最終更新日 2025-08-26

加賀一向一揆(1488~1580)

加賀一向一揆は、守護を打倒し「百姓の持ちたる国」を約一世紀にわたり築いた。蓮如の教えと民衆の力が結集し、戦国大名と抗争。信長に徹底的に鎮圧されたが、その歴史は民衆の力を示した。

加賀一向一揆(1488–1580):守護を打倒し、約一世紀にわたり君臨した「百姓の持ちたる国」の興亡

序章:動乱前夜の加賀――「百姓の持ちたる国」が生まれる土壌

加賀一向一揆という、日本史上類を見ない民衆による権力掌握と長期統治は、決して偶発的に発生した現象ではない。それは、室町幕府の権威が失墜し、地方の支配体制が根底から揺らいだ時代を背景に、守護大名の内紛という政治的亀裂と、本願寺教団の爆発的な拡大という宗教的エネルギーが、加賀国という crucible の中で融合した必然的な帰結であった。この序章では、一揆勃発に至るまでの加賀国における権力構造の崩壊と、新たな社会秩序の胎動を詳述する。

第一節:権威の崩壊――応仁・文明の乱と守護・富樫氏の内訌

応仁・文明の乱(1467-1477)は、京都を焦土と化しただけでなく、その戦火は全国に飛び火し、室町幕府が築き上げた守護体制を根幹から揺るがした 1 。加賀国もその例外ではなく、守護・富樫氏の内部で繰り広げられた骨肉の争いは、外部勢力が介入する絶好の機会を提供した。

もともと加賀では、富樫氏一族が北半国と南半国を分治する不安定な状態が続いていた 2 。応仁の乱が勃発すると、この対立は京の東西両軍に連動し、より深刻化する。富樫政親は細川勝元率いる東軍に、その弟・幸千代は山名宗全率いる西軍に属し、加賀国を舞台に泥沼の内戦を繰り広げた 3 。この内訌は、単なる兄弟喧嘩の域を超え、それぞれが国内の武士や宗教勢力を味方につける代理戦争の様相を呈していた。幸千代が高田門徒と結んだのに対し、政親は本願寺門徒と白山衆徒の支援を仰いだのである 3

当初、西軍の支援を受けた幸千代の勢いは強く、政親は一時加賀を追われるほどの苦境に立たされた。ここで政親は、起死回生の一手を打つ。当時、北陸で急速に信者を増やしていた本願寺門徒、すなわち一向一揆の軍事力に全面的な支援を要請したのである 4 。政親は、本願寺門徒の加賀における活動の自由を保障することを条件に、彼らの力を借りることに成功した 5 。文明6年(1474年)、本願寺門徒の圧倒的な兵力を得た政親は、幸千代方の拠点である蓮台寺城を攻略し、幸千代を加賀から追放。ついに加賀一国の守護職をその手に収めた 3

この政親の勝利は、一見すれば彼の政治的・軍事的成功に見える。しかし、その実態は、自らの権力基盤を確立するために、極めて危険な「劇薬」に手を出したに等しかった。政親は一向宗門徒を自らの権力闘争の「駒」として利用したつもりであったが、この行為は結果として、門徒衆が加賀国内で公然と武力を行使するための「お墨付き」を与えることになった。守護自らが、その支配下にあるはずの宗教団体に軍事行動を許可した瞬間、一向一揆は単なる信仰集団から、加賀の政治地図を塗り替える力を持つ公認の軍事・政治勢力へと変貌を遂げたのである。政親の勝利は、皮肉にも彼自身を打倒する勢力を公認し、育てるという、長期的な自己破滅の種を蒔く行為に他ならなかった。

第二節:信仰の奔流――本願寺蓮如の北陸布教と門徒組織の拡大

富樫政親が頼った本願寺門徒の力の源泉は、本願寺第八世法主・蓮如の存在なくして語ることはできない。蓮如は、比叡山延暦寺など旧仏教勢力からの弾圧(寛正の法難)を逃れ、文明3年(1471年)に越前吉崎に拠点を移した 5 。ここから始まった彼の精力的な布教活動は、北陸の社会構造を根底から変容させる巨大なうねりを生み出すことになる。

蓮如の教えは、「南無阿弥陀仏」を唱えれば、身分や善悪に関わらず誰もが救われるという、明快かつ平等なものであった。これは、戦乱や重税に苦しむ当時の民衆の心に深く響いた。さらに蓮如の布教戦略が巧みだったのは、既存の社会組織を巧みに利用した点にある。当時の北陸地方では、地縁や血縁で結ばれた村落共同体「惣村」が高度な自治能力を持っており、領主の支配力は弱体化しつつあった 5 。蓮如は、これらの惣村の指導者層を布教の足掛かりとし、彼らを宗教的指導者とすることで、惣村の自治組織を丸ごと本願寺の門徒組織「講」へと転換させていったのである 5

この手法は、単に個人の信仰を変えるに留まらなかった。それは、加賀国に点在していた無数の自律的な惣村を、「本願寺」という巨大なネットワークを持つ中央集権的な指導部へと接続する行為であった。結果として、加賀の民衆は、守護・富樫氏への忠誠とは全く別の、より強固な本願寺への忠誠心を抱くようになった。守護の支配系統とは異なる、強力な指揮命令系統を持つ巨大組織が、加賀国内に誕生した瞬間であり、一種の二重権力構造が形成されたのである。これが後に、国全体を動かすほどの驚異的な動員力を生み出す源泉となった。

しかし、蓮如自身は、門徒が過激な武力闘争に走ることを常に警戒していた。彼は、門徒の増長が在地領主や他の宗教勢力との摩擦を生むことを危惧し、文明5年(1473年)には「守護・地頭の命令を無視してはならない」「他宗を誹謗中傷してはならない」といった内容を盛り込んだ「掟文」を発布し、門徒の行動を厳しく戒めている 5 。だが、一度燃え上がった信仰の炎と、それによって組織化された数百万の門徒のエネルギーは、もはや蓮如一人の意図では制御不能な段階に達していた。特に、政親の内紛に加担して勝利を収めた成功体験は、彼らに「仏法のためならば武力行使も許される」という過信を植え付け、その力をさらに増長させる結果となったのである 5


表1:加賀一向一揆 関連年表

年代

出来事

1471年(文明3年)

本願寺蓮如、越前吉崎に吉崎御坊を建立。北陸での布教を本格化させる。

1474年(文明6年)

富樫政親、一向宗門徒の支援を得て弟・幸千代を破り、加賀一国の守護となる(文明の一揆)。

1487年(長享元年)

政親、将軍足利義尚の近江出兵(鈎の陣)に従軍。不在中に加賀国内で一揆の動きが活発化し、急遽帰国する。

1488年(長享2年)

長享の一揆 。門徒20万が高尾城を包囲し、政親は自害。一揆勢が富樫泰高を傀儡守護に立て、「百姓の持ちたる国」が成立。

1506年(永正3年)

九頭竜川の戦い 。越前へ侵攻した一向一揆軍が、朝倉宗滴率いる朝倉軍に大敗を喫する。

1546年(天文15年)

加賀支配の拠点として、尾山御坊(金沢御堂)が創建される。

1570年(元亀元年)

織田信長と石山本願寺の間で石山合戦が勃発。加賀一向一揆も反信長勢力の中核となる。

1577年(天正5年)

手取川の戦い 。上杉謙信と共闘し、柴田勝家率いる織田軍を撃破する。

1580年(天正8年)

石山本願寺が織田信長に降伏。柴田勝家が加賀へ侵攻し、尾山御坊を攻略する。

1582年(天正10年)

最後の拠点であった鳥越城が佐久間盛政によって陥落。加賀一向一揆は完全に鎮圧され、約92年間の支配に終止符が打たれる。


第一章:長享の一揆(1488年)――守護・富樫政親の滅亡【リアルタイム戦闘詳報】

長享2年(1488年)、加賀国で起きた出来事は、単なる一揆のレベルを遥かに超えていた。それは、被支配者であるはずの民衆が、室町幕府公認の地方最高権力者である守護を武力で攻め滅ぼすという、日本の社会秩序の根幹を揺るがす「革命」であった。本章では、この歴史的な高尾城攻防戦の推移を、あたかも戦場で時を刻んでいるかのような臨場感をもって、詳細な時系列で再現する。

発端:約束の反故と最後の決断

全ての始まりは、富樫政親の判断ミスにあった。長享元年(1487年)9月、政親は第9代将軍・足利義尚が自ら軍を率いた近江守護・六角高頼討伐(鈎の陣)に、幕府への忠誠を示すべく従軍した 3 。しかし、この長期にわたる遠征は、彼の財政を著しく圧迫した。

政親は、この軍資金と兵糧の調達を、あろうことか加賀国内の本願寺門徒に要求したのである 2 。これは致命的な失策であった。かつて、門徒の保護を約束することで彼らの力を借り、守護の座を手に入れた政親が、今やその同じ相手を一方的な収奪の対象と見なし始めた 9 。この「約束の反故」は、すでに加賀国内で強大な自治権を確立しつつあった門徒衆の怒りを爆発させるのに十分すぎる理由となった 7

1487年12月 、分国・加賀での不穏な動きを察知した政親は、将軍義尚の許可を得て、急遽戦線を離脱し帰国する 7 。彼は、門徒との全面対決が不可避であることを悟っていた。帰国した政親は、直ちに居城である高尾城(現在の金沢市)の大規模な修築に着手し、来るべき籠城戦に備えた 7 。加賀の空には、破局の暗雲が垂れ込めていた。

開戦前夜:二十万の蜂起

年が明けた 1488年(長享2年)5月 、ついに門徒衆は動いた。加賀国全域で、本願寺門徒を中心とする反政親勢力が一斉に蜂起したのである 7 。その数は二十万とも号し、政親の統治に不満を抱いていた在地国人らもこれに合流した 4 。高橋新左衛門といった地域ごとの指導者に率いられた一揆軍は、押野の山王林などに陣を敷き、政親の籠る高尾城を幾重にも包囲していった 11

事態の深刻さをようやく認識した京の幕府では、 5月26日 、将軍義尚が越前守護・朝倉貞景(朝倉孝景の子)に対し、政親救援の出兵を命じる 7 。しかし、この命令はあまりにも遅すぎた。

攻防の時系列:絶望的な籠城戦

高尾城を巡る攻防は、当初から政親にとって絶望的な状況下で始まった。それは単なる兵力差の問題ではなかった。一揆勢は、驚くほど高度な戦略的思考と情報伝達能力を発揮し、政親を完全に孤立させたのである。

包囲網の完成と援軍の遮断(5月下旬~6月上旬):

一揆勢の最初の行動は、高尾城への直接攻撃ではなく、外部からの救援ルートを完全に遮断することであった。彼らは、越前との国境地帯に兵力を迅速に展開し、山道を封鎖。朝倉軍の加賀入りを物理的に不可能にした 7。これは、加賀国内に張り巡らされた門徒のネットワークが、単なる信仰共同体としてだけでなく、情報伝達網および兵站線として極めて高度に機能していたことを示している。守護の支配が主要街道や拠点といった「点と線」であったのに対し、一揆の支配は国全体を覆う「面」であった。この組織力の差が、戦いの趨勢を序盤で決定づけた。

さらに、能登守護・畠山義統が派遣した援軍も、河北郡黒津船の浜で待ち構えていた一揆勢に迎撃され、敗退 7 。政親にとって最後の望みであった越中方面からの援軍を迎え入れるため、城内の武将・山川高藤が手勢1500を率いて城外へ出撃するも、これも一揆勢の巧みな夜襲に遭い、撃退されてしまう 7 。高尾城は、文字通り陸の孤島と化した。

最後の交渉と総攻撃の開始(6月初旬~6月9日):

外部からの救援が絶望的となる中、政親方の本郷修理進春親が包囲を解くよう説得を試みるが、当然のごとく失敗に終わる 7。断続的な小競り合いが続く中、城内の士気は日に日に低下していった。

そして 6月7日午前6時 、一揆勢による本格的な総攻撃の火蓋が切られた 7 。鬨の声が大地を揺るがし、無数の旗指物が城へと押し寄せる。城内では、政親配下の譜代の部将たちが必死の防戦を繰り広げたが、その兵力は多く見積もっても一万程度 4 。二十倍以上の敵に対して、彼らの抵抗はあまりにも無力であった。

落城の瞬間(6月9日):

運命の6月9日、最後の決戦が行われた 7。圧倒的な物量で押し寄せる一揆勢の前に、城の防衛線は次々と突破される。奮戦していた山川高藤らも捕らえられるか、あるいは討死した 7。

全ての望みを断たれた富樫政親は、もはやこれまでと覚悟を決める。城の一角で、子の又次郎と共に自害して果てた 3 。享年34。かつて一揆の力を借りて加賀の覇者となった男は、その同じ力によって滅ぼされたのである。


表2:高尾城の戦い(1488年6月)における両軍の兵力と布陣

勢力

一揆軍(反政親勢力)

富樫軍(守護方)

総兵力

約20万

約1万

総大将

(特定の単独指揮官はなし)

富樫政親

主な指導者/武将

高橋新左衛門、洲崎慶覚、河合宣久、今久江太郎 など

山川高藤、本郷修理進春親、松山左近(正門守備)、森宗三郎(背門守備) など

布陣

高尾城を完全包囲。押野、富樫本庄などに布陣。越前・能登国境を封鎖し、援軍を遮断。

高尾城に籠城。正門、背門などに兵力を重点配置。


戦後処理:新たな支配者の誕生

政親自害の報は、近江にいた将軍義尚を激怒させた。義尚は本願寺法主である蓮如に対し、門徒を破門するよう厳しく迫った 7 。これに対し、

7月4日 、蓮如は自らの意図を超えて暴走した門徒の行動を「仏法の上からはあるまじきこと」と非難・叱責する御文章を発した 4 。しかし、これは事態を追認する形式的なものに過ぎず、歴史の流れを変える力はなかった 5

一方、勝利した一揆勢は、反政親派であった富樫一族の長老・富樫泰高を新たな守護として擁立した 7 。しかし、これはあくまで対外的な体面を保つための名目上の措置であり、加賀国の実権は完全に一向一揆指導部が掌握した 2

この「守護殺し」の事実は、日本社会に巨大な衝撃を与えた。守護は、幕府から公的に任命された地方の最高権力者である。その守護を、被支配者であるはずの「百姓」が組織的な武力で打倒し、自害に追い込んだという事実は、応仁の乱以降の「下剋上」の風潮を象徴する出来事であると同時に、その中でも最も先鋭的かつ大規模な事例であった。この前代未聞の事件は、他の戦国大名たちに「一向一揆」という存在の恐ろしさを骨の髄まで刻み込み、後の織田信長が一向宗を妥協の対象とせず、根絶やしにすべき「国家内国家」と見なす論理的根拠の一つとなったのである。

第二章:「百姓の持ちたる国」の実像――約一世紀にわたる統治体制の解明

守護・富樫政親を打倒した加賀の一向一揆は、その後、天正8年(1580年)に織田信長の勢力によって制圧されるまでの約一世紀にわたり、加賀国を実効支配した。この期間、加賀は「百姓の持ちたる国」と称された 17 。しかし、その言葉が示す統治の実態は、近代的な意味での「農民共和制」とは大きく異なる、複雑な権力構造を持っていた。本章では、その統治体制を解明し、「百姓の持ちたる国」という言葉の真の意味に迫る。

第一節:新たな権力構造――傀儡守護と本願寺の統制

長享の一揆の後、一揆勢は富樫泰高を守護に擁立したが、彼とその子孫は実権を全く持たない名目上の存在、すなわち「お飾り」であった 2 。加賀国の実質的な統治は、本願寺教団を頂点とする新たな支配層によって行われた。

その権力の中枢を担ったのは、本願寺から派遣された「坊官」と呼ばれる行政官たちであった 19 。特に下間氏などがこの役職を担い、本願寺法主の意向を受けて加賀国全体の統治方針を決定した。そして、その下で現地の有力寺院の僧侶や、一向宗門徒となった国人領主たちが、各郡や地域の支配を分担するという体制が敷かれた 6 。これは、従来の武家政権に代わる、一種の宗教的官僚制とも言うべき統治システムであった。

この新体制の象徴であり、物理的な拠点となったのが、天文15年(1546年)に建設された「尾山御坊(金沢御堂)」である 17 。加賀の中心部に築かれたこの広大な寺院兼城郭は、加賀支配の中枢として機能し、後の加賀百万石の居城・金沢城の原型となった。

興味深いのは、一揆勢がなぜ富樫泰高という傀儡の守護を必要としたかという点である。これは、彼らが直面した「正統性のジレンマ」を巧みに乗り越えるための、高度な政治的戦略であった。当時の日本は、依然として室町幕府を頂点とする守護体制という権威体系の中にあった。その中で、守護を打倒し、全く新しい統治体制を樹立したと公言することは、越前の朝倉氏や能登の畠山氏といった周辺の守護大名すべてを敵に回す危険な行為であった。彼らから「幕府の秩序を破壊する反逆者」として攻撃される大義名分を与えかねない。そこで泰高を名目上の守護として立てることで、「我々は幕府に反逆しているのではなく、悪しき守護であった政親を討伐し、正統な富樫氏の当主を擁立しただけだ」という対外的な体裁を整えたのである。この傀儡守護は、革命勢力が旧体制の権威を一時的に利用し、外部からの干渉を防ぐための、極めて重要な緩衝材として機能した。

第二節:「百姓の持ちたる国」の再評価

「百姓の持ちたる国」という言葉は、本願寺の僧・実悟が記した文書に由来するが、その原文を詳細に検討すると、「近年は百姓の持ちたる国の『やうに』(ように)なり行き候」と記されており、加賀が直接的に「百姓の国である」と断定しているわけではないことがわかる 10 。この表現は、旧来の武士階級による支配とは全く異なる様相を呈していることを強調したものであり、その統治の実態を正確に分析する必要がある。

結論から言えば、この統治体制は、民衆が直接政治の意思決定に関与するような共和制では決してなかった 13 。支配者が守護・富樫氏という武士から、本願寺教団という宗教権力に入れ替わったに過ぎず、本願寺が大名のようなポジションで加賀を統治したというのが実態に近い 10

しかし、それでもなお、この体制が「百姓の持ちたる国」と呼ばれたのには理由がある。それは、統治のあり方が二重構造を持っていたからである。全体の統治方針や外交といったマクロな意思決定は、本願寺から派遣された坊官が担う「中央集権的」な側面を持っていた。一方で、各地域における年貢の徴収や紛争の調停といった日常的なミクロな統治は、惣村を基盤とする現地の門徒指導者や国人に大きく委ねられていた。この「地方分権的」な側面が、旧来の守護による一方的な支配と比較して、民衆の意向がある程度反映されやすい構造を生み出していた可能性がある。この中央の統制と地方の自治が組み合わさった柔軟なシステムこそが、約100年という長期支配を可能にした要因の一つであり、当時の人々をして「百姓の持ちたる国」のようだ、と言わしめた本質であったと考えられる。

第三章:外部勢力との抗争――朝倉、上杉、そして織田との死闘

守護を打倒し、加賀国に独自の支配体制を築いた一向一揆であったが、その独立は常に外部からの脅威に晒されていた。彼らは単なる国内の反乱勢力ではなく、戦国時代の北陸における一大パワーとして、周辺の戦国大名と絶え間ない抗争を繰り広げることになる。これは、彼らが戦国史の主要なプレーヤーの一人であったことの証左に他ならない。

第一節:越前を巡る宿敵――朝倉氏との九頭竜川の戦い(1506年)

加賀を平定した一揆勢が次なる目標としたのは、隣国・越前への勢力拡大であった。蓮如の拠点であった吉崎御坊が越前にあったこともあり、この地域には多くの門徒が存在した。一揆勢はこれを足掛かりに、越前への侵攻を繰り返した 21 。これに対し、越前を支配する朝倉氏は、自国の防衛と宗教勢力の介入排除のため、一向一揆と全面的な対決姿勢を示した。

両者の対立が頂点に達したのが、永正3年(1506年)の「九頭竜川の戦い」である。加賀・能登・越中から門徒を動員した一揆軍は、三十万(誇張を含む数字と考えられる)と号する空前の大軍を組織し、越前へと雪崩れ込んだ 22 。対する朝倉軍は、当主・朝倉貞景の名代として、一族の名将・朝倉宗滴(教景)が総大将を務め、その兵力はわずか一万余であった 21

両軍は九頭竜川を挟んで対峙する。圧倒的な兵力を誇る一揆軍であったが、その指揮系統は統一されておらず、統制を欠いていた。宗滴は、この弱点を的確に見抜いていた。8月6日、宗滴は敵の機先を制するべく、夜陰に乗じて精鋭部隊に渡河を命じ、油断していた一揆軍本陣に奇襲をかけた 21 。不意を突かれた一揆軍はたちまち大混乱に陥り、組織的な抵抗ができないまま総崩れとなった。朝倉軍は勢いに乗り、敗走する一揆軍を追撃し、甚大な被害を与えた。この戦いの後、朝倉軍は越前国内にあった吉崎御坊を焼き払い、一向宗の勢力を一掃した 22

この九頭竜川での大敗北は、加賀一向一揆の軍事的な本質と限界を浮き彫りにした。彼らの強みは、信仰に裏打ちされ、地の利を生かした「防御戦」や「ゲリラ戦」にあった。自らの領土である加賀を防衛する際には、民衆の全面的な支援を受けた無尽蔵ともいえる兵力で、敵を消耗させることができた。しかし、領外へ「侵攻」し、朝倉軍のような高度に訓練されたプロの武士団と平野で会戦する際には、指揮系統の未熟さや兵種の不統一といった構造的な弱点が露呈する。朝倉宗滴は、その弱点を冷徹に見抜き、一揆軍が最も脆弱な瞬間を突くという、プロフェッショナルならではの戦術で歴史的な大勝利を収めたのである。この敗戦は、一揆勢の対外的な勢力拡大に大きな歯止めをかける結果となった。

第二節:反信長包囲網の一翼として――上杉謙信との共闘と手取川の戦い(1577年)

時代は下り、尾張から台頭した織田信長が「天下布武」を掲げて勢力を拡大すると、北陸の政治情勢は一変する。信長は、その支配に抵抗する宗教勢力を徹底的に弾圧する方針を採り、石山本願寺と全面戦争(石山合戦)に突入した。この「織田信長」という共通の敵の出現は、長年の宿敵であった越後の「軍神」上杉謙信と、加賀一向一揆が手を結ぶという、劇的な外交的転換をもたらした 26

天正5年(1577年)、信長の部将・柴田勝家が率いる北陸方面軍は、能登へと侵攻した。これに対し、能登の畠山氏救援と、信長包囲網の一翼を担うべく、上杉謙信は自ら大軍を率いて出陣する。両軍が加賀国の手取川で対峙したのが「手取川の戦い」である 28

この戦いにおいて、加賀一向一揆は極めて重要な役割を果たした。彼らは、手取川を渡河して進軍する織田軍の後方を執拗に攻撃し、その補給線を脅かしたのである 28 。前方に布陣する上杉軍本隊と、後方から攪乱する一揆軍に挟撃される形となった織田軍は、大雨による川の増水という悪条件も重なり、大混乱に陥って敗走した。

この手取川の戦いは、加賀一向一揆が、もはや単なる一地方の反乱勢力ではなく、日本の覇権を争う最大級の戦国大名たちの戦略に直接影響を与える、重要な地政学的キープレイヤーであったことを明確に示している。彼らの存在は、信長や謙信にとって、常に計算に入れなければならない戦略的変数であり、北陸方面の情勢を著しく複雑化させていた。彼らは、敵の敵と手を組むという、極めて合理的な外交判断を下す能力を持った、独立した政治勢力だったのである。

第四章:王国の終焉(1580-1582年)――柴田勝家による制圧と鳥越城の悲劇

約一世紀にわたり、武士の支配を拒み続けた「百姓の持ちたる国」も、織田信長の圧倒的な軍事力の前に、ついに終焉の時を迎える。その壮絶な最後の二年間は、王国の孤立、拠点の陥落、そして最後の抵抗者たちの悲劇的な結末へと続く、避けられぬ滅びの物語であった。

第一節:本山の降伏と王国の孤立

天正8年(1580年)、加賀の門徒たちにとって、その信仰と抵抗の根幹を揺るがす事件が起こる。10年以上にわたり信長と死闘を繰り広げてきた本願寺教団の総本山、大坂の石山本願寺が、ついに信長に降伏したのである 30 。法主・顕如が朝廷の勅命を受け入れ、石山を退去したという報は、加賀の門徒たちに計り知れない衝撃を与えた 32

この本山の降伏が加賀一揆に与えた影響は、軍事的なもの以上に「イデオロギー的」なものであった。「仏法のため、本願寺を守るため」という、彼らの長年にわたる戦いの大義名分そのものが、最高指導者である法主・顕如の降伏によって消滅してしまったのである。これにより、加賀一向一揆は精神的な支柱と中央の指令系統を同時に失い、完全に孤立無援の状態で、織田軍の総攻撃に単独で直面することになった。抵抗を続ける者たちは、もはや本願寺中央からも見捨てられた「反逆者」という立場に追い込まれ、彼らの戦いは勝利のためではなく、信仰と意地を貫くための殉教へとその意味合いを変質させていった。

第二節:柴田勝家の侵攻と尾山御坊の陥落

石山本願寺の降伏という好機を逃さず、信長の北陸方面軍総司令官・柴田勝家は、配下の猛将・佐久間盛政らと共に、加賀への最終的な制圧作戦を開始した 30 。顕如の子・教如の檄に応じて抵抗を続ける門徒もいたが、もはやその力は往年のものではなかった。

1580年11月 、一揆の政治・軍事拠点であった尾山御坊は、織田軍の猛攻の前に陥落する 30 。この地は、一揆制圧の功労者である佐久間盛政に与えられ、彼は直ちに新たな城の築城を開始した。これが「金沢城」の始まりである 34 。王国の首都が陥落したことで、加賀の平野部は完全に織田方の支配下に入った。

第三節:最後の砦・鳥越城の攻防と徹底的な残党狩り

平野部を制圧された後も、白山麓の険しい山々に住む門徒たち(山内衆)は、鳥越城や二曲城を拠点に、絶望的な抵抗を続けた 36 。彼らは、信仰心が篤く、また山岳ゲリラ戦に長けた精強な集団であった。

鳥越城を巡っては、凄惨な攻防戦が繰り返された。織田軍によって一度は落城するも、門徒が奇襲によって奪回するなど、一進一退の攻防が続いた 36 。城主であった鈴木出羽守は、鉄砲の名手で知られる雑賀衆の鈴木一族とも伝えられ、城からは全国の山城でも最多クラスの鉄砲弾が出土しており、彼らが最新兵器を駆使して激しく抵抗した様子がうかがえる 18

しかし、その抵抗も長くは続かなかった。 天正10年(1582年)3月 、佐久間盛政による最終的な鎮圧作戦が実行され、鳥越城は完全に陥落した 39 。そして、織田軍が取った措置は、戦国時代を通じても類を見ないほど残虐なものであった。城内の抵抗者はもちろんのこと、捕らえられた三百人以上の門徒が、手取川の河原で磔に処せられたのである 38

この行為は、単なる見せしめや報復ではなかった。これは、信長政権による新しい統治システムを確立するための、合理的かつ冷酷な政治的行為、すなわち「根切り」であった。一向一揆の強さの源泉は、特定の指導者ではなく、地域社会に深く根差した信仰共同体そのものにある。そのため、指導者を殺すだけでは、いずれ新たな指導者が現れ、一揆は再燃する可能性がある。信長と勝家は、共同体そのものを物理的に破壊し、圧倒的な恐怖によって人々の心から抵抗の意志を根こそぎ奪い去ることこそが、唯一の恒久的な解決策であると判断したのである。この鳥越城の悲劇をもって、約92年間にわたった加賀一向一揆は、血の海の中に完全に終息した 18

結論:加賀一向一揆が戦国史に残した遺産

加賀一向一揆は、その発生から終焉までの約92年間、戦国時代の日本において極めて特異な光を放ち続けた。その歴史的意義は、多岐にわたる。

第一に、加賀一向一揆は、守護大名という幕府公認の権力者を民衆が組織的な武力で打倒し、その後約一世紀にわたって一国を統治した、日本史上唯一無二の事例である。これは、応仁の乱以降の下剋上の風潮の中でも最も先鋭的な形態であり、武士階級だけが歴史を動かす主役ではなかったことを雄弁に物語っている。信仰という強固なイデオロギーで結ばれた民衆が、時に既存の支配体制を覆すほどの巨大なエネルギーを持ちうることを、彼らは身をもって証明した。

第二に、彼らが築き上げた「百姓の持ちたる国」は、その実態が本願寺教団による神権政治であったとはいえ、従来の武家支配とは異なる統治のあり方を模索した点で重要である。中央からの坊官による統制と、惣村を基盤とした地域の自治が融合したその統治システムは、戦国時代の多様な権力形態の一つとして、さらなる研究が待たれる。

第三に、その壮絶な終焉は、戦国時代の終焉と、織田信長による近世的な中央集権体制への移行を象徴する出来事であった。「根切り」という徹底的な殲滅策は、地域共同体や宗教的権威といった、中央権力に従わない中間的な権力を一切認めないという、信長の新しい国家観を過激な形で示したものであった。

最後に、加賀一向一揆の記憶は、その後の加賀の歴史に深い影響を与えた。一揆を制圧した後、この地を治めることになった前田利家は、一揆の記憶が生々しいこの地を統治するにあたり、単なる武断的な支配だけでは不十分であることを理解していた 40 。彼が文化や産業の振興に力を入れ、いわゆる「加賀百万石」の華やかな文化を築き上げた背景には、この地がかつて経験した激しい抵抗の歴史を鎮め、新たな統治の正統性を確立する必要があったという側面も無視できない。

加賀一向一揆は、敗れ去った者たちの物語である。しかし、その存在は、戦国という時代の複雑さと奥深さ、そして歴史を動かす力の源泉が、決して一つではなかったことを我々に教えてくれる。彼らは、民衆のエネルギーの巨大な記念碑として、日本の歴史の中に確固たる位置を占めているのである。

引用文献

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