最終更新日 2025-08-28

与板城の戦い(1578)

越後の天を揺るがした一戦:与板城の戦い(1578)と直江氏継承の真相

序章:越後の巨星、墜つ ― 混乱の幕開け

天正6年3月13日、上杉謙信の急逝

天正6年(1578年)3月9日、越後国春日山城内において、厠に立った上杉謙信が突如として意識を失い昏倒した。当代随一と謳われた戦国大名の予期せぬ凶変であった。家臣たちの懸命な看病も空しく、意識が回復することのないまま、4日後の3月13日、謙信はこの世を去った 1 。死因は脳卒中であったと伝えられている 2

生涯不犯を貫き、実子を持たなかった謙信は、後継者を明確に指名しないまま世を去った。この「軍神」の死がもたらした権力の空白は、巨大な軍事力を誇った上杉家に、未曾有の危機をもたらすことになる。謙信が一代で築き上げた広大な支配圏は、織田信長や武田勝頼といった強敵と隣接しており、指導者の不在は即座に国家の存亡に直結する問題であった 2 。越後の空は、にわかに暗雲に覆われ始めた。

二人の後継者候補:上杉景勝と上杉景虎

謙信の死後、後継者として二人の養子が浮上した。

一人は、謙信の実姉である仙桃院の子、 上杉景勝 である。坂戸城主・長尾政景の子として生まれ、叔父である謙信の養子となった景勝は、謙信の血を引く最も近しい存在であった 4 。彼の権力基盤は、実家である上田長尾氏の一族郎党、いわゆる「上田衆」であり、固い結束力を持つ譜代の家臣団に支えられていた 5

もう一人は、相模の雄・北条氏康の七男であり、人質として越後へ来た後、謙信にその器量を見込まれて養子となった 上杉景虎 である。彼は景勝の妹(姉とも)を娶り、謙信から「景虎」の名を与えられた名門の貴公子であった 7 。関東に絶大な勢力を持つ北条家を後ろ盾とし、謙信旗下の宿老たちの間でも人望が厚かったとされている 8

血統の正統性を持つ景勝と、外部勢力との強力な連携と家中での人気を誇る景虎。二人の存在は、謙信亡き後の上杉家を二分するに十分な条件を備えていた。

景勝の先制行動と「御館の乱」の勃発

混乱の中、先に動いたのは景勝であった。謙信の死からわずか2日後の3月15日、景勝は「謙信公の遺言である」と称し、春日山城の中枢である本丸、すなわち「実城(みじょう)」を電光石火の速さで占拠した 1 。実城には、上杉家の財政を支える金蔵や、軍事力の源泉である兵器蔵が置かれており、これを押さえることは、単なる軍事行動以上の意味を持っていた。それは、上杉家の正統な後継者としての地位と、内乱を戦い抜くための莫大な軍資金を同時に手中に収めるという、極めて高度な政治的判断に基づく行動であった 1

この景勝の迅速な行動に対し、二の丸に居住していた景虎は完全に出遅れた。春日山城内での立場を失った景虎は、5月13日、妻子を伴って城を脱出し、前関東管領・上杉憲政の居館であった「御館(おたて)」へと移り、ここを拠点として景勝に対抗する姿勢を明確にした 7 。これにより、上杉家の家督を巡る争いは「御館の乱」として本格的な内乱へと発展。越後の国人領主たちは、景勝方と景虎方のいずれにつくかの選択を迫られ、越後全土が戦火に包まれることとなったのである 3

第一章:与板城の戦略的位置と城主・直江信綱

要衝・与板城

御館の乱において、景勝方の最前線の一つとなったのが、三島郡に位置する与板城であった。この城は、上杉氏の本拠地である春日山城(頸城郡)と、景虎方に与する国人が多く盤踞する古志郡や三条地域とを結ぶ交通の結節点に位置していた 7 。与板城を押さえることは、景勝方にとって東方の景虎方勢力からの圧力を食い止め、春日山城の側面を防衛する上で死活的に重要な意味を持っていた。

与板城は、もともと直江氏が拠点としていた本与板城から、天正年間に移された新しい山城である 11 。城山の頂に主郭、二ノ郭、三ノ郭を直線的に配置し、それぞれを深い堀切で分断した、堅固な防御構造を誇っていた 13 。この城の地理的・軍事的価値が、乱の初期において与板城を激戦の舞台へと押し上げることになる。

城主・直江信綱の肖像

この要衝・与板城の城主は、 直江信綱 であった。

信綱は、直江家の血筋ではなく、上野国総社長尾家の出身である 14 。彼は、長尾為景・晴景・謙信の三代に仕え、主に内政・外交面で絶大な功績を上げた宿老・直江景綱の娘であるお船の方を娶り、婿養子として直江家を継いだ 14 。天正5年(1577年)に養父・景綱が死去すると、信綱は直江家の名跡と奉行職を継承し、謙信の側近である馬廻として仕えた 14

謙信の死後、上杉家が二分されると、信綱は一切の迷いなく景勝方への支持を表明した 17 。これは、養父・景綱が景勝の父・長尾政景と共に謙信を支えた譜代の重臣であったことや、信綱自身が上杉家の行政を担う奉行職にあったことから、血統的正統性を持つ景勝を支持することが自然な選択であったと考えられる。彼のこの決断により、与板城は景勝方東方戦線の「防波堤」として、景虎方の猛攻を一身に受け止める運命を背負うこととなった。景虎方の中心人物の一人である本庄秀綱が拠る栃尾城は古志郡にあり、与板城を攻略しなければ、春日山城への圧力を強めることは不可能であった。与板城の防衛は、単なる一城の存亡ではなく、御館の乱全体の戦局を左右する重要な意味を持っていたのである。

第二章:景虎方の猛攻 ― 与板城攻防戦のリアルタイム再現

御館の乱が越後全土に拡大する中、景虎方の諸将は各地で蜂起し、景勝方の城砦へ攻撃を開始した。その中でも、最も早く、そして激しい攻勢に晒されたのが、直江信綱が守る与板城であった。

天正6年4月下旬:戦雲の接近

天正6年(1578年)4月下旬、景虎方に与した古志郡栃尾城主・本庄秀綱は、三条城の神余親綱らと連携し、軍事行動を開始した 10 。彼らの目標は明確であった。景勝方の東方における最大の拠点である与板城の無力化である。この時期、与板城周辺では、両軍の斥候による小競り合いが頻発し、戦雲が急速に垂れ込めていた。城主・直江信綱は、迫り来る大軍を前に、籠城の準備を固め、家臣たちの士気を鼓舞していたと考えられる。

5月10日頃(推定):攻城戦開始

5月10日頃、本庄秀綱率いる景虎方主力軍が、与板城への総攻撃を開始した 19 。鬨の声が山々に響き渡り、無数の旗指物が城へと殺到した。攻撃軍は、城の麓から急峻な山道を駆け上がり、城郭への突破を試みた。これに対し、信綱率いる与板城の守備隊は、山城特有の地形を最大限に活用して迎え撃った。

籠城戦の展開

与板城は、比高85メートルほどの山上に築かれた典型的な山城であり、その防御力は極めて高かった 20

守備側の信綱は、主郭(実城)から全軍を指揮し、的確な防衛戦を展開した。城へ至る道は狭く、大軍が一度に押し寄せることは困難である。守備兵は、急峻な切岸の上から弓矢を放ち、鉄砲で攻撃軍を狙い撃ちにした。特に、各郭を分断する深い堀切は、攻撃側の進軍を阻む大きな障害となった 13 。攻め寄せる本庄軍は、多大な犠牲を払いながらも、なかなか城の中枢へ近づくことができなかった。

一方、攻撃側の本庄秀綱は、兵力の優位を活かして波状攻撃を繰り返した。しかし、険しい地形と守備側の頑強な抵抗の前に、その勢いは徐々に削がれていった。山城攻めは、攻撃側に多大な消耗を強いる。兵糧と矢弾が尽きる前に城を落とさなければ、攻城側が逆に窮地に陥る可能性もあった。

攻防の帰趨:撃退成功

数日間にわたる激しい攻防の末、与板城は持ちこたえた。直江信綱の巧みな指揮と、城兵たちの奮戦により、本庄秀綱軍の攻撃はことごとく頓挫した。城の堅固な守りを打ち破れないと判断した秀綱は、ついに与板城の攻略を断念し、兵を退かざるを得なかった 18

この与板城での勝利は、御館の乱の初期段階における景勝方にとって、極めて価値のあるものであった。諸将の去就がいまだ流動的であった時期に、景勝方の主要な将が無傷で敵の大軍を撃退したという事実は、味方の士気を大いに高め、日和見を決め込んでいた国人衆に景勝方の優位を印象付けた。直江信綱の名は、この一戦によって、景勝方の中核を担う有能な武将として、越後中に知れ渡ることとなったのである。


表1:与板城攻防戦 タイムライン

時期

景勝方(与板城)の動向

景虎方(本庄秀綱軍)の動向

考察

天正6年4月下旬

直江信綱、籠城の準備を固める。周辺で小競り合いが発生。

栃尾城主・本庄秀綱が軍事行動を開始。与板城への攻撃準備を進める 10

景虎方が東方戦線で攻勢に出る。与板城が最初の主要な標的となる。

5月5日頃

春日山城周辺で、景勝方と景虎方の最初の武力衝突が発生 3

-

乱が本格的な戦闘段階に移行。各地で戦闘が開始される。

5月10日頃

直江信綱、城の地形を活かした防衛戦を展開。

本庄秀綱軍、与板城への総攻撃を開始 19

与板城攻防戦が勃発。景勝方東方戦線の維持をかけた重要な戦い。

5月中旬

激しい攻防の末、攻撃軍を撃退することに成功 18

攻略を断念し、栃尾城へ撤退。

直江信綱の戦術的勝利。景勝方の士気を高め、戦線の安定に大きく貢献した。


第三章:乱の終結と、城主を襲った真の悲劇

戦局の転換と景虎の滅亡

与板城での勝利に続き、景勝方は徐々に戦局を有利に進めていった。決定的な転換点となったのは、甲斐の武田勝頼との同盟(甲越同盟)の締結であった 2 。景虎方の最大の頼みであった北条家の援軍は、武田軍によって上野国境で阻まれ、越後へ入ることができなかった。これにより、景虎は完全に孤立無援の状態に陥った。

天正7年(1579年)2月、景勝軍は御館への総攻撃を開始。和議の使者として御館を出た上杉憲政らが景勝方の兵に殺害されるなど、凄惨な戦闘の末、3月に御館は炎上し落城した 9 。妻子と共に脱出した景虎は、関東への帰還を目指したが、道中の鮫ヶ尾城で城主・堀江宗親の裏切りにあい、進退窮まって自害した 2 。謙信の死から、ちょうど一年後のことであった。

【論点の核心】直江信綱の死の真相

ここで、歴史上の重要な事実を明確にしなければならない。与板城の戦いで輝かしい勝利を収めた城主・直江信綱は、この戦いで命を落としたわけではない。彼の死は、御館の乱が終結した後の、全く異なる状況下で訪れた悲劇であった。

戦死ではなかった最期

史料によれば、直江信綱が死去したのは、与板城の戦いから3年後の 天正9年(1581年)9月9日 である 14 。彼は御館の乱を戦い抜き、景勝の勝利に貢献した後も、上杉家の重臣として活動を続けていた 22

春日山城内の惨劇

信綱の最期の場所は、戦場ではなく、味方の本拠地であるはずの春日山城内であった。そして、彼を死に至らしめたのは敵兵の刃ではなく、同じ上杉家臣である 毛利秀広 の凶刃であった 23

原因:論功行賞への不満

この惨劇の引き金となったのは、御館の乱終結後に行われた論功行賞、すなわち恩賞の配分を巡る深刻な対立であった 22 。毛利秀広は、乱における自らの功績が正当に評価されず、十分な恩賞が与えられなかったことに強い不満を抱いていた。彼はその原因を、景勝の側近であった儒学者・

山崎秀仙 が、景勝の出身基盤である上田衆ばかりを贔屓し、他の家臣を不当に扱っているためだと考えた 24

事件の瞬間

天正9年9月9日、怒りに燃える毛利秀広は春日山城内において、山崎秀仙を襲撃した。その時、秀仙は偶然にも直江信綱と会談中であった 24 。秀広は秀仙を斬殺。突然の凶行に、その場にいた信綱は秀広に応戦し、傷を負わせたものの、逆上した秀広に斬りつけられ、命を落とした 24 。乱心した秀広もまた、その場に居合わせた岩井信能によって討ち取られたと記録されている 24

この事件は、景勝の勝利が決して盤石なものではなかったことを物語っている。内乱に勝利した代償として、上杉家の軍事力は著しく疲弊し、織田信長のような外部勢力の侵攻に苦しむことになっただけでなく 3 、家臣団の内部にも深刻な亀裂を生じさせていた。上田衆を優遇する景勝政権の方針は、多くの家臣の不満を買い、この直江信綱殺害事件のみならず、後に7年もの歳月を要する新発田重家の反乱へと繋がっていく 3 。与板城の英雄・直江信綱の死は、勝利の裏に潜む、根深い対立と不満が噴出した悲劇的な事件だったのである。

第四章:一つの死、一つの誕生 ― 直江兼続への継承

名門・直江家の断絶危機

直江信綱の突然の死により、上杉家にとって由緒ある名門・直江家は当主を失い、断絶の危機に瀕した。信綱とお船の方の間には男子がおらず、このままでは景綱以来の家系が途絶えてしまう状況であった 22 。上杉家中の有力な家門である直江家が消滅することは、景勝政権にとって大きな損失であり、放置できない問題であった。

景勝の裁定と兼続の抜擢

この危機に際し、主君・上杉景勝は迅速かつ大胆な裁定を下した。彼は、自身の小姓時代からの側近であり、その類稀な才覚で頭角を現していた青年、 樋口兼続 を直江家の後継者として指名したのである 4

兼続は、景勝の母・仙桃院に見出され、幼少期より景勝の近習として仕えていた 30 。御館の乱では、若年にしてその知略を発揮し、景勝の勝利に大きく貢献したとされる 30 。景勝にとって、兼続は最も信頼できる腹心であった。

お船の方との婚姻

直江家の継承を正式なものとするため、景勝は兼続に、信綱の未亡人となったお船の方と婚姻することを命じた 31 。天正9年(1581年)、兼続は22歳、お船の方は3歳年上の25歳であった 32 。この婚姻により、樋口兼続は「直江兼続」と名を改め、与板城主として、また上杉家の宿老として、名実ともに直江家を継承した。

歴史的宰相の誕生

この一連の出来事は、戦国史にその名を刻む「直江兼続」という稀代の宰相が誕生した瞬間であった。与板城主、そして直江家の当主という地位は、兼続がその政治手腕を存分に発揮するための大きな足掛かりとなった。

ここには歴史の皮肉な巡り合わせが存在する。御館の乱の英雄であった直江信綱の非業の死という悲劇が、結果として、後に豊臣秀吉や徳川家康をも唸らせる智将・直江兼続を表舞台に押し上げる直接的なきっかけとなったのである。もし信綱が殺害されなければ、兼続は有能な側近の一人としてキャリアを終えていたかもしれない。

景勝のこの決断は、単なる家督相続問題の解決に留まらない、高度な政治的意図を含んでいた。第一に、名門直江家を存続させること。第二に、その強大な影響力をライバル派閥の手に渡らせないこと。そして最も重要なのは、自らの最も忠実で有能な腹心を家中の枢要な地位に据えることで、自身の権力基盤を盤石にすることであった。これは、謙信時代のような国人衆の連合体から、景勝を頂点とするより中央集権的な支配体制へと上杉家を再編していく上での、極めて重要な一歩であったと言える。

終章:与板城の戦いが残したもの

天正6年(1578年)の与板城の戦いは、御館の乱という大きな内乱の中の一局地戦に過ぎないかもしれない。しかし、その歴史的意義を深く考察する時、この戦いが単なる一城の攻防戦に留まらない、重要な転換点であったことが明らかになる。

第一に、この戦いは御館の乱初期における景勝方の戦略的勝利であった。直江信綱の奮戦により、景虎方の東方からの圧力を頓挫させ、春日山城の側面を安定させた。この勝利は、まだ情勢が不透明であった時期に、景勝方の結束を固め、後の全面的な勝利への道筋をつける上で、計り知れない価値を持っていた。

第二に、そしてより重要なのは、この戦いがその後の上杉家の歴史を大きく動かす連鎖の起点となったことである。与板城を守り抜いた英雄・直江信綱が、乱の勝利がもたらした内部対立の犠牲となり非業の死を遂げた。そして、その悲劇的な死が、直江兼続という新たな才能を歴史の表舞台へと引き上げる直接的な原因となった。

歴史は、信綱から兼続へと、直江家の名跡を通じて受け継がれていった。信綱がその武勇と忠誠心で守り抜いた景勝政権の「現在」は、彼の死によって生じた空隙を埋めた兼続によって、織田、豊臣、徳川というさらに巨大な権力と対峙する「未来」へと繋げられていく。

したがって、与板城の戦いは、上杉家臣団の再編、そして後の米沢藩を支えることになる直江兼続の時代の、まさに序幕を告げる一戦であったと結論付けることができる。越後の山城で繰り広げられた激しい攻防は、一人の英雄の死と、一人の歴史的宰相の誕生という、上杉家の運命を決定づける大きな物語の始まりだったのである。

引用文献

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  5. 御館の乱 /謙信亡き後、上杉家は内乱へ… - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=nt4qziUJyHM
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  7. 御館の乱 - BIGLOBE https://www7a.biglobe.ne.jp/echigoya/ka/OtateNoRan.html
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