国吉城の戦い(1570)
国吉城の戦い(1570)は織田信長による越前侵攻と「金ヶ崎の退き口」における国吉城の戦略的価値。信長は国吉城を拠点とし、浅井長政の裏切りによる挟撃から生還した。
元亀元年、若狭国吉城の戦略的価値と「金ヶ崎の退き口」の真相
序章:再定義される「国吉城の戦い」
元亀元年(1570年)に若狭国で繰り広げられた一連の軍事行動は、しばしば「国吉城の戦い」と称される。しかし、この呼称は誤解を招きやすい。この出来事の本質は、国吉城そのものをめぐる攻城戦ではなく、織田信長が主導した越前朝倉氏への初の大規模侵攻作戦と、その作戦が頓挫した後の絶体絶命の撤退戦において、国吉城が果たした極めて重要な戦略的役割にこそある 1 。通説では、この戦いを天正元年(1573年)の朝倉氏滅亡戦と混同し、「織田方が朝倉残党を制圧した戦い」と認識されることがあるが、それは史実と異なる 3 。1570年4月の出来事は、信長の天下布武における最初の大きな蹉跌であり、後の歴史を大きく左右する転換点であった。
本報告書は、この歴史的な十日間を、国吉城という基軸から再評価することを目的とする。単なる通過点としてではなく、作戦全体の成否を左右した「攻守の要」として国吉城を位置づけ、織田・徳川連合軍の侵攻から撤退に至るまでの全貌を、信頼性の高い史料と近年の研究成果に基づいて「リアルタイム」で再構築する。特に、戦国史において名高い「金ヶ崎の退き口」については、『太閤記』などに描かれる従来の英雄譚とは一線を画し、国吉城の戦略的価値を核とした、より現実的かつ合理的な作戦の実像を提示するものである 5 。
本編に入るにあたり、この複雑な軍事行動に関わった主要な人物たちの立場と役割を明確にしておく。彼らの関係性を理解することは、続く時系列分析の理解を深める上で不可欠である。
【表1】主要関係者とそれぞれの役割
人物名 |
所属勢力 |
本軍事行動における主な役割・役職 |
織田信長 |
織田軍 |
総大将。越前朝倉氏討伐を主導。 |
徳川家康 |
徳川軍 |
同盟軍大将として参陣。織田軍の先鋒を務める。 |
羽柴秀吉 |
織田軍 |
主要部将。撤退戦において殿(しんがり)部隊の一翼を担う。 |
明智光秀 |
織田軍 |
主要部将。同じく殿部隊の一翼を担ったとされる。 |
丹羽長秀 |
織田軍 |
主要部将。若狭国内の地理に明るく、軍の展開を補佐。 |
池田勝正 |
幕府軍 |
摂津国の武将。幕府方として参陣し、殿部隊に参加。 |
粟屋勝久 |
若狭国人衆 |
国吉城主。長年朝倉氏と敵対し、信長に全面的に協力。 |
逸見昌経 |
若狭国人衆 |
若狭の有力国人。信長に恭順し、軍勢に加わる。 |
朝倉義景 |
朝倉軍 |
総大将。越前国の戦国大名。信長の上洛命令を拒否。 |
朝倉景恒 |
朝倉軍 |
金ヶ崎城主。織田軍の猛攻の前に降伏。 |
浅井長政 |
浅井軍 |
北近江の戦国大名。信長の義弟だが、土壇場で離反。 |
武田元明 |
旧若狭守護 |
朝倉氏に庇護(軟禁)されていた若狭武田氏の旧主。 |
朽木元綱 |
近江国人衆 |
朽木谷の領主。信長の撤退路の鍵を握る重要人物。 |
第一部:戦いの舞台 ― 難攻不落の城、国吉
織田信長が越前侵攻の拠点として国吉城を選んだのは、決して偶然ではない。そこには、長年にわたる地域の政治的・軍事的文脈と、国吉城自体が持つ卓越した戦略的価値が存在した。信長の選択の必然性を理解するためには、まずこの城がどのような場所であったかを知る必要がある。
第一章:若越国境の要衝
国吉城は、若狭国(現在の福井県嶺南地方)の東端、越前国(同嶺北地方)との国境地帯に位置する山城である 6 。この地は、京都と北陸を結ぶ主要街道の一つである「丹後街道」が通過する交通の要衝であり、城は標高197.3メートルの城山から、街道が越える椿峠を眼下に見下ろす絶好の立地にあった 5 。この地理的条件により、国吉城は越前から若狭へ侵攻する敵軍に対する強力な防波堤であると同時に、若狭から越前へ攻め入るための絶対的な橋頭堡となり得る、まさに「境目の城」としての機能を備えていた 5 。
城の構造(縄張り)は、戦国期山城の典型を示している。山頂の最高所に本丸を置き、そこから北西に伸びる尾根筋に沿って複数の曲輪を階段状に配置した「連郭式」と呼ばれる形式である 7 。山の斜面は急峻で、自然の地形を巧みに利用しつつ、要所には堀切(尾根を分断する堀)や土塁が設けられ、防御力を高めている 10 。発掘調査では部分的に石垣が用いられていたことも確認されており、特に本丸の虎口(出入り口)付近は堅固に作られていた 8 。麓には城主の居館跡も存在し、有事の際には山上の詰城に籠城する、攻守一体の構造であったことがわかる 9 。
第二章:城主・粟屋勝久と対朝倉防衛戦
この難攻不落の城をさらに特別な存在にしたのが、城主・粟屋越中守勝久(あわやえっちゅうのかみかつひさ)の存在である 2 。当時、若狭国の名目上の支配者であった守護・武田氏は、一族内の対立(内訌)によって著しく弱体化していた 14 。この若狭の混乱に乗じ、隣国越前の覇者である朝倉義景は、武田氏の後継者・武田元明を保護するという名目で自国の一乗谷に連行し、若狭への影響力を強め、実質的な支配を確立しようと画策していた 16 。
若狭の多くの国人たちがこの朝倉の圧力に屈する中、武田家の重臣であった粟屋勝久は、主君である元明から降伏勧告が届いてもこれを拒絶し、国吉城に籠って徹底抗戦の道を選んだ 3 。永禄6年(1563年)以降、朝倉軍はほぼ毎年のように国吉城へ大軍を差し向けたが、勝久はこれをことごとく撃退 1 。この約10年間にわたる壮絶な籠城戦の様子は、後に軍記物『国吉籠城記』としてまとめられ、国吉城「難攻不落」の評価と、粟屋勝久の不屈の猛将としての武名を天下に轟かせた 18 。
信長が越前侵攻の第一歩として国吉城を選んだ理由は、ここにある。それは単に地理的に都合が良かったからではない。長年にわたり対朝倉の最前線で戦い続け、その実力と、反朝倉という一点における信頼性が完全に証明されていた城と将を、方面作戦の基幹に据えるという、極めて合理的かつ周到な戦略判断であった。信長は、敵地への進撃拠点として、①敵地に最も近く、②背後の安全を確保できる高い防御力を持ち、③現地の地理や敵情に精通し、かつ信頼できる指揮官がいる、という三つの条件を完璧に満たす国吉城を、必然として選択したのである。
第二部:信長、若狭に入る ― 越前侵攻のリアルタイム分析
元亀元年4月、信長の号令一下、天下統一への次なる一歩として越前侵攻作戦が開始された。国吉城を基点として展開されたこの電撃戦は、当初、織田軍の圧倒的な勝利に終わるかに見えた。その詳細な時間経過を追う。
【表2】元亀元年 越前侵攻・撤退 時系列表(1570年4月20日~30日)
日付 |
織田・徳川連合軍の動向 |
朝倉・浅井軍の動向 |
関連人物・特記事項 |
主要典拠 |
4月20日 |
信長、3万の軍勢を率い京都を出陣。若狭武藤氏討伐を名目とする。 |
朝倉義景、信長の上洛命令を無視し越前に留まる。 |
家康の同行は二次史料による 21 。 |
『信長公記』等 |
4月21日 |
琵琶湖西岸を北上。 |
- |
- |
- |
4月22日 |
若狭国熊川宿に到着、宿陣。 |
- |
信長は松宮玄蕃館、家康は得法寺に宿泊したと伝わる 22 。 |
『国吉籠城記』等 |
4月23日 |
国吉城に入城。諸将は城下の村々に布陣。 |
- |
城主・粟屋勝久が出迎える。三英傑(信長、秀吉、家康)が集結 23 。 |
『信長公記』等 |
4月24日 |
国吉城にて越前攻めの軍議。 |
- |
若狭衆から現地の情報提供があったと推測される。 |
- |
4月25日 |
国吉城を出撃し、越前敦賀へ侵攻。天筒山城を1日で攻略。 |
天筒山城守備隊、激戦の末に敗北。 |
織田軍の死傷者も多数出た激戦であった 24 。 |
『信長公記』 |
4月26日 |
金ヶ崎城を包囲。城主・朝倉景恒が降伏開城。 |
朝倉景恒、戦わずに降伏。 |
敦賀一帯を完全に制圧。 |
『信長公記』 |
4月27日 |
木の芽峠越えの準備。 |
朝倉義景、本隊を率いて府中まで進出 24 。 |
浅井長政離反の報が信長に届く。 |
- |
4月28日 |
全軍撤退を開始。信長は僅かな供回りで国吉城経由で先行。 |
浅井長政、小谷城を出陣し織田軍の背後を突く。 |
殿部隊(秀吉、光秀、池田勝正ら)が追撃を阻止 5 。 |
『信長公記』等 |
4月29日 |
信長、熊川宿を経て朽木谷へ。 |
朝倉・浅井軍、殿部隊を追撃。 |
朽木元綱が信長を保護・警護 25 。 |
『長谷川家先祖書』 |
4月30日 |
信長、京都に帰還。 |
- |
供回りは僅か10名余りであったと伝わる 25 。 |
『継芥記』 |
第一章:京から若狭へ(元亀元年四月二十日~二十二日)
4月20日 、織田信長は、再三にわたる将軍・足利義昭への上洛命令を無視し続ける朝倉義景を討伐するという大義名分を掲げ、約3万と号する大軍を率いて京都を出陣した 4 。この遠征には、若狭武田氏の内紛に介入する朝倉氏から武田家を救援するという、もう一つの名分も含まれていた 26 。同盟者である徳川家康も軍勢を率いてこれに合流したが、家康の参陣を記すのは『三河物語』や『国吉籠城記』といった後世に成立した二次史料であり、信頼性が最も高いとされる『信長公記』にはその記述がなく、一次史料による確証は得られていない点には留意が必要である 21 。
軍勢は畿内から琵琶湖西岸の街道を迅速に北上し、 4月22日 には若狭国の入り口にあたる熊川宿に到着した 21 。伝承によれば、信長は現地の国人・松宮玄蕃の館に、家康は得法寺にそれぞれ宿陣したという 22 。このよどみない進軍は、作戦が周到に準備されていたことを示唆している。
第二章:国吉城の軍議(四月二十三日~二十四日)
4月23日 、織田・徳川連合軍は熊川を発ち、丹後街道をさらに北上、目的地である国吉城へと入った 6 。城主・粟屋勝久は、信長一行を倉見峠まで出向いて丁重に迎えたと伝えられる 6 。この時、国吉城には信長、秀吉、家康という後に天下統一を成し遂げる三英傑、さらには明智光秀までもが一堂に会したとされる 23 。信長ら主だった将は城内に入り、丹羽長秀や逸見駿河守といった他の部将たちは、城下の木野村や坂尻村など周辺の村々に陣を敷いた 21 。
4月24日 、国吉城において、越前攻略の最終的な軍事作戦会議が開かれた 1 。この軍議の具体的な内容は記録に残されていないが、長年にわたって朝倉軍と対峙してきた粟屋勝久ら若狭衆から、敦賀周辺の地理、朝倉方の城砦の防御上の弱点、兵力配置といった極めて実践的な情報が提供されたことは想像に難くない。この「生きた情報」こそが、翌日からの織田軍の破竹の進撃を可能にした重要な要因であったと考えられる。
第三章:破竹の進撃(四月二十五日~二十六日)
4月25日 、軍議を終えた連合軍は、粟屋勝久ら若狭衆を道案内兼先鋒部隊に加え、満を持して国吉城を出撃。若越国境を越え、朝倉氏の支配下にある越前国敦賀郡へと雪崩れ込んだ 9 。目標は、敦賀湾を見下ろす戦略拠点、天筒山城であった。信長自ら陣頭に立ったとも言われる攻撃は熾烈を極めた。特に、防御が手薄と見られた城の東南に広がる池見湿地側からの一気呵成の攻めが功を奏し、堅固な山城であった天筒山城をわずか一日で陥落させた 24 。『信長公記』は、この戦いで1370の首級を挙げたと記しており、その戦いの激しさを物語っている 24 。
4月26日 、天筒山城のあまりにも早い落城と、眼前に迫る織田軍の圧倒的な勢いを目の当たりにした金ヶ崎城主・朝倉景恒は、戦意を喪失。抵抗することなく城を明け渡し、降伏した 24 。これにより、織田軍は敦賀一帯を完全に掌握。朝倉氏の本拠地である一乗谷へ続く最大の関門、木の芽峠への進撃路を確保し、作戦は完璧な成功を収めたかに見えた。
第三部:「金ヶ崎の退き口」― 絶体絶命からの撤退戦
順風満帆に見えた越前侵攻作戦は、突如として暗転する。信頼していた同盟者の裏切りにより、織田軍は一転して壊滅の危機に瀕した。この絶体絶命の状況から、信長はいかにして生還したのか。その撤退戦の真相に迫る。
第一章:裏切りの報(四月二十七日~二十八日)
織田軍が金ヶ崎城を落とし、木の芽峠を越えて一乗谷へ総攻撃をかけようと準備を進めていた 4月27日 頃、信長の本陣に衝撃的な報せが舞い込んだ。信長の妹・お市の方を娶り、固い姻戚関係にあったはずの北近江の盟友・浅井長政が、長年の同盟関係にあった朝倉氏に味方し、織田軍の背後を遮断すべく小谷城から出陣したというのである 22 。
この裏切りは、織田軍にとって致命的な意味を持った。前方に朝倉義景の本隊、そして後方に浅井軍という、完全な挟撃態勢に陥ったからである 24 。補給路は断たれ、退路も塞がれれば、3万の軍勢が敵地で殲滅されることは必定であった。一刻の猶予も無いと判断した信長は、即座に全軍撤退という苦渋の決断を下す。
第二章:撤退作戦の核心 ― 国吉城への後退
この「金ヶ崎の退き口」は、後世、『太閤記』などによって、羽柴秀吉が殿(しんがり)の重責を見事に果たし、絶望的な追撃戦を耐え抜いて信長を無事に帰還させた、という英雄譚として語り継がれてきた 5 。しかし、近年の研究では、この物語は秀吉の武功を際立たせるために脚色された部分が多く、実際の撤退作戦はより合理的かつ戦略的に遂行されたと考えられている 5 。
その作戦の核心にあったのが、まさに出撃拠点であった国吉城の存在である。金ヶ崎から京都までの約130キロメートルもの長距離を、追撃を受けながら撤退することは軍事的にほぼ不可能に近い。しかし、作戦目標を再設定すれば話は変わる。すなわち、「金ヶ崎の退き口」とは、金ヶ崎から京都までの一続きの逃避行ではなく、**①金ヶ崎城から前線基地である国吉城までの約10キロメートルの「戦術的後退」**と、**②安全が確保された国吉城から京都までの「戦略的撤退」**という、明確に区分された二段階の作戦であった可能性が極めて高い。
この作戦の成否の鍵は、堅固な「受け皿」としての国吉城の存在にあった。金ヶ崎城から国吉城までの距離はわずか10キロメートルほどであり、徒歩でも数時間の距離である 5 。殿部隊の任務は、この短距離の間、主力部隊が安全に国吉城へ後退するまでの時間を稼ぐことにあった。そして、朝倉・浅井の追撃軍にとって、長年攻めあぐねてきた「難攻不落」の国吉城に織田軍が籠城してしまえば、それ以上の追撃は極めて困難となる 5 。国吉城の存在こそが、織田軍の全面的な崩壊を防いだ最大の要因であったと言える。
この困難な殿の任務は、秀吉単独で担ったわけではない。一次史料に近い記録によれば、秀吉の他に、明智光秀、そして幕府軍を率いていた池田勝正といった複数の部将が殿部隊を構成し、共同でこの任にあたったとされる 5 。彼らは敦賀から若越国境の関峠にかけての地域で、雪崩をうって押し寄せる朝倉・浅井連合軍の追撃を食い止めるべく、壮絶な防衛戦を繰り広げたのであった 25 。
第三章:信長、京へ(四月二十八日~三十日)
4月28日 、主力部隊が国吉城への撤退に成功するのを見届けると、信長は殿部隊に後事を託し、自らは京都への帰還を最優先する。杉谷善住坊のような狙撃者の存在も知る信長にとって、大軍を率いてのろのろと撤退することは最大の危険であった。彼は、僅か10名ほどの供回りだけを連れ、馬で若狭街道を駆け抜ける強行軍を開始した 24 。
その撤退ルートは、まず国吉城から丹後街道を南下し、往路でも宿陣した熊川宿へと至る 25 。ここからが往路と異なる。浅井領である琵琶湖西岸を避けるため、一行はさらに南下し、近江国朽木谷を抜けて京都へ至る「朽木越え」と呼ばれる間道を選択した 25 。この険しい山道を踏破できたのは、現地の地理に精通した若狭衆の先導があったからに他ならない。
この逃避行の成否を決定づけたのが、朽木谷の領主・朽木元綱の存在であった。元綱は当時、浅井氏に人質を差し出して従属していたが、松永久秀らの説得に応じ、信長に味方することを決断 31 。彼は信長一行を自らの居城で手厚く保護し、京都までの道を警護した 24 。この元綱の協力がなければ、信長の生還はあり得なかったであろう。
そして 4月30日 、信長は無事に京都に帰着した 25 。3万の軍勢を敵地の只中に残しながらの、まさに奇跡的な生還であった。
終章:歴史を変えた十日間
元亀元年4月の越前侵攻とそれに続く撤退戦は、わずか十日間の出来事であった。しかし、この短い期間に凝縮された戦略、決断、そして裏切りは、その後の戦国時代の趨勢に決定的な影響を与えた。
この辛くも成功した撤退は、織田軍の主力の壊滅を防ぎ、信長に態勢を立て直すための貴重な時間をもたらした。これが、わずか二ヶ月後の元亀元年6月、浅井・朝倉連合軍に雪辱を果たすことになる「姉川の戦い」の勝利へと直接繋がっていく 4 。もし金ヶ崎で信長が討たれるか、主力軍が壊滅していれば、その後の歴史は全く異なる様相を呈していたであろう。
この一連の出来事において、国吉城と城主・粟屋勝久が果たした役割は計り知れない。勝久は、侵攻の拠点提供と撤退の支援という功績により信長から絶大な信頼を得た。若狭国が後に信長の重臣・丹羽長秀の所領となった際も、勝久は長秀の与力として重用され、本能寺の変後は羽柴秀吉に仕えるなど、激動の時代を生き抜いた 8 。国吉城もまた、その戦略的重要性を認められ、後の賤ヶ岳の戦いなどにおいても、秀吉方の重要拠点として機能し続けた 1 。
歴史的に見れば、「金ヶ崎の退き口」は信長にとって生涯最大の危機のひとつであった。しかし同時に、この危機は、羽柴秀吉や明智光秀といった家臣たちの能力と忠誠心、そして徳川家康という同盟者の信頼性を見極める絶好の試金石ともなった。また、浅井長政の裏切りは、反信長勢力が連携する「信長包囲網」の形成を本格化させ、戦国の動乱を新たな、そしてより激しいステージへと導いた。
奇しくも国吉城の軍議に集った織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三英傑が、この絶体絶命の危機を共有し、乗り越えたという経験は、彼らが歩むそれぞれの天下取りへの道程において、計り知れない意味を持っていた。若狭の小城、国吉城は、まさに日本の歴史が大きく動く、その中心舞台となったのである 1 。
引用文献
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- 国吉城の見所と写真・1000人城主の評価(福井県美浜町) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/451/
- 国吉城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%90%89%E5%9F%8E
- 朝倉孝景(敏景)・朝倉義景 | 歴史あれこれ | 公益財団法人 歴史のみえるまちづくり協会 https://www.fukui-rekimachi.jp/category/detail.php?post_id=30
- 新説・金ヶ崎の退き口。織田方の最前線が〈難攻不落の国吉城〉だったという重要な意味【どうする家康 満喫リポート】 金ヶ崎の戦い編 | サライ.jp https://serai.jp/hobby/1124220
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- 国吉城 - 敦賀の歴史 http://historia.justhpbs.jp/kuniyosi1.html
- 国吉城の歴史 | 国吉城のガイド - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/451/memo/4316.html
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- 国吉城攻防戦 朝倉氏の若狭武田氏支援と若狭攻防戦(3/完) 武田 ... http://fukuihis.web.fc2.com/war/war072.html
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- 美浜町佐柿の国吉城(町史跡)が 『続日本100名城』に選ばれました! https://www.town.fukui-mihama.lg.jp/uploaded/attachment/2697.pdf
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- 【福井県】国吉城の歴史 朝倉氏の攻城戦を数年にわたり迎撃!難攻不落の山城 | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/964
- 1570年4月 織田信長越前攻め(金ヶ崎の退き口)と徳川 ... - 美浜町 https://www.town.fukui-mihama.lg.jp/uploaded/attachment/5330.pdf
- 織田信長の越前朝倉氏侵攻をたどるルート(車利用) - 若狭美浜観光協会 https://wakasa-mihama.jp/modelcourse/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7%E3%81%AE%E8%B6%8A%E5%89%8D%E6%9C%9D%E5%80%89%E6%B0%8F%E4%BE%B5%E6%94%BB%E3%82%92%E3%81%9F%E3%81%A9%E3%82%8B%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%88%E8%BB%8A%E5%88%A9%E7%94%A8/
- 大河ドラマの舞台にもなった若狭を代表する山城「国吉城」で歴史ロマンを感じよう。 - 福井県観光連盟 https://www.fuku-e.com/fukutabi/detail_96.html
- 金ヶ崎の退き口 - 敦賀市 http://historia.justhpbs.jp/nokiguti1.html
- 金ヶ崎の退き口 (後編:撤退開始~朽木越え): 歴旅.こむ http://shmz1975.cocolog-nifty.com/blog/2015/05/post-86f1.html
- 元亀元年の幕府・織田信長の若狭武藤氏 ... - 戦国大名池田勝正研究所 https://ike-katsu.blogspot.com/2010/12/blog-post.html
- 徳川家康ゆかりの地 美浜~どうした家康 ⁉ なぜ美浜に来た!~ - 福井県美浜町 https://www.town.fukui-mihama.lg.jp/soshiki/30/9020.html
- 〈検証“金ヶ崎の退き口”〉信長が軍議を開いた名城・国吉城周辺には秀吉成功物語と異なる伝承があった!【麒麟がくる 満喫リポート】 | サライ.jp https://serai.jp/hobby/1010159
- 金ヶ崎の退き口 http://historia.justhpbs.jp/nokiguti.html
- 逃げられたのは〇〇のおかげ?:「金ヶ崎の退き口」を地形・地質的観点で見るpart7【合戦場の地形&地質vol.3-7】|ゆるく楽しむ - note https://note.com/yurukutanosimu/n/n08eda3e4abd6
- 関ヶ原の戦いを動かした裏切り/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/41103/
- 朽木元綱 信長最大のピンチを救った男 戦国をしたたかに生き抜いた処世術とは? - YouTube https://m.youtube.com/watch?v=dp330BCqqlc&t=0s