最終更新日 2025-08-27

大津城の戦い(1600)

慶長五年 大津城の戦い - 関ヶ原の趨勢を決した九日間の攻防

序章:天下分け目の序曲

慶長五年(1600年)、日本の歴史を二分する天下分け目の戦い、関ヶ原の合戦が勃発した。その巨大な歴史の転換点において、主戦場である美濃関ヶ原から遠く離れた近江国大津城で繰り広げられた九日間の攻防戦は、しばしば本戦の影に隠れがちである。しかし、この「大津城の戦い」こそ、関ヶ原における東西両軍の力関係を決定的に左右し、徳川家康率いる東軍の勝利を盤石ならしめた、極めて重要な前哨戦であった。本報告書は、この大津城の戦いの全貌を、合戦に至る背景、リアルタイムの戦闘経過、そして歴史的意義に至るまで、あらゆる角度から徹底的に詳述するものである。

豊臣政権の落日と二大勢力の形成

慶長三年(1598年)八月、天下人豊臣秀吉が伏見城でその生涯を閉じると、彼が一代で築き上げた巨大な権力構造は、その核を失い、静かに、しかし確実に軋み始めた 1 。秀吉の遺言に基づき、幼い嫡子・秀頼を五大老と五奉行が補佐する集団指導体制が敷かれたが、これは脆弱な均衡の上に成り立つ砂上の楼閣に過ぎなかった。五大老筆頭の徳川家康は、秀吉の死を好機と捉え、巧みな政治工作によって諸大名への影響力を急速に拡大していく 1

これに対し、豊臣政権の実務を担ってきた五奉行の一人、石田三成は、家康の台頭を豊臣家への脅威とみなし、強い警戒心を抱いていた。両者の対立は、慶長五年、家康が会津の上杉景勝に謀反の疑いありとして諸大名を率いて討伐の軍を起こした(会津征伐)ことで、ついに臨界点に達する 2 。家康が畿内を留守にしたこの機を捉え、三成は毛利輝元を総大将に擁立し、反家康勢力を結集して挙兵。ここに、天下は徳川家康を盟主とする「東軍」と、石田三成を中心とする「西軍」に二分され、全面対決は不可避となった。

戦略拠点としての大津城

西軍は挙兵後、家康が畿内の拠点としていた伏見城を攻略し、続いて美濃・尾張方面へと主力を進め、東軍との決戦に備えていた 2 。その過程で、なぜ近江国の一城郭に過ぎない大津城が、西軍にとって看過できない存在となったのか。その理由は、大津城が持つ比類なき地政学的重要性にあった。

第一に、大津は琵琶湖水運の最大の結節点であった 3 。当時、北陸や東海地方からの米や物資は、琵琶湖の水運を利用して大津港に集積され、そこから京や大坂へと運ばれていた 5 。大津城はこの物流の大動脈を完全に掌握する位置にあり、ここを敵に押さえられることは、西軍にとって兵站上の致命的な脅威となり得た 7

第二に、大津は陸上交通の要衝でもあった。日本の二大幹線である東海道と中山道(当時は東山道)は、城下で合流し、逢坂の関を越えて京へと至る 3 。まさに畿内の喉元を扼する場所であり、軍事的にこの地を失うことは、西軍の主力が展開する美濃・尾張方面と、本拠地である大坂・伏見との連絡路を遮断される危険性を意味した 7

したがって、大津城主・京極高次が東軍への加担を表明したことは、西軍にとって単なる一武将の離反以上の、戦略的な緊急事態であった。主戦場へ向かう自軍の背後に、敵の強力な拠点が生まれることを許容はできなかったのである。それゆえ、西軍が一万五千もの大軍をこの城の攻略に割いたのは、決して過剰な対応ではなく、本戦に全力を注ぐための前提条件を整える、不可避の戦略的必要性からであった。問題は、この攻略に要した「時間」であり、この時間の浪費こそが、大津城の戦いが歴史に与えた最大の影響となるのである。

第一章:「蛍大名」京極高次の苦悩と決断

この戦略的要衝・大津城の運命を一身に背負ったのが、城主・京極高次である。彼の決断と行動なくして、この戦いは語れない。

閨閥に支えられた「蛍大名」

京極高次は、室町幕府の四職にも数えられた名門・佐々木京極氏の嫡流として生を受けた 8 。しかし、戦国の動乱の中で家は没落し、彼自身の前半生も苦難の連続であった 8 。彼が再び歴史の表舞台に登場するのは、妹の松の丸殿(竜子)が豊臣秀吉の側室として寵愛を受けたことによる 3 。さらに天正十五年(1587年)、彼は浅井長政の次女であり、淀殿の妹、お江与の姉にあたるお初を正室に迎える 3

この二重の閨閥により、高次は大津城六万石の大名にまで取り立てられた 3 。しかし、その栄達が自身の武功よりも縁故によるものと見なされたため、世間からは「蛍大名」と揶揄された 3 。蛍が自らは光を発せず、尻の光(月の光)で輝くことに擬えられたこの不名誉な渾名は、彼の自尊心を深く傷つけ、いつか自らの力で家名を高め、汚名を返上したいという強い渇望を内面に育んだ可能性は否定できない 13

東西両陣営にまたがる人間関係の網

関ヶ原の動乱が迫る中、高次の立場は極めて複雑かつ危険なものとなっていた。彼の人間関係は、奇しくも東西両陣営に深く張り巡らされていたのである。

  • 豊臣方(西軍)との関係: 妹は秀吉の側室、妻・お初の姉は豊臣家の後継者・秀頼の母である淀殿。高次は豊臣家から見れば、最も信頼すべき親族大名の一人であった 1
  • 徳川方(東軍)との関係: 妻・お初の妹であるお江与は、徳川家康の後継者・秀忠の正室。義理の弟が徳川家の次期当主という、こちらも極めて近い姻戚関係にあった 1

義兄は豊臣、義弟は徳川。この絶妙な板挟みの状況が、彼の行動を慎重にさせ、その真意を周囲から晦渋なものに見せた最大の要因であった 8

水面下の攻防と東軍加担への道

高次の東軍への転身は、決して時流に乗った突発的なものではなく、水面下で周到に準備された、計算され尽くした行動であった。

その端緒は、慶長五年六月十八日、家康が会津征伐へ向かう途上で大津城に立ち寄った際に開かれる 15 。高次は家康を丁重に饗応し、この場で密約を交わしたとされる。家康は高次に信頼の証として名刀・吉光の小脇差を授け、高次は弟の京極高知を東軍に従軍させることで、徳川方への忠誠を形にした 13 。家康は高次に対し、上方で変事が起きた際には大津城を死守するよう命じたという 13

七月に三成が挙兵すると、大津周辺は完全に西軍の勢力下に置かれた。この状況下で公然と東軍に与することは自滅行為に等しい。高次は状況を冷静に判断し、一旦は西軍に恭順する姿勢を見せた。西軍の求めに応じ、嫡子・熊麿(後の忠高)を人質として大坂城へ送り、大津城を訪れた三成とも直接面会している 13 。しかし、その裏では西軍の動向を逐一家康に報告し続けていた 13

さらに高次は、西軍の北陸方面軍を率いる大谷吉継の求めに応じ、自らも軍勢を率いて出陣する 8 。これは西軍を完全に油断させるための偽装行動であり、高次はこの行軍の最中に、反旗を翻す絶好の機会を窺っていたのである。

慶長五年九月三日、運命の帰城

大谷吉継の軍勢に一日遅れて行軍していた高次は 8 、近江東野付近で突如として進路を変更。西軍本隊から離脱すると、海津(現・高島市)から船に乗り、琵琶湖を南下した 1 。そして九月三日の暁、電撃的に大津城へ帰還を果たした 1

この瞬間、「蛍大名」京極高次の生涯を賭けた大博打が始まった。彼は直ちに城内に米や塩などの兵糧を運び入れ、籠城の準備を開始 19 。同時に徳川家重臣・井伊直政へ密使を送り、大津城において西軍を迎え撃つという固い決意を伝えたのである 16 。高次の行動は、日和見主義的な選択ではなかった。それは、事前に家康と練り上げ、西軍の懐深く潜り込むことでその油断を誘い、最も効果的な場所と時期を選んで実行された、二重スパイ的とも言える高度な戦略であった。この一世一代の決断によって、彼は「蛍大名」の汚名を返上し、京極家の未来を切り開こうとしたのである。

第二章:大津城攻防、刻一刻 ― 慶長五年九月七日~十五日

京極高次の決断により、大津城は天下分け目の戦いにおける新たな焦点となった。兵力において圧倒的に不利な状況下で、九日間にわたる壮絶な籠城戦が幕を開ける。

陣営

総兵力

総大将

主要武将

東軍(籠城側)

約3,000

京極高次

赤尾伊豆守、山田大炊、黒田伊予

西軍(攻城側)

約15,000

毛利元康

立花宗茂、小早川秀包、筑紫広門、増田長盛(水軍)

【開戦前夜】九月三日~六日:籠城と包囲

九月三日に帰城した高次は、ただちに籠城の準備を固めた。城兵はわずか三千 3 。対する西軍は、高次の裏切りに激怒し、迅速に行動を開始した。総大将・毛利輝元は、当初伊勢方面の攻略に向かわせていた部隊を急遽転進させることを決定 3 。毛利元康を総大将、その弟の小早川秀包を副将とし、九州の猛将・立花宗茂、筑紫広門、宗義智、伊東祐兵ら、西軍の中でも屈指の精鋭部隊、総勢一万五千(『大津籠城合戦記』では三万七千とも 8 )が大津城へと差し向けられた 2

【九月七日~八日】攻防の火蓋

九月七日、西軍の大軍勢が大津城を完全に包囲した 2 。西軍はまず使者を送り、降伏と開城を勧告したが、高次はこれを黙殺 7 。交渉は決裂し、武力による攻城戦が避けられない状況となった。

そして九月八日、ついに本格的な攻撃の火蓋が切られた 8 。この日の戦闘の激しさは、当時の記録からも窺い知ることができる。公家・西洞院時慶の日記『時慶記』や、醍醐寺の僧・義演の日記『義演准后日記』には、戦闘の様子が記されている。特に『義演准后日記』の九月八日条には、「大津城責、鉄放響地ヲ動ス、焼煙如霧」(大津城攻めの鉄砲の音は大地を揺るがし、立ち上る硝煙はまるで霧のようであった)とあり、両軍による凄まじい銃撃戦が繰り広げられたことがわかる 22

【九月九日~十一日】城方の奮戦と膠着状態

五倍もの兵力差にもかかわらず、大津城の守りは驚くほど堅固であった。城方は地の利を活かし、巧みに防戦。西軍は数に任せて猛攻を仕掛けるも、容易に城を攻め落とすことができず、戦況は膠着状態に陥った 8

この城方の善戦を支えたのが、京極家の譜代の家臣たちの勇猛果敢な働きであった。中でも、赤尾伊豆守と山田大炊の両将は、精兵五百を率いて城門から打って出て、包囲する西軍の大軍に突撃を敢行 8 。『大津籠城合戦記』によれば、「山田赤尾ハ素ヨリ智勇備リ武辺場数ノ勇士ナレバ、寄手ヲ手軽ク追捨テ、勝鬨作リテ城中ヘ引返ス」(山田と赤尾は元々智勇に優れ、戦経験も豊富な勇士であるため、寄せ手をたやすく追い散らし、勝ち鬨をあげて城中へ引き返した)と記されており、その獅子奮迅の活躍ぶりが伝えられている 8 。籠城側はこうした積極的な出撃や夜襲を繰り返し、徹底抗戦の意志を示した 3

【九月十二日】「西国無双」立花宗茂の戦術

膠着した戦況を打破すべく、攻城軍の中核を担う立花宗茂が、その天才的な戦術眼を発揮する。彼は、養父・立花道雪が考案したとされる革新的な鉄砲戦術を実戦投入した 13

それは「早込(はやごめ)」または「早合(はやごう)」と呼ばれるもので、一発分の弾丸と火薬を紙や竹筒にまとめておくことで、射撃準備の時間を大幅に短縮する仕組みであった 23 。この「早込」を用いた立花勢の鉄砲隊は、他家の部隊の三倍もの速度で連射することが可能だったという 13 。圧倒的な弾幕の前に、城壁の狭間から応戦していた京極勢は抗う術を失い、ついに狭間を閉じて防戦一方に追い込まれた 13

【九月十三日】長等山からの砲撃と総攻撃

九月十三日、大津城の運命を決定づける日が訪れた。西軍は、城の弱点を突くための新たな作戦を実行に移す。それは、城の南西に位置し、城内を一望できる長等山(ながらさん)の中腹、三井寺観音堂付近に大筒(大砲)を運び上げ、そこから城内を直接砲撃するというものであった 2

琵琶湖畔の低地に築かれた平城である大津城は、高所からの攻撃に対して極めて脆弱であった 5 。長等山から大津城までの距離は約1km。当時の大筒の有効射程圏内であった 13 。山腹から放たれた砲弾は、轟音とともに城内へ降り注ぎ、城兵たちを恐怖のどん底に陥れた。そのうちの一発は天守の柱に命中し、城内は阿鼻叫喚の地獄と化したと伝えられる 2

この戦いは、個々の武士の勇猛さだけでなく、技術と戦術が戦局を左右する新しい戦争の時代の到来を象徴していた。立花宗茂による鉄砲の組織的運用と、高所からの体系的な砲撃による城郭機能の麻痺は、戦国時代の合戦の中でも画期的なものであった。

砲撃を合図に、西軍は総攻撃を開始した。勢いに乗った攻城軍は、ついに外堀を埋め、三の丸、二の丸を次々と攻略 5 。立花勢の先鋒大将・立花吉右衛門は、二箇所の槍傷を負いながらも一番乗りの功名を果たした 8 。湖上からは、かつての大津城主であった増田長盛が派遣した水軍が城壁に取り付き、攻撃を加えた 13 。京極勢は最後の拠点である本丸に追い詰められ、本丸の「鉄の門」を巡って、血で血を洗う最後の激戦が繰り広げられたのである 29

【九月十四日】降伏勧告と城内の葛藤

本丸を残すのみとなり、落城はもはや時間の問題であった。西軍総大将の毛利元康は、無益な殺生を避けるため、再び降伏を勧告する。この時、使者として派遣されたのは、大坂城から遣わされた高野山の高僧・木食応其(もくじきおうご)と、武将の新庄直忠であった 2

城主・京極高次は、使者に対してもなお徹底抗戦の構えを見せた 2 。しかし、城内の兵士たちは連日の激戦で疲弊しきっており、士気も尽きかけていた。これ以上の籠城は不可能であることは、誰の目にも明らかであった 17

【九月十五日】開城、そして関ヶ原

運命の九月十五日の朝、高次はついに降伏を決意する。その決断には、いくつかの要因が重なっていた。

第一に、敵将・立花宗茂が見せた武士としての情けであった。宗茂は、高次の武勇と奮戦を称え、「城兵の助命は保証する」という内容の書状を矢文で城内に送り届けた 2 。この敵将への敬意と人道的な配慮が、頑なだった高次の心を大きく動かしたとされる 2

第二に、豊臣家の権威による圧力である。豊臣秀吉の正室であり、絶大な権威を持つ北政所(ねね)の使者として、筆頭女官である孝蔵主(こうぞうす)が城を訪れ、これ以上の戦いをやめるよう説得にあたった 2

そして最後に、家臣たちの進言である。老臣の黒田伊予守をはじめとする重臣たちが、これ以上の抵抗は無益であり、城兵の命を救うことこそが大将の務めであると、涙ながらに高次を説得した 2

全ての説得を受け入れた高次は、城に隣接する園城寺(三井寺)に入り、剃髪して降伏の意を示した 2 。その潔い態度に対し、立花宗茂もまた武士としての礼を尽くした。約束通り城兵の命を保証し、高次の身柄を丁重に保護すると、人質として自らの一族である立花政辰を城中に送り、高次を護衛付きで高野山へと送ったのである 2

しかし、歴史の皮肉としか言いようがない。大津城が静かに開城したその日、その時刻、遠く美濃国関ヶ原の地では、東西両軍合わせて十数万の軍勢が激突していた。そして、高次が剃髪を終える頃には、西軍は小早川秀秋の裏切りによって総崩れとなり、わずか半日で壊滅的な敗北を喫していたのである。大津城で西軍が手にした局地的な勝利は、その日のうちに全く無意味なものと化してしまった 2

第三章:合戦の主役たち ― 武将たちの肖像

大津城の戦いは、京極高次という一人の武将の決断から始まったが、その攻防は、彼を取り巻く個性豊かな人物たちの思惑と行動によって彩られていた。

籠城側指揮官:京極高次

戦前は「蛍大名」と揶揄され、閨閥によって地位を得た凡将と見なされていた京極高次。しかし、この大津城の戦いにおける彼の指揮官としての手腕は、再評価されるべきである。わずか三千の寡兵を率い、五倍もの大軍を相手に九日間も持ちこたえたその粘り強さは、決して凡庸な人物に成し得ることではない 3 。この善戦は、高次自身の不退転の決意はもとより、彼の下に結束した家臣団の忠誠心と能力の高さに支えられていた。特に、城外へ打って出て西軍を混乱させた赤尾伊豆守や山田大炊といった勇将の存在は、京極家家臣団の質の高さを物語っている 8 。高次はこの籠城戦を通じて、自らの力で家名を高め、「蛍大名」の汚名を完全に返上したのである。

攻城側指揮官:立花宗茂

豊臣秀吉をして「西国無双」「九州の逸物(逸材)」と言わしめた、当代随一の戦術家 32 。大津城の戦いにおいても、その能力は遺憾なく発揮された。「早込」を用いた革新的な鉄砲戦術で戦況を打開し 13 、的確な攻城指揮で堅城を追い詰めた手腕は、まさに「武神」の呼び名にふさわしいものであった 33 。しかし、宗茂の真価は戦術家としての一面だけではない。彼はまた、義と情を重んじる武士道の体現者でもあった。勝ち目の薄いと知りながらも、秀吉から受けた恩義に報いるために西軍に与し 24 、敵将である高次の奮戦を称えてその助命を保証するなど 2 、彼の行動は常に武士としての誇りと仁義に貫かれていた。

交渉の鍵を握った僧:木食応其

九月十四日、降伏勧告の使者として現れた高野山の僧・木食応其は、単なる宗教家ではなかった。彼は豊臣秀吉や石田三成とも深い繋がりを持ち、戦国の世において重要な政治的役割を果たした高僧である 36 。かつて秀吉が紀州を攻めた際には、巧みな交渉術で高野山の焼き討ちを回避させ 37 、島津家が秀吉に降伏する際の仲介役も務めるなど 38 、数々の調停を成功させてきた実績を持っていた。西軍が、頑強に抵抗する高次を説得する最後の切り札として彼を派遣したのは、その卓越した交渉手腕と、豊臣家とも徳川家とも通じる幅広い人脈を見込んでのことだったのである。

北政所の代理人:孝蔵主

木食応其と共に降伏を説得した北政所の使者・孝蔵主もまた、重要な役割を担った。彼女は北政所(ねね)に仕える筆頭女官であり、奥向きを取り仕切るだけでなく、時には主の名代として政治的な交渉もこなす辣腕の女性であった 40 。彼女自身、石田三成の縁者であったとも言われ、西軍寄りの立場であった可能性が指摘されている 43 。彼女の登場は、この戦いが単なる軍事衝突に留まらず、豊臣家内部の権威や人間関係をも巻き込んだ、高度な政治闘争の一環であったことを示唆している。

第四章:戦略的影響と歴史的意義

局地戦としては西軍の勝利に終わった大津城の戦い。しかし、その戦略的な影響は、関ヶ原の本戦、ひいては日本の歴史の行方に決定的な一撃を与えることになった。

関ヶ原への直接的影響:西軍精鋭一万五千の不在

この戦いがもたらした最大の戦略的成果は、立花宗茂、毛利元康、小早川秀包といった西軍の有力武将が率いる一万五千もの精鋭部隊を、決戦当日の九月十五日に、関ヶ原の戦場から完全に引き離したことである 2 。この兵力は、関ヶ原における西軍総兵力(約八万)の二割近くを占める、決して無視できない規模であった。

特に、戦の天才である立花宗茂とその部隊が本戦に参加できなかった影響は計り知れない。もし彼らが関ヶ原に布陣していれば、西軍の士気は大いに高まり、戦況は全く異なった展開を見せていた可能性が高い。また、彼らのような強力な部隊が西軍本隊に存在していれば、日和見を決め込み、最終的に東軍へ寝返った小早川秀秋の動きを牽制し、裏切りを防ぐ抑止力として機能したかもしれない。京極高次の九日間の籠城は、結果として西軍から最も頼りになる戦力を奪い去り、東軍の勝利に大きく貢献したのである。

「足止め説」の再検討

高次の籠城は、単なる偶然の産物だったのだろうか。これまでの経緯、すなわち家康との事前の密約 15 や、西軍を欺き続けた行動 13 を鑑みれば、これは家康との間で練られた意図的な「足止め作戦」であったと結論づけるのが妥当であろう。高次はこの困難極まる任務を、九日間という絶妙な期間にわたって見事に完遂した。この九日間という時間は、家康率いる東軍主力が美濃赤坂に集結し、西軍を関ヶ原の盆地におびき寄せて決戦に臨むための、貴重な時間的猶予を生み出したのである。

ここに、歴史の逆説が浮かび上がる。京極高次は城を明け渡し、降伏した。これは局地戦における紛れもない「敗北」である。しかし、その敗北に至る過程で西軍の貴重な戦力と時間を浪費させたことにより、徳川家康に大局的な「勝利」をもたらした。高次の「負け」が、家康の天下取りを盤石にしたのである。これは、戦いの勝敗が単一の戦闘結果のみで判断されるべきではなく、より大きな戦略的文脈の中でその真価が問われるべきであることを示す、歴史上の好例と言えよう。

観戦された戦い

この壮絶な攻防戦には、興味深い逸話が残されている。医師・板坂卜斎の覚書によれば、京都の町人たちが、重箱に弁当を詰め、水筒を携えて、三井寺の観音堂からこの戦いを「見物」していたというのである 2 。「恐しげもなく日夜見物申し候なり」という記述からは、戦乱が日常の一部と化していた戦国末期の畿内において、合戦がある種の「スペクタクル(見世物)」として消費されていたという、当時の人々の死生観や社会状況を垣間見ることができる。

終章:大津城のその後と京極高次の栄光

九日間の激闘の末、静寂を取り戻した大津城。しかし、その歴史的役割はまだ終わってはいなかった。

戦後処理の舞台となった大津城

関ヶ原で西軍を打ち破り、事実上の天下人となった徳川家康は、九月二十日に大津城へ入城した 22 。そして、この城を拠点として、西軍に参加した諸大名の処分や、新たな領地配分といった、大規模な戦後処理を開始した 5 。石田三成や小西行長といった西軍の首脳が捕縛されたのもこの時期であり、家康は大津城から天下統一後の新たな秩序構築に向けた采配を振るったのである。決戦の序曲を奏でた場所が、その終結を告げる舞台ともなったことは、大津城がこの歴史的転換期においていかに重要な拠点であったかを物語っている。

「蛍大名」の汚名返上と栄転

一方、降伏した京極高次は、敗軍の将となったことを深く恥じ、高野山で剃髪して隠棲するつもりであった 8 。しかし、家康の評価は全く異なっていた。家康は、高次が西軍の精鋭を大津に釘付けにした功績を「軍功第一」と最大級に称賛 8 。再三にわたり使者を送って高次に下山を促した 17

弟・高知らの説得もあり、ついに高次は家康に仕えることを決意する 8 。家康はその功に報いるため、高次を近江大津六万石から、若狭一国を与えた上で小浜八万五千石へと、破格の加増転封を命じた 2 。翌年にはさらに七千石余が加増され、九万二千石を超える大名となった 2 。これにより高次は名実ともに国持大名となり、近世大名としての京極家の盤石な礎を築き上げたのである 11

家康が高次をこれほどまでに厚遇したのは、単なる功労への報奨に留まらない、巧みな政治戦略であった。 strategicな任務を忠実に果たした者は、たとえ局地的に敗北しても必ず報われるという明確なメッセージを全大名に示すことで、新たな徳川体制への求心力を高める狙いがあった。また、豊臣恩顧の大名でありながら東軍に味方した高次を厚遇することは、他の豊臣系大名の取り込みを円滑に進める上でも効果的であった。家康の論功行賞は、常に次の天下布石を見据えた、高度な政治的計算に基づいていたのである。

大津城の終焉と遺産の継承

歴史的な役割を果たした大津城であったが、その命運は長くは続かなかった。籠城戦によって城郭は本丸を除き激しく損傷し、何よりも長等山からの砲撃によって露呈した防御上の脆弱性は致命的であった 4 。家康は、より防御に適した地勢である膳所の地に、新たに膳所城を築くことを決定 5 。慶長六年(1601年)、大津城は廃城となり、その短い歴史に幕を下ろした 3

しかし、大津城の遺産が完全に失われたわけではない。解体された城の部材は、彦根城や膳所城の築城に再利用された 50 。特に、その天守は、籠城戦で最後まで「落城しなかった縁起の良い天守」として、徳川四天王の一人・井伊直政の居城である彦根城に移築されたと伝えられている 5 。現在、国宝に指定されている彦根城の優美な天守は、かつてこの地で繰り広げられた壮絶な攻防戦の記憶を、静かに今に伝えているのである。


巻末付録

【表2:大津城の戦い 詳細時系列表】

年月日(慶長五年)

出来事

関連史料・備考

9月3日

京極高次、西軍から離脱し大津城へ帰城。籠城を開始。

1

9月7日

西軍(毛利元康、立花宗茂ら)一万五千、大津城を包囲。

2

9月8日

西軍による本格的な攻撃開始。激しい銃撃戦となる。

8

9月9日-11日

京極家臣(赤尾、山田ら)の奮戦により西軍は攻めあぐねる。

8

9月12日

立花宗茂、「早込」戦術で城方を圧倒。

13

9月13日

西軍、長等山から大筒で砲撃。総攻撃により三の丸・二の丸陥落。

2

9月14日

西軍、木食応其を派遣し降伏勧告。高次は一度拒否。

2

9月15日

【午前】立花宗茂の書状、孝蔵主の説得により高次が開城を決意。

2

【同日】美濃関ヶ原にて本戦開始、西軍が敗北。

2

9月20日

徳川家康、大津城に入り戦後処理を開始。

22

引用文献

  1. 大津城籠城【2】 - びわ湖大津トラベルガイド https://otsu.or.jp/sengoku/hamaotsu.html
  2. 大津城の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B4%A5%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  3. 関ヶ原前哨戦「大津城の戦い」!京極高次、懸命の籠城戦…猛将・立花宗茂を足止めす! https://favoriteslibrary-castletour.com/shiga-otsujo/
  4. 【滋賀県】大津城の歴史 たった15年しか存在しなかった豊臣の城 - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/2017
  5. 大津籠城戦と京極氏 https://www.keibun.co.jp/saveimg/kakehashi/0000000192/pdf_sub_3413_20160328165346.pdf
  6. 大津市 穴太衆と大津城決戦ゆかりの地 https://otsu.or.jp/wp/wp-content/uploads/2022/07/61543528910632dc41b0d274a43ced76.pdf
  7. 戦国の城と城跡 ・ 関ヶ原古戦場 (6) 「 関ヶ原、前哨戦の城 滋賀県、近江 大津城 」 京極高次は当初、西軍に属し北陸方面へ出陣したが、東軍が岐阜城を攻略した時点で、西軍を離脱し大津城に籠城 - ココログ http://tanaka-takasi.cocolog-nifty.com/blog/2014/03/post-2f33.html
  8. 大津城の戦い ~京極高次の関ヶ原~ http://www.m-network.com/sengoku/sekigahara/otsu.html
  9. 戦国一情けない?妹や妻のコネクション使いまくり大名「京極高次」に逆転人生を学ぶ! - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/146155/
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  50. 大津城の見所と写真・800人城主の評価(滋賀県大津市) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/189/
  51. 彦根城 天守 - 彦根市 https://www.city.hikone.lg.jp/kakuka/kanko_bunka/5/hikonefilmcomission/roke-syonsyokai/hikonejohikonejosyuhen/22095.html
  52. 彦根城について About Hikone Castle https://hikonecastle.com/about.html