最終更新日 2025-08-29

二本松城の戦い(1586)

天正十三年、伊達政宗は父輝宗を殺害した畠山義継の二本松城を攻囲。人取橋の戦いで連合軍に苦戦するも、奇跡的に生還。長期の籠城戦と調略の末、畠山氏は城を自焼し退去。この戦いは政宗を奥州の覇者へと導く転換点となった。

天正陸奥の転換点 — 二本松城の戦い(1585-1586)全詳報

序章:独眼竜の胎動 — 合戦前夜の南奥州

天正14年(1586年)の二本松城の戦いは、単一の攻城戦としてではなく、天正13年(1585年)秋から約10ヶ月にわたって南奥州の覇権を賭して繰り広げられた一連の軍事・政治闘争の総称として理解されねばならない。この戦いは、伊達政宗という新たな時代の挑戦者と、既存の秩序を維持しようとする南奥州の諸大名連合との最初の全面衝突であり、その帰趨は後の奥州の勢力図を決定づける重要な転換点となった。

全ての始まりは、天正12年(1584年)10月、伊達輝宗が18歳の嫡男・政宗に家督を譲ったことに遡る 1 。この若き当主の登場は、伊達家の対外政策を、父・輝宗の協調路線から、祖父・稙宗の時代を彷彿とさせる攻撃的な拡大路線へと大きく舵を切らせるものであった 3 。政宗が最初の戦略目標として見据えたのは、伊達領の南、仙道(現在の中通り地方)への進出であった。その鍵を握るのが、伊達、蘆名、田村という三大勢力の緩衝地帯に位置する塩松領の小浜城主・大内定綱であった 1

当時の南奥州は、複雑な力学の上に成り立っていた。会津の蘆名氏は、天正12年10月に当主・盛隆が暗殺され、生後わずか1ヶ月の亀若丸が家督を継いだことで、深刻な内紛の危機に直面していた 1 。この権力の空白は、政宗にとって千載一遇の好機と映った。一方、常陸の佐竹義重は、南奥州諸大名の盟主的存在として地域の安定(惣無事)を維持しようと努めており、伊達氏の野心的な南下政策を最大の脅威と見なしていた 4 。そして、二本松城を本拠とする畠山氏は、奥州探題を輩出した名門でありながら、伊達・蘆名の両大国に挟まれ、大内定綱との姻戚関係を頼りに独立を保つという苦しい立場にあった 5 。また、政宗の岳父である三春城主・田村清顕は、伊達家との姻戚関係を保ちつつも、独自の勢力を維持しようと常に情勢を窺う、油断ならぬ存在であった 7

天正13年閏8月、政宗は大内定綱への圧力を軍事行動に移し、支城の小手森城を攻撃する。この時、政宗は城内の者全てを斬り殺す「撫で斬り」を命じ、女子供から犬に至るまで800人以上を惨殺したと記録されている 9 。この戦慄すべき戦術は、大内定綱を恐怖させ、主城の小浜城を放棄して二本松へと逃亡させるという軍事的目的を達成した 3 。しかし、それは同時に、政宗が旧来の戦の作法を無視し、恐怖による支配を躊躇しない危険な存在であることを南奥州全土に知らしめる結果となった。この一件は、周辺諸大名に「明日は我が身」という強烈な危機感を共有させ、来るべき反伊達連合結成の心理的な下地を形成したのである。二本松城の戦いは、いわば政宗自身が蒔いた種から芽吹いたものであった。

表1:二本松城の戦い 主要関連年表(1585-1586)

年月日(天正)

西暦

主要な出来事

13年10月8日

1585年

畠山義継が宮森城で伊達輝宗を拉致。高田原(粟ノ巣)にて両名が死亡する( 粟ノ巣の変 )。 5

13年10月15日

1585年

政宗、父の弔い合戦として二本松城への第一次攻撃を開始するも、堅城と降雪により撤退。 5

13年11月17日

1586年1月6日

佐竹・蘆名ら南奥州連合軍と伊達軍が激突( 人取橋の戦い )。伊達軍は壊滅寸前に陥るも、連合軍の撤退により九死に一生を得る。 1

13年12月-14年6月

1586年

伊達軍による二本松城の長期包囲戦。戦況は膠着状態に陥る。

14年2月

1586年

畠山家重臣・箕輪玄蕃ら5名が伊達家に内通するも、失敗に終わる。 12

14年7月4日

1586年

政宗、小浜城で重臣と談合し、二本松城の停戦条件を決定。 11

14年7月16日

1586年

相馬義胤の仲介による和議が成立。二本松城は自焼・開城し、畠山国王丸らは会津へ退去。 11

14年7月27日

1586年

伊達政宗が二本松城に入城。 11

14年9月13日

1586年

伊達成実が二本松城代に就任し、戦後処理が完了。 11

第一章:悲劇の連鎖 — 粟ノ巣の変(天正13年10月8日)

二本松城を巡る長い戦いの直接的な引き金となったのは、天正13年10月8日に発生した伊達輝宗拉致殺害事件、通称「粟ノ巣の変」である。この事件は、伊達政宗の苛烈な圧力によって追い詰められた二本松城主・畠山義継の、絶望から生まれた破滅的な行動であった。

追い詰められた畠山義継

小手森城の惨劇の後、大内定綱が二本松城へ逃げ込んだことで、義継は定綱を匿ったかどで政宗の標的となった 9 。義継は再三にわたり伊達氏への降伏を申し入れるが、政宗は当初これを頑なに拒絶した 14 。最終的に、隠居の身であった輝宗と伊達一門の長老・伊達実元のとりなしによって降伏は許された。しかし、その条件は「二本松領のうち五ヶ村のみを安堵し、他は全て没収する」という、大名としての存続を事実上不可能にするものであった 9 。この屈辱的な条件を前に、義継は一戦も辞さずとの覚悟を決めるが、長期の対立に疲弊した家臣団の多くは伊達氏への臣従に傾いており、当主である義継は家中において完全に孤立した 9

天正13年10月8日:運命の一日

進退窮まった義継は、最後の賭けに出る。10月8日、降伏の礼を述べるという名目で、輝宗が滞在していた宮森城を訪問した 14 。この時、政宗は鷹狩りのため城を不在にしており、これが義継に凶行を決意させる隙を与えた 14

会談は表向き穏やかに終わった。しかし、輝宗が玄関まで義継を見送りに出たその瞬間、義継とその手勢は輝宗の身柄を拘束し、人質として二本松城へと連れ去ろうとした 14 。その場には伊達成実や留守政景といった伊達家の重臣も同席していたが、あまりに突然の出来事になすすべもなかった 14

高田原の惨劇:錯綜する証言

急報を受けた伊達の軍勢は直ちに追撃を開始し、二本松領との国境である阿武隈川の渡し場、高田原(粟ノ巣)で義継一行に追いついた 5 。輝宗を人質に取られているため、伊達勢は迂闊に手出しができず、川を挟んで両軍が対峙する緊迫した状況が生まれた 15

この後の惨劇の経緯については、記録によって記述が大きく異なり、真相は歴史の闇の中にある。

第一の説は、駆けつけた政宗が「父もろとも撃て」と非情の命令を下したとするものである。後世の軍記物などに多く見られるこの説は、若き政宗の苛烈な決断力を象徴する逸話として語られることが多い 17 。輝宗自身が「我に構うな、撃て」と叫んだとも伝えられ、劇的な場面が想像される 17

第二の説は、伊達成実の記録『成実記』に見られるもので、特定の指揮官の命令はなく、現場の混乱の中で誰かが放った一発の鉄砲をきっかけに、統制を失った伊達勢が総攻撃を開始してしまったとする説である 15

第三の説は、地元の古老の証言を記録した『元和8年老人覚書』などに見られるもので、伊達勢の攻撃を察知し、もはや逃げ切れないと悟った義継が、脇差で輝宗を刺殺した後に自害した、あるいは伊達勢に討たれたとする説である 15

いずれの説が真実であったにせよ、その結果は変わらない。この場所で、伊達輝宗と畠山義継、そして義継に従った50名余りの家臣が命を落とした 15 。この事件は、政宗に父の仇討ちという消しがたい動機と大義名分を与え、二本松城を巡る血で血を洗う戦いの幕開けを告げる号砲となったのである。

第二章:弔い合戦と巨壁 — 人取橋の激闘(天正13年10月〜11月)

父・輝宗の非業の死は、若き伊達政宗を激昂させた。彼は即座に父の弔い合戦を決意し、二本松城へと軍勢を差し向けた。しかし、それは政宗の生涯における最大の危機と、南奥州の勢力図を塗り替える大規模な合戦の序章に過ぎなかった。

第一次二本松城包囲

輝宗の初七日を終えた直後の10月15日、政宗は自ら軍を率いて二本松城の包囲を開始した 5 。城内では、討死した義継の嫡男でわずか11歳の国王丸(後の義綱)を当主として擁立し、義継の従弟にあたる重臣・新城弾正盛継が後見役として指揮を執り、徹底抗戦の構えを見せた 5

二本松城は標高345mの白旗ヶ峯に築かれた、天然の地形を巧みに利用した堅城であった 22 。政宗は力攻めを試みるも、堅固な守りを前に攻めあぐね、戦況は膠着した 5 。さらに10月16日から17日にかけて季節外れの大雪に見舞われ、攻城戦の継続は不可能となる 5 。政宗は一旦兵を小浜城まで引き、雪解けを待つこととした。

反伊達連合軍の結成

この伊達軍の一時撤退は、二本松城方に反撃の機会を与えた。新城弾正らは、政宗の急激な勢力拡大に警戒感を抱く周辺の諸大名へ、救援を求める密使を派遣した 5 。小手森城での撫で斬りによって政宗への恐怖と敵愾心を共有していた佐竹義重、蘆名亀若丸、岩城常隆、石川昭光、白河義親らはこの要請に呼応。常陸の佐竹氏を盟主とする、総勢3万ともいわれる反伊達大連合軍が結成され、二本松救援を大義名分として北上を開始した 1

表2:人取橋の戦い 両軍の兵力構成と主要武将

伊達軍

南奥州連合軍

総兵力

約7,000 - 8,000 3

約30,000 1

総大将

伊達政宗

佐竹義重

主要構成勢力

伊達氏

佐竹氏、蘆名氏、岩城氏、石川氏、白河氏、二階堂氏 他

主要武将

伊達成実、鬼庭左月斎良直†、留守政景、片倉景綱

小野崎義昌†、蘆名配下諸将、岩城配下諸将

†は戦死者を示す

人取橋の戦い(11月17日)

連合軍接近の報を受けた政宗は、二本松城への押さえの兵を残し、自らは精鋭7,000を率いて南下。本宮城に入り、その南方に位置する観音堂山に本陣を構えて敵を迎え撃つ態勢を整えた 1 。天正13年11月17日(西暦1586年1月6日)、両軍は阿武隈川の支流・瀬戸川に架かる人取橋付近で激突した 1

戦いは、4倍以上の兵力差を反映し、終始連合軍の一方的な攻勢で進んだ 1 。伊達軍は各所で防衛線を突破され、総崩れの様相を呈した。連合軍の猛攻は政宗の本陣にまで及び、政宗自身も鎧に矢1筋、銃弾5発を受ける絶体絶命の危機に陥ったと伝えられる 1

この伊達家滅亡の危機を救ったのが、73歳の老将・鬼庭左月斎良直の鬼神の如き奮戦であった。左月斎は政宗を逃がすべく、自ら殿(しんがり)となって僅かな手勢と共に敵の大軍の中へ突入し、時間を稼いで壮絶な討死を遂げた 1 。この自己犠牲的な奮闘と、伊達成実ら若き将たちの必死の防戦により、伊達軍はかろうじて全滅を免れ、日没まで持ちこたえることができた 25

連合軍の謎の撤退

日没によって戦闘は中断されたが、伊達軍の敗色は濃厚であった。しかし、翌朝、政宗が決死の覚悟で戦場へ向かうと、そこに連合軍の姿はなかった 2 。その夜、連合軍の陣営に激震が走っていたのである。総大将・佐竹義重のもとに、本国である常陸に北条氏方の江戸氏や安房の里見氏が侵攻したとの急報が届いたのだ 2 。さらに、佐竹一門の佐竹義政が家臣に刺殺されるという内紛が発生したとの説もある 3 。本国の危機と内部の混乱により、義重は全軍に即時撤退を命令。大黒柱である佐竹軍が戦線を離脱したことで、統率を失った連合軍は瓦解し、諸将もそれぞれの領地へと引き上げていった 25

政宗はまさに九死に一生を得た。この戦いは、戦術的には伊達軍の完敗であったが、結果的に数倍の敵を前に壊滅を免れたことで、かえって「若き政宗、恐るるに足らず」という印象を払拭し、「政宗恐るべし」との威名を奥州に轟かせることになったのである 3

第三章:雪中の睨み合い — 長期化する籠城戦(天正13年12月〜天正14年6月)

人取橋での奇跡的な生還を果たした伊達政宗であったが、二本松城を力で制圧することの困難さを痛感させられた。これ以降、戦いの様相は派手な野戦から、忍耐と調略が鍵を握る長期の籠城戦へと移行する。雪に閉ざされた二本松城を舞台に、半年以上にわたる静かな、しかし熾烈な戦いが始まった。

伊達軍の包囲戦略

人取橋の戦いの後、政宗は本拠の米沢には戻らず、二本松に近い小浜城に留まり、年を越して圧力をかけ続けた 5 。彼は力攻めを避け、兵糧攻めと内部からの切り崩しを主軸とした持久戦へと戦略を転換した。その拠点として、二本松城の支城であった渋川城を接収し、腹心の将である伊達成実を配置した 12 。これにより、伊達軍は二本松城への圧力を維持しつつ、敵の動向を常に監視できる態勢を整えた。

しかし、伊達軍の包囲網は完璧ではなかった。二本松領の平野部は伊達軍の制圧下にあったものの、城方は西方の山間部を通じて会津の蘆名領と繋がっており、このルートを経由して兵糧や物資の補給を受けていた 12 。このため、完全な兵糧攻めは成立せず、籠城側は予想以上の粘り強さを見せることとなる。

二本松城の抵抗と内部状況

城内では、新城弾正の卓越した指揮のもと、城兵は高い士気を維持していた 5 。人取橋で連合軍が瓦解した後も、彼らは容易に屈することなく、天正14年に入ってからも伊達成実が守る渋川城へ攻撃を仕掛けるなど、散発的ながら反撃を試みる気概さえ見せていた 21

しかし、長期にわたる籠城生活は、確実に城内の結束を蝕んでいた。兵糧は会津からの補給があったとはいえ、潤沢とは言えず、いつ尽きるとも知れない不安が将兵の間に広がり始めていた。この心理的な疲弊が、やがて内部からの崩壊を招くことになる。

天正14年2月:内通事件の発生と失敗

長期化する戦況に絶望したのか、天正14年2月、畠山家の重臣である箕輪玄蕃、氏家新兵衛、遊佐丹波、遊佐下総、堀江越中の五名が、伊達家への内通を決意した 12 。計画は、二本松城の主要な郭の一つである箕輪城(城主は内通者の一人、箕輪玄蕃)に伊達勢を手引きし、城内から混乱を引き起こすというものであった 12

計画は実行に移されたが、城方の警戒網は厳しく、この動きは事前に察知されてしまう。箕輪城内に引き入れられた伊達勢は、城兵からの反撃に遭い、狭い城内で身動きが取れなくなった。作戦は完全に失敗し、伊達勢と内通者たちは城外への退却を余儀なくされた 12

この内通事件は、戦局を大きく動かすには至らなかった。しかし、籠城側の内部に深刻な亀裂が生じていることを露呈させた。一方で、伊達側にとっても、調略による早期解決の困難さを思い知らされる結果となった。4月に政宗が再度攻撃を仕掛けるも短期間で切り上げるなど、両軍ともに決定打を欠いたまま、戦況は完全な膠着状態に陥ったのである 12

第四章:戦から政へ — 和平交渉の舞台裏

半年以上に及ぶ軍事的な膠着状態は、戦いの解決を戦場から交渉の席へと移すことを促した。血気にはやる若き当主・伊達政宗に対し、伊達家中の長老たちが現実的な判断を求め、水面下で複雑な外交交渉が開始された。この局面は、伊達政宗が単なる武将から、政略を操る戦国大名へと脱皮する上で重要な過程であった。

伊達実元の進言

戦いの長期化による国力の消耗を最も憂慮していたのが、政宗の大叔父であり、伊達一門の重鎮である伊達実元であった。輝宗の代から仙道諸将との外交を一手に担ってきた経験豊富な実元は、二本松城の軍事的な攻略が多大な犠牲を伴うことを看破していた 28 。彼は、父の仇討ちという感情論に固執する政宗を粘り強く説得し、軍事力による圧力を背景とした和議交渉こそが、伊達家の利益を最大化する道であると進言した 13 。この長老の現実的な意見は、家中においても大きな影響力を持ち、和平への機運を高めることになった。

調停役の選定:相馬義胤と田村清顕

和議を実現するためには、両者が納得できる公正な調停役が不可欠であった。そこで伊達方が白羽の矢を立てたのが、人取橋の戦いでは敵方の中核として戦った相馬義胤と、政宗の岳父である田村清顕であった 13

相馬義胤の起用は、一見すると奇策に思えるが、極めて高度な外交戦略であった。義胤は伊達氏と長年敵対してきたが故に、反伊達陣営である蘆名氏や他の南奥州諸大名からの信頼が厚かった 29 。彼を仲介に立てることで、交渉の公正さを演出し、二本松畠山氏が面目を保って降伏を受け入れやすくする狙いがあった。さらに、伊達成実の正室が義胤の姪にあたるなど、伊達家とも間接的な姻戚関係があり、両陣営の橋渡し役として適任であった 13 。この人選には、単に二本松城を落とすだけでなく、この戦いで悪化した周辺大名との関係を修復し、将来的に彼らを伊達の覇権下に組み込むための布石という意味合いも含まれていた。

一方、田村清顕は政宗の岳父という立場から、伊達側の意向を円滑に伝え、交渉を有利に進める役割を期待された 13

交渉の開始と停戦条件の策定

相馬義胤は伊達実元と連携し、二本松城の開城と、城主・国王丸をはじめとする城兵の身の安全を保障することを基本線とした和平交渉を開始した 12 。交渉が進展する中、天正14年7月4日、政宗は小浜城に重臣を集めて軍議を開き、最終的な停戦条件を決定した 11

伊達側が提示した条件の骨子は、二本松城とその全領地を伊達氏へ明け渡すこと、その見返りとして、城主・畠山国王丸とその家臣たちの生命を保証し、会津の蘆名氏のもとへ安全に退去することを許可するというものであった 12 。これは、畠山氏にとっては大名としての滅亡を意味するが、一族の命脈を保つことができる唯一の道でもあった。この現実的な落としどころを提示したことで、10ヶ月に及んだ戦いは、ようやく終結へと向かうことになった。

第五章:落日の名門 — 二本松城、開城(天正14年7月)

10ヶ月にわたる攻防の末、二本松城の運命は交渉の席で決した。和議の条件が受け入れられ、奥州の名門・二本松畠山氏の歴史は、悲壮な終幕を迎える。

開城への最終段階

相馬義胤を介して提示された伊達側の和議の条件を、籠城側は受け入れた。長期の籠城により兵糧は底を突き、内通者が出るなど内部の結束も揺らいでいた 31 。これ以上の抵抗は無意味な死を招くだけであると、新城弾正ら城の首脳部は判断した。

天正14年7月16日:開城の日

『伊達日記』をはじめとする複数の記録によれば、天正14年7月16日、二本松城はついに開城した 11 。城主・畠山国王丸(義綱)と後見役の新城盛継をはじめとする畠山一門および家臣団は、かねてからの取り決め通り、会津の蘆名氏を頼って城から退去していった 11

しかし、彼らはただ黙って城を明け渡したのではなかった。退去に際し、二本松畠山氏の将兵は、先祖代々の居城である本丸に自ら火を放ったのである 11 。これは、敵に無傷で城を渡すまいとする最後の抵抗であり、戦いに敗れはしたが、その誇りまでは失わないという、武士としての意地を示した行為であった。燃え盛る炎は、140年以上にわたってこの地を治めた名門の落日を象徴していた 33

伊達軍の入城と戦後処理

畠山勢が退去した後、伊達軍は二本松城の接収を開始した。まず伊達成実が城に入り、鎮撫にあたった 12 。そして7月27日、伊達政宗が満を持して二本松城へ公式に入城し、勝利を確定させた 11

戦後処理において、政宗は当初、片倉小十郎景綱を二本松城代に任じようとしたが 11 、最終的にはこれを変更した。天正14年9月13日、この一連の戦役で多大な功績を挙げた伊達成実が正式な二本松城主(城代)に任命され、城の修復と新たな支配体制の構築に着手した 11 。これにより、二本松城の戦いは名実ともに終結し、この地は伊達氏の南進における最重要拠点として、新たな歴史を歩み始めることとなった。

終章:新たなる覇者への道

天正14年(1586年)7月の二本松城開城は、単に一つの城が落ちたという以上の、南奥州の歴史における決定的な転換点であった。この10ヶ月に及ぶ戦いは、伊達政宗を試練にかけ、彼を単なる地方の若き勇将から、奥州の覇権を争う真の戦略家へと変貌させたのである。

二本松城獲得の戦略的価値

二本松城の獲得は、伊達氏にとって計り知れない戦略的価値をもたらした。地理的に、二本松は伊達領の南の玄関口であると同時に、西の会津(蘆名領)、南の三春(田村領)、そして東南の岩城領へと睨みを利かせることのできる、まさに仙道地方のへそとも言うべき要衝であった。この地を拠点として手に入れたことで、伊達氏は阿武隈川上流域の軍事的・経済的な主導権を完全に掌握し、仙道全域への本格的な進出に向けた盤石の足がかりを築いたのである。

南奥州の勢力図の変容と摺上原への布石

名門・二本松畠山氏の滅亡という事実は、周辺の諸大名に衝撃を与えた。人取橋で大連合軍を組織しながらも、結局は二本松を救えなかった佐竹・蘆名連合の権威は大きく失墜した。これにより、南奥州における伊達氏の軍事的優位は誰の目にも明らかとなり、諸大名は伊達氏への服属か、あるいは滅亡を覚悟した徹底抗戦かの厳しい選択を迫られることになった。

二本松城を対蘆名戦線の最前線基地とした政宗は、次なる目標を奥州最大のライバルである蘆名氏に定めた。この戦いで南奥州の力関係を把握し、軍事、調略、外交の全てを駆使する戦い方を体得した政宗にとって、もはや蘆名氏は恐るるに足らない相手となっていた。二本松城の戦いの終結からわずか3年後の天正17年(1589年)、政宗は蘆名氏を摺上原の戦いで打ち破り、会津を掌中に収める 17 。二本松城の戦いは、まさしくこの奥州統一の最終章へと至る、決定的な布石だったのである。

この一連の戦いを通じて、政宗は人取橋で死の淵を覗き込むことで己の限界と運の重要性を知り、長期の籠城戦で忍耐と政略の価値を学び、そして和平交渉で大局的な外交の妙を体得した。二本松城の戦いは、独眼竜が真の戦国大名として覚醒するための、避けては通れない卒業試験であったと言えよう。

引用文献

  1. 人取橋の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E5%8F%96%E6%A9%8B%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  2. 二本松城 決死の仇討ち - 攻城団ブログ https://kojodan.jp/blog/entry/2017/11/08/000000
  3. [合戦解説] 10分でわかる人取橋の戦い 「伊達政宗が佐竹義重・蘆名亀王丸相手に九死に一生を得る!」 /RE:戦国覇王 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=yHN5ZtFk9QM
  4. 伊 達 政 宗 と仙 道 ・人 取 橋 で合戦 https://www.tsukubabank.co.jp/corporate/info/monthlyreport/pdf/2025/03/202503_05.pdf
  5. 「人取橋の戦い(1586年)」政宗が最も苦戦したという、父輝宗の弔い合戦! | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/110
  6. 二本松義継 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9C%AC%E6%9D%BE%E7%BE%A9%E7%B6%99
  7. 田村清顕 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E6%9D%91%E6%B8%85%E9%A1%95
  8. 三春城の500年4 田村清顕の死と三春の混乱|Web資料館|三春町歴史民俗資料館 https://www.town.miharu.fukushima.jp/soshiki/19/04-tamura.html
  9. 粟ノ巣の変 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B2%9F%E3%83%8E%E5%B7%A3%E3%81%AE%E5%A4%89
  10. 伊達政宗の残虐性を轟かせた「撫で斬り」の真実 | SYNCHRONOUS シンクロナス https://www.synchronous.jp/articles/-/137
  11. 二本松城跡 城跡の歴史 http://www.nihonmatsu-ed.jp/nihonmatsujyou/rekishi.html
  12. 伊達成実専門サイト 成実三昧 http://shigezane.info/majime/nazo/shigezanetokassen.html
  13. 相馬義胤 (十六代当主) - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E9%A6%AC%E7%BE%A9%E8%83%A4_(%E5%8D%81%E5%85%AD%E4%BB%A3%E5%BD%93%E4%B8%BB)
  14. 粟ノ巣の変 http://shigezane.info/majime/kassenn/awanosu/awanosu.html
  15. 粟の巣の変―輝宗の死をめぐるいろいろ 1 http://shigezane.info/majime/nazo/awanosu/terumune-deth.html
  16. 伊達輝宗公御花畠遺蹟 https://www.city.nihonmatsu.lg.jp/data/doc/1526898109_doc_21_0.pdf
  17. 人取橋(ひととりばし)と摺上原(すりあげはら)の戦い | 株式会社カルチャー・プロ https://www.culture-pro.co.jp/2022/06/17/%E4%BA%BA%E5%8F%96%E6%A9%8B%EF%BC%88%E3%81%B2%E3%81%A8%E3%81%A8%E3%82%8A%E3%81%B0%E3%81%97%EF%BC%89%E3%81%A8%E6%91%BA%E4%B8%8A%E5%8E%9F%EF%BC%88%E3%81%99%E3%82%8A%E3%81%82%E3%81%92%E3%81%AF%E3%82%89/
  18. 伊達輝宗の最期~そのとき政宗が下した非情の決断とは? | WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/4406
  19. 伊達氏と畠山氏 - 二本松堂 - BIGLOBE http://www5e.biglobe.ne.jp/j-nosuke/08/story08.html
  20. 「粟の巣の変事」の辺りを散策する - 風の人:シンの独り言(大人の総合学習的な生活の試み) https://kazenoshin.exblog.jp/5623098/
  21. 武家家伝_陸奥畠山氏 - harimaya.com http://www2.harimaya.com/sengoku/html/h_mutu_k.html
  22. 二本松城跡の概要 http://www.nihonmatsu-ed.jp/nihonmatsujyou/gaiyou.html
  23. 二本松城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9C%AC%E6%9D%BE%E5%9F%8E
  24. 伊達氏-戦記- - harimaya.com http://www2.harimaya.com/date/dt_war.html
  25. 人取橋合戦 https://joukan.sakura.ne.jp/kosenjo/hitotoribashi/hitotoribashi.html
  26. [Battle Commentary] The Battle of Hitotoribashi: Date vs. Anti-Date Coalition Forces - In order t... - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=M_rXS0hHdck
  27. 粟ノ巣古戦場跡 - 南奥羽歴史散歩 https://mou-rekisan.com/archives/9264/
  28. 伊達成実の家族 http://shigezane.info/majime/kazoku/kazoku.htm
  29. 「相馬義胤」滅亡と改易の危機を乗り越え、相馬中村藩の礎を築いた武将! | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/463
  30. 二本松氏の歴史 4.人取橋の戦い https://nihon.matsu.net/nf_folder/nf_Fukuchiyama/nf_nihonmatsu4.html
  31. 二本松義綱 - 能登畠山氏七尾の歴史 https://nanao.sakura.ne.jp/retuden/nihonmatsu_yoshitsuna.html
  32. 二本松氏の歴史 5.二本松氏のその後 https://nihon.matsu.net/nf_folder/nf_Fukuchiyama/nf_nihonmatsu5.html
  33. 県立霞ヶ城公園|二本松市・観光スポット・歴史・史跡 - ぐるっと福島 https://www.gurutto-fukushima.com/detail/321/freepage-1.html
  34. 歴史の目的をめぐって 伊達政宗 https://rekimoku.xsrv.jp/2-zinbutu-16-date-masamune.html
  35. 伊達成実 - 亘理町観光協会 https://www.datenawatari.jp/pages/17/
  36. 逸話とゆかりの城で知る! 戦国武将 第4回【伊達政宗・前編】天下を目指した「独眼竜」はシャイボーイだった!? - 城びと https://shirobito.jp/article/1391