最終更新日 2025-08-27

佐和山城の戦い(1600)

慶長五年 佐和山城の戦い ― 石田一族、最後の二日間

序章:関ヶ原、落日の後に

慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)、美濃国関ヶ原において、日本の未来を決定づける天下分け目の戦いが繰り広げられた。徳川家康率いる東軍と、毛利輝元を総大将に戴き石田三成が実質的に主導した西軍の激突は、小早川秀秋らの寝返りによってわずか一日で東軍の圧倒的勝利に終わった 1 。西軍は総崩れとなり、その中心人物であった石田三成は、再起を期して戦場を離脱、伊吹山方面へと落ち延びていった 1 。戦いが終わる頃、関ヶ原には冷たい雨が降り注ぎ、夥しい数の屍を濡らしていたという 4

戦勝に沸く東軍諸将であったが、総大将である徳川家康の視線は、既に関ヶ原の先、近江国に聳える石田三成の居城・佐和山城に向けられていた。同日夕刻、家康は大谷吉継の陣跡があった藤川台で首実検を行い、戦勝の祝賀を受ける一方で、間髪入れずに佐和山城攻略の命令を下した 4 。三成が佐和山城に帰還し、籠城して抵抗を続けることは、西国大名の再結集を促しかねない危険な火種であった。家康にとって、この火種を速やかに、そして完全に消し去ることは、天下統一事業を完遂するための絶対条件だったのである 4

この重要な戦の先鋒として家康が指名したのは、徳川譜代の精鋭ではなく、関ヶ原で西軍から東軍へと寝返った武将たちであった。小早川秀秋を筆頭に、脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠、赤座直保といった面々である 3 。彼らにとって、この佐和山城攻めは、単なる軍事行動以上の意味を持っていた。それは、新たな支配者である家康に対し、自らの忠誠を血をもって証明するための、いわば「踏み絵」であった 1 。特に、関ヶ原の戦局を決定づける役割を果たしながらも、その土壇場での裏切りという行動から家康の完全な信頼を得られていなかった小早川秀秋は、この汚名を返上すべく、自ら進んで先鋒を志願したと伝えられる 1 。こうして、関ヶ原の戦いの延長戦とも言うべき佐和山城の戦いは、新たな秩序を構築するための、血塗られた政治的儀式としてその幕を開けることとなった。

第一章:湖東の要塞、佐和山城の実像

佐和山城は、当時の人々から「三成に過ぎたるものが二つあり、島の左近に佐和山の城」と謳われるほどの堅城であった 5 。琵琶湖東岸に位置し、中山道と北国街道が交差する交通の要衝を押さえるこの城は、古くから近江支配の拠点として重要視されてきた 6 。天正19年(1591年)、石田三成が19万4千石の領主として入城すると、城は大規模な改修を受け、五層の壮麗な天守が聳える近世城郭へと生まれ変わったと伝わる 1

城郭の構造と縄張り

佐和山城は、標高約232メートルの佐和山丘陵に築かれた山城であり、その縄張りは極めて巧みであった。西側には当時まだ広大であった松原内湖が広がり、琵琶湖へと続く天然の巨大な水堀を形成していた 9 。城の正面玄関にあたる大手口は、東麓の鳥居本宿側に設けられ、眼下の中山道を見据える戦略的な配置となっていた 11

城郭は、山頂に本丸を置き、そこから派生する尾根筋に沿って西ノ丸、二ノ丸、三ノ丸、太鼓丸、法華丸といった曲輪群を連郭式に配置していた 11 。各曲輪は土塁や堀切によって厳重に防御されており、特に二ノ丸と三ノ丸の間には三本もの堀切が穿たれ、敵の侵攻を段階的に阻む強固な防御思想が見て取れる 11

近年の発掘調査では、これまで謎に包まれていた城下町の姿も明らかになりつつある。東山麓の谷部には家臣団の屋敷地が広がり 15 、城下町全体が「惣構」と呼ばれる外堀によって囲まれていたことが確認された 9 。これは文禄5年(1596年)に行われた「佐和山惣構御普請」によるものとされ、三成が佐和山を単なる軍事拠点としてだけでなく、領国経営の中心地として整備しようとしていたことを物語っている 18

城内の実態 ― 華美ならざる統治者の素顔

「三成に過ぎたるもの」とまで称された壮麗な城郭のイメージとは裏腹に、城主である三成自身の生活は驚くほど質素であったと伝えられている。落城後、一攫千金を夢見て城内に乱入した東軍の兵士たちは、豊臣政権の筆頭奉行の居城に莫大な財宝が蓄えられていると期待していた。しかし、彼らが目にしたのは、壁は荒壁のまま、居間は板張りという、およそ大名の居館とは思えぬ質素な内装であり、金銀財宝の類はほとんど見当たらなかったという 1

この壮麗な城郭と質素な生活の著しい乖離は、石田三成という人物の公私に対する価値観を象徴している。彼にとって佐和山城は、私的な奢侈の対象ではなく、あくまで豊臣政権の西国支配を支えるための「公儀」の拠点であった。城の改修に投じられた莫大な費用は、その防御機能や行政機能の強化に向けられ、城主個人の蓄財には回されなかったのである。この事実は、江戸時代以降に流布された、私利私欲に走る奸臣という三成像とは大きく異なり、豊臣家のために滅私奉公を貫いた実務家・能吏としての彼の側面を強く裏付けている 20 。佐和山城は、三成の理想とする「公」のための城であり、彼の精神性が具現化した建造物であったと言えよう。

第二章:攻防の刻一刻 ― 佐和山落城記

関ヶ原での勝利からわずか2日後、佐和山城を舞台に繰り広げられた攻防戦は、石田一族の運命を決定づける悲劇的な戦いであった。

慶長五年九月十六日(関ヶ原の翌日):包囲網の完成

関ヶ原での戦勝処理を終えた家康は、ただちに佐和山城への進軍を命じた 4 。この日、小早川秀秋を筆頭とする、関ヶ原で東軍に寝返った諸将が一番隊として編成され、佐和山へと進発した 1 。降り続く冷たい雨の中、家康本隊は関ヶ原に留まったが、兵士たちの士気を慮り、炊事が困難な者には米を水に浸して食べるよう指示するなど、細やかな気配りを見せたという逸話も残されている 4 。その間にも、先鋒部隊は着実に近江へと駒を進めていた。

慶長五年九月十七日:攻防戦の火蓋

布陣完了

翌17日、家康は佐和山の南に位置する平田山(正法寺山とも)に本陣を構え、自ら全軍の指揮を執った 1。正午頃には、小早川秀秋率いる約15,000の軍勢が佐和山城を完全に包囲し、攻撃態勢を整えた 1。

籠城側の陣容

一方、城を守る石田方は、主君・三成が不在という絶望的な状況にあった。城内には、三成の父である石田正継を総大将とし、兄の正澄、三成の妻・皎月院、その父・宇多下野守頼忠、そして大坂から派遣された援軍・長谷川守知らを含む約2,800の兵が籠もっていた 3。しかし、その多くは関ヶ原の主戦場に赴かなかった老兵や若者たちであり、15,000を超える大軍を相手にするにはあまりにも非力であった 3。それでも彼らは、一族の誇りを胸に、最後の抵抗を試みるべく各々の持ち場を固めた。本丸には正継、正澄、宇多頼忠らが、三の丸は正澄が、西の丸には河瀬織部らが布陣したと記録されている 24。

攻撃開始と石田方の奮戦

正午過ぎ、ついに攻撃の火蓋が切られた。小早川隊の先鋒・平岡頼勝が大手口から攻めかかったのを皮切りに、東軍は各方面から一斉に城へと殺到した。大手口からは小早川秀秋、脇坂安治、朽木元綱ら、水の手口からは田中吉政、松原内湖側の松原口からは石田雅楽助(※諸説あり)がそれぞれ攻撃を仕掛けた 4。

圧倒的な兵力差にもかかわらず、佐和山城の守りは堅く、籠城側の抵抗は凄まじかった 5 。特に、老兵・福島次郎作の奮戦は目覚ましく、弓の名手であった彼は、攻め寄せる東軍兵を次々と射倒した。自身の矢が尽きると、城内にあった同僚・山田嘉十郎の名が刻まれた矢を用いて射続けたため、東軍内では「城に山田嘉十郎という恐ろしい弓の名手がいる」と噂されたほどであった(当の山田嘉十郎は既に城から逃亡していた) 3 。この激しい抵抗により、小早川隊の先鋒は死傷者300名を出すなど、大きな損害を被った 5

裏切りと戦局の転換

しかし、夕刻になると戦況は急変する。三の丸の守備を担っていた大坂からの援軍、長谷川守知(宇兵衛)が突如として東軍に内応し、小早川勢を城内に手引きしたのである 3。守知は以前から東軍の京極高次と通じていたとされ、この裏切りによって城の防御線は内側から崩壊した 27。三の丸はあっけなく破られ、守備兵たちはなすすべもなく本丸へと退却。戦いの趨勢は、一気に東軍へと傾いた 3。

慶長五年九月十八日:悲劇の終焉

降伏勧告と苦渋の決断

夜が明け、落城がもはや時間の問題となった18日の未明、家康は関ヶ原で捕らえていた石田家の者を使者として城内に送り、西軍が完全に壊滅した事実を伝え、降伏を勧告した 1。これを受け、父・正継は、これ以上の無益な殺生を避けるため、石田一族が自刃することを条件に、城兵や女子供の助命を願い出た。この条件は家康にも受け入れられ、和睦が成立した 1。

和睦の反故と突入

しかし、この和平協定は無残にも踏みにじられる。翌18日の早朝、和睦が成立したことを知らされていなかった田中吉政の部隊が、功を焦ったのか、水の手口から城内へと乱入したのである 1。この突入が、単なる連絡の不徹底による偶発的な事故であったのか、それとも家康が石田一族の根絶やしを狙い、暗に容認あるいは指示していたのかは、歴史の謎として残されている。田中吉政が三成と旧知の間柄であり、後に三成捕縛の任も担うことを考え合わせると、家康の真意を忖度し、功を立てようとした可能性も否定できない。いずれにせよ、開城を決めていた城兵たちは戦意を失っており、この予期せぬ攻撃に為す術もなかった 3。

落城と一族の最期

「謀られたか」― 正継はそう悟り、もはやこれまでと覚悟を決めた 1。辰の刻(午前8時頃)、正継、兄・正澄をはじめ、三成の妻・皎月院、その父・宇多頼忠ら一族縁者は、天守に火を放つと次々と自刃して果てた 24。家臣の土田東雲斎は、蔵から金銀財宝を敵兵に投げ与え、彼らがそれを奪い合う間に主君たちが自害する時間を稼いだという壮絶な逸話も伝わっている 3。

女郎ヶ谷の悲劇

この混乱の中、城内にいた多くの女性たちは、敵兵による凌辱を恐れ、本丸の西側にある深い谷へと次々と身を投げたと伝えられている 5。この悲劇から、その谷は「女郎ヶ谷」と呼ばれるようになり、落城後も三日三晩、谷底から悲痛な声が響き渡ったという哀しい伝承が残された 5。ただし、後の調査で本丸付近に大規模な焼失の痕跡が見られないことから、天守炎上説や女郎ヶ谷の伝承の規模については、誇張が含まれている可能性も指摘されている 5。

第三章:戦いの当事者たち

佐和山城の戦いは、関ヶ原の主役たちとは異なる人物たちの、それぞれの覚悟と悲哀が交錯した舞台でもあった。

籠城側

  • 石田正継(いしだ まさつぐ)
    三成の父。近江国石田村の地侍の出身で、三成の出世に伴い、その才覚を見出され豊臣政権下で民政を担当した 31。特に佐和山領や蔵入地の支配において手腕を発揮し、現地には三成よりも正継の名で発給された古文書が多く残るほど、領民から慕われる善政を敷いていたとされる 32。三成不在の佐和山城において、一族の長として籠城戦を指揮。圧倒的な兵力差を前に、城兵の助命を条件に降伏するという現実的な決断を下したが、その願いは裏切りによって叶わなかった。最期は一族と共に自刃し、戦国の世の非情さに散った 3。
  • 石田正澄(いしだ まさずみ)
    三成の兄。弟の影に隠れがちだが、彼自身も豊臣政権において独自の地位を築いた有能な官吏であった 29。佐和山城の戦いでは大手門の守備を担当し、寄せ手を何度も撃退する奮戦を見せた 29。しかし、衆寡敵せず、最後は父・正継や息子・朝成と共に自害を遂げた 25。『慶長年中卜斎記』には「石田木工(正澄)天守にて焼死」と記されている 29。

攻撃側

  • 小早川秀秋(こばやかわ ひであき)
    関ヶ原での裏切りによって西軍敗北の最大の要因を作ったとされる若き武将。その汚名を雪ぎ、家康への忠誠を示すため、佐和山城攻めでは自ら先鋒を務め、猛攻を加えた 4。この戦功が評価され、戦後は宇喜多秀家の旧領であった備前・美作岡山55万石という破格の恩賞を与えられた 33。しかし、世間からの「裏切り者」という烙印は消えることなく、精神を病んだ末、落城からわずか2年後の慶長7年(1602年)、嗣子なく21歳の若さで急死。名門小早川家は無嗣断絶となった 34。彼の生涯は、時代の大きな転換期において、生き残りをかけた武将の苦渋の選択と、その末路の悲劇性を象徴している。
  • 徳川家康(とくがわ いえやす)
    関ヶ原の本戦では最前線に出ることなく、戦後処理においても冷静沈着に事を進めた。佐和山城攻めに、信頼のおける譜代家臣ではなく、あえて寝返り組の諸将を起用した点に、彼の老獪な政治手腕が窺える。これは、彼らの忠誠心を試すと同時に、豊臣恩顧の大名同士を戦わせることで相互の力を削ぎ、自軍の主力を温存するという、極めて計算された戦略であった 3。石田一族の助命を一度は受け入れながらも、結果的にその殲滅を許した態度は、天下人となるために一切の情を排する非情さと、盤石な支配体制を築き上げるという強い意志の表れであった。

第四章:佐和山城の終焉と石田三成の最期

佐和山城の落城は、石田一族の滅亡のみならず、一つの時代の終わりを告げる象徴的な出来事であった。

落城後の佐和山城と彦根城の築城

落城後、佐和山城は東軍によって徹底的に破壊された 4 。翌慶長6年(1601年)、徳川四天王の一人である井伊直政が、関ヶ原での戦功により近江18万石を与えられ、佐和山城に入城した 36 。しかし直政は、この城を新たな居城とすることはなかった。

その理由は、単に城が山城で城下町の建設に不向きだったという物理的な問題だけではなかった 36 。より大きな要因は、領民の間に深く根付いていた石田三成への思慕の念を断ち切ることにあった 1 。三成の善政の記憶が残る佐和山城をそのまま使用することは、豊臣方残党の象徴となりかねず、徳川の治世にとって障害になると判断されたのである。

そこで直政は、佐和山の西約2kmに位置する彦根山に、新たな城(彦根城)の築城を計画した 37 。この築城は「天下普請」として行われ、佐和山城の天守をはじめとする建築物や石垣はことごとく解体され、彦根城の資材として転用された 10 。現在、彦根城下の宗安寺に残る朱塗りの山門(通称「赤門」)は、佐和山城の大手門を移築したものと伝えられている 12 。佐和山城の物理的な解体は、石田三成という存在の「記憶の抹消」を目的とした、新時代を告げるための政治的事業でもあった。旧体制の象徴を破壊し、その資材で新体制の象徴を築くという行為は、徳川の支配が盤石であることを近江の地に視覚的に示す、極めて強力なメッセージとなったのである 25

三成の逃避行と捕縛

一方、主戦場から離脱した石田三成は、再起を図るべく伊吹山麓を彷徨っていた。最終的に母方の故郷である伊香郡古橋村(現在の長浜市木之本町古橋)に潜伏し、旧知の百姓であった与次郎太夫に匿われた 40 。しかし、三成捜索の命を受けた田中吉政による厳しい探索網と、密告によってその潜伏先は露見する。関ヶ原の戦いから6日後の9月21日、三成はついに捕縛された 40 。武士の作法として潔く自害する道を選ばず、最後まで生き延びて再起の機会をうかがった彼の姿勢は、源頼朝が石橋山の戦いに敗れた後に再起した例を引き合いに出したとも言われ、その執念と大志を物語る逸話として後世に伝えられている 23

六条河原の露と消ゆ

捕らえられた三成は、9月25日に大津の家康本陣へ送られた 25 。そして慶長5年10月1日、西軍の主要人物であった小西行長、安国寺恵瓊と共に、京都の六条河原において斬首された 28 。享年41。処刑の直前、喉の渇きを訴えた三成に警護の者が干し柿を差し出すと、「柿は痰の毒ゆえ、食さぬ」と断ったという逸話はあまりにも有名である。「これから死ぬ者が何を気にするか」と嘲笑する者に対し、「大志を抱く者は、最期の瞬間まで命を惜しみ、本意を遂げようとするものだ」と返したとされ、彼の最後まで揺るがなかった矜持と理知的な性格を象徴している 44

辞世の句として伝えられる「筑摩江や 芦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり」は、故郷・近江の琵琶湖の情景に、豊臣家という篝火と共に消えゆく自らの儚い運命を重ね合わせた、悲哀に満ちた歌として人々の心を打ち続けている 46

結論:佐和山城の戦いが歴史に刻んだもの

慶長五年九月の佐和山城の戦いは、関ヶ原の合戦という巨大な歴史的事件の陰に隠れがちではあるが、その結末を決定づけ、新たな時代の到来を確固たるものにした重要な戦いであった。

第一に、この戦いは関ヶ原の「本戦」の最終幕であったと言える。石田三成の拠点であり、西軍の象徴でもあった佐和山城の迅速な陥落は、西軍残存勢力の抵抗意欲を完全に打ち砕き、徳川家康の覇権を事実上、揺るぎないものとした。

第二に、この戦いは石田三成という人物像の再評価を促す上で重要な意味を持つ。落城後に明らかになった城内の質素な様子や、父・正継が領民から慕われていたという伝承 51 は、江戸時代を通じて徳川史観のもとで形成された「私欲に走る奸臣」という一方的な三成像に、多角的な光を当てるものである。豊臣家への忠義を貫き、一族もろとも滅び去ったその悲劇的な最期は、彼の人物像をより深く理解するための鍵となる。

最後に、佐和山城の攻防と落城は、戦国の世の非情さと、時代の転換点を凝縮した出来事であった。圧倒的な物量の前に個人の武勇や城の堅固さが意味をなさなくなり、裏切りと謀略が勝敗を決する。そして、勝者は敗者の一族郎党を根絶やしにし、その存在の痕跡すらも消し去ろうとする。佐和山城が跡形もなく破壊され、その跡地に徳川譜代の筆頭・井伊家の彦根城が築かれたことは 36 、豊臣の時代が名実ともに終わりを告げ、二百六十余年にわたる徳川の治世が始まったことを、何よりも雄弁に物語っているのである。


添付資料

【表1】佐和山城 攻守両軍の兵力と主要武将一覧

勢力

総兵力(推定)

総大将

主要武将

備考

東軍(攻撃側)

約15,000~20,000

徳川家康(平田山本陣)

小早川秀秋、田中吉政、脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠、赤座直保、井伊直政、堀尾忠氏など

関ヶ原での寝返り組が主力を形成 3

西軍(籠城側)

約2,800

石田正継

石田正澄、宇多頼忠、長谷川守知(後に内応)、福島次郎作、土田東雲斎など

城主・石田三成は不在。老兵・若者が多数 3

【表2】佐和山城の戦い 詳細時系列表

日付(慶長五年)

時間帯

出来事

関連史料・出典

9月15日

終日

関ヶ原の戦い。東軍勝利、西軍敗走。

1

夕刻

徳川家康、藤川台にて首実検。佐和山城攻撃を指示。

4

9月16日

終日

小早川秀秋ら寝返り組が佐和山へ向け進軍開始。

1

9月17日

正午頃

東軍、佐和山城の包囲を完了し、攻撃を開始。

4

午後

籠城側、福島次郎作らの奮戦により激しく抵抗。

3

夕刻

籠城軍の長谷川守知が内応し、東軍を城内に手引き。

3

9月18日

未明

家康からの降伏勧告を受け、石田正継が開城を決断。

1

早暁

和睦を知らない田中吉政隊が城内に突入。

1

辰の刻 (午前7-9時)

正継・正澄ら一族が自害。佐和山城落城。

19

9月21日

-

石田三成、伊香郡古橋村にて田中吉政に捕縛される。

40

10月1日

-

三成、六条河原にて斬首される。

28

引用文献

  1. 佐和山城の戦い古戦場:滋賀県/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/dtl/sawayamajo/
  2. 徳川家康の「関ヶ原の戦い」|小早川秀秋の裏切り、天下分け目の戦いの真相【日本史事件録】 https://serai.jp/hobby/1158857/2
  3. 佐和山城の戦い~石田正澄らの奮戦空しく落城 | WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/4339
  4. 佐和山城の戦い ~石田一族の関ヶ原~ http://www.m-network.com/sengoku/sekigahara/sawayama.html
  5. 敵による辱めを恐れ… つぎつぎと身を投げた「石田一族の女たち」 女郎谷に伝わる「佐和山城の悲劇」とは - 歴史人 https://www.rekishijin.com/41956
  6. 佐和山城跡の投稿口コミ:三成に過ぎたるものと呼ばれた城の跡 - 刀剣ワールド 城 https://www.homemate-research-castle.com/dtl/00000000000000351997/kuchikomidetail/0000056387/
  7. 佐和山城 - 彦根市 https://www.city.hikone.lg.jp/kakuka/kanko_bunka/8/2_2/4587.html
  8. 7,武士(もののふ)の夢 佐和山 - 彦根市 https://www.city.hikone.lg.jp/kakuka/kanko_bunka/2/7/2322.html
  9. 佐和山城の歴史観光と見どころ - お城めぐりFAN https://www.shirofan.com/shiro/kinki/sawayama/sawayama.html
  10. 佐和山城 ~国宝彦根城の裏にひっそりと佇む石田三成の遺構 | 戦国山城.com https://sengoku-yamajiro.com/archives/sonota_sawayamajo-html.html
  11. 佐和山城跡 - 公益財団法人滋賀県文化財保護協会 https://www.shiga-bunkazai.jp/wp-content/uploads/2023/06/kyoushitsu-124.pdf
  12. <佐和山城(後篇)> 「佐和山城」の遺構城門と大手門跡を巡りました! | シロスキーのお城紀行 https://ameblo.jp/highhillhide/entry-12779623958.html
  13. 石田三成の「過ぎたる」城<佐和山城> https://sirohoumon.secret.jp/sawayama.html
  14. 佐和山城 [再訪] 藪の二ノ丸、本丸南斜面の石垣、発掘中の大手口へ。 https://akiou.wordpress.com/2015/08/27/sawayama-add/
  15. 石田三成徹底解析/第3話 三成の居城佐和山と城下町 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=vpXeV3kDcyI
  16. 佐和山城遺跡 現地説明会資料 https://www.shiga-bunkazai.jp/wp-content/uploads/site-archives/download-pdf-090726_sawayama.pdf
  17. 中山間地域総合整備関係遺跡発掘調査報告書3-3 佐和山城跡 - 滋賀県文化財保護協会 https://www.shiga-bunkazai.jp/wp-content/uploads/2023/07/sawayamajo-ato-2013.pdf
  18. 佐和山城跡発掘調査現地説明会資料 - 公益財団法人滋賀県文化財保護協会 https://www.shiga-bunkazai.jp/wp-content/uploads/2022/08/f79783e1da257f9b9316d6d46429e371.pdf
  19. 1600年 関ヶ原の戦い | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1600-3/
  20. 無味乾燥な官僚タイプではなかった!?石田三成の性格とは - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/392
  21. 石田三成は何をした人?「家康の不忠義を許さず豊臣家のために関ヶ原に挑んだ」ハナシ https://busho.fun/person/mitsunari-ishida
  22. 三杯目の茶碗は高価な小茶碗で、湯は舌が焼けるほど熱く量はほんの僅かであった。秀吉はこの少年の気配りに感心して長浜城へ連れ帰ったと云う。 https://www.seiseido.com/goannai/sankencha.html
  23. 石田三成の逸話 - asahi-net.or.jp https://www.asahi-net.or.jp/~ia7s-nki/knsh/itsuwa/itsuwa.htm
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  25. 12.佐和山城祉(名城と謳われた石田三成居城) | 須賀谷温泉のブログ https://www.sugatani.co.jp/blog/?p=1243
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  34. 関ヶ原の戦いで加増・安堵された大名/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/41119/
  35. 小早川秀秋、「関ケ原の裏切者」とか「農民にキンタマ蹴られて死亡」とか、その評価が酷すぎる件 https://note.com/takatoki_hojo/n/nd149920176d7
  36. 石田三成の「過ぎたる」城<佐和山城> https://geo.d51498.com/qbpbd900/sawayama.html
  37. どこにいた家康 Vol.43 佐和山城 - 武将愛 https://busho-heart.jp/archives/12971
  38. シガリズム体験>石田三成・佐和山城の謎に迫る⁉ プレミアムツアーに参加してきました! https://www.biwako-visitors.jp/staff/blog/detail/srt-sawayamatour/
  39. 石田三成の城 佐和山城 | 滋賀県観光情報[公式観光サイト]滋賀 ... https://www.biwako-visitors.jp/course/detail/10/
  40. 逃げ切れず、ついに捕まった三成 - BEST TiMES(ベストタイムズ) https://www.kk-bestsellers.com/articles/-/701/
  41. 14.古橋(敗者・石田三成の最期を追う) | 須賀谷温泉のブログ https://www.sugatani.co.jp/blog/?p=1355
  42. 石田三成のその後 http://www.m-network.com/sengoku/sekigahara/sonogo01.html
  43. 【関ヶ原の舞台をゆく④】本戦と連動して発生した攻城戦~決戦にも強い影響を及ぼした名城三合戦 https://shirobito.jp/article/518
  44. 慶長5年(1600)9月21日は関ヶ原合戦で敗走していた石田三成が捕縛された日。斬首される前の三成に有名な逸話がある。警固兵に白湯を所望したがないため干柿を勧められると痰の毒と断り嘲笑される。 - note https://note.com/ryobeokada/n/nabc31701c2c4
  45. 石田三成、その人物像とは - 滋賀県 https://www.pref.shiga.lg.jp/kensei/koho/koho/324454.html
  46. 石田三成の歴史 - 戦国武将一覧/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/36289/
  47. 石田三成 - 福祉タクシーやわらぎ http://fukusitaxi.net/history/isida/new31a.html
  48. 戦国武将の辞世の句10選!有名・マイナーな武将たちの最後の言葉 - 戦国 BANASHI https://sengokubanashi.net/history/samurai-death-poem/
  49. 三成抄 第四章 - Visit Omi ようこそ近江へ https://visit-omi.com/jp/people/article/ishidamitsunari-episode-04
  50. 著名人が遺した辞世の句/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/historical-last-words/
  51. 石田三成 ~徳川政権下によってゆがめられた人物像に迫る~ - 横浜歴史研究会 https://www.yokoreki.com/wp-content/uploads/2023/12/20231204%E6%A8%AA%E6%AD%B4%E7%A0%94%E7%A9%B6%E7%99%BA%E8%A1%A8%E3%83%AC%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%A1%EF%BC%88%E7%9F%B3%E7%94%B0%E4%B8%89%E6%88%90%EF%BC%89.pdf
  52. 「伝承のなかの戦国 ―古城図・布陣図・合戦記―」 - 彦根城博物館 https://hikone-castle-museum.jp/cms/wp-content/uploads/2020/05/ac0e6bc7f4be04581592761f6f945607-2.pdf