最終更新日 2025-08-26

天正壬午の乱(1582)

天正壬午の乱(1582年)— 権力の空白が生んだ甲信争奪戦のリアルタイム分析

序章:崩壊と空白―天正壬午の年、全ての前提が覆る

天正10年(1582年)は、日本の戦国史において類を見ない激動の年であった。この年の前半と後半では、列島を覆う政治・軍事地図は全く異なる様相を呈することになる。その激変の震源地となったのが、甲斐・信濃・上野にまたがる旧武田領国であった。

武田氏の滅亡と織田体制の成立

天正10年3月11日、織田信長と徳川家康の連合軍による甲州征伐は、天目山における武田勝頼の自刃をもって終結した 1 。これにより、源氏の名門であり、一時は天下に最も近いと謳われた甲斐武田氏は滅亡の時を迎える 2 。戦国最強と恐れられた軍団の崩壊は、あまりにも呆気ないものであった。

戦後処理のため甲斐に入った信長は、旧武田領の新たな支配体制を構築する。甲斐国(穴山氏領を除く)と信濃国諏訪郡は腹心の河尻秀隆に、信濃国の川中島四郡(高井・水内・更級・埴科)は森長可に、上野国は関東方面軍の司令官であった滝川一益に与えられた 4 。徳川家康は長年の同盟の功により、駿河国を拝領している 1 。信長の絶対的な権威の下、旧武田領は織田家の版図に組み込まれ、一応の安定を見るかに思われた。

しかし、この新たな支配体制は、信長個人の圧倒的な武威と政治力に依存した、極めて属人的な構造であった。河尻秀隆や森長可といった新領主たちは、在地勢力である国衆や武田旧臣との間に十分な信頼関係を築く間もなく、統治を開始せざるを得なかった。彼らは支配者として君臨したものの、その基盤は盤石とは言い難い、いわば「見せかけの安定」の上に成り立っていたのである。武田家に長年仕えてきた国衆たちは、新たな支配者に対して心底から服従していたわけではなく、状況次第で容易に離反しうる潜在的な不安定要素であり続けた 6

本能寺の変という激震

この脆弱な支配構造を根底から揺るがす事態が、天正10年6月2日に発生する。京都・本能寺における織田信長の横死である 1 。天下人の突然の死は、中央の権威を瞬時に消滅させ、甲斐・信濃・上野西部は巨大な「権力の空白地帯」へと変貌した 1 。信長の死という情報は、この広大な山国の隅々にまで、驚くべき速さで伝播していった。

この権力の空白は、周辺の大名たちにとって、千載一遇の好機であった。東に相模の北条氏政・氏直父子、南に駿河の徳川家康、そして北に越後の上杉景勝。彼らは即座に戦略的計算を開始し、旧武田領という広大な遺産を巡る熾烈な争奪戦の幕が切って落とされる。本能寺の変は、単なる「きっかけ」ではなく、織田体制が内包していた構造的脆弱性を露呈させ、その「必然的な崩壊」を誘発した引き金であった。

この争乱の主役は、三大名だけではない。自らの存亡をかけて激動の時代を泳ぎ切ろうとする、真田昌幸や木曽義昌といった国衆たちの動向こそが、大名たちの戦略を左右する重要な変数となっていく 6 。天正壬午の乱とは、信長の死によって解き放たれた様々な野心と生存戦略が、甲信の地で複雑に絡み合い、火花を散らした一大争乱だったのである。

第一章:初動―激震、それぞれの岐路(天正10年6月)

本能寺の変という激震は、各勢力に即時の判断と行動を強いた。特に、旧武田領を直接囲む徳川、北条、上杉の三者は、それぞれの置かれた状況と戦略的意図に基づき、驚くべき速さで動き出す。6月の一ヶ月間は、情報が錯綜する中で、各々が未来を賭けた初動を見せた時期であった。

徳川家康の死線と戦略転換

6月2日、信長に招かれ駿河拝領の礼のために上洛し、堺を遊覧中であった徳川家康は、絶体絶命の危機に瀕していた 1 。わずかな供回りのみで敵地の只中に取り残された家康は、有名な「伊賀越え」を決行。道中の落武者狩りの危険を切り抜け、6月4日に三河大浜へと奇跡的な生還を果たした 3

当初、家康の目標は信長の仇である明智光秀の討伐であり、直ちに軍備を整え上洛を目指した 1 。しかし、6月13日に羽柴秀吉が山崎の戦いで光秀を討ち破ったとの報が15日頃に届くと、家康は目標を旧武田領の確保へと迅速に転換する 3 。この戦略転換の速さこそ、家康の政治的嗅覚の鋭さを示すものであった。

家康の行動は迅速を極めた。6月5日には家臣に出陣準備を命じ、早くも6月6日には武田旧臣の岡部正綱を甲斐へ派遣し、在地勢力の懐柔工作に着手させている 5 。さらに6月10日、甲斐の新領主である河尻秀隆に対し、美濃への帰還を促す使者として本多信俊を派遣した 9 。しかし、この善意は裏目に出る。家康が一揆を扇動して甲斐を簒奪しようとしていると疑った秀隆は、6月14日に信俊を殺害してしまう 3 。この事件は、織田体制下の現地における混乱と、新領主と在地勢力、そして周辺大名との間の深刻な不信感を象徴する出来事となった。

北条氏政・氏直の野心と電撃的侵攻

関東に覇を唱える北条氏にとって、信長の死は長年の圧迫から解放され、再び勢力を拡大する絶好の機会であった。6月11日に小田原で信長横死の報に接した北条氏政・氏直父子は、表向きは上野の滝川一益に協力を申し出るなど友好姿勢を装いつつも 9 、水面下では電光石火の軍事行動準備を進めていた。

偽りの友好関係は長くは続かなかった。6月16日、北条氏は一益に宣戦を布告 9 。18日、先鋒の北条氏邦が上野国金窪原で一益軍と衝突し一度は敗退するも 9 、翌6月19日、当主・氏直が自ら率いる5万とも言われる大軍が、神流川で一益軍1万8千を迎え撃った 3 。兵力で圧倒する北条軍は一益軍を粉砕。織田家の関東方面軍司令官であった一益は、命からがら上野を放棄し、本領である伊勢長島へと敗走した 1 。この「神流川の戦い」における決定的勝利により、北条氏はわずか数日で上野国の大部分を制圧し、信濃への侵攻路を確保したのである。

上杉景勝の好機と北信濃制圧

越後の上杉景勝にとって、本能寺の変はまさに天佑であった。当時、上杉氏は柴田勝家率いる織田の北陸方面軍の猛攻に晒され、越中魚津城は落城寸前という滅亡の危機に瀕していた 9 。信長の死の報が織田軍に伝わると、彼らは一斉に撤退を開始 9 。九死に一生を得た景勝は、即座に反攻へと転じた。

景勝の目標は、かつて武田信玄と激しく争った因縁の地、北信濃の川中島四郡であった。6月中旬、景勝は北信濃の国衆への調略を開始。信長の死により主を失った旧武田・織田方の諸城、すなわち森長可が放棄した海津城(松代城)や、長沼城、飯山城などを次々と支配下に収めていく 3 。景勝自らも春日山城から出陣し、川中島四郡を完全に掌握。旧武田領への確固たる足掛かりを築き、来るべき徳川・北条との交渉や対立に備えた。

旧武田領の混沌―国衆たちの選択

大名たちが動く中、旧武田領の在地勢力である国衆たちもまた、自らの生き残りを賭けた選択を迫られていた。

神流川で敗れた滝川一益が、碓氷峠を越えて無事に本領まで逃げ延びることができたのは、当時その配下にあった真田昌幸の手引きがあったからである 13 。昌幸は一益に恩を売る形で円満に離別した後、自らの本拠である上野沼田城と信濃小県郡の安堵を求め、新たな主君を探し始める。

一方、甲斐国では混乱が頂点に達していた。織田の新領主・河尻秀隆は、徳川の使者を殺害したことで完全に孤立。武田旧臣や国人衆による一揆は瞬く間に広がり、秀隆は脱出を図るも、6月18日に一揆勢によって討ち取られてしまう 1 。これにより、甲斐は完全に無主の状態となり、誰が最初にこの地を確保するかが焦点となった。

このような混沌の中、真田昌幸は驚くべき早さで動く。滝川一益から沼田城の支配を認められると 9 、6月末には北の上杉景勝に服従を申し出た 3 。これは、目前に迫る北条の大軍を牽制し、自領を守るための極めて現実的な判断であった。彼のこの行動は、これから始まる大勢力の間を渡り歩く巧みな外交戦略の序章に過ぎなかった。

日付 (天正10年)

徳川家の動向

北条家の動向

上杉家の動向

真田家・その他国衆の動向

主要な出来事/場所

6月2日

家康、堺にて本能寺の変を知る。伊賀越えを開始。

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織田軍の猛攻を受ける(魚津城の戦い)。

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本能寺の変

6月4日

家康、三河大浜に帰還。岡崎城へ入る。

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伊賀越え完了

6月6日

岡部正綱を甲斐へ派遣し、武田旧臣の懐柔を開始。

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本能寺の変の報が伝わり、織田軍が撤退開始。

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6月10日

本多信俊を甲斐の河尻秀隆へ派遣。

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6月11日

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小田原にて本能寺の変を知る。滝川一益に協力を伝達。

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6月13日

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滝川一益より沼田城を譲り受ける(真田昌幸)。

山崎の戦い

6月14日

派遣した本多信俊が河尻秀隆に殺害される。

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甲斐で国人一揆が激化。

甲斐・岩窪館

6月16日

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滝川一益に宣戦布告。

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6月18日

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先手の氏邦が金窪原で敗北。

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河尻秀隆が一揆勢に殺害される。

上野・金窪原、甲斐

6月19日

秀吉からの書状を受け、上洛を断念。

氏直が神流川で滝川一益を破る。上野を制圧。

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滝川一益が敗走。

神流川の戦い

6月下旬

酒井忠次が信濃伊那郡へ、大久保忠世が甲斐へ侵攻開始。

上野の主要部を平定。

北信濃の国衆を調略し、川中島四郡を確保。

昌幸、上杉景勝に服従を申し出る。

甲信越全域

第二章:進軍と衝突―三勢力の思惑が交錯する(天正10年7月)

6月の初動を経て、7月に入ると各勢力の軍事行動は本格化する。北条、上杉、徳川の三者が、それぞれの戦略目標に基づき甲信地方へ軍を進め、複雑な駆け引きと衝突を繰り広げた。この一ヶ月の動向は、天正壬午の乱の基本的な構図を決定づける重要な期間となった。

北条軍、信濃を席巻

神流川の戦いで織田軍を駆逐し、上野国を完全に掌握した北条氏直は、その勢いを駆って信濃への侵攻を開始した。7月9日、北条方に服従した真田昌幸を先方衆に加え 9 、7月12日には氏直率いる本隊が碓氷峠を越え、信濃国小県郡に布陣した 3 。その軍勢は4万3千とも言われ、圧倒的な兵力を背景に、信濃の国衆たちは次々と北条氏に出仕した。佐久郡、小県郡の在地領主、そして諏訪大社の神官でもあった諏訪頼忠も北条方についた 9

北条軍の次の目標は、北信濃を確保した上杉景勝との決戦であった。7月14日、氏直の軍勢は川中島へと進軍し、千曲川を挟んで上杉軍と対峙する 9 。この時、北条方は上杉方の最前線拠点である海津城の城主・春日信達を調略し、内応させる手筈を整えていた 3 。もしこの調略が成功していれば、上杉軍は背後を突かれ、壊滅的な打撃を受けていた可能性が高い。しかし、この内応計画は事前に上杉方に露見し、春日信達は処刑されてしまう 3

最大の切り札を失ったこと、そして南から徳川家康が甲斐へ進軍しているとの報が届いたことにより、氏直は上杉との全面対決を回避する決断を下す。二正面作戦の危険を悟った北条氏は、上杉方からの停戦の申し入れに合意。7月29日、北信濃の領有を事実上認める形で上杉軍と和睦し、全軍を南下させ、主敵を徳川家康に定めて甲斐へと向かった 3

上杉軍、北信濃を確保し内憂へ

一方の上杉景勝は、北条との対峙において冷静な対応を見せた。春日信達の裏切りを未然に防いだことで、北条軍の鋭鋒を巧みにかわし、戦闘を交えることなく北信濃四郡の支配を確定させることに成功した 6

北条軍が南下したことで、景勝にとって信濃方面の脅威は一旦去った。しかし、上杉家には「新発田重家の乱」という、領国の根幹を揺るがしかねない深刻な内憂が存在した 3 。御館の乱以来の恩賞問題に端を発するこの反乱は、織田信長の後ろ盾を得て長期化しており、景勝の足枷となっていた。北条との停戦後、景勝は甲信への更なる介入よりも、この内乱鎮圧を優先せざるを得ず、軍を越後へと引き返した 4 。この決断により、上杉氏は天正壬午の乱の主導権争いから事実上、一歩後退することになった。

徳川軍、甲斐へ無血入城

北条と上杉が信濃で対峙している間、徳川家康は着実に南から勢力を伸ばしていた。6月27日に酒井忠次が信濃伊那郡へ、28日には大久保忠世が甲斐へと侵攻を開始 9 。そして7月2日、家康自身も8千の兵を率いて浜松城を出陣した 3

家康の甲斐侵攻は、武力制圧というよりも、巧みな懐柔策によって進められた。既に派遣していた岡部正綱らを通じて武田旧臣の多くを味方につけており、彼らの協力によって甲斐国内の抵抗勢力は速やかに鎮圧された 5 。7月9日、家康は甲府の躑躅ヶ崎館へ無血で入城し、本陣を構えた 3 。この時点で、徳川軍は信濃南部と甲斐の主要三郡(山梨・巨摩・八代)を完全に掌握していた 3 。武力だけでなく、武田家旧臣の人心を掌握することに重きを置いた家康の戦略が、迅速な進駐を可能にしたのである。

国衆たちの再度の選択

大名たちの勢力図が刻一刻と変化する中、国衆たちは再び自らの立ち位置を見直す必要に迫られた。

特にその動きが顕著だったのが真田昌幸である。6月末に上杉景勝に服従したばかりの昌幸であったが、7月9日、北条氏直率いる大軍が本拠地に近い上野・信濃国境に現れると、即座に北条方へと鞍替えした 3 。これは、目前の圧倒的な軍事的脅威から自領を守るための、極めて現実的かつ合理的な判断であった。後に「表裏比興の者」と評される昌幸の面目躍如たる行動であり、大勢力に翻弄されながらも自家の存続と利益を最大化しようとする国衆の典型的な生存戦略であった 4

この7月の一連の動きは、各勢力の戦略的優先順位を明確に示した。最大兵力を擁する北条は、甲信全域の制圧という「最大目標戦略」を掲げたが、結果として戦線が伸び、兵站が脆弱になるリスクを抱え込んだ。上杉は、北信濃確保という「限定目標戦略」を達成した後、内乱鎮圧という「内部固め」を優先し、拡大の好機を逸した。これは選択というよりも、内憂という「制約」の結果であった。そして徳川は、武田遺臣の支持を取り付ける「人心掌握戦略」を軸に、着実に地盤を固めた。

結果として、7月末の時点で、天正壬午の乱の構図は「三つ巴」の様相から、甲信地方の覇権をかけた「徳川対北条」という二項対立へと、その焦点を絞り込んでいくことになったのである。

第三章:対陣―若神子の攻防、持久戦の様相(天正10年8月~9月)

7月に上杉氏が戦線から事実上離脱したことで、甲信地方の争奪戦は徳川家康と北条氏直による直接対決の様相を呈した。8月に入ると、両軍は甲斐国において対陣し、約80日間に及ぶ長期の睨み合いに突入する。この対陣は、単なる軍事的な膠着状態ではなく、水面下で激しい調略戦が繰り広げられる持久戦であった。

両軍の布陣と兵力

上杉軍との和睦を成立させ、南下してきた北条氏直の本隊は、8月7日に甲斐国へ侵入。甲府盆地の北西に位置する若神子城に本陣を構えた 9 。その総兵力は、上野・信濃で吸収した国衆も加え、4万3千から5万3千以上と推定されており、圧倒的な軍事力を誇っていた 3

これに対し、甲府で北条軍の動向を注視していた徳川家康は、8月10日に本陣を北上させ、武田勝頼が築城した未完の拠点、新府城へと移した 9 。家康が率いる兵力は8千から1万程度であり、兵数においては5倍以上の差があった 17 。新府城と若神子城の距離はわずか9kmほど。両軍は至近距離で対峙し、一触即発の緊張状態が続くことになった 2

兵力で劣る家康にとって、平野での決戦は自殺行為に等しい。そのため、家康は新府城の防御力を頼りに持久戦を選択し、時間を稼ぎながら調略と外交によって戦局を打開する戦略をとった。

項目

徳川軍

北条軍

総兵力(推定)

約8,000~10,000

約43,000~53,000

本陣

新府城

若神子城

主要武将

徳川家康、酒井忠次、石川数正、本多忠勝、榊原康政、井伊直政、鳥居元忠、大久保忠世、依田信蕃

北条氏直、北条氏政(後詰)、北条氏邦、北条氏忠、大道寺政繁、松田憲秀

睨み合いと調略戦の深化

若神子での対陣が続く中、戦いの主戦場は実際の戦場から、国衆たちの心を奪い合う調略戦へと移っていった。

まず大きな動きを見せたのが、信濃の有力国衆である木曽義昌であった。当初、北条氏への従属を示唆していた義昌であったが 9 、8月22日、織田信長の三男・信孝と次男・信雄から所領安堵の朱印状が届いたことを受け、正式に徳川方へと帰属した 9 。これは、家康が自らを「旧織田体制の正統な継承者」として位置づけ、国衆たちに徳川方につくための大義名分を与えた、巧みな外交戦略の成果であった。

さらに、家康は北条軍の最前線にいる真田昌幸の切り崩しにかかる。信濃佐久郡の国衆で、武田旧臣として昌幸とも顔なじみであった依田信蕃を調略の使者として派遣 3 。信蕃は粘り強く昌幸と交渉し、9月、昌幸が徳川方に寝返った場合、現在の所領全てを安堵するという破格の条件を提示した。目前の北条の大軍と、将来的な徳川の勢いを天秤にかけた昌幸は、この条件を受け入れ、徳川方への離反を決意する 3 。この昌幸の寝返りは、単に一国衆の向背が決まったという以上の、戦局全体を揺るがす決定的な意味を持つことになる。

徳川軍は調略だけでなく、小規模な軍事行動によっても北条軍を圧迫し続けた。北条軍が若神子城の防衛と兵站のために周辺に築いていた支城や砦を、徳川方の部隊が夜襲などで攻撃。8月28日には兵糧庫として機能していた大豆生田砦を、9月には若神子城の北東に位置する獅子吼城を相次いで陥落させた 2 。これらの攻撃は、北条軍に物理的な損害を与えると同時に、大軍でありながら主導権を握れずにいるという焦りを生み、心理的に追い詰めていく効果があった。

こうして、若神子対陣は単なる睨み合いではなく、徳川家康が兵力的劣勢を補うための、緻密に計算された時間稼ぎと戦略的包囲網の構築の期間となったのである。

第四章:転機―黒駒合戦と補給線遮断(天正10年8月~10月)

約80日間に及んだ若神子対陣の均衡は、一連の軍事的・戦略的な出来事によって、徐々に徳川方へと傾いていく。特に、8月の「黒駒合戦」における戦術的勝利と、10月の「補給線遮断」という戦略的成功は、天正壬午の乱全体の帰趨を決する決定的な転機となった。

黒駒合戦の戦術分析(8月12日)

長期化する対陣に業を煮やした北条方は、膠着状態を打開するため、徳川軍本陣の背後を突く奇襲作戦を計画した。当主・氏直の叔父である北条氏忠が率いる1万の別動隊が、若神子城から南東の御坂峠を越え、新府城に籠る家康本隊を挟撃しようと試みたのである 9

しかし、この動きは徳川方に察知されていた。家康は腹心の将、鳥居元忠にわずか2千の兵を与え、この別動隊の迎撃を命じた 9 。兵力差は1対5と絶望的であったが、元忠は冷静に戦況を分析。黒駒(現在の山梨県笛吹市御坂町)周辺の地理を巧みに利用し、狭隘な地形に誘い込むことで北条軍の数的優位を無力化した。さらに、兵力を分散させていた北条軍の側面を突き、混乱に陥れると、すかさず退路を遮断して包囲殲滅を図るという見事な采配を見せた 3

結果、北条氏忠の別動隊は壊滅的な打撃を受けて敗走。徳川軍は戦術的に完璧な勝利を収めた。家康はこの勝利を最大限に活用する。討ち取った北条兵の首級500を槍の先に掲げ、若神子の北条本陣から見える場所にずらりと並べて晒したのである 3 。この衝撃的な光景は、北条軍の士気を著しく低下させ、数的優位が必ずしも勝利に結びつかないという事実を彼らに痛感させた。この勝利はまた、日和見を決め込んでいた甲斐・信濃の国衆たち(保科正直など)に「徳川に利あり」と判断させ、彼らが徳川方へなびく大きな要因ともなった 3

背後からの揺さぶり―補給線遮断

黒駒合戦が戦術的な転換点であったとすれば、戦略的な決定打となったのは真田昌幸の寝返りであった。9月に徳川方についた昌幸は、その戦略的価値を即座に証明してみせる。10月、昌幸は同じく武田旧臣で徳川方の中核として活躍していた依田信蕃と連携し、若神子の北条軍にとって生命線ともいえる補給路、すなわち信濃と上野を結ぶ碓氷峠を電撃的に占拠したのである 3

若神子に駐留する4万以上の大軍は、その兵站を関東からの輸送に全面的に依存していた。その補給路が断たれたことは、北条軍にとって致命的であった 2 。兵糧や弾薬の補給が途絶え、兵士たちは飢えと不安に苛まれることになった。北条氏は、若神子という「点」の攻防に固執するあまり、補給線という「線」の脆弱性という根本的な問題を見過ごしていたのである。

外交戦の勝利―北条包囲網の形成

家康の戦略は、甲信地方に留まらなかった。彼は若神子で北条軍主力を引きつけている間に、関東の反北条勢力との連携を画策した。常陸の佐竹義重や下野の宇都宮国綱といった大名たちに密使を送り、北条領の背後を突くよう働きかけたのである 9

この要請に応じ、佐竹義重は上野国へ侵攻し、北条方の重要拠点である館林城を攻撃した 3 。これにより、北条氏は甲信地方と関東本国の二正面での対応を迫られることになった。さらに9月25日、後詰として小田原から出陣してきた北条氏政が、徳川方の沼津城を攻撃するも撃退されるという事態も発生し 9 、北条氏は完全に戦略的守勢に立たされた。

兵力的劣勢を、軍事(黒駒合戦)、調略(真田昌幸)、外交(佐竹氏)を巧みに連動させた多次元的な「非対称戦」によって覆した家康の戦略は、見事に功を奏した。戦国後期の戦いが、単なる兵力の衝突から、情報、調略、外交、兵站を駆使した「総力戦」の様相を呈していたことを、この天正壬午の乱の戦局推移は如実に物語っている。圧倒的な兵力を持ちながら敗北へと向かう北条氏の姿は、旧来の軍事思想の限界を象徴しており、8年後の小田原征伐における滅亡を予兆させるものであった。

第五章:和睦と新秩序の形成(天正10年10月下旬)

軍事的、戦略的に完全に行き詰まった北条氏は、もはや若神子での対陣を維持することが不可能となった。補給路を断たれ、背後からは反北条勢力に脅かされ、兵の士気は低下の一途を辿る。ここにきて、北条氏直は徳川家康との和睦以外に道はないと判断し、交渉の席に着くことを決意した 2

和睦交渉の開始

北条方からの和睦の申し入れに対し、家康もこれを受け入れた。家康にとっても、これ以上の長期戦は国力を消耗させるだけであり、有利な条件で講和を結び、甲信地方の支配を確定させることが最善の策であった。

この歴史的な和睦交渉において、仲介役として名を連ねたのが、織田信長の次男・信雄と三男・信孝であった 4 。これは、天正壬午の乱が名目上は「織田家の遺領」を巡る争いであったという建前を、両者が最後まで保持していたことを示している。清洲会議を経て織田家の後継者としての地位を確立しつつあった信雄や信孝の権威を借りることで、和睦の正統性を内外に示そうという政治的意図があった。

甲江和与(こうこうわよ)の成立(10月29日)

両者の間で交渉は進められ、天正10年10月29日、ついに講和が成立した 6 。この和睦は、甲斐国と駿河国(江州)における領土分割が主であったことから、「甲江和与」とも呼ばれる。その条件は、戦いの帰趨を明確に反映したものであった。

和睦の主要条件:

  1. 領土分割: 甲斐国と信濃国は徳川家康の所領とすることが認められた。一方、上野国は北条氏の「切り取り次第」(自力で獲得した所領の領有を認める)とされ、その支配権が確定した 6 。これにより、徳川は甲信、北条は上野という形で、旧武田領の分割領有が決定した。
  2. 婚姻同盟: 両家の和睦を強固なものとするため、家康の次女である督姫が、北条家当主の氏直に嫁ぐことが定められた 1 。これにより、徳川氏と北条氏は婚姻による同盟関係を結び、東国における新たな勢力均衡が図られることになった。

この甲江和与の成立をもって、同年6月の本能寺の変から約5ヶ月間にわたって続いた天正壬午の乱は、正式に終結した 6 。権力の空白地帯を巡る激しい争奪戦は、徳川家康の戦略的勝利という形で幕を閉じたのである。若神子に布陣していた北条の大軍は甲斐から撤退し、甲信地方には徳川家による新たな支配体制が築かれることになった。

終章:乱の遺産―新たなる対立の火種と天下への道

天正壬午の乱の終結は、単に甲信地方の支配者が決まったというだけでは終わらなかった。この争乱が残した遺産は、その後の東国、ひいては天下の情勢にまで、深く、そして長期にわたる影響を及ぼすことになる。

徳川家康の飛躍

天正壬午の乱における最大の勝者は、疑いなく徳川家康であった。乱の結果、家康は従来の三河・遠江・駿河の三カ国に加え、甲斐と信濃の大部分を手中に収め、一挙に五カ国を領有する大大名へと飛躍を遂げた 1 。これは、後の豊臣秀吉政権下においても、秀吉に次ぐ大領を持つ有力大名としての地位を確固たるものにする上で、決定的な意味を持った。

さらに重要なのは、広大な領土と共に、旧武田家臣団という優秀な人材を獲得したことである 5 。家康は、武田家滅亡後に離散していた有能な武将や家臣を積極的に登用し、自軍の組織に組み込んだ。その最も象徴的な例が、武田軍最強と謳われた山県昌景の赤備え部隊を、徳川四天王の一人である井伊直政に付属させ、再編成した「井伊の赤備え」である 26 。この精鋭部隊は、後の小牧・長久手の戦いや関ヶ原の戦いにおいて徳川軍の中核として獅子奮迅の働きを見せ、「井伊の赤鬼」として敵に恐れられる存在となった。天正壬午の乱は、徳川家康が天下取りのレースにおける最有力候補の一人として、その実力と基盤を固めるための重要なステップであった。

北条氏の限界と孤立

一方、北条氏は上野国を手に入れたことで、悲願であった関東平定を大きく前進させた 29 。徳川との同盟が成立したことで背後の憂いがなくなり、佐竹氏や宇都宮氏といった北関東の敵対勢力への攻勢を強めることが可能になった 29

しかし、長期的な視点で見れば、この乱は北条氏の戦略的限界を露呈させる結果となった。彼らは乱の過程で、中央政権(清洲会議後の織田政権、そしてその実権を掌握していく羽柴秀吉)との連携を欠き、あくまで関東という地域内での勢力圏構築に固執した。この内向きな姿勢は、天下統一を進める秀吉との間に次第に深刻な対立を生むことになる。天正壬午の乱で徳川と結んだことで得た一時的な安定は、結果的に北条氏を天下の趨勢から孤立させ、天正18年(1590年)の小田原征伐による滅亡へと繋がる遠因となったのである 6

真田昌幸の台頭と新たな火種

天正壬午の乱は、真田昌幸という稀代の知将を歴史の表舞台へと押し上げた。しかし、乱の終結は、彼にとって新たな戦いの始まりを意味していた。

甲江和与の和睦条件において、家康は北条との同盟を優先するあまり、昌幸が自力で確保していた上野国の沼田領を、北条氏の「切り取り次第」、すなわち領有を認めるという譲歩をしてしまった 9 。これに対し、昌幸は「沼田は真田家が骨を折って手に入れた土地であり、家康殿の都合で北条に渡す謂れはない」と猛反発 32 。徳川氏との間に決定的な亀裂が生じた。家康からの離反を決意した昌幸は、再び上杉景勝の支援を求め、その傘下に入った 6 。この沼田領帰属問題が直接的な原因となり、天正13年(1585年)、徳川の大軍を寡兵で迎え撃つ「第一次上田合戦」が勃発する 35 。この戦いで徳川軍を撃退した昌幸は、その名を天下に轟かせることになる。

天正壬午の乱の歴史的意義

天正壬午の乱は、本能寺の変という中央権力の崩壊が、地方レベルでいかに激しい権力再編を引き起こしたかを示す典型例である。この乱を通じて、徳川家康は天下人への道を大きく前進させ、北条氏は地域大名としての限界を露呈した。そして、真田昌幸に代表される国衆たちが、大名の思惑に翻弄されながらも、したたかに自らの活路を見出していく戦国時代末期の流動的な社会状況を象徴している。この乱の終結と、それによって生まれた新たな秩序は、豊臣秀吉による天下統一事業が、在地勢力の複雑な利害関係を調整しながら進められていく過程の、重要な一里塚となったのである 6

地域

乱勃発前(天正10年5月)の支配者

乱終結後(天正10年11月)の支配者

甲斐国

河尻秀隆(織田家臣)、穴山氏

徳川家康

信濃国・諏訪郡

河尻秀隆(織田家臣)

徳川家康

信濃国・伊那郡

織田家臣団

徳川家康

信濃国・佐久郡

滝川一益(織田家臣)の管轄下

徳川家康

信濃国・小県郡

滝川一益(織田家臣)の管轄下

徳川家康(真田昌幸の実効支配)

信濃国・川中島四郡

森長可(織田家臣)

上杉景勝

信濃国・木曽郡

木曽義昌

木曽義昌(徳川傘下)

上野国・西部

滝川一益(織田家臣)

北条氏直

上野国・沼田領

滝川一益(織田家臣)

真田昌幸(実効支配、名目上は北条領)

引用文献

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  2. 天正壬午の乱 http://www.tsugane.jp/meiji/rekisi/sutama/tensho.html
  3. 天正壬午の乱/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/99866/
  4. 「天正壬午の乱(1582年)」信長死後、旧武田領は戦国武将たちの草刈り場に! https://sengoku-his.com/453
  5. 信長の死で各地激震、家康が領土拡大できた背景 北条氏と徳川氏 ... https://toyokeizai.net/articles/-/685957?display=b
  6. 天正壬午の乱 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%AD%A3%E5%A3%AC%E5%8D%88%E3%81%AE%E4%B9%B1
  7. 松尾・鈴岡小笠原氏略歴 - 飯田市ホームページ https://www.city.iida.lg.jp/site/bunkazai/ogasawarashi.html
  8. 天正10年(1582)頃の上野国勢力図 (PDF:277KB) https://www.pref.gunma.jp/uploaded/attachment/604169.pdf
  9. 1582年(後半) 東国 天正壬午の乱 | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1582-4/
  10. 徳川家康の願い「信長亡き今、東国を渡してはならない!」 天正壬午の乱とは? - 歴史人 https://www.rekishijin.com/26848
  11. 激戦!金窪城から神流川へ~天正壬午の乱 http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/02/18-f136.html
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