加納口の戦い(1600)
慶長五年、関ヶ原前哨戦にて織田秀信の岐阜城は東軍の猛攻に一日で落城。木曽川渡河、米野、竹ヶ鼻の激戦を経て、援軍も断たれし孤立無援の城は陥落。西軍の戦略を砕き、天下分け目の戦いを決定づけし一戦なり。
慶長五年 加納口・岐阜城の戦い:関ヶ原への道筋を定めた美濃攻防の詳説
序章:天下分け目の前夜、美濃の攻防
関ヶ原に至る道:東西両軍の対立構造
慶長3年(1598年)8月、天下人・豊臣秀吉がその波乱の生涯を終えると、彼が築き上げた巨大な政治体制は、内包していた矛盾を急速に露呈させ始めた。秀吉の遺言に基づき、徳川家康を筆頭とする五大老と、石田三成を中心とする五奉行による集団指導体制が発足したが、政権内部の権力闘争はもはや避けられない状況にあった 1 。
特に、豊臣政権下で最大の実力者となった徳川家康の存在は、他の大名にとって大きな脅威であった。家康が秀吉の遺命を破り、諸大名との私的な婚姻政策を進めるなど、その影響力を露骨に拡大させ始めると、豊臣政権の秩序維持を掲げる石田三成との対立は決定的となる 2 。
慶長5年(1600年)、家康は会津の上杉景勝に謀反の疑いありとして、諸大名を率いての大規模な討伐軍を組織する 1 。この家康の東征は、三成にとって千載一遇の好機であった。家康が畿内を留守にした隙を突き、三成は毛利輝元を総大将に擁立し、反家康勢力を結集して挙兵する。ここに、天下を二分する「東軍(家康方)」と「西軍(三成方)」の対立構造が完成し、日本全土を巻き込む大戦乱、すなわち関ヶ原の戦いが不可避となったのである 2 。この状況下で、東海道と中山道が交差し、畿内と関東を結ぶ結節点である美濃国、そしてその中心である岐阜城は、両軍にとって絶対に譲れない戦略的要衝となった 1 。
戦略拠点・岐阜城:織田秀信、西軍参加の決断
この戦略的要衝、美濃国岐阜13万石の領主は、織田信長の嫡孫・織田三郎秀信、すなわち幼名・三法師であった 4 。彼は清洲会議において、わずか3歳で織田家の家督を継承し、豊臣政権下では「岐阜中納言」の官位を持つ高位の公卿でもあった 5 。
当初、秀信は家康の会津征伐に従軍する予定であり、その準備を進めていた 1 。しかし、三成の挙兵後、西軍からの使者が岐阜城を訪れる。三成が提示した条件は、「西軍に味方し勝利した暁には、旧領である尾張と美濃の二ヶ国を与える」という、破格のものであった 1 。
この勧誘は、単なる領地加増の約束に留まらなかった。それは、豊臣家から「岐阜中納言」という高い地位を与えられた秀信に対し、家康という簒奪者から豊臣家を守るという大義名分を提示するものであった。織田信長の血を引く者としての誇り、そして織田家再興という悲願を持つ秀信にとって、この申し出は抗いがたい魅力を持っていた。家臣団の中には、百々綱家(どどつないえ)のように、東軍の優勢を冷静に分析し、西軍参加に強く反対する声もあった 7 。しかし、秀信は家臣との合議の末、最終的に西軍に与することを決断する。この決断が、彼の短い生涯の運命を、そして関ヶ原の戦いの序盤戦の趨勢を決定づけることになったのである。
歴史的呼称の整理:「加納口の戦い」と「岐阜城の戦い」
本報告書で詳述する慶長5年(1600年)の戦いは、ご依頼の通り「加納口の戦い」という視点から分析するが、ここで歴史的呼称について専門的見地から整理しておく必要がある。
歴史学上、「加納口の戦い」という名称は、主に天文16年(1547年)に織田信秀(信長の父)が美濃国へ侵攻し、斎藤道三に手痛い敗北を喫した戦いを指すのが一般的である 9 。この戦いで信秀は弟の信康をはじめ5,000人もの将兵を失い、後に道三と和睦し、息子・信長と道三の娘・濃姫(帰蝶)との政略結婚へと繋がった 11 。
一方、慶長5年(1600年)8月22日から23日にかけて行われた一連の戦闘は、岐阜城の城下町である加納口周辺も戦場の一部とはなったものの、戦闘の全体像としては「岐阜城の戦い」と呼称されるのが通例である。また、その前段として木曽川沿いで行われた戦闘は「米野の戦い」など、個別の名称で知られている 13 。本報告書では、ご依頼の意図を正確に汲み取り、この慶長5年の「岐阜城の戦い」全体を、加納口周辺での攻防を含めて包括的に詳述する。
表1:両軍の兵力と主要指揮官一覧
軍 |
総兵力(推定) |
総大将 |
主要部隊指揮官 |
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東軍 |
約 35,000 - 40,000名以上 |
(先鋒隊指揮) 池田輝政、福島正則 |
浅野幸長、山内一豊、一柳直盛、堀尾忠氏、井伊直政、本多忠勝、加藤嘉明、細川忠興、田中吉政、黒田長政、藤堂高虎など |
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西軍 |
約 6,000 - 6,700名 |
織田秀信 |
百々綱家、木造具康(長政)、杉浦重勝、飯沼長実、津田藤三郎、武藤助十郎など |
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出典: 1 に基づき作成 |
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第一部:慶長五年八月二十二日 – 美濃防衛線の崩壊
黎明:東軍、木曽川へ
慶長5年8月22日、夜明けと共に、尾張国清洲城に集結していた東軍先鋒隊は行動を開始した 1 。その戦略は、美濃国境を流れる木曽川を迅速に渡河し、西軍の防衛体制が整う前に岐阜城を電撃的に攻略することにあった。
東軍の進軍計画は、単なる力押しではなかった。池田輝政率いる主攻部隊約18,000は木曽川上流の尾張国葉栗郡河田(現・愛知県一宮市)から、対岸の美濃国羽栗郡河田島(現・岐阜県各務原市)を目指した 14 。一方、福島正則率いる助攻部隊は、下流の尾張国中島郡起(現・一宮市)からの渡河を試みた 14 。この二正面作戦は、西軍の防衛力を分散させ、渡河成功の確率を高めるための計算されたものであった。
これに対し、岐阜城の織田秀信は、東軍が広大な木曽川のどの地点から渡河してくるかを正確に予測することができなかった。そのため、木曽川沿いの防衛線に兵力を広く分散配置せざるを得ず、結果として各個撃破の危険性を高めることになった 4 。この戦術的欠陥は、兵力で圧倒的に劣る西軍にとって致命的であった。
午前:河田の渡河戦(河田木曽川渡河の戦い)
8月22日明け方、池田輝政の部隊は計画通り木曽川の渡河を強行した 14 。対岸に布陣していた西軍の織田軍は、これを察知し鉄砲隊による一斉射撃で激しく応戦する 1 。川面には硝煙が立ち込め、両軍の怒号が響き渡った。これが、関ヶ原の戦いの前哨戦における、美濃での最初の火蓋であった。しかし、西軍の抵抗も虚しく、兵力と勢いで勝る東軍の猛攻を食い止めることはできなかった。池田隊は多大な犠牲を払いながらも、次々と対岸への上陸に成功し、美濃国内に橋頭堡を築いたのである。
昼:米野の激戦(米野の戦い)
渡河を完了した池田輝政隊は、息つく間もなく岐阜城を目指して進軍し、正午ごろ、木曽川北岸の米野村(現・岐阜県笠松町)で西軍の主力部隊と激突した 13 。
ここで東軍を待ち受けていたのは、織田家の宿老である百々綱家と木造具康(こづくり ともやす、長政とも)が率いる約3,000の兵であった 13 。彼らは織田軍の中核であり、地の利を活かして頑強な抵抗を見せた。特に、織田家家臣・飯沼長実(勘平)が一柳直盛家中の勇士・大塚権太夫を一騎討ちで討ち取るなど、局地的な戦闘では西軍の奮戦が光った 5 。しかし、戦いの大勢は兵力差によって覆しがたいものであった。東軍の波状攻撃の前に西軍の防衛線は次第に後退し、百々・木造隊は多大な損害を被りながら、岐阜城方面への退却を余儀なくされた 13 。
午後:城下への退却戦
米野での敗報は、岐阜城で戦況を見守っていた織田秀信のもとにもたらされた。家臣からは籠城を主張する声が上がったが、秀信はこれを一蹴。「戦わずして籠城するのは臆病者の所業として、後世までの恥辱となる」と述べ、自ら本隊を率いて出陣するという、武門の名誉を重んじる決断を下した 1 。
秀信は羽栗郡印食(現・岐阜県岐南町)付近で退却してくる味方と合流し、追撃する東軍を迎え撃とうとした。しかし、戦場は敗走兵と追撃兵が入り乱れる大混乱に陥っており、有効な指揮を執ることは困難であった。秀信の部隊も東軍の勢いに押され、敗退を余儀なくされる 14 。
秀信は岐阜城へと撤退。東軍はこれを追撃し、日暮れには岐阜城の南、上加納(現在の岐阜市加納地区)まで進出した。ここで百々・木造隊の残存兵力が最後の力を振り絞り、鉄砲による激しい射撃で東軍の足止めを図ったため、東軍はその日の追撃を中止し、芋島(現・岐阜市芋島)あたりに陣を敷いた 16 。
並行する戦線:竹ヶ鼻城の攻防
一方、池田隊が米野で激戦を繰り広げている頃、木曽川下流では福島正則の部隊が別の作戦を展開していた。起からの渡河が西軍の抵抗で難航したため、正則はさらに下流へ迂回し、東加賀野井から渡河を成功させた 14 。そして、美濃路の要衝である竹ヶ鼻城(現・岐阜県羽島市)を包囲したのである 18 。
城主の杉浦重勝は、織田秀信配下の勇将であり、わずか数百の兵で城に立て籠もった 5 。福島正則からの降伏勧告を「武士に二言はない」と一蹴し、徹底抗戦の構えを見せた 18 。しかし、援軍の望みは絶たれ、午前10時頃から午後4時頃まで続いた激戦の末、城兵はことごとく討ち死にした。もはやこれまでと覚悟を決めた重勝は、城に火を放ち、割腹して果てた 16 。
この竹ヶ鼻城の陥落は、東軍の戦略がいかに周到であったかを物語っている。池田隊が岐阜城の主力を引きつけている間に、福島隊が後方の拠点を確実に潰し、西軍の連携を断ち切る。この時間差攻撃により、岐阜城は完全に孤立させられた。この迅速な制圧は、大垣城にいる石田三成に強烈な心理的動揺を与え、後詰めの判断を誤らせることを意図した、高度な戦略であった。
日没:岐阜城包囲網の完成
日が落ちる頃には、米野方面から進軍してきた池田隊と、竹ヶ鼻城を攻略した福島隊が岐阜城の南、荒田川の河川敷で合流を果たした 14 。これにより、難攻不落と謳われた岐阜城は、東軍の大軍によって完全に包囲された。
絶望的な状況の中、秀信は最後の望みを託し、夜陰に乗じて大垣城の石田三成と、東方の犬山城へ援軍を要請する使者を放った 7 。秀信の策は、援軍が到着するまで岐阜城で持ちこたえ、東軍を内外から挟撃するというものであった。たった一日で、美濃の防衛線は崩壊し、戦いの舞台は岐阜城そのものへと移ったのである。
第二部:慶長五年八月二十三日 – 難攻不落城、落つ
夜明け前:東軍の攻撃準備
8月23日の夜明け前、岐阜城を包囲する東軍の陣営では、緊張感と共に功名心が生んだいさかいが起きていた。福島正則と池田輝政の間で、どちらが城への一番乗り、すなわち先陣の栄誉を得るかで激しい口論となったのである 16 。この先陣争いは、単なる武将個人の手柄争いに留まらない。豊臣恩顧の大名である彼らが、新たな覇者となりつつある徳川家康に対し、自身の武威と忠誠をいかに示すかという、熾烈な競争の表れであった。一触即発の雰囲気は、本多忠勝らの重臣が仲裁に入ることでようやく収まり、各将の攻撃部署が正式に決定された 19 。
攻撃計画は、城の四方から同時に仕掛けるというものであった。池田輝政は北西の瞑想の小径から、福島正則、加藤嘉明、細川忠興らは大手道である南の七曲口から、そして京極高知は東の百曲口から攻め上るという、多方面からの同時飽和攻撃が企図された 20 。
早朝:総攻撃開始
夜が白み始めた頃、東軍は岐阜城、およびその防衛網を形成する瑞龍寺山砦、権現山砦、稲葉山砦への総攻撃を開始した 14 。浅野幸長らの部隊が瑞龍寺山砦に、井伊直政らの部隊が稲葉山・権現山砦に猛然と襲いかかった 14 。
城の各登山口では、秀信が配置した津田藤三郎、木造具康、百々綱家らが、決死の覚悟で防戦にあたった 14 。急峻な山道で繰り広げられる攻防は熾烈を極め、東軍は多大な犠牲を出しながらも、圧倒的な兵力でじりじりと防衛線を押し上げていった。
午前:絶たれた援軍
秀信が最後の望みを託した援軍は、ついに現れることはなかった。その理由は、西軍にとって致命的な「情報」の欠如にあった。
東方の犬山城主・石川貞清は、秀信からの援軍要請を受け取る以前に、密かに東軍の井伊直政と内応の密約を交わしていたのである 6 。彼は援軍要請を黙殺し、東軍の背後を突くことはなかった。
一方、西の大垣城では、石田三成が岐阜城の危機を救うべく後詰部隊を派遣していた。重臣の舞兵庫が率いる部隊は長良川西岸の河渡(ごうど)まで進出したが、そこには東軍の田中吉政、藤堂高虎、黒田長政らが待ち構えていた 16 。河渡の戦いと呼ばれるこの戦闘で、西軍の後詰部隊は迎撃されてあえなく敗走。これにより、岐阜城は完全に孤立無援となった 7 。
この勝利に勢いづいた東軍の別働隊は、さらに西進して揖斐川を越え、大垣城の目と鼻の先である赤坂まで進出する 16 。西軍の美濃における防衛線は、完全に崩壊した。
正午:本丸への道
城内では、各所で壮絶な白兵戦が繰り広げられていた。しかし、西軍の防衛の要であった宿将たちが次々と倒れていく。防戦の指揮を執っていた木造具康が銃弾に倒れ負傷すると、西軍の士気と統制は一気に乱れた 1 。百々綱家もまた、腿に被弾して負傷し、指揮を執ることが困難となった 22 。
この時、東軍にとって最大の武器となったのは、かつて岐阜城主であった池田輝政の存在であった。城の構造、抜け道、そして弱点を隅々まで熟知していた彼は、その知識を最大限に活用し、効果的な攻撃を指示した 1 。物理的な兵力差に加え、この「情報」における圧倒的優位が、戦いの趨勢を決定づけた。
輝政の先導により、東軍は城壁を乗り越え、二の丸、三の丸を次々と占拠していく。福島正則は七間櫓を、京極高政は荒神洞を制圧し、輝政は城内に火を放って西軍の戦意を徹底的に削いだ 22 。炎と煙が天を衝き、城兵の絶望を煽った。
午後:落城
追い詰められた織田秀信は、天守(本丸)にて、側近の武士わずか数十人と共に最後の抵抗を続けていた 6 。眼下では自軍の兵が次々と討たれ、もはやこれまでと自刃を覚悟したその時、敵将・池田輝政から降伏勧告の使者が送られる。輝政は、信長の孫である秀信の命を奪うことを惜しみ、丁重に降伏を促した。家臣の木造具康らも、「御命あっての織田家再興」と涙ながらに説得を重ねた 4 。
秀信は、武士としての名誉と、家臣や一族の将来を天秤にかけ、苦渋の末に降伏を決断する。武装を解いた秀信は、弟の秀則と共に山を下り、上加納の浄泉坊(現在の円徳寺)に入って剃髪した 14 。
こうして、斎藤道三、織田信長が拠点とし、難攻不落と謳われた天下の名城・岐阜城は、わずか一日で陥落したのである。
第三部:合戦の帰趨と歴史的意義
戦後処理と各将の動向
岐阜城の落城は、関ヶ原の戦いの序章を締めくくり、関係した武将たちの運命を大きく変えた。
総大将であった織田秀信は、降伏後、高野山へと追放された。織田家の再興を夢見た若き当主は、二度と歴史の表舞台に戻ることはなく、慶長10年(1605年)、失意のうちに26歳という若さで病死したと伝えられている 14 。
一方、戦功を挙げた東軍諸将は、関ヶ原の戦い後の論功行賞で厚く報いられた。岐阜城攻めの総大将格であった池田輝政は、戦後、播磨姫路52万石へと大幅な加増転封となり、「姫路宰相」と称された 23 。福島正則もまた、安芸広島49万8千石を与えられ、豊臣恩顧の大名の中でも屈指の所領を得た。この岐阜城での戦功が、彼らのその後の地位を確固たるものにしたのである。
特筆すべきは、敗軍の将となった秀信の家臣たちのその後である。彼らの多くは、その奮戦ぶりを敵将から高く評価された。百々綱家は、後に土佐一国を与えられた山内一豊に7,000石という破格の待遇で召し抱えられ、土佐藩の重臣として活躍した 22 。その他、多くの家臣が福島家、池田家、浅野家などに招聘され、その武勇を後世に伝えた 5 。これは、戦国乱世の価値観が、単なる勝敗だけでなく、個々の武士の働きや名誉を重んじるものであったことを示している。
戦術的・戦略的分析
織田秀信の采配は、結果として西軍に大敗をもたらしたが、その評価は一面的ではない。敵将であった福島正則が、秀信の戦いぶりと潔い降伏の態度を見て、「さすがは信長の嫡孫なり」と賞賛したという逸話が残っている 5 。この言葉は、圧倒的な兵力差を前にしても臆することなく野戦を挑んだ気概と、無益な殺生を避けて降伏を決断した器量に向けられたものであった。軍事的には無謀な判断であったかもしれないが、織田家の当主としての名誉を重んじたその姿勢は、当時の武士の美学に適うものであった。彼を単なる「遊芸にのみ長じた愚将」と断じるのは、あまりに酷な評価であろう 5 。
戦略的な観点から見れば、この戦いの最大の衝撃は、岐阜城がわずか一日で陥落したという事実そのものであった。大垣城にあって西軍全体の指揮を執っていた石田三成は、難攻不落の岐阜城が少なくとも数週間は東軍の主力を足止めし、その間に西軍が有利な態勢を整えることができると計算していた 6 。しかし、この想定は完全に覆された。
岐阜城の早期陥落という凶報は、西軍全体の士気を著しく低下させ、三成の戦略構想を根底から破綻させた 6 。対応は後手に回り、彼は戦略の根本的な練り直しを余儀なくされたのである。
関ヶ原への道筋
岐阜城の戦いは、単なる前哨戦ではなかった。それは、「関ヶ原での決戦」という歴史的シナリオを必然的なものにした、決定的な出来事であった。
岐阜城という美濃における最大の抵抗拠点を排除した東軍は、西軍の本拠地である大垣城に迫るための進軍路を完全に確保した 15 。この勝利は東軍の士気を大いに高め、西進を加速させた。一方、西軍は防衛線を木曽川から一気に西美濃まで後退させざるを得なくなり、大垣城で籠城するか、あるいは別の場所で決戦を挑むかという、極めて不利な選択を迫られた 15 。
もし岐阜城が持ちこたえていれば、戦線は美濃で膠着し、家康本隊の到着を待っての長期戦や、伊勢方面など別の戦線が主戦場となる可能性も十分に考えられた。しかし、この一日での劇的な決着が、西軍の戦略的選択肢を奪い、三成を大垣城から関ヶ原という決戦の盆地へとおびり出す流れを、もはや引き返せないものにしたのである。
結果として、この岐阜城の戦いが、両軍が関ヶ原という地で対峙する地理的・戦略的な状況を生み出す直接的な引き金となった。天下分け目の舞台は、この美濃での一日によって整えられたと言っても過言ではない 25 。
総括:関ヶ原を決定づけた一日
慶長5年(1600年)8月22日から23日にかけての「加納口・岐阜城の戦い」は、関ヶ原の戦い全体の趨勢を決定づけた、極めて重要な戦いであった。
織田信長の嫡孫として、一族の再興を夢見た織田秀信の悲劇的な決断。池田輝政、福島正則ら東軍諸将が見せた、圧倒的な兵力と計算され尽くした電撃戦。そして、難攻不落と謳われた名城の、あまりにも早い落城がもたらした心理的・戦略的衝撃。これら全ての要素が絡み合い、歴史の歯車を大きく動かした。
この戦いは、西軍の戦略的前提を根底から覆し、東軍に戦いの主導権を完全に掌握させた。そして、両軍を関ヶ原という最終決戦の舞台へと導いたのである。わずか二日間の美濃での攻防は、その後の日本の歴史を決定づける、まさに天下分け目の序章であった。
付録:美濃攻防戦 時系列行動表(慶長五年八月二十二日~二十三日)
日付/時刻(推定) |
場所 |
東軍の行動 |
西軍の行動 |
結果・影響 |
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8月22日/明け方 |
木曽川・河田 |
池田輝政隊、渡河を開始。 |
織田軍、対岸から鉄砲で応戦。 |
東軍、渡河に成功し美濃へ侵入。 |
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8月22日/午前-午後 |
竹ヶ鼻城 |
福島正則隊、城を包囲・攻撃。 |
城主・杉浦重勝、徹底抗戦。 |
激戦の末、竹ヶ鼻城は落城。杉浦重勝は自刃。 |
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8月22日/昼頃 |
米野 |
池田輝政隊、西軍主力を攻撃。 |
百々綱家・木造具康隊、奮戦するも敗走。 |
西軍の野戦部隊が事実上壊滅。岐阜城への道が開かれる。 |
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8月22日/午後 |
印食 |
池田輝政隊、敗走する西軍を追撃。 |
織田秀信、自ら出陣するも敗退し岐阜城へ撤退。 |
秀信の野戦での抵抗は失敗に終わる。 |
|
8月22日/日没 |
岐阜城下 |
池田・福島隊が合流し、岐阜城を完全に包囲。 |
秀信、籠城を決意。大垣城・犬山城へ援軍を要請。 |
岐阜城は完全に孤立する。 |
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8月23日/早朝 |
岐阜城・各砦 |
諸隊、四方から総攻撃を開始。 |
各登城口で必死の防戦。 |
岐阜城攻防戦の本戦が開始される。 |
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8月23日/午前 |
河渡 |
田中吉政・藤堂高虎隊、西軍後詰部隊を迎撃。 |
舞兵庫率いる後詰部隊、敗走。 |
岐阜城への援軍は完全に断たれる。 |
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8月23日/正午頃 |
岐阜城内 |
池田輝政の先導で城内へ侵攻。二の丸などを制圧。 |
木造具康、百々綱家らが負傷し、防衛線が崩壊。 |
東軍が城の中枢部へ迫る。 |
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8月23日/午後 |
岐阜城・本丸 |
池田輝政、降伏を勧告。 |
織田秀信、自刃を覚悟するも説得に応じ降伏を決断。 |
岐阜城、落城。関ヶ原への道筋が定まる。 |
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出典: 14 などに基づき作成 |
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引用文献
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- 関ヶ原の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E3%83%B6%E5%8E%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
- 7/13(土)〜9/1(日)夏季企画展「関ケ原合戦の前哨戦ー美濃・尾張の攻防ー」を開催します https://sekigahara.pref.gifu.lg.jp/event/%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E3%83%BB%E6%AD%A6%E5%B0%86%E3%82%A4%E3%83%99%E3%83%B3%E3%83%88/p6241/
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- 彦根の武将 —百々氏・田付氏・本庄氏—編 - 不易流行 https://fuekiryuko.net/articles/-/1190
- 関ヶ原の戦いと中山道① - よしもと新聞舗:岐阜県瑞穂市情報お届けサイト https://www.yoshimoto-shinbun.com/history/%E9%96%A2%E3%83%B6%E5%8E%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84%E3%81%A8%E4%B8%AD%E5%B1%B1%E9%81%93%E2%91%A0/
- 岐阜城の戦い/古戦場|ホームメイト https://www.touken-collection-kuwana.jp/mie-gifu-kosenjo/gifujo-kosenjo/