八上城の戦い(1575~80)
明智光秀は、丹波の難攻不落八上城を付け城と兵糧攻めで攻略。波多野氏を滅ぼし丹波を平定した。この勝利は光秀を方面軍司令官へと押し上げ、後の本能寺の変へと繋がる力を与えた。
丹波平定の天王山「八上城の戦い」詳細報告書:明智光秀の築城線と兵糧攻めの実相
序章:戦いの序曲 ― なぜ丹波が、なぜ八上城が標的となったのか
織田信長の天下布武と丹波国の地政学的重要性
天正年間、織田信長の「天下布武」事業は、畿内をほぼ掌握し、その版図を西へと拡大する新たな段階に入っていた。この壮大な構想において、丹波国(現在の京都府中部、兵庫県東部)は、単なる一地方ではなく、極めて重要な戦略的価値を持つ地域として位置づけられていた。丹波は、王都・京都に直接隣接しており、その安定は織田政権の足元を固める上で不可欠であった 1 。さらに、信長の視線が西国の雄・毛利氏との全面対決に向けられる中、丹波は山陰道を通じて中国地方へ進出するための兵站基地、そして進撃路の起点となる最重要拠点であった 2 。
しかし、丹波は一筋縄でいく地ではなかった。古くから中央の支配者を拒み続けてきた独立心旺盛な国人衆が各地に割拠し、複雑な勢力図を形成していたのである 1 。信長にとって、この丹波を完全に平定することは、織田政権の支配力を内外に示す試金石であり、対毛利戦略を推進するための絶対条件であった。
第一次丹波攻めの失敗と波多野秀治の裏切り
天正3年(1575年)10月、織田信長は重臣・明智光秀を総大将に任じ、丹波攻略の軍を発した 3 。当初、光秀の丹波侵攻は順調に進むかに見えた。丹波国人の大半は織田方の威勢に服し、多紀郡(現在の兵庫県丹波篠山市)に本拠を置く有力国人・波多野秀治もまた、光秀に協力する姿勢を示していた 3 。光秀はこれらの国人衆を率い、信長に反抗する「丹波の赤鬼」の異名を持つ赤井(荻野)直正の居城・黒井城(兵庫県丹波市)を包囲。落城は時間の問題と誰もが考えていた 3 。
ところが、年が明けた天正4年(1576年)1月、戦況は突如として暗転する。味方であったはずの波多野秀治が、織田軍の背後から急襲を仕掛けたのである 6 。赤井直正の妻は波多野氏の娘であり、両氏は強固な縁戚関係で結ばれていた 6 。この密約に基づくとされる裏切りにより、光秀軍は完全に不意を突かれ、挟撃される形となった。軍は壊滅的な打撃を受け、光秀自身も九死に一生を得て京へと敗走する 4 。この「黒井城の戦い」における惨敗は、光秀にとって生涯忘れ得ぬ屈辱となっただけでなく、信長に対して丹波国人の結束力と、単純な軍事力だけでは平定できないこの地の複雑さを痛感させる結果となった。
第二次丹波攻め:雪辱と殲滅への意志
第一次攻勢の失敗は、織田政権の丹波戦略を根本から見直させる契機となった。一時的な服従や協調路線では、国人たちの結束を断ち切ることはできない。抵抗勢力を物理的に、そして完全に無力化する「殲滅」こそが、新たな戦略目標として設定された。
特に、総大将であった光秀にとって、この第二次丹波攻めは、自身の軍事的評価を回復し、織田家臣団内での地位を確固たるものにするための雪辱戦であった。波多野秀治の裏切りは、光秀の丹波攻略戦術を「懐柔・協調」から「包囲・殲滅」へと根本的に転換させる決定的な引き金となったのである。一度は味方についた国人衆を信用することの危うさを骨身に染みて学んだ光秀は、もはや調略や交渉に頼るのではなく、物理的に抵抗不能な状況に追い込む非情な戦術を選択する。この戦略転換の先にあったのが、丹波平定の天王山となる「八上城の戦い」であった。この戦いの勝利こそが、後の丹波一国拝領、ひいては方面軍司令官への道を開くことになるのである。
第一章:戦いの舞台 ― 難攻不落の要塞、八上城とその支城網
丹波富士・高城山の地形を活かした山城の構造
波多野氏の本拠・八上城は、「丹波富士」とも称される秀麗な高城山(たかしろやま、標高462m)の山頂から尾根筋にかけて築かれた、戦国期を代表する大規模な山城である 5 。山全体が天然の要塞であり、急峻な斜面や深い谷といった自然地形を巧みに利用した堅固な防御施設を誇っていた 9 。
城の中核部は山頂に置かれ、本丸(約900㎡)を中心に、二の丸(約150㎡)、三の丸(約550㎡)、そして東に張り出した岡田丸(約800㎡)といった主要な曲輪(くるわ)が、尾根に沿って連なる連郭式で配置されていた 10 。これらの曲輪はそれぞれが独立した防御拠点として機能しつつ、相互に連携して敵の侵攻を段階的に阻むよう設計されていた。現在でも、自然石をそのまま積み上げた野面積みの石垣や、兵士が駐屯した曲輪の平坦面、そして尾根筋を断ち切って敵の進軍を妨げる堀切(ほりきり)といった遺構が多数確認されており、その防御思想の巧みさを今に伝えている 11 。
波多野氏の広域防衛ネットワーク:支城網の存在
八上城の真の強さは、城単体の堅固さのみに由来するものではなかった。それは、周辺に配置された多数の支城群と一体化した、広域防衛システムの中核として機能していた点にある 14 。
麓の奥谷と呼ばれる谷を挟んで西側の法光寺山には法光寺城が、また八上城の原型とされ、城下町の防衛を担う奥谷城(蕪丸城)が配置され、本城・支城・城下町が三位一体となった重層的な防御体制を構築していた 8 。
さらにその外縁には、波多野氏の家臣団が守る支城が網の目のように張り巡らされていた。例えば、飛の山城、勝山城、谷山城、小谷城といった城砦群は、八上城へ至る街道を監視し、敵の侵攻を早期に察知・迎撃する役割を担っていた 16 。これらの支城ネットワークは、情報伝達や相互支援を通じて、敵が本城である八上城に到達する前に、その戦力を削ぎ、疲弊させることを目的としていた。明智光秀が対峙したのは、一つの城ではなく、丹波の地に根を張った巨大な城郭ネットワークそのものであった。そして、この敵の戦略を深く理解したからこそ、光秀はそれを上回る規模のネットワークで対抗するという、極めて高度な攻城戦術を展開することになるのである。
第二章:光秀の築城線 ― 八上城を封殺する巨大包囲網の構築
「付け城」戦術の戦略的意図
第一次丹波攻めの失敗から、波多野氏が構築した支城ネットワークを力攻めで突破することの困難さを学んだ明智光秀は、第二次攻勢において全く異なる戦術を採用した。それが、「付け城(つけじろ)」を系統的に活用した巨大包囲網の構築である。
付け城とは、攻城対象の城を長期間包囲するための前線基地であり、監視や攻撃の拠点となる 18 。その戦略的意図は多岐にわたる。第一に、兵糧や武器の搬入路を完全に遮断し、敵を兵糧攻めによって内部から枯渇させること。第二に、城からの脱出や外部からの救援部隊の進入を阻止し、城を完全に孤立させること。そして第三に、攻城側の兵士が安全に駐屯し、長期戦を遂行するための防御拠点としての役割である 18 。光秀は、この付け城を八上城の周囲に複数構築し、さらにそれらを柵や塀で連結することで、物理的に蟻一匹這い出る隙もない「築城線」を形成した 11 。これは物理的な封鎖であると同時に、城内に籠る将兵に「もはや逃げ場はない」という絶望感を与え、戦意を喪失させるための高度な心理戦でもあった 18 。
八上城包囲網の具体的配置と金山城の役割
天正6年(1578年)3月、光秀は丹波に再侵攻し、八上城の周囲に計画的に付け城を配置し始めた 16 。
まず、八上城の南東、現在の正覚寺背後の小山には 般若寺城 が築かれ、八上城を間近に監視し、南からの連絡路を遮断する任を負った 16 。北方では、篠山川を挟んだ丘陵に**勝山城(砦)**が置かれ、北からの補給路を断つとともに、波多野氏の牢獄があったとも伝わる戦略上の要地を制圧した 16 。
しかし、この包囲網の中で他の付け城とは一線を画す、決定的に重要な役割を担ったのが 金山城 である。天正6年9月から築城が開始されたこの城は、八上城から離れた多紀郡と氷上郡の郡境、すなわち波多野氏と赤井氏の勢力圏の境界に位置していた 21 。その最大の目的は、第一次攻勢で光秀を敗走に追い込んだ両氏の連携を、巨大な城郭によって物理的に分断することにあった 16 。金山城の築城は、光秀の戦略が単なる「八上城の包囲」から、丹波国全体の「分断統治」へと次元を引き上げた一手であり、彼の軍事思想家としての卓越性を示す象徴的な事例であった。一つの城を築くことで、丹波の抵抗勢力を二つの無力なブロックに分割し、各個撃破の態勢を完璧に整えたのである。
付け城名称 |
推定位置 |
主な戦略的役割 |
金山城 |
多紀・氷上郡境 |
波多野・赤井両勢力の分断(最重要戦略拠点) |
般若寺城 |
八上城南東 |
八上城の直接監視、南側連絡路の遮断 |
勝山城(砦) |
八上城北方 |
北方からの補給路遮断、篠山川の統制 |
(その他) |
八上城周辺 |
包囲網の隙間を埋め、完全封鎖を達成 |
第三章:合戦のリアルタイム詳解 ― 絶望の籠城と非情の攻囲
天正6年(1578年)9月~天正7年(1579年)初頭:包囲網の完成と静かなる消耗戦
天正6年(1578年)9月、播磨攻めが一段落した光秀は、満を持して八上城の本格的な攻略に着手した 24 。金山城をはじめとする付け城群の建設が急ピッチで進められ、秋が深まる頃には、八上城は外部世界から完全に遮断された陸の孤島と化した。
籠城側の波多野秀治も、徹底抗戦の構えを崩さなかった。同年2月には、商人・兵庫屋惣兵衛に対して徳政や関料免除といった特権を与え、来る籠城戦に備えて武器・弾薬・食料の調達を図っていた記録が残っている 19 。しかし、光秀の築いた厳重な包囲網は、これらの物資が城内に搬入されることをほとんど許さなかった。
一方、光秀は冬の間、居城の坂本城(滋賀県大津市)に一旦戻り、茶会を催すなど、一見すると余裕のある態度を見せていた 19 。これは単なる休息ではなく、力攻めを避け、包囲網による兵糧攻めが着実に効果を上げていることへの絶対的な自信の表れであった。戦いは物理的な戦闘よりも、兵站と情報を巡る「非対称戦争」の様相を呈し始めていた。光秀側が付け城ネットワークによって安定した兵站を維持する一方、波多野側は補給を断たれ、城内の限られた資源を日々食いつぶしていくしかなかったのである。
天正7年(1579年)春:兵糧攻めの効果と惨状の顕在化
年が明け、天正7年(1579年)の春になると、数ヶ月にわたる兵糧攻めの効果は、悲惨な形で城内に現れ始めた。城内の兵糧は完全に枯渇し、籠城していた将兵や民は、飢えをしのぐために草や木の葉、さらには牛馬の死体まで口にするという、極限状態に追い込まれていった 11 。
この状況を憂いた近隣の寺社の僧侶たちが、密かに山の尾根伝いに米を運び込もうとする試みもあった。しかし、光秀の監視網はこれを見逃さなかった。兵糧を運ぶ僧侶たちは捕らえられ、容赦なく斬首された。光秀はさらに、協力した寺社に火を放ち、焼き払うという非情な手段に打って出る 25 。これは単なる補給路の遮断に留まらず、地域社会の精神的支柱である寺社勢力を弾圧することで、波多野氏を支援する者を根絶やしにし、彼らを精神的にも完全に孤立させるための、冷徹な心理戦であった。
この頃、光秀が家臣に宛てたとされる書状には、城内の惨状が生々しく記録されている。「城内より『城を退くので命を助けてほしい』と懇願してきた」「籠城した将兵は、すでに四、五百人が飢え死にしていた。餓死者たちは顔が青く腫れて、もはや人間の体ではなかった」 19 。光秀は、落城が5日から10日のうちにあると確信していた。
天正7年(1579年)5月:殲滅戦への移行
勝利を確信した光秀は、作戦の最終段階へと移行する。その目標は、もはや単なる城の攻略ではなかった。波多野一族とその軍事力の完全な殲滅である。
同年5月6日付の書状で、光秀は驚くべき命令を下している。まず、落城時に混乱に乗じて敵兵を取り逃がすことのないよう、将兵による略奪行為(乱取り)を厳しく禁じた 19 。これは、戦果よりも敵の根絶を優先するという、彼の冷徹な意志の表れである。さらに、「敵兵の首をことごとく刎ねるように」と命じ、その首の数に応じて恩賞を与えることを約束した 19 。これは、兵士の士気を最大限に高めると同時に、波多野氏に与した者たちを一人残らず葬り去るという、凄惨な決意表明であった。八上城の戦いは、その最終局面において、慈悲のかけらもない殲滅戦へとその姿を変えたのである。
第四章:落城 ― 調略、内応、そして波多野一族の末路
城内の内部崩壊と降伏の経緯
天正7年(1579年)5月末、八上城内はもはや抵抗を継続できる状態ではなかった。極度の飢餓と外部からの救援が絶望的であるという状況は、城兵の士気を完全に破壊し、厭戦ムードが城内全体に蔓延していた 19 。飢えに耐えかねた兵士が城外に食料を求めて飛び出し、待ち構えていた光秀軍に討ち取られるという悲劇が繰り返されていた 19 。
このような内部崩壊の状況を的確に察知した光秀は、最後の仕上げとして調略を用いた。『信長公記』などの信頼性の高い史料によれば、光秀は城内の不満分子に内応を働きかけ、内部から城主を捕縛させることに成功したとされる 19 。一説には、生き残るために城兵の一部が蜂起し、城主の波多野秀治と弟の秀尚らを捕らえ、光秀に引き渡したとも伝わる 27 。いずれにせよ、武力による総攻撃ではなく、内部からの崩壊を誘うという、光秀の知略が最終的な決め手となった。
天正7年(1579年)6月1日、実に1年半近くに及んだ壮絶な籠城戦の末、難攻不落を誇った八上城はついに開城した 3 。
波多野兄弟の末路:見せしめとしての「磔刑」
降伏した波多野秀治、秀尚、そして秀香と伝わる三兄弟の運命は、過酷なものであった。彼らは捕虜としてまず京に送られ、織田権力への反逆者への見せしめとして、市中を引き回された 19 。その後、信長が待つ安土へと護送され、6月8日、安土城下の慈恩寺のはずれで磔(はりつけ)に処されたのである 6 。
この「磔刑」という処遇は、極めて異例であった。武士としての名誉ある死である切腹すら許されなかったことは、信長の裏切り者に対する峻烈な怒りと、他の潜在的な反抗勢力に対する強烈な警告を意味していた 11 。同時期に信長に反旗を翻した播磨三木城の別所長治は、城兵の助命を条件に自刃(切腹)が認められている 28 。この処遇の違いは、信長が単なる反乱よりも、一度従属した上で信義を破るという行為を、より悪質な裏切りと見なし、決して許さなかったという彼の統治思想を浮き彫りにしている。波多野兄弟の無残な死は、信義を軽んじる者への容赦ない懲罰として、戦国の世に知らしめられたのである。
第五章:戦後処理と丹波平定の完成
八上城陥落の戦略的インパクト
八上城の落城と波多野氏の滅亡は、丹波国の勢力図を一変させた。丹波国内で最大の抵抗勢力が消滅したことにより、もう一方の雄であった赤井氏の黒井城は完全に孤立無援の状態に陥った 6 。第一次攻勢で光秀を苦しめた波多野・赤井の連携は、金山城の築城と八上城の陥落によって完全に断ち切られたのである。
光秀は八上城攻略の勢いを駆って、ただちに軍を黒井城へと向けた。すでに城主の赤井直正は前年に病没しており、城内の士気も低下していた。光秀は同年8月9日、黒井城を攻略 3 。ここに、天正3年から足掛け5年にわたる光秀の丹波平定事業は、ついに完了した。
光秀への恩賞と方面軍司令官としての地位確立
天正7年(1579年)10月、光秀は安土城に凱旋し、信長に丹波平定の完了を報告した。信長はこの長年の苦闘の末の勝利を高く評価し、その功績を「天下に比類なし」と絶賛したと伝わる 4 。
この大功に対し、信長は光秀に丹波一国(約29万石)を恩賞として与えた。これにより光秀は、元々の所領である近江滋賀郡と合わせて、合計35万石を領する大大名へと躍進した 6 。これは、織田家臣団の中でも破格の待遇であり、彼の地位が不動のものとなったことを示している。
丹波平定の成功は、光秀を単なる一武将から、丹波・丹後を管轄する「方面軍司令官」へと昇格させた 30 。これにより彼は、北陸方面の柴田勝家、中国方面の羽柴秀吉と並ぶ、織田政権の軍事と行政を担う最重要人物の一人となったのである。しかし、この栄光が、皮肉にも3年後の悲劇への道筋をつけることになった。丹波平定によって光秀が手にした巨大な軍事的・経済的基盤は、彼が主君・信長を討つという、日本史上最大の下剋上を敢行するための「能力」そのものであった。八上城の勝利は、光秀が歴史を動かすための力を手に入れた、決定的な転換点だったのである。
終章:伝説と史実 ― 「光秀の母、人質説」の虚実を問う
「母人質・磔刑」伝説の概要
八上城の戦いを語る上で、避けて通れないのが「明智光秀の母、人質説」である。これは、江戸時代に成立した『総見記』や『柏崎物語』といった軍記物語によって広められた逸話であり、長らく本能寺の変の動機として語られてきた 19 。
その内容は、概ね次のようなものである。「攻略に手こずる光秀が、戦を早期に終わらせるため、自らの母親を人質として八上城に送り、波多野兄弟の助命を保証して降伏させた。ところが、安土に送られた兄弟を、信長が約束を反故にして磔に処してしまう。これに激怒した八上城の家臣たちは、報復として人質であった光秀の母を同じく磔にして殺害した」 6 。この母の非業の死が、光秀に信長への深い恨みを抱かせ、本能寺の変へと繋がった、という物語である 25 。
一次史料との比較検討と史実性の否定
このドラマチックな逸話は、しかしながら、現代の歴史学では史実とは見なされていない。その最大の理由は、信頼性の高い同時代の一次史料、すなわち織田家の動向を詳細に記録した太田牛一の『信長公記』や、光秀自身が残した書状の内容と、全く整合性が取れない点にある 19 。
前述の通り、一次史料が示す戦況は、光秀が兵糧攻めによって圧倒的優位に立っており、落城は時間の問題であったというものである 19 。戦況が有利な側が、交渉のために最も大切な肉親を人質として差し出すという、軍事的に不合理な行動を取る動機が存在しない 7 。また、伝説の主な出典である『総見記』は、史料的価値が低いとされる書物を基にしており、江戸時代に読者を楽しませるために創作された物語としての側面が強いと評価されている 32 。したがって、「光秀の母、人質説」は、後世に作られたフィクションであるというのが、現在の通説である。
伝説が生まれた背景の分析
では、なぜこの史実ではない伝説が生まれ、広く人々の間に受け入れられてきたのであろうか。その背景には、いくつかの要因が考えられる。第一に、本能寺の変という日本史上最大級のミステリーに対して、「母の仇討ち」という非常に分かりやすく、同情を誘う人間的な動機を与えることで、物語としての劇的効果を高めたかったという創作上の意図がある。
第二に、攻略された丹波の人々の心情である。自分たちの旧主である波多野氏が、単に力で屈したのではなく、信長の非道な裏切りによって滅ぼされたという物語は、彼らの無念を慰め、悲劇性を際立たせる効果があった。
そして第三に、明智光秀という人物が持つ多面性である。丹波で善政を敷いた名君としての顔と、主君を討った大逆人としての顔。この二つの相容れない側面を持つ人物の複雑な行動原理を、一つのドラマチックな逸話で説明しようとする民衆心理が働いた可能性も否定できない。この伝説は、歴史的事実そのものではなく、後世の人々が歴史をどのように解釈し、記憶し、物語として再構築していくかを示す格好の事例と言えるだろう。
総括:八上城の戦いが残したもの
八上城の戦いは、単なる一地方の攻城戦に留まらず、日本の戦国史において重要な意味を持つ合戦であった。
軍事史的には、付け城を系統的に活用し、敵の兵站を完全に遮断するという、織田信長の先進的な攻城戦術の完成形を示した。これは、後の豊臣秀吉による鳥取城の「渇え殺し」や高松城の水攻めといった、大規模な包囲殲滅戦の先駆けとなるものであった 33 。
明智光秀個人にとっては、この戦いは彼のキャリアにおける最大の転換点であった。単なる教養人や行政官僚としてだけでなく、冷徹な戦略家、卓越した築城技術者、そして大軍を統率する方面司令官としての多岐にわたる能力を証明したのである 1 。
そして何よりも、この戦いは本能寺の変へと直結する道程であった。八上城の勝利が光秀に与えた丹波一国という強大な権力基盤は、彼が歴史を覆す行動を起こすための、不可欠な物理的条件であった。この戦いの終結から本能寺の変まで、わずか3年。八上城の戦いは、織田政権がその絶頂期を迎え、同時にその内部から崩壊の序曲が奏でられ始めた、歴史の重要な結節点として記憶されるべきである。
引用文献
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- 丹波戦国史 第四章 ~明智光秀の丹波平定~ https://nihon.matsu.net/nf_folder/nf_Fukuchiyama/nf_tanbasengoku4.html
- 光秀苦しめた武将・波多野秀治とは - 丹波新聞 https://tanba.jp/2018/08/%E5%85%89%E7%A7%80%E8%8B%A6%E3%81%97%E3%82%81%E3%81%9F%E6%AD%A6%E5%B0%86%E3%83%BB%E6%B3%A2%E5%A4%9A%E9%87%8E%E7%A7%80%E6%B2%BB%E3%81%A8%E3%81%AF%EF%BC%8F%E5%85%B5%E5%BA%AB%E3%83%BB%E7%AF%A0%E5%B1%B1/
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- 天空の戦国夢ロマン丹波篠山国衆の山城を訪ねて - 丹波篠山市 https://www.city.tambasasayama.lg.jp/material/files/group/75/sengokuransenomichi.pdf
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- 信長と秀吉が得意だった必勝の付城戦術|戦国の城攻め https://japan-castle.website/battle/shirozeme-tsukejiro/
- 明智光秀の母と波多野三兄弟 あまりに残虐だった光秀による丹波八上城攻略の真実 https://sengoku-his.com/2413
- 般若寺城の見所と写真・100人城主の評価(兵庫県丹波篠山市) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/855/
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- 知っておきたい観光情報が盛りだくさん! - 金山城 | 観光スポット | 【公式】兵庫県観光サイト HYOGO!ナビ https://www.hyogo-tourism.jp/spot/1004
- 丹波攻略についてまとめてみた【明智光秀】 - 明智茶屋 Akechichaya https://akechichaya.com/tanba-capture/
- 八上城の戦い (1578年) - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E4%B8%8A%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84_(1578%E5%B9%B4)
- 本能寺の変の謎は、丹波篠山にあり!大河ドラマ「麒麟がくる」と丹波篠山市のゆかり https://tourism.sasayama.jp/kiringakuru-tambasasayama/
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- 平成20年度 - 丹波の森公苑 https://www.tanba-mori.or.jp/wp/wp-content/uploads/h20tnb.pdf
- 国指定史跡 三木城跡及び付城跡・土塁 - 三木市ホームページ https://www.city.miki.lg.jp/site/mikirekishishiryokan/26531.html
- 【籠城戦】従容として切腹した、若き名門家当主 https://ameblo.jp/cmeg/entry-10790021800.html
- 明智光秀は何をした人?「敵は本能寺にあり。信長の有能な参謀が謀反を起こした」ハナシ|どんな人?性格がわかるエピソードや逸話・詳しい年表 https://busho.fun/person/mitsuhide-akechi
- 敵は本能寺にはいなかった?~明智光秀の生涯 – Guidoor Media https://www.guidoor.jp/media/akechimitsuhide-tekiwahonnouji/
- 明智光秀は人質となった母親を見殺しにされたから、織田信長を討ったのか | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/387
- 八上城の見どころ - お城めぐりFAN https://www.shirofan.com/shiro/kinki/yagami/yagami.html