伏見城の戦い(1600)
慶長五年 伏見城攻防全史 ― 礎となりし忠臣たちの十三日間
序章:天下分け目への序曲
慶長3年(1598年)8月、天下人・豊臣秀吉がその波乱の生涯を閉じると、日本は再び動乱の時代へと逆行を始めた。秀吉が遺した幼き主君・秀頼を補佐するべく定められた五大老・五奉行の体制は、その均衡を急速に失い、権力の真空が生じた 1 。その中心で、静かに、しかし着実に影響力を拡大していたのが、五大老の筆頭、徳川家康であった。
家康は秀吉の死後、豊臣家の法度を半ば公然と破り、諸大名との無断での婚姻政策を推し進めるなど、天下の政権を自らの手中に収めようとする動きを隠さなかった 1 。これは、来るべき対決に向けた周到な布石であり、豊臣政権の忠臣たちの目には、許されざる専横と映った。この状況を最も危険視したのが、五奉行の一人、石田三成であった。
慶長5年(1600年)、事態は決定的な局面を迎える。家康は、会津の上杉景勝に謀反の疑いありとして、諸大名を率いての会津征伐を決定する 1 。表向きは豊臣政権の秩序を維持するための公儀の軍事行動であったが、その真意は別にあった。家康は、自身が畿内を離れるという状況を作り出すことで、石田三成らが反徳川の兵を挙げることを予期し、むしろそれを誘発しようとしていたのである 4 。大坂城での政治的駆け引きでは豊臣恩顧の大名を完全に掌握することは難しいと判断した家康にとって、敵対勢力を一掃するためには、大規模かつ正当性のある野戦こそが必要であった。会津征伐は、三成に挙兵の「隙」と「大義名分」を与えるための、壮大な罠であったと言える。そして、この家康の描いた筋書きにおいて、畿内における徳川方の拠点・伏見城は、必然的に最初の戦火を浴びる運命にあった。
家康の思惑通り、彼が東国へ向かうと、大坂では前田玄以、増田長盛、長束正家の三奉行が中心となり、毛利輝元を総大将として擁立 2 。家康の罪状を十三箇条にわたって列挙した弾劾状「内府ちがひの条々」を諸大名に発布し、ここに反家康勢力、すなわち西軍が公然と組織されたのである 1 。二つの巨大な意志が、もはや衝突を避けられない地点まで達していた。そして、その最初の激突の舞台として選ばれたのが、山城国にそびえる伏見城であった。この戦いは、偶発的な衝突ではなく、家康の天下統一へのシナリオにおいて、意図的に引き起こされた必要不可欠な前哨戦だったのである。
第一章:決別の盃 ― 伏見城、運命の夜
伏見城の運命を一身に背負うことになったのは、徳川四天王にも劣らぬ功臣、鳥居元忠であった。彼は「三河武士の鑑」と称されるほどの、ほとばしる忠義の士として知られる 3 。その忠誠心は、父・忠吉の代から続くものであった。鳥居家は武士でありながら商才にも長け、徳川家康が今川家の人質として不遇の時代を送っていた際には、衣類などを送り届け、経済的に支え続けた 8 。
元忠自身は、天文20年(1551年)、13歳にして当時10歳の家康(竹千代)に仕え始め、駿府での人質時代を共に過ごした 5 。それは単なる主従関係を超え、苦楽を分かち合った幼馴染にも等しい絆であった 3 。以降、姉川の戦い、三方ヶ原の戦い、長篠の戦いなど、家康の主要な合戦には常にその側に付き従い、数多の武功を挙げた 3 。三方ヶ原の戦いで負った傷により左足が不自由になってもなお、生涯にわたって戦場に立ち続けた歴戦の猛将であった 3 。
慶長5年6月16日、会津へ向けて大坂城を発った家康は、その途上、伏見城に立ち寄った。そしてその夜、元忠と二人きりで、今生の別れとなる酒宴を開いた 4 。家康は、自分が東へ向かえば三成が挙兵し、この伏見城が最初の標的となることを熟知していた。元忠に城の留守を託すことは、事実上の「死」を命じるに等しい行為であった 8 。家康が「残せる兵は三千ばかりで、苦労をかける」と断腸の思いで告げると、元忠は臆することなくこう答えたと伝えられる。
「なんの。殿の天下取りのためならば、この彦右衛門(元忠)は喜んで捨て石となりましょう。むしろ、これからの合戦には一人でも多くの兵が必要でございます。三千の兵は多すぎます」 10。
彼は逆に、城の兵を減らしてでも家康の本隊に兵力を割くよう進言したのである 4。
この逸話は、元忠が自らの役割と運命を完全に理解し、それを能動的に受け入れていたことを示している。彼らの関係は、単なる主君への滅私奉公という言葉だけでは説明がつかない。50年近くにわたり生死を共にしてきた二人は、互いの心中を深く理解し合う、いわば「天下取り」という大事業を成し遂げるための「共犯者」であった。元忠が兵の削減を申し出たのは、家康の戦略(本隊の戦力を最大限に温存する)を完璧に理解し、その成功のために自らの犠牲を最適化しようとする、極めて合理的な判断でもあった。
その夜、二人は幼少期の思い出話に花を咲かせながら、深夜まで酒を酌み交わした 4 。やがて元忠は席を立ち、「今宵が今生の暇乞いになりまする」と静かに告げた。その言葉を聞き、不自由な足を引きずりながら去っていく老臣の後ろ姿に、家康は声を殺して涙したという 4 。それは、天下統一という非情な大事業を完遂するための、二人の武将による冷徹な契約の儀式でもあった。
こうして、伏見城には総大将・鳥居元忠のもと、約1800の兵が残された 3 。兵力については2000名足らず 4 、あるいは2300名 9 といった説もあるが、いずれにせよ圧倒的な大軍を前にした寡兵であることに変わりはなかった。家康は、元忠の補佐として、譜代の重臣である内藤家長、松平家忠、松平近正といった、一級の武人たちを配置し、万全の態勢を敷いたつもりであった 15 。彼らは皆、自らの死を覚悟の上で、主君の天下への道を切り開くための礎となるべく、城の守りを固めたのである。
第二章:戦いの舞台 ― 伏見城の構造と両軍の布陣
攻防戦の舞台となった伏見城は、単なる軍事拠点ではなかった。もとは豊臣秀吉が隠居城として築き、慶長伏見地震による倒壊後、木幡山に場所を移してさらに壮麗に再建された、豊臣政権の政治的中枢であった 17 。その縄張りは広大で、本丸を中心に、東に松の丸や名護屋丸、西には二の丸、そしてかつて石田三成の屋敷があった治部少丸などが配置されていた 17 。天守は外観五重、内部は七階地下一階とも考えられる壮大なもので、壁は真壁造、屋根には金箔瓦が惜しげもなく使用されていたという 21 。城の周囲は堀や石垣、土塁で固められ、各所に櫓や門が配された堅城であった 21 。
この天下人の城に対し、西軍は文字通り怒濤の如く押し寄せた。慶長5年7月18日頃、西軍の先鋒が伏見城下に到達し、瞬く間に城を完全包囲した 6 。その総兵力は約40,000 4 。籠城側の20倍以上という、絶望的な兵力差であった 5 。攻城軍の総大将は五大老の一人・宇喜多秀家。その麾下には、小早川秀秋、毛利秀元、小西行長、島津義弘、長宗我部盛親、鍋島勝茂、長束正家といった、西軍の主力を成す錚々たる大名たちが顔を揃えていた 4 。
圧倒的な兵力を背景に、西軍は城兵の命の保証を条件に降伏を勧告した。しかし、元忠は「内府(家康)殿の御命令ならばともかく、他の誰からの指図は受けぬ」とこれを一蹴 4 。一説には、勧告に訪れた使者を斬り捨て、その遺体を西軍陣営に送り返すことで、徹底抗戦の揺るぎない意志を示したとも伝えられている 12 。
この開戦前夜、戦局を左右しかねない一つの出来事が起こっていた。島津義弘と小早川秀秋の動向である。当初、両者は東軍に与する意図があったとされ、特に島津義弘は家康から伏見城の留守居を頼まれていたとして、兵を率いて入城を申し出た 1 。しかし、元忠はこれを内通の計略と疑い、固く拒絶。そればかりか、威嚇のために鉄砲を撃ちかけて追い払ったとされている 4 。また、豊臣秀吉の正室・高台院(ねね)の内命を受け、小早川秀秋も元忠に協力を申し出たが、これも罠であると判断され、受け入れられなかった 15 。
この元忠の判断は、主君から預かった城を何人たりとも通さぬという、「三河武士」としての純粋で一途な忠義心の発露であった。しかし、それは大局的な視点で見れば、東軍にとって大きな戦略的損失を招く結果となった。もし島津を入城させていれば、西軍は有力な将を一人失い、攻城はさらに困難を極めたであろう。それ以上に深刻だったのは、この拒絶が島津や小早川の心に与えた影響である。面目を潰され、行き場を失った彼らは、不本意ながらも西軍として攻城戦に参加せざるを得ない状況に追い込まれた。特に、かねてより去就が注目されていた小早川は、この一件で西軍への不信感を募らせ、後の関ヶ原における裏切りへと繋がる遠因となった可能性も否定できない 15 。元忠の完璧なまでの忠義は、皮肉にも家康の敵を増やし、戦局をより複雑化させる一因となったのである。これは、個人の美徳が必ずしも全体の戦略にとって最善とは限らない、戦国時代の非情な現実を象徴する出来事であった。
なお、島津・小早川の入城拒否に関する逸話は、主に江戸時代に成立した二次史料に基づくものであり、史実として確定しているわけではない点には留意が必要である 1 。しかし、当時の諸大名が抱えていた複雑な立場と、陣営内の疑心暗鬼に満ちた空気を伝えるエピソードとして、極めて示唆に富んでいる。
表1:伏見城の戦いにおける両軍の兵力と主要武将
陣営 |
総兵力(推定) |
総大将/城将 |
主要武将 |
東軍(籠城側) |
約1,800名 |
鳥居元忠 |
内藤家長、松平家忠、松平近正 |
西軍(攻城側) |
約40,000名 |
宇喜多秀家 |
小早川秀秋、毛利秀元、小西行長、島津義弘、長宗我部盛親、鍋島勝茂、長束正家 |
第三章:攻防十三日間の軌跡 ― 炎と硝煙の時系列
鳥居元忠の決死の覚悟と共に、伏見城の攻防戦は歴史の歯車を大きく回し始めた。その十三日間の軌跡は、まさに炎と硝煙、そして忠義と裏切りが交錯する壮絶な記録であった。
慶長5年7月15日:籠城開始
西軍が家康弾劾状「内府ちがひの条々」を発布する二日前、伏見城の徳川方将兵は既に城への籠城を開始していた。これは、彼らが京・大坂の不穏な空気をいち早く察知し、来るべき攻撃に備えていたことを示唆している 26 。
7月19日:開戦の火蓋
豊臣秀頼の公儀軍という大義名分を掲げた西軍は、ついに伏見城への総攻撃を開始した 26 。開戦の合図は、凄まじい鉄砲の一斉射撃であった。この日から落城の前日まで、昼夜を問わず銃声が鳴り響き、籠城兵に心身の休まる暇を与えなかった 26 。その轟音は、三里(約12キロメートル)離れた京の市中でも聞こえるほど激しいものであったと記録されている 26 。
7月20日~30日:膠着と消耗
西軍は、城際に土を盛り上げた築山を設け、そこから大筒を撃ちかけるなど、力攻めを試みた。また、防御の要である堀を埋め、城内への突入路を確保しようとしたが、城兵の組織的かつ頑強な抵抗に遭い、攻めあぐねる日々が続いた 26 。
この間、元忠は覚悟の証として、城の正面に架かる極楽橋を自ら爆破。これにより、城外へ打って出るという選択肢を断ち、文字通り背水の陣を敷いた。後にこの報告を聞いた家康は、元忠の決死の覚悟を理解しつつも、攻勢に転じる戦術的選択肢が失われたことを嘆いたという 15。
西軍の諸将は、当初、伏見城は数日で落城すると楽観視していた 6。しかし、予想を遥かに超える元忠らの奮戦により、戦いは長期化の様相を呈し、西軍の焦りは日増しに募っていった。この遅滞は、彼らの戦略全体に大きな狂いを生じさせ始めていた。
8月1日 未明~早朝:内部からの崩壊
十日以上にわたる膠着状態を打ち破ったのは、西軍の武力ではなく、城内からの裏切りであった。城の守備に加わっていた甲賀衆の一部が、西軍の調略に応じたのである 27 。
日付が変わった8月1日の深夜、彼らは密かに城の東側に位置する「松の丸」に火を放った。そして、その混乱に乗じて西軍の兵を城内へと引き入れたのである 27。紅蓮の炎は瞬く間に燃え広がり、隣接する名護屋丸をも包み込んだ 28。堅固を誇った伏見城の防御網は、内部から崩壊を始めた。
8月1日 午前~午後:最後の総攻撃と各個撃破
松の丸の陥落を合図に、西軍は堰を切ったように総攻撃を開始した。記録によれば、城内への突入が始まったのは子の刻(午前0時頃)であったとされる 26 。
鍋島勝茂の部隊が追手門を突破し、炎上する松の丸と名護屋丸を制圧 28。時を同じくして、島津義弘の部隊は治部少丸へ突入し、これを守っていた松平家忠以下の将兵が壮絶な玉砕を遂げた 28。
西軍は本丸や天守にも容赦なく火矢を射かけ、城の主要部は次々と炎に呑まれていった。この火災は午の刻(正午頃)まで約12時間も続いたとされ、かつて栄華を誇った天下人の城は、黒煙を上げて天を焦がした 26。
第四章:落城 ― 忠臣、地に伏す
城内が阿鼻叫喚の地獄と化す中、鳥居元忠は最後まで抵抗の意志を失わなかった。彼の最後の戦いは、三河武士の誇りと主君への忠義を体現する、壮絶なものであった。
本丸での最後の抵抗
各曲輪が次々と敵の手に落ち、味方が討ち死にしていく中、元忠は手元に残ったわずか200名ほどの兵を率い、本丸で最後の抵抗を試みた 28 。彼は兵を鼓舞し、「最後まで戦い、西軍が東へ向かうのを一刻でも遅らせるのだ」と叫び、自ら先頭に立って敵中へ突撃した。三度にわたる突撃を敢行したものの、衆寡敵せず、燃え盛る本丸の石段にたどり着いた時には、付き従う兵はわずか10名余りにまで減っていた 28 。
壮絶なる最期
元忠自身も満身創痍であり、もはや手足も自由に動かせぬほどの深手を負っていた 24 。彼の最期の場面については諸説あるが、西軍に与した雑賀衆の頭領・鈴木重朝(雑賀孫市とも)と対峙したという説が広く知られている 24 。
重朝は、敵将ながら元忠の鬼神の如き武勇と忠節に深く感銘を受け、敬意を表したという。一騎討ちの末に討ち取ったとも、あるいは元忠がもはや戦えぬことを見て取り、武士の情けとして介錯を申し出たとも言われる。元忠は静かにそれを受け入れ、兜を脱ぎ、主将らしく堂々たる作法で自刃して果てた 28。慶長5年8月1日、享年62。その生涯は、主君・徳川家康への忠義に貫かれたものであった 5。
玉砕した将兵たち
元忠の死と共に、伏見城は完全に陥落した。城内に残っていた将兵たちも、降伏の道を選ぶ者はいなかった。内藤家長、松平家忠といった徳川譜代の重臣たちもことごとく討死を遂げた。この戦いにおける籠城側の死者は、800名にのぼったと記録されている 12 。生き残った者たちも、敵の手に落ちることを潔しとせず、主君の後を追うように城内で自刃していった 24 。彼らの死は、伏見城の戦いを単なる攻城戦から、後世に語り継がれる忠義の物語へと昇華させたのである。
終章:礎となりし魂 ― 戦いが残したもの
慶長5年8月1日、伏見城は落城し、鳥居元忠以下1800の将兵は玉砕した。戦術的には西軍の完全勝利であった。しかし、この敗北は、徳川家康にとって何物にも代えがたい、戦略的かつ精神的な大勝利をもたらすことになる。
戦略的影響:関ヶ原への道を開いた「価値ある時間」
元忠たちの命を懸けた抵抗は、西軍の進軍を実に13日間も伏見の地に釘付けにした 2 。西軍の当初の計画は、伏見城を速やかに攻略し、その勢いのまま東へ進軍、美濃・伊勢方面で家康の本隊を迎撃するか、あるいは北上する家康軍を会津の上杉景勝と挟撃するというものであった 6 。しかし、この致命的な遅延によって、家康は江戸城へ帰還し、東国諸大名を糾合して万全の態勢で西へ向かうための、決定的に重要な時間を稼ぐことができたのである 5 。鳥居元忠が自らの命と引き換えに稼いだ時間は、約一ヶ月半後の関ヶ原における東軍勝利の、最大の要因の一つとなった 1 。
精神的影響:「三河武士の鑑」という象徴
元忠と将兵たちの壮絶な玉砕の報は、東軍の諸将に大きな衝撃を与えると同時に、彼らの士気をかつてなく高揚させた 3 。主君のために命を投げ出すことを厭わない「三河武士の鑑」としての元忠の姿は、東軍の結束を固める強力な精神的支柱となったのである。これは、豊臣恩顧の大名の妻子を人質に取るという西軍の強硬策(細川ガラシャの悲劇など)と鮮やかな対比をなし、東軍の戦いに「義」があるという印象を諸大名に強く植え付けた 7 。
血天井の由来:現代に伝わる悲劇の記憶
伏見城の戦いが後世に残した最も鮮烈な遺産は、京都市内の寺院に現存する「血天井」であろう。落城の際、元忠をはじめとする約380名の将兵が自刃したとされる本丸御殿の廊下は、おびただしい血で染まった 12 。
関ヶ原の戦いに勝利し、天下の覇権を掌握した家康は、これらの忠臣たちの死を深く悼み、彼らの血が染み込んだ床板を供養のために寺院に寄進した 23。そして、忠義の魂が二度と人に踏まれることのないよう、あえて「天井板」として用いるよう命じたのである 9。
この一連の処置は、単なる供養にとどまるものではなかった。豊臣政権の権威を象徴する物理的な存在であった「伏見城」は、この戦いで一度灰燼に帰した。しかし家康は、その一部である「血染めの床板」を保存し、再利用することで、徳川への忠義の象徴である「血天井」という精神的な遺産へと意図的に転換させたのである。これにより、伏見城の記憶は「秀吉の城」から「元忠が殉じた忠義の場所」へと上書きされた。そして、家康によって再建されたまさにその伏見城で、彼は征夷大将軍の宣下を受け、名実ともに徳川の時代の到来を天下に知らしめた 30 。血天井は、徳川幕府260年の泰平の礎となった者たちの魂の証として、また、新時代の正当性を物語る装置として、静かにその役割を果たし続けたのである。
この血天井は、現在も京都市の養源院、正伝寺、源光庵などに現存し、訪れる者に戦国の世の凄惨さと、主君のために散った武士たちの無窮の忠義を、静かに、しかし雄弁に物語り続けている 12 。家康はまた、元忠の遺功に報いるため、その子・忠政に大幅な加増を行い、出羽山形藩24万石の太守とした 3 。鳥居元忠の死は、決して無駄ではなかった。彼の魂は、徳川の天下の礎として、永遠に生き続けているのである。
引用文献
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- 関ヶ原前哨戦「伏見城の戦い」!鳥居元忠、決死の籠城戦…反家康の狼煙が上がる https://favoriteslibrary-castletour.com/kyoto-fushimijo-toriimototada/
- 【漫画】鳥居元忠の生涯~忠義に生きた男~【日本史マンガ動画】 - YouTube https://m.youtube.com/watch?v=-9EnffPC9WM&pp=0gcJCa0JAYcqIYzv
- 伏見城の戦い - BIGLOBE http://www7a.biglobe.ne.jp/echigoya/ka/FushimiJou.html
- 鳥居元忠は何をした人?「関ヶ原前夜、三河武士の意地を抱いて伏見城に散った」ハナシ https://busho.fun/person/mototada-torii
- 伏見城の戦い 京都通百科事典 https://www.kyototuu.jp/History/WarFushimi.html
- 伏見城の戦い 玉砕した鳥居元忠の覚悟と細川ガラシャの死 関ヶ原の戦い前哨戦 東軍の士気を上げた二つの悲劇「早わかり歴史授業72 徳川家康シリーズ40」日本史 - YouTube https://m.youtube.com/watch?v=f1xq1dEwrxA&pp=ygUSIzM25pel5pys5Lq657ib44KK
- 鳥居元忠 どうする家康/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/89468/
- 京都どうでしょ! 鳥居元忠、忠義の血天井編 (京都駅周辺) - フォートラベル https://4travel.jp/travelogue/11886550
- 鳥居元忠は三河武士の鑑~伏見城での壮絶な最期 | WEB歴史街道 ... https://rekishikaido.php.co.jp/detail/4155
- どこにいた家康 Vol.41 伏見城 - 武将愛 https://busho-heart.jp/archives/12843
- 鳥居元忠~伏見城で討死にした三河武士の鑑~ - 中世歴史めぐり https://www.yoritomo-japan.com/sengoku/jinbutu/torii-mototada.html
- 徳川家康、忠臣との別れに涙。関ケ原の前哨戦、伏見城のドラマ! - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/53273/
- 1600年 関ヶ原の戦いまでの流れ (前半) | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1600-1/
- 伏見城 鳥居元忠の覚悟 最後の攻防戦 - こうへいブログ 京都案内と文章研究について https://www.kouhei-s.com/entry/2021/06/11/183529
- 関ヶ原の戦いへ 鳥居元忠 壮絶な最期 石田三成 覚悟の挙兵「大河ドラマ どうする家康」歴史解説58 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=rqhUJIuU9Hk
- 忘れられた首都・伏見城の遺構をたどる① - のら印BLOG https://norajirushi.hatenablog.com/entry/2023/08/04/122712
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- 城に眠る伝説と謎 【伏見城】 壮絶!血染めの天井板に隠された京都・伏見城の悲劇! https://shirobito.jp/article/315
- 血天井のなぜ?鳥居元忠ら1800人が全滅した壮絶な戦いの遺構 ... https://busho.fun/column/chitenjo
- [合戦解説] 10分でわかる伏見城の戦い 「関ケ原前哨戦!西軍を相手に最後まで戦う鳥居元忠の忠誠心」 /RE:戦国覇王 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=EWBkqMl_w_o
- 在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い - 別府大学 http://repo.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php?file_id=8199
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- 都市史20 伏見城 - 京都市 https://www2.city.kyoto.lg.jp/somu/rekishi/fm/nenpyou/htmlsheet/toshi20.html
- 伏見城と城下町|京都伏見の黒田官兵衛 - 月桂冠 https://www.gekkeikan.co.jp/enjoy/bunko/kurodakanbe/castle.html
- 伏見城を守る1800人全員が血を流して死んだ…「血天井」として残る鳥居元忠の壮絶すぎる最期 石田三成の残虐な振る舞いに、徳川家康らは発奮した - プレジデントオンライン https://president.jp/articles/-/75504?page=1
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