刀根坂の戦い(1573)
刀根坂の戦い(1573年):名門朝倉氏滅亡の序曲と織田信長天下統一への道
序章:名門朝倉氏、落日の序章
天正元年(1573年)8月、越前国(現在の福井県)と近江国(現在の滋賀県)の国境に横たわる刀根坂(とねざか)は、一つの時代の終焉を告げる血で染まった。この地で繰り広げられた「刀根坂の戦い」は、織田信長の電撃的な追撃により、名門・朝倉義景の軍勢が壊滅的な打撃を受けた戦いである。それは単なる一合戦の勝敗に留まらず、100年以上にわたり越前に君臨した戦国大名朝倉氏の滅亡を決定づけ、織田信長の天下統一事業を大きく前進させる画期となった。
越前国の栄華と朝倉氏の権威
朝倉氏は、応仁の乱の時代から越前国を実効支配し、代々守護職として君臨してきた名門であった 1 。4代当主・孝景の時代には、若狭や近江、美濃といった隣国へも頻繁に出兵し、室町将軍の要請に応える形で地域の秩序維持に貢献するなど、北陸に確固たる勢力圏を築いていた 2 。
その本拠地である一乗谷は、まさに栄華を極めていた。戦乱で荒廃した京を逃れた公家や僧侶、文化人たちが多数身を寄せたことで、一乗谷は「北陸の小京都」と称されるほどの洗練された文化都市へと発展した 3 。足羽川の水運を利用した湊町には市場が設けられ、米や特産品はもとより、海外からの輸入品である唐物なども取引される、活気あふれる経済の中心地でもあった 4 。当主である朝倉義景自身も、歌道、茶道、作庭、絵画など多岐にわたる文芸を嗜む一流の文化人であり、その治世の前半は、周辺諸国が羨むほどの平和と安定を享受していたのである 6 。
時代の転換と両雄の宿命
しかし、その平和は永遠ではなかった。尾張の一地方領主から身を起こし、旧来の権威や秩序に捉われない革新的な戦略と苛烈な決断力で天下にその名を轟かせ始めた織田信長。彼の台頭は、伝統と格式を重んじる名門守護大名・朝倉義景にとって、時代の大きな転換を告げるものであった。両者の価値観の根本的な相違は、やがて避けられぬ宿命的な対決へと発展していく。
一乗谷の文化的爛熟は、朝倉氏の権威の象徴であったと同時に、その内実に潜む脆弱性の表れでもあった。長年の平和は、戦国の世を生き抜くための闘争心を鈍化させ、絶え間ない戦いを通じて軍団を鍛え上げてきた信長とは対照的に、朝倉家中には次第に厭戦の気風が蔓延していく 4 。義景が文化人として高い評価を得る一方で、その統治下で育まれた平和への慣れが、皮肉にも来るべき軍事的大敗の遠因となっていくのである。刀根坂の戦いは、新しい時代を力で切り拓こうとする者と、旧時代の秩序と栄華を守ろうとする者との、価値観の衝突が軍事的に帰結した、時代の分水嶺を象徴する出来事であった。
第一部:決戦前夜 ― 織田・朝倉、両雄の相克
刀根坂での激突は、突発的に生じたものではない。それは、約8年にも及ぶ織田信長と朝倉義景の間の、複雑な政治的駆け引きと軍事的対立の末にたどり着いた必然的な結末であった。
第1章:将軍・足利義昭をめぐる亀裂
両者の関係が悪化する最初の大きな転機は、室町幕府第15代将軍となる足利義昭の存在であった。永禄8年(1565年)、信長は義昭(当時は一条院覚慶)の上洛を支援する意向を示し、その中で朝倉義景にも協力を促している 8 。この時点では、信長は義景を潜在的な協力者と見なしていた。
しかし、義昭がまず頼ったのは、信長よりも家格の高い名門である朝倉氏であった。永禄10年(1567年)、義昭は越前一乗谷へ下向する 8 。これは義景にとって、将軍を擁して天下に号令するという、またとない好機であった。だが、義景はこの千載一遇の機会を活かすことができなかった。愛児を失ったことによる失意 10 、あるいは畿内を支配する三好三人衆との全面対決への慎重な姿勢からか 9 、義景は上洛へと踏み切らなかった。この優柔不断さに業を煮やした義昭は、ついに義景を見限り、美濃を平定し勢いに乗る信長のもとへと身を寄せたのである 8 。
信長が義昭を奉じて上洛を果たすと、両者の立場は完全に逆転した。信長は将軍の権威を盾に、義景に対して上洛を命令する。しかし、かつて将軍を庇護したという自負を持つ義景は、信長の下風に立つことを潔しとせず、この命令を再三にわたり拒否した 10 。これにより、両者の対立はもはや修復不可能な段階へと突入した。
第2章:元亀の争乱 ― 金ヶ崎から姉川へ
元亀元年(1570年)4月、信長は上洛命令の無視を大義名分とし、3万と号する大軍を率いて越前への侵攻を開始した 8 。織田軍は破竹の勢いで敦賀を制圧し、手筒山城を攻略、金ヶ崎城も降伏させた 8 。朝倉氏の滅亡は目前かと思われた。
しかし、ここで戦況は劇的に変化する。信長の妹・お市の方を妻に迎えていた同盟国の北近江の領主・浅井長政が、長年にわたる朝倉氏との盟約を重んじ、信長に反旗を翻したのである 8 。織田軍の背後を突いた浅井軍の動きにより、信長は朝倉・浅井両軍による挟撃の危機に陥った。この絶体絶命の窮地を、信長は羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)や明智光秀らの殿(しんがり)部隊の決死の奮戦によって、辛うじて脱出する。世に言う「金ヶ崎の退き口」である 4 。
この裏切りに対する報復に燃える信長は、同年6月、徳川家康の援軍を得て、浅井・朝倉連合軍と近江・姉川の地で決戦に及んだ。激戦の末、織田・徳川連合軍は勝利を収め、朝倉軍からは猛将・真柄直隆らが討死した 8 。この「姉川の戦い」での敗北は、浅井・朝倉両氏の勢力を大きく削ぎ、その後の滅亡への道を拓く端緒となった 12 。
第3章:信長包囲網の形成と瓦解
姉川の戦いで勝利したものの、信長は浅井・朝倉氏を滅ぼすには至らなかった。両氏は比叡山延暦寺などを拠点に抵抗を続け、信長を苦しめる(志賀の陣) 8 。さらに、信長の勢力拡大を恐れる将軍・足利義昭が各地の大名に檄を飛ばしたことで、甲斐の武田信玄、摂津の石山本願寺、三好三人衆などが呼応し、一大反信長連合(信長包囲網)が形成された 9 。
この包囲網の中でも最大の脅威は、戦国最強と謳われた武田信玄であった。元亀3年(1572年)、信玄は西上作戦を開始し、三方ヶ原の戦いで徳川家康を完膚なきまでに打ち破る。信長は生涯最大の危機に直面した 4 。朝倉義景にとって、信玄の存在は信長の主力を東に引きつける「戦略的緩衝材」であり、信長からの圧力を弱める絶好の機会をもたらしていた。
しかし、天正元年(1573年)4月、その信玄が病により陣中で急死する 4 。この報は、信長包囲網の崩壊を意味した。信玄という最大の脅威、そして朝倉氏にとっての戦略的な猶予期間が、突如として消滅したのである。信玄の死によって東方の憂いから解放された信長は、その全軍事力を、残る宿敵である浅井・朝倉へと集中させることが可能となった。同年7月には、信長は将軍・義昭を京から追放して室町幕府を事実上滅亡させ、後顧の憂いを完全に断ち切った 8 。義景は、この戦略環境の激変に有効な手を打つことができず、信長の最終攻勢を真正面から受け止めることとなる。
第二部:天正元年の攻防 ― 小谷城救援と崩壊の序曲
武田信玄の死と足利義昭の追放により、信長包囲網は事実上瓦解した。信長は満を持して、長年の宿敵である浅井・朝倉両氏の完全な殲滅へと乗り出す。
第1章:信長の最終攻勢
天正元年8月8日、信長は3万と称される大軍を率いて岐阜を出陣し、浅井長政の居城である北近江・小谷城へと侵攻した。織田軍は小谷城を望む虎御前山に本陣を構え、城を厳重に包囲した 17 。信長は力攻めだけでなく、調略も巧みに用いた。侵攻に先立ち、浅井氏の重臣で、小谷城の支城である山本山城を守る阿閉貞征を寝返らせることに成功しており、これにより小谷城の防衛網に大きな亀裂を生じさせていた 4 。
第2章:義景、苦渋の出兵
孤立無援の状況に陥った浅井長政は、最後の望みを託し、盟友である朝倉義景に救援を要請した。これを受け、義景は2万の兵を率いて自ら出陣することを決断する 17 。この決断は、長年の同盟関係を守るという信義に基づくものであったと同時に、浅井氏という対織田の防波堤を失えば、次は自らが滅ぼされるという冷徹な戦略的判断に基づいた、避けられない選択でもあった 19 。
しかし、この戦略的必然性は、もはや朝倉家臣団全体で共有されてはいなかった。度重なる近江への出兵は国力を著しく疲弊させ、兵士たちの間には厭戦気分が蔓延していた 4 。重臣の魚住景固らは公然と出兵を拒否するに至り、かつて一枚岩を誇った朝倉家臣団の結束は見る影もなかった 18 。総大将である義景が、この国家存亡の危機を家臣団に説き、彼らを結束させることができなかったという事実は、朝倉氏という組織が指導者層から崩壊しつつあったことを示している。最終的に義景が自ら陣頭に立つことで、ようやく2万の兵が集まったものの、その内実は多くの不満と低い士気を抱えた、極めて脆弱な軍団であった 18 。
第3章:小谷城北方での対峙
近江に到着した朝倉軍は、小谷城の北方に位置する木之本・田上山に本陣を構えた。そして、小谷城と峰続きで連携が可能な大嶽砦や丁野砦といった要衝に兵を配置し、小谷城を後方から支援する形で織田軍と対峙した 4 。信長は、朝倉軍の士気が低いこと、そして戦いを長引かせたくないという彼らの心理を見抜いていた 18 。そのため、無理な決戦は避け、調略や奇襲によって朝倉軍の戦意を挫き、自ら撤退せざるを得ない状況に追い込むことを画策していた。こうして、両軍は小谷城を挟んで睨み合い、決戦の時は刻一刻と迫っていた。
第三部:刀根坂の死闘 ― 合戦のリアルタイム詳解
膠着した戦況は、天正元年8月12日の夜、信長の電光石火の奇襲によって劇的に動き出す。ここから朝倉軍壊滅に至るまでの約二日間は、まさに息もつかせぬ展開であった。
8月12日:嵐の夜の奇襲
この日、近畿一帯は激しい暴風雨に見舞われた 4 。多くの武将が悪天候を忌避する中、信長はこれを千載一遇の好機と捉えた。風雨の音に紛れ、敵の警戒が緩む夜陰に乗じて、奇襲攻撃を敢行したのである。
織田軍は、事前に内通していた浅見対馬の手引きによって、朝倉軍の重要拠点である大嶽砦へと密かに接近した 8 。不意を突かれた朝倉勢はなすすべもなく、大嶽砦はあっけなく陥落。勢いに乗る織田軍は、続いて丁野砦にも攻めかかり、守備隊を降伏させた 8 。この奇襲の成功により、小谷城に籠る浅井軍と、それを後詰する朝倉軍本隊との連携は完全に断ち切られた 16 。前線の重要拠点を一夜にして失ったという報は、朝倉軍の全将兵に大きな衝撃と動揺を与えた。
8月13日 未明~夜半:退却決断と追撃開始
未明から早朝
大嶽砦陥落の報が、田上山にいる義景の本陣にもたらされた。前線拠点を失い、兵力でも織田軍の3万に対し自軍は2万と劣勢、そして何よりも兵の士気は地に落ちていた 21。この状況で野戦を挑んでも勝ち目はないと判断した義景は、全軍を越前本国へ撤退させることを決断する 4。当面の目標は、敦賀にある支城・疋田城まで退き、そこで防衛態勢を立て直すことであった 4。
夜
8月13日の夜、2万の朝倉軍は混乱の中、越前に向けて撤退を開始した 7。この動きを、信長は見逃さなかった。『信長公記』に「この機を逃さず」と記されている通り、信長は朝倉軍の退却を、敵を殲滅する絶好の機会と捉えた 4。彼は即座に全軍に追撃を命令。そして、諸将に任せるのではなく、信長自らが先頭に立って、猛烈な勢いで追撃の指揮を執ったのである 5。これは単なる勇猛さの誇示ではない。3年前の「金ヶ崎の退き口」で、まさにこの朝倉・浅井軍に裏切られ、九死に一生を得た個人的な屈辱を晴らすという、信長の強烈な執念の現れであった。総大将自らが示すその執念は、夜を徹しての過酷な追撃戦を遂行する上で、織田軍全体の士気を極限まで高める原動力となった。
8月13日 深夜~14日:刀根坂の殲滅戦
深夜
機動力に優る織田軍は、北国街道を敗走する朝倉軍に、刀根坂の南麓にあたる柳ヶ瀬(現在の滋賀県長浜市)付近で追いつき、攻撃の火蓋を切った 4。
14日 未明以降
朝倉軍は、越前との国境である刀根坂(別名、久々坂峠)で織田軍を食い止めようと、最後の抵抗を試みた 7。しかし、退却という最も困難な軍事行動の最中にあり、指揮系統は乱れ、組織的な防御はもはや不可能であった。刀根坂は、近江と越前を結ぶ交通の要衝でありながら、道幅の狭い隘路であった 18。この地理的条件が、朝倉軍の悲劇を決定的なものにする。
敗走する兵士たちが狭い峠道に殺到して身動きが取れなくなる中、背後から信長率いる士気旺盛な織田軍が襲いかかった。戦いは一方的な殲滅戦の様相を呈し、「退却と信長の猛追にその脆さは一気に表面化し、織田軍によってなで斬りにされた」と記録されるほどの惨状となった 4 。
信頼性の高い史料である『信長公記』によれば、この刀根坂における追撃戦で、朝倉軍は名のある武将38名、兵3,800人(一説には3,000人以上)という夥しい数の将兵を失った 4 。刀根坂から敦賀の疋田に至るまでの道は、朝倉兵の死体で埋め尽くされたと伝えられている。
第四部:両軍の編成と主要武将の動向
刀根坂の戦いは、単なる兵力差だけでなく、軍の質、士気、そして指導者の決断力といった、目に見えない要素がいかに勝敗を左右するかを如実に示した戦いであった。
第1章:両軍の戦力分析
織田軍の兵力は約3万、対する朝倉軍は約2万と、数において織田軍が優位に立っていた 17 。しかし、両軍の差はそれだけに留まらなかった。信長は、鉄砲という新兵器を先進的に導入し、その運用に長けた部隊を組織していた 23 。また、兵農分離を推し進めることで、年間を通じて軍事訓練に専念できる常備兵的な兵士を確保し、軍全体の練度を高めていた 24 。
一方の朝倉軍は、伝統的な守護大名としての動員体制に依存しており、兵士の多くは戦時にのみ召集される農民であった。加えて、前述の通り、度重なる近江への出兵は兵士たちを疲弊させ、士気を著しく低下させていた 4 。両軍の戦力差を以下の表にまとめる。
表1:刀根坂の戦いにおける両軍の比較
項目 |
織田軍 |
朝倉軍 |
総大将 |
織田信長 |
朝倉義景 |
推定兵力 |
約30,000 |
約20,000 |
主要指揮官 |
柴田勝家、佐久間信盛、羽柴秀吉、滝川一益、稲葉一鉄など |
朝倉景鏡、山崎吉家、朝倉景行、河合吉統、斎藤龍興(客将)など |
士気・結束 |
非常に高い(信玄の死と義昭追放により勢いに乗る) |
非常に低い(厭戦気分、家中の不和) |
戦略目標 |
浅井・朝倉軍の分断と朝倉軍の殲滅 |
小谷城の救援、失敗後は本国への退却と戦力温存 |
軍事的特徴 |
鉄砲隊の活用、高い機動力、指揮系統の統一 |
伝統的な編成、度重なる出兵による疲弊 |
この表が示すように、朝倉軍の敗北は、単なる兵力差以上に、士気、戦略目標の明確さ、そして軍の近代性といった「無形の戦力」における圧倒的な差によってもたらされた、必然的な結果であったと言える。
第2章:死地に散った将星たち
この一方的な追撃戦において、多くの朝倉方の武将がその命を散らした。彼らの最期は、滅びゆく名門の悲劇を象徴している。
山崎吉家(やまざき よしいえ)
朝倉家の家老職を務めた重臣。義景への忠誠心篤く、混乱し敗走する軍の殿(しんがり)という最も危険な任務を引き受けた 25。織田軍の猛追を少しでも食い止め、主君・義景を逃がすべく、刀根坂の隘路で奮戦したが、衆寡敵せず、壮絶な討死を遂げた 18。彼の死は、最後まで朝倉氏に忠義を尽くした譜代家臣団の事実上の崩壊を意味するものであった。
斎藤龍興(さいとう たつおき)
かつて美濃国を支配した斎藤道三の孫であり、最後の当主。信長によって美濃を追われた後、各地を流浪し、最終的に客将として朝倉義景を頼っていた 27。刀根坂の戦いでは、恩義に報いるためか朝倉軍の一員として奮戦。しかし、織田軍の猛攻の前に力尽き、討ち取られた 5。一説には、彼を討ったのは、かつて斎藤家に仕えていた氏家氏の嫡男であったとも伝えられており、戦国の世の無常さを物語っている 30。国を失った大名の末路として、彼の死はひときわ悲劇的な響きを持つ。
その他の戦死者
『信長公記』には、彼らの他にも、朝倉一門である北庄城主・朝倉景行や、まだ17歳であった朝倉道景、越前府中の奉行であった河合吉統など、朝倉氏の中核を担う多くの武将がこの戦いで命を落としたと記されている 4。この戦いによって、朝倉氏の軍事力は指導者層から根こそぎ失われ、組織としての再生は完全に不可能な状態に陥ったのである。
第五部:敗走、そして滅亡へ ― 一乗谷炎上と朝倉義景の最期
刀根坂での壊滅的な敗北は、朝倉氏の運命を決定づけた。義景に残されたのは、絶望的な逃避行と、裏切りによる無惨な最期だけであった。
第1章:絶望の逃避行
刀根坂の死闘を辛うじて生き延びた義景は、鳥居景近や高橋景業といったわずか10名程度の側近に守られながら、本拠地・一乗谷を目指した 4 。府中(現在の武生市)を経由し、8月15日、疲れ果てた一行は一乗谷にたどり着く 4 。
しかし、かつての栄華を誇った本拠地も、もはや安住の地ではなかった。刀根坂で主力のほとんどを失い、残った兵も離散してしまったため、堅固な山城と城下町で構成される一乗谷を防衛する力は、もはや残されていなかった 7 。義景は自害を覚悟するが、近臣たちに制止される。そして8月16日、一族の重鎮であり従兄弟でもある朝倉景鏡の「一乗谷を捨て、より防備の固い大野郡で再起を図るべき」という進言を受け入れ、100年の都を放棄。大野郡の東雲寺(一説に洞雲寺)へと落ち延びていった 4 。
第2章:文化都市・一乗谷の灰燼
義景を追って木の芽峠を越え、越前国内に侵入した信長は、府中・龍門寺に本陣を構えた 2 。そして、主を失った一乗谷に対し、冷酷な命令を下す。柴田勝家らの部隊に、一乗谷の完全な破壊を命じたのである 31 。
8月18日から20日にかけての三日三晩、織田軍は一乗谷に火を放った。朝倉氏歴代当主が住んだ館、壮麗な庭園、数々の寺社、そして一万人が暮らしたとされる町屋のすべてが、燃え盛る炎の中に姿を消した 2 。これは単なる戦後の略奪行為ではない。朝倉氏が100年にわたって築き上げてきた権威と繁栄の記憶を、人々の心から根こそぎ消し去り、この地に織田氏による新たな支配体制を確立するための、徹底した政治的示威行為であり、意図的な文化破壊であった 7 。
第3章:裏切りと最後の刻
大野郡へ逃れた義景であったが、安息の時はなかった。最後の望みを託して援軍を要請した有力寺社・平泉寺は、すでに信長に内通しており、逆に義景の滞在先を襲撃するという有様であった 4 。
万策尽きた義景は、8月19日、再び朝倉景鏡の勧めに従い、彼の居城に近い六坊賢松寺(けんしょうじ)へと身を移した 4 。しかし、これは景鏡が仕掛けた最後の罠であった。義景の求心力が完全に失墜し、朝倉氏の存続が絶望的であると判断した景鏡は、信長からの降伏勧告に応じ、主君を裏切ることを決意していたのである 32 。彼の裏切りは、単なる個人的な野心というよりも、もはや沈みゆく船となった朝倉氏を見限り、自らの生き残りを図ろうとする、組織の末期症状を象徴する行為であった。
8月20日早朝、賢松寺は景鏡の兵によって完全に包囲された 4 。すべてを悟った義景は、
「七顛八倒 四十年中 無他無自 大道坦然 我今還滅」
という辞世の句を残し、静かに自害して果てた。享年41 2。介錯は、最後まで付き従った近臣・高橋景業が務めたと伝えられる 25。義景の首は景鏡の手によって信長のもとへ届けられ、ここに戦国大名・朝倉氏は、5代103年の歴史に幕を下ろした。
結論:刀根坂の戦いが歴史に与えた影響
刀根坂の戦いと、それに続く一連の出来事は、戦国時代の歴史に大きな影響を与えた。
第一に、 北陸地方の勢力図を根本的に塗り替えた ことである。朝倉氏の滅亡により、越前・若狭の両国は信長の支配下に入った 21 。これにより、信長は日本海への重要な出口を確保し、後の上杉氏との対決や北陸方面へのさらなる勢力拡大の強固な足掛かりを築くことに成功した。
第二に、 織田信長の天下統一事業を決定的に加速させた ことである。浅井氏の滅亡(小谷城の戦い)と相まって、長年にわたり信長を苦しめ続けた最大の宿敵の一つが消滅したことで、信長は近畿地方の支配をほぼ盤石のものとした。これにより、彼は石山本願寺や西国の雄・毛利氏といった、次なる強敵との戦いに全力を注ぐことが可能となり、天下統一への道は大きく拓かれたのである。
第三に、 文化史における皮肉な遺産を残した ことである。信長による一乗谷の徹底的な焼き討ちは、戦国文化の一大中心地を地上から消し去るという、計り知れない文化的損失であった 1 。しかし、そのすべてが灰燼に帰し、その後400年近くにわたり田畑の下に忘れ去られたことで、城下町の遺構が奇跡的にほぼ完全な形で保存される結果となった 1 。昭和の後期から始まった発掘調査により、武家屋敷、町屋、道路などが当時のままの姿で現れ、現在では戦国時代の都市の姿を伝える他に類を見ない貴重な歴史遺産となっている。
刀根坂の戦いは、朝倉氏の栄華に終止符を打ち、その文化都市を破壊した。しかし、その破壊があったからこそ、未来の我々がその栄華の跡を垣間見ることを可能にした。この戦いは、勝者と敗者の運命を分かつだけでなく、破壊と保存という、歴史の持つ皮肉な二面性をも我々に示しているのである。
引用文献
- いよいよ「麒麟がくる」越前へ!なぜ朝倉義景の時代に越前の文化都市は滅ぼされたのか? https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/98139/
- 朝倉氏の歴史 - 福井市 https://asakura-museum.pref.fukui.lg.jp/site/history
- 信長を土下座させた男!?朝倉氏最後の当主・義景が住んだ「一乗谷朝倉氏遺跡」 - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/travel-rock/83724/
- 刀根坂の戦い http://historia.justhpbs.jp/tonesaka.html
- 刀根坂の戦い http://historia.justhpbs.jp/tonesaka1.html
- 朝倉義景 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E5%80%89%E7%BE%A9%E6%99%AF
- 朝倉家滅亡 /小谷城の戦い 優柔不断が身を亡ぼす。 - YouTube https://m.youtube.com/watch?v=y1-0kaI7trk
- 歴史の目的をめぐって 朝倉義景 https://rekimoku.xsrv.jp/2-zinbutu-01-asakura-yoshikage.html
- 信長を敗北寸前にまで追い込んだ男!朝倉義景とは一体どんな人物だったのか? - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/99054/
- 信長と敵対した戦国大名・朝倉義景が辿った生涯|越前に一大文化圏を築き上げた名君【日本史人物伝】 | サライ.jp https://serai.jp/hobby/1120876
- 金ヶ崎の戦い/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/7305/
- 姉川の戦い古戦場:滋賀県/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/dtl/anegawa/
- 姉川の戦|国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典 - ジャパンナレッジ https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=2375
- 姉川の戦い/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/11094/
- 姉川の戦い 信長包囲網 浅井長政、朝倉義景と織田信長の戦い「早わかり歴史授業44 徳川家康シリーズ12」日本史 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=Yj4DyW_6NME
- [合戦解説] 10分でわかる小谷城の戦い 「浅井長政の最後と戦乱に巻き込まれた女性たち」 /RE:戦国覇王 - YouTube https://m.youtube.com/watch?v=9c3CFlza0l8
- 小谷城の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E8%B0%B7%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
- 一乗谷城の戦い古戦場:福井県/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/dtl/ichijodanijo/
- 語り部に聞く 2011大河ドラマと朝倉氏~ - 浅井家を支えた朝倉家~ - あざ い https://www.pref.fukui.lg.jp/doc/bunshin/jigyou_d/fil/017.pdf
- 小谷城攻め1570〜73年<その4>~浅井の後詰援軍から落とす戦略で絶望感を味わわせる https://www.rekishijin.com/8862
- 一乗谷城の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E4%B9%97%E8%B0%B7%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
- 刀禰峠・朝倉軍壊滅の地 http://fukuihis.web.fc2.com/memory/me000.html
- 火縄銃と長篠の戦い/ホームメイト - 名古屋刀剣ワールド https://www.meihaku.jp/arquebus-basic/hinawaju-nagashino/
- 天下統一を夢見た織田信長 - nippon.com https://www.nippon.com/ja/japan-topics/b06905/
- 朝倉家 武将名鑑 https://kamurai.itspy.com/nobunaga/asakuraSS/index.htm
- 一乗谷城の戦い/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/11096/
- 稲葉山城の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E8%91%89%E5%B1%B1%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
- 歴史の渦に消えた若き龍、斎藤龍興の悲運と執念 - 戦国 BANASHI https://sengokubanashi.net/person/saitoutatsuoki/
- 亡国の君主『斎藤龍興』信長打倒に執念を燃やした生きざまとは? - YouTube https://m.youtube.com/watch?v=YKPvAhH-P7o
- 斎藤龍興~信長に徹底抗戦した男は、ほんとうに暗愚だったのか | WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/4205
- [合戦解説] 10分でわかる一乗谷城の戦い 「織田信長猛追撃、朝倉義景は裏切られる」 /RE:戦国覇王 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=TaSJpppfgs8
- 主君を盛大な罠にはめ自害にまで追い込んだ裏切者「朝倉景鏡」…そして朝倉家は滅亡へ https://mag.japaaan.com/archives/169859
- 主君を裏切った朝倉景鏡!団結力に欠けた朝倉家は織田信長に敗北! - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=GmexUUkzDY4
- 一乗谷朝倉氏遺跡(信長を幾度も追い詰めた戦国大名・義景の居城跡) http://www.eonet.ne.jp/~etizenkikou/asakuraiseki.htm
- 信長を追い詰めた“戦国の雄”朝倉五代と一乗谷の真実 - WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/7702?p=2
- 金ケ崎、称念寺、一乗谷…福井県に明智光秀の足跡を求めて | WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/7460?p=2