最終更新日 2025-08-26

信貴山城の戦い(1577)

信貴山城の戦い(1577年):畿内最後の梟雄、松永久秀の終焉

序章:天正五年の畿内 ― 最後の反逆者が立つとき

天正五年(1577年)、織田信長の天下布武事業は、その頂点へと向かう過程にあった。天正三年(1575年)の長篠の戦いにおいて、宿敵武田氏の精強な騎馬軍団を鉄砲隊の組織的運用によって打ち破り、その武威は日本全土に轟いていた。しかし、信長の支配は未だ盤石ではなかった。足元である畿内では、石山本願寺との十年にも及ぶ死闘(石山合戦)が泥沼化し、織田軍の多大な兵力と資源を消耗させ続けていた 1 。西に目を向ければ中国地方の雄・毛利輝元が、北陸に目を転じれば「軍神」と謳われた上杉謙信が、それぞれ強大な勢力を保ち、信長への敵意を隠そうとはしなかった 3 。信長の天下は、一つの敗戦が連鎖的な反乱を誘発しかねない、薄氷を踏むような緊張感の上に成り立っていたのである。

この危うい均衡の中、畿内で最後の、そして最大の反逆の狼煙を上げようとする人物がいた。松永久秀。三好長慶の家臣という身分から成り上がり、主家の実権を掌握し、ついには室町幕府十三代将軍・足利義輝を弑逆、さらには東大寺大仏殿を焼き払ったとされる「三悪事」によって、戦国の梟雄としての名を不動のものとした男である 5 。しかし、彼は単なる破壊者や裏切り者ではなかった。当代一流の文化人、特に茶人としての側面も持ち合わせており、信長が渇望したとされる名器「九十九髪茄子」や「古天明平蜘蛛」を所持し、茶の湯を通じて信長とも一定の交流を保っていた 6 。その複雑で多面的な人格は、彼の行動原理を単純な利害得失だけでは測れないものにしていた。

運命の年、1577年は、まさにこの松永久秀の謀反を軸として、各地の反信長勢力が最後の連携を見せた年であった。北陸では上杉謙信が能登・加賀へと南下し、織田軍の主力を引きつけ、西では毛利氏が水軍を動かして石山本願寺への兵站を維持しようと試みる。久秀の反乱は、この巨大な反信長包囲網の文脈の中でこそ、その真の意味を理解することができる。それは個人的な不満による単独の暴発ではなく、天下の趨勢を見極めた上での、計算され尽くした最後の賭けだったのである 1 。信長の権力基盤が「利用」の段階から「完全支配」の段階へと移行する中で、旧世代の権力者であった久秀は、自らの存在価値と権威が根底から覆されることを許容できなかった。彼の反乱は、失われゆく自らの「地位」を守るための、必然的な抵抗であったとも言える 10

第一章:決裂への道程 ― 松永久秀、最後の賭け

大和国支配を巡る宿怨:筒井順慶の守護就任という「最後の一線」

松永久秀が信長に対して二度目の反旗を翻した直接的な引き金は、長年の宿敵であった筒井順慶の大和守護就任であった 9 。大和国における松永氏と筒井氏の対立は、永禄年間から十数年にわたって繰り広げられた根深いものであった。両者は筒井城を巡って幾度となく攻防を繰り返し 11 、辰市の戦いでは激しい合戦を繰り広げるなど、その怨恨は骨の髄まで染み渡っていた 13

信長が上洛した当初、久秀はその力を利用して大和における支配を維持していた 14 。しかし、一度目の謀反(1573年)を経て信長の信頼を失い、その影響力は徐々に削がれていった。そして天正四年(1576年)、石山合戦で大和方面の司令官であった塙直政が戦死すると、その後任として信長が指名したのは、あろうことか筒井順慶だったのである 9 。これは久秀にとって、単なる人事異動ではなかった。それは、大和国における自らの全ての権益、そして武将としての名誉と自尊心を根こそぎ剥奪されるに等しい、決定的な屈辱であった。信長がもはや自分を対等なパートナーではなく、統制すべき一武将としか見ていないという事実を、これ以上ない形で突きつけられた瞬間であった。この措置が、老獪な久秀に「もはや信長の下では再起不能である」と悟らせ、謀反へと向かわせる内的な動機を決定づけたのである。

外部情勢への期待:久秀の描いた勝算

しかし、プライドを傷つけられたという感情だけが、久秀を無謀な反乱へと駆り立てたわけではない。彼には、勝算があった。その最大の希望は、北陸から破竹の勢いで南下する上杉謙信の存在であった 9 。久秀が天王寺砦を焼き払って決起したのが天正五年八月十七日。その約一ヶ月後、九月二十三日には、謙信が手取川で柴田勝家率いる織田軍に圧勝するという報せがもたらされる 16 。この時系列の一致は、両者の間に何らかの密約や連携があった可能性を強く示唆している。

久秀が描いた戦略は、こうであったと推察される。まず、自らが信貴山城に籠城することで、畿内における織田軍の兵力を引きつける。その間に、手取川の勝利で勢いに乗る上杉謙信が、加賀・越前から本格的に畿内へと進撃する。信長は北陸の主力軍団を動かせず、東西から挟撃される形となり、さらに石山本願寺がこれに呼応すれば、信長包囲網は完成する。久秀の反乱は、この壮大な戦略構想の一部であり、自らの籠城戦は、謙信が畿内に到達するまでの「時間稼ぎ」と位置づけられていた。内的な「絶望」と、外的な「希望」が交差したこの瞬間に、久秀は生涯最後の、そして最大の賭けに出ることを決断したのである。

天正5年8月17日:決起

天正五年八月十七日、松永久秀は行動を開始した。当時、彼は石山本願寺攻めの拠点の一つであった天王寺砦(現在の大阪市天王寺区)の守備についていたが、突如としてこの砦に火を放ち、放棄した 9 。そして、嫡男の松永久通と共に、かねてよりの居城であり、大和と河内の国境に聳える要害・信貴山城へと撤退し、籠城の構えを見せたのである。この行動は、信長に対する明確かつ後戻りの出来ない決別の意思表示であった。

『和州諸将軍伝』によれば、この時久秀が率いていた兵力は「騎馬三百余其勢八千余人」とされ、決して少なくない軍勢であった 9 。これは、外部からの援軍を待ち、長期間の籠城戦を戦い抜くという彼の固い決意の表れでもあった。信貴山城に入った久秀は、休む間もなく城の防御施設をさらに強化するための改修工事に着手し、織田の大軍を迎え撃つ準備を始めたのであった 9

第二章:戦いの舞台 ― 天空の要塞、信貴山城

「城名人」久秀の最高傑作

松永久秀は、戦国時代を代表する築城の名手としても知られ、「城名人」「近世式城郭建築の祖」とまで評されることがある 9 。彼が奈良に築いた多聞山城は、御殿のような居住空間と軍事的な防御施設を一体化させた画期的な城郭であり、後の安土城天守のモデルになったとも言われている。その久秀が、自らの生涯を締めくくる最後の舞台として選び、さらに改修を加えたのが信貴山城であった。

信貴山城は、標高437メートルの信貴山雄岳山頂に築かれた天然の要害である 18 。大和盆地と河内平野を一望できる戦略的要衝に位置し、その険しい地形は大軍による力攻めを容易に許さない。久秀はこの城の圧倒的な防御力を信頼し、織田の大軍を長期間にわたって足止めできると確信していた。信貴山城の選定と籠城直後の改修は、上杉謙信の南下を待つという彼の持久戦略そのものを物理的に体現したものであり、城の構造自体が久秀の戦略的意図の表れだったのである。

縄張りの分析 ― 放射状の曲輪群

信貴山城の構造的な最大の特徴は、山頂の主郭を中心に、複数の尾根に沿って曲輪群が放射線状に配置されている点にある 18 。残された縄張り図を分析すると、この配置が極めて高度な防御思想に基づいていることがわかる。敵がどの方向の尾根から攻め上がってきても、隣接する尾根上の曲輪から側面攻撃(横矢)を浴びせることができる。これにより、攻撃側は常に複数の方向からの射撃に晒されることになり、兵力を効率的に削られてしまう。

さらに、各曲輪は深い堀切や高い土塁によって厳重に区画されており、一つの曲輪が突破されても、次の曲輪で抵抗を続けることが可能であった 19 。一部には石垣も用いられており、当時の山城としては最新鋭の防御設備を備えていたことが窺える 20 。まさに、城全体が敵を消耗させるための巨大な罠として設計されており、「城名人」久秀の面目躍如たる天空の要塞であった。

籠城軍の構成と士気

この難攻不落の城に、松永久秀・久通父子を筆頭に、約8,000の兵が籠城した 9 。その中には、海老名勝正や森秀光、飯田基次といった歴戦の家臣たちが含まれていた 9 。彼らは、梟雄として恐れられた主君・久秀のカリスマ性に引かれ、最後まで運命を共にすることを誓った精鋭であり、籠城当初の士気は極めて高かったと推察される。彼らは、主君が描く壮大な戦略を信じ、上杉謙信という援軍の到来を待ちわびながら、織田の大軍を迎え撃つ覚悟を決めていた。しかし、その一方で、籠城軍の中にはかつて筒井氏に仕えていた者なども含まれており、見えざる内部崩壊の火種を抱えていたことも、後の運命を決定づける一因となるのである。

第三章:合戦詳報 ― 刻一刻と迫る織田の大軍

表1:信貴山城の戦い 詳細年表

日付(天正5年)

松永方の動向

織田方の動向

外部情勢・その他

8月17日

天王寺砦を焼き払い、信貴山城へ籠城(兵力約8,000)

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8月18日以降

信貴山城の改修・防御強化に着手

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9月下旬

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先遣隊(明智光秀、細川藤孝、筒井順慶ら)を派遣、法隆寺に布陣

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9月23日

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手取川の戦い。柴田勝家軍が上杉謙信軍に敗北。

10月1日

支城・片岡城で防戦するも、城将・海老名勝正らが討死し落城

筒井順慶を主力とする先遣隊が片岡城を攻略

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10月3日

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信長、謙信の南下停止の報を受け、嫡男・信忠を総大将とする主力軍の投入を決定

柴田勝家より、上杉謙信が進軍を停止したとの報告が届く。

10月4日

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『多聞院日記』に「信貴山ヒサ門堂燃え」との記述。

10月5日

飯田基次らが城外へ討って出て奮戦

信忠率いる本隊(総兵力約40,000)が到着し、信貴山城への総攻撃を開始。信長は人質(久秀の孫2名)を六条河原で処刑。

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10月7日

森好久が援軍要請のため石山本願寺へ向かう

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10月8日

森好久が鉄砲衆200名を連れ帰城

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森好久、筒井順慶の調略を受け内応。

10月9日

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『多聞院日記』に「夕六ツ過ヨリ信貴城猛火天二耀テ見了」との記述。

10月10日

森好久の裏切りにより城内が混乱。天守に火を放ち、久秀・久通親子が自害。信貴山城落城。

筒井順慶を先鋒として最後の総攻撃を開始。森好久の内応により城内に放火。

久秀が東大寺大仏殿を焼いたとされる日からちょうど10年目。

表2:両軍の兵力と主要構成武将

陣営

総兵力(推定)

総大将・指導者

主要構成武将

織田軍

約40,000

織田信忠

佐久間信盛、羽柴秀吉、明智光秀、丹羽長秀、細川藤孝、筒井順慶、稲葉一鉄、氏家卜全 ほか 9

松永軍

約8,000

松永久秀、松永久通

海老名勝正、森秀光、飯田基次、森好久(後に内応) ほか 9

8月17日~9月下旬:初動 ― 籠城と包囲網の形成

久秀の決起に対し、信長の初動は迅速であったが、同時に慎重でもあった。この時点では、手取川の戦いはまだ発生しておらず、信長の最大の懸念は北陸の上杉謙信であった。そのため、主力軍団を畿内に投入することは避け、まずは畿内を拠点とする軍団を動かした。明智光秀、細川藤孝、そして久秀の宿敵である筒井順慶らを先遣隊として派遣し、信貴山城の南東に位置する法隆寺に布陣させたのである 9 。これは、信貴山城を完全に包囲するというよりは、その動きを牽制し、状況を監視するための第一陣であった。一方の久秀は、この時間を最大限に活用し、籠城に備えて城の防御能力をさらに高めるための改修工事に全力を注いでいた 9

10月1日:前哨戦 ― 片岡城の攻防

膠着状態が破られたのは十月一日であった。織田軍の先遣隊は、信貴山城の重要な支城である片岡城への攻撃を開始した 9 。攻撃の主力となったのは、地の利を熟知し、松永への積年の恨みを晴らす機会を窺っていた筒井順慶の軍勢であった 24 。片岡城を守る城将・海老名勝正、森秀光らは約1,000の兵で激しく抵抗し、筒井勢にも死者が出るほどの激戦となった 9 。しかし、兵力で勝る織田軍、とりわけ順慶の軍勢の猛攻の前に、ついに城は陥落。海老名、森を含む150名以上の将兵が討死した 9 。この片岡城の失陥は、信貴山城を守る外郭が破られたことを意味し、久秀にとって大きな打撃となった。

10月3日~4日:戦局の転換点 ― 信長の決断

十月三日、安土城の信長の下に、戦局全体を決定づける報せが届いた。北陸方面軍の総大将・柴田勝家からの使者であった。その内容は、「九月二十三日の手取川の戦いで当方に勝利した上杉謙信であったが、その後、能登の七尾城からそれ以上南下する気配はなく、進軍を停止している」というものであった 9

この情報を得た信長の判断は、神速であった。彼は、謙信の脅威は一時的に去り、越後での越冬準備に入るだろうと瞬時に判断した。そして、戦略を劇的に転換する。北陸方面に備えさせていた嫡男・織田信忠を総大将とする主力軍団、すなわち佐久間信盛、羽柴秀吉、丹羽長秀といった織田軍の中核を成す武将たちを、そっくりそのまま信貴山城攻めへと投入することを命令したのである 9 。これにより、信貴山城を包囲する織田軍の総兵力は、先遣隊と合わせて一気に40,000という大軍に膨れ上がった。久秀が勝利の最大の前提としていた「上杉謙信の南下」という希望が、完全に潰えた瞬間であった。

10月5日~9日:総攻撃と心理戦

十月五日、織田信忠率いる本隊が戦場に到着し、40,000の兵による信貴山城への怒涛の総攻撃が開始された 9 。織田軍は城下に火を放ち、堅固な山城を幾重にも取り囲んだ。信長は、この圧倒的な軍事力による圧力と並行して、久秀の心を折るための非情な心理戦を仕掛けた。安土城で人質として預かっていた久秀の二人の孫(当時12歳と13歳)を京の市中を引き回しの上、六条河原で斬首に処したのである 5 。これは、久秀に降伏や助命といった選択肢は一切存在しないことを、戦場の兵士たち、そして天下に示すための冷徹な一手であった。

しかし、天空の要塞は容易には落ちなかった。久秀軍もまた、死に物狂いの抵抗を見せる。武将・飯田基次が率いる部隊が城から討って出て、織田軍に数百人の手負いや死者を出すなど、その士気は衰えていなかった 9 。『信長公記』は、総大将である信忠が自ら「鹿の角の兜を振り立て攻めのぼった」と記しており、若き後継者が険しい山をものともせず、勇猛に軍を指揮した様子を伝えている 23 。戦いは一進一退の攻防となり、一時的に持久戦の様相を呈した。

10月10日:梟雄の最期 ― 信貴山城、炎上

十月十日、夜明けと共に、織田軍による最後の総攻撃が開始された。この日の攻撃の最前線に立つことを許されたのは、宿敵・筒井順慶であった 9 。彼は信忠の許可を得て、長年の怨念に終止符を打つべく、自ら兵の先頭に立って城門へと殺到した。松永軍も弓と鉄砲で応戦し、門からも討って出て激しく抵抗、筒井隊は一度押し返されるほどの熾烈な戦いとなった 9

まさにその時、戦いの趨勢を決する事態が城内で発生した。天守に近い三の丸付近から、突如として黒煙が上がったのである 9 。これは、かねてより筒井順慶が調略を進めていた松永方の武将・森好久の裏切りであった。森好久は元々筒井氏の家臣であり、順慶の部将・松倉重信を通じて内応。石山本願寺からの援軍と偽って連れてきた鉄砲隊200名と共に城内に放火し、織田軍に寝返ったのである 9

内部からの崩壊は、松永軍の指揮系統を完全に麻痺させた。もはや万策尽きたことを悟った松永久秀は、嫡男・久通と共に、自らが築き上げた四層の天守櫓へと登った。そして、信長が最後まで欲しがった名器「古天明平蜘蛛」を打ち砕くと、天守に火を放ち、親子共々自害して果てた。享年68歳であった 9

炎上する信貴山城の様相は、興福寺の僧侶・英俊がその日記『多聞院日記』に、「夕六ツ過ヨリ信貴城猛火天二耀テ見了(午後6時過ぎから信貴山城の猛火が天に照り映えるのが見えた)」と、生々しく記録している 9 。奇しくもこの十月十日という日付は、十年前の永禄十年(1567年)に、久秀が東大寺大仏殿を焼き払ったとされる日と全く同じであった 5 。人々はこれを仏罰だと噂し、裏切りを重ねた梟雄の悪行の報いだと囁き合ったという 5 。この戦いの勝敗を分けたのは、兵力差以上に、信長が掴んだ「情報」と、順慶が仕掛けた「調略」であった。久秀は軍事的には善戦したものの、情報戦と謀略戦において、織田・筒井連合に完敗したのである。

第四章:主要人物の動向と役割

指揮官・織田信忠:父の期待に応えた後継者

この信貴山城の戦いは、織田信忠が織田家の後継者としての器量を天下に示した、極めて重要な戦いであった。かつては徳川家康の嫡男・松平信康と比較され、凡将との評価も一部には存在したが 29 、天正三年(1575年)の岩村城攻めでの戦功に続き 30 、この戦いでは40,000という大軍の総大将を見事に務め上げた 31 。父・信長の戦略的意図を正確に理解し、羽柴秀吉や明智光秀といった老練な宿将たちをまとめ上げ、迅速に城を攻略したその采配は、疑いなく名将のものであった。信長が意図的に信忠に大役を任せたのは、彼に経験と実績を積ませるための「世代交代」の一環であり、信忠はその期待に完璧に応えたのである。

宿敵・筒井順慶:長年の抗争に終止符を打つ

筒井順慶にとって、この戦いは単なる信長への奉公ではなかった。それは、松永久秀という一個人と、大和一国の覇権を賭けて繰り広げてきた十数年に及ぶ私闘の最終決戦であった 12 。彼はこの戦いで、攻城の先鋒という最も危険な役割を自ら買って出た。前哨戦である片岡城攻略を主導し 24 、最後の決め手となった森好久の調略を成功させるなど 9 、彼の執念と、大和国人としての地理的・人的な地の利がなければ、難攻不落の信貴山城の攻略はさらに長引いた可能性が高い。戦後、久秀の遺骸を手厚く葬ったという逸話も伝わっており 25 、長年の宿敵に対する複雑な感情を窺わせる。この戦いは、大和における旧世代の梟雄・松永久秀の時代が終わり、信長という新しい権威を後ろ盾とする新世代の支配者・筒井順慶の時代が始まる、「権力交代」を象徴する出来事でもあった。

反逆者・松永久秀:美学に殉じた最期

松永久秀の最大の誤算は、上杉謙信の能力と意図を過大評価し、自らの戦略の前提としてしまったことであった。謙信が手取川の勝利の勢いを駆って畿内へ進撃するというシナリオは、結果として幻想に終わった。これにより、久秀の描いた戦略は根底から崩壊し、彼は信貴山城という籠の中で孤立無援となった。追い詰められた状況下で、信長は名器「古天明平蜘蛛」を差し出せば助命するという、最後の機会を与えたとされる 7 。しかし、久秀はこれを拒絶。「平蜘蛛の釜とわが首を同時に信長に差し出すことはせぬ」と述べ、自らの美学を貫いて死を選んだ 7 。その壮絶な最期は、主家を乗っ取り、将軍を弑逆し、常に自らの意志と欲望に忠実に生きてきた彼の生き様そのものを、鮮烈に象徴していた 34

第五章:伝説と真実 ― 「平蜘蛛茶釜」爆死の謎

松永久秀の最期として、あまりにも有名なのが、名器「古天明平蜘蛛」の茶釜に火薬を詰め、もろとも爆死したという壮絶な逸話である。しかし、この「爆死」は果たして歴史的な事実なのであろうか。

一次史料の記述:「切腹」と「焼死」

まず、合戦と同時代に記された信頼性の高い史料を検証すると、「爆死」という記述は一切見当たらない。興福寺の僧侶・英俊による『多聞院日記』や、公家・吉田兼見の『兼見卿記』といった一次史料では、久秀親子の最期は「切腹」し、城に「放火」した、あるいは「焼死」したと記録されている 9 。さらに『多聞院日記』には、落城後に久秀のものを含む首四つが安土城に送られたと記されており、これは遺体が木っ端微塵になったとする爆死説とは明確に矛盾する 9 。これらの史料から判断する限り、久秀の史実としての最期は、天守に火を放った上での自害であった可能性が極めて高い。

伝説の形成過程

では、「爆死」という伝説はどこから生まれたのか。その源流は、江戸時代初期に成立した軍記物語『川角太閤記』に見出すことができる。そこには、久秀が平蜘蛛を「鉄砲の薬にてやきわり、みじんにくだけければ」と記されている 9 。これは、信長に渡すくらいならと茶釜を破壊した行為が、より劇的に表現されたものである。信頼性の高い太田牛一の『信長公記』では単に「うちくだき」と表現されているものが、時代が下るにつれて物語的な脚色が加わり、「火薬で破壊」から、ついには「茶釜と自分自身の同時爆破」へと、物語がエスカレートしていった過程が窺える。昭和期の歴史学者・桑田忠親の著作ですら、年代によって「自害」から「自爆」へと表現が変化しており、この伝説が徐々に定着していった様子がわかる 9

なぜ爆死伝説は受け入れられたのか

この劇的な伝説が、史実以上に広く人々に受け入れられた背景には、松永久秀という人物が持つ特異なパブリックイメージが大きく影響している。将軍を殺し、大仏を焼き、幾度となく主君を裏切ったとされる空前絶後の「梟雄」「破壊者」には、常人と同じような死に様はふさわしくない。天変地異のような、規格外の壮絶な最期こそが彼の人生のフィナーレにふさわしいと、後世の人々が考えた結果であろう 35 。名器と共に自らを爆散させるという行為は、信長への最後の反骨精神と、彼独自の美学を象徴する、完璧な「物語」として受容されたのである 33 。現代の専門的な研究では、この爆死説は第二次世界大戦後に創作され広まった俗説であると結論付けられているが 9 、それは歴史的事実が、いかにして人々の記憶に残る「伝説」へと昇華されていくかを示す、格好の事例と言えるだろう。

終章:戦後の影響と歴史的意義

信貴山城の戦いは、一人の梟雄の死というだけにとどまらず、織田信長の天下統一事業全体において、極めて重要な画期となる戦いであった。

織田軍の士気回復と戦略の再始動

まず、この戦いの直前に起こった手取川の戦いでの敗北は、織田軍の不敗神話を揺るがし、その士気を一時的に低下させていた。しかし、信貴山城での圧倒的な勝利は、その敗戦の空気を完全に払拭し、軍の士気を大いに高める結果となった 9 。そして何よりも、長年にわたって信長を苦しめてきた畿内における最後の懸念材料が、この戦いによって完全に取り除かれた。これにより、信長は後顧の憂いなく、天下統一の次の戦略的段階へと進むことが可能となった。この直後、羽柴秀吉は播磨へと進駐して本格的な中国攻めを開始し、明智光秀と細川藤孝は第二次丹波攻めに乗り出すなど、各方面軍の活動が本格化していく 9 。この戦いは、信長の戦略が畿内という「内」の平定から、西国や北陸といった「外」の征服へと、明確に転換する起点となったのである。

畿内の完全平定と大和国統治体制の確立

松永久秀の滅亡は、足利義昭を追放して以降も燻り続けていた、畿内における反信長勢力の象徴的な終焉を意味した。石山本願寺は依然として抵抗を続けていたものの、彼らと連携しうる有力な武将が畿内から一掃されたことで、その孤立は決定的なものとなった。そして大和国では、この戦いの最大の功労者である筒井順慶が、名実ともに一国を支配する領主としての地位を確立した 32 。彼は信長の忠実な家臣として大和を統治し、織田政権の安定に大きく貢献していくことになる。ここに、戦国の動乱の中で下剋上を体現した松永久秀の時代は完全に終わりを告げ、大和は新たな支配者の下で、近世的な秩序へと再編されていったのである。信貴山城の炎は、一つの時代の終わりと、新しい時代の幕開けを告げる狼煙でもあった。

引用文献

  1. 日本史/安土桃山時代 - ホームメイト - 名古屋刀剣ワールド https://www.meihaku.jp/japanese-history-category/period-azuchimomoyama/
  2. 本願寺と一向宗(浄土真宗)の拡大 https://id.sankei.jp/wave/resume/%E6%9C%AC%E9%A1%98%E5%AF%BA%E3%81%A8%E4%B8%80%E5%90%91%E5%AE%97%EF%BC%88%E6%B5%84%E5%9C%9F%E7%9C%9F%E5%AE%97%EF%BC%89%E3%81%AE%E6%8B%A1%E5%A4%A7.pdf
  3. 手取川の戦い古戦場:石川県/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/dtl/tedorigawa/
  4. 石山合戦 顕如と信長との死闘の11年 - 戦国未満 https://sengokumiman.com/kennyotoishiayakasen.html
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  6. 松永久秀 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%B0%B8%E4%B9%85%E7%A7%80
  7. 日本史上最悪の男?~松永久秀 – Guidoor Media | ガイドアメディア https://www.guidoor.jp/media/matsunagahisahide/
  8. 信貴山城 | 奈良の城 | 奈良県歴史文化資源データベース「いかす・なら」 https://www.pref.nara.jp/miryoku/ikasu-nara/naranoshiro/shigisanjo/
  9. 信貴山城の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%A1%E8%B2%B4%E5%B1%B1%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  10. 信長を二度裏切った松永久秀が執着した「地位」 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/35964
  11. 筒井城の戦い古戦場:奈良県/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/dtl/tsutsuijo/
  12. 洞ケ峠で有名な筒井順慶とは、どんな人物だったのか - WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/4184
  13. 筒井順慶は何をした人?「洞ヶ峠を決め込んで光秀と秀吉の天王山を日和見した」ハナシ https://busho.fun/person/junkei-tsutsui
  14. 松永久秀と刀/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/10528/
  15. 松永久秀はなぜ、織田信長に裏切りの罪を許されたのか? - WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/7738
  16. 【解説:信長の戦い】手取川の戦い(1577、石川県白山市) 唯一の 織田 vs 上杉の戦い。謙信にとって信長軍は弱かった!? | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/415
  17. 信貴山城へ行ってきました(信貴山城編)|ぐこ - note https://note.com/good5_/n/n8e791ee2b1e9
  18. 松永久秀 壮絶最期の舞台となった信貴山城と新発見の肖像画で ... https://serai.jp/hobby/1015511
  19. 信貴山城跡:近畿エリア - おでかけガイド https://guide.jr-odekake.net/spot/14551
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  21. 織田信長公三十六功臣 | 建勲神社 https://kenkun-jinja.org/nmv36/
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  24. 筒井順慶とは何者か - 大和徒然草子 https://www.yamatotsurezure.com/entry/junkei_x
  25. 筒井順慶 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AD%92%E4%BA%95%E9%A0%86%E6%85%B6
  26. 信貴山城の戦い - BIGLOBE https://www7a.biglobe.ne.jp/echigoya/ka/ShigisanJou.html
  27. 信貴山城(奈良県生駒郡平群町大字信貴山) - 西国の山城 http://saigokunoyamajiro.blogspot.com/2017/04/blog-post.html
  28. なぜ松永久秀は誤解されていたのか―三悪説話に反駁する https://monsterspace.hateblo.jp/entry/matsunagahisahide
  29. 織田信忠とは? わかりやすく解説 - Weblio国語辞典 https://www.weblio.jp/content/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E5%BF%A0
  30. 織田信忠 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E5%BF%A0
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