最終更新日 2025-08-26

今山の戦い(1570)

肥前の桶狭間 ― 今山の戦い(1570)全詳解:龍造寺興隆の暁と大友支配の黄昏

序章:九州の勢力図を塗り替えた一夜

元亀元年(1570年)八月二十日の夜明け前、肥前国今山(現在の佐賀県佐賀市大和町)において、九州の戦国史を大きく揺るがす激戦が繰り広げられた。後に「佐賀の桶狭間」 1 、あるいは「西国の桶狭間」とも称されるこの「今山の戦い」は、通説では、わずか五千の兵で佐嘉城に籠る龍造寺隆信が、十倍以上の六万ともいわれる大友宗麟の大軍を、鍋島信生(後の直茂)率いる決死隊の奇襲によって打ち破った、奇跡的な勝利として語られる。この劇的な展開は、確かに桶狭間の戦いを彷彿とさせる。

しかし、この戦いの本質を単なる寡兵による大軍撃破の物語としてのみ捉えることは、その歴史的意義を著しく矮小化するものである。今山の勝利は、単一の戦術的成功に起因するものではなく、そこに至るまでの数ヶ月にわたる情報戦と心理戦の応酬、九州の覇者たる大友氏の巨大組織が内包していた構造的脆弱性、そして勝利という戦果を巧みに利用し、肥前一国の掌握へと繋げた龍造寺氏の卓越した戦後戦略が複雑に絡み合った結果であった。

本報告書は、この今山の戦いを多角的に再検証するものである。第一に、開戦に至るまでの肥前における地政学的力学を解き明かし、この衝突が必然であったことを論証する。第二に、数ヶ月に及ぶ佐嘉城攻防戦の実態を詳らかにし、両軍が置かれた物理的・心理的状況を分析する。第三に、本報告書の核心として、運命を決した元亀元年八月十九日から二十日にかけての出来事を、可能な限りリアルタイムに近い時系列で再構成し、奇襲作戦の全貌を臨場感をもって描き出す。そして最後に、この局地戦の勝利が、いかにして九州全体の勢力図を塗り替える「触媒」となり、龍造寺氏興隆の暁光と、大友氏支配の黄昏を告げる一撃となったのかを考察する。今山の麓に響いた鬨の声は、一つの時代の終わりと、新たな時代の幕開けを告げる狼煙だったのである。

第一章:戦雲、肥前を覆う ― 開戦に至る地政学的力学

今山の戦いは、元亀元年に突如として発生した事件ではない。それは、1560年代を通じて肥前の地で着実に醸成されてきた、二つの勢力の生存と威信を賭けた力学の必然的な帰結であった。一方は、下剋上によって主家を凌駕し、破竹の勢いで版図を拡大する新興勢力・龍造寺氏。もう一方は、北九州に覇を唱え、その秩序を維持せんとする既存の支配者・大友氏である。

1. 「肥前の熊」龍造寺隆信の勃興

龍造寺氏は、その出自こそ詳らかではないが、肥前国小津東郷の龍造寺村を開発した領主を祖とする国人であった 2 。戦国期の動乱の中で、龍造寺隆信が登場する以前は、肥前の覇権を巡る少弐氏と大内氏の争いの間で翻弄される一地方勢力に過ぎなかった。しかし、天文14年(1545年)に曽祖父・家兼や父・周家らが謀殺されるという悲劇を経て当主となった龍造寺隆信は、その苛烈な性格と非凡な軍事的才能をもって、龍造寺氏を飛躍させる。

「肥前の熊」と畏怖された隆信は 3 、主家であった少弐氏を滅亡に追い込み、その権威を完全に簒奪すると、肥前国内の国人衆を次々と討伐、あるいは服従させていった。その勢力拡大は凄まじく、有馬氏や大村氏といった肥前の有力豪族をも脅かし、肥前統一を目前にするほどの勢いを示した 3 。この急速な台頭は、肥前国内の勢力均衡を根底から覆すものであり、北九州全体の秩序を司る大友氏にとって看過できない事態となっていった。

2. 九州の覇者、大友宗麟の戦略と焦燥

当時、豊後国(現在の大分県)を本拠とする大友宗麟(義鎮)は、北九州において随一の勢力を誇る戦国大名であった 5 。龍造寺隆信も、形式上は大友氏に仕える身であり、一時は宗麟(当時は義鎮)から偏諱(「鎮」の一字)を子・政家が賜り「鎮賢」と名乗るなど、従属的な関係にあった時期も存在する 4

しかし、隆信が肥前国内で「分をわきまえない」勢力拡大を続けるにつれ、両者の関係は徐々に緊張をはらんでいく。宗麟からすれば、自身の権威の下で肥前の秩序を維持することが戦略の根幹であり、隆信の独断専行は、その秩序への明確な挑戦と映った。宗麟は隆信が周辺国人を滅ぼすたびに詰問の使者を送ったが、隆信はそれを既成事実として認めさせ、着実に領土を広げていった 8 。永禄12年(1569年)、隆信が中国地方の毛利元就と結び、大友領を脅かすに及んで(多布施口の戦い)、宗麟の警戒心は決定的なものとなる 8 。龍造寺氏はもはや制御すべき国内豪族ではなく、打倒すべき敵対勢力へと変貌したのである。宗麟の中で、龍造寺隆信に対する苛立ちは、肥前支配の根幹を揺るがしかねないという焦燥へと変わっていった 7

3. 元亀元年、大友軍、肥前へ

ついに元亀元年(1570年)3月、大友宗麟は龍造寺隆信討伐の総動員令を発した 9 。宗麟自らは筑後国(現在の福岡県南部)の高良山に本陣を構え、後方から全軍を指揮 5 。その軍勢は、諸説あるものの三万から六万、軍記物によっては八万ともいわれる大軍であった 9 。対する龍造寺軍は、かき集めてもわずか五千余り 3 。戦力差は絶望的であった。

肥前国に侵攻した大友軍は、隆信の居城・佐嘉城(後の佐賀城)を幾重にも包囲した。その威容は、当時の軍記物『肥陽軍記』にこう記されている。

「尺寸の地も残さず大幕を打つつけ家々の旗を立並べ……たき続けたるかがり火は沢辺の蛍よりもしげく、朝餉夕餉の煙立て月も光を失なえる」 9

夜空の月光すらも遮るほどの炊煙と、無数の篝火。佐嘉城を包む大友軍の光景は、龍造寺氏の将兵に、国家の存亡を賭けた戦いの始まりを否応なく突きつけていた。

第二章:佐嘉城攻防 ― 数ヶ月に及ぶ絶望的な籠城

元亀元年4月、大友軍による佐嘉城の包囲が開始された。それは、後に今山の奇襲へと繋がる、数ヶ月にも及ぶ長く絶望的な籠城戦の始まりであった。この膠着状態は、龍造寺方を心身ともに追い詰めた一方で、大友という巨大組織が抱える構造的な問題を徐々に露呈させていく期間でもあった。

1. 鉄壁の包囲網と天然の要害

大友軍は佐嘉城を完全に包囲し、外部との連絡を遮断した 3 。しかし、佐嘉城は周囲を湿地帯に囲まれた天然の要害であり、大軍による力攻めを困難にしていた 6 。龍造寺軍は地の利を活かし、決死の覚悟で抵抗を続けた。大友軍は幾度となく攻撃を仕掛けたが、龍造寺軍の士気は高く、容易に城を陥落させることはできなかった 9

2. 膠着する戦況と大友本陣の苛立ち

戦況は小競り合いを繰り返すのみで、数ヶ月が経過しても決定的な戦果は挙がらなかった 9 。後方の高良山で勝利の報を待ちわびる大友宗麟は、この遅々として進まない戦況に業を煮やした。そして8月、戦局を打開するための「切り札」として、弟(一説には従兄弟)である大友八郎親貞を、約三千の兵と共に最前線へと派遣する 1 。親貞は佐嘉城の北西約10キロメートルに位置する今山に本陣を構え、城攻めの総大将に任命された 6

この人事には、巨大組織特有の危うさが潜んでいた。総大将である宗麟が後方にいるため、前線の実情との間に認識の齟齬が生じやすい。そこに新たな司令官として親貞が「投入」されたことは、既存の指揮系統を混乱させ、功を焦る親貞に過度の精神的重圧を与える結果となった可能性が高い。援軍を得て大友軍の士気は一時的に上がったものの、組織内部には見えざる軋みが生じ始めていた。

3. 城内の絶望と分裂

一方、籠城を続ける佐嘉城内では、時間が経つにつれて絶望感が色濃く漂い始めていた。毛利氏への援軍要請も、大友方の警戒網によって阻まれ、外部からの救援は絶望的であった 9 。兵糧は日に日に底を突き、兵士たちの疲労は限界に達していた。

この絶望的な状況は、城内の意見を分裂させる。家中では降伏論や和睦論が公然と語られるようになり、徹底抗戦を主張する鍋島信生ら強硬派との間で激しい議論が交わされた 6 。主君である龍造寺隆信自身も、十倍以上の兵力差という現実に心を揺さぶられ、城内は「お通夜のような雰囲気」に包まれていたという 3 。物理的な包囲に加え、精神的な包囲網もまた、龍造寺氏を滅亡の淵へと追い詰めていたのである。


【表1:両軍の兵力・構成比較】

項目

大友軍

龍造寺軍

総大将

大友宗麟(後方・高良山)

龍造寺隆信

前線総大将

大友親貞

(隆信自身)

主要武将

戸次鑑連(立花道雪) 10 , 田原氏, 吉弘氏 5 など

鍋島信生(直茂), 成松信勝 など龍造寺四天王

総兵力

3万~8万(諸説あり) 11 ※軍記物の誇張を含む可能性あり

約5,000 3

陣地

佐嘉城を包囲。親貞本陣は城の北西約10kmの今山 10

佐嘉城に籠城


この比較表が示すのは、単なる兵力差だけではない。大友軍の指揮系統が後方と前線に分離しているのに対し、龍造寺軍は隆信の下で一体となっている。この指揮系統の差が、後の奇襲という極めて迅速な意思決定と実行を可能にし、一方で大友軍の対応の遅れを招く一因となったのである。

第三章:決戦前夜 ― 元亀元年八月十九日、運命が動き出す刻

数ヶ月に及んだ膠着状態は、元亀元年八月十九日、突如として終焉へと向かい始める。この日一日、そして夜を徹して繰り広げられた佐嘉城内外での出来事が、翌朝の奇跡的な勝利の全ての伏線となった。それは、油断と覚悟、絶望と希望が交錯する、運命の一夜であった。

(午後)大友本陣の決定

今山に陣を構える大友軍総大将・大友親貞は、占いの結果なども考慮した上で、佐嘉城への総攻撃の日時を、翌八月二十日と最終的に決定した 9。長きにわたる包囲戦に、ついに終止符が打たれようとしていた。

(夕刻~夜)今山における油断

勝利を目前にしたという確信と、長陣による気の緩みからか、親貞は致命的な過ちを犯す。総攻撃を翌日に控えたこの夜、今山の本陣において、勝利の前祝いと称する大規模な酒宴を催したのである 10。将兵は酒に酔いしれ、軍の規律は緩み、夜陰に乗じた奇襲に対する警戒は著しく低下した。九州の覇者たる大友軍の驕りが、自らの喉元に刃を突きつけることになるとは、この時誰も予想していなかった。

(夜)佐嘉城への凶報と吉報

その頃、佐嘉城内には二つの情報がもたらされていた。一つは、大友軍の総攻撃が翌朝に迫っているという、龍造寺氏の滅亡を告げるに等しい凶報。そしてもう一つは、間者からもたらされた「今宵、今山の大友親貞陣にて酒宴が開かれている」という、千載一遇の吉報であった 6。絶望の淵に、一条の光が差し込んだ瞬間だった。

(深夜)城内の激論 ― 奇襲か、玉砕か

この好機を逃すべきではないと、龍造寺隆信の義弟であり、家中の重臣である鍋島信生(後の直茂)が、敵本陣への夜襲を進言した 6。しかし、これはあまりにも無謀な賭けであった。城を包囲する数万の大軍の警戒網を潜り抜け、敵の中枢を叩く。成功の確率は限りなく低く、失敗は全滅を意味する。隆信をはじめ、城内のほとんどの諸将は「籠城して玉砕すべき」「名誉ある降伏を選ぶべき」と、この奇策に猛反対した 6。城内の空気は、再び絶望と諦念に支配されようとしていた。

(深夜)雌獅子の一喝 ― 慶誾尼の叱咤

議論が紛糾し、衆議が決しないその時、評定の間に一人の女性が現れた。薙刀を携えたその人物こそ、龍造寺隆信の生母であり、鍋島信生の継母でもある慶誾尼であった 10。彼女は、うろたえ、死を恐れる武将たちを前に、獅子のように一喝したと伝えられる。

「汝らは男でありながら、大軍を前にして恐れる鼠のようではないか。武士であるならば、死と生の二つの道に覚悟を決め、大友の軍勢と戦いなさい!」 3

(「あんたたち、ネコに怯えるネズミかい!情けないったらないよ!」とも伝わる 3)

この逸話は『直茂公請考補』にも記されており 8 、慶誾尼の強烈な叱咤は、単なる感情論ではなかった。それは、武家の誇りを失いかけていた男たちの魂を揺さぶり、恐怖に支配されていた集団心理を「死中に活を求める」という覚悟へと劇的に転換させる起爆剤となったのである。母からの、そして武家の女としての叱咤を受け、隆信は全ての迷いを振り払い、鍋島信生の夜襲策の決行を最終的に承認した 3 。合理的な軍事判断を超えた、人間の情念と覚悟が歴史を動かした瞬間であった。

(深夜)決死隊、出陣

決断が下されるや、直ちに鍋島信生を大将とする決死隊が編成された。その数、文献により500から800名と諸説あるが 6、いずれにせよ敵の大軍に対してはあまりに寡兵であった。彼らは闇に紛れて佐嘉城を密かに出発し、油断しきった大友軍の包囲網の間隙を縫って、北西の今山へと向かった。肥前の夜陰が、彼らの運命を隠していた。

第四章:暁の奇襲 ― 元亀元年八月二十日、今山に轟く鬨の声

元亀元年八月二十日、肥前の夜空が白み始める頃、歴史の針は大きく動いた。鍋島信生率いる決死隊による夜襲は、単なる勇猛な突撃ではなく、音響、情報、そして速度を巧みに組み合わせた、極めて合理的な複合戦術であった。その一瞬一瞬の展開が、龍造寺氏の運命を、そして九州の勢力図を決定づけたのである。


【表2:今山の戦い・時系列行動表(八月二十日未明~早朝)】

時刻(推定)

龍造寺軍(鍋島隊)の行動

大友軍(今山本陣)の状況

備考

午前3:00頃

今山本陣の背後へ迂回・潜伏完了。夜明けを待つ。

大半が酒宴の酔いで熟睡。警戒は極めて手薄。

闇と静寂が奇襲部隊を隠す。

午前5:00頃

(市民薄明開始 5:22頃 20 ) 行動開始。鉄砲を一斉に撃ちかけ、奇襲の狼煙を上げる。

轟音と閃光で叩き起こされ、大混乱に陥る。

薄明かりの中、状況判断が困難。

午前5:10頃

「味方が寝返ったぞ!」と虚報を流し、敵陣に突入 6

疑心暗鬼に駆られ、敵味方の区別がつかなくなり同士討ちを開始 6

情報戦・心理戦が効果を発揮。

午前5:20頃

混乱に乗じ、手薄になった大友親貞の本陣幕舎へ殺到。

指揮系統が完全に麻痺。組織的な抵抗が不可能になる。

奇襲の速度が敵の再編を許さない。

午前5:30頃

龍造寺四天王の一人、成松信勝らが親貞を発見し、激戦の末に討ち取る 21

総大将・大友親貞、戦死。

戦いの趨勢が決した瞬間。

午前5:47頃

(日の出時刻 20 ) 親貞討死の報が全軍に伝播。

総大将を失い、完全に戦意を喪失。全軍が潰走を開始。

夜が明け、敗走する兵の姿が明らかになる。

午前6:00以降

追撃戦を開始。龍造寺本隊も城から出撃し、敗走する大友軍を掃討 1

兵士は算を乱して逃走。「田にすべり川に落ちて太刀を合わす者など一人もいなかった」 1

大友軍の死者2,000余名に及ぶ 9


未明、静寂の接近

午前3時頃、鍋島信生率いる決死隊は、大友軍の厳重な包囲網を抜け、今山本陣の背後への潜伏を完了していた。眼下には、勝利を確信して深い眠りについている数千の大友軍の陣が広がっている。彼らは息を殺し、空が白み始めるその一瞬を待った。

午前5時過ぎ、暁闇を裂く銃声

市民薄明が始まり、物の輪郭がぼんやりと見え始めた午前5時過ぎ、信生は攻撃開始の合図を下した。静寂は突如として、数十丁の鉄砲が放つ轟音と閃光によって引き裂かれた 6。闇夜における音と光は、眠りから覚めたばかりの兵士たちに最大の心理的衝撃を与え、陣中は一瞬にしてパニックに陥った。何が起きたのか理解できないまま、兵士たちは武器を探し、右往左往するばかりであった。

混乱を加速させる情報戦

鍋島隊は、この混乱を最大限に利用する。彼らは陣中に突入しながら、一斉にこう叫んだ。「味方が寝返ったぞ!」「田原が、吉弘が龍造寺についたぞ!」6。この虚報は、寄せ集めの大軍という大友軍の構造的弱点を的確に突いた。互いを信用できなくなった兵士たちは、疑心暗鬼に駆られ、近くにいる者と斬り合いを始めた。敵はどこにいるのか、誰が味方なのかもわからぬまま、大友軍は同士討ちによって自壊を始めたのである 6。龍造寺軍は、物理的な戦闘力を発揮する以前に、情報戦によってすでに戦いの主導権を握っていた。

総大将への一点集中

敵陣が内部から崩壊していく中、鍋島隊は脇目もふらず、ただ一点、手薄になった大友親貞の本陣幕舎を目指して突き進んだ。指揮系統が麻痺した大友軍に、組織的な抵抗はもはや不可能であった。そして午前5時半頃、ついに決死隊は親貞の姿を捉える。激しい乱戦の中、龍造寺四天王の一人に数えられる猛将・成松信勝らが親貞に組み付き、六人がかりで突き伏せ、その首級を挙げた 21。

日の出と潰走

総大将・大友親貞討ち死にの報は、奇しくも太陽が地平線から姿を現すのとほぼ同時に、陣中を駆け巡った 20。指揮官を失った大友軍は、完全に戦意を喪失。統制を失った兵士たちは、武器を捨てて我先に逃げ出した。その様は、まさに総崩れであった。『成松戦功略記』や『肥陽軍記』によれば、敗走する大友勢は東西南北に散り散りとなり、「田にすべり川に落ちて太刀を合わす者など一人もいなかった」という 1。この機を逃さず、佐嘉城からも龍造寺本隊が出撃し、追撃戦を展開。この奇襲による大友軍の死者は、二千余名に達したと記録されている 9。

こうして、わずか一時間足らずの間に、九州の覇者・大友氏の前線軍は壊滅。今山の夜明けは、龍造寺氏の劇的な勝利を照らし出していた。

第五章:戦後の潮流 ― 局地戦がもたらした九州全土への波紋

今山における暁の勝利は、龍造寺氏にとって起死回生の一撃であった。しかし、戦いの真の意義は、戦場での勝利そのものよりも、その勝利という結果を龍造寺隆信がいかにして政治的・戦略的資本へと転換させたかという点にある。この戦後処理の巧みさこそが、今山の戦いを単なる局地戦から、九州の勢力図を塗り替える歴史的転換点へと昇華させたのである。

1. 勝利の代償 ― 屈辱的な和睦

驚くべきことに、今山で敵の総大将を討ち取るという大勝利を収めたにもかかわらず、龍造寺氏は直ちに優位な立場に立てたわけではなかった。大友親貞の部隊は壊滅したが、その後方に控える大友の本軍は依然として健在であり、佐嘉城の包囲を完全に解かせるまでには至らなかった 9 。戦術的には勝利したが、戦略的には依然として大友氏が優勢という、極めて歪な状況が続いたのである。

結局、この膠着状態を打開するため、9月末に龍造寺側から和睦が提案された。そして、隆信の弟・龍造寺信周を人質として大友方に差し出すという、勝者としては異例ともいえる屈辱的な条件で講和が成立した 9 。この事実は、この時点での両家の国力差がいまだ歴然としており、龍造寺氏の勝利が薄氷の上のものであったことを如実に物語っている。

2. 肥前平定への布石 ― 勝利の政治的活用

しかし、「肥前の熊」龍造寺隆信の真骨頂はここからであった。彼は、不利な条件での和睦という事実を覆い隠すほどに、「九州の覇者・大友氏の総大将を討ち取った」という軍事的名声を最大限に活用したのである 9 。この「局地的な大勝利」は、肥前国内の諸豪族の心理に絶大な影響を与えた。

大友軍の侵攻に際して大友方についた者、あるいは形勢を傍観していた日和見主義の国人衆にとって、龍造寺氏が大友の大軍を打ち破ったという事実は衝撃的であった。彼らの心理的バランスは、「大友への恐怖」から「龍造寺への畏怖」へと大きく傾いた。隆信はこの心理的シフトを逃さず、和睦成立後、今山の威光を背景に、敵対した周辺豪族を次々と討伐・服従させていった 3 。和睦の裏で、彼は着実に肥前一国の地盤を固めていったのである。隆信は、軍事的な勝利を、国内平定という具体的な戦略目標達成のための政治的勝利へと完璧に昇華させることに成功した。

3. 九州三強への道と大友氏の黄昏

今山の戦いを契機として肥前一国を完全に掌握した龍造寺氏は、その力を背景に筑前・筑後へと勢力を拡大していく。そして、わずか数年のうちに、豊後の大友宗麟、薩摩の島津義久と並び称される「九州三強」の一角を占めるまでに急成長を遂げた 8

一方、大友氏にとってこの敗戦は、長期的な衰退の序章となった。肥前における支配権に大きな楔を打ち込まれ、その軍事的権威には拭いがたい傷がついた。この敗北がもたらした威信の低下は、後の耳川の戦いにおける島津氏に対する歴史的大敗へと繋がる遠因の一つとなったのである。

4. 象徴としての家紋

この戦いの意義を象徴する出来事がある。奇襲を成功させた鍋島直茂は、この戦勝を記念し、敵将であった大友家の家紋「杏葉(ぎょうよう)」を自らの家紋としたのである 9 。これは単なる戦勝記念ではない。九州の覇者の象徴であった紋を自らのものとすることで、大友氏の権威を乗り越え、新たな時代の到来を内外に宣言する、極めて象徴的な行為であった。今山の戦いは、まさに龍造寺・鍋島連合が、大友氏に取って代わる存在となることを告げる儀式でもあったのだ。

結論:今山の戦いが歴史に刻んだもの

元亀元年(1570年)の今山の戦いは、その後の九州戦国史の潮流を決定づけた、紛れもない一大転換点であった。本報告書で詳述した通り、この戦いの歴史的意義は、単なる寡兵による大軍撃破という戦術的側面に留まるものではない。それは、情報、心理、そしてリーダーシップといった無形の要素が、兵力や物量という有形の要素を凌駕した、戦国時代を象徴する戦いであった。

第一に、今山の戦いは 情報と心理の勝利 であった。大友軍総大将・大友親貞の油断という決定的な情報を掴み、夜襲という奇策に繋げた情報戦の巧みさ。そして、奇襲の際には、鉄砲の轟音による音響効果と、「味方の寝返り」という虚報による心理的揺さぶりを組み合わせ、敵軍を内部から崩壊させた戦術の洗練性。これらは、鍋島直茂の卓越した戦術眼が、大友軍の組織的脆弱性を的確に見抜いていたことの証左である。

第二に、この戦いは リーダーシップの明暗 を鮮やかに映し出した。絶望的な籠城戦の中、降伏論が渦巻く城内で、論理を超えた「賭け」である夜襲を進言した鍋島信生の先見性。そして、恐怖に支配された武将たちを「武家の誇り」という一点で奮い立たせ、非合理的な決断を後押しした母・慶誾尼の存在。最終的にその決断を下した龍造寺隆信の器量。これら龍造寺方のリーダーシップの連鎖が、奇跡を現実のものとした。対照的に、巨大な軍事力に驕り、勝利を確信して規律を緩めた大友親貞の慢心と、巨大であるがゆえに生じた指揮系統の硬直化は、大友氏の敗因を象徴している。

そして最も重要な点は、この戦いが 九州戦国史の力学を根本から変えた ことである。戦術的勝利の後、不利な条件での和睦を余儀なくされながらも、龍造寺隆信はその勝利がもたらした「軍事的名声」という政治的資本を最大限に活用し、肥前一国の完全掌握を成し遂げた。これにより、一地方豪族に過ぎなかった龍造寺氏は、九州の覇権を争う主役へと躍り出た。一方で、絶対的王者であった大友氏の支配体制には、この一夜の敗北によって最初の、そして致命的な亀裂が入ったのである。

今山の戦いは、まさに龍造寺興隆の暁であり、大友支配の黄昏を告げる戦いであった。その夜明け前の暗闇に響いた鬨の声は、戦国九州における新たな時代の到来を告げる、歴史的な号砲だったのである。

引用文献

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  4. 龍造寺隆信 日本史辞典/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/history/history-important-word/ryuzoji-takanobu/
  5. 物でした。 - 佐賀県 https://www.pref.saga.lg.jp/kiji00346510/3_46510_9_201634151113.pdf
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  10. 1570 今山戰役: WTFM 風林火山教科文組織 https://wtfm.exblog.jp/13630898/
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  21. 今山之戰- 維基百科,自由的百科全書 https://zh.wikipedia.org/zh-tw/%E4%BB%8A%E5%B1%B1%E4%B9%8B%E6%88%B0
  22. 【歴史の話をしよう】龍造寺四天王 http://naraku.or-hell.com/Entry/1034/
  23. 人物紹介(龍造寺家:成松信勝) | [PSP]戦極姫3~天下を切り裂く光と影~ オフィシャルWEBサイト https://www.ss-beta.co.jp/products/sengokuhime3_ps/char/ryuzouji_narimatsu.html
  24. 今山古戦場(今山合戦場跡) - 佐賀市観光協会 https://www.sagabai.com/main/?cont=kanko&fid=665