天正伊賀の乱(第二次・1581)
天正九年 伊賀惣国一揆の終焉 ―第二次天正伊賀の乱・殲滅戦の全貌―
序章:独立国家・伊賀の実像
戦国時代の日本において、伊賀国(現在の三重県西部)は極めて特異な政治体制を維持していた地域であった。室町幕府が任命した守護・仁木氏の権威は早くに失墜し、国内から特定の戦国大名が台頭することもなかった 1 。この権力の空白地帯において、伊賀の地侍たちは自らの所領と共同体を守るため、「伊賀惣国一揆(いがそうこくいっき)」と呼ばれる一種の自治共和制統治システムを構築していた 3 。
この体制は、伊賀国内に点在する荘園から選出された12名の評定衆(ひょうじょうしゅう)による合議制によって運営されていた 6 。重要事項は回文(かいもん)や連判状(れんぱんじょう)を用いて決定され、意見が対立した際には「入れ札(いれふだ)」、すなわち選挙によって決議がなされたという記録も残る 6 。これは、特定の個人に権力が集中することを避け、地侍たちの水平的な連合によって国家の意思決定を行う、中世的な共和制共同体であった 4 。
「惣国一揆掟之事」として知られる史料には、この共同体の軍事的な性格が明確に示されている。他国勢力が侵入した際には国全体で団結して防戦にあたること、侵攻の報があれば里々の鐘を鳴らして直ちに出陣すること、17歳から50歳までの男子には出陣義務があることなど、厳格な掟が定められていた 3 。伊賀の地侍たちは、普段は農工商に従事しつつも、午後は武芸の鍛錬に励み、住居の周りには深い濠や土塁を築いて要塞化するなど、常に臨戦態勢にあった 6 。こうした独自の風土の中で、奇襲や情報収集、攪乱といったゲリラ戦術、すなわち後の「忍術」へと繋がる特殊な戦闘技術が育まれていったのである 10 。
この伊賀の統治体制は、天下布武を掲げ、強力な中央集権体制の確立を目指す織田信長にとって、単なる一地方勢力以上の意味を持っていた。信長の目指す秩序が、自身を頂点とする垂直的で均質な支配構造であるのに対し、伊賀のそれは地侍たちの合議による水平的で分権的な自治構造であった。伊賀という「無主の国」 12 の存在そのものが、信長の天下統一事業に対するイデオロギー的な挑戦であり、その支配の普遍性を揺るがしかねない危険な前例であった。したがって、信長が伊賀に目を向けた時、それは単なる領土拡大ではなく、自らの秩序と相容れない異質な政治体制を根絶するための戦いの始まりを意味していたのである。
第一章:遺恨の序曲 ―第一次天正伊賀の乱―
第二次天正伊賀の乱という未曾有の殲滅戦の直接的な引き金となったのは、その2年前に起こった織田軍の歴史的な惨敗であった。天正6年(1578年)、織田信長の次男であり、伊勢の名門・北畠家の養子となっていた織田信雄(きたばたけ のぶかつ)は、旧北畠領の完全掌握と伊賀への影響力拡大を狙い、伊賀国との国境に位置する丸山城の修築を家臣の滝川三郎兵衛に命じた 13 。
しかし、この動きは伊賀衆の警戒心を強く刺激した。彼らはこれを織田家による侵略の布石とみなし、団結して城の建設を妨害、関係者を伊勢へと追い返した 13 。自らの威信を傷つけられた信雄は、天正7年(1579年)9月、父・信長に無断で約1万の軍勢を動員し、伊賀への侵攻を強行した 15 。これは若き武将の功名心と焦りが引き起こした、致命的な判断ミスであった。
伊賀衆は信雄軍の侵攻を事前に察知しており、万全の迎撃態勢を整えていた 15 。地の利を熟知した彼らは、平地での決戦を避け、山間部に誘い込んだ織田軍に対して巧みなゲリラ戦を展開した 10 。伊賀衆は山陰からの奇襲や鉄砲による狙撃を繰り返し、織田軍を大混乱に陥れた。結果、信雄軍は為すすべもなく大敗を喫し、重臣の柘植三郎左衛門保重(つげ さぶろうざえもん やすしげ)が討死するなど、甚大な損害を出して伊勢松ヶ島城へと敗走した 1 。
この知らせは、信長の逆鱗に触れた。息子の独断専行と、天下に覇を唱える織田軍が小国の地侍ごときに完膚なきまでに打ち破られたという事実は、信長にとって許し難い屈辱であった。『信長公記』には、この時の信長の怒りを「言語道断曲事の次第に候」と記しており、信雄に対して「親子の縁を切る」とまで言明した勘当状を送ったと伝えられている 9 。
この敗北は、単なる一軍事作戦の失敗ではなかった。当時、破竹の勢いで勢力を拡大していた織田家にとって、その「不敗神話」に泥を塗るものであり、他の反織田勢力を勇気づけかねない重大な「政治的敗北」であった 10 。信長にとって、この失墜した威信を回復し、「織田家に刃向かう者がどのような運命を辿るか」を天下に示す必要があった。しかし、当時は石山本願寺との十年戦争が最終局面を迎えており、伊賀に大軍を差し向ける余裕はなかった 18 。この2年間の空白期間は、信長の伊賀に対する憎悪を増幅させ、後の第二次侵攻における情け容赦のない徹底的な殲滅作戦へと繋がっていくのである。
第二章:焦土作戦 ―信長、伊賀侵攻の刻―
侵攻前夜:周到なる準備
天正9年(1581年)、宿敵であった石山本願寺を屈服させ、畿内における支配を盤石なものとした織田信長は、満を持して伊賀への復讐戦に乗り出した。第一次の失敗を徹底的に分析した信長は、伊賀衆得意のゲリラ戦を完全に封殺し、逃げ場を与えずに殲滅するための周到な作戦を立案した。
その規模は、戦国時代の合戦史上でも類を見ないものであった。総兵力は4万数千から5万に達し、当時の伊賀国の総人口(推定9万人)の半数に匹敵する大軍であった 6 。これは、単なる制圧ではなく、国家そのものを抹殺しようとする信長の強い意志の表れであった。
作戦の核心は、伊賀国を完全に包囲し、四方八方から同時に侵攻する「包囲殲滅作戦」にあった 21 。これにより、伊賀衆は戦力を集中させることができず、各地で分断され、各個撃破される運命にあった。信長は、織田家の方面軍司令官クラスの重臣を惜しげもなく投入し、伊賀国を地図から消し去るかのような布陣を敷いたのである。
【表1】第二次天正伊賀の乱 織田軍侵攻部隊一覧
侵攻路 |
総大将/主要武将 |
兵力 (推定) |
伊勢口 (加太口) |
織田信雄、滝川一益、織田信包、滝川雄利 |
約10,000 |
柘植口 |
丹羽長秀、滝川一益の与力 |
約14,000 |
甲賀口 (信楽口) |
蒲生氏郷、堀秀政、甲賀衆 |
約9,300 |
大和口 (笠間口) |
筒井順慶、大和衆 |
約3,700 |
多羅尾口 |
堀秀政 |
(甲賀口部隊に含む) |
初瀬名張口 |
浅野長政 |
約10,000 |
総計 |
|
約47,000 |
(出典: 1 )
伊賀衆もこの動きを察知し、評定を開いた。「義をすて降を乞うことは父祖の名を汚すもの」として、国を挙げての徹底抗戦を決議した 20 。しかし、彼我の戦力差は「九牛に一毛」であり、その先に待つ運命はあまりにも過酷であった。
天正九年九月三日:作戦開始
『信長公記』や奈良興福寺の僧侶による日記『多聞院日記』によれば、天正9年9月3日、織田軍の各部隊は示し合わせたように、それぞれの持ち場から伊賀国への侵攻を開始した 15 。伊賀の空は、四方から押し寄せる大軍の土煙に覆われ、静かな盆地の国は一瞬にして戦火に包まれた。
九月四日~八日:北伊賀の蹂躙
侵攻は、東から西へと進む巨大なローラーが大地を押し潰していくかのように進められた 15 。特に兵力の厚い北伊賀方面では、織田軍の圧倒的な物量の前に、伊賀衆の城砦は次々と陥落していった。
9月4日、総大将である織田信雄は御代河原に本陣を構えた。甲賀口から侵攻した蒲生氏郷・堀秀政の部隊と合流し、壬生野城や佐那具(さなぐ)方面へと進撃した 24 。『多聞院日記』には同日の記録として、「伊賀の様裏返衆少々、過半落居(いがのようす うらがえりしゅう しょうしょう、かはんらくきょ)」とあり、早くも織田方に寝返る者が現れ、大勢が織田有利に傾きつつあったことが記されている 24 。伊賀衆の抵抗は散発的で、組織的な防衛線を構築することはもはや不可能であった。
九月九日~十五日:最大の激戦地・比自山城
北伊賀の地侍たちは、最後の望みを託し、伊賀北部で最大規模の山城である比自山城(ひじやまじょう)に集結した 19 。比自山は元々観音寺という寺院があった場所で、これを核として急ごしらえの要塞が築かれていた 17 。籠城した兵力は一族郎党を含めて3,000から3,500、女子供などの非戦闘員を合わせると1万近くに達したとも言われる 17 。
これに対し、織田軍は蒲生氏郷、堀秀政、そして大和口から進軍してきた筒井順慶の連合軍が城を幾重にも包囲した 25 。連日、織田軍による猛攻が加えられたが、比自山城は天然の要害であり、伊賀衆は必死の防戦を繰り広げた。織田軍はなかなか城を攻め落とすことができず、戦況は膠着した 17 。
しかし、兵糧は尽きかけ、織田軍の新たな援軍が迫っているとの情報が城内にもたらされると、伊賀衆は玉砕を避け、夜陰に乗じての脱出を決断する 10 。彼らは最後の策として、夜間に普段より多くのかがり火を焚き、無数の旗を立てて城内に大軍が残っているかのように偽装した 10 。この陽動作戦に織田軍の警戒が向いている隙に、伊賀衆は険しい裏山から闇に紛れて脱出に成功した。翌朝、織田軍が城内に突入した時、そこはもぬけの殻であった 17 。この脱出劇は、伊賀忍びの面目躍如たる戦術的成功であったが、もはや戦局全体を覆す力は残されていなかった。
九月中旬~下旬:最後の砦・柏原城
比自山城を脱出した者たちを含む伊賀衆の残存兵力は、伊賀南部に位置する柏原城(かしわばらじょう)に集結した。その数、約1,600から2,000 10 。ここが、伊賀惣国一揆にとって最後の組織的抵抗の拠点となった 19 。
柏原城は深い堀と鬱蒼とした林に囲まれた堅城であった 10 。伊賀衆はこの地形を最大限に活用し、攻め寄せる織田軍の姿を林の間から一方的に視認し、弓や鉄砲で狙い撃ちにした 10 。信雄軍は多大な死傷者を出し、力攻めでの攻略を断念せざるを得なかった。
業を煮やした信雄は、戦術を兵糧攻めに切り替えた。伊賀衆は陣屋への火計や夜襲を仕掛けるなど、得意の戦法で抵抗を続けたが、兵力に余裕のある織田軍は動じなかった 10 。城内の兵糧が尽き、絶望的な状況に追い込まれる中、最終的に奈良の猿楽師・大倉五郎次の仲介によって和睦が成立し、城は開城された 10 。天正9年9月末、伊賀衆の組織的な抵抗は、ここに終焉を迎えた。
九月下旬:伊賀全土の制圧と焦土化
組織的抵抗が潰えた後、伊賀国は織田軍による徹底的な残党狩りと破壊の対象となった。9月10日の『信長公記』には、「国中の伽藍、一之宮社頭初として悉く放火」と記されており、伊賀一宮である敢国神社(あえくにじんじゃ)をはじめとする寺社仏閣がことごとく焼き払われたことがわかる 24 。これは、伊賀の人々の精神的な支柱をも破壊しようとする、容赦のない焦土作戦であった。
その惨状は、『多聞院日記』や『蓮成院記録』といった同時代の記録に生々しく記されている。特に筒井順慶の部隊による掃討戦は凄惨を極めた。山中に隠れた者や降伏した者たちを捜し出し、老若男女の区別なく捕らえては首を刎ねた。その数は日に数百に及び、「三、五日中は言語道断浅間敷き次第なり(さんごにちちゅうは ごんごどうだん あさましきしだいなり)」と、その記録者はあまりの惨さに筆を尽くせぬと嘆いている 24 。伊賀国は文字通り血の海と化し、焦土と化したのである 11 。
第三章:戦後の秩序と遺された者たち
十月九日~十二日:信長の伊賀巡察
伊賀平定の報告を受けた織田信長は、天正9年10月9日、自らその戦果を検分するために伊賀国へと足を踏み入れた 24 。甲賀郡の飯道寺(はんどうじ)に一泊した信長は、翌10日、国見山に登り、眼下に広がる焦土と化した伊賀の地を見下ろしたという 24 。それは、自らの絶対的な権力に抗った者たちの末路をその目に焼き付けるための、勝利の儀式であった。
しかし、伊賀衆の抵抗の炎は完全には消えていなかった。信長が伊賀国内を巡察している最中、山中から数発の銃弾が撃ち込まれるという狙撃事件が発生した 20 。弾は幸いにも信長には当たらず、側近が負傷するに留まったが、この事件は伊賀の人々の織田家に対する深い怨恨と、決して屈しない抵抗精神を象徴する出来事であった。
伊賀国の分割統治
巡察を終えた信長は、伊賀国の新たな統治体制を定めた。伊賀四郡のうち、阿拝(あえ)・山田・名張の三郡を織田信雄に、伊賀郡を一族の織田信包(のぶかね)に与え、織田一門による分割統治の形をとった 2 。これにより、数世紀にわたって伊賀を支配してきた「惣国一揆」という自治共同体は、名実ともに完全に解体された。信雄は家臣の滝川雄利(たきがわ かつとし)を伊賀守護代に任じ、現地の統治を委ねた 2 。伊賀は、織田政権の支配下に組み込まれた一地方へと変貌したのである。
乱後の伊賀忍者と「神君伊賀越え」
故郷を破壊され、生活の基盤を失った多くの伊賀衆は、国を離れて流浪の身となった。彼らは生きるために、一族が培ってきた戦闘技術や情報収集能力を商品として、諸国の大名に仕官する道を選んだ 19 。この悲劇的な離散が、皮肉にもそれまで伊賀という土地に閉ざされていた「忍びの術」を全国に拡散させるきっかけとなった。
そして、乱の翌年である天正10年(1582年)6月2日、日本の歴史を揺るがす大事件「本能寺の変」が勃発する 33 。信長が家臣の明智光秀に討たれたという報は、当時、堺に滞在していた徳川家康の元にも届いた。周囲を敵に囲まれた絶体絶命の状況下で、家康は本国三河への決死の脱出を開始する。これが世に言う「神君伊賀越え」である。
この時、家康に仕えていた伊賀出身の武将・服部半蔵正成(はっとり はんぞう まさなり)が、歴史的な役割を果たした。彼は、天正伊賀の乱で織田信長に深い恨みを抱く伊賀・甲賀の地侍たちと交渉し、彼らを家康一行の道案内と警護役として味方につけることに成功した 34 。伊賀衆にとって、信長の同盟者であった家康を助けることは、信長亡き後の天下の形勢を見据えた戦略的な判断であり、また、自らの存在価値を示す絶好の機会でもあった。
この伊賀越えの成功は、家康の命を救っただけでなく、伊賀忍者の運命をも大きく変えた。家康はこの時の恩義に報い、また彼らの能力を高く評価し、後に多くの伊賀者を「伊賀同心」として召し抱え、江戸城の警備や隠密活動を担う幕府直属の専門家集団として重用した 34 。かつて独立共同体を守るための術であった忍術は、新たな中央集権体制である徳川幕府の支配を支えるための「公儀の術」へと再編されていったのである。信長による伊賀共同体の破壊が、結果的にその技術を解き放ち、新たな天下人の手に渡るという歴史の皮肉がここにあった。
終章:天正伊賀の乱が残したもの
天正伊賀の乱、とりわけ天正9年の第二次侵攻は、単なる一地方の平定戦に留まらず、日本の歴史が中世から近世へと大きく移行する過程を象徴する、画期的な出来事であった。
第一に、伊賀惣国一揆の滅亡は、戦国時代を通じて各地に見られた地侍や国人衆による自治的・共和制的共同体の時代の終わりを告げるものであった 4 。強大な中央権力である織田政権が、地域の独自性と自治を武力によって完全に粉砕し、均質的な支配体制下に組み込むという、近世的な国家統一の苛烈なプロセスを体現している。信長が伊賀で見せた、寺社仏閣を含む文化の破壊と老若男女を問わない徹底的な殲滅戦は、自らの支配に服さない勢力に対しては一切の妥協を許さないという、彼の統治スタイルの完成形であった。
第二に、この戦いは戦国時代の戦争のあり方が変質していく様を如実に示している。第一次の戦いで織田軍を翻弄した伊賀衆得意のゲリラ戦術は、第二次における信長の周到な包囲殲滅作戦と圧倒的な物量の前に完全に無力化された。これは、個々の武勇や奇策から、兵站、組織力、そして緻密な戦略の優劣によって勝敗が決せられる、より近世的な戦争への移行を物語っている。
歴史的評価は、どの視点に立つかによって大きく異なる。伊賀の人々にとっては、自由と独立を無慈悲に蹂躙され、故郷を焦土と化された紛れもない悲劇である 11 。一方で、天下統一というマクロな視点から見れば、乱世を終結させ、より安定した近世社会を築くための、避けられない「産みの苦しみ」の一環であったと捉えることも可能である 37 。
最後に、この乱は後世の文化にも大きな影響を与えた。故郷を滅ぼされながらも、その特殊な技術をもって権力と渡り合った伊賀衆の物語は、後に『伊乱記』などの軍記物や、『萬川集海』(まんせんしゅうかい)のような忍術書を通じて語り継がれ、「権力に抗う不屈の忍者」という英雄的なイメージを形成する一因となった 9 。天正伊賀の乱は、伊賀という国を歴史から消し去ったが、その記憶と術は形を変えて生き続け、日本の歴史と文化の中に深く刻み込まれているのである。
引用文献
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- 【三重県の歴史】戦国時代、"三重"では何が起きていた? 伊勢長島一向一揆、天正伊賀の乱… 伊勢や伊賀の反信長勢力とは? - YouTube https://m.youtube.com/watch?v=8cbIpzeGiII
- 「伊賀忍者」たちは戦国時代”自治共和体制”を形成し独自の生き抜き ... https://www.rekishijin.com/31678
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- 天正伊賀の乱 - みんなの笑顔が三重(みえ)てくる Jima-t's diary https://jima-t.hatenablog.com/entry/2025/05/30/190000
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- 名張ノスタルジー|天正伊賀の乱 エピローグ 忍者 伊賀・甲賀 柳生一族 - Kunioの世界の切手紹介と海外写真集 http://kunio.raindrop.jp/nabari33.htm
- 家康の「伊賀越え」と甲賀・伊賀者 - 三重の文化 https://www.bunka.pref.mie.lg.jp/rekishi/kenshi/asp/arekore/detail66.html
- 神君伊賀越えとは?徳川家康はどのルートで危機を逃げ切ったのか - 戦国武将のハナシ https://busho.fun/column/igagoe
- 読書感想:歴史 「天正伊賀の乱 信長を本気にさせた伊賀衆の意地」 (0014)|reki4 - note https://note.com/rekishi_info/n/nac0f4fe25fbd