天王寺の戦い(1576)
天王寺の戦い(1576年):信長の危機と戦略転換の烽火
序章:終わらない戦い - 石山合戦の泥沼
天正4年(1576年)、織田信長の「天下布武」は大きな壁に突き当たっていた。元亀元年(1570年)に顕如(けんにょ)率いる石山本願寺が突如として反旗を翻して以来、石山合戦と呼ばれるこの戦いは6年もの長きにわたり、畿内を血で洗い続けていた 1 。当初、信長と本願寺の関係は必ずしも険悪ではなかったが、信長が摂津国で三好三人衆と対陣した野田城・福島城の戦いの最中、本願寺勢力が織田軍の背後を突いたことで、10年に及ぶ泥沼の宗教戦争が幕を開けたのである 1 。
この戦いは、単なる宗教的対立に留まるものではなかった。本願寺は、信長によって京都を追われた室町幕府第15代将軍・足利義昭や、浅井・朝倉といった反信長大名と連携し、巨大な「信長包囲網」の中核を成す政治的・軍事的拠点と化していた 1 。天正4年を迎える頃には、武田信玄の死、浅井・朝倉両氏の滅亡、そして長島や越前の一向一揆の壊滅により、包囲網の多くは瓦解していた 1 。しかし、難攻不落の要塞と化した石山本願寺は、依然として信長の畿内支配における最大の障害として立ちはだかっていたのである 6 。
この膠着した戦況を大きく動かしたのが、中国地方の覇者・毛利輝元の参戦であった。足利義昭の執拗な働きかけに応じた輝元は、信長との全面対決を決意し、石山本願寺への兵糧や弾薬といった戦略物資の援助を開始した 4 。西国からの強力な支援という生命線を得たことで、本願寺法主・顕如は再び強気の姿勢に転じ、畿内の門徒に動員令を発した 4 。これにより、石山合戦は織田対本願寺という構図から、織田対毛利・本願寺連合軍という、より大規模で複雑な国家間戦争の様相を呈し始める。本願寺は、旧来の室町幕府体制の権威を背負う毛利氏にとって、信長の西進を食い止めるための最前線基地という極めて重要な戦略的価値を持つに至った。天王寺の戦いは、この巨大な戦略的対立が、摂津国の一点で爆発した事件だったのである。
第一部:包囲網の構築 - 天王寺に至る道
信長の対本願寺戦略:付城の構築とその狙い
毛利という強大な後援者を得て勢いづく本願寺に対し、信長は力攻めではなく、経済的孤立を狙った兵糧攻めを基本戦略として採用した。これは、かつて長島一向一揆を殲滅した際に効果を上げた「付城(つけじろ)戦術」の応用であった 2 。本願寺の周囲に複数の砦を網の目のように構築し、人・物資の出入りを完全に遮断することで、内部から枯渇させることを目的としていた 8 。
天正4年(1576年)4月14日、信長はこの戦略を実行に移すべく、配下の方面軍司令官たちに一斉に命令を下した 8 。
- 北方(野田): 摂津国を統治する荒木村重は、居城の尼崎城から海上機動で野田に上陸し、砦を構築。淀川の水運を封鎖する任を負った 1 。
- 東方(森口・森河内): 明智光秀と細川藤孝は、本願寺の東方に位置する森口(現在の守口市)と森河内(現在の東大阪市)に布陣した 8 。『信長公記』などの史料には「東南」と記されているが、地理的には「東」から「北東」にあたり、これは大坂を中心とした方位の認識の差異、あるいは両所を包括した大まかな方角を示したものと考えられる 11 。
- 南方(天王寺): そして、この包囲網の要として最も危険な位置に配置されたのが、大和国・南山城国を管轄する塙直政(ばん なおまさ、原田直政とも)であった。彼は本願寺の南わずか3キロメートルに位置する上町台地の戦略的要衝、天王寺に砦を構えた 8 。
本願寺の生命線:木津・楼の岸と毛利氏の影
信長が構築した陸路の包囲網は、一見すると本願寺を完全に閉じ込めたかのように見えた。しかし、この戦略には致命的な欠陥が存在した。それは、西側に開かれた大坂湾、すなわち制海権の概念の欠如である。
本願寺は、西方の海岸線に「木津(きづ)」や「楼の岸(ろうのきし)」といった複数の砦を保持しており、これらを拠点として大坂湾への海上交通路を確保していた 1 。この海路こそ、紀伊国の雑賀衆(さいかしゅう)や、遠く安芸国の毛利氏からの兵員・兵糧・弾薬を受け入れるための生命線であった。陸路がいかに固められようとも、この海路が開いている限り、本願寺が枯渇することはあり得なかった。
信長もこの問題点を認識しており、包囲網完成の次の一手として、この海上補給路の最重要拠点である木津砦の攻略を、南方方面軍の総大将である塙直政に特命した 1 。陸軍である塙勢による、海路の拠点への攻撃命令。それは、海の問題を陸の戦力で解決しようとする対症療法的な発想であり、この時点での信長が、瀬戸内海の制海権を握る毛利水軍の力をまだ完全には理解していなかったことを示唆している。この戦略的視野の欠如が、やがて方面軍司令官の死と、信長自身の危機を招く直接的な引き金となるのである。
第二部:戦場の息遣い - 天王寺の戦い、三日間の時系列詳解
天王寺の戦いは、単一の戦闘ではなく、5月3日から7日にかけての三日間にわたる一連の攻防であった。それは織田軍の一方的な攻撃から始まり、壊滅的な敗北、絶望的な籠城戦、そして信長自身の投入による劇的な逆転劇へと展開していく。
日付 |
出来事 |
天正4年4月14日 |
信長、荒木村重、明智光秀、塙直政らに本願寺周辺への付城構築を命令。 |
5月3日 早朝 |
織田軍(総大将:塙直政)、本願寺方の木津砦への攻撃を開始。 |
5月3日 午前 |
本願寺勢の反撃により織田軍は壊滅。総大将の塙直政が討死。 |
5月3日 午後 |
勢いに乗った本願寺勢が天王寺砦を包囲。明智光秀らが籠城戦を開始。 |
5月4日 |
京都に滞在中の信長のもとに、塙直政討死の敗報が届く。 |
5月5日 |
信長、僅か百騎を率いて京都を電撃的に出陣。河内国の若江城に到着。 |
5月6日 |
信長、若江城に逗留し、軍議を開くとともに兵力の集結を待つ。 |
5月7日 未明~早朝 |
信長、約3,000の兵を率いて若江城を出陣。天王寺砦の救援に向かう。 |
5月7日 午前~正午 |
織田本隊と本願寺勢が激突。信長自身も前線で戦い、足に銃創を負う。 |
5月7日 午後 |
織田軍が本願寺勢を撃破。石山本願寺の木戸口まで追撃し、大勝を収める。 |
6月5日 |
信長、戦後処理を終え、天王寺から若江城に帰還。 |
6月6日 |
信長、京都に凱旋する。 |
5月3日:崩壊の序曲
未明~早朝:木津砦への攻撃開始
天正4年5月3日、夜が明けきらぬ薄闇の中、塙直政率いる織田軍は行動を開始した。その目標は、本願寺の海上補給路の喉元、木津砦であった。総大将の塙直政の下、先陣には前年に信長に降ったばかりの三好康長、そして紀伊の根来衆、和泉・山城・大和といった畿内諸国の兵で構成された連合軍が続いた 1。
払暁~午前:雑賀衆の逆襲と織田軍の潰走
しかし、織田軍の動きは本願寺方に完全に察知されていた。木津砦への攻撃が始まると同時に、楼の岸砦などから1万を超える本願寺勢が出撃し、逆に攻撃側の織田軍を側面から包囲する態勢をとった 1。この反撃の中核を担ったのが、当代最強と謳われた鉄砲傭兵集団、鈴木孫一(すずき まごいち)率いる雑賀衆であった。
数千挺と推定される火縄銃が、一斉に火を噴いた。轟音とともに立ち込める硝煙の中、織田軍の兵士たちは次々と薙ぎ倒されていく。それはもはや戦というより、一方的な蹂躙に近かった 12 。この圧倒的な火力の前に、先陣の三好康長は早々に戦意を喪失し、戦線を離脱 1 。総大将の塙直政が率いる本隊は、完全に孤立無援となった。
午前中:総大将・塙直政の討死
退路を断たれた塙勢に、本願寺勢の総攻撃が襲いかかった。混乱の中、総大将の塙直政は奮戦するも衆寡敵せず、ついに討ち死にした。信長の馬廻から方面軍司令官にまで登り詰めた宿将の、あまりにもあっけない最期であった。この戦闘で、弟の塙喜三郎、子の塙小七郎といった一族、さらには箕浦無右衛門、丹羽小四郎といった有力な配下武将もことごとく命を落とし、塙直政軍団は事実上壊滅した 8。
午後:絶望の天王寺砦
木津での圧勝に勢いづいた本願寺勢は、敗走する織田軍を追って北上。その数、1万5千に膨れ上がっていた 16。彼らの次の目標は、織田軍の南方拠点、天王寺砦であった。砦には明智光秀と、織田家重臣・佐久間信盛の嫡男である佐久間信栄(のぶひで)が守備兵とともに入っていたが、この砦は堀も十分に整備されていない急ごしらえの拠点に過ぎなかった 1。
瞬く間に砦は1万5千の大軍に完全包囲された。籠城側は、絶え間なく撃ち込まれる鉄砲弾を防ぐため、古畳や、殺した牛馬の死骸を盾にするしかないという、絶望的な防戦を強いられることとなった 1 。天王寺砦は、風前の灯火であった。
5月4日~6日:揺らぐ天秤
京都の信長
5月4日、方面軍の壊滅と塙直政の討死、そして明智光秀らが守る天王寺砦が陥落寸前であるという凶報は、京都の妙覚寺に滞在していた信長のもとにもたらされた 12。
5月5日 電撃出陣
報せを受けた信長の決断と行動は、常軌を逸するほど迅速であった。彼は諸将の到着を待つことも、軍勢の編成を整えることもせず、即座に自らの出陣を決定。一説には、寝間着に近い湯帷子(ゆかたびら)という軽装のまま馬に飛び乗ると、僅か百騎ほどの供回りだけを連れて京都を発ったという 4。この異常なほどの速さは、一刻の猶予も無いという事態の深刻さと、部下を見殺しにはしないという信長の強烈な意志の表れであった。その日のうちに、信長一行は戦場の後方拠点である河内国の若江城に到着した。
5月6日 若江城の軍議
翌6日、信長は若江城に留まり、後続部隊の集結を待った。しかし、あまりに急な召集であったため兵の集まりは悪く、ようやく駆けつけたのは羽柴秀吉、丹羽長秀といった諸将とその手勢を合わせて、わずか3千程度に過ぎなかった 12。
その間にも、天王寺砦からは「あと三日、いや五日も持ちこたえられそうにない」という悲痛な救援要請がひっきりなしに届く 12 。1万5千の敵に対し、味方は3千。兵力差は5倍。常識的に考えれば、さらなる援軍を待つのが筋であった。しかし、信長はここで非情とも思える決断を下す。『信長公記』によれば、信長はこう述べたという。「このまま光秀らを攻め殺させては、天下の物笑いの種となり、末代までの恥辱である」 12 。個人的な感情以上に、織田家の威信、天下人としての面目をかけて、この寡兵での決戦に臨むことを宣言したのである。
5月7日:魔王の逆襲
未明~早朝 進軍開始
5月7日、夜明けとともに信長は3千の兵を率いて若江城を出陣した。敵の包囲網が手薄と予測された南側へ大きく迂回し、住吉方面から上町台地を北上して天王寺砦に迫るという、意表を突く進軍経路を選択した 12。寡兵を効果的に運用するため、軍は三段構えの陣形を敷いていた 12。
- 第一陣(先鋒): 佐久間信盛、松永久秀、細川藤孝 1
- 第二陣: 羽柴秀吉、丹羽長秀、滝川一益、蜂屋頼隆、稲葉一鉄 1
- 第三陣: 信長本隊と精鋭の馬廻衆 1
午前~正午 壮絶な突撃戦
織田軍の接近を察知した本願寺勢は、砦の包囲を解き、これを迎え撃つ。1万5千の軍勢が鬨の声を上げ、数千挺の鉄砲が火を噴いた。しかし、信長の戦いぶりは彼らの想像を絶していた。総大将である信長自らが、先陣の足軽たちに混じって馬を乗り回し、八方に下知を飛ばしながら突撃を指揮したのである 13。この壮絶な乱戦の最中、信長は敵の放った鉄砲玉を足に受け、軽傷を負った 4。だが、彼は少しも怯むことなく、なおも前線で檄を飛ばし続けた。
午後 反撃と追撃
総大将の鬼神の如き戦いぶりに鼓舞され、死兵と化した織田軍は、ついに本願寺勢の分厚い陣形を中央から切り裂き、天王寺砦への血路を開いた。これに呼応して、砦に籠もっていた明智光秀、佐久間信栄の部隊も打って出る。内外から挟撃される形となった本願寺勢は、指揮系統が混乱し、あれほど統率の取れていた猛攻が嘘のように崩れ始めた 4。
一度崩れた敵を、信長は見逃さなかった。彼は合流した部隊を再編すると、敗走する本願寺勢への猛烈な追撃を命じた。織田軍は逃げる門徒衆を石山本願寺の城門(木戸口)まで追い詰め、この一連の戦闘で2,700余りの首級を挙げたと記録されている 4 。こうして、織田軍方面部隊の壊滅から始まった天王寺の戦いは、信長自身の投入という劇薬によって、織田軍の圧倒的な勝利という形で幕を閉じたのである。
第三部:盤上の駒たち - 両軍の将帥と兵力
この戦いは、両軍の組織構造や将帥の個性が、戦況に決定的な影響を与えた事例としても興味深い。
項目 |
織田軍 |
本願寺・一向一揆軍 |
総兵力 |
当初:数千~1万程度(推定) / 救援軍:約3,000 |
約15,000 |
主要指揮官 |
織田信長, 塙直政†, 明智光秀, 佐久間信栄, 佐久間信盛, 羽柴秀吉, 丹羽長秀 |
顕如(総指導者), 鈴木孫一, 下間頼廉, 下間頼龍 |
中核兵力 |
織田家直属兵, 畿内・近国衆 |
雑賀衆, 根来衆, 畿内門徒衆 |
主力兵器 |
槍、弓、鉄砲 |
鉄砲(数千挺と推定) |
強み |
信長の卓越した指揮能力と決断力、中核武将の戦闘経験 |
圧倒的な鉄砲火力と集団運用、地の利、強固な信仰心 |
弱み |
兵力劣勢、初期対応の失敗による士気低下、海上補給路への無策 |
指揮系統の統一性、騎馬など突撃戦力への対応 |
織田軍
- 総大将・織田信長: この戦いにおける信長の判断と行動は、彼の軍事的才能を如実に示している。敗報に接してからの電撃的な出陣、寡兵での決戦という大胆な意思決定、そして自ら先頭に立って士気を最大化するカリスマ性は、かつての桶狭間の戦いを彷彿とさせる 13 。宣教師ルイス・フロイスが信長を「極度に戦を好み、名誉心に富み、侮辱に対しては懲罰せずにはおかない」と評した通りの人物像が、この一連の行動に見て取れる 20 。
- 討死した方面軍司令官・塙直政: 彼は信長の馬廻、赤母衣衆といった親衛隊出身で、信長の厚い信頼を得て山城・大和の守護にまで抜擢された重臣であった 23 。彼の死は、信長にとって単なる有能な将を失った以上の衝撃であった。それは、自らが立てた対本願寺戦略が、敵の戦闘力を完全に見誤っていたことの何よりの証左だったからである。
- 救出された将・明智光秀: 信長に絶体絶命の窮地を救われたこの経験は、光秀に大きな恩義を感じさせたであろう。信長が「天下の物笑いになる」と語ったように、この救出劇は織田家の威信をかけたものであり、光秀はその中心人物となった。6年後に彼が本能寺で信長を討つことを考えると、この一戦が両者の関係に与えた影響は計り知れない 1 。
- 先陣を拒否した男・荒木村重: 軍議の席で信長から先陣を命じられた際、村重は「我々は木津口の押さえに回る」と述べてこれを辞退したという逸話が『信長公記』に記されている 4 。これは単なる臆病や戦術的な判断ミスとは考えにくい。摂津国主である村重は、領内に多数存在する本願寺門徒との複雑な関係を考慮せざるを得ない立場にあった 26 。この先陣拒否は、信長への完全な服従をためらう彼の政治的スタンスの表明であり、天正6年(1578年)の謀反へと繋がる明確な予兆であったと分析できる 27 。
本願寺・一向一揆軍
- 指導者・顕如と軍事官僚・下間一族: 石山本願寺は、顕如という宗教的カリスマを頂点としながらも、その実務は高度に組織化された官僚機構によって運営されていた。特に下間頼廉(しもつま らいれん)や下間頼龍(しもつま らいりゅう)といった下間一族は、単なる僧侶ではなく、軍事・行政・外交を担う「坊官」として、事実上の大名家における家老の役割を果たしていた 29 。彼らの存在が、本願寺を単なる烏合の衆ではない、統率の取れた戦闘集団たらしめていた。
- 戦場の主役・鈴木孫一と雑賀衆: 「雑賀衆を味方にすれば必ず勝ち、敵にすれば必ず負ける」とまで恐れられた、紀伊国の鉄砲傭兵集団 18 。彼らは特定の主君を持たず、独自の経済力(海運・貿易)を背景に、当時最新鋭の兵器であった鉄砲を大量に保有し、それを駆使した集団戦法を編み出していた 34 。5月3日に塙直政の軍団を壊滅させ、7日には信長自身を負傷させた彼らの圧倒的な火力こそ、この戦いの前半戦を決定づけた最大の要因であった。彼らが実践した鉄砲の集団運用戦術は、後の長篠の戦いにおける信長の鉄砲三段撃ちに何らかの影響を与えた可能性も否定できない 14 。
この戦いは、織田家の「中央集権的・トップダウン型」の軍事機構と、本願寺の「宗教的結束を核としたアライアンス型(門徒+傭兵集団)」の軍事機構との衝突であったと見ることができる。緒戦における織田軍の敗北は、信長の中央からの命令が、雑賀衆の火力という現場の現実を軽視した結果であった。そして最終的な勝利は、信長個人のカリスマというトップダウンの極致が、アライアンス型の本願寺軍の指揮系統を上回り、混乱に陥れたことによってもたらされた。両軍の組織構造の優劣と限界が、わずか数日の間に露呈した戦いであった。
第四部:戦いの残響 - 歴史的意義と後世への影響
天王寺での劇的な勝利は、織田軍の崩壊を防いだが、それは石山合戦における新たな戦いの始まりに過ぎなかった。この一戦は、信長の戦略に大きな転換を促す重要な契機となったのである。
本願寺包囲網の再構築
勝利を得た信長は、直ちに戦後処理に着手した。彼は天王寺砦が持つ戦略的重要性を再認識し、防備を徹底的に強化する。その責任者として、織田家筆頭家老である佐久間信盛と、その子・信栄を配置。さらに近江、伊賀、伊勢など7ヶ国もの大名・国衆を与力として付け、天王寺方面の守りを固めさせた 1 。これは、信長が本願寺勢力の戦闘力を正しく評価し、これまでの付け焼刃の包囲ではなく、「本気」の体制で臨むことを決意した証であった 1 。
海上補給路の重要性の再認識:第一次木津川口の戦いへの序章
天王寺の陸戦には勝利したものの、塙直政が命を賭して断とうとした本願寺の生命線、すなわち大坂湾の海上補給路は依然として健在であった。この戦いで陸からの脅威を痛感した本願寺・毛利方は、ますます海路の重要性を認識する。
そして天王寺の戦いからわずか2ヶ月後の7月13日、毛利輝元が派遣した村上水軍を中心とする大船団が、兵糧を満載して大坂湾に姿を現す。これを迎え撃った織田方の水軍は、毛利水軍が用いた「焙烙火矢(ほうろくひや)」と呼ばれる焼き討ち兵器の前に為すすべもなく壊滅。毛利水軍は本願寺への兵糧搬入を成功させた(第一次木津川口の戦い) 2 。天王寺の戦いで信長が直面した「海路の脅威」が、最悪の形で現実のものとなった瞬間であった。
信長の軍事思想への影響:鉄甲船開発の遠因
雑賀衆の鉄砲に方面軍司令官を討たれ、毛利水軍の焙烙火矢に水軍を焼かれる。天王寺の戦いと第一次木津川口の戦いという一連の苦杯は、信長に「陸戦での勝利だけでは石山合戦に決着はつかない」という厳然たる事実を突きつけた。敵の技術的優位を覆すには、それをさらに上回る革新的な技術を投入するしかない。この結論に至った信長は、戦略の軸足を制海権の奪取へと大きくシフトさせる。そして、志摩国の水軍の将・九鬼嘉隆(くき よしたか)に対し、「焙烙火矢が効かない、燃えない船」の建造を厳命した 37 。これが、後の第二次木津川口の戦いで毛利水軍を打ち破り、石山合戦の趨勢を決する切り札となる、前代未聞の装甲軍艦「鉄甲船」開発の直接的なきっかけとなったのである。
石山合戦における「天王寺の戦い」の再評価
当初、「信長が一時劣勢に陥った前哨戦」という程度の認識で語られることもあった天王寺の戦いは、その歴史的意義を再評価されるべきである。本合戦は、
- 織田家の方面軍団が壊滅し、明智光秀ら重臣が討死する寸前にまで至った、信長政権最大級の軍事的危機であったこと。
- 信長自身が最前線で負傷するほどの激戦であり、彼の個人的な武勇と決断力なくしては勝利し得なかったこと。
-
そして何よりも、その後の織田家の対本願寺・対毛利戦略を「陸」から「海」へと大きく転換させ、鉄甲船という技術革新へと繋がった、石山合戦全体における極めて重要な「戦略的転換点」であったこと。
これらを踏まえれば、天王寺の戦いは、単なる一戦闘ではなく、信長の天下布武事業における重大な試練であり、その後の飛躍への布石となった戦いであったと結論付けられる。
結論:天下布武の前に立ちはだかった巨大な壁
天正4年5月の天王寺の戦いは、織田信長の類稀なる軍事的才能とカリスマ性を改めて天下に証明した、劇的な逆転勝利であった。しかし、その勝利の背景には、方面軍司令官の戦死という痛烈な代償があった。この戦いは、石山本願寺がもはや単なる一宗教勢力ではなく、全国の門徒が持つ強固な信仰心、それを支える莫大な経済力、鈴木孫一率いる雑賀衆のような最新兵器を駆使するプロフェッショナルな戦闘集団、そして毛利氏という西国の大国の支援を受けた、巨大な複合勢力であることを信長に、そして天下に知らしめたのである。
この一戦で信長が学んだ教訓、特に制海権の確保という戦略的課題の重要性は、その後の10年に及ぶ石山合戦の行方を決定づけた。雑賀衆の鉄砲技術に苦しめられた経験は、技術的優位性の重要さを再認識させ、毛利水軍への敗北は、その思考を海戦の分野にまで拡大させた。天下布武という壮大な目標の前に、いかに巨大で、複雑で、そして強靭な壁が立ちはだかっていたか。天王寺の戦いは、その困難さを凝縮して見せた、象徴的な一戦であったと言えよう。
引用文献
- 【解説:信長の戦い】天王寺砦の戦い(1576、大阪府大阪市) 信長、数的優位の本願寺を蹴散らす! | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/13
- 石山合戦 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%B1%B1%E5%90%88%E6%88%A6
- 石山合戦は宗教戦争ではなかった?本願寺が織田信長と戦った「本当の理由」 | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/234
- 天王寺の戦い (1576年) - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%8E%8B%E5%AF%BA%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84_(1576%E5%B9%B4)
- 石山戦争(いしやませんそう)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E7%9F%B3%E5%B1%B1%E6%88%A6%E4%BA%89-1504159
- 天王寺の戦い(石山合戦)/桶狭間の戦いのように少数精鋭で敵を撃破。 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=DYSZvP7_K0w
- 【戦国時代】石山合戦~本願寺と一向一揆の跋扈が信長を苦しめる (2ページ目) - まっぷるウェブ https://articles.mapple.net/bk/1218/?pg=2
- 歴史の目的をめぐって 四天王寺 天王寺(摂津国) https://rekimoku.xsrv.jp/4-ziin-12-shitennouji.html
- 天王寺砦 http://kojousi.sakura.ne.jp/kojousi.tennohji.htm
- 天王寺の戦い(石山合戦)/桶狭間の戦いのように少数精鋭で敵を撃破。 - YouTube https://m.youtube.com/watch?v=DYSZvP7_K0w&pp=ygUHI-e-qeaYjg%3D%3D
- 天正四年 石山合戦比定地図 と信長公記巻九 記述「東南森口森河内両 ... http://blog.livedoor.jp/sengokuaruko/archives/51990527.html
- 天王寺の戦い - 歴旅.こむ http://shmz1975.cocolog-nifty.com/blog/2014/10/post-41d8.html
- 『信長公記』にみる信長像④ 天正大躍進編|Sakura - note https://note.com/sakura_c_blossom/n/n67fc61d77729
- 信長6万の軍勢をも退けた雑賀孫一と鉄砲衆...秀吉・家康も恐れた「雑賀衆」の強さとは? https://rekishikaido.php.co.jp/detail/9889
- 天正4年5月、天王寺砦救援の軍議で織田信長の命令に異儀を立てた荒木村重 https://ike-katsu.blogspot.com/2017/03/45.html
- 織田信長の皮肉な結果|Rem Ogaki - note https://note.com/rem_ogaki/n/n45e8e787d2db
- 織田信長が天正4(1576)年に本願寺と天王寺の辺りで戦った際、織田信長が足に鉄砲傷を受けたそうだが... | レファレンス協同データベース https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?id=1000279679&page=ref_view
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