最終更新日 2025-08-26

多聞山城攻防(1562~68)

大和国支配を巡る死闘:多聞山城攻防戦(1562-1568)全史

序章:大和国を巡る角逐の前夜

1560年代、日本の中心地である畿内は、大きな変革の渦中にありました。室町幕府の権威は失墜し、下剋上の風潮が吹き荒れる中、新たな権力構造が形成されつつありました。この時代の転換点において、大和国(現在の奈良県)の支配権を巡って繰り広げられた「多聞山城攻防戦」は、単なる一地方の合戦にとどまらず、旧時代の終焉と新時代の到来を象徴する重要な出来事でした。本報告書は、1562年から1568年にかけて、松永久秀、筒井順慶、そして三好三人衆らが織りなした、この複雑かつ激しい攻防の全貌を時系列で詳細に解き明かすものです。

1560年代初頭の畿内情勢:三好長慶による覇権と足利将軍家の権威失墜

この時代の畿内は、阿波国出身の戦国大名・三好長慶によって事実上、支配されていました 1 。長慶は主君であった管領・細川晴元を凌駕し、将軍・足利義輝を京都から追放するなど、幕府を傀儡化。摂津の芥川山城や河内の飯盛山城を拠点に、畿内一円から四国にまで及ぶ広大な勢力圏を築き上げ、「三好政権」と呼ばれる中央政権を確立しました 2 。この政権は、従来の幕府機構を利用しつつも、天皇や朝廷から直接的に武家の代表として認定されるなど、織田信長に先駆けて天下に号令する革新的な性格を持っていました 4

しかし、その権勢は盤石ではありませんでした。近江国に逃れた将軍・足利義輝は、六角氏などの周辺大名と連携し、京都奪還の機会を虎視眈眈と窺っていました 1 。三好政権内部でも、長慶の権力が強大になるにつれて、畿内の在地勢力との間に摩擦が生じ始め、1562年には河内の畠山氏と近江の六角氏が連合して三好氏に反旗を翻すなど、反三好の動きが活発化していました 1 。この不安定な情勢こそが、大和国を巡る争いの背景にあったのです。

大和国の特殊性:興福寺・東大寺の権威と在地武士団の台頭

大和国は、他の地域とは異なる特殊な政治状況下にありました。守護職が設置されず、長年にわたり興福寺や東大寺といった巨大寺社が広大な寺領を有し、僧兵を擁して事実上の支配者として君臨していました 6

その一方で、寺社の権威の下で在地武士団も勢力を伸長させていました。特に「大和四家」と称された筒井氏、越智氏、箸尾氏、十市氏が有力であり、中でも筒井氏は興福寺の宗徒から武士化し、筒井城を拠点に大和最大の武士団へと成長を遂げていました 8 。この寺社勢力と国人衆が複雑に絡み合う統治構造が、外部からの介入を誘発する要因となりました。

主要登場人物の紹介

この攻防戦は、三者の野望と意地が交錯する物語です。

  • 松永久秀: 三好長慶の家臣として頭角を現した、戦国時代を代表する梟雄の一人。元は身分の低い出自とされますが、卓越した政治手腕と軍事の才で長慶の厚い信任を得て、三好家の家宰にまで上り詰めました 9 。永禄2年(1559年)より大和国への侵攻を開始し、この地の旧来の秩序を破壊する革新者として、物語の中心的な役割を担います。
  • 筒井順慶: 大和の名門・筒井氏の若き当主。天文19年(1550年)、父・順昭の死によりわずか2歳で家督を継ぎました 8 。外来の支配者である松永久秀によって本拠地を追われ、失地回復を悲願として執念の抵抗を続けます。彼の不屈の戦いは、大和国人衆の意地を象徴するものでした 12
  • 三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通): 長慶の死後、幼い当主・三好義継の後見人として三好政権を主導した宿老たちです 3 。当初は久秀と協調していましたが、政権の主導権を巡って次第に対立を深め、やがて筒井順慶と手を組み、久秀と不倶戴天の死闘を繰り広げることになります 13

補遺:近世城郭の先駆け、多聞山城の構造と革新性

この物語の舞台となる多聞山城は、単なる軍事拠点ではありませんでした。永禄2年(1559年)から松永久秀によって築城が開始されたこの城は、彼の政治思想と先進性を体現したモニュメントであり、その存在自体が旧秩序への挑戦状でした 14

城が築かれたのは、東大寺や興福寺といった奈良の宗教的中心地を物理的に「見下す」ことができる眉間寺山の丘陵地です 15 。これは、長らく大和を支配してきた寺社勢力に対し、これからは武家が支配者となることを視覚的に宣言する、極めて政治的な意図を持った立地選定でした。

その構造もまた、画期的でした。

  • 防御思想の革新: 日本の城郭史上、初めて屋根を総瓦葺きにし、壁を漆喰で塗り固めた城とされています 14 。これにより、当時主流の攻撃方法であった火矢に対する防御力を飛躍的に高めました。また、漆喰壁は鉄砲の弾丸を防ぐ効果もありました 16 。これらの技術は、奈良の寺院建築で培われたものを軍事目的に転用したものであり、宗教的権威を自らの武威の下に取り込むという久秀の意思の表れと解釈できます。
  • 天守と多聞櫓の創出: 城内には天守の原型とされる四階建ての壮麗な櫓が聳え立ち、塁上には防御と居住を兼ねた長屋造りの建物が連なっていました。この長屋形式の櫓は、この城の名にちなんで後世「多聞櫓」と呼ばれ、近世城郭の標準的な設備となっていきます 14 。織田信長の安土城天守も、この多聞山城を参考にしたと言われています 14
  • 壮麗な内部: 城内は単なる武骨な砦ではなく、豪華絢爛な御殿でした。柱には彫刻が施され、襖絵は狩野派の絵師が手掛け、茶室も二つ備えられていました 19 。永禄8年(1565年)にこの城を訪れたイエズス会宣教師ルイス・デ・アルメイダは、その美しさを「都でもこれほど美しいものを見たことがない。世界中にもこれほど美しいものはないだろう」と絶賛しています 14 。これは、京都の将軍御所に匹敵する文化の中心を大和に創出し、自らが新たな支配者であることを内外に誇示する狙いがあったと考えられます。

このように、多聞山城の築城は、筒井氏のような在地勢力や興福寺にとって、自らの存在意義を根底から揺るがす脅威であり、両者の対立が不可避であることを物語っていました。

表1:多聞山城攻防戦 主要関連年表(1559年~1568年)

年(西暦/和暦)

月日

出来事

主要人物の動向

備考

1559年(永禄2年)

-

松永久秀、大和侵攻を開始。多聞山城の築城に着手。

久秀: 大和支配の拠点を築く。 順慶: 叔父・順政が後見人として久秀に対抗するも敗北 8

大和の支配構造が大きく変動し始める。

1564年(永禄7年)

7月

三好長慶が飯盛山城で病死。

久秀・三人衆: 養子の三好義継を擁立し、集団指導体制へ移行 6

三好政権の絶対的な中心が失われ、権力闘争の火種が生まれる。

1565年(永禄8年)

5月19日

永禄の変。将軍・足利義輝が二条御所で殺害される。

久秀(子・久通)・三人衆: 共同で将軍を殺害 21

共通の敵を失い、久秀と三人衆の対立が決定的となる。

11月18日

第一次筒井城の戦い。松永久秀が筒井城を奇襲し、占領。

久秀: 大和支配を盤石にする。 順慶: 居城を追われ、布施城へ逃れる 8

久秀の大和支配がほぼ完成する。

1566年(永禄9年)

4月

三人衆と筒井順慶の連合軍が、大和で反攻を開始。

順慶・三人衆: 反・松永連合を結成し、多聞山城周辺を攻撃 24

大和国内の戦況が泥沼化し始める。

6月8日

第二次筒井城の戦い。筒井順慶が筒井城を奪還。

順慶: 久秀主力が畿内他戦線に釘付けにされた隙を突き、本拠を回復 23

久秀の大和支配網が分断され、多聞山城が圧迫される。

1567年(永禄10年)

4月

三人衆・筒井連合軍が東大寺に布陣。多聞山城を包囲。

久秀: 多聞山城に籠城。 順慶・三人衆: 東大寺を要塞化し、決戦に備える 24

攻防戦はクライマックスへ。

10月10日

東大寺大仏殿の戦い。久秀軍の夜襲により連合軍が敗走。

久秀: 奇襲作戦で勝利するも、大仏殿が炎上し「仏敵」の汚名を得る 6

戦術的には久秀の勝利だが、戦略的決着はつかず。

1568年(永禄11年)

9月

織田信長が足利義昭を奉じて上洛。

信長: 圧倒的軍事力で畿内を席巻。

畿内のパワーバランスが根底から覆る。

10月4日

信長の裁定により、松永久秀の大和支配が公認される。

久秀: いち早く信長に臣従し、大和一国を安堵される 8

順慶: 抵抗を断念し、再び筒井城を放棄 23

6年間にわたる攻防戦は、外部権力の介入により終結する。


第一章:権力の真空と亀裂(1562年~1565年)

1560年代半ば、畿内に君臨した三好政権は、その頂点からの急激な転落を経験します。絶対的権力者であった三好長慶の衰退と死は、巨大な権力の真空を生み出し、政権内部に潜んでいた亀裂を顕在化させました。この内部崩壊の過程で起きた「永禄の変」は、松永久秀と三好三人衆の関係を修復不可能なものとし、大和国を巡る本格的な戦乱の幕開けを告げる号砲となったのです。

三好長慶の衰退と死:畿内に生じた巨大なパワーバランスの崩壊

三好長慶の栄華は、永禄4年(1561年)から翳りを見せ始めます。この年、弟であり、勇猛果敢な武将として知られた十河一存が急死したことを皮切りに、三好家には不幸が続きました 2 。永禄5年(1562年)にはもう一人の弟・三好実休が畠山高政との戦いで戦死。さらに永禄6年(1563年)には、将来を嘱望されていた嫡男・三好義興が22歳の若さで病没します 9 。相次いで肉親や後継者を失った長慶は心身ともに衰弱し、そして永禄7年(1564年)7月、自身もまた飯盛山城で波乱の生涯を閉じました 1

絶対的なカリスマを失った三好政権は、深刻な危機に直面します。長慶の跡を継いだのは、甥であり養子であった三好義継でしたが、彼はまだ若年でした 3 。そのため、政権は三好長逸、三好政康、岩成友通ら「三好三人衆」と、家宰であった松永久秀による集団指導体制へと移行します。しかし、これは権力者たちの思惑が渦巻く、極めて不安定な協力関係に過ぎませんでした。

永禄の変(1565年):蜜月、そして決裂

当初、久秀と三人衆は、三好政権の安定という共通の目的のために協力していました。その最大の成果が、永禄8年(1565年)5月19日に敢行された将軍・足利義輝の暗殺、すなわち「永禄の変」です 22 。かねてより三好氏の専横に反発し、諸大名と結んで反撃の機会を窺っていた義輝は、彼らにとって最大の脅威でした。この日、三好義継と三人衆、そして松永久秀の嫡子・久通が率いる1万の軍勢が二条御所を急襲し、抵抗した義輝を殺害しました 6 。これは、三好政権内の両派閥が利害の一致を見た、最後の共同作業となりました。

将軍殺害という大義名分は、しかし、久秀にとって「諸刃の剣」でした。この事件以前、久秀の権力はあくまで三好長慶という絶対的な主君の信任に依拠するものでした 9 。長慶亡き後、彼は三人衆と並ぶ「同僚」の一人に過ぎなくなります 3 。将軍殺害は、この不安定な協力関係を一時的に結びつけましたが、同時に幕府という「共通の敵」を消滅させ、彼らの権力闘争を剥き出しにする結果を招きました。

三人衆は、三好本家の血縁者であり後見人であるという立場を大義名分とし、成り上がりの久秀を政権の中枢から排除しようと画策します 13 。一方の久秀も、彼らとの主導権争いを勝ち抜く必要に迫られました。同年11月、両者の対立はついに決定的となり、三好政権は内部から分裂したのです 8

筒井城の陥落:久秀による大和支配の総仕上げ

三好三人衆との全面対決が不可避となった松永久秀は、まず自らの足元を固めるため、電光石火の行動に出ます。後顧の憂いを断つべく、その矛先を大和国の最大勢力である筒井氏に向けました。三人衆と連携する可能性のある筒井順慶の存在は、久秀にとって看過できない脅威だったのです。

永禄8年(1565年)11月18日、久秀は三人衆との決裂からわずか2日後に、筒井順慶の居城・筒井城を奇襲します 8 。当時16歳の若き当主・順慶は、この突然の攻撃に抵抗する術もなく、城を捨てて一族の布施城へと逃れました 23 。この敗北は筒井氏にとって決定的で、麾下の箸尾氏や高田氏といった国人衆の多くが順慶を見限り、久秀に寝返る事態を招きました 8

この勝利により、久秀はすでに掌握していた信貴山城と多聞山城に加え、大和中部の要衝である筒井城をも手中に収めました。三つの城を結ぶ支配網を完成させたことで、久秀による大和一国の支配は、この時点でほぼ完成したと言えます 12 。しかし、この強引な支配固めは、追われた順慶の復讐心を燃え上がらせ、三人衆との連携を促す結果となり、大和国をより一層深い戦乱へと導いていくのでした。


第二章:反撃の狼煙と泥沼化する戦線(1566年)

松永久秀による筒井城の電撃的な占拠は、大和支配の完成を意味するかに見えました。しかし、それは新たな、そしてより大規模な戦いの序章に過ぎませんでした。居城を追われた筒井順慶は、久秀という共通の敵を持つ三好三人衆と手を結び、反撃の狼煙を上げます。1566年、大和の戦況は畿内全体の政局と密接に連動しながら、一進一退の泥沼の様相を呈していくことになります。

三好三人衆と筒井順慶の連携:反・松永連合の形成

故郷を追われた筒井順慶にとって、三好三人衆は宿敵・松永久秀を打倒するためのまたとない同盟相手でした。一方、三人衆にとっても、大和国内に強力な協力者を得ることは、久秀の拠点である多聞山城を攻略する上で不可欠でした。両者の利害は完全に一致し、ここに強力な「反・松永連合」が形成されます 8

永禄9年(1566年)2月、連合軍の行動が開始されます。三人衆方である安宅信康率いる淡路水軍が摂津に上陸し、久秀方の拠点・滝山城を包囲。これを皮切りに、畿内の各戦線で反松永の戦端が開かれました 24 。大和の戦いは、もはや独立したものではなく、畿内全域で繰り広げられる三好一族の内戦の一部と化したのです。

筒井城の奪還:久秀の隙を突いた快挙

同年4月、三人衆と筒井の連合軍は本格的に大和国内での攻勢を強め、多聞山城の城下を攻撃するなど、久秀の支配地を脅かしました 24 。これに対し、久秀も迎撃に出ますが、戦況は膠着します。

この状況を大きく動かしたのは、大和国外の要因でした。同年5月、久秀は堺の支配権を巡って三人衆と決戦を行うため、やむなく大和を離れ、主力を率いて河内へ向かいます 8 。さらに、この動きに追い打ちをかけたのが、阿波三好家の重臣・篠原長房が率いる2万ともいわれる大軍の畿内上陸でした 25 。篠原軍は三人衆に味方し、久秀方の諸城へ猛攻を開始。これにより、久秀は堺の戦線に完全に釘付けにされ、大和へ援軍を送る余力を完全に失ってしまいました 8

この一連の出来事は、大和の戦況が畿内全体の情勢を映す「鏡」であったことを示しています。「四国の軍勢が摂津に上陸する」という外部要因が、「久秀の主力が堺に拘束される」という状況を生み出し、それが「大和の守りが手薄になる」という結果に繋がり、最終的に「順慶が筒井城を奪還する」という好機をもたらしたのです。

筒井順慶はこの千載一遇の好機を逃しませんでした。主力を欠き、孤立した筒井城に対し、城の周囲に設けられた松永方の陣所を次々と焼き払い、総攻撃を敢行します 23 。そして永禄9年(1566年)6月8日、ついに本拠・筒井城の奪還に成功したのです 8 。これは、前年に城を追われた17歳の若き当主にとって、雪辱を果たす劇的な勝利でした。

勢いに乗る順慶は、同年9月28日、春日大社に参詣した後、得度して「陽舜房順慶」と号します 8 。これは、単なる改名ではなく、名実ともに大和の国主として再起を遂げたことを内外に宣言するものでした。

多聞山城への圧力:大和国内における松永勢力の動揺

筒井城の奪還は、松永久秀の大和支配戦略に深刻な打撃を与えました。彼が築いた信貴山城(西)、筒井城(中央)、多聞山城(東)を結ぶ支配網は、その中心を断ち切られたことで機能不全に陥ります 8 。特に、東の拠点である多聞山城は、西からの連絡路を遮断され、順慶の勢力から直接的な圧力を受けることになりました。

畿内全域で劣勢に立たされた久秀は、この時点では大和に大規模な軍勢を差し向けることができず、多聞山城の守備を固め、防戦に徹するしかありませんでした。大和の戦いの主導権は、完全に反・松永連合の手に移ったのです。しかし、難攻不落を誇る多聞山城をいかにして攻略するか。連合軍は、次なる決戦の地を、その眼下に広がる聖域、東大寺に定めました。


第三章:決戦、東大寺大仏殿の炎上(1567年)

筒井城を奪還し、勢いに乗る三好三人衆・筒井順慶連合軍は、次なる目標を松永久秀の本拠地・多聞山城に定めました。永禄10年(1567年)、両軍は多聞山城の眼下に広がる東大寺を舞台に、大和国の覇権を賭けた決戦に臨みます。この戦いは、壮絶な市街戦へと発展し、最終的に日本の至宝である東大寺大仏殿が炎上するという、日本史上稀に見る悲劇的な結末を迎えました。

東大寺への布陣:多聞山城包囲網の完成

永禄10年(1567年)4月、三好三人衆と筒井順慶の連合軍は、1万とも2万とも言われる大軍を率いて奈良に進軍し、多聞山城に対する一大包囲網を敷きました 22 。彼らが本陣として選んだのは、多聞山城の南麓に位置する東大寺でした。

当初、筒井順慶は聖域を戦場とすることに難色を示したとされます。しかし、堅固な多聞山城を攻めあぐねる膠着状態を打開するため、最終的には興福寺を通じて東大寺側の許可を得て、寺域内への布陣を断行しました 24 。三人衆方の岩成友通や池田勝正らの部隊が二月堂や大仏殿に、対する松永軍は戒壇院に陣取り、両軍はわずか数百メートルの距離を隔てて睨み合うことになります 22 。興福寺の五重塔や南大門に登った兵士が鉄砲を撃ちかけるなど、奈良の市街地は一触即発の緊迫した戦場と化しました。

表2:主要勢力の比較(永禄10年・東大寺合戦時点)

項目

松永・三好義継軍

三好三人衆・筒井順慶連合軍

総兵力(推定)

約5,000~8,000

約10,000~20,000 24

主要武将

松永久秀、松永久通、三好義継

三好長逸、三好政康、岩成友通、篠原長房、筒井順慶、池田勝正

拠点

多聞山城、信貴山城、東大寺戒壇院

東大寺(大仏殿、二月堂など)、筒井城、興福寺周辺

戦略目標

連合軍の撃退と大和支配の維持

多聞山城の攻略と松永久秀の排除

宗教的聖域の要塞化とその意味

連合軍が東大寺に布陣した背景には、「大仏のお膝元という神聖な場所であれば、いかに梟雄の松永久秀でも大規模な攻撃は仕掛けてこられないだろう」という期待があったとされています 26 。これは、宗教的権威を軍事的な盾として利用するという、中世的な価値観に基づいた戦術でした。彼らは、久秀もまたその暗黙のルールの中で戦うだろうと予測していたのです。

しかし、この戦いは、そのような旧来の価値観がもはや通用しないことを証明する、象徴的な事件となりました。下剋上を体現する戦国武将である久秀にとって、敵が立てこもる場所が寺であろうと城であろうと、それは攻略すべき戦術拠点に過ぎませんでした。彼が寺社勢力への挑戦の象徴として築いた多聞山城の存在そのものが、彼の思想を物語っています 16 。この両者の価値観の根本的な齟齬が、未曾有の悲劇へと繋がっていきます。

膠着状態と運命の夜襲

同年5月から数ヶ月にわたり、両軍は銃撃戦などの小競り合いを繰り返すものの、決定的な戦いには至りませんでした 24 。この間、松永軍の陣地に放火工作が行われるなど、水面下での攻防が続きましたが、戦況は動かず、両陣営ともに疲弊していきました 27

この膠着状態を打ち破ったのは、松永久秀による乾坤一擲の奇襲作戦でした。永禄10年(1567年)10月10日の夜、久秀は精鋭部隊を率いて、大仏殿に陣取る連合軍本隊への夜襲を決行します 22 。長期間の対陣で油断していた連合軍は、この突然の攻撃に対応できず、総崩れとなりました。混乱の中、敗走する兵士が自らの陣に火を放ったとも、松永軍の攻撃によるものとも言われますが、戦闘のさなかに大仏殿から火の手が上がりました 22

大仏殿炎上と戦後の力学

火は瞬く間に燃え広がり、創建以来、日本の仏教文化の中心であった壮大な伽藍は、一夜にして灰燼に帰しました。廬舎那仏(大仏)も激しい炎に焼かれ、頭部が焼け落ちるという痛ましい姿となりました 11 。この事件は、直接的な放火者かどうかにかかわらず、戦闘の当事者であった松永久秀に「仏敵」「東大寺焼き討ちの張本人」という、終生拭い去ることのできない烙印を押すことになります 9

戦術的には、この夜襲は松永久秀の完全な勝利でした。しかし、彼もまた大きな損害を被り、連合軍を完全に大和から駆逐するには至りませんでした。大仏殿の焼失という衝撃的な結果は残したものの、大和国内の混乱は依然として続き、戦いは決定的な決着がつかないまま、新たな時代の奔流に飲み込まれていくことになります 22


第四章:織田信長の上洛と大和の平定(1568年)

東大寺での激戦から一年、大和国が依然として混乱の渦中にあった永禄11年(1568年)、畿内の政治情勢を一変させる巨大な力が東から到来しました。足利義昭を奉じた織田信長の上洛です。この新たな覇者の登場は、6年間にわたって続いた大和の死闘に、あまりにもあっけない幕切れをもたらしました。各勢力の運命は、信長の裁定という、もはや抗うことのできない力によって決定づけられたのです。

新たな覇者の登場:足利義昭を奉じた織田信長

永禄11年(1568年)9月、織田信長は、永禄の変で殺害された将軍・足利義輝の弟である義昭を擁し、数万の圧倒的な軍事力を率いて美濃から京へと進軍しました 21 。信長の目的は、義昭を将軍の座に就け、その権威を背景に天下に号令することでした。畿内の旧勢力にとって、これは自らの存亡をかけた選択を迫られる事態でした。

各勢力の対応:明暗を分けた判断

信長の上洛に対し、大和で争っていた各勢力の対応は三者三様であり、それが彼らの未来を決定づけることになります。

  • 松永久秀の迅速な臣従: 時代の流れを読むことに長けていた松永久秀は、信長の力をいち早く見抜き、抵抗という選択肢を早々に捨てました。彼は自ら信長のもとへ出頭し、恭順の意を示すとともに、秘蔵の名物茶器「九十九髪茄子」などを献上して、その歓心を買うことに成功します 9 。この現実的かつ迅速な判断が、彼の命運を繋ぎました。
  • 三好三人衆の抵抗と敗走: 一方、三好三人衆は、信長が擁立する足利義昭とは別の将軍候補(足利義栄)を推していたこともあり、信長と敵対する道を選びました。しかし、信長の圧倒的な軍事力の前に、彼らの抵抗はことごとく粉砕されます。畿内各地の拠点を次々と失った三人衆は、本国の阿波へと敗走を余儀なくされ、中央政界から完全に駆逐されました 8
  • 筒井順慶の苦境: 筒井順慶の対応は、両者の中間にあり、結果として最も苦しい立場に置かれました。彼は長年の宿敵である久秀打倒という目標に固執するあまり、信長という新たな権力者への対応が後手に回ってしまったのです 8 。頼みの綱であった同盟相手の三人衆が敗走したことで、順慶は大和国内で完全に孤立無援の状態に陥りました 23

信長裁定による決着:久秀の大和支配の公認

畿内の主要な抵抗勢力を一掃した信長は、戦後処理に着手します。永禄11年(1568年)10月4日、信長は、いち早く味方についた松永久秀の功績を認め、「大和一国は久秀の進退次第」として、彼の大和国における支配権を公式に承認しました 8 。これは、久秀にとって長年の悲願であった大和統一が、外部の権威によって達成された瞬間でした。

信長から佐久間信盛、細川藤孝といった有力武将の援軍を得た久秀は、大和国内の反抗勢力の最終的な掃討を開始します 11 。圧倒的な兵力差を前に、もはや筒井順慶に抗う術はありませんでした。彼は再び本拠・筒井城を明け渡し、山中の福住城へと落ち延びていきました 8

攻防戦の終結と新たな秩序の幕開け

これにより、1562年から6年間にわたって続いた多聞山城をめぐる一連の攻防、そして大和の支配権を巡る争いは、松永久秀の完全勝利という形で一旦の終結を見ました。

しかし、この結末は、大和で戦った者たちの力関係だけで決まったものではありませんでした。松永、筒井、三好の各勢力は、長年の抗争によって互いに疲弊しきっていました。その「共倒れ」に近い状況下で、織田信長は登場したのです。もし彼らが争わず、一致団結して信長に抵抗していたならば、上洛はより困難なものになった可能性もあります。信長は、彼らの争いを巧みに利用し、最も早く恭順した久秀を大和国主として認めることで、他の勢力への見せしめとし、最小限の労力で畿内を平定するための下地を築きました。

したがって、この攻防戦の真の勝者は、松永久秀でも筒井順慶でもなく、織田信長であったと言えます。大和の支配者が決まったこと以上に、畿内の旧勢力が一掃され、信長による新たな支配体制が確立した点にこそ、この戦いの歴史的意義があるのです。大和国は、信長の巨大な権力構造の一部として、新たな時代へと組み込まれていきました。


終章:多聞山城の遺産と後世への影響

1568年の織田信長の上洛による裁定は、多聞山城を巡る6年間の攻防に終止符を打ちました。この一連の戦いは、大和国、ひいては畿内全体の歴史に大きな影響を残し、参戦した武将たちのその後の運命をも大きく左右することになります。

一連の攻防戦が各勢力に与えた影響

  • 松永久秀: 信長の庇護のもと、念願であった大和一国の支配者となりました。しかし、それはもはや独立した戦国大名としてではなく、織田政権に組み込まれた一武将としての立場でした。彼の尽きることのない野心は、この立場に満足することができず、後に二度にわたる信長への反逆へと繋がっていきます。天正元年(1573年)の最初の反逆では、多聞山城を信長に明け渡すことで降伏を許されますが 14 、天正5年(1577年)、信貴山城に籠もり、名器「平蜘蛛の釜」と共に爆死するという壮絶な最期を遂げました 19
  • 筒井順慶: 一時は全てを失い、山中へ逃れるという苦境に立たされましたが、彼は決して再起を諦めませんでした。この敗北から雌伏の時を経て、明智光秀の仲介を通じて織田信長に臣従 8 。その後、久秀が信長に反旗を翻した際には、信長軍の先鋒として久秀討伐に大きく貢献しました(信貴山城の戦い)。その功績が認められ、天正4年(1576年)には信長から正式に大和一国の支配を任されるに至ります 7 。長期的な視点で見れば、この時期の苦難が彼の粘り強さを育み、最終的に大和国主の座を手にすることに繋がったのです。
  • 三好三人衆: 信長に敗れ、畿内から駆逐された彼らが、中央政界で再び力を取り戻すことはありませんでした。この敗走を機に、かつて畿内に覇を唱えた三好政権は事実上崩壊し、彼らは歴史の表舞台から静かに姿を消していきました 2

大和国支配構造の変化と多聞山城の終焉

この攻防戦がもたらした最も大きな変化は、大和国における支配構造の転換でした。松永久秀による多聞山城の築城と、東大寺での戦闘は、長らく大和を支配してきた興福寺や東大寺の権威を決定的に失墜させました 16 。これにより、大和は名実ともに武家が支配する近世的な領国へと変貌を遂げたのです 7

攻防の象徴であった多聞山城も、その役目を終えることになります。久秀の降伏後、城は信長の管理下に置かれましたが、天正4年(1576年)、大和国主となった筒井順慶に対し、信長は多聞山城の解体を命じます。主殿は建設中の二条御新造へ、四階櫓は安土城へ移築されたと伝えられており、久秀が心血を注いだ名城は、新たな天下人の城の礎として姿を消しました 15

歴史的意義:織田政権成立前夜の最終局面

「多聞山城攻防戦」は、三好長慶の死によって始まった三好政権の内部崩壊プロセスにおける、最後の、そして最大の動乱でした。この戦いは、戦国時代前期の畿内を支配した旧勢力が互いに力を削ぎ落とし、自壊していく過程そのものでした。そして、その混乱の終結をもって、織田信長による新たな統一政権が畿内を掌握する道が切り拓かれたのです。この意味において、多聞山城を巡る攻防は、織田政権成立前夜の最終局面を飾り、戦国時代の大きな転換点を告げる戦いであったと言えるでしょう。

引用文献

  1. 10分で読める歴史と観光の繋がり 真の敵は足利将軍だった。将軍義輝と三好長慶の対立、織田信長が掲げた天下布武 ゆかりの初代二条城、小田原城、岐阜城、紀州根来寺 | いろいろオモシロク https://www.chubu-kanko.jp/ck.blog/2022/12/10/10%E5%88%86%E3%81%A7%E8%AA%AD%E3%82%81%E3%82%8B%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E3%81%A8%E8%A6%B3%E5%85%89%E3%80%80%E7%9C%9F%E3%81%AE%E6%95%B5%E3%81%AF%E5%B0%86%E8%BB%8D%E3%81%A0%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%80%82%E4%B8%89/
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  3. 三好政権 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%A5%BD%E6%94%BF%E6%A8%A9
  4. 摂津国における三好氏の地域支配 : 国人との関係を事例に https://omu.repo.nii.ac.jp/record/2001284/files/2024000631.pdf
  5. 「松永久秀と下克上 室町の身分秩序を覆す」 戦国の極悪人、実は政治改革者 https://book.asahi.com/article/11753581
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  11. 筒井順慶は何をした人?「洞ヶ峠を決め込んで光秀と秀吉の天王山を日和見した」ハナシ https://busho.fun/person/junkei-tsutsui
  12. 大和国を巡って18年攻防。松永久秀と筒井順慶、ライバル関係の真相【麒麟がくる 満喫リポート】 https://serai.jp/hobby/1011657
  13. 日本史上最悪の男?~松永久秀 – Guidoor Media | ガイドアメディア https://www.guidoor.jp/media/matsunagahisahide/
  14. 【奈良県】多聞山城の歴史 大和国支配のために松永久秀が築城、のちの近世城郭の先がけとなった! | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/749
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  18. 多聞城の見所と写真・300人城主の評価(奈良県奈良市) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/206/
  19. 松永久秀が築いた多聞山城~織田信長もほれ込んだ日本初の天守閣~ - まっぷるウェブ https://articles.mapple.net/bk/10217/?pg=2
  20. 偉人たちの知られざる足跡を訪ねて 戦国乱世に畿内を制した「天下人」の先駆者 三好長慶 https://www.westjr.co.jp/company/info/issue/bsignal/22_vol_196/issue/02.html
  21. 丹波戦国史 第三章 ~三好家の衰退と荻野直正の台頭~ https://nihon.matsu.net/nf_folder/nf_Fukuchiyama/nf_tanbasengoku3.html
  22. [合戦解説] 10分でわかる東大寺の戦い 「大仏殿炎上!松永久秀と三好三人衆が激突」 /RE:戦国覇王 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=5y8Oh_pTX5M
  23. 筒井城の戦い古戦場:奈良県/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/dtl/tsutsuijo/
  24. 東大寺大仏殿の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%A4%A7%E5%AF%BA%E5%A4%A7%E4%BB%8F%E6%AE%BF%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  25. 東大寺大仏殿の戦い / 大仏殿炎上!松永久秀 VS 三好三人衆。梟雄たちの東大寺攻防戦 https://m.youtube.com/watch?v=LsWbfNOOWhQ
  26. 松永久秀は何をした人?「信長を二度も裏切った極悪人で平蜘蛛を抱えて爆死した」ハナシ|どんな人?性格がわかるエピソードや逸話・詳しい年表 https://busho.fun/person/hisahide-matsunaga
  27. 武将・松永久秀は本当に大仏を焼いたのか?彼が日本史上屈指の極悪人とされた本当の理由 | 歴史・文化 - Japaaan - ページ 2 https://mag.japaaan.com/archives/199339/2
  28. 大仏殿を焼き払う悪評高き武将、松永久秀「戦国武将名鑑」 | Discover Japan https://discoverjapan-web.com/article/57619