最終更新日 2025-08-28

天正伊賀の乱(第一次・1579)

天正七年 第一次伊賀侵攻戦詳報 ― 織田信雄の蹉跌と伊賀惣国一揆の抵抗

序章:独立国家「伊賀惣国一揆」の実像

天正七年(1579年)に勃発した第一次天正伊賀の乱は、単なる一地方の領土紛争として捉えることはできない。この戦いの本質を理解するためには、まずその舞台となった伊賀国が、戦国時代の日本においていかに特異な存在であったかを解明する必要がある。織田信長が推し進める「天下布武」、すなわち中央集権的な統一国家の創出という時代の大きな潮流に対し、伊賀は全く異なる統治理念を掲げる独立共同体であった。この両者の対立こそが、合戦の根底に流れる最も重要なテーマである。

伊賀の地理的・歴史的特異性

伊賀国は、四方を険しい山々に囲まれた盆地であり、その地形自体が天然の要害をなしていた 1 。この地理的条件は、外部からの大規模な軍事侵攻を物理的に困難にし、中央権力の直接的な支配が及びにくい環境を生み出した。歴史的にも、伊賀は鎌倉時代後期まで大和国の東大寺の荘園として管理されており、守護大名による強力な領国支配を経験してこなかった 2 。こうした背景から、伊賀の人々の間には、外部の権力に与せず、自らの手で土地と生活を守るという気風が強く醸成されていった。

地侍による共和制「伊賀惣国一揆」

伊賀の統治体制は、戦国時代の日本では極めて稀有な形態をとっていた。特定の守護大名や戦国大名を国主として戴くことなく、国内の国人や地侍と呼ばれる在地領主たちが連合体を形成し、合議によって国を運営する「伊賀惣国一揆」と呼ばれる自治共同体を確立していたのである 2 。この体制は、一種の共和制とも評されるもので、伊賀上野の平楽寺などで開かれる評定(合議)には、国内の有力者から選ばれた「十二人評定衆」などが参加し、国全体の意思決定を行っていた 1

この自治共同体の結束を支えていたのが、「惣国一揆掟之事」として知られる厳格な掟であった。現存する史料によれば、他国勢力が侵入した際には、国全体が一味同心して防戦にあたること、里々の鐘を合図として17歳から50歳までの男子は即座に出陣する義務を負うこと、他国と内通した者は一族郎党に至るまで処罰し、その所領を没収することなどが定められていた 7 。これにより、伊賀国は平時においては地侍たちの連合体でありながら、有事の際には国全体が一個の強固な軍事組織として機能する体制を整えていた。

織田信長「天下布武」との思想的対立

織田信長が掲げた「天下布武」の理念は、強力な中央権力の下に日本全土を統一し、安定した秩序を再構築することを目指すものであった。この構想にとって、伊賀惣国一揆のような、中央の支配を拒み独自の自治を維持する共同体の存在は、単なる領土的な空白地帯である以上に、その統治理念そのものと相容れないものであった 3 。信長から見れば、伊賀の独立は天下統一事業における許されざる例外であり、その平定は、単に領土を拡大するという軍事的な目的を超えて、自らが構築しようとする新しい国家秩序を貫徹するための、いわば思想的な統一事業の一環であった。

したがって、天正伊賀の乱は、織田家という中央集権を目指す新興勢力と、伊賀惣国一揆という中世以来の地域主権に基づく自治共同体との、根本的なイデオロギーの衝突であったと言える。伊賀の地侍たちが後に見せる織田軍への激しい抵抗は、単に土地や財産を守るための戦いではなく、彼らが長年にわたって築き上げてきた政治体制、生活様式、そして誇りそのものを守るための、まさに存亡をかけた戦いであったのである。

第一章:導火線 ― 丸山城の修築と伊賀衆の蜂起(天正六年)

織田信雄による本格的な伊賀侵攻が開始される天正七年より一年早く、戦いの火種はすでに燻り始めていた。伊賀国掌握への野心を燃やす信雄と、その動きを鋭敏に察知した伊賀衆との間で繰り広げられた前哨戦は、来るべき大戦の序章であった。

織田信雄の台頭と伊賀への野心

天正四年(1576年)、織田信長の次男である信雄は、伊勢国の名門北畠家の養子となり、いわゆる「三瀬の変」によって北畠一族の主力を粛清し、伊勢国の大半を事実上その手中に収めた 2 。これにより、信雄は織田家の中でも一大勢力を率いる有力な将帥としての地位を確立する。彼の次なる目標が、伊勢の隣国でありながら織田の支配を頑なに拒み続ける伊賀国に向けられたのは、自然な成り行きであった。

信雄の野心を後押しする出来事が起こる。伊賀の国人領主の一人である日奈知城主・下山平兵衛が信雄のもとを訪れ、伊賀の内情を密告するとともに、侵攻の手引きを申し出たのである 2 。鉄の結束を誇ると見られていた伊賀惣国一揆の内部にも、織田の威勢に靡く者が存在したという事実は、信雄に伊賀攻略の好機到来と判断させるに十分であった。

橋頭堡としての丸山城

下山平兵衛からの手引きを受け、信雄は伊賀侵攻計画を具体化させる。その第一歩として、伊賀国内に確固たる軍事拠点を確保することが急務であった。信雄が着目したのが、かつて伊勢国司であった北畠具教が築城を試みたものの、途中で放棄されていた丸山城(現在の三重県伊賀市)であった 9

信雄は家臣の滝川雄利に命じ、この丸山城の修築を開始させる 2 。この城は伊賀盆地のほぼ中央に位置しており、完成すれば伊賀全域を監視し、制圧するための絶好の橋頭堡となりうる戦略的に極めて重要な拠点であった 11 。信雄の狙いは、まずこの城を完成させることで伊賀国内に楔を打ち込み、そこを足掛かりとして段階的に伊賀全土を制圧することにあったと考えられる。

伊賀衆の先制攻撃

しかし、信雄と滝川雄利の動きは、伊賀衆の優れた情報網によって即座に察知される 2 。彼らは、丸山城が完成した際の戦略的な脅威を正確に理解していた。地侍たちの集会所であった無量寿福寺などで開かれた評定において、伊賀衆は「城が完成する前に総攻撃を仕掛ける」という迅速かつ果断な決定を下す 11

この決議は、伊賀衆の防衛体制が単なる受動的なものではないことを示している。彼らは敵の戦略的意図、すなわち橋頭堡の確保という狙いを的確に見抜き、その計画が具現化して脅威が現実のものとなる前に、その根源を叩くという極めて高度な戦略眼に基づいた先制攻撃を選択した。これは、伊賀惣国一揆が単なる地侍の寄り合いではなく、有事において迅速な情報収集、的確な情勢判断、そして統一された軍事行動が可能な、実効性の高い統治・防衛システムであったことを明確に証明している。

天正六年(1578年)、決議通り伊賀衆は丸山城の修築部隊に奇襲を敢行。不意を突かれた滝川雄利らはなすすべもなく伊勢へと敗走し、信雄による最初の伊賀攻略の試みは、城が完成を見ることなく頓挫した 2 。この出来事は、後に「第一次天正伊賀の乱」と呼ばれる本格的な衝突の、事実上の前哨戦となったのである。

第二章:信雄、独断の侵攻 ― 第一次天正伊賀の乱、開戦(天正七年九月)

前年の丸山城における手痛い失敗は、織田信雄の伊賀に対する執着を断ち切るどころか、むしろその野心に火を注ぐ結果となった。しかし、雪辱を期して彼が起こした次なる軍事行動は、天下人である父・織田信長の意向を完全に無視した、あまりにも無謀かつ危険な独断専行であった。

信長の許可なき出兵

天正七年(1579年)九月、信雄は父・信長に一切の相談なく、伊賀への再侵攻を断行する 10 。この無謀な決断の背景には、いくつかの要因が考えられる。一つには、前年の敗退の雪辱を果たし、手近な伊賀で手柄を立てることで、偉大な父に自らの力量を認めさせたいという、若さ故の功名心があったであろう。また、後の信長からの叱責状の内容から推察するに、当時信長が計画していた遠方への戦役への参加を免れるための口実として、伊賀攻めを利用しようとした側面もあったと見られる 14 。さらに、信雄自身の判断力の甘さに加え、周囲の家臣団からの進言に流されやすいという彼の性格も、この独断専行を後押しした可能性が高い 14

織田軍の編成と侵攻計画

信雄が動員した兵力は、諸記録によれば一万余とされ、伊賀側の推定兵力である千数百名を数において圧倒していた 12 。この圧倒的な兵力差が、信雄に勝利を確信させ、独断での出兵へと踏み切らせた大きな要因であったことは間違いない。

信雄は、この大軍を三手に分け、複数の経路から同時に伊賀国内へ侵攻するという、包囲殲滅を意図した作戦を立てた。その具体的な編成は以下の通りであったとされる 15

  • 伊勢地口(青山峠)方面軍: 長野左京太夫ら 約1,300名
  • 阿波口(長野峠)方面軍: 柘植三郎兵衛(保重)ら 約1,500名
  • 布引口(鬼瘤峠)方面軍: 織田信雄本隊 約8,000名

この作戦計画は、一見すると理に適ったものであった。しかし、それは相手が特定の拠点に籠る、あるいは平地で決戦に応じるという、従来の戦国時代の合戦の常識を前提としたものであった。信雄は、伊賀を「指導者のいない烏合の衆」と侮り、数で圧すれば容易に屈服させられると考えていた節がある。

だが、伊賀の強みはまさにその「特定の指導者がいない」分散型の防衛網にあった。信雄が率いるような、総大将を頂点とするトップダウン型のピラミッド型指揮系統は、伊賀の各地域の国人が自律的に判断して迎撃する、ボトムアップ型のネットワーク型防衛システムの前に、その柔軟性を欠き、各個撃破される脆弱性を内包していた。敵の組織構造を理解せず、自軍のシステムと兵力数のみを過信したこと、これこそが信雄の作戦計画における最大の誤算であり、組織構造と思想の違いが勝敗を分けることになる根本的な要因であった。


表1:第一次天正伊賀の乱 両軍戦力比較

項目

織田信雄軍

伊賀惣国一揆軍

総大将

織田信雄

(特定の総大将は存在せず)百地丹波、植田光次ら十二人評定衆による合議制指導 16

主要武将

柘植保重、長野左京太夫、日置大膳亮、滝川雄利 15

滝三河守保義、その他伊賀国人衆 18

推定兵力

約10,000 - 12,000名 12

約1,500名 16

侵攻経路

伊勢地口、阿波口、布引口からの三方面侵攻 15

国内の城砦や山間部に分散配置し、侵攻路で迎撃 8

戦術思想

大軍による正攻法、平地での決戦を想定

地の利を活かしたゲリラ戦、奇襲、夜襲 8

兵士の士気

功名心、命令による動員

郷土防衛、自治独立の維持という高い目的意識


第三章:合戦詳報 ― 伊賀の地勢とゲリラ戦術の猛威(天正七年九月十六日~十七日)

開戦の火蓋が切られると、戦場の様相は織田信雄の楽観的な予測を根底から覆すものとなった。伊賀の険しい地形と、それを知り尽くした伊賀衆が繰り広げる変幻自在のゲリラ戦術の前に、数に勝る織田軍は瞬く間に翻弄され、崩壊への道を突き進むことになる。ここでは、合戦の推移を時系列に沿って詳細に再現する。


表2:合戦経過の時系列表(天正七年九月十六日~十八日)

日付

織田軍の動向

伊賀衆の動向

主要な出来事

九月十六日

信雄、伊勢松ヶ島城を出陣。一万余の軍勢で伊賀国境へ進軍。三方面から侵攻を開始 15

惣国一揆の掟に基づき、鐘を合図に各地の地侍・忍びが動員される。侵攻路の要衝で迎撃態勢を固める 7

第一次天正伊賀の乱、開戦。

九月十七日

信雄本隊が日置坂方面へ進軍。各部隊も伊賀国内へ深く侵入しようと試みる 15

日置坂などで織田軍本隊を奇襲。山陰からの鉄砲・弓による攻撃や伏兵で混乱に陥れる 8

日置坂の戦い 。織田軍各所で苦戦。

同日夕刻

阿波口方面軍が榊原付近で伊賀衆と激突。

滝三河守保義らが柘植保重隊と交戦。

重臣・柘植保重、討死 15

九月十八日

指揮系統が混乱し、全軍敗走。信雄は僅かな供回りと共に伊勢松ヶ島城へ逃げ帰る 15

敗走する織田軍を追撃。

織田軍の組織的抵抗が終焉。信雄、惨敗。


九月十六日:侵攻開始

天正七年九月十六日、織田信雄率いる一万余の大軍は、居城である伊勢松ヶ島城を出陣し、計画通り三つの峠越えルートから伊賀国内へと雪崩れ込んだ 15 。彼らの眼前に広がる伊賀の山々は、これから始まる悪夢を予感させるかのように静まり返っていた。

その静寂を破ったのは、伊賀の村々に響き渡る鐘の音であった。かねてからの「惣国一揆掟之事」の定めに従い、国境の村々が敵の侵入を鐘で全土に伝達したのである 7 。その音を合図に、田畑を耕していた農民は武器を手に取り、各地の地侍たちは手勢を率いて、予め定められた防衛地点へと集結を開始した。伊賀全土が、瞬時にして巨大な要塞へと姿を変えた瞬間であった。

九月十七日:日置坂の戦いとゲリラ戦の展開

翌十七日、信雄率いる8,000の本隊が伊賀北部の隘路である 日置坂 に差し掛かった時、戦端は開かれた 15 。待ち構えていた伊賀衆は、織田軍に対して奇襲攻撃を仕掛けた。

彼らの戦術は、単なる闇雲な奇襲ではなかった。それは、「敵の強み(兵力数と組織力)を無力化し、自らの強み(地の利と個々の戦闘技術)を最大化する」という、非対称戦の原則に則った極めて合理的なものであった。伊賀衆は、大軍がその威力を発揮できる平地での正面衝突を巧みに避け、大軍であることが逆に統制を困難にし、足枷となる山岳地帯へと敵を誘い込んだのである 8

  • 一撃離脱戦法: 伊賀衆は、山中の木々や岩陰に身を潜め、織田軍の隊列が狭い道で伸びきったところを狙い、側面から鉄砲や弓矢による一斉射撃を加えた。織田軍が混乱し、反撃の態勢を整えようとする頃には、彼らはすでに姿を消していた 8
  • 地の利の活用: 織田軍の兵士たちが不慣れな山道で進軍に難渋する一方、伊賀衆は獣道同然の裏道を駆使して自在に移動し、神出鬼没に敵の側面や背後を突き、混乱を増幅させた。

織田軍の兵士たちは、どこから攻撃されるかわからない恐怖と、姿なき敵へのいら立ちから、次第に士気を失っていった。密集陣形を組んで戦うことに長けた織田の兵制は、このような戦場では全く機能しなかった。

同日:重臣・柘植保重の最期

信雄の本隊が日置坂で苦戦を強いられている頃、別の戦線でも織田軍は深刻な事態に直面していた。阿波口から侵攻した別働隊を率いていた信雄の重臣・柘植保重(三郎兵衛)は、榊原(現在の伊賀市)付近で、伊賀の将・滝三河守保義が率いる部隊と遭遇し、激戦となった 15

この戦いで、勇猛で知られた柘植保重は、伊賀方の植田光次によって討ち取られたと伝えられている 17 。一説には、保重を討ったのは滝三河守保義であったともされる 18 。いずれにせよ、この方面軍の指揮官であり、織田軍の有力武将であった保重の戦死は、織田軍全体の士気に致命的な打撃を与え、指揮系統に深刻な混乱をもたらした 2 。この戦いは、伊賀衆の巧みな戦術がもたらした必然的な結果であり、織田軍の敗北を決定づける象徴的な出来事となった。なお、保重を討ったとされる滝保義もこの戦いで命を落とし、その菩提は実弟によって滝仙寺で弔われたと記録されている 18

第四章:織田軍の潰走と伊賀衆の勝利(天正七年九月十八日以降)

開戦からわずか二日、戦局は伊賀衆の圧倒的優位のうちに決した。各所で仕掛けられる奇襲と、重臣の戦死という衝撃的な報せは、織田軍の組織的な抵抗力を完全に奪い去り、戦いは一方的な追撃戦の様相を呈していく。

指揮系統の麻痺と敗走

日置坂での奇襲、そして柘植保重の戦死という報が各部隊に伝わると、織田軍の士気は完全に崩壊した。兵士たちは統制を失い、我先に逃げ出そうとパニック状態に陥った。総大将である織田信雄には、この危機的状況を収拾し、部隊を再編して反撃に転じるだけの将器も経験もなかった。彼の存在は、むしろ混乱を助長するだけであった。

この結末は、総大将の器量が組織の危機対応能力、すなわち粘り強さや回復力をいかに左右するかを如実に物語っている。信雄の個人的な未熟さとリーダーシップの欠如が、軍全体の脆さに直結したのである。予期せぬ損害や重臣の死といった危機に直面した際、兵士たちは指揮官の冷静な判断と断固たる指導力に依存する。しかし、信雄自身が早々に戦意を喪失し、戦線を離脱したことで 15 、兵士たちは戦い続ける意味と希望を失い、組織的な抵抗は完全に潰え、雪崩を打ったような潰走へとつながった。

伊勢松ヶ島城への逃避行

九月十八日、信雄はわずかな供回りとともに、ほうほうの体で居城である伊勢松ヶ島城へと逃げ帰った 15 。華々しい武功を夢見て伊賀へ侵攻してから、わずか三日足らずでの惨憺たる敗北であった。この戦いで信雄は多くの兵を失い、彼の威信は地に堕ち、伊賀国攻略は完全な失敗に終わった 2

伊賀国内の戦後処理

勝利を確信した伊賀衆は、敗走する織田軍に追撃をかけ、さらなる打撃を与えた。戦いが終わると、惣国一揆の厳しい掟が執行される。織田方に内通し、この侵攻の手引きをした下山甲斐守(平兵衛)は、縁者であった新坊が伊賀衆によって殺害された後、責任を問われ自害に追い込まれた 15 。これは、裏切り者に対しては徹底した制裁を加えるという、伊賀惣国一揆の結束を維持するための非情な掟が、戦後処理においても厳格に適用されたことを示している。伊賀衆は、外部の敵を打ち破ると同時に、内部の結束を再確認することで、この歴史的な勝利を締めくくったのである。

終章:信長の激怒と第二次侵攻への序曲

織田信雄の惨敗は、単なる一地方における戦術的な失敗では終わらなかった。それは、天下人・織田信長の逆鱗に触れ、伊賀の地の運命を決定づける、より大規模で悲劇的な戦いへの序曲となったのである。

京での敗報と信長の反応

当時、京に滞在していた信長のもとに、信雄の独断専行と伊賀での大敗という報せが届いた時、彼は激怒したと伝えられている 13 。その怒りは、単に息子が戦に負けたことに対するものではなかった。当時、破竹の勢いで天下統一事業を進めていた織田家の威信が、取るに足らない小国と見なしていた伊賀の地侍たちによって、公衆の面前で著しく傷つけられたことに対するものであった 8

信長の怒りは、単なる感情的な反応と片付けることはできない。それは、戦国時代において「評判」という無形の戦略資源がいかに重要であったかを物語っている。当時の日本は、毛利、上杉、そしてまだ健在であった武田といった複数の大勢力が睨み合う多極体制にあった。この状況下で、天下統一を目前にする織田家が「伊賀ごときに大敗を喫した」という評判が広まれば、それは織田家の軍事力に対する疑念を生み、敵対勢力を勇気づけ、同盟関係にある勢力を動揺させる危険性を孕んでいた 11 。信長にとって、この敗北は自らの威光に泥を塗る、看過できない失態であった。

信雄への叱責状:「言語道断曲事」

信長は信雄に対し、その怒りを込めた厳しい内容の叱責状を送付した。この手紙は『信長公記』にその全文が記録されており、信長の信雄に対する評価と、父親としての一面をうかがい知ることができる貴重な史料となっている 22

手紙の中で信長は、まず「言語道断曲事の次第に候(言語道断のけしからん次第である)」と、息子の行動を切り捨てた 21 。そして、「日頃の行いの悪さが招いた因果応報だ」「家臣の意見に安易に流されるな」と信雄の資質そのものを厳しく問い、「次にこのような過ちを犯せば、親子の縁を切る」とまで言い放っている 14 。しかし、その一方で「今回の失敗は若さ故のものだから、次から気をつけよ」と、再起を促すような一文も含まれており、突き放すだけではない、父としての複雑な心情も垣間見える 14

第一次合戦の歴史的意義と第二次侵攻への連鎖

伊賀衆にとって、この勝利は彼らの自治と独立を守り抜いた、輝かしい成功体験であった。しかし皮肉なことに、その勝利こそが、彼らの運命をより過酷なものへと導くことになる。信長のプライドを深く傷つけたこの一戦は、彼に伊賀の完全なる殲滅を決意させる決定的な要因となった。

信長は、この屈辱的な敗北を挽回するため、他の戦役の予定を変更してでも、伊賀攻略を最優先事項として位置づけた 8 。第一次の敗北がなければ、伊賀平定は他の多くの地域と同様、服属を促す形で行われたかもしれない。しかし、信雄の敗北は、第二次侵攻を単なる征服戦から、織田家の威信回復と天下への見せしめを目的とした「殲滅戦」へと変質させた。信長にとって、伊賀の徹底的な破壊は、伊賀一国への報復に留まらず、全天下に対して「織田家への挑戦がいかに高くつくか」という強力なメッセージを発信する、高度な戦略的コミュニケーションであった。

こうして、第一次天正伊賀の乱の終結から二年後の天正九年(1581年)、信長は自らが総力を挙げ、数万とも言われる空前の大軍を組織し、伊賀国を文字通り根絶やしにする「第二次天正伊賀の乱」を引き起こす。第一次の勝利は、伊賀にとって、より大きな悲劇への序曲に過ぎなかったのである 5

引用文献

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  2. 天正伊賀の乱古戦場:三重県/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/dtl/tenshoiga/
  3. 伊賀北部の国人(地侍)たちは,侵入してきた約2万人の織田軍に苦 - 名張市 https://www.city.nabari.lg.jp/s059/030/060/030/020/239004900-nabarigaku035.pdf
  4. 惣国一揆 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%83%A3%E5%9B%BD%E4%B8%80%E6%8F%86
  5. 「伊賀忍者」たちは戦国時代”自治共和体制”を形成し独自の生き抜き方を模索した - 歴史人 https://www.rekishijin.com/31678
  6. 伊賀惣国一揆 - 伊賀流忍者博物館 https://iganinja.jp/2007/12/post-42.html
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  8. 天正伊賀の乱/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/52412/
  9. 丸山城 - 城びと https://shirobito.jp/castle/1745
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  11. 天正伊賀の乱/古戦場|ホームメイト https://www.touken-collection-kuwana.jp/mie-gifu-kosenjo/tensyoiganoran-kosenjo/
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  13. 信長の次男・織田信雄が辿った生涯|長いものに巻かれ続ける、父 ... https://serai.jp/hobby/1130528/2
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