最終更新日 2025-08-29

久能城の戦い(1582)

久能城の戦い(1582)は、甲州征伐における徳川家康の駿河侵攻。武田氏の内部崩壊と穴山梅雪の裏切りにより、久能城は無血開城。家康は駿河を掌握した。

天正十年 久能城無血開城の真相 ―甲州征伐における徳川家康の駿河電撃戦―

序論:久能城の「戦い」とは何だったのか

天正十年(1582年)、駿河国にその威容を誇った久能城が、徳川家康の軍門に降った。この出来事は「久能城の戦い」として知られるが、その実態は、鬨の声や鉄砲の轟音が響き渡る攻城戦ではなかった。むしろ、それは織田信長が主導した「甲州征伐」という巨大な戦略の奔流の中で、徳川家康が展開した周到な軍事行動と巧みな謀略が結実した、「無血開城」という静かなる帰結であった。

本報告書は、この久能城の「戦い」を、単なる一城の明け渡しの記録としてではなく、天正十年という激動の年における徳川家康の駿河平定作戦の全体像の中に位置づけることを目的とする。なぜ難攻不落とされた要害は、一矢も交えることなく降伏したのか。その背景には、武田家の内部崩壊、鍵を握る一人の武将の寝返り、そして駿河湾の制海権を巡る高度な戦略的計算が存在した。本稿では、詳細な時系列に基づき、この歴史的転換点の真相を多角的に解き明かしていく。


第一部:戦雲の駿河 ―開戦前夜の戦略環境―

久能城の運命を理解するためには、まず、この城が持つ特異な価値と、それを取り巻く戦国末期の緊迫した情勢を把握する必要がある。城は単なる石と土の塊ではなく、時代の要請が生み出した戦略的実体である。

第一章:屹立する要害、久能山城

その地政学的・戦略的重要性

久能城、または久能山城は、駿河湾に鋭く突き出した有度山の一角、標高約210メートルの峻険な支尾根に築かれていた 1 。この立地が、久能城に比類なき戦略的価値を与えていた。城郭から駿府の市街地や平野部を直接望むことはできない。その視線は、ひたすらに眼下に広がる駿河湾の洋上に注がれていた 1 。これは、久能城が陸上の戦闘を主眼とした城ではなく、海上交通路を監視・支配するための「海の要塞」であったことを物語っている。東海道という日本の大動脈と、駿河湾という経済・軍事の海上交通路、その双方を扼する喉元に、久能城は屹立していたのである。

武田信玄による築城と、その戦略的意図

この地に軍事拠点を築いたのは、甲斐の虎・武田信玄であった。永禄十一年(1568年)、駿河の今川氏を駆逐した信玄は、この地にそびえていた久能寺を強制的に移転させ、城郭を築いた 2 。その主たる目的は、東方から圧力を強める相模の北条氏政への備えであり、同時に、今川水軍を接収して新たに編成した「武田水軍」の拠点である清水湊を防衛する重要な役割を担っていた 4 。武田氏にとって、駿河支配は悲願であった「海への出口」の確保を意味した。久能城と、その対岸に位置する江尻城は、この海洋戦略を支える両輪だったのである 5

城主・今福一族のプロファイル

この重要拠点を任されたのが、武田家の譜代家老衆の一角を占める今福一族であった。『甲陽軍鑑』によれば、天正十年時点での城主は今福虎孝であり、その父・友清(浄閑斎)は信玄・勝頼の二代に仕えた歴戦の勇将であった 7 。武田家譜代の名門が、この海の要害を託されていたという事実は、久能城がいかに武田氏の駿河支配において死活的に重要な拠点であったかを雄弁に物語っている。

第二章:斜陽の武田、昇竜の織田・徳川

凋落する武田勝頼の権勢

かつて戦国最強を謳われた武田騎馬軍団も、天正三年(1575年)の長篠の戦いにおける織田・徳川連合軍への歴史的大敗以降、その威光にかげりが見え始めていた。当主・武田勝頼は領国の再建に努めるも、織田信長による執拗な経済封鎖や調略は、武田家の屋台骨を内側から静かに蝕んでいた。家臣団の動揺は広がり、名門・武田氏は滅亡への坂道を転がり始めていた。

甲州征伐の発動:武田包囲網の完成

天正十年(1582年)二月、ついに織田信長は武田家殲滅のための総攻撃を命じる。これが「甲州征伐」である 9 。信長の嫡男・織田信忠を総大将に、美濃・尾張から木曽谷を抜けて信濃へ進撃する主力軍。信長の盟友・徳川家康は遠江から駿河へ。そして、一時的に織田方と手を結んだ北条氏政は、伊豆・相模から駿河東部および甲斐東部へと侵攻する。東西南の三方から、巨大な包囲網が武田領に襲いかかったのである 10

徳川家康の役割と駿河侵攻計画

この大戦略において、徳川家康に与えられた任務は、本拠地である遠江・三河から駿河方面へ侵攻することであった 10 。家康にとってこの戦は、信長への軍事協力であると同時に、かつて今川氏の人質として過ごした故地であり、武田氏に奪われた駿河国を奪還するという長年の宿願を果たす絶好の機会でもあった 11 。家康の狙いは、単なる領土の切り取りではない。駿河一国を完全に掌握し、武田氏滅亡後の新たな秩序の中で、確固たる地位を築くための戦略的布石であった。


第二部:駿河侵攻、そのリアルタイムクロノロジー

徳川家康による駿河侵攻は、驚くべき速度で展開された。それは、武力による正面突破と、水面下で進められた周到な謀略が完璧に連動した、電撃戦であった。久能城の無血開城は、この一連の作戦の最終段階に位置づけられる。

表1:甲州征伐・徳川軍駿河侵攻 時系列表

日付(天正十年)

徳川軍の動向

武田・北条方の動向

主要な出来事・場所

二月十六日

家康、浜松城を出陣。

-

徳川軍、駿河侵攻作戦を開始。

二月二十日

駿河西部・田中城への攻撃を開始。

城主・依田信蕃が籠城し抵抗。

田中城攻防戦。

二月二十一日

主力部隊、駿府城を占領。

駿河における武田方の指揮系統が麻痺。

駿府陥落。

二月二十五日

-

穴山梅雪、人質の妻子を駿府から救出。

梅雪、離反の準備を完了。

二月下旬

-

北条軍、駿河東部へ侵攻。三枚橋城などを攻略。

北条氏による武田領侵攻。

三月二日

家康、穴山梅雪に離反を勧告。

穴山梅雪、徳川方への内応を確約。江尻城を開城。

江尻城、無血開城。

三月上旬

江尻城に入城。久能城を完全に包囲・孤立させる。

久能城主・今福虎孝、絶望的な状況に陥る。

久能城、無血開城。

三月十一日

-

武田勝頼、天目山にて自害。

甲斐武田氏、滅亡。

第一章:作戦発動(天正十年二月中旬~下旬)

二月十六日、出陣。 この日、徳川家康は万全の準備を整え、本拠地・浜松城から出陣した 10 。その軍勢は、酒井忠次、本多忠勝、榊原康政といった徳川四天王をはじめとする精鋭で固められていた。目標はただ一つ、駿河国の完全制圧である。

二月二十日、田中城攻撃。 徳川軍の最初の目標となったのは、駿河西部の要衝・田中城であった 10 。城主は、武田方の勇将として知られる依田信蕃。信蕃は徳川軍の猛攻をよく防ぎ、籠城戦に持ち込んだ。しかし、家康の真の狙いは別にあった。田中城への攻撃は、武田方の注意を西部に引きつけ、その隙に駿河の中心部を電撃的に突くための陽動の側面も持っていたのである。

二月二十一日、駿府占領。 家康の主力部隊は、田中城を牽制しつつ迅速に進軍し、わずか一日で今川・武田支配の拠点であった駿府を占領する 10 。武田方の駿河における防衛線と指揮系統は、この一撃によって事実上崩壊した。

第二章:勝敗を決した謀略 ―穴山梅雪の寝返り―

駿河平定の趨勢を決定づけたのは、武力ではなく、一人の男の決断であった。その男の名は、穴山梅雪(信君)。

穴山梅雪という存在。 梅雪は武田信玄の娘婿であり、武田一門の中でも別格の地位を誇る親族衆筆頭であった 10 。彼の存在は、武田家そのものの権威と一体であった。したがって、彼の離反は単なる一武将の裏切りとは全く次元が異なり、武田家の内部からの崩壊を象徴する決定的な出来事となった。

離反の経緯。 勝頼の代になり、武田家の将来に絶望していた梅雪に対し、信長と家康は執拗な調略を仕掛けていた。「甲斐一国を与える」という破格の条件も提示されたという 10 。梅雪はついに決断する。二月二十五日、徳川軍の駿府占領という混乱に乗じ、駿府に人質として置かれていた妻子を密かに脱出させ、自らの退路を確保した 10 。そして三月二日、梅雪は家康からの最終的な勧告を受け入れ、徳川方への内応を確約したのである。

江尻城の無血開城。 梅雪の寝返りにより、彼が城主を務めていた駿河における武田方の最大拠点・江尻城は、一滴の血も流すことなく徳川の手に渡った 12 。駿府と久能城の中間に位置するこの戦略的要衝が陥落したことで、久能城は完全に孤立無援となった。もはや、その運命は風前の灯火であった。

第三章:久能城、沈黙の開城(天正十年三月上旬)

江尻城の開城は、久能城に籠る城主・今福虎孝と城兵たちに、絶望的な現実を突きつけた。

絶望的な孤立。 兵站線は断たれ、退路も存在しない。西からは徳川軍が迫り、東からは北条軍が侵攻している。そして、信頼すべき上官であった穴山梅雪は敵に寝返った。援軍が来る見込みは万に一つもなく、久能城は駿河湾に浮かぶ孤島と化した。

降伏勧告。 この状況下で、徳川方から降伏勧告が突きつけられたことは想像に難くない。その使者を務めたのは、かつての上司であり、武田家の重鎮であった穴山梅雪その人であった可能性が極めて高い 7 。説得の内容は、「もはや武田家の命運は尽きた。これ以上の抵抗は無益である。降伏すれば城兵の生命は保証する」といったものであっただろう。虎孝と城兵たちは、降伏か、玉砕か、という究極の選択を迫られた。

今福一族の末路(諸説の検討)。 久能城開城後の城主・今福虎孝の動向については、史料によって記述が分かれている。

  • 自刃説 : 『甲陽軍鑑』をはじめとする複数の記録では、虎孝は子の善十郎と共に自刃したとされている 1 。これは、主家と運命を共にし、武田武士としての名誉を貫いたという、後世の武士の理想像が反映された記述とも考えられる。
  • 降伏説 : 一方で、穴山梅雪の説得に応じて降伏した、とする説も存在する 7 。この説を補強するのが、虎孝の子孫が後に徳川家に仕官しているという事実である 13 。一族が皆殺しにされたり、玉砕したりしていれば、このようなことは起こり得ない。

この二つの説は、一見矛盾するように見える。しかし、両者を統合する解釈も可能である。すなわち、「城主である今福虎孝は、籠城戦を指揮した責任を取り、主家への忠義の証として自刃した。しかし、その一方で、穴山梅雪の仲介を通じて城兵や一族の助命を嘆願し、徳川方はこれを受け入れた」というものである。これにより、城主の悲劇的な最期と、一族の存続という二つの事実を両立させることができる。いずれにせよ、久能城が大規模な戦闘を経ずに開城したことは、ほぼ間違いない。


第三部:戦略的帰結と歴史的意義

久能城の無血開城は、甲州征伐という大局における一つのエピソードに過ぎないかもしれない。しかし、この出来事が徳川家康にもたらした戦略的利益と、その後の歴史に与えた影響は、決して小さなものではなかった。

表2:久能城開城における主要関係者一覧

氏名

当時の所属・役職

久能城開城における役割

その後の結末

徳川家康

織田家同盟者・三河遠江領主

駿河侵攻軍 総大将

駿河国を拝領。天下人への道を歩む。

穴山梅雪

武田家親族衆筆頭・江尻城主

徳川方に内応し、江尻・久能の無血開城を主導。

本能寺の変後の混乱の中、一揆に襲われ落命。

今福虎孝

武田家家臣・久能城主

孤立無援の中、城を開城。

自刃したとされるが、一族は存続し徳川家に仕える。

織田信長

天下人

甲州征伐の最高指揮官

同年六月、本能寺にて明智光秀に討たれる。

第一章:駿河平定と制海権の掌握

軍事的アドバンテージの確立

久能城を含む駿河一円の武田方拠点を完全に接収したことで、家康は甲斐・信濃方面へ進出するための安全な後方基地を確保した。これにより、武田氏滅亡後の旧領を巡る「天正壬午の乱」において、北条氏と対峙する上で極めて有利な戦略的ポジションを得ることになる 14

武田水軍の吸収と徳川水軍の誕生

久能城と江尻城の陥落は、武田水軍の事実上の解体を意味した。家康は、降伏した武田水軍の将兵(向井氏など)を積極的に召し抱え、自らの海軍力として再編成した 16 。これは、陸の戦いでは強さを誇った家康が、本格的な海軍力を手に入れる重要な転換点であった。この新たに編成された「徳川水軍」は、後の小牧・長久手の戦いや小田原征伐において、大きな役割を果たすことになる。久能城の接収は、単に土地を得ただけでなく、「制海権」という無形の戦略資産を家康にもたらしたのである。

第二章:武田氏の滅亡と新たな秩序

三月十一日、天目山の悲劇

家康の駿河侵攻と並行して、織田信忠率いる主力軍は破竹の勢いで甲斐へ進撃していた。追い詰められた武田勝頼は、三月十一日、天目山にて嫡男・信勝らと共に自害。これにより、源氏の名門・甲斐武田氏は、ここに滅亡した 10

信長による論功行賞と駿河拝領

戦後、信長によって旧武田領の分割、いわゆる「知行割」が行われた。この中で家康は、甲州征伐における最大の功労者の一人として、駿河一国を正式に与えられた 10 。久能城の迅速な接収は、この駿河拝領を既成事実化し、家康を遠江・三河・駿河の三国を領する大大名へと押し上げる上で、決定的な役割を果たしたのである。

第三章:要害から霊廟へ ―久能城のその後―

徳川時代の久能城

徳川の支配下に入った後も、久能城は駿河防衛の要としてしばらくは機能し続けた。しかし、天正十八年(1590年)に家康が豊臣秀吉の命により関東へ移封されると、その戦略的価値は一時的に低下する 16

久能山東照宮への変貌

久能城の歴史が再び大きく動くのは、家康の死によってである。元和二年(1616年)、駿府城で75年の生涯を閉じた家康は、「遺体は久能山に納めよ」との遺言を残した。これにより、彼の遺骸は久能山に埋葬され、城は城としての役目を終え、家康を祀る壮麗な社殿、すなわち久能山東照宮へと姿を変えていった 1 。戦国の世に武威を誇った要害は、泰平の世の到来と共に、神聖なる霊廟へと昇華したのである。この劇的な変貌は、久能という地が、戦乱の時代と平和の時代の双方において、いかに重要な場所であったかを象徴している。

結論

天正十年(1582年)の「久能城の戦い」は、その名に反して、砲火を交える伝統的な合戦ではなかった。それは、徳川家康の周到な軍事計画と、敵の内部崩壊を巧みに利用した謀略が完璧に融合した結果としての「無血開城」であった。

この一連の出来事の勝敗を分けたのは、武田家親族衆筆頭・穴山梅雪の離反という、たった一つの、しかし決定的な一手であった。この謀略の成功が、駿河における武田方の防衛線を内部から瓦解させ、難攻不落と謳われた久能城をして、戦わずして降伏に至らしめたのである。それは、物理的な戦闘力を凌駕した、情報戦・心理戦における家康の完全勝利であった。

久能城の接収と駿河一国の平定は、家康に広大な領土と、そして何よりも重要な駿河湾の制海権をもたらした。これは、武田氏滅亡後の混乱期を勝ち抜き、彼が「三河の小大名」から「天下を狙う有力大名」へと飛躍する上で、極めて重要な戦略的成功であったと言える。戦国の要害が、後に平和の象徴たる霊廟へと姿を変えたその歴史は、久能城の無血開城が、一つの時代の終わりと、徳川による新たな時代の幕開けを告げる象徴的な出来事であったことを、静かに物語っている。

引用文献

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  4. 『三方ヶ原の戦い』を地図や陣形を使ってわかりやすく解説! - 戦国 BANASHI https://sengokubanashi.net/history/mikatagaharanotatakai-layout/
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  10. 1582年(前半) 武田家の滅亡 | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1582-1/
  11. 德川家康- 维基百科,自由的百科全书 https://zh.wikipedia.org/zh-cn/%E5%BE%B7%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%BA%B7
  12. 家康公の史話と伝説とエピソードを訪ねて - 清水区 - 静岡市観光 https://www.visit-shizuoka.com/t/oogosho400/study/13_18.htm
  13. 今福氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E7%A6%8F%E6%B0%8F
  14. 1582年(後半) 東国 天正壬午の乱 | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1582-4/
  15. 天正壬午の乱 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%AD%A3%E5%A3%AC%E5%8D%88%E3%81%AE%E4%B9%B1
  16. 戦国時代後期の山城 | 駿府ウエイブ https://sumpuwave.com/imagawa_castle/
  17. 江戸の海防を任された徳川家康の水軍編成のブレーン船奉行・向井正綱とは? - 歴史人 https://www.rekishijin.com/27921
  18. 徳川家康公について - 久能山東照宮 https://www.toshogu.or.jp/about/ieyasu.php