十河城の戦い(1582)
天正十年、四国の分水嶺 ― 第一次十河城の戦い 全詳解
序章:本能寺の変と四国の動乱
本報告書は、天正10年(1582年)に讃岐国で繰り広げられた「第一次十河城の戦い」について、その戦術的経過を詳述するに留まらず、戦国時代末期の四国における勢力図の変動、そして中央政権の動向といかに密接に連関していたかを多角的に分析し、その歴史的意義を明らかにすることを目的とする。この戦いは、単なる一地方の籠城戦ではない。織田信長の死という中央政権の激変が、四国の覇権争いを新たな段階へと移行させ、後の豊臣秀吉による天下統一事業の伏線を形成するに至った、まさに時代の分水嶺に位置する象徴的な合戦であった。
天正10年初頭の四国情勢概観
天正10年を迎えた時点での四国は、土佐の長宗我部元親による統一事業が最終段階に入り、旧来の支配者であった三好氏の残存勢力との間で、熾烈な最終戦争が繰り広げられていた。しかし、その背後には中央の覇者、織田信長の影が色濃く差し込んでいた。
織田信長の四国政策転換
当初、織田信長は長宗我部元親に対し、いわゆる「四国切り取り次第」という形で、その四国平定を黙認する姿勢を見せていた 1 。これは、信長が畿内や中国地方の毛利氏といった強敵との戦いに集中する上で、元親を四国における一種の協力者、あるいは緩衝材として利用する戦略的判断があったためと考えられる。しかし、元親が土佐を統一し、阿波、讃岐へと破竹の勢いで進出するに及び、その勢力拡大は信長の想定を超えるものとなった 2 。信長は、元親が四国という独立した王国を築くことを危惧し、方針を180度転換する。天正8年(1580年)頃から、信長は元親に対し、領土を土佐一国と阿波南半国に限定し、織田家へ臣従するよう要求した 2 。
この政策転換に伴い、信長が新たな四国支配の担い手として白羽の矢を立てたのが、元親に追いつめられていた三好一族であった。信長は、かつて畿内に覇を唱えた三好氏の残党である三好康長や、その一族である十河存保を支援し、長宗我部氏への対抗勢力として再編成を図ったのである 2 。この信長の方針転換は、十河存保にとっては一族再興の最後の希望であり、元親にとっては四国統一の夢を阻む最大の脅威となった。
長宗我部元親の野望と障壁
「鬼若子」の異名を持つ長宗我部元親は、土佐統一後、巧みな外交と軍事行動を駆使して四国統一を着実に進めていた 2 。阿波では三好氏の勢力を駆逐し、讃岐においても西部の有力国人である香川氏を次男・親和を養子に送り込むことで事実上支配下に置くなど、その勢威は四国全土に及ばんとしていた。しかし、その前に立ちはだかったのが、天下人・織田信長という巨大な壁であった。信長からの臣従要求を拒絶した元親は、織田政権との全面対決を覚悟せざるを得ない状況に追い込まれていた 2 。
三好氏の残照と十河存保の苦闘
かつて三好長慶のもとで畿内を支配した三好氏も、長慶の死後は内紛と織田信長の台頭により急速に衰退していた。その中で、三好一門の十河存保は、阿波・讃岐における反長宗我部勢力の旗頭として、一族の再興をかけて孤独な戦いを続けていた 5 。存保は、三好実休の次男として生まれ、叔父である十河一存の養子となり十河家を継いだ人物である 5 。兄の三好長治が元親に敗れ自害した後、阿波の勝瑞城に入り、三好家の実質的な当主として長宗我部勢への抗戦を続けた 5 。彼の戦いは、信長の権威という後ろ盾を得て初めて成り立つ、極めて脆弱なものであった。
このように、1582年初頭の十河城を巡る対立は、単に長宗我部氏と十河氏という二つの地方勢力の争いではなかった。それは、織田信長の天下統一事業の一環として、その秩序に従う「織田方」の十河存保と、それに抗する「独立勢力」の長宗我部元親との代理戦争という側面を色濃く持っていたのである。本能寺の変がなければ、この対立は信長が派遣する四国征伐軍と元親の全面戦争へと発展していたことは想像に難くない。
第一章:激震 ― 織田信長の死がもたらした好機と窮地
天正10年(1582年)5月、四国の情勢は長宗我部元親にとって絶望的な局面を迎えていた。織田信長は、元親の四国平定を阻止すべく、ついに大規模な軍事介入を決断したのである。
信長の四国征伐計画
信長は三男の神戸信孝を総大将に、丹羽長秀、蜂屋頼隆、津田信澄といった宿老を副将とする、強力な四国方面軍を編成した 8 。その先鋒として三好康長がすでに阿波の勝瑞城に入り、親三好勢力を結集して反撃を開始していた 8 。信孝率いる本隊は、まさに四国へ渡海すべく、堺の港に集結していた 3 。その渡海予定日は6月2日と定められていた 3 。これは、四国統一を目前にしていた元親にとって、抗う術のない国家規模の軍事力であり、まさに絶体絶命の危機であった。
天正10年6月2日、本能寺の変
しかし、歴史は劇的な転回を見せる。四国征伐軍が出発するはずだったまさにその日、京都の本能寺において、信長が家臣の明智光秀に討たれるという未曾有の政変が発生した 11 。この中央での激震は、瞬く間に四国の政治・軍事バランスの前提を全て覆した。
元親の視点:天佑と即断
信長の死の報は、元親にとってまさに「天佑」であった。最大の脅威であった織田の四国征伐軍は、総大将を失い、指揮系統の混乱から事実上解体・消滅した 3 。これにより、元親の四国統一を阻む最後の物理的障害が取り除かれたのである。元親はこの千載一遇の好機を逃さなかった。
『長元物語』によれば、元親は直ちに軍議を開いたとされる。家老衆が兵の疲労を理由に慎重論を唱える中、一領具足(半農半兵の兵士)たちは即時決戦を主張した。元親はこの一領具足の意見を採り、阿波・讃岐への総攻撃を決断したという 3 。この逸話は、元親が常に天下の情勢を注視し、変化に即応できるだけの戦略的準備と決断力を備えていたことを示唆している。
存保の視点:孤立無援と窮地
一方、十河存保にとって信長の死は、最後の希望の光が潰えたことを意味した。これまで織田信長という巨大な権威を後ろ盾にすることで、かろうじて長宗我部勢の猛攻に耐えてきたが、その支えを完全に失い、四国において全くの孤立無援となったのである 5 。昨日までの希望は、一夜にして絶望へと変わった。
本能寺の変は、四国における「攻守」の立場を一夜にして、そして完全に逆転させた歴史の転換点であった。6月1日時点では、圧倒的な軍事力を背景にした織田軍が「攻者」、元親が「守者」であった。しかし6月2日以降、その関係は劇的に反転し、好機を捉えた長宗我部軍が「攻者」、後ろ盾を失った旧織田方の十河軍が「守者」という新たな構図が生まれたのである。これから始まる十河城の戦いは、この劇的な攻守交替の直後に発生した、時代の転換を象徴する戦いであった。
元親の即時決断 ― 阿波・讃岐への二方面同時侵攻
好機を捉えた元親の戦略は、極めて迅速かつ合理的であった。彼は、阿波に本拠を置く十河存保の主力部隊を叩く本隊と、讃岐に残る三好方の拠点・十河城を牽制し孤立させる別動隊を同時に進発させる、二方面作戦を展開した。これは、敵の指揮系統の中枢と、その重要拠点を同時に無力化することで、短期間での四国平定を完遂しようとする、周到な戦略であった。
【表1】第一次十河城の戦い 主要関連人物一覧
所属勢力 |
氏名 |
役職・立場 |
合戦における役割・動向 |
長宗我部勢 |
長宗我部 元親 |
土佐国主 |
四国統一を目指す。本能寺の変を好機と捉え、阿波・讃岐に侵攻。十河城攻めの総大将。 |
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香川 親和 |
元親の次男、香川氏養子 |
讃岐方面軍の総大将として、十河城の第一次包囲を指揮。 |
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香宗我部 親泰 |
元親の弟 |
阿波方面軍の主将として中富川の戦いで活躍。 |
十河・三好勢 |
十河 存保 |
讃岐十河城主、阿波勝瑞城主 |
三好家再興を目指す。信長の後援を失い、中富川の戦いで敗北。虎丸城へ撤退。 |
|
十河 存之 |
存保の家老(義継の実弟) |
十河城の城代。約1千の兵で3万6千の長宗我部軍の猛攻を凌ぎ切る。 |
|
香西 佳清 |
讃岐藤尾城主 |
当初は反長宗我部だったが、降伏して長宗我部軍に加わる。 |
|
前田 宗清 |
讃岐前田城主 |
十河方に与し、長宗我部軍に夜襲をかけ籠城側を支援する。 |
中央政権 |
織田 信長 |
前右大臣 |
四国征伐を計画するも、本能寺の変で死去。全ての前提を覆す。 |
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羽柴 秀吉 |
織田家宿老 |
信長の後継者として台頭。存保の救援要請を受け、四国問題に介入を開始する。 |
|
仙石 秀久 |
淡路洲本城主 |
秀吉の命を受け、十河存保の救援に向かう。 |
第二章:二つの戦線 ― 十河城孤立への道
長宗我部元親の四国平定戦略は、讃岐の十河城を単体で攻略するのではなく、まず阿波にいる敵の主力部隊を殲滅し、指揮系統を破壊した上で、孤立した十河城を確実に陥落させるという、周到な二段階作戦であった。この戦略の成否は、十河城の攻防が始まる前に、阿波の戦線で大勢が決することを意味していた。
阿波戦線 ― 中富川の戦い(1582年8月28日~9月21日)
本能寺の変から約2ヶ月後、元親は満を持して行動を開始した。彼は総勢2万3千と号する大軍を自ら率いて阿波へと侵攻した 3 。これは、阿波三好家の本拠地・勝瑞城に籠る十河存保の主力を完全に粉砕するための、決戦であった。
両軍の布陣と決戦
天正10年8月28日、両軍は勝瑞城の西を流れる中富川を挟んで対峙した 1 。長宗我部軍は、弟の香宗我部親泰の部隊を先鋒とし、本隊と合わせて2万を超える兵力で布陣した 14 。対する十河存保軍は、動員できる兵力が約5千と、圧倒的に不利な状況であった 13 。
兵力差は4倍以上であったが、存保は三好家の命運をかけて果敢に野戦を挑んだ。『昔阿波物語』や『三好記』は、この戦いが壮絶を極めたことを伝えている 3 。十河勢は一時、長宗我部軍の先鋒を押し返すほどの奮戦を見せたが、多勢に無勢の状況は覆しがたいものであった。長宗我部軍の波状攻撃の前に、十河方の有力武将であった七条孫四郎、河村内蔵助、矢野虎村などが次々と討ち死にし、戦線は崩壊した 15 。
勝瑞城の陥落と存保の敗走
野戦に敗れた存保は、残存兵力を率いて勝瑞城に籠城したが、もはや大勢は決していた 3 。長宗我部軍は2万の兵で城を包囲。攻防の最中、豪雨によって吉野川が氾濫し、城周辺一帯が湖のようになるという天災にも見舞われたが、元親は攻撃の手を緩めなかった 13 。約1ヶ月にわたる籠城の末、9月21日、存保はついに勝瑞城を放棄。阿波三好家の本拠地はここに陥落し、存保は少数の供回りと共に、讃岐東部にある虎丸城へと落ち延びていった 3 。この中富川の戦いでの決定的勝利により、元親は阿波を完全に平定し、十河城への援軍の道を完全に断ち切ることに成功したのである。
讃岐戦線 ― 長宗我部別動隊の進撃(1582年7月~8月)
元親の本隊が阿波で決戦の準備を進めている間、讃岐では別動隊が十河城を孤立させるための作戦を着々と進めていた。この部隊の総大将に、元親の次男であり、西讃岐の有力国人・香川氏の養子となっていた香川親和(信景)を据えたこと自体が、元親の巧みな政略であった 8 。これにより、旧香川氏の勢力を円滑に味方に引き入れ、讃岐国内の反長宗我部勢力を分断することが可能となった。
7月、香川親和率いる部隊は讃岐への侵攻を開始。まず、那珂・鵜足郡へ進撃し、聖通寺城に拠る奈良氏を敗走させた 8 。これにより西讃岐の諸将(長尾氏、羽床氏など)は次々と長宗我部方に靡き、讃岐の西半分は早々に平定された。
次なる目標は、東讃岐における反長宗我部勢力の中心であった香西佳清が籠城する藤尾城であった。8月6日、親和の軍勢は藤尾城を攻撃。激しい攻防の末、香川之景の仲介により佳清は降伏し、その麾下の兵約1千は長宗我部軍に編入された 8 。この藤尾城の陥落は決定的であった。これにより、讃岐国内で長宗我部に敵対する主要な拠点は、十河城ただ一つとなったのである。
元親のこの周到な二方面戦略は、見事に功を奏した。阿波で敵の主力を撃破し、讃岐で周辺の敵対勢力を全て排除することで、十河城は援軍の望みも、連携する味方もいない、完全な孤立無援の状況に追い込まれた。つまり、十河城の壮絶な籠城戦が始まるその前に、戦略的な勝敗は、実はほぼ決してしまっていたのである。
第三章:第一次十河城の戦い ― 攻防のリアルタイム詳解
阿波・讃岐の両戦線における長宗我部元親の戦略が功を奏し、十河城は完全に孤立した。ここから、戦国史上有数の、寡兵が大軍を相手に繰り広げた壮絶な籠城戦の幕が上がる。
【表2】合戦の時系列推移(1582年6月~12月)
年月日 |
出来事 |
戦線 |
関連史料 |
天正10年6月2日 |
本能寺の変。織田信長の四国征伐計画が消滅。 |
中央 |
11 |
7月 |
長宗我部軍(香川親和隊)、讃岐へ侵攻開始。聖通寺城などを攻略。 |
讃岐 |
8 |
8月6日 |
藤尾城の香西佳清が降伏。長宗我部軍に加わる。 |
讃岐 |
8 |
8月11日 |
香川親和軍1万1千、十河城の包囲を開始。 |
讃岐 |
17 |
8月28日 |
中富川の戦い開戦。長宗我部元親本隊と十河存保軍が激突。 |
阿波 |
14 |
9月21日 |
勝瑞城が陥落。十河存保は讃岐虎丸城へ敗走。 |
阿波 |
3 |
10月 |
元親本隊が讃岐に到着し、十河城包囲軍に合流。総勢3万6千となる。 |
讃岐 |
17 |
10月~11月 |
長宗我部軍、大筒を用いて総攻撃。前田宗清が夜襲で十河城を支援。 |
讃岐 |
19 |
12月 |
冬の到来により、元親は主力の撤退を決定。第一次十河城の戦いが終結。 |
讃岐 |
17 |
【1582年8月11日~】包囲網の完成と両軍の態勢
藤尾城を降した香川親和は、香西勢1千を加えた総勢1万1千の軍勢を率い、8月11日に讃岐国分寺を出立。ついに阿波三好氏の讃岐における最後の拠点、十河城を完全に包囲した 17 。
この時、城を守るのは、主君・十河存保が虎丸城へ退いているため、城代として残された家老の十河存之(三好隼人佐とも呼ばれる)であった 21 。籠城兵力はわずか1千余り 21 。対する長宗我部軍は1万を超え、兵力差は10倍以上という、絶望的な状況下で籠城戦は開始された。
しかし、十河城は寡兵での防衛を可能にする、優れた縄張りを持つ堅城であった。城は台地の先端に位置し、東は断崖、西は鷺池と呼ばれる沼沢地、そして周囲は深田に囲まれた天然の要害であった 19 。さらに、『南海通記』によれば、城は「五重の土塁」を擁していたとされ、人工的な防御施設も極めて堅固であったことが窺える 21 。この地形と防御施設こそが、十河存之と城兵たちの唯一の頼みであった。
【8月下旬~9月】初期攻防 ― 鉄砲対作道
包囲を完成させた長宗我部軍は、攻城戦の定石通り、城に接近するための通路、すなわち「作道」の構築を開始した 19 。土塁や堀を乗り越えて城内に突入するためには、まず安全な接近路を確保する必要があった。
しかし、十河城の守備隊はこの動きを許さなかった。城の四方に設けられた櫓からは、多数の鉄砲が絶え間なく火を噴き、作道工事に従事する兵士たちを正確に狙撃した 19 。雨のように降り注ぐ銃弾の前に、長宗我部軍は多数の死傷者を出し、作道の構築は頓挫。容易に城へ取り付くことすらできず、攻城戦は序盤から膠着状態に陥った。この攻防は、戦国時代末期において、鉄砲がいかに防御側の強力な武器となり得たかを示す好例である。
【10月】元親本隊の合流と総攻撃
膠着状態が続く中、10月になると戦況は大きく動く。中富川の戦いで阿波を平定した長宗我部元親が、その本隊を率いて岩倉城から清水峠を越え、讃岐に到着。十河城の包囲軍に合流したのである 17 。これにより、長宗我部軍の総兵力は3万6千という、城兵の30倍以上にも達する大軍勢に膨れ上がった 17 。
元親は、この圧倒的な兵力を背景に、力押しで城を陥落させるべく総攻撃を命じた。そして、この局面を打開するために、元親は当時の最新兵器である「大筒」(大砲)を2挺投入した 19 。長宗我部軍は、城との間合いを2町(約220メートル)まで詰め、そこに大筒を据え付けた。そして、城兵が立てこもる櫓を直接目標とし、砲撃を開始したのである。轟音と共に放たれる鉄の弾丸は、櫓を次々と粉砕。これまで鉄砲で応戦していた城兵たちの足場を奪い、籠城側は一気に窮地へと追い込まれた。
【10月~11月】城兵の徹底抗戦と外部からの支援
大筒による破壊的な攻撃を受け、城の防御機能は大きく損なわれた。もはや落城は時間の問題かと思われた。しかし、城代・十河存之の卓越した指揮のもと、城兵たちは驚異的な士気と粘り強さで抵抗を続けた。
そして、この絶望的な状況下で、城外から思わぬ支援が現れる。近隣の前田城主であった前田宗清が、十河方に与し、3万を超える長宗我部軍の包囲網をかいくぐって、夜陰に乗じて夜襲を敢行したのである 19 。このゲリラ的な攻撃は、長宗我部軍に与えた物理的な損害以上に、その心理的な動揺を誘い、籠城する城兵たちの士気を大いに鼓舞したに違いない。
この戦いは、単なる兵力や武器の優劣だけで勝敗が決するものではないことを示している。籠城側は、地の利と鉄砲という「技術」を最大限に活用し、攻城側は、大筒というさらなる「技術」でそれに対抗した。これは、個人の武勇が中心であった中世の戦いから、技術、兵站、兵器の総合力が問われる近世的な戦争へと移行していく、時代の過渡期の様相を色濃く反映している。
【12月】膠着状態と冬の到来
前田宗清の支援もあり、十河城はなおも持ちこたえ続けた。長宗我部元親は、大軍を擁しながらも、堅固な城と城兵の頑強な抵抗の前に、攻めあぐねる状況が続いた。
そうこうするうちに、讃岐にも冬が到来した。長期にわたる野戦は、兵士たちの疲労を蓄積させ、兵糧や武具の補給といった兵站の維持をますます困難にする 20 。元親は、これ以上の損害を出しながら力攻めを続けるのは得策ではないと判断した。彼の「鬼若子」という勇猛なイメージとは裏腹に、この時の決断は極めて冷静かつ現実的なものであった。彼は、無駄な消耗を避け、兵力を温存し、春の雪解けを待って、より万全の態勢で再攻撃をかけることを選んだのである。
12月、元親は城を監視するための部隊を残し、主力の大部分を率いて土佐へと一時撤退した 17 。これにより、数ヶ月にわたった第一次十河城の戦いは、籠城側の事実上の勝利という形で、一旦の幕を閉じたのであった。
第四章:戦いの影響と各勢力のその後
第一次十河城の戦いは、籠城側の驚異的な粘りによって、攻城側の撤退という形で終結した。この結果は、四国の勢力図、そして中央政権との関係に、大きく深い波紋を広げていくことになる。
短期的な影響と長宗我部元親の計画修正
十河城が持ちこたえたことは、本能寺の変を好機として一気に四国を平定しようとした長宗我部元親の電撃的な統一計画を、一時的に頓挫させた。これにより、讃岐東部の完全制圧は翌年以降に持ち越され、元親は戦略の修正を余儀なくされた。もしこの冬に十河城を落とし、速やかに讃岐を平定していれば、中央の羽柴秀吉が介入する口実と時間は、より限られていたかもしれない。
中央政権介入への伏線 ― 存保、秀吉を頼る
この戦いがもたらした最も重大な影響は、十河存保が中央の新興勢力である羽柴秀吉と結びつくきっかけを作ったことである。虎丸城にあって十河城の籠城戦の報を聞いていた存保は、この間に、信長の後継者として急速に台頭しつつあった秀吉に使者を送り、救援を要請したのである 12 。
この存保の行動こそが、中央政権が本格的に四国問題に介入する直接的な引き金となった。秀吉は存保の要請に応じ、淡路の洲本城主であった仙石秀久に救援を命令 19 。これが翌天正11年(1583年)の「引田の戦い」へと繋がっていく 26 。この戦い自体は、長宗我部軍の巧みな戦術の前に仙石秀久が敗退する結果に終わるが、秀吉と元親の対立関係は、もはや修復不可能なものとして決定的となった。十河城の小さな抵抗が、秀吉に「四国への介入権」という大義名分を与えてしまったのである。この一点において、第一次十河城の戦いは、四国の運命が、元親主導の「独立統一」から、秀吉主導の「天下平定」の枠組みへと組み込まれていく、大きな転換点であったと言える。
第二次十河城の戦いと落城
その後も元親は讃岐への圧力を強め、天正12年(1584年)6月、再び十河城への総攻撃を開始した(第二次十河城の戦い)。この時、秀吉は織田信雄・徳川家康連合軍と「小牧・長久手の戦い」の真っ最中であり、四国へ援軍を送る余裕はなかった 27 。外部からの支援を完全に絶たれた十河城は、ついに持ちこたえきれず落城。十河存保と城代を務めた存之は、城を脱出し、大坂の秀吉のもとへと落ち延びていった 21 。
武将たちの末路 ― 戸次川の悲劇
天正13年(1585年)、小牧・長久手の戦いを有利な形で終結させた秀吉は、弟の羽柴秀長を総大将とする10万を超える大軍を四国へ派遣した。この圧倒的な物量の前に、元親は抗う術もなく降伏。四国統一の夢は潰え、領地は土佐一国へと大幅に削減された 6 。
そして、皮肉な運命が、かつての宿敵たちを待ち受けていた。天正14年(1586年)、秀吉の九州征伐が始まると、元親は嫡男・信親と共に、秀吉の与力大名となっていた十河存保は、同じ軍団に組み込まれ、豊後へと出陣した。しかし、総大将であった仙石秀久の無謀かつ独断的な作戦により、豊後戸次川において島津軍の罠にはまり、豊臣軍は壊滅的な敗北を喫する 6 。
この戦いで、元親が将来を託した最愛の嫡男・信親は壮絶な討ち死を遂げた 12 。そして、かつて十河城を死守し、長宗我部の大軍を退けた十河存保もまた、この同じ戦場で命を落としたのである 21 。讃岐の覇権を巡って死闘を繰り広げた二つの家の後継者たちが、同じ戦場で、同じ指揮官の過ちによって共に散るという、戦国時代の非情さを象徴する悲劇的な結末であった。
結論:第一次十河城の戦いが歴史に残した意味
天正10年(1582年)の第一次十河城の戦いは、その勝敗以上に、戦国時代の終焉と新たな時代の到来を告げる、幾重にも重なった歴史的意義を持つ合戦であった。
第一に、本合戦は織田信長の死という中央政権の権力空白期に、地方の覇権をめぐり旧勢力(三好氏)と新興勢力(長宗我部氏)が激突した、時代の転換点を象徴する戦いであった。信長という絶対的な権力者の不在が、地方の力学をいかに流動化させたかを如実に示している。
第二に、この戦いは長宗我部元親という武将の、勢いの頂点と、その限界の両面を浮き彫りにした。本能寺の変という好機を逃さず、阿波・讃岐に二方面作戦を展開した戦略眼と実行力は、彼の軍事的才能が最も輝いた瞬間であった。しかし同時に、冬の到来を前に撤退を決断せざるを得なかった事実は、一つの堅城を落とすことの困難さを示し、結果として彼の電撃的な四国統一の夢を頓挫させる遠因となった。
そして最も重要な点は、この戦いが豊臣政権による天下統一への道筋をつけたことである。十河存保による1千の兵の頑強な抵抗が、元親の進撃を数ヶ月間食い止めた。その時間が、存保に羽柴秀吉への救援要請を可能とさせ、秀吉に四国への軍事介入という絶好の口実を与えた。この意味において、第一次十河城の戦いは、一地方の籠城戦という枠を超え、戦国時代の終焉と豊臣政権による天下統一という、より大きな歴史の潮流へと繋がる、決定的な一里塚であったと結論づけることができる。十河城の土塁に染み込んだ血は、四国の独立が終わり、天下統一の時代へと組み込まれていく、その産みの苦しみを物語っているのである。
引用文献
- 中富川の合戦 - BIGLOBE https://www7a.biglobe.ne.jp/echigoya/ka/Nakatomigawa.html
- 長宗我部元親 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%AE%97%E6%88%91%E9%83%A8%E5%85%83%E8%A6%AA
- 「中富川の戦い(1582年)」長宗我部氏が阿波国を制圧する分け目の戦。三好との激戦で勝瑞城を攻略! | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/46
- 明智光秀と〝本能寺の変〟の謎 | ノジュール|50歳からの旅と暮らしを応援する定期購読雑誌 https://nodule.jp/info/ex20200103/
- 十河存保 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E6%B2%B3%E5%AD%98%E4%BF%9D
- 長宗我部の儚い夢~長宗我部三代記 – Guidoor Media https://www.guidoor.jp/media/dream-of-chosokabe/
- 室町将軍を討った讃岐十河家出身の武将 - ビジネス香川 https://www.bk-web.jp/post.php?id=2483
- 四国攻め - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E5%9B%BD%E6%94%BB%E3%82%81
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- 中富川の戦い(1/2)長曾我部元親、阿波を制覇 - 日本の旅侍 https://www.tabi-samurai-japan.com/story/event/1058/
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- 名君から愚将へと転落した四国の雄・長宗我部元親 - note https://note.com/zuiisyou/n/n0c3425d7ce4f
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- 土佐武士の讃岐侵攻⑤(十河城包囲) - ビジネス香川 https://www.bk-web.jp/post.php?id=2805
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- 1584年 小牧・長久手の戦い | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1584/
- 天正14年(1586)12月12日は戸次川の戦いで豊臣軍の先遣隊が島津軍に敗れた日。大友氏救援のため仙石秀久ら先遣隊が派遣された。この戦いで長宗我部元親の嫡男信親や十河存保らが討死 - note https://note.com/ryobeokada/n/n3c94378cdd44
- 戸次川の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%B8%E6%AC%A1%E5%B7%9D%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84