二俣城の戦い(1572)
日本の戦国時代:二俣城の戦い(1572)― 武田信玄、最後の西上作戦における遠江の攻防
序章:甲斐の虎、西へ ― 西上作戦の胎動
元亀三年(1572年)、日本の勢力図が大きく塗り替えられようとしていた。甲斐の虎、武田信玄がその生涯最後にして最大の大規模軍事作戦、世に言う「西上作戦」を発動したのである。この作戦は、単に京を目指す上洛戦という一面的な解釈に留まらず、当時の複雑な政治情勢と信玄自身の深謀遠慮が絡み合った、多層的な戦略目標を内包していた。その序盤における極めて重要な一局面が、遠江国(現在の静岡県西部)の要衝、二俣城を巡る攻防戦であった。
元亀三年の天下情勢:織田信長包囲網の実態と虚実
当時、尾張から急速に台頭した織田信長は、将軍・足利義昭を奉じて上洛を果たし、天下布武を掲げてその勢力を飛躍的に拡大していた。しかし、その急進的な手法は各地の伝統的勢力との間に深刻な摩擦を生み、反信長感情が高まりつつあった。この状況を背景に、将軍・足利義昭が信玄に信長討伐の御内書を送ったことが、信長包囲網形成のきっかけとなったと一般的に理解されている 1 。
しかし、この「信長包囲網」は、作戦開始当初から強固な軍事同盟として機能していたわけではない。元亀三年十月の侵攻開始時点では、信玄と義昭、そして畿内の三好・松永氏との間に明確な連携は成立していなかったとする見方が有力である 2 。むしろ、信玄の西上作戦という具体的な軍事行動が触媒となり、各地の反信長勢力がそれに呼応する形で、結果的に包囲網が実体化したと捉えるべきであろう。つまり、信玄の行動は、形成された包囲網への参加というよりは、彼自身の戦略的判断に基づき、包囲網の形成を促す引き金となったのである。これは、信玄が単に将軍の駒として動いたのではなく、天下の情勢を自ら作り出そうとする主体的な意志を持っていたことを示唆している。
武田信玄の決断:上洛か、領土拡大か、それとも家康への鬱憤か
信玄の西上作戦の真の目的については、歴史家の間でも議論が分かれている。信長を打倒し天下を掌握するための上洛戦であったというのが最も一般的な解釈である 3 。一方で、必ずしも上洛を最終目標としていたわけではないという説も存在する 4 。
これらの大局的な目標と並行して、より直接的かつ個人的な動機も指摘されている。それは、徳川家康に対する過去三年にわたる「鬱憤」である 5 。かつて今川領を分割する密約を結びながらも 6 、家康が信玄の宿敵である越後の上杉謙信と同盟を結ぶなど 5 、信玄の意に沿わない行動を続けたことへの強い不満が、侵攻の直接的な引き金になったという見方である。
これらの動機は、決して排他的なものではない。信玄ほどの老練な戦略家であれば、複数の目標を同時に追求していたと考えるのが自然であろう。すなわち、最終的な目標として信長との決戦と天下への道を視野に入れつつ、その実現のために不可欠な第一段階として、徳川領の制圧を位置づけていたのである。遠江・三河は、武田領国、特に新たに支配下に置いた駿河の安全保障にとって、また西へ向かう際の兵站線を確保する上で、まさに喉元に突きつけられた刃であった 7 。家康を屈服させることは、この戦略的障害を取り除き、武田の勢力基盤をさらに強固にするための極めて合理的な一手であった。家康への「鬱憤」は、この戦略的正当性を内外に示すための、格好の大義名分としても機能したのである。
遠江・三河への二方面侵攻計画:作戦の全体像
信玄の作戦は、周到に練られたものであった。敵対関係にあった小田原の北条氏と和睦し、背後の憂いを断った上で 5 、元亀三年十月三日、遠江と三河への同時侵攻を開始した 8 。
- 本隊(遠江方面軍): 武田信玄自らが率いる約2万2000の主力が、遠江国へ侵攻 9 。
- 別働隊(三河方面軍): 重臣の山県昌景、秋山虎繁らが率いる約5000の精鋭が、信濃から三河国へ侵攻 2 。
この二方面からの挟撃は、徳川家康の限られた兵力を分散させ、効果的な迎撃を不可能にすることを狙ったものであった。家康はどちらか一方に戦力を集中させることができず、各個撃破される危険に晒されることになった。この壮大な作戦計画の中で、遠江における徳川方の防衛網の中核をなす二俣城の攻略が、最初の重要な目標として設定されたのである。
【表1】二俣城の戦い 前後関係年表
年月日(元亀三年) |
主要な出来事 |
10月3日 |
武田信玄、西上作戦を開始。遠江・三河への二方面侵攻を発動。 |
10月13日 |
武田本隊、北遠江の徳川方諸城(天方城、一宮城など)を一日で制圧。 |
10月14日 |
一言坂の戦い。徳川軍は武田軍先鋒に敗北し、浜松城へ敗走。 |
10月16日 |
武田軍本隊、二俣城の包囲を完了。 |
10月18日 |
降伏勧告を拒否した二俣城に対し、武田軍が総攻撃を開始。 |
11月下旬~12月上旬 |
井戸櫓破壊作戦。武田軍が筏を用いて水の手を断つ。 |
12月19日 |
二俣城、開城。城将・中根正照らは浜松城へ退去。(※11月30日説あり) |
12月22日 |
三方ヶ原の戦い。浜松城から出撃した徳川家康は武田信玄に大敗を喫す。 |
第一章:遠江侵攻 ― 怒濤の進軍(元亀三年十月上旬~中旬)
十月三日に開始された武田軍の侵攻は、まさに怒濤の勢いであった。信玄が描いた戦略図に基づき、徳川領は瞬く間に蹂躙され、二俣城は本格的な攻城戦が始まる前に、戦略的に孤立無援の状態へと追い込まれていった。
十月三日、進軍開始:武田本隊と別働隊の進路
武田軍の進軍ルートには二つの説が存在する。従来は、信濃から青崩峠を越えて遠江に入るルートが有力視されていた 4 。しかし近年の研究では、『当代記』などの史料に基づき、信玄率いる本隊は甲府から駿河に入り、大井川を越えて遠江の沿岸部を西進したという説が有力となっている 2 。このルートは比較的平坦であり、2万を超える大軍の兵站を維持するには合理的であった 10 。
一方で、山県昌景が率いる別働隊は、信濃の伊那谷から三河へ直接侵攻する山岳ルートを取った 9 。これは、小規模で機動力に優れた部隊の特性を活かし、徳川領の心臓部を直接脅かすことを目的としていた。このように、部隊の規模と任務に応じて最適な進路を選択する点に、武田軍の高度な兵站計画と思考の柔軟性が見て取れる。
北遠江の席巻:徳川方連絡網の寸断
遠江に侵入した信玄の本隊は、破竹の進撃を見せた。十月十三日、信玄は軍を二分し、馬場信春に只深城を攻略させ二俣城へ向かわせる一方、自らは天方城、一宮城、飯田城といった北遠江の徳川方諸城を、わずか一日にして全て陥落させた 12 。翌十四日には匂坂城も攻略し 13 、その支配域を急速に拡大した。
この電撃的な制圧は、単なる領土の獲得以上の戦略的意味を持っていた。これらの城砦群は、徳川家康の本拠地である浜松城と、東方の重要拠点である掛川城、高天神城とを結ぶ連絡線上に位置していた。これらを瞬く間に奪取することで、信玄は徳川方の指揮・通信系統を完全に寸断したのである 13 。この時点で、二俣城は周辺の友軍拠点との連携を絶たれ、浜松城からの援軍以外には期待できない、孤立した存在となった。まさに、二俣城を巡る戦いは、本格的な攻城戦が始まる前に、その大勢が決定づけられていたと言っても過言ではない。信玄は力攻めの前に、まず戦略によって敵の力を削ぐという、戦の定石を完璧に実行したのである。
前哨戦「一言坂の戦い」:徳川軍の敗走
武田軍の進軍速度を侮っていた徳川家康は、偵察のために本多忠勝・内藤信成らを先行させたが、彼らは武田軍の先鋒と遭遇し、十月十四日、一言坂(現在の静岡県磐田市)で戦闘となった 14 。しかし、兵力で劣る徳川軍は武田軍の猛攻の前にたちまち劣勢となり、撤退を余儀なくされる 15 。この時、本多忠勝が殿(しんがり)を務め、鬼神の如き働きで味方の撤退を助けた逸話は名高い 16 。
この一言坂での敗北は、家康にとって厳しい現実を突きつけるものであった。武田軍の戦術的な練度と圧倒的な勢いを肌で感じた家康は、野戦での勝利が不可能であることを悟り、浜松城での籠城という守勢に立たざるを得なくなった。これにより、すでに戦略的に孤立していた二俣城が、家康本隊からの直接的な救援を受ける望みは、事実上絶たれたのである。
第二章:二俣城攻防戦 ― 鉄壁の要塞(元亀三年十月十六日~十二月)
遠江北部の徳川方拠点を完全に制圧し、一言坂で家康の迎撃部隊を退けた武田信玄は、満を持して遠江支配の鍵となる二俣城へとその矛先を向けた。ここから、戦国史上有数の巧妙な攻城戦として知られる、約二ヶ月にわたる壮絶な攻防の幕が上がる。
【表2】二俣城攻防戦における両軍の兵力比較
|
武田軍 |
徳川軍(二俣城守備隊) |
総大将 |
武田信玄 |
― |
主要武将 |
馬場信春、山県昌景 |
城将:中根正照 副将:青木貞治 |
兵力 |
約27,000人 |
約1,200人 |
出典: 9
合戦の舞台、二俣城
二俣城が武田の大軍を相手に長期間持ちこたえることができた最大の理由は、その類稀なる地形にあった。城は天竜川と二俣川が合流する地点の丘陵上に築かれており、二つの川が天然の巨大な水堀として機能していた 18 。特に天竜川側は断崖絶壁となっており、兵が近づくことすら不可能であった。学術的な見地からも、二俣のような河川の谷口は、山地から平野への移行点として、東海地方における戦略上の要衝であったことが指摘されている 20 。
このため、大軍が攻撃を仕掛けられるのは、北東に位置する大手口の一方向に限定された 13 。しかも、その大手口へ至る道は急峻な坂道であり、攻撃側は速度を殺され、城からの迎撃に対して極めて脆弱な状態を晒すことになる。この地形的優位性が、20倍以上という圧倒的な兵力差を無力化し、守備側に有利な状況をもたらしたのである 21 。この難攻不落の城を任されたのは、徳川家臣の中根正照と副将の青木貞治であった 17 。
包囲と初期攻防(十月十六日~十一月)
十月十六日 、一言坂から転進してきた信玄本隊が、先行していた馬場信春隊と合流し、二俣城の完全な包囲を完成させた 12 。信玄はすぐさま降伏を勧告するが、城将・中根正照は家康と、その同盟者である織田信長からの援軍に望みを託し、これを敢然と拒否した 13 。
十月十八日 、交渉決裂を受けて武田軍の総攻撃が開始された 13 。攻撃は予想通り、唯一の攻め口である北東の大手口に集中した。しかし、急坂を駆け上がろうとする武田兵は、城兵の放つ矢や鉄砲、投石の格好の的となり、多大な損害を出しながらも城壁に取り付くことさえままならなかった 14 。
十月下旬から十一月 にかけて、武田軍は繰り返し猛攻を加えるが、戦況は全く打開できなかった。十一月上旬には三河方面から山県昌景の部隊も包囲に加わったが 9 、城の堅牢さと城兵の士気の高さの前に、攻城戦は完全な膠着状態に陥った 14 。この手詰まり感は、武田軍の潜在的な弱点を露呈させた可能性もある。当時、信長による経済封鎖の影響で、武田軍は鉄砲の弾薬といった消耗品が不足していたという指摘がある 17 。もしこれが事実であれば、武田軍は物量に任せた力攻めを継続することが困難であり、信玄が別の策を模索せざるを得なくなった一因とも考えられる。
水の手に懸ける奇策
正面からの力攻めでは埒が明かないと判断した信玄は、その卓越した着眼点で二俣城の致命的な弱点を見抜いた 13 。城内には井戸がなく、唯一の水源は天竜川の断崖に張り出して建てられた「井戸櫓(いどやぐら)」と呼ばれる木造の施設であった 18 。城兵はここから釣瓶を使って川の水を汲み上げていたのである。信玄はこの「水の手」を断つという、全く新しい戦術に活路を見出した 14 。
作戦は奇想天外なものであった。まず、天竜川の上流で大量の木材を組み合わせて巨大な筏をいくつも作らせた 19 。そして、それらを天竜川の急流に乗せて放流し、井戸櫓を支える柱に激突させて破壊しようというものであった 25 。
この作戦は実行に移された。上流から放たれた巨大な筏は、轟音とともに流れ下り、狙い違わず井戸櫓の支柱に次々と激突した。執拗に繰り返される衝撃に、堅固に見えた柱もやがて耐えきれなくなり、ついにへし折れて崩壊。井戸櫓は水しぶきとともに天竜川の濁流へと飲み込まれていった 19 。
この瞬間、二俣城の生命線は断たれた。信玄の戦術は、城の最大の防御であった天竜川そのものを、最大の攻撃手段へと変貌させたのである。これは、敵の防御施設を直接攻撃するのではなく、その機能を支える兵站(この場合は水)を断つという、現代戦にも通じる合理的な思考に基づいていた。武力ではなく、知略と自然の力を利用して難攻不落の城を追い詰めたこの一手は、戦国時代の攻城戦術史において特筆すべき事例と言える。
第三章:落城、そして三方ヶ原へ(元亀三年十二月十九日)
井戸櫓の崩壊は、二俣城の運命を決定づけた。物理的な城壁は依然として健在であったが、生命維持に不可欠な水の供給が絶たれたことで、籠城はもはや時間の問題となった。この勝利は、遠江一帯の戦局を大きく動かし、徳川家康を生涯最大の窮地へと追い込む三方ヶ原の戦いへと直結していく。
降伏勧告と開城
水の手を断たれた後も、城将・中根正照らは事前に溜めておいた雨水などで渇きを凌ぎ、驚くべき粘りを見せた 14 。一説には、水の供給が絶たれてから一ヶ月以上も持ちこたえたとされる 25 。しかし、1,200人もの将兵の渇きを癒やすには全く不十分であり、士気の維持も限界に達していた。信玄からの再度の降伏勧告に対し、正照はついに開城を決断する 15 。
開城の条件は、籠城していた将兵全員の助命であった 9 。信玄はこれを認め、約二ヶ月にわたる攻防戦は終結した。開城の日付については、古くからの通説では十二月十九日とされてきた 13 。しかし、近年の研究では史料の再検討から十一月三十日であった可能性が指摘されている 17 。いずれにせよ、徳川方にとって遠江防衛の要を失った事実に変わりはなかった。
浜松城への退去と遠江への影響
助命された城将・中根正照、副将・青木貞治をはじめとする守備隊は、浜松城へと退去した 25 。彼らは敗れはしたものの、圧倒的な兵力差をものともせず長期間にわたり武田軍を足止めしたその奮戦は、敵味方双方から賞賛されたであろう。
しかし、二俣城の落城が戦局に与えた影響は甚大であった。この象徴的な勝利は、武田と徳川の優劣を決定的なものとして遠江の国人衆に印象づけた。これまで日和見を決め込んでいた飯尾氏、神尾氏、天野氏といった地侍たちは、雪崩を打って武田方へと靡き、信玄に忠誠を誓った 14 。これにより、遠江北部における武田の支配は盤石のものとなり、家康は浜松城とその周辺地域に孤立することになった。
次なる標的、浜松城:三方ヶ原の戦いへの序曲
二俣城を確保した信玄は、城の修築を行わせ、遠江における恒久的な拠点として整備し始めた 26 。そして十二月二十二日、全軍を率いて南下を開始する。誰もが次の目標は家康の居城・浜松城への総攻撃だと考えた。しかし、信玄はここで常人の予測を裏切る、巧みな心理戦を仕掛けた。
武田の大軍は、浜松城に迫るかに見せかけて、城を眼前にすると突如西へと進路を変え、あたかも浜松城を無視するかのように三方ヶ原の台地を通過し、三河方面へと向かう動きを見せたのである 30 。これは、家康を挑発し、城から誘き出すための周到な罠であった。籠城に徹すれば時間はかかるが安全な家康に対し、「徳川の故地である三河が蹂躙されても良いのか」と無言の圧力をかけ、その誇りを激しく刺激した 32 。
この信玄の策略は、二俣城を攻略したからこそ可能であった。もし二俣城が徳川の手に残っていれば、武田軍は背後に脅威を抱えたまま西進することになり、兵站線を断たれる危険があった。しかし、二俣城を制圧し後方の安全を確保したことで、信玄は心置きなくこの大胆な挑発行動を実行する作戦上の自由を得たのである。二俣城の攻略は、それ自体が重要な戦術的勝利であると同時に、家康を野戦の場に引きずり出し、決戦を強いるための、より大きな戦略の序曲であった。この挑発に耐えきれなかった家康は、織田からの援軍と共に城から出撃し、三方ヶ原の広大な台地で、生涯最大の敗北を喫することになる。
終章:二俣城の戦いが残したもの
二俣城の戦いは、単なる一城の攻防戦に留まらず、武田信玄の戦術的思考の深さ、徳川家康が天下人へと成長する過程で得た教訓、そして戦国を生きる武士たちの壮絶な生き様を象徴する出来事として、歴史に深く刻まれている。
戦術的勝利の意味:信玄の卓越した着眼点
この戦いは、武力だけに頼らない信玄の柔軟な戦略思想を見事に体現している。地理的な制約により大軍の利を活かせないという難問に直面した際、信玄は力攻めに固執せず、敵の兵站、すなわち「水」という生命線に目を付けた。天竜川の急流と筏という、戦場に存在する自然の力と資源を最大限に活用して井戸櫓を破壊した策は、戦国時代の軍事技術史においても類を見ない独創的なものであった。これは、戦場を単なる兵と兵がぶつかる空間としてではなく、地形、天候、資源、心理といったあらゆる要素が絡み合う複合的なシステムとして捉える、信玄の高度な戦略眼の証明と言える。
城将たちの悲壮な結末:三日後の三方ヶ原
二俣城を二ヶ月にわたり死守した城将・中根正照と副将・青木貞治の運命は、戦国の世の非情さを物語っている。彼らはその武勇と忠義によって命を救われたが、安息の時はあまりにも短かった。開城からわずか三日後の十二月二十二日、主君・家康に従って三方ヶ原の戦いに出陣し、両名とも武田軍との激戦の中で討死を遂げたのである 25 。彼らの奮闘は、徳川家中に深く記憶された。後年、家康は正照に子がいなかったことを惜しみ、織田信長の弟の一人を養子として中根家を継がせることで、その功に報いた 33 。これは、彼らの忠節と武功が、主君からいかに高く評価されていたかを示す逸話である。
徳川家康にとっての教訓と、その後の影響
二俣城の失陥と、それに続く三方ヶ原での惨敗は、徳川家康の生涯における最大の屈辱であり、同時に最も価値ある教訓となった 6 。この一連の敗北を通じて、家康は多くのことを学んだ。第一に、戦国最強と謳われた武田信玄という敵の恐ろしさを骨身に染みて理解し、相手を侮ることの危険性を学んだ。第二に、城の防御における兵站、特に水の確保の重要性を痛感した。これ以降、家康が築城や城の改修に関わる際、水の手に細心の注意を払うようになったことは想像に難くない。そして第三に、感情や誇りに駆られて不利な野戦を挑むことの愚かさを学んだ。
この苦い経験は、後の家康の戦い方を大きく変えた。慎重で忍耐強く、決して無謀な戦いをせず、外交と諜報を駆使して勝利の確率を最大限に高めてから行動する、という彼の現実主義的な軍事哲学は、この時期に培われたと言える。二俣城で味わった敗北の記憶は、彼をより老獪で、より隙のない指導者へと成長させ、最終的に天下を掌握する礎となったのである。
皮肉なことに、この二俣城は、後年、家康にとって再び悲劇の舞台となる。天正七年(1579年)、武田方への内通疑惑を信長からかけられた嫡男・松平信康が、この城で自刃に追い込まれたのである 22 。信玄との死闘の記憶が残る城は、家康自身の家族の悲劇の地としても、その歴史に名を留めることとなった。
引用文献
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- 元亀2年(1571)・同3年の武田信玄による遠江・三河侵攻について - 日本のお城 http://shizuokacastle.web.fc2.com/pick_up/genki2_yes_or_no/genki2_yes_or_no.html
- 武田信玄の西上作戦 その目的、選択と誤算 - WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/10289
- 【三方ヶ原合戦】本当は「戦国最強」ではなかった武田信玄!?武田信玄の西上作戦の真意と進軍経路を新説から読み解く【どうする家康】 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=IisPQQUcZ2o
- 「どうする家康」三方ヶ原合戦への道!武田信玄は徳川家康の領国になぜ攻め込んだのか? https://sengoku-his.com/752
- 徳川家康が生き延びたのは奇跡に等しい…「三方ヶ原の戦い」で武田信玄が描いた完璧すぎる家康殲滅プラン 信玄があと1年長生きしたら歴史は変わっていた - プレジデントオンライン https://president.jp/articles/-/69385?page=1
- NHK大河ドラマではとても放送できない…織田信長が徳川家康に下した「武田軍を皆殺しせよ」という知略 「高天神城の688人」を見捨てた武田勝頼の末路 - プレジデントオンライン https://president.jp/articles/-/70410?page=1
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- らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~ - 二俣城 (静岡県浜松市天竜区二俣町) https://ranmaru99.blog.fc2.com/blog-entry-490.html
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- 徳川家康が生き延びたのは奇跡に等しい…「三方ヶ原の戦い」で武田信玄が描いた完璧すぎる家康殲滅プラン 信玄があと1年長生きしたら歴史は変わっていた (3ページ目) - プレジデントオンライン https://president.jp/articles/-/69385?page=3
- 三方ヶ原の戦い(徳川家康×武田信玄)/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/11095/
- 三方ヶ原合戦「家康惨敗」、裏に武田信玄の凄い知略 浜松城「素通り」はしたたかな計算だった可能性 - 東洋経済オンライン https://toyokeizai.net/articles/-/670438?display=b
- 「三方ヶ原の戦い」は偶発的に起こった合戦だった? - 歴史人 https://www.rekishijin.com/27578
- 【大河ドラマ連動企画 第17話】どうする正照(中根正照)|さちうす - note https://note.com/satius1073/n/nfd4f880c0c4b
- 三方ヶ原合戦で壮烈な最期!酔いどれサムライ本多忠真(浪岡一喜)はいかに散っていったか【どうする家康】 | 歴史・文化 - Japaaan - ページ 2 https://mag.japaaan.com/archives/198679/2
- 難敵「武田信玄」から徳川家康は何を得たのか? - 歴史人 https://www.rekishijin.com/27717
- 二俣城 | 静岡・浜松・伊豆情報局 https://shizuoka-hamamatsu-izu.com/hamamatsu/hamamatsu-city/sz318/