八王子城の戦い(1590)
八王子城の戦い(1590年):戦国終焉を告げた一日合戦の徹底分析
序章:戦国終焉の象徴、八王子城
天正18年(1590年)、日本の歴史は大きな転換点を迎えようとしていた。天下統一事業の最終段階として、豊臣秀吉がその後北条氏の征伐、すなわち「小田原征伐」に乗り出したのである。この戦役は、単なる一地方大名の攻略戦ではなかった。それは、約1世紀半にわたって続いた戦乱の世に終止符を打ち、豊臣政権による新たな天下秩序を完成させるための、最後の総仕上げであった。天正17年(1589年)10月、後北条氏の家臣である猪俣邦憲が、豊臣方である真田氏の名胡桃城を奪取した事件は、秀吉にとって待望の開戦口実となった 1 。秀吉はこれを、全国の大名に発令していた「惣無事令(私闘禁止令)」への重大な違反とみなし、後北条氏への宣戦を布告。翌天正18年、総勢22万ともいわれる、日本の歴史上類を見ない大軍を動員し、関東へと進攻を開始した 3 。
この未曾有の大軍勢を前に、後北条氏は本城である小田原城を中心とした広大な支城網をもって対抗する戦略をとった。その中でも、武蔵国西部に位置する八王子城は、極めて重要な戦略的拠点であった。甲斐国(現在の山梨県)からの主要な侵攻ルートである小仏峠を扼し、関東平野の西の玄関口を守るこの城は、単なる防衛拠点に留まらない。北条氏康の三男であり、一門最強の武将と謳われた北条氏照の居城として、後北条氏の武威と権勢を象徴する城でもあったのだ 1 。この城の存在そのものが、小田原城の最終防衛線であり、関東支配の要であった。
しかし、この八王子城を巡る戦いは、豊臣秀吉の周到な戦略眼によって、単なる軍事攻略以上の意味合いを帯びることになる。秀吉の目的は、城を無傷で手に入れることではなかった。むしろ、歴戦の精鋭である前田・上杉軍を投入し、この難攻不落と見られた要塞を徹底的に、そして見せしめのように殲滅することにあった 5 。これは、小田原城に籠城する後北条氏の首脳部、そして未だ去就を決めかねている関東の諸勢力に対し、豊臣政権への抵抗がいかに無意味で悲惨な結末を招くかを、鮮烈に知らしめるための戦略的パフォーマンスであった。八王子城の戦いは、豊臣秀吉によって周到に演出された「見せるための戦争」であり、その悲劇は、戦いの必然的な帰結として、あらかじめ運命づけられていたのである。本稿では、この戦国時代最後の悲劇の一つである「八王子城の戦い」について、その背景、城郭構造、戦闘の経過、そして後世に与えた影響までを、時系列を重視しながら徹底的に解明していく。
第一部:戦いの舞台 ― 要塞・八王子城の実像
八王子城の戦いを理解するためには、まずその舞台となった城郭そのものの特質を深く掘り下げる必要がある。八王子城は、単なる防御施設ではなく、城主・北条氏照の経験と、時代の最新技術、そして後北条氏が直面していた戦略的状況が色濃く反映された、戦国末期を代表する巨大山城であった。
築城の経緯と設計思想
八王子城築城の直接的なきっかけは、永禄12年(1569年)に氏照が経験した苦い戦訓にある。当時、氏照は滝山城(現在の東京都八王子市)を居城としていたが、武田信玄が率いる2万の大軍による猛攻を受け、城の弱点を露呈した 1 。滝山城は多摩川の断崖を巧みに利用した城であったが、一部に防御の脆弱な平地部を抱えており、武田軍に二の丸まで侵入を許し、落城寸前にまで追い込まれたのである 1 。この経験は、氏照に、より完璧な防御能力を持つ新城の必要性を痛感させた。特に、武田軍の別動隊が越えてきた小仏峠は、甲斐から武蔵、そして相模の小田原へと至る最短ルートであり、この街道を完全に封鎖できる戦略拠点の確保が急務であった 1 。
この課題に応えるべく選ばれたのが、標高約445メートルの独立峰である深沢山(現在の城山)であった 8 。この地は、南麓の小仏道だけでなく、北麓の案下道も同時に監視・封鎖できる絶好の立地であり、関東平野を一望できる眺望は、狼煙による情報伝達網の中継点としても理想的であった 1 。築城は天正6年(1576年)頃に開始され、氏照が正式に本拠を移したのは天正15年(1587年)頃とされている 1 。
八王子城の設計思想には、当時の最先端の概念が取り入れられていた。特筆すべきは、織田信長の安土城の影響である。氏照は安土城の壮麗さと防御思想に感銘を受け、八王子城の御主殿虎口(城の正面玄関)などに、権威の象徴としての壮大な石垣を導入した 1 。これは、従来の関東の城郭が土塁と堀を主体としていたのに対し、画期的な試みであった。しかし、その一方で、城全体の構造は、尾根や谷といった自然地形を最大限に活用し、複雑な曲輪群を連ねる後北条氏伝統の築城術が色濃く残っていた。この城は、伝統的な関東の山城と、中央の新しい「見せる城」の思想が融合した、過渡期の城郭だったのである。
城郭の構造分析
八王子城の縄張り(設計)は、北浅川と南浅川に挟まれた東西約3km、南北約2~3kmにも及ぶ広大な領域を誇る 10 。その構造は、機能別に大きく三つの地区に分けられる。
居館地区
山腹の比較的緩やかな斜面に設けられた、城主の日常生活と政務の中心地である。中心となるのは、氏照の館であった「御主殿」で、発掘調査によって大規模な礎石建物跡や会所、さらには池泉回遊式の庭園跡が確認されている 9 。特筆すべきは、ここからベネチアングラスの破片や中国製の高級陶磁器が多数出土している点である 1 。これは、八王子城が単なる軍事拠点ではなく、高い文化レベルを誇る政治・経済の中心地であったことを物語っている。
この地区の防御は極めて堅固であった。入口である虎口は、敵の侵入速度を削ぐためのコの字型の「枡形虎口」となっており、高く積まれた野面積みの石垣と、復元された冠木門、そして谷を渡る曳橋が、侵入者を待ち構えていた 12。
要害地区
山頂部一帯に広がる、戦時の最終防衛拠点である。山頂の本丸を中心に、北東に小宮曲輪、南東に松木曲輪など、無数の曲輪が段々状に配置されている 9 。各曲輪は深い堀切(尾根を断ち切る堀)や竪堀(斜面に掘られた堀)によって厳重に分断され、敵の自由な移動を阻む構造となっていた。尾根と堀切を利用した縦深防御に加え、侵入した敵に対してあらゆる角度から側面攻撃(横矢がかり)を加えられるよう設計されており、極めて実戦的な思想が貫かれていた 10 。
根小屋地区
山麓の城山川沿いに広がる家臣団の居住区であり、城下町でもある 9 。滝山城下から移転してきた商業地区も含まれ、八王子城が軍事・政治・経済を一体化した複合都市として構想されていたことがわかる 10 。
未完の巨城
これほど壮大かつ緻密に設計された八王子城であったが、天正18年(1590年)の落城時点では、まだ未完成であったと考えられている 9 。山上の要害地区に正規の虎口が見られない点などがその根拠とされる 15 。この「未完成」という事実は、八王子城、ひいては後北条氏が抱えていた「戦略的ジレンマ」を象徴している。
氏照は、安土城に代表されるような中央の新しい権威の象徴としての城郭思想を取り入れようとした。しかし、その一方で、関東の地で長年培ってきた伝統的で実戦的な山城の思想も捨てきれなかった。その結果、八王子城は両者の思想が混在するハイブリッドな城となった。この壮大すぎる構想の実現には、膨大な時間と労力が必要であったが、秀吉による天下統一の速度は、後北条氏の予想をはるかに上回っていた。「小田原評定」に象徴される意思決定の遅れも相まって、城の完成は間に合わなかったのである。八王子城の堅固さと未完成さという矛盾は、時代の変化に対応しきれなかった後北条氏の強さと脆さそのものを、今に伝えている。
第二部:両軍の対峙 ― 運命の前夜
天正18年6月、八王子城を巡る運命の時は刻一刻と迫っていた。小田原城が秀吉の本隊によって包囲される中、関東各地の支城を攻略する別動隊が動き出す。その矛先の一つが、八王子城に向けられた。対峙する両軍の陣容は、開戦前から勝敗を予感させるほど、絶望的な格差に満ちていた。
籠城軍の陣容
八王子城の最大の弱点は、城主であり、後北条家随一の猛将とされた北条氏照その人が不在であったことである 7 。氏照は、兄である当主・氏政らと共に、主力の精鋭部隊を率いて本城の小田原城に籠城しており、八王子城は事実上の「留守城」となっていた 8 。
残された城の守りを託されたのは、城代家老の横地監物を総大将とする重臣たちであった 2 。各曲輪の守備には、中山勘解由、近藤綱秀(史料によっては助実)、金子家重、狩野一庵といった武将が就いたと伝えられている 2 。彼らは歴戦の勇士であったに違いないが、絶対的な指導者である氏照の不在は、城兵の士気に暗い影を落としていた。
さらに深刻だったのは、兵力の内実である。籠城軍の総兵力は約3,000名とされているが、その構成は極めて脆弱であった 8 。正規の武士団に加え、動員された農民や職人、山伏、さらには城下に住んでいた領民や、戦火を逃れて避難してきた女性、子供、老人までもが含まれていた 8 。武士と農民の区別がまだ曖昧であった時代の現実がそこにはあった。練度も装備も、そして戦う意志も不均一な、まさに寄せ集めの軍勢が、戦国最強ともいえる豊臣軍を迎え撃たなければならなかったのである。
攻撃軍の編成
一方、八王子城に迫る攻撃軍は、豊臣軍の中でも精鋭中の精鋭で構成されていた。秀吉は、関東の北・東方面の支城群を制圧するため、「北国勢」と呼ばれる方面軍を組織した。その指揮を執ったのは、加賀百万石の祖・前田利家と、越後の龍・上杉謙信の後継者である上杉景勝であった 3 。彼らの麾下には、表裏比興の者と恐れられた知将・真田昌幸も加わっており、いずれも戦巧者として天下に名を轟かせた武将たちであった 4 。
その兵力は、八王子城への直接攻撃に参加した部隊だけでも約1万5,000名 17 、北国勢全体では3万5,000名にも上ったと記録されている 4 。これは、籠城軍の少なくとも5倍、下手をすれば10倍以上の圧倒的な兵力差であった。
そして、この戦いをさらに非情なものとしたのが、総大将・豊臣秀吉から下された厳命であった。鉢形城などの攻略において、降伏勧告を多用し、力攻めをためらう傾向があった前田・上杉に対し、秀吉は「いたずらに降伏勧告に努めて力戦しないことを大いに諌めた」とされる 6 。さらに、「北条最強部隊を血祭りに上げて見せしめにせよ」という、殲滅を目的とした容赦のない指令が下されていた 5 。この命令は、攻撃側の将兵に、敵を一人残らず討ち果たすことを至上命題として課した。八王子城の戦いは、単なる城の攻略戦ではなく、豊臣政権の威光を示すための、徹底した殲滅戦となることが運命づけられていたのである。
この絶望的な戦力差は、以下の表に集約される。それは、これから始まる一方的な殺戮の序曲であった。
表1:八王子城の戦いにおける両軍の戦力比較
項目 |
豊臣方・攻城軍 |
北条方・籠城軍 |
総大将 |
前田利家、上杉景勝 |
(城主・北条氏照は不在) 城代:横地監物 |
主要武将 |
真田昌幸、松平康国、大道寺政繁(降将)など |
中山勘解由、近藤綱秀、金子家重、狩野一庵 |
推定兵力 |
約15,000名(直接攻撃部隊) |
約3,000名 |
兵員の構成・士気 |
歴戦の精鋭部隊で構成。 秀吉の厳命により士気は高く、殲滅を目的とする。 |
正規兵に加え、老兵、農民、僧侶、婦女子を含む混成部隊。 主君不在の中での絶望的な籠城戦。 |
第三部:落城の一日 ― 天正十八年六月二十三日、リアルタイム再現
天正18年(1590年)6月23日(旧暦)、八王子城にとって運命の日が訪れた。この日、未明から早朝にかけて繰り広げられた攻防は、戦国時代の山城における戦闘の凄惨さと、豊臣軍の圧倒的な軍事力の前に、伝統的な防衛思想がいかに無力であったかを物語っている。江戸時代に編纂された軍記物『北条氏照軍記』や、徳川家康の家臣・榊原康政の書状などを基に、その一日を可能な限りリアルタイムで再現する。
午前2時頃(深夜):攻撃開始
静寂に包まれた深沢山の麓に、突如として鬨の声が響き渡った。6月22日に松山城付近から進軍してきた豊臣軍が、日付の変わった午前2時頃、一斉に攻撃を開始したのである 1 。作戦は、城の防御能力を飽和させることを狙った、周到な二面同時攻撃であった。大手(正面)口からは、先頃降伏して豊臣方に加わった大道寺政繁の部隊を先導役に、前田利家の軍勢が松明を掲げて殺到。同時に、城の裏手にあたる搦手からは、上杉景勝の軍勢が険しい山道を踏み越えて果敢に攻め込んだ 1 。闇夜を焦がす炎と、山々にこだまする喊声が、絶望的な一日の始まりを告げた。
未明:奥御霊谷での銃撃戦
前田勢の一部は、城の南西に位置する奥御霊谷へと分け入り、そこから尾根を駆け上がって山麓の防衛ラインである山下曲輪を狙った 1 。高所を確保した前田軍の鉄砲隊から、雨あられのような銃弾が山下曲輪に撃ち込まれる。城方も必死に応戦し、闇の中で火花が激しく交錯する、凄まじい銃撃戦が展開された。『北条氏照軍記』は、その様子を「敵味方の打交へる鉄砲の音は百千の雷の大地を震ふ如く。射交す矢は夕立の水端を通るよりも猶繁し」と、劇的に描写している 1 。しかし、数に勝る豊臣方の波状攻撃の前に、城方の防衛線は徐々に後退を余儀なくされていく。
夜明け前:防衛線の突破と白兵戦
圧倒的な物量で押し寄せる豊臣軍の前に、城方の防衛ラインはついに崩壊する。柵を破り、堀を越えた兵士たちが曲輪内になだれ込み、戦闘は遠距離での撃ち合いから、血で血を洗う凄惨な白兵戦へと移行した 1 。寄せ集めの兵で構成された籠城軍は、歴戦の豊臣軍の兵士たちの敵ではなかった。この乱戦の中、城方の武将であった近藤助実(綱秀)や金子家重らが奮戦の末に討死 1 。降将である大道寺政繁の部隊だけでも、350もの首級を挙げたと記録されており、戦闘の激しさを物語っている 1 。
夜明け:要害地区への侵攻と中山勘解由の奮戦
山麓の居館地区や防衛ラインを突破した豊臣軍の主力は、雪崩を打って山上の要害地区へと殺到した。山頂に到達した前田勢は、要衝である中山曲輪に攻めかかる。ここを守っていたのは、北条家の重臣・中山勘解由であった 2 。勘解由は、数で圧倒的に劣る手勢を率いて獅子奮迅の戦いを見せ、敵陣に何度も斬り込んでは多大な損害を与えた。しかし、衆寡敵せず、壮絶な死闘の末に討死 1 。その鬼神の如き戦いぶりは、敵将である前田利家をも深く感嘆させたと伝えられる 14 。勘解由の奮戦により、前田勢もまた、青木信照をはじめとする30名余りの将兵を失うという、決して小さくない代償を払った 1 。
早朝:落城
中山勘解由が奮戦している頃、搦手を攻め上がっていた上杉景勝の軍勢は、正規のルートを外れた険しい道から、要害地区のもう一つの要である小宮曲輪への奇襲を敢行。完全に意表を突かれた守将・狩野宗円(一庵)は、なすすべもなく討ち取られた 1 。
各個撃破され、指揮系統は完全に麻痺。総大将である城代・横地監物もこの乱戦の中で戦死し、八王子城の組織的抵抗はここに終焉を迎えた 1。榊原康政の書状によれば、城が完全に陥落したのは早朝であったと記されている 1。攻撃開始からわずか4~5時間。後北条氏が誇る難攻不落の巨大山城は、あっけなく陥落した。
この迅速な落城は、単なる兵力差だけがもたらしたものではない。それは、豊臣軍が駆使した「近代的」な戦術と、それに対応できなかった八王子城の「伝統的」な防御思想との、致命的なミスマッチの結果であった。八王子城の複雑な縄張りは、侵入してくる敵を狭い通路に誘い込み、各個撃破することを前提とした設計であった。しかし、豊臣軍は、鉄砲の集中運用、大手・搦手からの同時多発的な攻撃、そして別動隊による奇襲といった、連携の取れた組織的戦術で、城の防御能力の許容量をはるかに超える物量を同時に投入した。これにより、籠城側は防御戦力を集中させることができず、各曲輪は孤立無援のまま、各個撃破されていったのである。戦術思想の非対称性が、落城までの時間を劇的に短縮させた最大の要因であった。
第四部:悲劇と伝説 ― 血に染まる城山
八王子城の陥落は、単なる軍事拠点の喪失に留まらなかった。それは、凄惨な悲劇と、後世まで語り継がれる数々の伝説を生み出し、そして最終的には戦国大名・後北条氏の命運を決定づける一撃となった。
御主殿の滝の惨劇
八王子城の悲劇を象徴するのが、「御主殿の滝」にまつわる伝承である。落城が目前に迫ったとき、山麓の御主殿にいた城主・氏照の正室である比佐の方をはじめ、侍女や武将の妻女たちが、敵兵による凌辱を免れるため、滝の上で自刃し、次々と身を投げたと語り継がれている 7 。その数は数百人にも及び、流れた血によって麓の城山川は三日三晩、赤く染まったという 8 。さらに、麓の村人たちがその川の水で米を炊いたところ、白いご飯が赤く染まってしまったため、以来、犠牲者の供養のために赤飯を炊くようになった、という伝説も残されている 8 。
しかし、この悲痛な物語は、近年の歴史学的な検証によって、その史実性に疑問が投げかけられている 26 。
第一に、戦国時代の籠城戦において、家臣の妻女は敵への寝返りを防ぐための重要な「人質」であり、戦闘の最前線となる山麓の御主殿に置くことは、安全保障上あり得ない 27。通常は、最も安全な山頂の要害地区などに避難させていたはずである。
第二に、豊臣秀吉は攻撃軍に対し、「女性たちは捕虜にした後、見せしめとして小田原城へ連行せよ」と具体的に命じていたという記録があり、集団で自害する時間的・物理的な余裕はなかった可能性が高い 26。
第三に、実際の御主殿の滝は、高さが数メートル程度の小さな滝であり、ここから身を投げて確実に命を絶つことは困難である 26。
では、なぜ史実とは考えにくいこの伝説が、これほどまでに広く語り継がれてきたのだろうか。それは、この物語が、戦乱の時代から新たな秩序の時代へと移行する社会の中で、重要な文化的役割を果たしたからだと考えられる。凄惨な殲滅戦という無秩序な暴力の記憶は、人々の心に深い傷を残す。しかし、「婦女子が武家の誇りを守り、潔く自決した」という物語は、豊臣軍の残虐性を告発すると同時に、敗者である北条方の「名誉ある死」を強調する。これにより、戦いの無秩序な暴力は「武士道」という秩序ある価値観の中に回収され、過去のトラウマは鎮魂という形で封じ込められる。この伝説は、戦乱の記憶を処理し、徳川幕府による新たな支配体制下で社会の安定を図るための、高度な文化的装置として機能したのである。
小田原への衝撃
八王子城落城の報は、物理的な形で小田原城にもたらされた。攻撃軍は、討ち取った城兵の首を小田原まで運び、籠城する北条軍の目の前に晒したのである 2 。北条一門最強の武将・氏照が心血を注いで築き、最も堅固であると信じられていた支城が、わずか一日で、しかも婦女子に至るまで根絶やしにされたという事実は、小田原城内の将兵に計り知れない衝撃を与えた 2 。それは、豊臣軍の圧倒的な軍事力と、秀吉の容赦ない殲滅意思を、これ以上ないほど明確に示すものであった。
この八王子城の悲報が決定打となり、小田原城内でくすぶっていた主戦論は急速に勢いを失う。これ以上の抵抗は無意味であると悟った当主・北条氏直は、7月5日、ついに降伏を決断し、難攻不落を誇った小田原城は無血開城した 2 。戦後、戦の責任を問われた北条氏政と氏照は切腹を命じられ、ここに約100年にわたり関東に君臨した戦国大名・後北条氏は滅亡した 7 。八王子城の悲劇は、まさしく後北条氏の断末魔そのものであった。
後世に語り継がれる物語
落城後、屍で覆われた八王子城跡は、人々から「忌み山」として恐れられるようになった 1 。御主殿の滝の伝説以外にも、数多くの悲話や怪談がこの地で生まれ、語り継がれている。例えば、氏照の側室であったお豊の方が、幼子を抱いて滝に身を投げた際、小田原の主君を慕うあまり、その打掛の片袖だけが燃えながら空を飛び、力尽きて寺の境内に落ちたという「片袖塚」の伝説 8 。また、落城後に城山川で異常に増えた蛭は、討死した北条の兵士たちの生まれ変わりであり、城を攻めた前田・上杉・真田の故郷である北から来た者だけを襲う、という奇妙な言い伝えも残っている 8 。これらの物語は、戦いの記憶を風化させまいとする人々の想いが、形を変えて現代にまで伝わったものであるといえよう。
終章:歴史の証人として ― 現代に息づく八王子城跡
後北条氏の滅亡と共に、八王子城はその歴史的役割を終えた。関東に入封した徳川家康によって正式に廃城とされ、再利用されることなく、城郭は400年以上の長きにわたり、静かに山林に還っていった 9 。しかし、人の手による改変を免れたがゆえに、八王子城跡には戦国時代末期の城郭遺構が奇跡的ともいえる良好な状態で保存されることになった 14 。その歴史的価値が認められ、現在では国の史跡に指定され、日本の城郭史上、重要な位置を占めている。
国史跡としての保存と活用
今日の八王子城跡は、歴史を学び、自然と触れ合うことのできる史跡公園として整備されている。継続的な発掘調査によって、御主殿跡の構造や、当時の人々の暮らしぶりが次々と明らかになり、その成果は復元整備に活かされている 28 。
- 八王子城跡ガイダンス施設 : 城跡の入口にはガイダンス施設が設けられており、パネル展示や映像を通じて、八王子城の歴史や構造を分かりやすく学ぶことができる 28 。また、公益財団法人日本城郭協会が選定する「日本100名城」のスタンプも、この施設内の管理棟に設置されている 28 。
- 散策路とボランティアガイド : 麓の御主殿跡周辺は、礎石の位置が表示されるなど、往時の建物の配置がイメージしやすいように整備されている。そこから山頂の本丸跡までは、約1時間ほどの登山道が続く 13 。城跡には、平成21年(2009年)から活動しているボランティアガイドが常駐しており、無料で城内を案内してくれる 30 。彼らの詳細な解説を聞きながら散策することで、単なる石垣や土塁が、かつての兵士たちの声が聞こえてくるような、生きた歴史の舞台として立ち現れてくる 31 。
- 御城印 : 近年、登城記念として人気を集めている「御城印」については、注意が必要である。八王子城の御城印は、城跡現地では販売されておらず、JR八王子駅南口に直結する「桑都日本遺産センター 八王子博物館」にて取り扱われている 35 。購入に際しては、現地を訪れた証明として、日本100名城スタンプが押印された用紙の提示が必要となる場合があるため、事前に確認することが望ましい 36 。
八王子城の戦いが現代に問いかけるもの
天正18年6月23日、わずか一日にして繰り広げられた八王子城の戦い。それは、戦国という時代の終焉を象徴する出来事であった。圧倒的な「力」の前では、地域の伝統や誇り、そして人々の命がいかに脆く、蹂躙されてしまうのか。その悲劇は、400年以上の時を超えて、我々に静かに語りかけてくる。
また、史実としての凄惨な殲滅戦と、後世に形成された「御主殿の滝」の悲劇の物語との間にある乖離は、歴史的事実と人々の「記憶」や「物語」が、いかにして形成され、継承されていくのかという普遍的な問いを投げかける。
現代に生きる我々にとって、八王子城跡を訪れることは、単なる史跡探訪に留まらない。それは、戦乱の記憶と、そこで失われた無数の命に想いを馳せ、歴史という大きな流れの中で、平和の尊さを再認識するための貴重な機会となるであろう。静寂に包まれた城山に佇む石垣や堀切は、今もなお、歴史の雄弁な証人として、訪れる者すべてに語りかけている。
引用文献
- 【東京都】八王子城の歴史 悲惨な籠城戦の舞台となった関東随一の山城 | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/2442
- 八王子城 https://ss-yawa.sakura.ne.jp/menew/zenkoku/shiseki/kantou/hachiouji.j/hachiouji.j.html
- 小田原攻め|絶望的な兵力差。北条氏政が豊臣秀吉と戦った理由は?! - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=WBMffhHXenI
- 1590年 小田原征伐 | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1590/
- 【八王子城落城】1590年6月23日|Mitsuo Yoshida - note https://note.com/yellow1/n/n434db038b509
- 豊臣秀吉による小田原征伐で殲滅戦となった北条氏照築城、八王子城 [日本100名城][東京都八王子市]|Rena - note https://note.com/rena_fr/n/ndbb4d65e9069
- 北条氏照と八王子城落城~天地の 清き中より生まれきて もとのすみかに帰るべらなり https://rekishikaido.php.co.jp/detail/4039
- 北条氏照敗れる 陥落した八王子城の悲劇 - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/2615
- 八王子城の概要 http://tensho18.jp/k_bsiro.html
- 八王子城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E7%8E%8B%E5%AD%90%E5%9F%8E#:~:text=%E7%B8%84%E5%BC%B5%E3%82%8A%E3%81%AF%E5%8C%97%E6%B5%85%E5%B7%9D%E3%81%A8,%E5%B1%B1%E5%B7%9D%E3%81%AB%E6%B2%BF%E3%81%A3%E3%81%9F%E9%BA%93
- 第3回多摩めぐり~多摩を深める 戦国時代の終わりを告げた名城 八王子城を探る https://tama-meguri.com/tama-meguri/report/tamameguri-03-hachiojijyo/
- 八王子城 滝山城 高月城 片倉城 余湖 http://yogokun.my.coocan.jp/tokyo/hatioujisi.htm
- 八王子城の歴史と見どころを紹介/ホームメイト - 刀剣ワールド東京 https://www.tokyo-touken-world.jp/eastern-japan-castle/hachiojijo/
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- 八王子城跡 - まちへ、森へ。 https://machimori.main.jp/details9220.html
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- 八王子城|日本百名城 https://shiro-trip.com/shiro/hachioji/
- 八王子城址 御主殿の滝 - 落城伝説の悲劇と怪談 - 日本伝承大鑑 https://japanmystery.com/toka/hatiouji.html
- 【暴露】八王子城の伝説は噓!?心霊現象は怖くない! - 日本の城研究記 https://takato.stars.ne.jp/18.html
- 都内屈指の人気の山城「八王子城」は何が問題なのか?多くの女性が滝に身を投じたというありえない伝説の正体 - JBpress https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/83696
- 八王子城跡散策マップ https://www.hachioji-kotsu.co.jp/wp-content/uploads/2021/04/%E5%85%AB%E7%8E%8B%E5%AD%90%E5%9F%8E%E8%B7%A1%E6%95%A3%E7%AD%96%E3%83%9E%E3%83%83%E3%83%97.pdf
- 国史跡八王子城跡(日本100名城)|観光情報サイト いこうよ八王子・高尾山 https://www.hkc.or.jp/facility/detail.php?id=106
- 八王子城跡|八王子市公式ホームページ https://www.city.hachioji.tokyo.jp/kurashi/kyoiku/005/bunkazaikanrenshisetsu/p005201.html
- これで迷わない!八王子城攻略ガイド|見どころやアクセス手段など徹底解説! https://www.ritocamp.com/entry/516
- 八王子城跡ガイドツアー http://tensho18.jp/k_gide.html
- 歴史を学ぶコース | 桑都物語公式ポータルサイト 日本遺産八王子 霊気満山 高尾山 ~人々の祈りが紡ぐ桑都物語~ https://japan-heritage-soto.jp/touring/learn/
- 八王子城跡 クチコミ・アクセス・営業時間|高尾・八王子 - フォートラベル https://4travel.jp/dm_shisetsu/10008405
- yugi.hachiojimarche.tokyo https://yugi.hachiojimarche.tokyo/news/22504/#:~:text=%E5%BE%A1%E5%9F%8E%E5%8D%B0%E3%81%AE%E8%B2%A9%E5%A3%B2,%E8%B3%BC%E5%85%A5%E3%81%99%E3%82%8B%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%8C%E3%81%A7%E3%81%8D%E3%82%8B%E3%80%82
- 八王子城・滝山城の御城印を販売|八王子市公式ホームページ https://www.city.hachioji.tokyo.jp/kankobunka/003/001/p030405.html
- 【東京】八王子城と滝山城 登城記念「御城印」を販売開始 https://yugi.hachiojimarche.tokyo/news/22504/
- 八王子城・滝山城の御城印を、6月10日(金)より販売を再開しました! - 町田 https://shopper-news.com/2022/06/13/gusuku-seal/