最終更新日 2025-08-28

勝瑞城の戦い(1585)

天正十三年 阿波平定戦役詳報 ― 勝瑞城陥落の真実と四国の再編

序章:天下人への道、残された版図

天正十三年(1585年)、羽柴秀吉による四国平定は、その天下統一事業において極めて重要な一画を成すものであった。本報告書が主題とする「勝瑞城の戦い」は、この巨大な軍事・政治的文脈の中に位置づけられるべき事象であり、単一の城を巡る攻防戦としてではなく、阿波国、ひいては四国全体の支配構造が根底から覆る一大転換点として理解されねばならない。その本質を解明するためには、まず秀吉と、当時四国の覇者であった長宗我部元親との関係性の変遷、そして天正十年(1582年)という画期がもたらした地政学的激変から筆を起こす必要がある。

当初、長宗我部元親と織田信長の関係は決して敵対的なものではなかった。天正三年(1575年)、土佐一国を統一した元親は、中央の覇者である信長との連携を模索し、長男・弥三郎(後の信親)の烏帽子親となることを信長に依頼した。信長はこれを快諾し、自らの一字を与えて「信親」と名乗らせるなど、両者の間には友好関係が築かれていた 1 。しかし、元親の野心は土佐一国に留まらなかった。阿波、讃岐、伊予へとその勢力を拡大するにつれ、四国全土を自らの支配下に置こうとする信長の構想と正面から衝突することになる。

この緊張関係が沸点に達しようとしていた天正十年(1582年)六月、本能寺の変が勃発する 2 。信長の死は、織田家による四国侵攻計画を頓挫させ、権力の空白を生み出した。元親はこの千載一遇の好機を逃さず、四国統一を完遂すべく猛然と行動を開始する 3 。その最大の標的となったのが、阿波国に最後の拠点を維持していた三好氏の残存勢力、十河存保であった。同年、中富川の戦いで存保を破った元親は、勢いに乗り三好氏の本拠・勝瑞城を包囲する 5 。この1582年の勝瑞城攻防戦は、折からの大洪水により攻守ともに甚大な被害を出す激戦であったと記録されている 7 。最終的に存保は城を放棄し、阿波は完全に元親の支配下に入った。これにより、1585年の戦役開始時点で、勝瑞城は既に長宗我部方の拠点となっていたのである 8

一方、信長の後継者として急速に台頭した羽柴秀吉にとって、四国に独立勢力を築き上げた元親の存在は、天下統一事業における看過できぬ障害であった。特に小牧・長久手の戦いを経て徳川家康と和睦し、東方を安定させた秀吉にとって、背後に位置する四国の平定は、西国、とりわけ毛利氏の動向を安定させ、来るべき九州征伐への布石を打つ上で不可欠な戦略的要請であった 9 。かくして、秀吉と元親の対決は避けられないものとなった。1585年の「勝瑞城の戦い」とは、この文脈において、秀吉の中央集権的権力が、地域の独立勢力を完全に屈服させる過程で起きた、阿波平定戦役の最終局面を象徴する出来事なのである。

第一章:秀吉の大戦略 ― 十万の軍勢、四国を呑む

羽柴秀吉による四国平定は、その周到な計画と圧倒的な物量において、旧来の戦国大名同士の合戦とは一線を画すものであった。それは、長宗我部元親という一個人を屈服させるという軍事目標を超え、天下人たる豊臣政権の絶大な国力と動員能力を内外に誇示する、壮大なデモンストレーションとしての性格を帯びていた。

軍事行動に先立ち、秀吉は外交による解決を試みた。元親に対し、既に支配下に置いていた伊予・讃岐両国の返還を条件に降伏を勧告する。しかし、自力で四国統一を目前にしていた元親はこれを拒否し、交渉は決裂した 9 。ここに秀吉は、武力による四国征伐を最終的に決断する。

その作戦構想は、長宗我部軍の兵力を分散させ、同時に複数の戦線で圧力をかけることを目的とした、三方面からの同時上陸作戦であった 9

第一に、主力となる 阿波方面軍 。総大将に弟の羽柴秀長、副将に甥の羽柴秀次を任じ、和泉・大和・紀伊・摂津・丹波・近江といった畿内近国の兵を中心に、総勢約6万という最大兵力を投入した 10 。この軍団は淡路島を経由し、阿波国の心臓部を直接攻撃する役割を担った。

第二に、 讃岐方面軍 。備前・美作の宇喜多秀家を主将とし、軍師・黒田孝高、そして阿波の地理に明るい蜂須賀正勝・家政父子らが参陣。播磨の兵と合わせて約2万3千の軍勢が、讃岐東部へ上陸する計画であった 9

第三に、 伊予方面軍 。中国地方の雄・毛利輝元を総指揮官とし、その叔父である小早川隆景と吉川元長が実働部隊を率いた。約3万の毛利勢が、伊予国北部から侵攻する手筈となっていた 9

この総勢10万を超える大軍の動員と渡海作戦を支えたのが、秀吉政権の高度な兵站管理能力である。天正十三年五月の段階で、秀長は和泉・紀伊の船舶を調査させ、徴発船を紀ノ湊(現在の和歌山市)へ集結させるなど、周到な準備を進めていた 10 。これは、秀吉政権が、かつての織田信長でさえ成し得なかった大規模な渡海遠征を遂行するだけの、中央集権的な統治機構を確立していたことの証左に他ならない。さらに秀吉は、かつて長宗我部氏によって故地を追われた三好氏の残党を味方に引き入れるなど、軍事力のみならず現地の政治的対立を巧みに利用する戦略も用いていた 9

この戦いは、毛利氏や宇喜多氏といった、かつては独立した大名であった勢力を、豊臣軍団の一部として動員している点に、その本質的な性格が表れている。秀吉の四国平定は、単に元親を討伐するだけでなく、西日本の諸大名を完全にその軍事指揮下に置いたことを天下に示す、新時代の「天下人の戦争」の幕開けだったのである。

【表1】四国平定における羽柴軍の編成と兵力

方面軍

総大将/指揮官

主要武将

兵力(推定)

侵攻経路

阿波方面軍

羽柴秀長、羽柴秀次

藤堂高虎、増田長盛など

約60,000

堺・明石 → 淡路島 → 阿波・土佐泊

讃岐方面軍

宇喜多秀家

黒田孝高、蜂須賀正勝

約23,000

播磨 → 讃岐・屋島

伊予方面軍

小早川隆景、吉川元長

来島通総など

約30,000

安芸 → 伊予・今治

総計

羽柴秀吉

-

約113,000

-

第二章:阿波侵攻 ― 羽柴秀長軍、怒濤の進撃(時系列解説)

ユーザーの要望である「合戦中のリアルタイムな状態」を最も鮮明に描き出すのが、この阿波方面軍の進撃である。圧倒的な兵力と周到な計画に裏打ちされた羽柴軍の侵攻は、長宗我部方が築いた防衛網を、驚異的な速度で解体していった。

天正十三年(1585年)六月十六日:作戦開始

この日、羽柴秀長率いる約3万の軍勢が和泉国堺を、副将・羽柴秀次率いる約3万が播磨国明石をそれぞれ出航した 10 。両軍は淡路島で合流し、福良(現在の南あわじ市)の港で最終的な準備を整える。その数、実に800艘にも及ぶ大船団であったという 10 。対岸の四国を睨み、紀伊水道を埋め尽くしたであろう船団の威容は、長宗我部方に計り知れない心理的圧迫を与えたに違いない。準備を完了した大船団は、阿波国北東部の土佐泊(現在の鳴門市)への上陸作戦を敢行した。

六月下旬~七月上旬:木津城攻防戦

上陸に成功した秀長軍が、最初の攻撃目標として定めたのが、吉野川河口の要衝・木津城であった。城将・東条関兵衛が籠城し抵抗を試みるも、羽柴軍は力攻めを避け、城を完全に包囲。約8日間にわたる攻城戦の末、城の水の手(水源)を遮断した 10 。補給を絶たれた城内では、羽柴軍に内応した身内の説得もあり、士気が低下。ついに東条関兵衛は降伏・開城を決断した 10 。木津城の陥落は、羽柴軍にとって安全な橋頭堡と兵站線を確保したことを意味し、阿波内陸部への進撃路を大きく開く戦略的な勝利であった。

七月上旬:ドミノ現象

木津城陥落の報は、瞬く間に阿波南部の沿岸防衛線に動揺を走らせた。牛岐城(現在の阿南市)と渭山城(徳島城の前身)の守備兵は、戦わずして城を放棄し、撤退した 10 。これは、圧倒的な兵力差を前にして、局地的な抵抗が無意味であると判断した結果であろう。この連鎖的な城の放棄は、長宗我部方の防衛計画が早くも破綻し始めたことを示しており、秀吉軍の勢いを象徴する出来事となった。

七月中旬:阿波西部の制圧

戦況を有利に進める秀長は、ここで軍を二手に分ける。自らは主力を率いて阿波平野の中心に位置する最重要拠点・一宮城へと向かい、一方で、別働隊を率いる秀次には、西方の山間部に位置する岩倉城と脇城の攻略を命じた 10 。この采配は、長宗我部方の防衛ネットワークを分断し、各個撃破することを狙った、極めて合理的な戦術であった。岩倉城では、土佐からの援軍3000と現地の土豪2000、合わせて5000の兵が守りを固めていたが、約3万の秀次軍の猛攻の前に抗しきれず陥落 13 。隣接する脇城も同様に制圧された 15 。これにより、土佐から阿波への連絡路と増援ルートは完全に遮断され、主目標である一宮城は戦略的に孤立させられることとなった。

【表2】羽柴軍による阿波侵攻の時系列表

日付(天正十三年)

戦況

結果・影響

6月16日

羽柴秀長・秀次軍、堺・明石を出航。淡路島経由で阿波・土佐泊へ上陸。

四国平定の本格的開始。

6月下旬~7月上旬

木津城攻防戦(約8日間)。

水の手を断たれ開城。羽柴軍、橋頭堡を確保。

7月上旬

牛岐城、渭山城が放棄される。

阿波南部の沿岸防衛線が崩壊。

7月中旬

羽柴秀次軍、岩倉城・脇城を攻略。

阿波西部の拠点が陥落。一宮城が孤立化。

7月中旬

羽柴秀長軍、一宮城を包囲、攻略。

阿波における長宗我部方の組織的抵抗が終焉。

7月下旬

長宗我部元親、降伏を決意。

阿波平定が完了。

8月6日

長宗我部元親、正式に降伏。講和成立。

四国平定が終結。

第三章:阿波の雌雄決す ― 一宮城籠城戦

阿波国内の諸城が次々と陥落、あるいは放棄されていく中、長宗我部元親が阿波防衛の最後の砦として主力を集結させたのが一宮城であった 10 。この城を巡る攻防こそ、阿波平定戦役における事実上の決戦であり、その帰趨が阿波全体の運命を決定づけることとなる。そして、この戦いの結末こそが、勝瑞城が大規模な戦闘の舞台とならなかった直接的な理由なのである。

一宮城の守将は、元親が最も信頼を寄せる重臣の一人、谷忠澄であった。城兵の数は5千から9千と諸説あるが、いずれにせよ、秀長率いる約5万の羽柴軍に対しては圧倒的に少数であった 10 。秀長は、秀次軍による岩倉・脇城の攻略によって一宮城が完全に孤立したのを見計らい、大軍をもって城を幾重にも包囲。兵糧の補給線を完全に遮断した。

ここでも羽柴軍は、力による強攻を避け、秀吉が得意とする「干殺し」、すなわち兵糧攻めと断水戦術を選択した。特に秀長軍が用いたのは、坑道を掘り進めて城内の井戸の水源を断つという、高度な土木技術を要する戦法であった 10 。これは、単なる武士の勇猛さだけでは対抗しようのない、組織力と技術力に裏打ちされた新時代の戦争の姿であった。食料と水を断たれた城兵は、奮戦空しく士気を失い、七月中旬、ついに谷忠澄は開城を決断した 10

一宮城の陥落は、単なる一城の敗北ではなかった。それは、阿波における長宗我部方の組織的抵抗が完全に終焉したことを意味し、元親の四国統一事業そのものが破綻した瞬間でもあった。この戦いは、元親と秀吉の間に横たわる「戦争の質」の決定的な違いを浮き彫りにした。元親の戦が、依然として個々の武士の武勇に頼る部分の大きい伝統的な戦国時代の合戦であったのに対し、秀吉の戦は、兵站、工兵技術、そして経済力といった総合力を駆使する、いわば近世的な総力戦の萌芽であった。

開城後、谷忠澄は元親の本拠地である白地城(現在の徳島県三好市)へ赴き、秀吉軍の圧倒的な兵力と、抗いがたい戦法の現実を説き、これ以上の抵抗が無益であることを強く進言した 10 。阿波防衛の主力が、為す術もなく敗れ去ったという事実は、元親の戦略と自信を根底から打ち砕く、物理的な敗北以上に深刻な心理的敗北をもたらしたのである。

第四章:落日の勝瑞城 ― 戦わずして迎えた終焉

阿波平定戦役の趨勢が、一宮城の陥落によって事実上決したとき、かつて阿波国の政治・経済・文化の中心として栄華を誇った勝瑞城は、歴史の舞台から静かに退場する時を迎えていた。天正十三年(1585年)における「勝瑞城の戦い」の実態とは、火花散る攻防戦ではなく、一つの時代の終わりを告げる、極めて象徴的な無血の支配権移譲であった。

まず、1585年時点における勝瑞城の立場を再確認する必要がある。室町時代には阿波守護・細川氏の、戦国時代には三好氏の本拠として、畿内にもその名を知られた城下町であったが 6 、天正十年(1582年)に長宗我部氏の手に落ちて以降は、その広大な支配領域における東端の前線基地の一つという位置づけに過ぎなかった 8 。阿波防衛の主力が一宮城に置かれていたことからも、その戦略的重要性は相対的に低下していたと見られる。

一宮城が陥落し、岩倉・脇城も制圧され、阿波の主要な防衛拠点がすべて羽柴軍の手に落ちた時点で、勝瑞城が単独で籠城し、抵抗を続けることには何ら戦略的な意味もなかった。補給路は完全に断たれ、援軍の望みも絶無であり、籠城を続けたとしても、いずれは一宮城と同じく「干殺し」にされる運命を辿るだけであった。

以上の状況から、勝瑞城は、羽柴軍の接近に伴い、長宗我部方の城兵が戦わずして城を放棄したか、あるいは最小限の交渉を経て無血で開城したと推論するのが最も合理的である。実際に、この時期の勝瑞城における大規模な戦闘を具体的に記した信頼性の高い史料は見当たらない 9 。戦闘の記録が存在しないのは、そもそも戦闘が起こらなかったからに他ならない。

しかし、なぜこの一連の戦役が、後世において「勝瑞城の戦い」という名で語られることがあるのか。それは、勝瑞城が持つ絶大な象徴性ゆえであろう。長年にわたり阿波国の首都であった勝瑞城の支配者が誰であるかは、阿波全体の支配権の帰属を示す最も分かりやすい指標であった。したがって、羽柴秀長軍による阿波平定という一連の軍事行動全体が、その最終的な帰結である「勝瑞城の支配者交代」という象徴的な出来事の名で呼ばれるようになったと考えられる。これは、物理的な戦闘の有無を超え、歴史的事件が持つ政治的意味合いが、その呼称を決定づける好例と言える。勝瑞城の無血開城は、阿波における長宗我部氏の支配が、そして三好氏以来の旧勢力の時代が、一矢も報いることなく完全に終焉した瞬間を、静かに、しかし雄弁に物語っているのである。

終章:四国の新秩序 ― 勝瑞の終焉と徳島の黎明

一宮城の陥落と、それに続く勝瑞城の無血接収によって阿波平定が完了すると、四国全体の運命もまた、急速に決着へと向かった。天正十三年八月六日、長宗我部元親は、もはや抵抗の術なしと悟り、羽柴秀長の陣営に赴いて正式に降伏した 10 。秀吉は、元親のこれまでの罪を赦し、土佐一国を安堵するという、敗者に対しては破格とも言える寛大な処置を下した 3 。これは、元親の武勇を評価するとともに、無用な抵抗を長引かせず、速やかに四国を安定させることを優先した、秀吉の高度な政治的判断であった。

戦後処理において、阿波国は秀吉子飼いの武将である蜂須賀家政に与えられた 18 。これは、豊臣政権による四国への直接的な支配を確立し、安定した統治体制を築くための重要な布石であった。そして、阿波国の新たな領主となった家政は、この国の統治パラダイムを根底から変革する、画期的な決断を下す。それは、中世以来の政治的中心地であった勝瑞城を放棄し、吉野川河口のデルタ地帯に、全く新しい城と城下町を建設することであった 8 。これが、現在の徳島市の礎となる徳島城の築城である。

この拠点の移動は、単なる遷都以上の意味を持っていた。家政は、勝瑞にあった寺院などを新たな徳島城下へ強制的に移転させ、旧都を意図的に解体した。その結果、かつての繁栄を誇った勝瑞の城下町は、静かな田園地帯へと姿を変えていった 16 。この政策の背後には、細川氏や三好氏といった旧来の権威と結びついた内陸の政治都市を否定し、大坂の中央政権との連携を容易にする水運・海運を最大限に活用できる、経済的・軍事的な拠点都市を創設するという明確な政治的意思があった 20 。勝瑞が土地支配に根差した「内陸の政治的権威」の象徴であったとすれば、徳島は中央と結びつく「河口の経済的・軍事的支配」の象徴であった。

かくして、天正十三年の四国平定と、それに続く勝瑞城の廃城は、戦国時代における阿波の、そして四国の独立性の終焉を告げるものであった。それは、地域的・自律的な権力が割拠した中世が終わりを告げ、豊臣政権が主導する統一された天下の秩序のもと、近世的な大名領国制へと移行していく時代の大きな転換点を象徴する出来事だったのである。勝瑞城の静かな終焉は、徳島という新たな時代の黎明と、表裏一体をなしていた。

引用文献

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  4. 長宗我部元親簡史: WTFM 風林火山教科文組織 https://wtfm.exblog.jp/13178726/
  5. 阿波 岩倉城 三好康長親子の本拠地なのだか遺構が遺憾・・ | 久太郎の戦国城めぐり http://kyubay46.blog.fc2.com/blog-entry-443.html
  6. 勝瑞城~徳島県藍住町~ - 裏辺研究所「日本の城」 https://www.uraken.net/museum/castle/shiro223.html
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  10. 「四国攻め(1585年)」秀吉の大規模渡航作戦!四国の覇者・長宗 ... https://sengoku-his.com/51
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  16. sp-遺跡の説明 - 徳島県 藍住町教育委員会 社会教育課 - 勝瑞城館跡 https://syugomati-syouzui.sakuraweb.com/sp/sp-iseki.html
  17. 勝瑞城館跡 https://www.pref.tokushima.lg.jp/file/attachment/493854.pdf
  18. 【理文先生のお城がっこう】歴史編 第32回 四国の城1(細川氏と勝瑞(しょうずい)城) - 城びと https://shirobito.jp/article/1219
  19. 事業概要 - 四国地方整備局 https://www.skr.mlit.go.jp/tokushima/jimusyo/annai/gaiyou/gaiyou.html
  20. 蜂須賀家政(はちすか いえまさ) 拙者の履歴書 Vol.93~阿波に築きし太平の世 - note https://note.com/digitaljokers/n/n9524e22e46a5