最終更新日 2025-08-29

増山城の戦い(1583~84)

天正加越紛争は、賤ヶ岳の戦い後、前田利家と佐々成政が北陸の覇権を争った。成政は増山城を拠点に利家領へ侵攻するも、末森城で敗北。中央の情勢変化で孤立した成政は「さらさら越え」で家康に直訴するも失敗。最終的に秀吉に降伏し、前田家が加賀百万石の礎を築いた。

天正加越紛争の実相:増山城をめぐる前田利家と佐々成政の死闘(1583-1584)

序章:増山城の戦いとは何か ― 局地戦から広域紛争への視座転換

天正11年(1583年)から翌12年(1584年)にかけて、北陸の地で二人の旧織田家臣、加賀の前田利家と越中の佐々成政が雌雄を決した一連の軍事衝突が存在する。これは一般に「増山城の戦い」として知られることがあるが、この呼称は事象の一側面に過ぎない。本報告書では、この戦いを単一の城をめぐる攻防戦としてではなく、加賀・越中(加越)国境地帯の広範囲な城砦群を舞台とし、当時の日本の政治情勢と密接に連動した大規模な地域紛争、すなわち「天正加越紛争」として再定義し、その多角的な実像に迫るものである 1

この紛争の呼称自体が、戦いの勝者である前田家の視点から、敵将・佐々成政の重要拠点を象徴的に名指した結果である可能性を考慮する必要がある。実際に紛争の軍事的な頂点をなしたのは、成政の拠点である増山城への攻撃ではなく、むしろ成政による前田領・末森城への大規模侵攻であった 3 。したがって、本質を理解するためには、増山城を「攻略対象」としてではなく、佐々軍の「攻勢拠点」として捉え、そこから展開された一連の軍事行動の全体像を時系列で解き明かす視点が不可欠となる。

この紛争の主役は、対照的な二人であった。一人は、織田信長の親衛隊「黒母衣衆」筆頭を務め、信長への忠義に厚い猛将・佐々成政。彼は天正11年までに越中一国を平定し、独立勢力としての地歩を固めていた 1 。もう一人は、信長の「赤母衣衆」筆頭であり、羽柴秀吉とは若い頃からの盟友であった前田利家。彼は時流を読み、秀吉の覇権確立に協力することで、北陸における重鎮としての地位を築きつつあった 9

彼らが争った加越国境の砺波山地は、両国を結ぶ交通の要衝であり、その支配権は互いの安全保障に直結していた。中でも増山城は、砺波平野を一望し、加賀への進出路を扼する絶好の位置にあり、越中防衛の最重要拠点であった 11 。この戦略的要衝をめぐる二人の武将の対立は、単なる領土争いを超え、織田信長亡き後の天下の趨勢を占う、時代の転換点を象徴する戦いであった。

第一章:亀裂の序曲 ― 賤ヶ岳の戦いと北陸の新秩序(天正11年 / 1583年)

天正加越紛争の根源は、天正11年(1583年)4月に起きた賤ヶ岳の戦いに遡る。この戦いは、織田信長の後継者の座をめぐる羽柴秀吉と柴田勝家の直接対決であり、その結果は北陸の勢力図を一変させ、前田利家と佐々成政の間に修復不可能な亀裂を生じさせた。

賤ヶ岳における両者の立場

賤ヶ岳の戦いにおいて、利家と成政は共に北陸方面軍司令官である柴田勝家の与力という立場にあった。しかし、両者が戦場で果たした役割は大きく異なっていた。

前田利家は、勝家の主力部隊の一翼を担い、近江国茂山砦に布陣した 13 。しかし、戦況が秀吉優位に傾くと、旧友である秀吉との直接対決を避け、戦闘の最中に戦線を離脱した 9 。この利家の撤退が引き金となり柴田軍は総崩れとなり、秀吉の勝利を決定づけたのである 14 。戦後、利家は越前府中城に籠もったが、追撃してきた秀吉と和解し、その配下に入ることを決断した 10

一方の佐々成政は、同じく勝家方であったが、東の宿敵・上杉景勝への備えという重責を担っていたため、本拠地である越中を動くことができなかった 17 。彼が勝家への援軍として派遣できたのは、叔父の佐々平左衛門が率いる僅か600の兵に過ぎなかった 17 。結果として、成政は主力を温存できたものの、織田家旧臣としての義理を果たせなかったという強い無念さを抱えることになった 18

戦後の新秩序と水面下の緊張

賤ヶ岳の戦いの論功行賞において、秀吉は利家の戦線離脱を高く評価した。これは単なる旧友への温情ではなく、敵の主力を内部から切り崩した戦略的価値を認めた結果であった。利家は能登一国に加え、加賀の石川・河北二郡を加増され、本拠を七尾城から金沢城へと移した 2 。これにより、利家は加賀・能登二国にまたがる大大名となり、秀吉政権下における北陸の最重要人物としての地位を確立した。

これに対し、佐々成政の処遇は微妙なものであった。賤ヶ岳の戦い直後の天正11年4月28日、成政は金沢城で秀吉と面会し、越中一国の所領を安堵された 7 。これは一見、寛大な措置に見える。しかし、秀吉が同日付で成政に送った書状には、対上杉景勝の最前線を担う「執次」の役目を与えると共に、「もし越後との交渉が滞るようならば、秀吉自らが出兵する」という一文が添えられていた 21 。これは、成政の能力を認め利用しつつも、強力な圧力をかけることで秀吉の支配体制に組み込もうとする、巧みな政治的策略であった。成政にとって、この所領安堵は寛大さと同時に、秀吉に対する大きな「借り」を負わされることを意味した。

この心理的圧迫と、旧友でありライバルであった利家への嫉妬が、成政を性急な行動へと駆り立てる。秀吉への臣従直後から、成政は越中平定の総仕上げに乗り出した。当時、越中には魚津城や松倉城を拠点とする上杉方の残存勢力が存在したが、成政はこれを猛攻。天正11年6月頃までには弓庄城の土肥氏、城生城の斎藤氏らを掃討し、名実ともに越中一国を完全に掌握した 1 。この迅速な越中平定は、単なる領土統一事業ではなく、秀吉に対して自らの軍事的能力と対上杉の壁としての有用性を証明し、賤ヶ岳で失われた名誉を回復しようとする、成政の焦りの表れでもあったのである。こうして、北陸には秀吉の信頼を得て勢力を拡大する利家と、秀吉への臣従と独立領主としての矜持の間で揺れ動く成政という、不安定で危険な二つの権力が隣接する状況が生まれた。

第二章:難攻不落の要塞 ― 増山城の構造と戦略的価値

天正加越紛争において、佐々成政が対前田軍の拠点とした増山城は、戦国時代の北陸を代表する巨大山城であった。その堅牢さと戦略的重要性は、紛争の行方を左右する上で決定的な要素となった。

歴史的変遷と戦略的立地

増山城の歴史は古く、南北朝時代の史料に見える「和田城」がその前身とされる 8 。室町時代には越中守護代であった神保氏の拠点として本格的に整備され、越中の政治・軍事の中心地の一つとなった 11 。戦国時代に入ると、越中への進出を図る越後の上杉謙信と神保氏との間で、この城をめぐる激しい攻防が繰り返された 22 。謙信は書状の中で増山城を「元来嶮難之地(もとよりけんなんのち)」と記し、その攻略の困難さを認めている 12 。謙信の死後、織田信長勢力が北陸に進出すると、城は織田軍によって攻められ、天正11年(1583年)の佐々成政による越中平定後は、その支配下に入った 26

この城が歴史上、常に争奪の的となった理由は、その絶妙な立地にある。増山城は、加賀・能登へ通じる砺波、射水、そして富山平野へ抜ける婦負の三郡の境界に位置する 12 。この地を抑えることは、越中西部の交通網を掌握し、加賀方面への進出と防御の両面において絶対的な優位を確保することを意味した。

城郭の構造と防御機能

増山城は、松倉城、守山城と並び「越中三大山城」と称される、富山県内屈指の規模を誇る山城である 11 。城域は南北約1.4km、東西約0.9kmにも及び、自然の地形を最大限に活用した巧妙な縄張りが特徴である 12

城の中心部は、最も標高の高い位置にある「二ノ丸」を主郭とし、それを守るように「一ノ丸」「三ノ丸」「安室屋敷」といった複数の曲輪が階段状に、あるいは同心円状に配置されている 26 。それぞれの曲輪は、人間の背丈をはるかに超える巨大な堀切や、急峻な切岸によって完全に分断されており、仮に一つの曲輪が突破されても、次の郭へ容易に進むことはできない構造となっている 11 。特に城の東側から南側にかけては、長さ300mにも及ぶ長大な堀切が二重に設けられ、さらに斜面には無数の畝状竪堀群が穿たれている 26 。これらは、大軍が斜面を駆け上がるのを防ぐための強力な障害であり、麓を流れる和田川を天然の外堀とすることで、鉄壁の防御線を構築していた。

また、籠城に不可欠な水の確保も万全であった。城内には「神保夫人入水の井戸」と呼ばれる井戸や、「馬洗池」などの水源が複数存在し、長期間の籠城にも耐えうる設計となっていた 29

攻防一体の拠点としての増山城

佐々成政は、天正13年(1585年)に豊臣秀吉の侵攻に備えて大規模な普請(改修)を行ったと記録されているが 8 、天正12年の紛争時点においても、この城を単なる防御拠点としてだけではなく、加賀方面への侵攻軍を発進させるための「攻勢拠点」としても重視していた。城内に見られる「足軽屋敷」などの広大な平坦地は、多数の兵員を駐屯させ、物資を集積するための兵站基地としての機能を示唆している 29 。また、和田川西岸には城下町も形成されており、平時からの経済的・兵站的基盤が存在していた 26

成政にとって増山城は、西の前田利家に対する堅固な「盾」であると同時に、機を見て加賀の心臓部へと突き出す鋭い「槍」の役割を担っていた。この攻防一体の性格こそが、増山城の戦略的価値を最大限に高め、天正加越紛争における中心的な舞台たらしめたのである。

第三章:戦端、開かる ― 小牧・長久手の戦いと北陸戦線の連動(天正12年 / 1584年)

天正12年(1584年)3月、織田信長の次男・信雄と徳川家康が、羽柴秀吉に対して兵を挙げたことで「小牧・長久手の戦い」が勃発した 31 。この中央での大決戦は、遠く離れた北陸の地で燻っていた利家と成政の対立を一気に燃え上がらせ、天正加越紛争の直接的な引き金となった。

成政の決断と反秀吉連合

佐々成政は、この戦いを千載一遇の好機と捉えた。彼は家康・信雄方に呼応し、反秀吉の旗幟を鮮明にする 1 。これは単なる秀吉への反発ではなく、亡き主君・織田信長への忠義を貫き、信長の子である信雄を助けるという大義名分に基づいた行動であった 4 。成政の戦略は、北陸で軍事行動を起こすことで秀吉方の前田利家を釘付けにし、尾張・伊勢で戦う家康の本隊を側面から支援することにあった 18 。彼は、自らが反秀吉連合の重要な一翼を担っているという、高度な政治的認識のもとに行動を開始したのである。

利家の立場と国境の防備

一方の前田利家は、秀吉の盟友として、北陸方面の守りを固めるという重責を担っていた 9 。彼は成政の不穏な動きをいち早く察知し、加賀と越中の国境地帯の防備を急ピッチで強化した。特に、国境の要衝である津幡城には、最も信頼する弟の前田秀継を城主として配置し、7000石の知行を与えて対佐々戦線の最前線を任せた 33

こうして、加越国境地帯には、利家方と成政方双方によって多数の城や砦が急造、あるいは改修され、互いに睨み合う緊迫した状況が生まれた 2 。この時点で、加越国境は小牧・長久手の戦いにおける「第二戦線」としての様相を呈し、いつ戦端が開かれてもおかしくない一触即発の状態に陥った。

情報戦の非対称性という悲劇

しかし、成政の戦略には当初から致命的な欠陥が存在した。それは、地理的な問題に起因する「情報の非対称性」である。当時の越中は、西を利家、東を秀吉方の上杉景勝に完全に封鎖されており、地理的に孤立していた 4 。そのため、主戦場である尾張の家康との直接的な軍事連携は不可能であり、戦況に関する正確な情報を迅速に入手することも極めて困難であった。

成政は、中央の戦況が膠着状態にあるという断片的な情報に基づき、前田領への侵攻を決断する 18 。しかしその裏では、秀吉と信雄・家康との間で和睦交渉が着々と進んでいた。彼が起死回生を賭けて行動を起こした時には、既に関東・東海の同盟者たちは手仕舞いを始めており、成政は梯子を外されかけていたのである 4 。この情報格差が、彼の勇猛な軍事行動を、結果的に無意味なものへと変えてしまう悲劇の序章となった。

第四章:攻防のリアルタイムクロニクル ― 加越紛争の時系列展開(天正12年 / 1584年)

中央での小牧・長久手の戦いと連動し、天正12年(1584年)の夏から秋にかけて、加越国境は一気に戦火に包まれた。佐々成政の攻勢に始まり、前田利家の決死の反撃に至るまで、紛争は目まぐるしく展開した。

年月

中央の動向(秀吉・家康など)

北陸の動向(利家・成政)

典拠

天正11年(1583) 4月

賤ヶ岳の戦いで秀吉が柴田勝家に勝利

利家、秀吉に降伏し加賀二郡を加増。成政、秀吉に臣従し越中を安堵。

15

天正11年(1583) 6月

秀吉、大坂城の築城を開始

成政、越中を完全に平定。

7

天正12年(1584) 3月

小牧・長久手の戦いが勃発

成政、家康・信雄に呼応。加越国境の緊張が高まる。

5

天正12年(1584) 8月

成政軍、前田方の朝日山城を攻撃。

3

天正12年(1584) 9月

末森城の戦い。利家が勝利するも、成政は鳥越城を奪取。

3

天正12年(1584) 10月

龍ヶ峰城などで国境紛争が継続。

33

天正12年(1584) 11月

秀吉、織田信雄と和睦。家康とも事実上の停戦へ。

4

天正12年(1584) 12月

成政、和睦の報に焦り、「さらさら越え」を決行。

1

天正13年(1585) 8月

秀吉、関白に就任し、越中へ出陣(富山の役)

成政、秀吉に降伏。越中三郡は利長の所領となる。

39

8月28日:戦端、朝日山城にて開かる

戦いの火蓋は、天正12年8月28日に切られた。佐々成政は、配下の佐々平左衛門と前野小兵衛に命じ、加賀国にある前田方の朝日山城を急襲させた 3 。この攻撃は、金沢城の南方に位置する拠点を叩くことで、利家の注意をそちらに引きつけ、主目標である能登方面への侵攻計画を隠蔽するための巧妙な陽動作戦であったと考えられる。しかし、朝日山城を守る前田家臣・村井長頼はこれをよく防ぎ、佐々軍を撃退した 3 。利家はこの攻撃を「成政の謀反」として直ちに秀吉に報告したが、秀吉からは「聊か卒爾なる働き御無用(=軽率な行動はするな)」と、逆に利家を諌める書状が届いている 5 。これは、秀吉が中央での家康との対決に集中しており、北陸での戦線拡大を望んでいなかったことを示している。

9月9日~12日:紛争の頂点「末森城の戦い」

陽動作戦の後、成政は満を持して本隊を動かした。この末森城の戦いは、天正加越紛争における最大規模の戦闘であり、その勝敗が両者の運命を決定づけた。

陣営

総兵力(推定)

主要部隊・指揮官

役割・動向

典拠

佐々軍

約15,000

総大将:佐々成政

3

神保氏張

北川尻に布陣し、前田軍の救援を警戒。

3

佐々平左衛門、前野勝長など

末森城包囲軍の中核。

41

前田軍

籠城軍 :約500

城主:奥村永福

末森城に籠城し、佐々軍の猛攻に耐える。

43

副将:千秋範昌、土肥伊予など

43

救援軍 :約2,500

総大将:前田利家

金沢城から急行し、佐々軍の背後を強襲。

3

村井長頼など

利家本隊に従軍。

3

9月9日、成政、動く: 成政は総勢15,000と号する大軍を率い、増山城を発進。宝達山を越えて坪山砦に布陣し、一気呵成に末森城を包囲した 3 。末森城は、加賀と能登を結ぶ街道上に位置し、この城を落とせば南北に細長い前田領を完全に分断できる、まさに戦略上の喉元であった 3 。成政は利家の救援を警戒し、重臣の神保氏張に一隊を与えて北川尻に配置し、金沢からの街道を封鎖させた 3

9月11日、落城寸前の末森城: 末森城を守るのは、利家譜代の重臣・奥村永福と、わずか500余の兵であった 43 。圧倒的な兵力差で猛攻を仕掛ける佐々軍に対し、永福らは必死の防戦を続けるが、水の手を断たれ、三の丸、二の丸が次々と陥落。城はまさに風前の灯火となった 43 。永福は最後の望みを託し、金沢城の利家へ急使を放った。

9月11日夜、利家の決断: 金沢城で急報に接した利家は、即座に救援出陣を決意する。家臣の多くは、兵力差があまりに大きく、籠城して秀吉の援軍を待つべきだと主張した。しかし利家は、「ここで永福を見捨てては末代までの恥。人は一代、名は末代」と述べ、反対を押し切って出陣を強行したと伝えられる 5 。これは、戦略的要衝を失うことの不利と、譜代の重臣を見殺しにできないという情義の両面から下された、まさに乾坤一擲の決断であった。利家は精鋭2,500を率いて、夜陰に乗じて金沢城を発った 3

9月12日早朝、奇跡の逆転劇: 利家軍の勝因は、情報戦と機動力にあった。彼は地元の農民・桜井三郎左衛門を道案内に立て、佐々軍が警戒する主要街道を避け、手薄となっていた海岸沿いの道なき道を進軍した 3 。この奇策により、神保氏張の警戒網を完全に突破し、12日の夜明けと共に、末森城を包囲する佐々軍本隊の背後に突如として出現した 3 。圧倒的優位に油断し、利家の迅速な来援を想定していなかった佐々軍は大混乱に陥る 32 。さらに、この機を逃さず城内の奥村永福の部隊も打って出たため、佐々軍は完全に挟撃される形となり、算を乱して敗走した 3 。この激戦で両軍合わせて1500名以上の死傷者が出たとされる 3

9月12日以降:戦線の再構築と消耗戦

末森城での敗北は成政にとって大きな痛手であったが、彼はただでは転ばなかった。

成政の巧みな撤退戦: 成政は敗走の途中、守備兵が末森城の救援に出ていてもぬけの殻となっていた前田方の鳥越城を、逆に占領するというしたたかさを見せた 3 。これにより、彼は加賀領内に楔を打ち込むことに成功し、一方的な敗北という汚名を雪ぐと共に、今後の交渉を有利に進めるための戦略的足がかりを確保した 45

国境での攻防激化: これ以降、大規模な会戦は鳴りを潜め、主戦場は加越国境の城砦群をめぐる消耗戦へと移行した。この局面で大きな働きを見せたのが、利家の弟・前田秀継であった。彼は対佐々戦線の司令官として、国境地帯で粘り強い戦いを展開した。

  • 龍ヶ峰城の戦い: 秀継は、佐々方の佐々平左衛門が守る国境の要衝・龍ヶ峰城を攻略し、前田方の防衛線を越中側へ押し上げた 33
  • 今石動城の築城と攻防: 翌天正13年(1585年)4月、利家は越中攻略の橋頭堡として、国境に今石動城を築城。秀継とその子・利秀を城将として配置した 48 。これに対し、同年5月、佐々方の神保氏張らが5,000の兵で攻め寄せたが、秀継親子は寡兵でこれを撃退(今石動合戦)。秀吉から賞賛されるほどの軍功を挙げた 33

この一連の国境紛争において、増山城は佐々成政方の後方支援基地、および前線への兵力供給拠点として重要な役割を果たし続けた。しかし、末森での敗北と、前田秀継による国境線での粘り強い抵抗により、成政の当初の戦略は完全に頓挫した。

第五章:冬の賭け ― さらさら越えと戦局の膠着

末森城での敗戦と、その後の加越国境における一進一退の攻防により、北陸の戦局は完全に膠着状態に陥った 18 。季節は冬へと向かい、北陸特有の深い雪が両軍のさらなる大規模な軍事行動を不可能にした 13 。この軍事的な停滞期に、成政は状況を打開するため、戦国史上類を見ない壮挙にして、無謀な賭けに出る。

政治的孤立と焦燥

成政が軍事的に手詰まりになる一方、中央の政治情勢は彼にとって絶望的な方向へと動いていた。天正12年11月、秀吉は彼の挙兵の大義名分であった織田信雄と和睦を成立させる 4 。これにより、小牧・長久手の戦いは事実上終結し、徳川家康も秀吉との敵対関係を解消した。この報に接した成政は、反秀吉連合から完全に取り残され、梯子を外された形となった。彼の胸中には、秀吉による報復への恐怖と、同盟者に見捨てられたことへの焦りが渦巻いていたに違いない。

空前絶後の決断「さらさら越え」

この絶望的な状況下で、成政は常人では考えつかない行動を決意する。それは、厳冬期の北アルプス、立山連峰を越えて浜松の徳川家康に直接会い、再度の挙兵を促すというものであった 1 。この行動は、後世「さらさら越え」として知られるようになる。

西の前田利家、東の上杉景勝によって陸路が完全に封鎖されていた成政にとって、この峻険な山越えは家康のもとへたどり着く唯一の道であった 4 。これは、彼の不屈の精神と、旧主・織田家への忠義を貫こうとする執念の表れであった。しかし、この壮挙は戦略的にはほとんど意味をなさなかった。既に秀吉との和睦を決意していた家康の意思は固く、成政の必死の説得も実を結ぶことはなかった 36

「さらさら越え」は、佐々成政という武将の人物像を象徴する行動であった。それは、彼の持つ剛直さ、忠義心、そして驚異的な行動力を示す一方で、合理的な戦略眼よりも「義」や「忠」といった精神論を優先してしまう、彼の限界をも露呈していた。この行動原理は、治水事業のような民政においては善政として結実したが 52 、秀吉のような冷徹な現実主義者との政治闘争においては、致命的な弱点となった。結果として、この歴史的な山越えは、彼の英雄的な悲劇性を高める逸話として後世に語り継がれるのみとなり、彼の政治的孤立を決定づけるものとなったのである。

終章:戦いの帰結と歴史的意義

佐々成政の冬の賭けが失敗に終わったことで、天正加越紛争の趨勢は事実上決した。翌天正13年(1585年)、天下人への道を突き進む羽柴秀吉による最終的な裁定が下され、北陸の政治秩序は新たな時代へと移行した。

富山の役と成政の降伏

「さらさら越え」から戻り、政治的に完全に孤立した成政に対し、秀吉は容赦しなかった。天正13年7月に関白に就任し、名実ともに日本の最高権力者となった秀吉は、同年8月、10万ともいわれる大軍を率いて越中へ侵攻した(富山の役) 39 。これはもはや戦いではなく、天下に背いた者を討伐し、新たな支配者の権威を天下に示すための大規模な示威行動であった。

秀吉軍は越中の諸城を次々と攻略し、富山城を包囲。抵抗は不可能と悟った成政は、呉羽山の麓・安養坊で剃髪し、恭順の意を示して秀吉に降伏した 1 。秀吉は成政の命を助けたものの、越中一国を没収。新川郡のみを安堵するという厳しい処分を下した 54 。その後、成政は肥後国へ転封されるが、現地の国衆一揆を抑えきれなかった責任を問われ、天正16年(1588年)、尼崎で切腹を命じられた。53年の波乱に満ちた生涯であった 6

前田家の勝利と加賀百万石の礎

一方、この紛争を通じて秀吉への忠誠を示した前田利家は、最大の受益者となった。秀吉は成政から没収した越中のうち、砺波・射水・婦負の三郡を利家に与えた 1 。利家はこれを嫡男の利長に与え、利長は守山城に入って越中西部の統治を開始した 55 。これにより、前田家は加賀・能登・越中の三国にまたがる、100万石に迫る領地を有する大大名へと飛躍を遂げ、後の「加賀百万石」の基礎が完全に確立されたのである。

紛争の舞台となった増山城も、成政の降伏後は前田家の所有となり、利家の重臣である中川光重が城主として入った 24 。しかし、泰平の世の到来とともにその軍事的価値は低下し、慶長年間頃には廃城になったと考えられている 12

歴史的意義

天正加越紛争は、豊臣政権の成立過程における、地方勢力の淘汰と再編を象徴する出来事であった。この戦いは、単なる領土争いではなく、「織田信長亡き後の天下をどう捉えるか」という、二人の武将の異なる価値観の衝突であった。

佐々成政は、信長への忠義や旧来の主従関係といった「旧時代の価値観」に殉じた。一方、前田利家は、実力で天下を掴んだ秀吉に従うという「新時代の潮流」に柔軟に対応した。結果は後者の圧倒的な勝利に終わり、もはや血筋や旧恩よりも、現実的な力が全てを決定するという、戦国乱世の最終局面における非情な論理を体現した。

増山城を strategic 拠点としたこの一連の戦いは、戦国時代の終焉と、新たな統一政権による支配秩序が確立されていく時代の大きな転換点を、北陸の地において明確に示した画期的な紛争であったと言えるだろう。

引用文献

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  7. 北陸関連の図録・資料文献・報告書 第12回 富山市郷土博物館特別展「佐々成政の手紙 ー 古文書から浮かび上がる戦国時代」(編集・発行 - 南越書屋 https://nan-etsu.com/hokuriku-reference12/
  8. 増山城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A2%97%E5%B1%B1%E5%9F%8E
  9. 前田利家は何をした人?「信長の親衛隊長・槍の又左が秀吉の時代に家康を抑えた」ハナシ https://busho.fun/person/toshiie-maeda
  10. 戦国大河『利家とまつ』異聞 秀吉が「賤ケ岳」で敵対した前田利家を許した理由【麒麟がくる 満喫リポート】 | サライ.jp https://serai.jp/hobby/394537
  11. 増山城 [1/3] 上杉謙信と戦った越中守護代 神保氏の山城へ。 - 城めぐりチャンネル https://akiou.wordpress.com/2016/08/18/masuyamajo/
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  37. 立山の紹介有難うございました - ピアノ調律師の サロン http://hmpiano.net/sub6sub2005_9.html
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  46. 前田秀継の墓 - M-NETWORK http://www.m-network.com/sengoku/haka/hidetsugu_m640h.html
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  50. 佐々成政の「ザラザラ越え」考 米原 宜 はじめに 1 . 記録類について https://tatehaku.jp/wp-content/themes/tatehaku/common/images/pdf/bulletin/2007/14_2007_03.pdf
  51. 壮挙と悲哀の「さらさら越え」 - さらしなそば https://www.sarashinado.com/2018/08/25/sarasaragoe/
  52. 佐々成政と越中国 http://ettyuukyoudoshi.seesaa.net/article/501797523.html
  53. 佐々成政隊がゆく (1) https://ccis-toyama.or.jp/toyama/magazine/narimasa/sassa1.html
  54. 佐々成政隊がゆく(6) https://www.ccis-toyama.or.jp/toyama/magazine/narimasa/sassa6.html
  55. 前田利長と越中 - 博物館だより https://www.city.toyama.toyama.jp/etc/muse/tayori/tayori25/tayori25.htm
  56. 前田利長 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E7%94%B0%E5%88%A9%E9%95%B7