大聖寺城の戦い(1600)
大聖寺城の戦い(1600年):関ヶ原の趨勢を左右した北陸の激闘
序章:天下分け目の関ヶ原、もう一つの戦線 ― 北陸の動乱
慶長五年(1600年)九月十五日、美濃国関ヶ原で繰り広げられた天下分け目の決戦は、日本の歴史を大きく転換させた。しかし、この一大決戦の影で、天下の趨勢に決して小さくない影響を与えたもう一つの重要な戦線が存在したことは、しばしば見過ごされがちである。それが、加賀国(現在の石川県)を中心とする北陸方面での攻防であった。本報告書は、この北陸戦線の発火点となった「大聖寺城の戦い」に焦点を当て、その背景、戦闘の経過、そして歴史的意義を、専門的な見地から徹底的に詳述するものである。
まず冒頭で、本件に関する一般的な誤解を解いておく必要がある。時に、この北陸の戦役が「直江兼続が加賀南端を攻め」た結果であるかのように語られることがあるが、これは会津の上杉景勝(とその家老・直江兼続)の動向と、北陸での出来事を混同したものである。実際には、この戦いは徳川家康率いる東軍に与した加賀百万石の当主・前田利長と、石田三成を中心とする西軍に属した大聖寺城主・山口宗永、そして小松城主・丹羽長重との間で繰り広げられた、関ヶ原の主戦場と密接に連動しながらも独立した戦役であった。
この北陸のドラマを動かしたのは、それぞれの思惑を胸に秘めた四人の主要な武将たちである。
- 前田利長 :偉大な父・利家の死後、徳川家康からの強大な圧力に晒され、一門の存亡を賭けて東軍参加という苦渋の決断を下した加賀の若き領主 1 。
- 山口宗永(玄蕃) :豊臣家への旧恩と忠義を貫き、圧倒的な兵力差を前に玉砕を覚悟して城に籠る、悲劇的な義将 2 。
- 丹羽長重 :かつての栄光を奪った前田家への根深い対抗心を燃やし、西軍に与しながらも独自の戦略で機を窺う、油断ならぬ小松城主 5 。
- 大谷吉継 :戦場から遠く離れた敦賀にありながら、謀略を駆使して北陸の西軍勢力を操り、巨大な前田軍をこの地に釘付けにしようと画策する稀代の智将 6 。
北陸の戦いは、単なる局地的な小競り合いではなかった。家康にとっては、徳川本隊に次ぐ巨大戦力である前田軍に、まず自らの足元を固めさせることで、後顧の憂いを断たせると同時に、その力を北陸に封じ込める狙いがあった。一方、三成と吉継にとっては、まさにその前田軍を山口・丹羽という楔(くさび)を用いて北陸に拘束し、関ヶ原の主戦場へ参陣させないことが至上命題であった。大聖寺城の戦いは、この両軍の高度な戦略的思惑が交錯する中で、必然的に勃発したのである。
第一部:嵐の前の北陸 ― 対立の萌芽
第一章:加賀百万石の苦悩 ― 徳川の圧力と前田利長の決断
慶長四年(1599年)閏三月、豊臣政権を支えた五大老の一人、前田利家が世を去った。この死は、政権のパワーバランスを劇的に変化させる。五大老の筆頭格であった徳川家康は、かねてより潜在的な最大の脅威と見なしていた前田家に対し、露骨な圧力をかけ始めた 2 。
その象徴的な事件が、同年九月に持ち上がった「家康暗殺計画」の嫌疑である。利家の跡を継いだ利長が、浅野長政らと共謀して家康の暗殺を企てているという密告がなされたのだ 2 。この嫌疑の真相は定かではない。家康自身が前田家取り潰しの口実として流した謀略説、『小松軍記』などが記すように石田三成が利長を反家康陣営に引き込むために仕掛けた策略説など諸説あるが、いずれにせよ前田家は存亡の危機に立たされた 2 。
仰天した利長は、家老の横山長知らを派遣して懸命に弁明する。最終的に、この危機を回避するために利長が下した決断は、母・芳春院(まつ)を人質として江戸へ送ることであった 1 。これは前田家の存続を第一に考えた芳春院自身の決断であったとも伝えられるが、加賀百万石の当主にとってこれ以上の屈辱はなかった。この一件により、前田家は事実上、徳川家への恭順を誓わざるを得なくなり、利長の東軍参加は運命づけられた。
翌慶長五年(1600年)、家康が会津の上杉景勝討伐を名目に全国の諸大名を動員すると、利長にも北陸の諸将を率いての出陣が命じられた 5 。もはや利長に選択の余地はない。この戦役で徳川への忠誠を明確に示し、武功を挙げることこそが、母を人質から解放し、前田家の安泰を確保する唯一の道であった。
第二章:忠義に殉ずる者 ― 山口宗永の横顔
前田利長が南征の第一目標とした大聖寺城。この城を守っていたのが、山口玄蕃頭宗永(やまぐち げんばのかみ むねなが)である。宗永はもともと豊臣秀吉に仕え、文禄・慶長の役では秀吉の甥・小早川秀秋の補佐役(付家老)として朝鮮に渡り、蔚山城の戦いでは加藤清正の救援に赴くなど、武功を立てた歴戦の武将であった 9 。
しかし、若年の主君・秀秋とは折り合いが悪く、慶長三年(1598年)に秀秋が筑前から越前へ転封された際に、宗永は秀吉の直臣に取り立てられ、加賀国大聖寺に6万3千石の所領を与えられて独立大名となった 12 。後に秀秋の転封は撤回されたが、宗永は加賀に留まった。この経緯は、宗永が秀吉から直接その忠誠心と能力を評価されていたことを示唆している。
彼が守る大聖寺城は、加賀と越前の国境地帯に位置し、北国街道が通過する交通・軍事の要衝であった 14 。西軍の視点から見れば、この城は前田領の喉元に突きつけられた匕首(あいくち)であり、前田軍の南下を阻止するための最前線基地であった。
天下が徳川方と反徳川方に二分される中、宗永が西軍への参加を決意した動機は、ひとえに豊臣家への恩義と忠誠心にあった 3 。彼のこの選択は、後の関ヶ原の本戦で土壇場になって東軍に寝返り、西軍敗北の決定的な要因を作った旧主・小早川秀秋の行動とは実に対照的である。圧倒的な戦力差を前にしても己の義を曲げなかった宗永の生き様は、彼の人物像を際立たせている。
第三章:沈黙する巨城 ― 丹羽長重の思惑
大聖寺城の北、前田軍の進路上に位置するのが、丹羽長重が籠る小松城である。長重の西軍加担の背景には、山口宗永の純粋な忠義とは異なる、より複雑で個人的な動機が存在した。
長重の父・丹羽長秀は織田信長の宿老として絶大な権勢を誇り、一時は越前・若狭・加賀二郡などを合わせて123万石という広大な所領を領有していた 16 。しかし、秀吉の治世下で家臣の軍律違反などを理由に所領は次々と削減され、長重の代には加賀国小松12万5千石の一大名にまで没落していた 17 。その一方で、かつては同格かそれ以下であった前田家が、利家の代に秀吉との個人的な信頼関係を背景に勢力を拡大し、北陸の覇者として80万石以上を領有するに至った 5 。この両家の浮沈は、長重の中に前田家に対する強い対抗心と屈辱感を植え付けていた。
さらに、家康の命令が長重の不信感を決定的にした。家康は、強大な前田家に不穏な動きがないか監視する役目を、密かに長重に与えていたとされる 5 。ところが、上杉討伐に際して家康は、その監視対象であるはずの利長の指揮下に入るよう長重に命じたのである。この矛盾した命令に対し、長重は「利長が家康につくのであれば、自分は敵に回る」と決断した 5 。
石田三成からの勧誘を受けた長重は、西軍に与することを内心で決める。しかし、彼は山口宗永のように公然と旗幟を鮮明にすることはせず、「北陸無双」と謳われた堅城・小松城に籠城し、前田軍の動向を静観する道を選んだ 5 。彼の狙いは、前田軍が大聖寺城攻めで疲弊するのを待ち、その上で好機を捉えて背後から一撃を加えることにあった。この戦いは、宗永にとっては忠義を尽くすための戦いであったが、長重にとっては積年の恨みを晴らすための復讐戦でもあったのである。
第二部:大聖寺城、血戦の一日 ― 慶長五年八月三日
合戦に至るまでの前田軍の動向(7月26日~8月2日)
慶長五年七月二十六日、前田利長は徳川家康からの出陣命令に応じ、2万5千と号する大軍を率いて本拠・金沢城を発した 6 。これには、能登七尾城主であった弟の前田利政も軍勢を率いて合流している 19 。彼らの当面の目標は、南加賀に拠る西軍方の山口宗永を討伐し、後顧の憂いを断つことであった。
利長は、丹羽長重が籠る小松城への直接攻撃を避けるという、極めて合理的な判断を下す。小松城は堅城として知られており、これを力攻めにすれば多大な時間と兵力を消耗することは明らかであった 5 。前田軍は小松城を牽制しつつこれを迂回し、南進を続けた 18 。
八月一日、前田軍本隊は大聖寺城の東に位置する松山城に布陣した 18 。ここは高台にあって大聖寺城を一望できる、攻城戦の本陣としては絶好の場所であった。翌八月二日、利長は最後の交渉として、家臣の九里九郎兵衛と村井久左衛門を使者に立て、山口宗永に降伏を勧告した 9 。しかし、豊臣家への忠義に殉じる覚悟を決めていた宗永は、これを毅然として拒絶した。
ここに、両軍の激突は避けられないものとなった。宗永はただちに小松城の丹羽長重や、越前北ノ庄城主の青木一矩に急使を送り援軍を要請したが、前田軍の進軍はあまりに速く、援軍が到着する見込みはなかった 9 。大聖寺城は、孤立無援のまま、圧倒的な大軍を迎え撃つことになったのである。
表1:大聖寺城の戦いにおける両軍の編制比較
この戦いにおける両軍の戦力差は、絶望的と言っても過言ではなかった。その実態を以下の表に示す。
項目 |
東軍(前田軍) |
西軍(山口軍) |
総大将 |
前田利長 |
山口宗永(玄蕃) |
主要武将 |
前田利政、山崎長徳(長鏡)、長連龍、横山長知など |
山口修弘(宗永の嫡男) |
推定兵力 |
約25,000 18 |
約500~1,200 9 |
本陣 |
松山城 18 |
大聖寺城 3 |
戦略目標 |
南加賀の西軍勢力を掃討し、後顧の憂いを断って関ヶ原へ進軍する |
前田軍を可能な限り足止めし、西軍本体の戦略に貢献する |
この20倍以上の兵力差は、この戦いの性質そのものを規定している。山口方にとっては、勝利ではなく、いかに長く持ちこたえ、敵に一矢報いるかが全てであった。一方の前田方にとっては、迅速かつ最小限の損害で勝利することが求められていた。しかし、戦いの現実はその思惑通りには進まなかった。
慶長五年八月三日:合戦のリアルタイム描写
払暁~早朝:城外での前哨戦
八月三日の夜が明けきらぬ頃、戦端は城外で開かれた。城主・山口宗永は籠城による持久戦を主張したが、血気盛んな嫡男・山口修弘(なおひろ)はこれに反対し、城外での奇襲攻撃こそが活路を開くと強く進言した 21 。これは単なる若武者の勇み足ではなかった。圧倒的多数の敵に包囲される前に、その展開途上の先鋒部隊を叩き、緒戦で敵の意表を突いて混乱を生み出すことは、非対称戦における極めて有効な戦術であった。
修弘は手勢を率いて密かに城を出ると、前田軍の進軍路にあたる作見・南郷方面に伏兵を配置し、敵の先鋒を待ち構えた 9 。しかし、前田軍の先鋒大将・山崎長徳(やまざき ながのり、長鏡とも)は歴戦の勇将であり、この動きを看破していた。山崎隊は正面からの突入を避け、下河崎を迂回して修弘の伏兵の側面を突くという巧みな機動を見せる 9 。
不意を突かれた修弘軍であったが、果敢に応戦し、一時は前田軍の先鋒に手痛い損害を与えた。しかし、兵力で勝る前田軍はすぐに態勢を立て直し、鉄砲隊による一斉射撃を浴びせた 9 。この猛射の前に修弘軍はついに崩れ、多大な犠牲を出しながら城内へと撤退を余儀なくされた。この緒戦の敗北により、城兵の数は500余にまで激減したとも伝えられている 12 。
午前~午後:総攻撃と城郭の攻防
城外戦で勝利を収めた前田軍は、その勢いを駆って大聖寺城への総攻撃を開始した。山崎長徳隊や、能登の旧臣である長連龍(ちょう つらたつ)隊などが城の大手口に殺到する 9 。
迎え撃つ大聖寺城は、標高約67メートルの錦城山に築かれた平山城であり、本丸を中心に二の丸、鐘ヶ丸、東丸といった曲輪が巧みに配置され、大規模な土塁と空堀によって堅固に防備されていた 3 。山口方の残存兵は、これらの防御施設を最大限に活用し、死に物狂いの抵抗を試みた。
前田軍は圧倒的な兵力を次々と投入し、城の各所で壮絶な白兵戦が展開された。山口方の兵士たちは一歩も引かず奮戦したが、数の力の前には抗しがたく、外郭の曲輪は一つ、また一つと前田軍の手に落ちていった。
夕刻:降伏の拒絶と落城
日が西に傾き始めた頃、城内の大半が制圧され、宗永はこれ以上の抵抗は無益であると判断した。将兵の命を救うため、彼は城壁の上から前田軍に対し、降伏の意思を伝えた 12 。
戦国時代の合戦において、降伏を受け入れて無用な流血を避けることは珍しいことではなかった。しかし、この時の前田軍の指揮官たちは、その選択をしなかった。緒戦の奇襲と、その後の攻城戦において、彼らが被った損害は予想をはるかに超えるものであった。20倍以上の兵力を持ちながら多大な犠牲を強いられたことに激昂した前田方の諸将は、宗永の降伏勧告を許さず、本丸への総突入を命じたのである 9 。この非情な決断は、戦いが単なる戦略的行動から、面子と意地を賭けた殲滅戦へと変質したことを示している。
日没:将の最期
前田軍の兵士たちが鬨の声をあげて本丸になだれ込む中、山口宗永・修弘父子は最期の時を悟った。『山口軍記』などの記録によれば、宗永は敵将・山崎長徳の家臣である木崎長左衛門を傍に呼び寄せ、「我が首、汝の功名とせよ」と言い放ち、従容として自刃したと伝えられる 12 。
慶長五年八月三日、午後四時頃、大聖寺城はついに落城した。城は猛火に包まれ、その黒煙は天高く立ち上ったという 2 。山口父子の遺骸は、城下の福田橋のたもとに手厚く葬られた 2 。
第三部:戦いの波紋 ― 北陸の関ヶ原、その結末
第一章:大谷吉継の謀略 ― 金沢城急襲の偽報
大聖寺城を攻略した前田利長は、当初の計画通り、さらに軍を南下させ越前国へと進軍した 2 。しかし、その背後では西軍随一の智将・大谷吉継が、戦局を覆すための深謀を巡らせていた。
吉継は、敦賀の自軍が北上して加賀に侵攻し、主力のいなくなった手薄な金沢城を急襲する、という偽の情報を意図的に流布させたのである 6 。この情報は、利長の陣中に瞬く間に広まった。本拠地が危機に晒されるという報に、利長は狼狽した。彼は越前の平定作戦を即座に中断し、全軍を挙げて金沢へ引き返すという苦渋の決断を下さざるを得なかった 5 。
これこそが、大谷吉継の真の狙いであった。吉継の目的は、前田軍と正面から決戦を交えることではなく、謀略によってその進軍を停止させ、関ヶ原の主戦場から引き離し、北陸の地に封じ込めることにあった。そして、その策は見事に成功した。
第二章:浅井畷の死闘 ― 丹羽長重の逆襲
八月八日から九日にかけて、金沢へ向けて急ぎ撤退を開始した2万5千の前田軍。この動きを、小松城に籠る丹羽長重は掌を指すように見抜いていた 28 。彼にとって、積年の宿敵を討つ絶好の機会が到来したのである。
長重は「山口父子の弔い合戦」を大義名分として掲げ、精鋭を率いて小松城から出撃した 7 。彼が戦場に選んだのは、小松城の東方に位置する浅井畷(あさいなわて)であった。畷とは、両側を深田や沼地などに挟まれた、縄のように細い一本道を指す 28 。このような地形では、前田軍が誇る大軍はその利点を全く発揮できず、横に展開することもままならない。長重は、地形を最大限に利用して大軍を無力化するという、完璧な戦術を立てていた。
前田軍の殿(しんがり)を務めていた長連龍の部隊が浅井畷に差し掛かったその時、待ち伏せていた丹羽方の猛将・江口正吉の部隊が側面から猛然と襲いかかった 7 。折悪しく降り続いた雨により、前田軍の鉄砲隊は火縄が湿って用をなさず、戦いは泥濘の中での壮絶な白兵戦となった 7 。
隘路で奇襲を受けた前田軍はたちまち大混乱に陥り、身動きが取れないまま一方的に攻撃されるという惨状を呈した。長連龍隊は壊滅的な打撃を受け、前田軍全体も甚大な損害を被った。総大将の利長自身も命からがら、辛うじて金沢城へと逃げ帰ることに成功したが、この手痛い敗北は彼の心胆を寒からしめた 5 。
第三章:戦略的影響の考察 ― 関ヶ原への道
大聖寺城における山口宗永の頑強な抵抗、大谷吉継の巧みな謀略、そして浅井畷での丹羽長重による痛烈な一撃。この一連の出来事は、前田利長の計画を完全に粉砕した。彼は兵力の再編と、動揺する領内の安定化に時間を費やすことを余儀なくされた。
その結果、徳川本隊を除けば東軍最大級の兵力であった前田軍は、九月十五日の関ヶ原本戦に、ついに間に合うことがなかった 1 。これは、北陸方面における西軍の戦略目標が完璧に達成されたことを意味する。大聖寺城で義に殉じた山口宗永の命、そして丹羽長重の計算され尽くした一撃は、直接的ではないにせよ、関ヶ原の戦局全体に極めて大きな影響を与えたのである。
この北陸での一連の攻防は、個別の戦闘としてではなく、大谷吉継が指揮した一つの統合された戦略作戦として捉えるべきである。山口宗永の犠牲的な防御が「時間」を稼ぎ、吉継の偽報が前田軍撤退の「引き金」となり、そして丹羽長重の奇襲が決定的な「打撃」を与えた。物理的には戦場から離れていた吉継の知略が、兵力で10倍以上も上回る敵軍を事実上無力化したこの戦いは、日本の戦史における非対称戦・謀略戦の傑出した一例として評価されるべきであろう。
結論:歴史に刻まれた義と遺産
大聖寺城と浅井畷の戦いは、勝者である前田家にとって、加賀一国を完全に掌握し、後の加賀藩百万石の泰平の礎を築くための、いわば産みの苦しみであった 1 。この戦功により、利長は徳川家康からの信頼を勝ち取り、徳川幕藩体制下における前田家の不動の地位を確立した。
一方で、戦いに敗れ去った将、山口宗永は、その忠義に厚い生き様と悲劇的な最期によって、地元である加賀市大聖寺において、勝者である前田家以上に敬愛される英雄として語り継がれている 31 。宗永の統治期間はわずか二年であったが、神仏を敬い、寺社の復興に尽力した教養人として、領民から深く親しまれていた 32 。
この事実は、歴史の評価が一様ではないことを示している。前田家という巨大な権力に組み込まれた後も、大聖寺の人々は、豊臣家への忠誠を貫き、地域の独立性のために戦った宗永の姿に、自らの郷土の誇りとアイデンティティを見出したのである。宗永の物語は、大聖寺という町の創生神話となり、軍事的な敗北を、義と名誉における精神的な勝利へと昇華させた。
現在も大聖寺の地には、宗永の首塚や供養碑が大切に保存され、毎年「玄蕃供養祭」が営まれている 31 。これは、天下の趨勢を決める大きな歴史の流れの中で、自らが信じる「義」を命を賭して貫き通した一人の武将の生き様が、単純な勝敗の理屈を超えて、四百年の時を経た今もなお人々の記憶に深く刻まれていることの何よりの証左である。本報告書が、この知られざる北陸の激闘の全貌を明らかにすることで、その歴史的価値を再評価する一助となれば幸いである。
引用文献
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- 関ヶ原の戦いの前哨戦が大聖寺でありました | げんば堂 通販サイト https://genbado.raku-uru.jp/fr/6
- 丹羽長重と北陸の関ケ原・浅井畷の戦い | WEB歴史街道|人間を ... https://rekishikaido.php.co.jp/detail/5031
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- 【大聖寺藩の歴史~その4~】前編 - Readyfor https://readyfor.jp/projects/sankinkoutai2019walk/announcements/91610
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- 山口玄蕃の首塚 - 大聖寺十万石の城下町 https://www.daisyoji.com/%E8%A6%B3%E5%85%89%E3%81%AE%E6%83%85%E5%A0%B1/%E7%A5%9E%E7%A4%BE-%E4%BB%8F%E9%96%A3-%E5%8F%B2%E8%B7%A1/%E5%B1%B1%E5%8F%A3%E7%8E%84%E8%95%83%E3%81%AE%E9%A6%96%E5%A1%9A/
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