイド - 長野市 - ながの観光net https://www.nagano-cvb.or.jp/furinkazan/siseki/entry/000336.html
- 城郭図鑑/上田原の戦い http://jyokakuzukan.la.coocan.jp/996kosenjyo/015ueda/ueda.html
- 【合戦解説】~上田原の戦い~武田信玄初めての敗北を徹底解説! - YouTube https://m.youtube.com/watch?v=RICEWv_Hves
- 「上田原合戦」の概要 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=8tWtUMPz2SY
- 【上田原の戦い】と【塩尻峠の戦い】大敗北と大勝利の二つの戦い 【武田軍の佐久侵攻戦】 https://www.youtube.com/watch?v=7coMeOKq1QY
- ;「上田原合戦」「戸石崩れ」に見る『甲陽軍鑑』のリアリティ http://yogokun.my.coocan.jp/kouyougunkan.htm
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- 逸話とゆかりの城で知る! 戦国武将 第9回【武田信玄・前編】父子の相克と龍虎相打つ川中島 https://shirobito.jp/article/1466
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