加久藤の戦い(1572)
加久藤の戦い(1572)は、島津義弘が伊東・相良連合軍を寡兵で破った「九州の桶狭間」。加久藤城の堅守と「釣り野伏せ」戦術が功を奏し、伊東軍は壊滅。この勝利は島津氏の三州統一を加速させ、義弘の武名を天下に轟かせた、南九州の歴史を決定づけた戦いである。
元亀三年 加久藤・木崎原の戦い - 島津義弘、十分の一の兵力で南九州の天命を覆した一日
序章:南九州、動乱の序曲
元亀三年(1572年)五月四日、日向国真幸院(まさきいん)の地で繰り広げられた「加久藤・木崎原の戦い」は、単なる一地方の合戦ではない。それは、南九州の覇権を巡る島津氏と伊東氏の百年にわたる宿怨が決した、歴史の転換点であった。島津義弘が率いるわずか三百余の兵が、伊東祐安率いる三千の大軍を打ち破ったこの一日は、後の島津氏による九州制覇の序章となり、また、勇将・島津義弘の名を不滅のものとした。本報告書は、この戦いの背景から詳細な経過、そして歴史的意義に至るまでを徹底的に分析し、その全貌を明らかにするものである。
第一節:島津と伊東、百年の宿怨
島津氏と伊東氏の対立は、室町時代にまで遡る根深いものであった。日向、大隅、薩摩の三国(三州)の支配権を巡り、両家は穆佐院(むかさいん)や飫肥(おび)といった戦略的要衝で、幾度となく血を流してきた 1 。伊東氏は、伊東義祐(いとうよしすけ)の代に最盛期を迎え、日向国内に四十八の支城を配する「伊東四十八城」体制を築き上げ、その勢威は南九州に轟いていた 1 。
一方の島津氏は、長きにわたる内紛を乗り越え、島津貴久(しまづたかひさ)とその四人の息子、義久、義弘、歳久、家久の下で「三州統一」という悲願に向かって着実に歩を進めていた。この島津氏の拡大路線と、伊東氏の既得権益が真正面から衝突したのが、薩摩・大隅・日向・肥後の四国が接する地政学上の要衝、真幸院(現在の宮崎県えびの市・小林市周辺)であった 2 。真幸院を制する者は、南九州の交通と戦略の主導権を握る。この地は、両家のいずれにとっても、決して譲ることのできない運命の地だったのである。
第二節:巨星墜つ - 島津貴久の死という引き金
膠着していた南九州の情勢が劇的に動き出すきっかけとなったのは、元亀二年(1571年)の島津貴久の死であった 4 。貴久は、分裂していた島津家をまとめ上げ、拡大路線を軌道に乗せた象徴的な存在であった。彼の死は、単に一人の武将の生涯の終わりを意味するものではなかった。それは、南九州の勢力均衡を支えていた重石が取り除かれたことを示す、強力な政治的信号であった。
この権力の真空状態を千載一遇の好機と捉えたのが、日向の伊東義祐である。彼は、貴久の死をもって島津氏が弱体化したと判断し、長年の懸案であった真幸院の完全掌握、ひいては宿敵島津氏の打倒へと、一気に舵を切った 5 。伊東義祐の迅速な行動は、戦国時代における情報伝達の速さと、それに基づく戦略的決断の重要性を物語っている。この侵攻は、単なる領土拡大を目的としたものではなく、長年の宿敵の息の根を止めるための、周到に計画された軍事行動であった。
第三節:伊東・相良連合の結成と戦略
伊東義祐の戦略は、単独での侵攻ではなかった。彼は北接する肥後国(現在の熊本県)人吉の領主、相良義陽(さがらよしひ)と同盟を締結し、島津領への挟撃態勢を構築した 4 。作戦計画は壮大かつ合理的であった。伊東軍三千が日向の小林から真幸院へ南下し、同時に相良軍が肥後から国境を越えて南進する。これにより、真幸院を守る島津義弘の軍勢を南北から挟み撃ちにし、殲滅するというものであった 3 。この計画が成功すれば、島津義弘が守る飯野城(いいのじょう)と加久藤城(かくとうじょう)は、逃げ場のない死地に追い込まれるはずであった。
なお、利用者より提示された概要にあった「蒲池らと交戦」という点について、本合戦に関する一次資料および信頼性の高い二次資料を精査した結果、筑後の蒲池氏がこの戦いに参戦したという記録は確認されなかった。蒲池鑑盛(かまちあきもり)をはじめとする蒲池一族は、当時、九州最大の勢力であった豊後の大友氏の麾下にあった 8 。彼らが島津氏と大規模な戦闘を交えるのは、これより6年後の天正六年(1578年)、「耳川の戦い」においてである 10 。したがって、元亀三年のこの戦いにおける伊東氏の同盟軍は、相良氏であったと結論付けるのが妥当である。
第一部:加久藤城攻防 - 鉄壁の守り
伊東・相良連合軍の侵攻計画の第一目標は、島津義弘の妻子が居住し、真幸院における島津方の重要拠点である加久藤城の奪取であった。この城を巡る攻防戦こそ、後に「木崎原の戦い」として知られる激戦の序曲となったのである。
第一章:戦場の地勢学
加久藤城は、霧島山の火山活動によって形成されたシラス台地の断崖絶壁を天然の要害とする平山城であった 12 。比高約50メートルの丘陵上に位置し、周囲は切り立った崖に囲まれている 12 。城郭は、本城を中心に新城、中城、小城が連なる連郭式の構造を持ち、石垣を用いずに切岸(きりぎし)や竪堀(たてぼり)といった土木工事によって防御力を極限まで高めていた 13 。特に、城の周囲を流れる川内川が天然の堀となり、その堅固さは攻め手にとって絶望的なものであった 13 。
この鉄壁の城を、島津義弘は日向方面への前線基地として重視し、城代として老臣・川上忠智(かわかみただとも)を配置。さらに、自らの正室である広瀬夫人(宰相殿)と嫡男・鶴寿丸をこの城に住まわせることで、その戦略的重要性を内外に示していた 4 。
戦いの前提となる両軍の兵力差は、絶望的と言っても過言ではなかった。以下の表は、当時の両軍の戦力を比較したものである。
表1:加久藤・木崎原の戦い 両軍兵力比較
勢力 |
総兵力(諸説あり) |
主要指揮官 |
主要拠点・部隊配置 |
||
島津軍 |
約350名 |
島津義弘 (総大将)、川上忠智(加久藤城代)、遠矢良賢、五代友喜、村尾重侯、鎌田政年 |
飯野城:約300名 5 |
加久藤城:約50名 5 |
|
伊東・相良連合軍 |
伊東軍 : 約3,000名 相良軍 : 約500名 |
伊東祐安 (総大将)、伊東祐信(新次郎)、伊東又次郎、米良筑後守 |
加久藤城攻撃隊:約1,500名 5 |
飯野城牽制隊:約1,500名 5 |
相良軍:肥後口より南下 5 |
この圧倒的な兵力差を前に、島津方がいかにして勝利を掴んだのか。その答えは、緒戦である加久藤城の攻防に隠されている。
第二章:元亀三年五月三日夜半 - 忍び寄る三千の軍勢
元亀三年五月三日の夜、伊東軍三千は本拠地である小林の三ツ山城を進発した 16 。総大将は伊東一門の重鎮、伊東祐安。その指揮下には、伊東祐信(新次郎)、伊東又次郎といった勇将が名を連ねていた。彼らの作戦は、兵力を二分することにあった。伊東祐安が率いる主隊約千五百が飯野城の東方、妙見の尾に布陣して義弘主力を牽制し、その隙に伊東祐信率いる別働隊約千五百が加久藤城を夜襲し、一気に陥落させるという手筈であった 5 。兵力で十倍する自軍の優位を確信した、合理的かつ大胆な作戦であった。
闇夜に紛れて川内川を渡り、加久藤城下へと忍び寄った伊東祐信隊は、夜明けを待たずして行動を開始した。城下の民家に次々と火を放ち、その混乱に乗じて城の搦手門(からめてもん)へと殺到したのである 18 。鬨(とき)の声と炎が、静寂な夜を切り裂いた。
第三章:元亀三年五月四日未明 - 寡兵の咆哮
しかし、伊東軍の計画は緒戦から狂い始める。夜襲という奇襲効果を狙った作戦は、地理不案内と暗闇という両刃の剣であった。伊東軍は、城壁と誤認して城の西にあった徳泉寺裏の樺山浄慶の屋敷を攻撃してしまうという初歩的な失策を犯した 18 。この誤認攻撃は、城内にいた島津方に敵の来襲を知らせ、貴重な迎撃準備の時間を与える結果となった。
体勢を立て直した伊東軍は、本丸への攻撃路である「鑰掛口(かぎかけぐち)」へと殺到した。しかし、この場所こそが、加久藤城が誇る天然の要害であった。鑰掛口は狭隘な谷間であり、城壁までは険しい崖がそそり立っていた 18 。一部の記録では、島津側が事前に「鑰掛口が弱点である」という偽情報を流していた可能性も指摘されており、これが事実であれば、伊東軍は敵の術中に嵌り、最も不利な地形へと誘い込まれたことになる 12 。
城代・川上忠智の指揮の下、わずか五十余名の城兵は、この地形を最大限に活用した。崖の上から大石や丸太を落とし、弓矢を雨のように降らせて徹底抗戦する。攻めあぐねる伊東軍は、狭い谷間で身動きが取れず、一方的に損害を重ねていった 4 。城内に義弘の妻子がいるという事実が、城兵たちの士気を極限まで高め、死を恐れぬ奮戦へと駆り立てたのであろう 4 。
戦況が膠着する中、戦局を動かす一撃が放たれた。馬上から部隊を指揮していた伊東方の有力武将、須木城主・米良筑後守(めらちくごのかみ)が、近くの不動寺の僧・久道(きゅうどう)によって火縄銃で狙撃され、絶命したのである 18 。この一発は、単に一人の将を討ち取っただけではなかった。それは、火縄銃という新兵器が個人の戦闘力を飛躍的に高め、戦場の力学を覆し得ることを証明するものであった。指揮官の一人を失った伊東軍の指揮系統は混乱し、士気は急速に低下していった。
やがて東の空が白み始め、夜襲の利は完全に失われた。攻城の失敗と予想以上の損害を悟った伊東祐信は、ついに加久藤城の攻略を断念。部隊に撤退を命じ、川内川を渡って池島方面へと兵を引いた 18 。緒戦は、寡兵で城を守り抜いた島津方の完全な勝利に終わった。
第二部:木崎原決戦 - 鬼島津の神算鬼謀
加久藤城での勝利は、あくまで前哨戦に過ぎなかった。依然として伊東軍は三千の兵力を維持しており、戦いの趨勢は未だ決していない。この絶望的な状況を覆すべく、島津義弘の神算鬼謀が、ここから本格的に始動する。
第一章:飯野城、動く - 島津義弘の決断
加久藤城からの急報を受けた飯野城の島津義弘は、即座に決断を下した。籠城ではない。打って出て、野戦で決着をつける、というあまりにも大胆な選択であった 2 。彼は、手元に残る三百の全兵力を率いて飯野城を出陣した。
そして、義弘はわずかな手勢を、まるで手品のように分割し、戦場の各所に配置していった。これこそ、後に島津家の御家芸として恐れられる「釣り野伏せ」の布陣であった 5 。
- 加久藤城救援隊 : 遠矢良賢(とおやよしかた)ら60名を、加久藤城への救援部隊として先行させる 5 。
- 白鳥山麓の伏兵 : 五代友喜(ごだいともき)ら40名を、戦場の南、白鳥山麓に潜ませる 5 。
- 本地口の伏兵 : 50名を、伊東軍の退路となりうる本地口に配置する 5 。
- 義弘本隊 : そして義弘自身は、残る約130の精鋭を率いて本隊を構成した 5 。
この完璧な布陣は、義弘の頭の中に、すでに勝利への設計図が描かれていたことを示している。さらに義弘は、軍事行動と並行して謀略を巡らせていた。肥後方面から南下してくる相良義陽軍五百に対し、偽の狼煙を上げさせたり、少数の兵に多数の旗指物を持たせて大軍に見せかけるなどの偽装工作を展開。これを島津の大軍と誤認した相良軍は、戦わずして肥後へと撤退してしまった 5 。これにより、義弘は背後の憂いを断ち、伊東軍との決戦に全神経を集中させることが可能となったのである。
第二章:元亀三年五月四日午前 - 油断と急襲
一方、加久藤城攻めに失敗した伊東祐信隊は、飯野城を牽制していた伊東祐安の本隊と合流し、木崎原の池島川に面した鳥越城跡で休息を取っていた 18 。夜通しの行軍と攻城戦の失敗による疲労に加え、自軍が依然として十倍の兵力を有するという慢心が、伊東軍全体に蔓延していた。島津軍がわずかな兵で打って出てくるはずがないと高を括り、多くの兵士が鎧を脱ぎ、折からの暑さをしのぐために川で水浴びをしていたという 20 。
この千載一遇の好機を、義弘が見逃すはずはなかった。斥候の沢田八専からもたらされた報告で伊東軍の油断を確信した義弘は、即座に突撃を命じた。自ら率いる本隊130騎が、無防備な伊東軍の只中へと突入する 5 。完全に不意を突かれた伊東軍は大混乱に陥り、抵抗もままならぬまま多数の将兵が討ち取られた 20 。義弘の狙い通りの、完璧な奇襲であった。
第三章:元亀三年五月四日正午 - 殲滅の戦場
第一次突撃で伊東軍に痛撃を与えた義弘は、しかし深追いはしなかった。突如として全軍に退却を命じ、敗走を装って戦場を離脱し始めたのである 5 。これこそが「釣り野伏せ」の神髄、「釣り」の段階であった。敵を計算されたキルゾーンへと誘い込むための、巧妙な罠である。
義弘の思惑通り、態勢を立て直した伊東軍は、少数の島津軍が恐怖に駆られて逃げ出したと誤認。この好機に敵を殲滅せんと、全軍で追撃を開始した 5 。これにより、三千の伊東軍は、義弘が仕掛けた広大な罠の中へと、自らの足で踏み込んでいったのである。
伊東軍が木崎原の伏兵地帯に完全に足を踏み入れた、その瞬間であった。義弘の合図と共に、潜んでいた伏兵が一斉に蜂起した。南の白鳥山麓から五代友喜の部隊が背後を突き、側面からは加久藤城から駆けつけた遠矢良賢の救援隊と川上忠智の城兵、合わせて百数十名が襲いかかった 5 。そして、敗走を装っていた義弘の本隊が反転し、正面から牙を剥いた。
三方から同時に猛攻を受けた伊東軍は、完全に包囲され、指揮系統は寸断された。どこからどれだけの敵が攻撃してくるのかも把握できず、兵士たちは恐慌状態に陥った。この乱戦の最中、義弘は伊東軍の有力武将・伊東祐信(新次郎)と一騎打ちとなった 17 。この時、義弘の愛馬「膝付栗毛」が、祐信が突き出した槍を避けるために前膝を地面についたという伝説が生まれている 20 。義弘は馬上から見事に祐信を討ち取り、敵の士気に更なる打撃を与えた。
第四章:元亀三年五月四日午後 - 決着
大将格の伊東祐信の討死は、伊東軍の崩壊を決定的なものとした。乱戦の中で総大将の伊東祐安、伊東又次郎といった主だった将が次々と討死し、伊東軍は完全に統制を失った 2 。生き残った兵士たちは、武器を捨てて本拠地である小林方面へと我先に敗走を始めた 18 。
しかし、義弘の罠はまだ終わってはいなかった。敗走する伊東軍の行く手に、最後の伏兵として本地口に配置されていた50名が立ちはだかり、逃げ惑う兵士たちに最後の追い打ちをかけた 5 。
島津軍は、現在の西小林橋谷にある「粥持田(かゆもちだ)」という場所まで執拗に追撃を続けた。そして、午前四時の開戦から約十時間にわたる死闘の末、義弘はついに勝どきを上げたのである 18 。それは、南九州の新たな時代の到来を告げる咆哮であった。
表2:合戦経過タイムライン
日時 |
場所 |
島津軍の動向 |
伊東軍の動向 |
備考 |
5月3日 夜 |
小林 |
- |
伊東祐安、3,000の兵を率いて出陣。二手に分かれる。 |
作戦開始 |
5月4日 未明 |
加久藤城下 |
川上忠智ら城兵約50名が籠城。 |
祐信隊約1,500が夜襲を開始。民家に放火。 |
攻城戦開始 |
5月4日 未明 |
鑰掛口 |
崖上から徹底抗戦。 |
険しい地形で攻めあぐね、多大な損害を出す。米良筑後守、狙撃され戦死。 |
地形の利と寡兵の奮戦 |
5月4日 夜明け頃 |
加久藤城下 |
- |
攻城失敗を悟り、池島方面へ撤退を開始。 |
緒戦は島津方の勝利 |
5月4日 早朝 |
飯野城 |
義弘、急報を受け300の兵を率いて出陣。兵を分割し伏兵を配置。 |
祐安の本隊と祐信の撤退部隊が合流。 |
義弘の決断と布陣 |
5月4日 午前 |
木崎原・池島川 |
斥候により敵の油断を察知。 |
兵力差に慢心し休息。多くの兵が水浴びなどを行う。 |
勝敗を分けた油断 |
5月4日 午前中 |
木崎原 |
義弘本隊130が突撃。第一次攻撃を成功させる。 |
不意を突かれ混乱。多数の死傷者を出す。 |
釣り野伏せ「突撃」 |
5月4日 正午頃 |
木崎原 |
義弘本隊、計算通りの偽装退却を開始。 |
態勢を立て直し、逃げる島津軍を追撃。 |
釣り野伏せ「誘引」 |
5月4日 正午過ぎ |
木崎原(伏兵地帯) |
伏兵部隊が一斉に蜂起。三方から伊東軍を包囲攻撃。義弘、伊東祐信を一騎打ちで討ち取る。 |
包囲され大混乱。総大将・伊東祐安ら主力が次々と戦死。 |
釣り野伏せ完成、決着 |
5月4日 午後 |
木崎原~小林 |
敗走する伊東軍を粥持田まで追撃。勝どきを上げる。 |
総崩れとなり小林方面へ敗走。 |
約10時間の激戦終結 |
終章:戦後の天命 - 昇る島津、沈む伊東
加久藤・木崎原の戦いは、南九州の歴史の潮流を決定的に変えた。この一日を境に、島津氏は飛躍の時を迎え、伊東氏は没落への道を転がり落ちていく。
第一節:甚大な被害と「九州の桶狭間」の再評価
この勝利は、島津方にとっても決して楽なものではなかった。戦いは凄惨を極め、双方に甚大な被害をもたらした。諸説あるものの、伊東軍の戦死者は総大将の伊東祐安をはじめとする主だった将を含め500名から800名以上にのぼった 18 。一方、勝利した島津軍も、総兵力の半数を超える160名から260名が討死するという、まさに満身創痍の勝利であった 25 。
この戦いは、その劇的な展開からしばしば「九州の桶狭間」と称される 5 。しかし、その実態は、織田信長が最小限の損害で今川義元を討ち取った奇襲戦とは大きく異なる。木崎原の戦いは、勝者も甚大な犠牲を払った壮絶な殲滅戦であり、戦術的には「辛勝」あるいは「ピュロスの勝利」に近いものであった 25 。この呼称が定着したのは、戦術的な類似性以上に、圧倒的な兵力差を覆して地域のパワーバランスを根底から覆したという、「戦略的結果」の重大さゆえであろう。義弘の決断は、目先の損害という戦術的コストを度外視してでも、南九州の覇権という長期的な戦略的利益を掴み取るという、冷徹な計算に基づいていたのである。
第二節:伊東氏没落への道
木崎原での一敗は、伊東氏にとって回復不能な致命傷となった。伊東祐安をはじめとする経験豊富な重臣たちを一度の戦で失ったことで、伊東家は軍事的にも政治的にも急激に弱体化した 1 。この敗戦は家中の求心力低下を招き、後の島津氏による日向侵攻の際に、家臣団の離反が相次ぐ遠因となった 24 。最盛期を誇った伊東氏は、この日を境に坂道を転げ落ちるように衰退し、天正五年(1577年)、ついに本拠地である都於郡城を捨て、大友宗麟を頼って豊後へと落ち延びることになるのである 1 。
第三節:島津氏、三州統一への飛躍
対照的に、島津氏はこの勝利によって、三州統一への道を大きく切り開いた。日向南部における最大の脅威であった伊東氏の勢力を事実上無力化したことで、残る大隅の肝付氏の平定に戦力を集中させることが可能となり、三州統一事業は一気に加速した 1 。そして、この戦いで「鬼島津」の武名を九州全土に轟かせた島津義弘は、兄・義久、弟・歳久、家久とともに、九州制覇という壮大な目標へ向かって突き進んでいくことになる。木崎原の勝利は、島津四兄弟による快進撃の狼煙であった。
第四節:戦の記憶 - 六地蔵塔に込められた祈り
戦いが終わった後、島津義弘は木崎原の戦場跡に一体の石塔を建立した。敵味方の区別なく、この戦で命を落とした全ての将兵の霊を弔うための「六地蔵塔」である 19 。
この行為は、義弘の武将としての勇猛さの裏にある、為政者としての深い思慮と人間性を示している。戦国時代の領国経営において、敗者の怨念を鎮め、地域の安寧を保つことは極めて重要な課題であった。敵兵をも手厚く弔うという勝者の振る舞いは、島津氏の支配が単なる武力によるものではなく、慈悲や秩序をもたらすものであることを内外に示す、高度な政治的メッセージでもあった。
今日、静かに佇む六地蔵塔は、元亀三年のあの壮絶な一日の記憶を留めるとともに、戦いの無常と、それを乗り越えようとした一人の武将の祈りを、我々に静かに語りかけているのである 26 。
引用文献
- 日向伊東氏の栄華と没落、島津氏と抗争を続けて240年余 ... https://rekishikomugae.net/entry/2022/07/18/181646
- 木崎原古戦場跡にいってみた、島津義弘が10倍もの兵力差をひっくり返した https://rekishikomugae.net/entry/2022/04/17/194611
- 飯野城跡にのぼってみた、島津義弘が守った日向の前線基地 - ムカシノコト https://rekishikomugae.net/entry/2022/04/20/140154
- 木崎原の戦い古戦場:宮崎県/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/dtl/kizakibaru/
- 木崎原の戦い~島津義弘、「釣り野伏」で伊東祐安を破る | WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/3840
- 木崎原の戦いで伊東氏を破る - 尚古集成館 https://www.shuseikan.jp/timeline/kisakibaru-no-tatakai/
- 【島津VS伊東 九州の桶狭間】木崎原の戦い【空から攻める山城】ドローン空撮Mavic2pro https://www.youtube.com/watch?v=QiIXwVoegaM
- 蒲池鑑広(かまち・あきひろ) ?~1579 - BIGLOBE https://www7a.biglobe.ne.jp/echigoya/jin/KamachiAkihiro.html
- 蒲池鑑盛 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%B2%E6%B1%A0%E9%91%91%E7%9B%9B
- 家具の町大川の戦国史 蒲池家から立花家へBLOG DETAIL - プロセス井口 https://p-iguchi.co.jp/blog/2748/
- 蒲池鑑盛 - 信長のWiki https://www.nobuwiki.org/tag/%E8%92%B2%E6%B1%A0%E9%91%91%E7%9B%9B
- 加久藤城跡にのぼってみた、大軍から城を守りきって木崎原の決戦へ https://rekishikomugae.net/entry/2022/04/26/161005
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- 「島津義弘」”鬼島津”の異名を持つ男は、伝説的な”釣り野伏”の使い手だった! | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/601
- 文化財ルート08 兵どもの夢のあと~島津・伊東氏攻防の地を巡る - 宮崎県文化財課 https://www.miyazaki-archive.jp/d-museum/mch/s/rootmap/root08.html
- 島津義弘 九州制覇への道のり http://www.shimazu-yoshihiro.com/shimazu-yoshihiro/shimazu-yoshihiro-kyushuseiha2.html
- 「伊東義祐」日向国伊東家の絶頂期を築き、凋落に追い込んだ男! - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/756
- 木崎原古戦場跡 - m2n-BASE https://m2n-design.com/2023/05/19/kizakibaru-oldbattlefield/
- 木崎原古戦場跡|宮崎県指定史跡 https://www.pmiyazaki.com/nj/05/b/kizakibaru.htm
- 木崎原古戦場跡 - えびの市 https://www.city.ebino.lg.jp/soshiki/shakaikyoiku/5/896.html
- 木崎原古戦場 九州南部の分け目となった木崎原の戦い - Harada Office Weblog https://haradaoffice.biz/kizakibaru-battlefield/