厩橋城の戦い(1560)
関東動乱の起点 ― 永禄三年「厩橋城の戦い」の多角的分析
序章:上野国の要衝、厩橋城
永禄三年(1560年)、越後の長尾景虎(後の上杉謙信)による関東出兵において、その最初の戦略目標となった上野国・厩橋城。この城が持つ意味は、単なる一地方の城郭に留まらない。それは、当時の関東地方が抱える地政学的な矛盾と、それに伴う政治的対立が凝縮された、まさに時代の象徴とも言うべき存在であった。景虎がなぜこの城を、広大な関東平野における最初の、そして最重要の橋頭堡として選んだのか。その理由を解き明かすことは、永禄年間の関東動乱の本質を理解する上で不可欠である。
利根川の変遷と地政学的対立構造の発生
厩橋城の戦略的重要性を語る上で、利根川の存在は決定的な意味を持つ。かつて、利根川の本流は現在の広瀬川筋を流れていたが、度重なる洪水と流路の変遷を経て、戦国時代までには厩橋城の西側を流れる現在の流路にその姿を大きく変えていた 1 。この自然地理的な変化は、上野国に新たな政治的・軍事的な分断線をもたらした。すなわち、利根川を境として、西側は伝統的に関東管領・山内上杉家の影響力が強い「西上野」、東側は古河公方とその支持基盤である北条氏の勢力が浸透する「東上野」という、明確な対立構造が形成されたのである 1 。
厩橋城は、まさにこの分断線の渦中に位置していた。利根川と広瀬川に挟まれたこの地は、西上野と東上野、二つの勢力が衝突する最前線としての宿命を負っていたのである 1 。この城を支配することは、敵対勢力への圧力を加えるための前進基地を確保するだけでなく、上野国全体の支配権を左右するほどの地政学的な価値を有していた。
越後と関東平野を結ぶ戦略的結節点
地理的に見れば、厩橋城は越後から三国峠を越えて関東平野へと至る交通路の出口に位置する。この城を抑えることは、関東への侵攻路を確保し、遠征軍の生命線である兵站線を維持するための絶対条件であった 4 。景虎にとって、厩橋城は単なる前線基地ではなく、関東の諸将を自らの旗の下に参集させ、広大な関東一円に号令を発するための政治的・軍事的拠点、いわば「関東における春日山城」とも言うべき役割を担うべき場所であった 4 。
この城の価値は、純粋な軍事拠点としての機能に留まらない。当時の関東の政治的中心は、北条氏が擁立する古河公方の拠点・古河御所や、北条氏自身の本拠地である小田原にあった。景虎が対立の最前線である厩橋城を新たな拠点として確立することは、関東の政治地図の中心点を、北条氏の支配域から自らの影響圏へと強制的に引き寄せることを意味した。それは、単なる城の奪取を超え、関東の秩序そのものを再編しようとする、高度な戦略的意図の現れであった。
第一章:龍、越山を決す ― 関東出兵に至る道
永禄三年の長尾景虎による関東出兵は、決して衝動的な軍事侵攻ではなかった。それは、失墜した権威の回復を掲げ、周到に準備された「義戦」であった。相模の獅子・北条氏康の膨張と、それに反発する関東諸将の思惑、そして権威の空洞化に喘ぐ室町幕府。これら全ての要素が複雑に絡み合い、越後の龍を関東の地へと導いたのである。
落日の関東管領と相模の獅子の台頭
天文十五年(1546年)の河越夜戦における歴史的大敗は、関東管領・山内上杉家の権威を根底から揺るがした 8 。当主の上杉憲政は、本拠地である上野国・平井城からも追われる身となり、その勢力は急速に失墜していく 8 。万策尽きた憲政が最後に頼ったのが、当時、越後国を統一し、その武名を轟かせていた守護代・長尾景虎であった 10 。憲政の越後亡命は、景虎が関東の政治情勢に直接介入する、直接的かつ正当なきっかけとなった。
一方、河越夜戦の勝者である北条氏康は、その勢力を関東一円に急速に拡大させていた。上野国にも深く浸透し、多くの国人領主をその支配下に組み込んでいった 6 。旧来の関東の秩序は崩壊し、北条氏による新たな支配体制が築かれつつあったのである。
将軍義輝の公認:「義」の獲得
景虎は、単に憲政の私的な救援要請に応えるだけでは、関東の諸将を心服させることはできないと理解していた。そこで彼は、行動の正当性を担保するため、より高次の権威を求めた。永禄二年(1559年)、景虎は二度目の上洛を果たし、室町幕府第十三代将軍・足利義輝に拝謁する 15 。この時、景虎は管領に準ずる待遇(管領相当)を与えられると共に、上杉憲政を補佐して関東の秩序を回復せよ、という将軍直々の御内書(公的な命令書)を得ることに成功した 15 。
これにより、景虎の関東出兵は「幕府が公認した、関東の秩序回復のための軍事行動」という、誰もが否定できない大義名分を纏うことになった 17 。彼の敵対者は、単なる長尾氏の敵ではなく、「幕府への反逆者」と見なされることになる。これは、後の軍事行動を円滑に進める上で、計り知れない政治的価値を持つものであった。
反北条連合の形成と景虎への期待
当時の関東では、北条氏の圧迫に苦しむ大名たちが、現状を打破する強力な指導者の登場を待ち望んでいた。常陸国の佐竹義昭や安房国の里見義尭といった有力大名は、北条氏の侵攻に抗するため、かねてより景虎の関東出兵を強く要請していた 20 。彼らにとって景虎は、自らの領地を守り、北条氏に対抗するための最後の希望であり、まさしく「解放者」として待望されていたのである 14 。
景虎の関東出兵は、軍事行動である以前に、周到に仕組まれた「政治的包囲網」の完成であったと言える。追放された正統な支配者である上杉憲政を奉じることで「権威回復」という物語を掲げ、最高権威である将軍から「公認」というお墨付きを得て、さらに関東内部の反北条勢力から「救援要請」という形を整える。これら「物語」「権威」「内応」の三点を揃えることで、景虎は北条氏を軍事的にだけでなく、政治的・倫理的にも孤立させることに成功した。永禄三年の越山は、この完成された包囲網が、ついに発動した瞬間だったのである。
第二章:永禄三年の電撃戦 ― 越後から厩橋へ
永禄三年(1560年)夏、越後の龍はついに関東の地へとその歩みを進めた。春日山城を出立してから、戦略目標である厩橋城に到達するまでの景虎軍の動向は、まさに電光石火と呼ぶにふさわしいものであった。その進軍の過程は、景虎の軍事的能力だけでなく、彼の掲げた大義名分が関東の国人たちに与えた影響の大きさを如実に物語っている。
【時系列詳説①】永禄3年(1560年)8月、春日山城出陣
永禄三年八月、長尾景虎は関東管領・上杉憲政を奉じ、満を持して越後の春日山城を出立した 6 。この時点での軍勢は、越後衆を中心とする約1万3000と推定される 19 。その目的は明確であった。「関東管領上杉憲政が関東に戻る手助けをする」という、将軍公認の、非の打ちどころのない大義名分である 17 。軍は三国峠を越え、上野国へと至る最短経路を選択。関東の秩序回復に向けた、歴史的な遠征の幕が切って落とされた。
【時系列詳説②】同年9月、沼田城入城と北上野の制圧
景虎軍が最初に入城したのは、上野国の北の玄関口である沼田城であった 20 。当時の沼田城は上杉方に与する沼田顕泰が支配しており、景虎軍は大きな抵抗を受けることなく、この戦略的要衝を進駐拠点とすることに成功した 22 。
景虎越山の報は、瞬く間に関東一円に伝播した。その影響は絶大であった。北条氏の圧政に不満を抱いていた国人や、景虎の掲げる大義名分に惹かれた者たちが、次々とその旗の下に馳せ参じたのである。特に、上野新田の由良成繁や下野足利の長尾景長といった有力国人が、いち早く景虎への従属を表明したことは、他の国人たちの去就に大きな影響を与えた 13 。景虎の軍勢は、関東の地を進むにつれて雪だるま式に膨れ上がっていった。
【時系列詳説③】厩橋城への肉薄と城主・厩橋長野氏の苦悩
北上野を固めた景虎軍は、利根川沿いに南下し、いよいよ上野国の中心地であり、最大の戦略目標である厩橋城へと迫った。当時の厩橋城主は、西上野の雄として名高い箕輪城主・長野業正の一族、厩橋長野氏であった 4 。しかし、その具体的な当主の名は、長野道賢、賢忠、あるいは彦太郎など諸説あり、史料によって錯綜しており、確たる特定は困難である 1 。
厩橋長野氏は、本来であれば主家である山内上杉家に連なる家柄である。しかし、北条氏の勢力が上野国にまで及ぶ中、その立場は極めて微妙なものであった。圧倒的な大軍を率いて眼前に迫る景虎と、彼が奉じる旧主・上杉憲政。そして、遠く相模から睨みを利かせる新興の覇者・北条氏康。城内では、降伏か、それとも北条の援軍を信じて籠城か、極度の緊張の中で激しい議論が交わされたことは想像に難くない。
表1:長尾景虎 永禄三年関東出兵 年表(八月~十二月)
日付(推定含む) |
長尾景虎軍の動向 |
関東諸将の動向 |
北条氏康の動向 |
永禄3年8月 |
上杉憲政を奉じ、春日山城を出陣。三国峠を越え、上野国へ侵攻開始。 |
反北条勢力(里見氏、佐竹氏ら)が景虎の出兵を歓迎し、呼応の動きを見せる。 |
安房国の里見氏を攻撃中(久留里城包囲)。 |
永禄3年9月 |
上野国・沼田城に入城。北上野を制圧し、関東経営の足掛かりを築く。 |
由良成繁(上野)、長尾景長(下野)らが、いち早く景虎に参陣。 |
景虎の越山と関東諸将の離反の報を受け、久留里城の包囲を解き、軍を撤退 20 。 |
永禄3年10月 |
厩橋城を攻略し、関東における最重要拠点とする。 |
岩槻城主・太田資正を通じ、関東の諸将に参陣を促す催促状を発出 6 。 |
圧倒的な兵力差を前に野戦を避け、小田原城での籠城策を決定 14 。 |
永禄3年11月 |
厩橋城を拠点に関東諸将の軍勢を集結させ、反北条連合軍を形成。 |
関東各地の国人領主が続々と厩橋城に参集。軍勢は数万規模に膨れ上がる。 |
各地の支城から兵力を小田原城に集結させ、防備を固める。 |
永禄3年12月 |
厩橋長野氏を粛清。城代として河田長親を配置し、直轄支配体制を確立 1 。 |
景虎の威光の前に、多くの国人が北条氏を見限り、景虎方へとなびく。 |
小田原城にて大軍を迎え撃つべく、籠城の準備を完了させる。 |
第三章:ある「無血」の攻防 ― 厩橋城、開城の真相
「厩橋城の戦い」という呼称は、我々に激しい攻防戦を想起させる。しかし、諸史料を丹念に読み解くと、この城の支配権の移行は、血で血を洗う戦闘の結果ではなく、むしろ静かな「開城」と、その後に続いた悲劇的な「粛清」によって達成されたという、異なる様相が浮かび上がってくる。この出来事の本質は、軍事衝突ではなく、景虎による計算された政治的接収にあった。
【時系列詳説④】城下の対峙と開城
景虎率いる大軍は、厩橋城を完全に包囲した。しかし、後世に伝わる軍記物などを見ても、この時に大規模な攻城戦が行われたという具体的な記録はほとんど見当たらない 1 。一説によれば、城主であった長野賢忠(あるいは道賢)は、圧倒的な兵力差と景虎が掲げる大義名分の前に、戦わずして城を明け渡し、景虎を頼って越後へ移ったとさえ伝えられている 1 。
このことは、厩橋長野氏が抵抗を早々に断念し、降伏・開城という道を選んだ可能性が極めて高いことを示唆している。景虎が奉じるのは、彼らの旧主である上杉憲政である。これに刃向かうことは、主家への反逆という汚名を着ることになりかねない。また、北条氏からの援軍が間に合う保証もない。こうした状況下で、無血開城は城主として最も現実的な選択であったと言えよう。
【時系列詳説⑤】降伏後の悲劇 ― 「暴れ馬事件」と厩橋長野氏の滅亡
厩橋城の平穏な明け渡しは、しかし、厩橋長野氏にとって安泰を意味するものではなかった。降伏後、当主と見られる長野彦太郎は景虎に従い、その軍中にあった 23 。ところが同年十二月十四日、上野国伊勢崎(赤石城)に滞在中、悲劇が起こる。彦太郎の馬が暴れたことをきっかけに、これが「謀反の企て」であると誤解(あるいは、そう見なすための口実と)され、景虎の厳命によって一族とみられる大胡左馬允と共に殺害されてしまったのである 1 。
この「暴れ馬事件」の真相は定かではない。偶発的な事故が過剰な疑心暗鬼を生んだのか、あるいは景虎側が意図的に仕組んだ粛清であったのか。いずれにせよ、この一件によって上野国の有力な国人であった厩橋長野氏は、歴史の表舞台から完全に姿を消すこととなった 1 。
この一連の出来事の本質は、景虎による「示威と粛清」を伴う政治的行為であったと解釈できる。景虎にとって、関東経営の最重要拠点となる厩橋城を、去就が不透明な土着の国人に委ねることは、大きなリスクであった。忠誠心に絶対の信頼がおける自身の腹心を城代として配置するためには、旧来の支配者である厩橋長野氏は「不要な存在」であったのかもしれない。「暴れ馬事件」は、この不要な存在を排除するための格好の口実として利用された可能性が考えられる。そしてこの冷徹な粛清は、参集した他の関東諸将に対し、「長尾景虎への裏切りは、いかなる理由があろうとも死を意味する」という強烈なメッセージとなり、彼の支配をより強固にする効果をもたらしたのである。
表2:厩橋城の戦い 主要関係者一覧
勢力 |
人物 |
立場・役割 |
長尾(上杉)方 |
長尾景虎(上杉謙信) |
関東出兵の総大将。後の関東管領。 |
|
上杉憲政 |
景虎が奉じる前関東管領。関東秩序回復の大義名分そのもの。 |
|
河田長親 |
景虎の腹心。厩橋城の初代城代に任命される 1 。 |
|
北条高広 |
越後の有力国人。後に厩橋城の城主(二代目城代)となる 4 。 |
厩橋長野氏 |
長野道賢・長野彦太郎 (系譜に混乱あり、同一人物説や親子説も) |
永禄三年頃の厩橋城主。景虎に降伏後、「暴れ馬事件」により一族もろとも粛清されたとされる 23 。 |
北条方 |
北条氏康 |
相模の大名。景虎の関東侵攻における最大の敵対者。 |
第四章:関東の橋頭堡、誕生す ― 厩橋城領有の衝撃
厩橋城が長尾景虎の手に落ち、その支配体制が確立されたことは、単に一つの城の主が変わったという以上の、関東の勢力図を根底から塗り替えるほどの衝撃をもたらした。この城は、翌年の小田原城大包囲戦へと至る巨大な軍事行動の策源地となり、関東の歴史を新たな段階へと進める原動力となったのである。
新城代の任命と関東経営の拠点化
厩橋長野氏の粛清後、景虎は即座に城の支配体制の再編に着手した。彼は城代として、まず腹心の将である河田長親を配置した 1 。その後、より大きな権限を持つ城主として、越後の有力国人である北条(きたじょう)高広を任命している 4 。これにより、厩橋城は土着国人の影響力から完全に切り離され、越後長尾氏の直轄拠点として、その性格を全く新たにした。関東の地における景虎の意思を直接反映する、強力な司令塔が誕生した瞬間であった 4 。
関東諸将の参集と反北条連合軍の形成
盤石の拠点を得た景虎は、ここから本格的な関東制圧へと乗り出す。彼は武蔵岩槻城主・太田資正ら、反北条の立場を鮮明にする国人を通じて、関東一円の諸将に催促状を発し、厩橋城への参陣を厳命した 6 。景虎の武威と、彼が掲げる「関東管領の帰還」という大義名分の下、それまで日和見を決め込んでいた者や、北条氏に半ば強制的に従っていた者も含め、無数の国人領主たちが続々と厩橋城に集結した。その軍勢は最終的に十万を超えたとも伝えられており、関東史上でも類を見ない規模の反北条連合軍が形成されたのである 15 。厩橋城は、この巨大な連合軍が誕生するための、まさに「揺りかご」としての役割を果たした。
北条氏康の対応:撤退と籠城策
景虎による電撃的な厩橋城の確保と、それに呼応するかのように次々と離反していく関東諸将の報は、相模の北条氏康に大きな衝撃を与えた。当時、氏康は安房国の里見氏を攻撃すべく久留里城を包囲していたが、自らの背後である上野・武蔵で巨大な敵対勢力が生まれつつあることを知り、作戦の継続を断念 14 。急ぎ軍を撤退させ、本拠地である小田原へと引き返した。
氏康は、関東平野での野戦では、数で圧倒的に勝る景虎連合軍に勝ち目はないと冷静に判断した。そして、北条氏の誇る天下の堅城・小田原城での徹底した籠城策を選択する 14 。関東各地の支城から兵力を小田原へと集結させ、長期戦に備えたのである。
この氏康の決断は、軍事的には合理的であったかもしれない。しかし、政治的には、彼が関東における主導権(イニシアチブ)を完全に失ったことを意味していた。それまで、河越夜戦に象徴されるように、常に攻勢に立ち、関東の秩序を自らの手で作り上げてきた氏康が、初めて受動的な「守り」の側に立たされたのである。厩橋城という「点」を失ったことが、関東全域という「面」における北条氏の劣勢を決定づけた。この時点で、翌年の小田原城包囲という事態は、もはや不可避となっていた。厩橋城の失陥は、単なる一城の喪失ではなく、北条氏の関東制覇戦略そのものを根底から覆す、決定的な戦略的敗北だったのである。
終章:一点の軍事拠点が変えた歴史の流れ
永禄三年(1560年)の「厩橋城の戦い」は、大規模な戦闘こそ記録されていないものの、その後の関東の政治・軍事状況を根底から覆した、極めて重要な歴史の転換点であった。この出来事は、単なる局地的な紛争ではなく、戦国時代の関東の勢力図を永続的に変え、上杉、武田、北条という三大名による熾烈な争奪戦の序曲を奏でるものであった。
関東勢力図の永続的変化
厩橋城の確保により、長尾(上杉)氏は、初めて関東に恒久的な足がかりを得ることに成功した。以後、この城は謙信の生涯にわたる関東出兵の拠点として、繰り返しその名が歴史に登場することになる 4 。この橋頭堡の存在により、関東は北条氏一強の時代から、利根川を挟んで上杉氏と北条氏が熾烈な覇権を争う時代へと移行した。この基本的な対立構図は、その後数十年にわたって関東の政治情勢を規定し続けることになった 26 。
上杉・武田・北条による三つ巴の戦いの序曲
上杉氏が関東、特に上野国に深く介入するようになったことは、必然的に甲斐の武田信玄の戦略にも大きな影響を与えた。信濃を巡って謙信と激しく争っていた信玄にとって、上杉氏が上野国を拠点化することは、自国の背後を脅かされるに等しい事態であった。これにより、信玄もまた、上野国をめぐる争いに本格的に参戦せざるを得なくなり、関東は上杉・北条の二極対立から、武田を加えた三つ巴の、より複雑で熾烈な戦乱の舞台へと変貌していく 29 。厩橋城は、後にこの三国が幾度となく奪い合う、関東の覇権を象徴する戦略上の要衝となったのである 25 。
結論:「厩橋城の戦い」が戦国史に刻んだもの
永禄三年の厩橋城開城と、それに続く一連の出来事は、長尾景虎が「越後の龍」という一地方の覇者から、関東の秩序を左右する「関東管領・上杉謙信」へと飛翔するための、最初の、そして最も決定的な一歩であった。この城の確保がなければ、翌年の空前の規模での小田原包囲も、また、関東での優位を背景とした第四次川中島の戦いにおける激突も、全く異なった様相を呈していたであろう。
まさに、厩橋城という一点の軍事拠点の支配権の移行が、歴史の大きな潮流を変えた瞬間であった。それは、関東の戦国史が新たな時代へと突入したことを告げる、静かな、しかし決定的な号砲だったのである。
引用文献
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- 前橋台地の利根川 - 群馬県立自然史博物館 https://www.gmnh.pref.gunma.jp/wp-content/uploads/report40-4.pdf
- 厩橋城の謎を追う - 箕輪城と上州戦国史 https://minowa1059.wiki.fc2.com/m/wiki/%E5%8E%A9%E6%A9%8B%E5%9F%8E%E3%81%AE%E8%AC%8E%E3%82%92%E8%BF%BD%E3%81%86
- 東管領の上杉憲政を擁して関東へ出陣した際、厩橋には箕輪長野氏の 一族が在城していた。その後 https://www.pref.gunma.jp/uploaded/attachment/130114.pdf
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- 「唐沢山城の戦い(1560年~)」謙信が10年かけても落とせなかった!?下野の名将・佐野昌綱の ... - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/148
- 第四十六回|北条氏康 関東争乱篇|つながる文芸Webサイト「BOC」ボック https://www.chuko.co.jp/boc/serial/ujiyasu_4/post_779.html
- 上杉謙信 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E8%AC%99%E4%BF%A1