最終更新日 2025-08-27

塩尻峠の戦い(1542)

専門家報告書:塩尻峠の戦い(天文17年)— 武田信玄、屈辱からの再起を賭けた乾坤一擲の奇襲戦

序章:風雲急を告げる信濃 — 合戦の歴史的位置づけ

日本の戦国時代史において、特定の合戦がその後の勢力図を劇的に塗り替える転換点となる事例は数多い。天文17年(1548年)7月19日、信濃国筑摩郡の塩尻峠で繰り広げられた武田晴信(後の信玄)軍と小笠原長時軍の激突は、まさにそのような決定的な一戦であった。本報告書は、ご依頼のあった「塩尻峠の戦い」について、史料に基づきその全貌を徹底的に解明するものである。

まず、合戦の年代について明確にしておく必要がある。ご提示いただいた概要では「1542年」とされているが、これは武田晴信が信濃諏訪郡に本格的に侵攻を開始した年であり、塩尻峠の戦いは、信頼性の高い史料である『高白斎記』や『妙法寺記』などから、その6年後の天文17年(1548年)に発生したことが確実視されている 1 。本報告では、この史実に基づき、1548年の合戦として詳述する。

当時の信濃国は、守護職であった小笠原氏の権威が名目上のものとなり、村上義清、諏訪頼重といった有力な国人領主が各地で覇を競う、群雄割拠の状態にあった 3 。この混沌とした情勢に目を付けたのが、甲斐国を統一した若き武将、武田晴信である。天文11年(1542年)、晴信は諏訪氏を滅ぼして信濃への足掛かりを築くと、破竹の勢いでその勢力圏を拡大していった 4 。しかし、その進撃は信濃の伝統的勢力との間に深刻な軋轢を生み、やがて甲斐の虎と信濃の諸将との全面対決は避けられない状況へと至る。塩尻峠の戦いは、この武田氏による信濃侵攻という大きな歴史的文脈の中で、極めて重要な意味を持つ一戦なのである。

第一部:合戦前夜 — 敗北からの胎動

第一章:上田原の衝撃 — 晴信、生涯初の敗北

塩尻峠の戦いを理解する上で、そのわずか5ヶ月前に起こった「上田原の戦い」の衝撃を抜きにして語ることはできない。天文17年(1548年)2月、北信濃に覇を唱える猛将・村上義清との直接対決に臨んだ晴信は、生涯初となる惨敗を喫した 1 。この戦いで武田軍は、譜代の重臣であり、軍の中核を担っていた板垣信方と甘利虎泰という「両職」を同時に失うという、壊滅的な打撃を受けた 7

特に、諏訪郡の統治を任されていた郡代・板垣信方の戦死は、武田の信濃支配に深刻な動揺をもたらした 1 。これまで連戦連勝を重ねてきた晴信の「不敗神話」が崩壊したことは、軍事的な損失以上に大きな意味を持っていた。この敗北は、武田氏に従属していた信濃国人衆の心に、「武田、恐るるに足らず」という危険な認識を植え付け、彼らの忠誠心を大きく揺るがせる結果となったのである 8 。晴信の権威は失墜し、信濃経略は頓挫の危機に瀕していた。

第二章:信濃守護の好機 — 反武田連合の形成

武田晴信の敗北と権威の失墜は、信濃守護の名跡を継ぐ小笠原長時にとって、旧領回復と信濃の覇権確立に向けた千載一遇の好機と映った 1 。長時はこの機を逃さず、村上義清や安曇郡の仁科氏らと連携し、反武田の旗幟を鮮明にする。

長時の行動は迅速であった。同年4月には、諏訪大社の御柱祭の直前を狙って武田領である諏訪郡へ侵攻し、下社周辺を焼き払った 2 。さらに6月10日にも再度侵攻を試みるが、この時は諏訪衆の反撃に遭い、長時自身も手傷を負って撤退している 2

そして、決定的な事態が発生する。7月10日、これまで武田方に与していた諏訪西方衆、すなわち矢島氏や花岡氏といった在地領主たちが、長時に呼応して一斉に蜂起したのである 1 。彼らは上諏訪へと攻め込み、武田の支配体制は根底から覆される危機に直面した。諏訪大社の神長官であった守矢頼真や、武田方の千野氏らは、命からがら諏訪統治の拠点である上原城へと逃げ込み、甲府からの援軍を待つほかなかった 2 。信濃中部は、まさに一触即発の状況にあった。

第二部:両軍の対峙 — 甲斐の虎と信濃の守護

第一章:将帥の肖像

この決戦に臨む両軍の将帥は、対照的な背景と特性を持っていた。

武田晴信(当時28歳)

父・信虎を追放して家督を継いで以来、連勝街道を突き進んできた若き当主。しかし、上田原の敗北という手痛い屈辱を味わい、その戦い方には変化が見られ始めていた 11。もはや単なる勢いだけに頼るのではなく、敗戦を教訓として、より冷静かつ周到な策略を巡らす司令官へと変貌を遂げつつあった 8。この戦いは、彼にとって単なる失地回復ではなく、自身の権威と統率力を信濃全土に再び誇示するための、雪辱を賭けた戦いであった。

小笠原長時

信濃守護という、室町幕府から続く由緒ある家柄の当主 3。弓馬の術に優れ、特に個人としての武勇は高く評価されていた 3。しかし、その名門としての高い矜持が、時に大局観を見誤らせる要因ともなった。戦国乱世において、守護という権威だけでは家臣団を完全に統制することは難しく、その統率力には課題があった可能性が指摘されている 10。数的優位と地の利、そして敵将の敗戦という好条件が揃ったことで、彼の心には慢心と油断が芽生えつつあったのかもしれない。

第二章:軍勢と配置

決戦の地、塩尻峠に集結した両軍の戦力は、以下の通りであった。

武田軍

兵力は約3,000 1。上田原の敗戦と佐久郡方面への備えのため、動員できる兵力は限られていた 14。数では劣勢であったが、晴信が直接率いる中核部隊であり、敗戦の雪辱を期す士気は極めて高かったと推察される。

小笠原軍

兵力は約5,000 1。信濃守護の呼びかけに応じた国人衆に加え、蜂起した諏訪西方衆も合流し、兵力では武田軍を大きく上回っていた。彼らは諏訪湖を一望できる戦略的要衝、塩尻峠(近年の研究では、その南に位置する勝弦峠であったとする説も有力 1)に陣を構え、地の利を完全に掌握していた。

項目

武田軍

小笠原軍

総大将

武田晴信

小笠原長時

推定兵力

約3,000

約5,000

主要構成勢力

甲斐武田本隊、諏訪衆(武田方)

信濃守護衆、筑摩・安曇郡国人、諏訪西方衆

士気・状況

劣勢、背水の陣、雪辱を期す高い士気

優勢、地の利確保、好機到来による高揚と油断

地理的優位性

なし(侵攻側)

あり(塩尻峠に先着・布陣)

【表1:塩尻峠における両軍の戦力比較】

第三部:合戦の刻 — 乾坤一擲の奇襲(リアルタイム時系列解説)

天文17年7月10日〜14日:反旗と静観

7月10日、諏訪西方衆蜂起の報は、甲府の晴信のもとにもたらされた。上原城が危機に晒されているとの知らせを受け、晴信は翌7月11日に甲府を出陣する 1 。しかし、その軍勢はすぐには諏訪へ向かわなかった。甲信国境に近い跡部氏の陣所、そして大井森(現在の山梨県北杜市長坂町)に滞陣し、数日間にわたって動こうとはしなかった 1 。これは、敵情を慎重に探ると同時に、ある壮大な計略の序章であった。

7月15日〜17日:欺瞞の遅延行軍

7月15日、小笠原長時率いる本隊が塩尻峠に布陣を完了したとの報が入る(『妙法寺記』) 2 。それでもなお、武田軍はのらりくらりと行軍を続け、大井森に留まり続けた 14 。家臣の屋敷に立ち寄ったり、頻繁に休息を取らせたりと、その動きは意図的に緩慢であった 14

この不可解な遅延は、小笠原方に「晴信は上田原の敗戦に臆し、決戦を躊躇している」という誤った確信を抱かせた 1 。敵の油断を最大限に誘発するための、高度な心理戦であった。この徹底した欺瞞工作は、味方である諏訪大社上社の副祝(そえのほうり)すら武田を見限り、離反を考えさせるほどのものであったと『守矢文書』は伝えている 2 。晴信は、物理的な戦場だけでなく、敵将・長時の精神をこそ主戦場と捉えていたのである。

7月18日(夕刻〜深夜):電光石火の夜間強行軍

7月18日の夕刻、膠着状態は突如として破られた。晴信は全軍に対し、即時進発を命令する。陽が落ちると同時に、武田軍は大井森から上原城までの約20kmの険しい道のりを、夜陰に乗じて踏破する電撃的な強行軍を開始した 14

この神速の移動は、塩尻峠で勝利を確信し、警戒を緩めていた小笠原方の斥候網を完全に無力化した。深夜、武田軍は突如として上原城に出現した。『高白斎記』に記されたこの動きは、それまでの緩慢さとは打って変わって、驚くべき俊敏さであった 2

7月18日(深夜)〜19日(未明):闇夜の転進

上原城に入った武田軍は、兵士たちに僅かな休息と兵糧を与え、決戦に向けた士気を最大限に高めた 14 。そして休む間もなく、晴信は再び全軍に出撃を命じる。

目標は、塩尻峠の小笠原軍本陣。武田軍は諏訪湖畔を音もなく駆け抜け、闇に紛れて峠の麓へと忍び寄った。この時、上原城から自邸に戻っていた守矢頼真は、武田軍の電撃的な到着を知り、夜を徹して勝利の祈祷を捧げたという(『守矢文書』) 2 。決戦の時は、刻一刻と迫っていた。

7月19日(払暁、卯の刻 午前6時頃):暁の強襲と崩壊

夜が明けきらない払暁、卯の刻(午前6時頃)。塩尻峠に布陣する小笠原軍の陣営は、深い眠りと油断に包まれていた。その静寂を切り裂き、武田軍は一斉に鬨の声を上げ、坂を駆け上がって小笠原軍の本陣へと襲いかかった 2

完全な奇襲であった。当時の状況を記した『守矢信実訴状』は、「武具など着けている者は一人もなく、半分ていどの兵たちが刀で反撃しただけ」とその惨状を伝えている 2 。大半の兵は寝床におり、武具を身に着ける暇もなく逃げ惑うばかりであった 1 。組織的な抵抗は全く不可能であり、陣営は阿鼻叫喚の地獄と化した。

総大将の小笠原長時は歴戦の勇士であり、崩れゆく軍勢を立て直そうと奮戦したが、一度火がついた混乱を収拾することはできなかった 14 。次々と旗本が討ち取られる中、長時は僅かな供回りに守られ、命からがら居城の林城へと敗走した 1

この一方的な戦いで、小笠原軍は1,000人もの将兵が討ち取られた 1 。対する武田軍の損害は、わずか20人程度であったと伝えられている 18 。『妙法寺記』が「悉(ことごとく)小笠原殿人数を打殺し」と記したように、それは合戦というよりも、一方的な殺戮に近いものであった 2

第四部:戦術分析と考察

第一章:勝敗を分けた要因

塩尻峠の戦いは、戦国時代における奇襲戦術の白眉とも言うべき一戦であり、その勝敗を分けた要因は極めて明確である。

武田晴信の勝因

  1. 情報戦の勝利: 敵軍の兵力、布陣、そして何よりも敵将・小笠原長時の性格と心理状態を正確に把握していた。
  2. 心理戦の巧みさ: 意図的な「遅延行軍」という欺瞞工作によって、敵の油断と慢心を最大限に引き出すことに成功した。
  3. 機動力の活用: 「夜間強行軍」という時間と空間の常識を覆す機動により、奇襲の絶対条件である「意外性」を確保した。
  4. 一点集中の原則: 兵力で劣る状況を覆すため、戦力を敵の中枢である本陣への奇襲に完全に集中させ、一撃で指揮系統を破壊した。

小笠原長時の敗因

  1. 情報収集の懈怠: 武田軍の真の意図と最終的な動きを全く察知できず、緩慢な動きを額面通りに受け取ってしまった。
  2. 過信と油断: 兵力と地の利という優位性に安住し、敵が敗戦直後であるという状況から、徹底した警戒を怠った。
  3. 家臣団統制の脆弱性: そもそも信濃国人衆の寄せ集めであった軍の結束力は高くなく、後述する内応説が生まれる土壌があった 13

第二章:調略の影 — 三村氏内応説の虚実

この戦いの敗因として、いくつかの資料は小笠原方の重臣・三村駿河守長親らの内応を挙げている 14 。奇襲の混乱の中、三村隊が背後から小笠原軍に襲いかかったというものである。

しかし、この説には疑問も呈されている。三村氏は合戦後も小笠原氏と行動を共にし、武田氏と敵対し続けた記録があるため、内応の事実と矛盾するからである 9 。この矛盾を考慮すると、別の可能性が浮かび上がる。それは、物理的な内応が実際にあったか否か以上に、武田方による執拗な調略工作が、小笠原軍の結束を内側から蝕んでいたという可能性である。

晴信が家臣団の有力者である三村氏に内応を働きかける、あるいはそのような噂を意図的に流すだけで、小笠原軍内部には深刻な疑心暗鬼が生まれる。誰が味方で誰が敵かわからない状況は、指揮系統を麻痺させ、いざという時の結束力を著しく削ぐ。たとえ内応が事実でなくとも、調略の「影」だけで軍は弱体化するのである。また、大敗を喫した小笠原方にとって、「我々は油断したのではなく、裏切られたのだ」という説明は、名門としての面目を保つ上で都合の良い理由付けであった可能性も否定できない。

この調略の非情さを物語る伝説として、塩尻市洗馬には「夜泣き石」の伝承が残る 19 。戦後、晴信は戦功を賞すると偽って三村長親を甲府に呼び出し、謀殺したという。その無念の魂が石に宿り、夜な夜な泣き声を上げると伝えられている。

第五部:戦後の影響と歴史的意義

第一章:信濃経略の再始動 — 武田の権威回復

塩尻峠における圧勝は、上田原の敗北によって地に落ちた武田晴信の権威と軍事的名声を、一夜にして完全に回復させた。信濃の国人衆は、甲斐の虎の恐ろしさを再びその身に刻み込むこととなった。

晴信は勝利の余勢を駆って、直ちに反乱の首謀者であった諏訪西方衆を追放・処罰し、その所領を没収。揺らいでいた諏訪の支配体制を盤石なものとした 9 。さらに同年9月には、軍を東の佐久郡へと転進させ、前山城をはじめとする13の城を次々と攻略した 1 。上田原の敗戦によって停滞していた信濃経略は、この勝利を起爆剤として、再び猛烈な勢いで加速し始めたのである。

第二章:名門の落日 — 小笠原氏の没落

一方で、この一戦は信濃守護・小笠原氏にとって再起不能の致命傷となった。総大将の長時は命からがら逃れたものの、軍の主力を失い、その権威は完全に失墜した。この敗戦をきっかけに、家臣団の離反が相次ぎ、小笠原氏の勢力は急速に衰退していく。

そして二年後の天文19年(1550年)7月、晴信が満を持して長時の本拠地である筑摩郡に侵攻すると、長時はもはや抵抗する力を持たなかった。居城の林城、そして府中(現在の松本市)の拠点であった深志城(後の松本城)などを戦わずして放棄し、宿敵であったはずの村上義清を頼って北信濃へと落ち延びていった 5 。ここに、信濃守護としての小笠原宗家による信濃中部の支配は、事実上終焉を迎えた。

第三章:次なる戦いへの布石 — 北信への道

塩尻峠の戦いが持つ最大の歴史的意義は、武田氏の信濃統一戦略における決定的な「戦略的転換点(ピボット)」となったことにある。

上田原の敗戦後、武田氏は北信の村上義清、中信の小笠原長時という二大勢力に挟撃され、さらに足元の諏訪までが揺らぐという、多正面作戦を強いられる絶体絶命の危機にあった。しかし、この塩尻峠での勝利によって小笠原氏を無力化し、信濃中南部を完全に安定させたことで、晴信は後顧の憂いを断ち切ることに成功した。

これにより、武田氏はその戦略的リソースの全てを、信濃における最強最後の敵、村上義清に集中させることが可能となったのである。この戦いがなければ、後の難攻不落の城を巡る「砥石崩れ」の苦戦も、そして越後の長尾景虎(上杉謙信)の介入を招き、十数年にわたる死闘となる「川中島の戦い」へと至る歴史の流れも、大きく異なったものになっていたであろう。塩尻峠の暁に響いた鬨の声は、武田信玄による信濃統一、そして戦国史を代表する龍虎の対決へと至る道のりを切り拓いた、運命の号砲だったのである。

引用文献

  1. 塩尻峠の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A1%A9%E5%B0%BB%E5%B3%A0%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  2. 塩尻峠の戦い~城と古戦場~ http://4619.web.fc2.com/place.battle2.html
  3. 小笠原長時(おがさわら ながとき) 拙者の履歴書 Vol.188~信濃守護の矜持と流離 - note https://note.com/digitaljokers/n/n21d450e8f19e
  4. 武田信玄の信濃侵攻① ~諏訪への侵攻~ | 歴史の宮殿 https://histomiyain.com/2018/01/03/post-137/
  5. 武田信玄の戦略図~豪族の群雄割拠が続く信濃に活路を求めた甲斐の虎 https://articles.mapple.net/bk/736/
  6. 武田信玄 | GOOD LUCK TRIP - 好運日本行 https://www.gltjp.com/ja/directory/item/16843/
  7. 長野市「信州・風林火山」特設サイト 川中島の戦い[戦いを知る] https://www.nagano-cvb.or.jp/furinkazan/tatakai/nenpyou.php.html
  8. 【合戦解説】~上田原の戦い~武田信玄初めての敗北を徹底解説! - YouTube https://m.youtube.com/watch?v=RICEWv_Hves
  9. [合戦解説] 10分でわかる塩尻峠の戦い 「武田晴信(信玄)が信濃守護小笠原長時を奇襲し快勝!!」 /RE:戦国覇王 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=7ScuAgayiqQ
  10. 「塩尻峠の戦い(1548年)」信玄の信濃国制圧の転機となった戦い。佐久郡は再び平定へ。 https://sengoku-his.com/771
  11. 「武田信玄」は不利な状況を抱えながら天下を見据えた名将だった! - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/543
  12. 小笠原長時 弓馬の腕は超一流!でも指揮官としての能力は?? - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=v0mqyrHuz7A
  13. 【戦国時代の境界大名】小笠原氏――名門武家、宿願のために三英傑の元を渡り歩く - 攻城団 https://kojodan.jp/blog/entry/2021/01/22/180000
  14. 【合戦解説】~塩尻峠の戦い~武田晴信、乾坤一擲の奇襲戦! - YouTube https://m.youtube.com/watch?v=G7DTNNc185I&t=91s
  15. 鹽尻峠之戰- 維基百科,自由的百科全書 https://zh.wikipedia.org/zh-tw/%E7%9B%90%E5%B0%BB%E5%B3%A0%E4%B9%8B%E6%88%98
  16. 3-1 松本城の城主(1) 武田氏と小笠原貞慶 https://www.oshiro-m.org/wp-content/uploads/2015/04/a3_1.pdf
  17. 塩尻峠・勝弦峠 - DTI http://www.zephyr.dti.ne.jp/bushi/siseki/shiojiri.htm
  18. 【上田原の戦い】と【塩尻峠の戦い】大敗北と大勝利の二つの戦い 【武田軍の佐久侵攻戦】 https://www.youtube.com/watch?v=7coMeOKq1QY
  19. 釜井庵 - DTI http://www.zephyr.dti.ne.jp/bushi/siseki/kamaian.htm
  20. 松本城の歴史 https://www.matsumoto-castle.jp/about/history