二条御所の変(永禄の変・1565)
永禄八年、三好三人衆は将軍足利義輝を二条御所で襲撃。義輝は奮戦するも討死し、室町幕府の権威は完全に失墜した。この事件は畿内に権力空白を生み、後に織田信長が足利義昭を擁立し上洛する大義名分となり、天下統一への道を開いた。
永禄の変(1565年)-剣豪将軍の死と権力構造の崩壊-
序章:室町幕府、最後の煌めき
永禄八年五月十九日(西暦1565年6月17日)、日本の歴史において前代未聞の事件が発生した。室町幕府第十三代将軍・足利義輝が、畿内の実力者であった三好三人衆らの軍勢によって居城である二条御所を襲撃され、非業の死を遂げたのである。この「永禄の変」は、単なる一将軍の死に留まらず、応仁の乱以来、約二世紀にわたって続いてきた室町幕府の権威に事実上の終止符を打ち、織田信長による天下統一への道を拓く歴史的転換点となった。本報告書は、この事件の背景から当日の詳細な戦闘経過、そして歴史的影響に至るまでを多角的に分析し、その全貌を明らかにするものである。
将軍・足利義輝の肖像
足利義輝の生涯は、失墜した将軍権威の回復に捧げられた苦難の連続であった。天文五年(1536年)、十二代将軍・足利義晴の嫡男として生まれた義輝(幼名:菊童丸)は、物心つく頃には既に幕府の実権を握る管領・細川晴元との対立により、父と共に京を追われる流浪の身であった 1 。将軍職を継承したのも、亡命先の近江坂本であり、わずか11歳の時であった 1 。
義輝の青年期は、畿内の覇権を確立した三好長慶との闘争に明け暮れた。幾度となく京への帰還を目指して兵を挙げるも、その都度敗北を喫し、近江朽木谷などでの亡命生活を余儀なくされた 1 。しかし、永禄元年(1558年)、近江の六角義賢の仲介により長慶との和睦が成立。実に5年ぶりに京都へ帰還し、将軍親政への第一歩を踏み出した 1 。
帰京後の義輝は、精力的に幕府権威の再興に努めた。全国の戦国大名間の紛争調停に積極的に介入し、特に有名なものとして、甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信(当時は長尾景虎)が争った川中島の戦いに関して和睦の斡旋を行ったことが挙げられる 1 。また、大友義鎮や毛利隆元を守護に任じるなど、大名たちに幕府の官職を与えることで、将軍を頂点とする秩序の再構築を図った。永禄二年(1559年)には、尾張の織田信長や越後の長尾景虎が相次いで上洛し、義輝に拝謁している。これは、義輝の政治活動が実を結び、将軍の権威がある程度まで回復していたことを示す象徴的な出来事であった 4 。
畿内の実効支配者、三好長慶
一方、その義輝と対峙し、そして一時は協調したのが三好長慶である。長慶は主君であった細川晴元を江口の戦いで破り、将軍義輝をも京から追放することで、畿内に「三好政権」と呼ばれる一大勢力を築き上げた 5 。
義輝との和睦後、長慶は幕府の御相伴衆という高い地位に就き、形式的には将軍の臣下という立場を取りながら、実質的な畿内の支配者として君臨し続けた 1 。この関係は、将軍の伝統的権威と、三好氏の圧倒的な武力が両立するという、極めて繊細な均衡の上に成り立っていた。長慶は、義輝が和睦を破って兵を挙げたり、刺客を放ったりした際にも、決してその命までは奪おうとはしなかった 4 。これは、長慶が将軍という存在が持つ家格秩序の重要性を理解し、その権威を完全に否定するのではなく、巧みに利用することで自らの支配を正当化しようとしていたことを示している。
【表1:永禄の変 主要関係者一覧】
分類 |
人物名 |
役職・立場 |
事件における役割 |
足利将軍家 |
足利義輝 |
室町幕府 第十三代将軍 |
将軍親政を目指すが、三好・松永勢に襲撃され討死。 |
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足利義昭(覚慶) |
義輝の弟、興福寺一条院門跡 |
事件後、奈良を脱出し、反三好勢力の旗頭となる。のちの十五代将軍。 |
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足利義栄 |
義輝の従兄弟 |
三好三人衆に擁立され、第十四代将軍となる。 |
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慶寿院 |
義輝の生母、近衛尚通の娘 |
義輝と共に二条御所で死去。 |
幕府奉公衆 |
進士晴舎 |
幕府奉公衆、義輝の側近 |
三好勢との取次役を務める。事件の初期に死亡したとされる。 |
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細川藤孝(幽斎) |
幕府奉公衆 |
事件当日は御所を脱出。のち義昭の脱出を主導し、織田信長との橋渡し役となる。 |
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三淵藤英 |
幕府奉公衆、藤孝の異母兄 |
義昭の脱出を助けるが、のちに信長と対立し切腹。 |
三好・松永勢 |
三好義継 |
三好家当主、長慶の養子 |
事件の総大将として御所を包囲。 |
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三好長逸 |
三好三人衆の一人 |
事件の主導者の一人。 |
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三好宗渭 |
三好三人衆の一人 |
事件の主導者の一人。 |
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岩成友通 |
三好三人衆の一人 |
事件の主導者の一人。 |
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松永久通 |
松永久秀の嫡男 |
事件の主導者の一人。父・久秀に代わり軍を率いる。 |
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松永久秀 |
三好家家宰、大和国多聞山城主 |
事件当時、大和に在国。黒幕説があるが、直接の関与は否定されている。 |
その他 |
正親町天皇 |
第106代天皇 |
義輝の死を悼み、政務を停止。事件の調停にも関与。 |
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山科言継 |
公家 |
日記『言継卿記』に事件の詳細や衝撃を記録。 |
第一部:紛争の萌芽 -権力の天秤が傾くとき-
永禄の変に至る道筋は、畿内の権力構造を支えていた二つの柱、すなわち三好家の統制力と、将軍と三好家の間の微妙な均衡が、ほぼ同時に崩壊したことに起因する。それは、一つの権力真空が、もう一つの権力真空を誘発し、最終的に破局的な衝突へと至る過程であった。
第一章:三好家の落日と内部分裂
権力の支柱の崩壊
三好政権の栄華は、当主・長慶の卓越した政治力と、彼を支える優秀な一族の存在によって成り立っていた。しかし、永禄四年(1561年)に弟の十河一存が、翌年にはもう一人の弟である三好実休が戦死し、さらに永禄六年(1563年)には嫡男の義興が22歳の若さで急逝する 7 。これらの相次ぐ一族の死は、長慶に計り知れない衝撃を与え、三好家の軍事力と政治的安定性を著しく損なわせた。
義興の死後、十河一存の子である三好義継が養子として家督を継承したが、まだ若年であり、長慶のようなカリスマ性や統率力を持ち合わせてはいなかった 8 。そして永禄七年(1564年)、ついに大黒柱であった三好長慶が病死する 1 。長慶という絶対的な中心を失った三好家は、急速に内部から崩壊を始める。この三好家内部に生じた権力の真空こそが、永禄の変の直接的な引き金となったのである。
権力構造の再編
長慶の死後、三好家内部では、若き当主・義継を補佐するという名目のもと、二つの勢力が主導権を巡って激しく対立した。一つは、三好長逸、三好宗渭、岩成友通ら一族の宿老たちからなる「三好三人衆」。もう一つは、長慶の家宰として絶大な権力を振るった松永久秀である 5 。
三人衆は、松永久秀が三好家を乗っ取ろうとしていると警戒し、彼を政権中枢から排除しようと画策した 9 。一方の松永久秀は、長慶の死の直前に嫡男の久通に家督を譲って隠居しており、三好政権の中枢とは意図的に距離を置いていたとする見方が有力である 10 。永禄の変において、実際に軍を率いて二条御所を襲撃したのは、三好義継、三人衆、そして松永久通であった 4 。江戸時代に形成された「松永久秀黒幕説」は、信長が久秀の三悪(将軍殺害、東大寺大仏殿焼き討ち、主家乗っ取り)を語ったという逸話に由来するが、一次史料からは久秀が直接事件を主導した証拠は見出せず、現在ではその信憑性は低いと考えられている 4 。
第二章:将軍義輝の焦燥と活路
好機到来
足利義輝にとって、三好家の内紛と弱体化は、長年待ち望んだ将軍権力復活の絶好の機会であった 1 。彼はこの機を逃さず、諸大名との外交をさらに活発化させ、幕府機構の再建を急いだ。太田牛一が記した『信長公記』には、この時期の義輝が「三好家に謀反を企てた」とまで記されており、義輝が極めて攻勢に出ていたことが窺える 4 。
対立の先鋭化
しかし、義輝のこうした積極的な動きは、三好三人衆らにとっては看過できない脅威であった。彼らは、三好家内部の権力闘争に勝利し、家中の再統一を図ることを最優先課題としていた。その過程において、将軍は自分たちの意のままに動く「傀儡」でなければならなかった。自らの意思で諸大名と結び、幕府の権威を振りかざす義輝は、彼らの権力基盤を根底から揺るがしかねない危険な存在と映ったのである。
三人衆らは、義輝を排除し、より従順で扱いやすい足利義栄(義輝の従兄弟)を新たな将軍に据えることで、三好家による盤石な支配体制を再構築しようと企んだ 1 。ここに、将軍親政の復活を目指す足利義輝と、傀儡政権の維持を図る三好三人衆との間の対立は、もはや避けられない破局へと向かって突き進むこととなった。義輝殺害という凶行は、三好家が内部の権力闘争を制するため、その障害となる外部要因、すなわち将軍義輝を排除しようとした結果、引き起こされたものと解釈できる。
第二部:将軍最期の日 -永禄八年五月十九日、時系列による完全再現-
永禄八年五月十九日、京の都は静かな朝を迎えた。しかしその水面下では、室町幕府の歴史を終わらせる巨大な陰謀が、刻一刻と実行に移されようとしていた。この章では、史料に残された断片的な記録を繋ぎ合わせ、将軍足利義輝最期の日の出来事を時系列に沿って再現する。
第一章:夜明け前 -包囲網の形成-
(時刻:未明)
三好義継を総大将とし、三好三人衆、松永久通が率いる約一万の大軍が、清水寺参詣などを口実に京の各所に集結した 12 。そして夜陰に乗じて、将軍足利義輝の居城である二条御所(武衛陣の御構え)を、音もなく幾重にも包囲した 5 。御所内の兵力は、戦力となる奉公衆を含めてもわずか数百名に過ぎず、その兵力差は絶望的であった 5 。
襲撃の口実と真意
三好勢が掲げた表向きの口実は、「公方様へ訴訟の儀あり(将軍様にお訴えしたいことがある)」というものであった 5 。これは、単なる建前ではなかった可能性が指摘されている。イエズス会宣教師ルイス・フロイスの書簡や、日本の一次史料である「上杉家文書」など複数の記録が、当初の目的を「訴訟」と記しているからである 11 。これは「御所巻」と呼ばれる、将軍への政治的要求を突きつけるための示威行動であり、必ずしも将軍自身の殺害を当初から意図していたわけではなかった可能性を示唆している 11 。彼らの真の狙いは、義輝を退位に追い込むか、あるいは特定の側近を排除させることで、将軍を完全に無力化することにあったのかもしれない。
義輝の警戒と失策
義輝も、三好方の不穏な動きを察知していなかったわけではない。数年前から御所の堀を深くし、塁を高くするなど、防御工事を進めていた 4 。しかし、運悪く事件当日はその工事がまだ完成していなかった 4 。さらに致命的だったのは、事件直前の義輝の行動である。フロイスの記録によれば、義輝は危険を察知して一度は御所からの脱出を図ったという 12 。しかし、同行した近臣たちから「明確な反逆の意思が示されていない段階で将軍が都から逃亡するのは、権威を著しく損なう行為である。もし襲われたならば、我らも共に討死する覚悟だ」と強く諫められ、不本意ながら御所へと引き返してしまった 16 。この決断が、彼の運命を決定づけた。
第二章:朝駆け -交渉の決裂と戦端-
(時刻:早朝)
夜が明けると、三好勢の使者が正式に「訴訟」を申し入れた。これに対し、将軍側近で取次役の幕府奉公衆・進士晴舎が対応に奔走する 3 。御所の門を挟み、両者の間で緊迫した交渉が始まった。
非情なる要求
しかし、三好側が突きつけた要求は、交渉の余地のない、常軌を逸したものであった。事件直後にフロイスが記した書簡によれば、その内容は「将軍の正室(近衛家の娘)と側室の小侍従(進士晴舎自身の娘)、そして将軍側近の重臣らを殺害し、差し出せ」というものであったという 3 。罪のない妻や側近の命を要求するこの内容は、義輝に対する最後通牒であり、事実上の降伏勧告に他ならなかった。
交渉決裂
義輝がこの非道な要求を呑むはずはなかった。交渉は決裂。一部の記録では、取次役としての責任を果たせなかった進士晴舎が、将軍の覚悟を示すため、あるいは三好勢への最後の抗議として、義輝の御前で切腹したと伝えられている 3 。この壮絶な死が合図となったかのように、三好勢は四方の門から一斉に攻撃を開始した。轟音と共に鉄砲が火を噴き、永禄の変の火蓋が切って落とされた。
第三章:死闘 -御所内の攻防-
(時刻:午前 - 辰の刻頃)
御所内に立て籠もる幕府奉公衆は、わずか数十名から百名程度であった 3 。一万の敵に対し、その抵抗は絶望的に見えた。しかし、将軍に殉じようとする彼らの士気は高く、その戦いぶりは三好勢の予想を遥かに超えて激しいものであった。
忠臣たちの奮戦
一色輝喜(淡路守)や、槍の名手であった福阿弥(治部藤通の弟)らが先陣を切って奮戦し、押し寄せる敵兵を次々と討ち取った 5 。彼らの鬼神の如き働きにより、三好勢は一時的に侵攻の足を止めざるを得なかった。
御所の炎上
正面からの攻撃で苦戦した三好勢は、戦法を切り替えた。彼らは火矢を御所内に次々と放ち、建物を焼き払う焦土作戦に出た。『義演准后日記』によれば、辰の刻(午前8時頃)に本丸の月見櫓から火の手が上がり、炎は千畳敷へと燃え広がり、巳の末刻(午前11時頃)には天守にも燃え移ったという 20 。将軍と忠臣たちは、燃え盛る炎と押し寄せる敵兵という二つの脅威に挟まれ、次第に追い詰められていった。
第四章:剣豪将軍、最後の舞
(時刻:巳の刻~午の刻)
御所が炎に包まれ、忠臣たちが次々と討死していく中、義輝は自らの最期を悟った。彼は残った近臣たちと最後の水盃を交わし、覚悟を決めた 5 。フロイスの記録によれば、母・慶寿院が泣きながら「行かないでくれ」と義輝に抱きついて引き留めたが、彼はそれを振り切り、自ら武器を取って戦いの場へと赴いた 18 。
義輝の戦闘(史実と伝説の比較検討)
義輝の最後の奮戦については、史実と後世に生まれた伝説が混在している。
-
史料に基づく描写:
事件をリアルタイムで見聞したルイス・フロイスの記録は、最も信頼性が高いものの一つである。それによれば、義輝はまず薙刀を手に取って戦い、その見事な武勇に敵味方なく驚嘆したという 3。その後、より敵陣深くへ切り込むために薙刀を捨て、刀を抜いて戦ったと記されている 21。『信長公記』にも、義輝が「数度切って出で、伐し崩し」奮戦したと簡潔ながら記されている 21。 -
伝説の形成:
後世に成立した軍記物である『足利季世記』や『永禄記』には、より劇的な場面が描かれている。それは、義輝が将軍家に伝わる数々の名刀を御所の畳に突き立て、一つの刀の切れ味が鈍ると、すぐさま次の名刀を引き抜いて戦い続けた、という有名な逸話である 3。この伝説に登場する刀剣として、天下五剣のうちの「童子切安綱」や「鬼丸国綱」、「三日月宗近」などの名が挙げられている 5。この英雄的な描写は、悲劇の将軍を神格化する上で大きな役割を果たした。 -
剣技の背景:
義輝が「剣豪将軍」と呼ばれる所以として、剣聖・塚原卜伝に師事し、秘剣「一之太刀」を伝授されたという説がある 1。しかし、これは江戸時代に書かれた柳生宗矩の書状など、後代の史料に基づくものであり、同時代の一次史料による裏付けがないため、その信憑性については慎重な検討が必要である 3。
最期の瞬間
いかに義輝が奮戦しようとも、多勢に無勢の状況を覆すことはできなかった。彼の最期については、複数の記録がやや異なる情景を伝えている。『足利季世記』などによれば、奮戦の末に疲労した義輝に対し、敵兵の一人(池田丹後守の子とされる)が戸の陰から槍を繰り出して足を薙ぎ払った。体勢を崩して転倒したところへ、周囲の兵たちが障子や襖を上から被せて動きを封じ、その上から一斉に槍で突き殺したとされている 5 。一方、フロイスの書簡は、「腹に一槍と額に一矢、顔に二つの刀傷を受け、その場で果てた」と、より生々しく、遠距離からの攻撃も受けた可能性を示唆している 18 。いずれにせよ、壮絶な戦いの末に力尽きたことは間違いない。享年30であった。
第五章:血の終幕
(時刻:午後)
義輝の死をもって、戦闘は終わらなかった。三好勢は足利将軍家を根絶やしにするかのように、殺戮を続けた。御所の奥にいた義輝の母・慶寿院は殺害され、さらには市中の鹿苑院にいた義輝の弟・周暠までもが探索の末に命を奪われた 4 。懐妊していたとされる側室・小侍従も、この時に殺害されたと考えられている 12 。
御所の略奪と焼失
フロイスによれば、三好勢は御殿が完全に焼け落ちる前に、徹底的な略奪を行ったという 18 。将軍家の財宝や貴重品が、勝者たちの手によって持ち去られた。包囲から戦闘終結まで、わずか一時間半から二時間ほどの出来事であったと彼は記している 18 。
夕立
この日の夕刻、黒煙を上げる二条御所の焼け跡に、まるで血と煤を洗い流すかのように、激しい夕立が降ったと伝えられている 27 。それは、一つの時代の終わりを告げる涙雨であったのかもしれない。
この一連の出来事は、当初の政治的要求としての「御所巻」が、義輝側の予期せぬ頑強な抵抗によって、制御不能な武力衝突へとエスカレートした結果と見ることができる。一度戦闘が始まってしまえば、兵力で圧倒的に劣る将軍側の全滅は避けられず、その頂点に立つ義輝の死もまた、必然的な帰結であった。意図せざる将軍殺害という結果は、三好勢にとって大きな政治的汚点となった一方で、後に義輝の弟・義昭を担ぐ反三好勢力にとっては、義輝を悲劇の英雄として祭り上げ、弔い合戦の大義名分とする格好の材料となった。ここに「剣豪将軍」の伝説が生まれ、政治的な意図をもって語り継がれていく土壌が形成されたのである。
第三部:権力の真空と新時代への胎動
将軍足利義輝の死は、京都という一都市の事件に留まらなかった。それは日本全国の権力構造を揺るがす巨大な衝撃波となり、畿内に巨大な権力真空を生み出した。そして、その真空は旧時代の秩序を完全に崩壊させると同時に、新たな時代を担う英雄を呼び寄せる磁場となった。
第一章:事件の余波
朝廷と公家の衝撃
将軍殺害という前代未聞の凶報は、朝廷と公家社会を震撼させた。正親町天皇は義輝の死を深く悼み、政務を3日間停止するという異例の措置を取って弔意を示した 27 。公家の山科言継は、自身の日記『言継卿記』に「言語道断、前代未聞の儀なり」と記し、当時の人々の衝撃を現代に伝えている 17 。朝廷は事件後、義輝に対して従一位・左大臣の官位を追贈し、その死を悼んだ 27 。これは、三好・松永らの暴挙を黙認しつつも、内心では強い憤りを感じていた朝廷の複雑な立場を示している。
諸大名の憤激
事件の報は、驚くべき速さで全国の大名たちに伝わった。事件の翌日には、若狭の武田義統が越前の朝倉義景に義輝の死を知らせている 27 。各地の大名の反応は、一様に怒りに満ちたものであった。越後の上杉輝虎(謙信)は、「三好・松永の首を悉く刎ねるべし」と神仏に誓って激怒したと伝えられる 27 。河内の畠山氏や越前の朝倉氏の重臣たちも、「前代未聞の暴挙」として強い憤りを表明している 27 。平時には薄れがちであった将軍への意識が、その弑逆という未曾有の事態によって、逆に全国の大名に強く喚起される結果となった。
社会への影響
将軍という、日本の武家社会における最高の権威の象徴が、一介の家臣団によって武力で殺害されたという事実は、下剋上の時代の最終的な到達点を示すものであった。もはや血筋や家格といった伝統的な権威だけでは、実力の前には無力であることを、天下に知らしめたのである。これは、既存の秩序が完全に崩壊し、新たな統一権力の出現が待望される時代の到来を告げる号砲であった。
第二章:二人の公方候補
傀儡将軍の擁立
将軍を殺害した三好三人衆は、自らの権力を正当化するため、新たな将軍の擁立を急いだ。彼らが白羽の矢を立てたのは、義輝の従兄弟にあたる足利義栄であった 4 。しかし、「将軍殺し」という拭い去れない汚名を着た彼らの政権は、当初から正統性に大きな問題を抱え、安定することはなかった。
もう一人の公方、覚慶の脱出
一方、歴史の表舞台に躍り出たのが、義輝の弟・覚慶であった。彼は仏門に入り、奈良・興福寺の一条院門跡となっていたが、兄の死後は松永久秀によって寺内に軟禁され、厳重な監視下に置かれていた 27 。しかし、兄の遺志を継ぐ幕臣たちの忠義は生きていた。永禄八年七月二十八日、細川藤孝、一色藤長、三淵藤英、和田惟政ら旧幕臣たちの周到な手引きにより、覚慶は決死の脱出に成功する 27 。
流転の日々と反三好勢力の結集
覚慶はまず近江の和田惟政の館に身を寄せ、その後、若狭の武田氏、越前の朝倉義景のもとを頼って流転の日々を送った 29 。この間に彼は還俗して「足利義秋」(後に義昭と改名)と名乗り、全国の大名、特に越後の上杉謙信や安芸の毛利元就らに書状を送り、三好氏を討ち、幕府を再興するための上洛への協力を呼びかけた 27 。これにより、義昭は自然と反三好勢力の旗頭となり、畿内の政治情勢における新たな核として浮上していった。
第三章:永禄の変が遺したもの
畿内権力構造の完全崩壊
義輝を排除した三好政権であったが、その目論見は完全に外れた。将軍殺害によって大義名分を失っただけでなく、政権内部の対立が再燃。三好三人衆と松永久秀は全面的な抗争に突入し、総大将であったはずの三好義継までもが三人衆を見限って松永方へ寝返るなど、畿内は混沌とした内乱状態に陥った 8 。永禄の変は、三好政権の安定化どころか、その完全な崩壊を招く結果となったのである。
織田信長への道
この畿内の大混乱と、足利義昭という「正統な将軍候補」の存在は、当時、尾張を統一し、美濃攻略を着々と進めていた織田信長にとって、まさに千載一遇の好機であった 32 。信長は、亡命中の義昭を保護し、彼を奉じて上洛するという行動に出る。これにより、信長は単なる一地方大名の軍事侵攻ではなく、「殺害された将軍の弟君をお助けし、幕府を再興する」という、天下に号令するこの上ない大義名分を手にすることができた 27 。もし永禄の変がなければ、足利義昭という錦の御旗も存在せず、信長の上洛がこれほどまでにスムーズに、そして劇的な成功を収めることは極めて困難であっただろう。
【表2:足利義輝と共に殉死した主要な幕府奉公衆】
永禄の変において、将軍足利義輝と運命を共にした幕府の忠臣たちは数多い。以下に、史料でその名が確認できる主要な殉死者を列挙する。彼らの死は、室町幕府奉公衆という武士階級の終焉を象徴するものであった。
氏名 |
官職・通称 |
備考 |
進士晴舎 |
不明 |
義輝の側近。変の初期に死亡。 |
進士藤延 |
主馬頭 |
晴舎の子。 |
荒川晴宣 |
治部少輔 |
幕府申次。 |
荒川輝宗 |
刑部少輔 |
|
一色輝喜 |
淡路守 |
|
細川隆是 |
宮内少輔 |
|
沼田光長 |
上野介 |
|
上野輝清 |
兵部少輔 |
|
杉原晴盛 |
兵庫助 |
|
彦部晴直 |
雅楽頭 |
|
仁木輝綱 |
兵部丞 |
|
武田輝信 |
左兵衛尉 |
|
小笠原稙盛 |
|
|
福阿弥 |
|
治部藤通の弟。槍の名手。 |
台阿弥 |
|
同朋衆。 |
注:上記は殉死者の一部であり、他にも多数の幕臣、同朋衆、雑掌などが命を落としたと記録されている 19 。
総括:戦国史の転換点として
永禄の変は、単なる将軍暗殺という一つの事件には留まらない。それは、応仁の乱以降、約二世紀にわたって辛うじて維持されてきた室町幕府の権威と、それを支えてきた旧来の秩序に対して、事実上の致命傷を与えた歴史的な出来事であった。将軍親政による権威回復という、足利義輝の最後の夢は、暴力によって無残に打ち砕かれた。
この事件がもたらした最も重大な結果は、畿内における巨大な権力真空の創出である。将軍という公権力の頂点を失い、さらに将軍を殺害した三好政権も内部崩壊によって統治能力を喪失したことで、畿内は完全な無主状態に陥った。これは、旧時代の秩序が完全に崩壊したことを意味し、同時に、この混乱を収拾し、新たな秩序を構築する強力な統一権力の出現を、時代が渇望する状況を生み出した。
そして、この歴史の要請に応える形で登場したのが、足利義昭という大義名分を携えた織田信長であった。永禄の変がなければ、信長の「天下布武」への道は、遥かに険しいものになっていたことは想像に難くない。その意味において、永禄の変は、三好三人衆らの意図とは全く異なる形で、信長による新時代への扉を開いた、戦国時代における最大級の転換点であったと結論づけることができる。剣豪将軍の悲劇的な死は、室町幕府の黄昏を決定づけ、新たな時代の夜明けを告げる狼煙となったのである。
引用文献
- 足利義輝の歴史 - 戦国武将一覧/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/33457/
- 前代未聞の征夷大将軍襲撃・暗殺事件!「永禄の変」はなぜ起こったか【前編】 - Japaaan https://mag.japaaan.com/archives/195045
- 足利義輝の壮絶すぎる30年を約15000字で徹底解説。将軍としての使命とは。 - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/69688/
- 「永禄の変(1565年)」三好氏による足利義輝殺害事件。剣豪将軍の最期とは | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/212
- 壮絶!剣豪将軍・足利義輝の最期 | WEB歴史街道|人間を知り ... https://rekishikaido.php.co.jp/detail/3896
- 三好長慶の歴史 - 戦国武将一覧/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/46488/
- 『麒麟がくる』でようやく汚名を晴らせるか 松永弾正久秀「三大悪行」の誤解 - note https://note.com/maruyomi4049/n/n83f1b481045f
- 三好三人衆との対立 - M-NETWORK http://www.m-network.com/sengoku/hisahide/hr03.html
- 将軍・足利義輝の弑逆「永禄の変」から探る三好政権分裂の実情 https://amago.hatenablog.com/entry/2015/08/09/235616
- ルイス・フロイス『日本史』を読みなおす⑥ – 日本関係欧文史料の世界 https://kutsukake.nichibun.ac.jp/obunsiryo/essay/20230215/
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