大垣城の戦い(1600)
大垣城の戦い(1600年):関ヶ原の序章と終幕、二つの顔を持つ攻防の全貌
序章:天下分け目の地、美濃
慶長5年(1600年)、豊臣秀吉の死によって生まれた日本の権力構造の空白は、やがて二つの巨大な勢力の衝突を不可避なものとした。一方は、五大老筆頭としてその影響力を急速に拡大させる徳川家康。もう一方は、秀吉の遺志を継ぎ、豊臣家の安泰を願う石田三成を中心とする反徳川勢力である。家康が会津の上杉景勝討伐の兵を挙げ、大坂を離れた隙を突いて三成は挙兵。ここに、天下を二分する「関ヶ原の戦い」の幕が切って落とされた 1 。
東西両軍の主力が激突する運命の地として選ばれたのは、美濃国であった。東国と西国を結ぶ中山道と伊勢街道が交差するこの地は、古来より交通と戦略の要衝であり、ここを制する者が天下の趨勢を制すると言っても過言ではなかった。この美濃における西軍の最前線司令部として、石田三成が本拠地に定めたのが大垣城である 3 。天文4年(1535年)の築城とされ、幾重にも巡らされた水堀と堅固な縄張りを誇るこの城は、東軍の進撃を食い止める拠点として申し分ないかに見えた 4 。
しかし、大垣城には一つの地理的な脆弱性が存在した。城が揖斐川の川床よりも低い低湿地に位置しているため、堤防を決壊させられる水攻めに対して極めて弱いという点である 5 。三成ほどの知将がこの弱点を知らなかったはずはない 6 。彼が敢えてこの城を司令部とした事実は、彼の当初の戦略構想を雄弁に物語っている。すなわち、三成は長期的な籠城戦を想定していたのではなく、大垣城を一時的な「拠点」として東軍主力を引きつけ、その間に毛利輝元を主将とする西軍本隊が大坂から到着するのを待つ、という短期決戦を志向していたのである。大垣城の脆弱性が問題となる前に、野戦で決着をつける。この初期構想の存在こそが、後に戦況の流転の中で彼が下すことになる重大な決断、すなわち関ヶ原への移動を理解するための鍵となる。
第一部:決戦前夜 ― 大垣城の緊張(慶長5年8月10日~9月14日)
第一章:西軍本営、大垣城に集結す
慶長5年8月10日、石田三成が3万の兵を率いて大垣城に入城したことで、この城は名実ともに関ヶ原の戦いにおける西軍の最前線司令部となった 5 。宇喜多秀家、小西行長、島津義弘といった西軍の主だった武将たちも続々と入城し、城内はにわかに天下分け目の戦いの緊張感に包まれた 8 。三成の当初の計画は、尾張・三河国境で東軍を迎え撃つというものであったが、福島正則や池田輝政ら東軍先鋒隊の進軍は予想以上に速く、西軍は美濃国内での防衛戦を余儀なくされる 7 。
8月下旬、戦況は西軍にとって芳しくない方向へ進む。23日には、織田信長の孫・秀信が守る岐阜城が、わずか一日で東軍の猛攻の前に落城 4 。これにより美濃における西軍の防衛線は大きく後退し、大垣城は東軍の圧力に直接晒されることとなった。
そして9月14日、ついに徳川家康自身が4万の軍勢を率いて大垣城の北西約4キロメートルに位置する赤坂の岡山(安楽寺)に着陣する 5 。東西両軍の主力が目と鼻の先で睨み合う、一触即発の事態が現出したのである。大垣城に籠もる西軍と、赤坂に陣取る東軍。両軍の間に横たわる杭瀬川を挟んで、日本の運命を決する戦いの序曲が始まろうとしていた。
第二章:杭瀬川の火花
赤坂への家康着陣は、連敗によって士気の低下しつつあった西軍の将兵に大きな動揺を与えた。この淀んだ空気を一掃すべく立ち上がったのが、石田三成の腹心であり、「三成に過ぎたるもの」と謳われた猛将・島左近であった。
9月14日の午後、左近は宇喜多秀家配下のキリシタン武将・明石全登(あかし たけのり)ら少数の兵を率いて大垣城を出撃。杭瀬川を渡り、東軍の中村一栄隊の陣城近くにまで進出した 9 。左近は兵たちにわざと長閑に薪を拾わせるなどして、敵を公然と挑発した 9 。この侮辱的な行為に中村隊の兵士たちは激昂し、制止を振り切って突出。これこそが左近の狙いであった。
左近はしばらく応戦するふりをして巧みに後退し、中村隊を伏兵の待ち受ける地点まで誘い込む 10 。頃合いを見計らい、潜んでいた明石全登の部隊が一斉に側面から奇襲をかけると、中村隊は混乱に陥り、多くの兵が討ち取られた。この見事なまでの戦術的勝利に対し、左近らは深追いをすることなく悠々と兵を収め、大垣城へと凱旋した 11 。
この「杭瀬川の戦い」は、関ヶ原の本戦を前にした唯一の前哨戦であり、その規模こそ小さかったものの、両軍に与えた心理的影響は計り知れない。西軍にとっては、連敗続きの中で掴んだ待望の勝利であり、将兵の士気を大いに高揚させた 9 。一方の東軍は、西軍の戦意と島左近の戦術の冴えを目の当たりにし、楽観的な空気に冷や水を浴びせられることとなった。
第三章:最後の軍議
杭瀬川の勝利に沸く9月14日の夜、大垣城内では最後の軍議が開かれた。この席で、九州の歴戦の雄・島津義弘が、赤坂に布陣する家康本陣への夜襲を献策したとされる 12 。これは、寡兵で大軍を破ることを得意とする島津伝統の奇襲戦法であり、成功すれば東軍を大混乱に陥れ、戦局を一変させる可能性を秘めた大胆な提案であった。
しかし、石田三成はこの策を退けたと伝えられる。「夜襲は正攻法にあらず、諸将の統制が乱れる」というのがその理由であったという 12 。この決断は、西軍が抱える構造的な問題を象徴する出来事であった。
杭瀬川の戦いは、島左近や明石全登といった個々の武将や部隊が持つ戦術レベルでの能力の高さ(西軍の強み)を証明した。一方で、島津の夜襲案の却下は、石田三成を中心とする司令部が、そうした現場の能力を有機的に統合し、柔軟な戦略へと昇華させることができない指揮系統の硬直性(西軍の弱み)を露呈した。豊臣政権の官僚として「正攻法」や「大義名分」を重んじる三成の思考は、百戦錬磨の武将たちが持つ野戦での機略縦横な発想とは相容れない部分があったのかもしれない。杭瀬川の戦いで得た戦術的優位と高揚した士気を、戦略決定の失敗によって自ら手放してしまった。この夜の軍議は、翌日に迫る決戦の行方を暗示する、極めて重要な分岐点であった。
第二部:二つの戦場 ― 関ヶ原と大垣城(慶長5年9月14日深夜~9月23日)
大垣城での最後の軍議を終えた西軍の決断は、籠城でも夜襲でもなく、第三の道「関ヶ原への転進」であった。この決断により、戦場は二つに分かれる。主力部隊が激突する関ヶ原と、西軍の後方拠点として東軍別働隊と対峙する大垣城である。ここからの数日間、二つの場所で繰り広げられる出来事は、密接に連動しながら、天下の帰趨を決していくことになる。
表1:大垣城の戦い 主要関連年表
日付・時刻 |
場所 |
出来事 |
主要人物 |
典拠 |
9月14日 午後 |
杭瀬川 |
杭瀬川の戦い。西軍が勝利し、士気が高揚する。 |
島左近, 明石全登 |
10 |
9月14日 夜 |
大垣城 |
軍議。島津義弘の夜襲案が石田三成により却下される。 |
石田三成, 島津義弘 |
12 |
9月14日 深夜 |
大垣城 |
西軍主力、雨中を関ヶ原へ転進開始。 |
石田三成, 宇喜多秀家 |
7 |
9月15日 未明 |
赤坂 |
東軍、西軍の動きを察知し、主力は関ヶ原へ追撃を開始。 |
徳川家康 |
16 |
9月15日 午前 |
大垣城 |
東軍別働隊が大垣城を包囲し、攻城戦が開始される。 |
水野勝成, 福原長堯 |
18 |
9月15日 午後 |
関ヶ原 |
関ヶ原の本戦で西軍が小早川秀秋の裏切りにより大敗する。 |
(東西両軍) |
7 |
9月15日 夜 |
大垣城 |
関ヶ原での敗報が城内に伝わり、城兵が激しく動揺する。 |
福原長堯 |
7 |
9月16日 |
大垣城 |
相良頼房、秋月種長らが東軍への内応を密かに打診する。 |
相良頼房, 秋月種長 |
7 |
9月17日 |
大垣城 |
相良らが味方将兵(垣見一直、熊谷直盛ら)を謀殺し、二の丸・三の丸を開門。 |
垣見一直, 熊谷直盛 |
7 |
9月18日-22日 |
大垣城本丸 |
福原長堯、裏切りにより本丸に孤立しながらも徹底抗戦を続ける。 |
福原長堯 |
20 |
9月23日 |
大垣城 |
城兵の助命を条件に福原長堯が開城。大垣城の戦いが終結する。 |
福原長堯 |
15 |
第四章:雨中の転進
9月14日の深夜、西軍主力約8万の軍勢は、降りしきる雨に紛れて密かに大垣城を発った 15 。目指すは西方の関ヶ原。籠城策を捨て、野戦に打って出るというこの重大な戦略転換の背景には、複数の要因が複雑に絡み合っていた。
最大の要因は、去就が不分明であった小早川秀秋の動向である。1万5千もの大軍を率いる秀秋が、西軍の背後に位置する戦略上の要地・松尾山に布陣したという報が、三成の決断を促した 4 。大垣城に籠城している間に、背後の重要拠点を抑えられ、京・大坂との兵站線および連絡線を遮断されること。これこそ三成が最も恐れたシナリオであった。秀秋を味方に取り込むためにも、関ヶ原で彼と合流する必要があったのである。
加えて、家康方が流したとされる陽動情報も影響した。「東軍は大垣城を無視して西進し、三成の居城である近江・佐和山城を直接攻撃する」という噂は、三成の焦燥を掻き立てた 6 。杭瀬川の勝利で高まった士気を活かし、関ヶ原の盆地に東軍を誘い込んで包囲殲滅するという、より積極的な野戦計画へと舵を切ることを決意させたのである。
この転進に際し、大垣城には守備隊として約7,500の兵が残された 19 。城代には三成の義弟(妹婿)である福原長堯が任じられ、熊谷直盛、垣見一直といった三成に近い武将に加え、九州の外様大名である相良頼房、秋月種長、高橋元種らが守りを固めることとなった。彼らの運命は、関ヶ原の本戦の結果に委ねられることとなる。
第五章:もう一つの関ヶ原 ― 大垣城籠城戦
9月15日(関ヶ原決戦当日): 西軍主力の動きを察知した家康は、即座に主力を率いて関ヶ原へ向かう一方、水野勝成を主将とし、松平康長、西尾光教、津軽為信ら約1万1千からなる別働隊を編成し、大垣城の攻略を命じた 19 。関ヶ原で本戦の火蓋が切られたのとほぼ時を同じくして、大垣城でも壮絶な攻防戦が開始されたのである 18 。福原長堯らの守備隊は善戦し、東軍の猛攻を三の丸で食い止めた 7 。
9月15日夜~16日(動揺と内応): しかし、その日の夕刻、関ヶ原における西軍の全面的な敗北という絶望的な報せが城内に届く。主力の壊滅と三成の敗走を知った城兵は激しく動揺し、城内の士気は一気に崩壊した 7 。この情報こそが、籠城戦の様相を一変させる。生き残りを図る者たちの思惑が、水面下で蠢き始めたのである。特に、九州の外様大名であった相良頼房、秋月種長、高橋元種の三将は、自らの家名を存続させるため、東軍への内応を決意。16日には、連署による降伏の申し入れが、密かに攻城軍の将・水野勝成のもとへ届けられた 19 。
9月17日(裏切りの日): 東軍からの内応の条件は、抗戦を主張する主戦派の将の首級であった 24 。これを受け、相良らは行動を開始する。17日、「軍議」と称して、抗戦派の中心人物であった垣見一直、熊谷直盛、木村由信・豊統父子らを二の丸に誘い出し、謀殺するという凶行に及んだのである 19 。このとき、城代の福原長堯は参集しなかったため難を逃れた。味方の血で城内を染め上げた相良らは、直ちに城の二の丸、三の丸の門を開け放ち、東軍を城内へと引き入れた 7 。
9月18日~22日(本丸の攻防): 味方の裏切りによって、福原長堯は本丸に孤立することとなった。しかし彼は、残った僅かな兵と共に、絶望的な状況下で必死の防戦を続ける 20 。東軍は西尾光教らを通じて再三にわたり降伏を勧告するが、長堯は容易には応じなかった。
9月23日(開城): 数日間の抵抗の末、兵は次々と逃亡し、これ以上の戦闘は無意味であると悟った福原長堯は、ついに開城を決意する。その唯一の条件は、残った城兵の命を助けることであった 15 。東軍がこれを約したため、長堯は城を明け渡した。慶長5年9月23日、関ヶ原の戦いから8日後、美濃における最後の組織的抵抗は、ここに終わりを告げたのである 21 。
この大垣城籠城戦における内応劇は、単なる個人の裏切りではない。それは、豊臣秀吉という絶対的な権力者を失った後、「豊臣恩顧」という紐帯がいかに脆いものであったかを示す象徴的な事件であった。特に、中央の政争から距離のある九州の外様大名たちにとって、豊臣家への忠義よりも、自領の安堵と「家」の存続こそが最優先事項であった。関ヶ原での本戦の勝敗が決した瞬間、豊臣政権という「タガ」が外れ、彼らが戦国大名としての本来の生存本能に従って行動した結果が、この城中での惨劇だったのである。
第三部:戦後の清算と記憶
大垣城の開城は、戦いの終わりであると同時に、新たな秩序の始まりでもあった。徳川家康による戦後処理は、この城を舞台に繰り広げられた忠義と裏切りのドラマの登場人物たちに、それぞれ異なる運命をもたらすことになる。そして、武将たちの記録とは別に、一人の少女の記憶が、この戦いのもう一つの側面を後世に伝えている。
表2:大垣城 攻防関係者一覧
| 氏名 | 所属・立場 | 城内での行動 | 戦後の処遇 | 典拠 | | :--- | :--- | :--- | :--- | | 【西軍・籠城側】 | | | | | | 福原長堯 | 籠城主将(三成義弟) | 徹底抗戦の末、城兵の助命を条件に開城 | 伊勢朝熊山にて自刃(切腹)を命じられる |
15
| 熊谷直盛 | 籠城将 | 徹底抗戦を主張 | 内応者(相良頼房ら)に謀殺される | 19 |
| 垣見一直 | 籠城将 | 徹底抗戦を主張 | 内応者(相良頼房ら)に謀殺される | 19 |
| 木村由信・豊統父子 | 籠城将 | 徹底抗戦を主張 | 内応者(相良頼房ら)に謀殺される | 19 |
| 相良頼房 | 籠城将→東軍内応 | 内応を主導し、味方将兵を謀殺 | 所領安堵(肥後人吉藩2万2千石) | 19 |
| 秋月種長 | 籠城将→東軍内応 | 内応に同調 | 所領安堵(日向高鍋藩3万石) | 19 |
| 高橋元種 | 籠城将→東軍内応 | 内応に同調 | 一度は所領安堵されるも、後に改易 | 19 |
| 【東軍・攻城側】 | | | | |
| 水野勝成 | 攻城主将 | 城を包囲し、降伏勧告を行う | 関ヶ原の戦功により大和郡山に加増移封 | 19 |
| 西尾光教 | 攻城将 | 福原長堯への降伏勧告に関与 | 戦功により美濃揖斐藩主となる | 15 |
第六章:裏切りと忠義の行方
戦後、関係者の処遇はまさに明暗を分けた。
最後まで主君への忠義を貫いた福原長堯は、開城後に剃髪して道蘊と号し、伊勢の朝熊山に蟄居した 15 。城兵の助命という彼の願いは叶えられたが、石田三成の義弟という出自が仇となり、家康から赦されることはなかった。慶長5年10月、彼は自刃を命じられ、その生涯を閉じた 15 。
一方、味方を殺害してまで生き残りを図った内応者たちは、その功績を認められた。相良頼房は肥後人吉2万2千石の所領を安堵され、近世大名として家名を明治まで伝えることに成功した 27 。秋月種長も同様に、日向高鍋3万石の所領を安堵されている 29 。彼らの行動は、結果として「家」を守るという目的を達成した。
しかし、同じ内応者でありながら、高橋元種は異なる道を辿る。彼は一度は所領を安堵されたものの、後に些細なことを理由に改易(領地没収)の処分を受けている 30 。三者の功績は同じはずなのに、なぜこのような差が生まれたのか。ここには、家康の老獪な政治手腕が透けて見える。家康の戦後処理は、単なる功績の大小だけでなく、各大名の潜在的な力、他の大名との関係性、そして将来の徳川の治世にとっての安定性といった、高度な政治的計算に基づいて行われた。相良・秋月の安堵は内応を奨励する「アメ」であり、高橋の改易は他の大名への「ムチ」として機能したのかもしれない。この処遇の差は、関ヶ原の戦いが軍事力だけでなく、緻密な人事政策によってもたらされた天下統一であったことを示している。
第七章:ある少女の証言 ― 『おあむ物語』の世界
武将たちの政治的な駆け引きや戦闘の記録とは別に、この大垣城籠城戦には、戦場に生きた一人の少女の生々しい証言が残されている。石田三成の家臣・山田去暦の娘「おあむ」が、後年にその体験を語り残した『おあむ物語』である 33 。
彼女の物語は、戦場の日常を全く異なる視点から描き出す。城内の女性たちが、天守に集められて敵の鉄砲から身を守りながら、味方のための鉄砲玉を鋳造する様子。味方が討ち取ってきた敵の首級を集め、戦功の証拠として見栄えを良くするために、一つ一つにお歯黒を付けて化粧を施すという、凄惨でありながらも日常的な作業。そして、いつ飛んでくるかわからない石火矢(大砲)の砲弾の轟音に怯える日々 33 。そこには、英雄譚とは無縁の、戦争の現実があった。
物語のクライマックスは、落城間際の脱出劇である。父・山田去暦は、かつて家康の手習いの師匠を務めたことがあった 20 。その縁を知る東軍の将から、密かに城からの脱出を促す矢文が届けられる 20 。これを受け、おあむの一家は数人の供とともに、夜陰に紛れて城を抜け出す。堀に浮かべたたらい舟に乗り移り、九死に一生を得るまでの緊迫した情景は、歴史の大きなうねりの中で翻弄される人々の姿を鮮烈に映し出している 33 。
終章:大垣城の戦いが残したもの
慶長5年(1600年)の大垣城の戦いは、関ヶ原の戦いという巨大な歴史事象の中で、その序章と終章の両方を担う、極めて重要な役割を果たした。
決戦前、西軍の最前線司令部としての大垣城は、石田三成の戦略構想を体現する舞台であった。杭瀬川での鮮やかな戦術的勝利と、島津の夜襲案を巡る軍議での戦略的硬直性は、西軍が内包する強さと弱さを同時に浮き彫りにした。そして、小早川秀秋の動向に揺さぶられ、関ヶ原へと主力を移動させるという決断は、三成の当初の計画が破綻し、戦いの主導権が家康へと移っていく転換点であった。
決戦後、主力を失った大垣城で繰り広げられた籠城戦は、関ヶ原の戦いの縮図そのものであった。西軍敗北の報と共に崩壊する士気、自家の存続をかけて味方を殺める裏切り、そして絶望的な状況下で最後まで忠義を貫こうとする者の悲劇。これら全てが、豊臣政権の終焉と徳川による新たな秩序の始まりを象徴していた。
この城の開城により、美濃国内における西軍の組織的な抵抗は完全に終息した。これにより家康は後顧の憂いなく、西国大名の処分や、三成の居城・佐和山城の攻略に着手することが可能となったのである。
戦後、大垣城は石川康通、松平忠利らを経て、寛永12年(1635年)に戸田氏鉄が入城。以降、明治維新に至るまで約230年間にわたり、戸田氏10万石の居城として西美濃に君臨した 18 。一つの城を舞台に繰り広げられた知略、忠誠、裏切り、そして悲劇は、天下分け目の戦いの記憶と共に、新たな時代へと受け継がれていったのである。
引用文献
- (わかりやすい)関ヶ原の戦い https://kamurai.itspy.com/nobunaga/sekigahara.htm
- 徳川家康と関ヶ原の戦い/ホームメイト https://www.meihaku.jp/tokugawa-15th-shogun/tokugawaieyasu-sekigahara/
- 大垣城(おおがきじょう)|おおがきっず! たんけん!はっけん!大垣市 https://www2.city.ogaki.lg.jp/ogakids/rekisi/siro.html
- 【関ヶ原の舞台をゆく②】関ヶ原の戦い・決戦~徳川と豊臣の運命を賭けた戦い - 城びと https://shirobito.jp/article/486
- 関ヶ原の合戦でなぜ徳川家康は勝利したのか~徳川家康~ | 岐阜県の学習塾 東進ゼミナール https://toshin-seminar.co.jp/column/3274/
- 関ケ原の戦い~石田三成は大垣城に拠らず、なぜ、野戦に転じたのか? https://rekishikaido.php.co.jp/detail/4332
- 現地で学ぶ、大垣城と関ヶ原の戦い|かぼちゃかべ - note https://note.com/chakabe_okb/n/n68b29af3cb4d
- 関ヶ原合戦決戦前夜 - ストリートミュージアム https://www.streetmuseum.jp/historic-site/shiro/2025/03/20/501/
- 杭瀬川の戦い ~島左近の関ヶ原~ - M-NETWORK http://www.m-network.com/sengoku/sekigahara/kuisegawa.html
- 島左近(嶋左近)の歴史 /ホームメイト - 戦国武将一覧 - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/37254/
- 杭瀬川の戦い~嶋左近の采配ズバリ! 西軍が関ヶ原前哨戦を制す - WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/4331
- 島津義弘は何をした人?「関ヶ原で魅せた退き口や鬼石曼子など最強の名を馳せた」ハナシ|どんな人?性格がわかるエピソードや逸話・詳しい年表 https://busho.fun/person/yoshihiro-shimadzu
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- 落乱元ネタ探し その1『おあむ物語』から|はねこ - note https://note.com/haneko_note/n/n16d2aa52d334
- おあむ物語 | 大垣城のガイド - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/27/memo/708.html
- おあむ物語 戦国女性の生き様 - 大垣観光協会 https://www.ogakikanko.jp/pamphlet/pdf/oamu.pdf