天目山の戦い(1582)
天正十年、武田勝頼は御館の乱での失策と高天神城見殺しによる信望失墜、木曽義昌の離反が引き金となり、織田・徳川連合軍の甲州征伐で滅亡。天目山で忠臣と共に壮絶な最期を遂げ、名門武田家の歴史に幕を閉じた。
天目山の戦い(1582年):名門武田家、滅亡の刻
序章:巨星墜つ―信玄亡き後の武田家
天正元年(1573年)、戦国最強と謳われた甲斐の虎、武田信玄が陣中に没した 1 。その死は、武田家という巨大な軍事・政治組織の頂点に、絶対的な権威の空白を生じさせた。家督を継いだのは、四男の勝頼であった。信玄の遺言によりその死は3年間秘匿され、勝頼は父の印判を用いて広大な領国を治めることとなる 1 。彼が継承したのは、甲斐・信濃の大部分、駿河全域、そして上野、遠江、三河、飛騨の一部にまで及ぶ版図と、信玄が「人は城、人は石垣、人は堀」と語った精強な家臣団であった 2 。これは紛れもなく「正の遺産」であった。
しかし、その裏側には深刻な構造的脆弱性、すなわち「負の遺産」もまた存在した。勝頼は信玄の側室、諏訪御料人を母としており、その出自は滅ぼされた諏訪氏に連なる。武田宗家の直系とは言い難い彼の立場は、譜代の重臣たちとの間に微妙な距離感を生じさせていた 2 。信玄という絶対的なカリスマが抑え込んできた家臣団内部の軋轢や、拡大しすぎた領国の統治という課題は、勝頼の双肩に重くのしかかった。天目山における悲劇は、単に勝頼個人の資質の問題に帰結するものではない。それは、偉大すぎる指導者を失った巨大組織が、内外の圧力によって崩壊していく過程の記録であり、その序章は信玄の死の瞬間から静かに始まっていたのである。
第一部:凋落への序曲 ― 滅亡を招いた三つの岐路
武田家の滅亡は、天正10年(1582年)3月11日という一日に凝縮されるが、その遠因は数年前に遡る。特に、勝頼の治世において下された三つの重大な戦略的決断が、名門武田家を回復不能な凋落へと導いた。それらは相互に連鎖し、最終的に天目山での悲劇を必然のものとしたのである。
1. 御館の乱(天正6年、1578年):甲相同盟の崩壊という致命傷
天正6年(1578年)、越後の龍・上杉謙信が急死すると、その後継を巡り、養子の上杉景勝と上杉景虎(北条氏政の実弟)の間で家督争いが勃発した。これが「御館の乱」である 3 。武田家と長年の同盟関係にあった相模の北条氏政は、実弟である景虎への支援を勝頼に要請した 3 。勝頼は当初これを受諾し、越後へ兵を進める。
しかし、ここで勝頼は武田家の命運を左右する決断を下す。窮地に陥った上杉景勝から、信濃北部の領地割譲と黄金の提供を条件とする和睦の申し入れがあったのだ 4 。勝頼はこの魅力的な条件を受け入れ、景虎支援から景勝支援へと方針を180度転換する。この決断の背景には、目先の領土と富への欲求に加え、もし景虎が勝利すれば上杉と北条が一体化し、武田領が三日月状に包囲されるという戦略的懸念があったとされる 3 。
だが、この判断は戦術的な短期利益と引き換えに、武田家の長期的な戦略的安定を完全に破壊するものであった。勝頼の背信に激怒した北条氏政は、天正7年(1579年)に20年以上に及んだ甲相同盟を破棄 3 。さらに翌年には徳川家康、そして織田信長と同盟を締結し、ここに「織田・徳川・北条」による対武田包囲網が完成した 3 。
甲相同盟の崩壊は、単なる一外交関係の断絶ではなかった。これにより武田家は東方国境の安全保障を完全に失い、西の織田・徳川、東の北条という二大勢力との二正面作戦を強いられるという、最悪の戦略的環境に自らを追い込んだのである。この兵力の分散こそが、後に遠江・高天神城を見殺しにせざるを得なくなる直接的な原因となる。越後の内乱を自家の勢力拡大の好機と見た勝頼の一手は、結果として自らの首を絞めることになった。これは武田家滅亡への道を開いた、後戻りのできない分岐点であった。
2. 高天神城の戦い(天正9年、1581年):信望の失墜
遠江における武田家の橋頭堡であり、父・信玄ですら一度は攻略に失敗した難攻不落の城、高天神城。天正9年(1581年)、この城は徳川家康の大軍に長期間包囲され、兵糧も尽きかけていた。城主・岡部元信らは必死の抵抗を続け、勝頼に繰り返し救援を求めた 6 。
しかし、勝頼は遂に援軍を送ることができなかった。東方では甲相同盟の破綻により北条氏政が駿河・伊豆国境に圧力をかけており、兵力を東西に引き裂かれた武田軍に、遠江まで大軍を派遣する余力は残されていなかったのである 3 。織田信長はこの状況を冷徹に見抜き、家康に対して高天神城の降伏を絶対に許さぬよう指示していた 7 。信長の狙いは、勝頼に援軍を出させればこれを撃滅し、もし見捨てれば「勝頼は家臣を見殺しにする主君」という悪評を武田領内に流布させ、内部から切り崩すことにあった 7 。
信長の策は的中した。天正9年3月22日、援軍を待ち続けた高天神城はついに落城。岡部元信以下、城兵は徳川軍に最後の突撃を敢行し、ほぼ全員が討死するという壮絶な最期を遂げた 9 。世に言う「高天神崩れ」である。
この敗北が武田家中に与えた衝撃は、一つの城の喪失という軍事的損失を遥かに超えるものだった。「武田家のために命を懸けても、主君は助けに来ない」―この事実は、武田家臣団の勝頼に対する忠誠心と信頼を根底から破壊した 9 。武田の武威というブランドイメージは致命的に毀損され、甲斐・信濃の国衆たちの心に「武田家に未来はない」という深刻な不安を植え付けた。高天神城の落城は、翌年の甲州征伐において、武田家臣団が雪崩を打って裏切る心理的な土壌を醸成した、決定的な内部崩壊の予兆だったのである。
3. 木曽義昌の離反(天正10年1月、1582年):崩壊の引き金
天正10年(1582年)1月、武田家の崩壊を決定づける事件が起こる。信濃木曽谷の領主であり、信玄の娘・真理姫を娶っていた一門衆の木曽義昌が、織田信長に内通し、武田家から離反したのである 11 。その背景には、高天神城の一件で露呈した武田家の将来性への絶望と、勝頼が韮崎に築城中だった新府城の普請役による過大な経済的負担があったとされる 11 。
「親族」による裏切りという事実は、武田家の求心力が完全に失われたことを内外に満天下に示すものであった。この報に激怒した勝頼は、義昌の人質として新府城にいた母や嫡男らを処刑 14 。そして、厳寒の2月2日、自ら1万5千の兵を率いて木曽義昌討伐のため新府城から出陣し、諏訪の上原城に着陣した 12 。
しかし、この行動は冷静な戦略的判断を欠いた感情的な対応であり、信長の仕掛けた罠に自ら飛び込むに等しいものであった。信長はこれを「織田家に寝返った木曽義昌を、武田勝頼が不当に攻撃した」と断じ、「同盟者・木曽義昌を救援する」という大義名分を獲得 11 。2月3日、信長は嫡男・信忠を総大将とする武田討伐軍の出陣を正式に命令した 16 。高天神城で失われた「信頼」が国衆の「離反」を招き、その離反が敵に「侵攻の口実」を与えるという、滅亡に至る負の連鎖がここに完成した。甲州征伐の幕が切って落とされたのである。
第二部:甲州征伐 ― 武田領総崩れの様相(天正10年2月~3月初旬)
木曽義昌の離反を口火に、織田・徳川・北条連合軍による武田領への全面侵攻、すなわち「甲州征伐」が開始された。その様相は、もはや合戦ではなく、巨大な組織が内部から崩壊していく様を見せつける一方的な蹂躙であった。
1. 雪崩を打つ侵攻と裏切りの連鎖
信長の描いた作戦は、武田領を四方から包囲し、一気に殲滅するという壮大なものであった。その侵攻経路と兵力は、武田家にとって絶望的なものであった。
【表1:甲州征伐 主要進軍経路と指揮官一覧】
方面 |
総大将/主要指揮官 |
兵力(推定) |
主要進軍経路 |
備考 |
伊那口(主力) |
織田信忠、滝川一益、森長可、河尻秀隆 |
約30,000 |
岐阜→木曽谷→伊那→高遠城→諏訪→甲府 |
武田軍主力を撃破する本隊 |
駿河口 |
徳川家康 |
約15,000 |
浜松→駿府→甲斐南部 |
穴山信君の寝返りを誘発 |
関東口 |
北条氏政・氏直 |
約50,000 |
小田原→御坂峠・小仏峠→甲斐東部 |
武田領東部を制圧 |
飛騨口 |
金森長近 |
約3,000 |
飛騨→信濃安曇郡 |
武田領の背後を突く |
出典: 16
合計10万に迫る大軍が、四方から怒涛の如く押し寄せた 16 。この圧倒的な兵力差と、すでに瓦解していた家臣団の忠誠心を前に、武田方の防衛線は蜘蛛の子を散らすように崩壊した。
2月6日、織田軍の先鋒が信濃に侵攻を開始すると、在地領主の寝返りが続出 16 。14日には信濃松尾城主・小笠原信嶺が織田方に降伏。16日、木曽義昌軍が武田方の討伐軍を鳥居峠で撃退 16 。飯田城主・保科正直は戦わずして城を捨て、高遠城へ逃亡した 16 。
そして、武田家にとって最大の打撃となったのが、一門衆の筆頭であり、駿河方面の統治を任されていた穴山信君(梅雪)の裏切りであった。彼はかねてより徳川家康に内通しており、家康が駿河に侵攻すると早々に降伏し、その先導役を務めた 18 。譜代の重臣中の重臣、そして信玄の娘婿ですら武田家を見限ったという事実は、もはや組織的な抵抗が不可能であることを誰の目にも明らかにした。
2. 高遠城、孤塁の抵抗 ― 武田武士最後の意地
裏切りと逃亡が相次ぐ中、ただ一箇所、武田武士の意地と誇りが燃え盛った場所があった。信濃伊那郡の要衝、高遠城である。城を守るのは、信玄の五男・仁科五郎盛信。わずか3千の兵で、織田信忠率いる3万とも5万ともいわれる主力軍を迎え撃った 19 。
信忠は盛信に対し、降伏を勧告する使者を送った。しかし、盛信はその申し出を敢然と拒絶。返礼として、使者として送られてきた僧侶の耳と鼻を削ぎ落として送り返し、徹底抗戦の意思を示した 20 。
天正10年3月2日、織田軍による高遠城への総攻撃が開始された。衆寡敵せず、戦いの趨勢は初めから明らかであった。しかし、盛信と城兵たちの抵抗は凄まじかった。城兵は死に物狂いで戦い、女子供までもが石を投げ、弓を引いて応戦したと伝わる 21 。信忠自らが塀の上で采配を振るうほどの激戦となり、織田軍にも300人以上の死者が出た 20 。
しかし、圧倒的な物量の前に、孤立無援の城が持ちこたえられるはずもなかった。城はわずか一日で陥落し、仁科盛信は炎上する城内で自刃して果てた。享年26 20 。その首級は京の一条の辻に、後に自刃する勝頼・信勝父子のものと共に晒されることになる 20 。
仁科盛信の玉砕は、軍事的には何の意味も持たなかった。しかし、穴山信君や木曽義昌らの現実的な裏切りが続く中で、彼の行動は非合理的ともいえる純粋な「忠義」の発露であった。その壮絶な最期は、滅びゆく武田家にあって、その武威が完全に地に堕ちたわけではないことを示す最後の証であり、滅亡の悲劇性を一層際立たせる鮮烈なコントラストとして、歴史に刻まれたのである。
第三部:天目山への道 ― 最後の十日間(3月3日~3月11日)
高遠城がわずか一日で陥落したという報は、諏訪上原城にいた武田勝頼に絶望的な現実を突きつけた。織田軍主力が目前に迫る中、勝頼一行の死への逃避行が始まった。ここからの十日間は、栄華を誇った名門武田家が、裏切りと離散の果てに消滅していく様を克明に記録している。
【表2:武田勝頼 最後の十日間 行動年表】
日付(天正10年) |
場所 |
主要な出来事 |
残存兵力(推定) |
3月2日 |
- |
高遠城が陥落。 |
- |
3月3日 |
新府城 |
軍議。小山田信茂の岩殿城行きを決定。新府城に放火し脱出。 |
約500~600名 |
3月4日~8日 |
甲斐国内 |
岩殿城へ向けての逃避行。途中、離反者が続出。 |
漸減 |
3月9日 |
笹子峠 |
小山田信茂の裏切り。行く手を阻まれる。 |
約100名 |
3月10日 |
鶴瀬 |
織田軍の追撃を振り切り、天目山方面へ。 |
約50~60名 |
3月11日 |
田野 |
滝川一益軍に捕捉される。最後の戦いの後、勝頼・信勝・北条夫人自刃。武田宗家滅亡。 |
約40~50名 |
出典: 11
1. 新府城の軍議(3月3日):運命の選択
高遠城陥落の報を受け、勝頼は急ぎ本拠地である新府城へ帰還した。しかし、この城はまだ築城途中の未完成であり、大軍を相手に籠城することは不可能であった 24 。3月3日、ここで武田家の運命を決定づける最後の軍議が開かれた。絶望的な状況の中、二つの進言がなされた。
一つは、知略で知られる真田昌幸からの提案であった。自らの居城であり、堅固な山城である上野・岩櫃城への退避を進言したのである 16 。岩櫃城は関東への脱出路も確保でき、再起を図る上では戦略的に最も生存の可能性が高い選択肢であった。
もう一つは、譜代の重臣である小山田信茂からの提案であった。自身の居城であり、難攻不落を誇る郡内・岩殿城への退避を強く主張した 27 。信茂は「岩殿城にお迎えすれば、必ずやお守りいたします」と請け合ったという。
極限状態に追い詰められた勝頼は、ここで運命の選択を迫られる。そして彼は、外様の真田昌幸よりも、父の代から仕える譜代家臣、小山田信茂の言葉を信じることを選んだ 28 。極限状況において、人は合理的な戦略よりも、旧来の人間関係という「情」にすがりつく傾向がある。崩壊しつつある家臣団の中で、勝頼にとって信茂は最後に残された「信頼の象徴」に見えたのかもしれない。彼は戦略的な合理性(真田案)よりも、精神的な安寧(小山田案)を無意識に選択してしまった。
決断は下された。勝頼は自らの手で、完成を見ることのなかった新府城に火を放ち、小山田信茂を頼って岩殿城を目指すこととなった 11 。この時、勝頼に従う兵はまだ500から600名ほどいたとされる 26 。
2. 裏切りの笹子峠(3月9日頃):最後の希望の断絶
岩殿城への道は、過酷な逃避行であった。勝頼一行が落ち延びていく中、付き従う兵たちは次々と逃亡し、その数は日を追うごとに減っていった。そして3月9日頃、一行が郡内への入り口である笹子峠に差し掛かった時、最後の希望は無慈悲に断ち切られた。
勝頼を迎え入れる準備をすると言って先行していたはずの小山田信茂が、突如として謀反を起こしたのである。信茂は峠道を封鎖し、勝頼一行に向けて鉄砲を撃ちかけ、その行く手を完全に阻んだ 23 。
信茂の裏切りの背景には、もはや武田家に未来はなく、勝頼と運命を共にすれば自らの一族と領地も滅びるという冷徹な計算があった 30 。彼は織田方へ降伏するための手土産として、主君の首を選んだのである。人質として新府城にいた自らの母親を力ずくで奪い返した上で、この裏切りに及んだとされている 31 。
最も信頼した譜代家臣からの裏切りは、勝頼の心を完全に打ち砕いた。進むべき道を失った一行は、完全に逃げ場を失い、武田家由縁の地である天目山方面へと迷走せざるを得なくなった。この時点で、勝頼に従う者はわずか数十名にまで激減していた 23 。
第四部:田野に露と消ゆ ― 武田家滅亡の刻(天正10年3月11日)
小山田信茂の裏切りによって最後の逃げ道を断たれた武田勝頼一行は、天目山を目指して彷徨った。しかし、その山麓の田野(現・山梨県甲州市大和町)の地で、ついに織田信忠軍の先鋒、滝川一益率いる追手に捕捉された。天正10年3月11日、名門・甲斐武田家、最後の刻が訪れた。
午前:最後の陣、田野
この時、勝頼の傍らに残ったのは、土屋昌恒、小宮山友晴、秋山紀伊守、阿部加賀守ら、わずか40名から50名ほどの忠臣たちだけであった 23 。対する滝川一益、河尻秀隆らの軍勢は数千 32 。もはやそれは合戦ではなく、一方的な掃討戦に等しかった。勝ち目のないことを悟った一行は、田野の地にあった民家に急ごしらえの柵を設け、そこを最後の陣所と定めた 26 。
正午:忠臣たちの奮戦
織田軍が四方から鬨の声をあげて殺到する中、武田の家臣たちは主君が自刃するための時間を稼ぐべく、死力を尽くして奮戦した。
鳥居畑と呼ばれる場所では、秋山紀伊守、阿部加賀守らが100人に満たない兵で数千の敵を迎え撃った 33 。多勢に無勢、数度にわたり敵を撃退するも、やがて全員が討死。しかし、この彼らの壮絶な抵抗が、勝頼一行に最後の覚悟を定めるための貴重な時間をもたらした 33 。
中でも、後世にまで語り継がれる鬼神の如き働きを見せたのが、勝頼の側近・土屋惣蔵昌恒であった。彼は日川の渓谷沿いにあった、人一人がようやく通れるほどの狭隘な崖道に一人で立ち塞がった 34 。そして、片手で岩肌の藤蔓に掴まりながら、もう一方の手に持った太刀を振るい、押し寄せる敵兵を次々と斬り倒しては崖下の川へ蹴落としていったという 34 。その奮戦により、川の水は三日間血で赤く染まったと伝えられ、この働きは「片手千人斬り」の伝説として知られることとなる 36 。土屋昌恒の比類なき忠義によって、勝頼は敵兵にその身を汚されることなく、自らの手で生涯を終えることができたのである。
午後:辞世の刻
忠臣たちが死力を尽くして時間を稼ぐ中、柵の内では、武田家最後の儀式が執り行われていた。勝頼は、嫡男・信勝(当時16歳)の元服を済ませ、武田家の家督と家宝の「御旗・楯無」の鎧を譲った。これにより、武田家は20代当主・信勝の代で滅びるという形を整え、名門としての最後の体面を保ったのである。
もはやこれまでと覚悟を定めた一行は、静かに自刃の座についた。巳の刻(午前11時頃)であったと伝わる 38 。
最初に刃を握ったのは、勝頼の正室・北条夫人であった。享年19。彼女は兄・北条氏政が弟・上杉景虎を見捨てた勝頼を許さなかったことを恥じ、「何の面目あって小田原に帰れましょうか」と述べ、夫と共に死を選んだ 39 。
黒髪の 乱れたる世ぞ はてしなき 思いに消ゆる 露の玉の緒 39
(乱れ髪のようなこの乱世には果てしない思いがあるけれど、私の命は露のように儚く消えていく)
続いて、元服したばかりの武田信勝が自刃。享年16。
あだに見よ 誰もあらしの 桜花 咲ちるほどは 春の夜の夢 42
(嵐の中で咲き、そしてすぐに散っていく桜のように、人の世は春の夜の夢の如く儚いものだ)
そして最後に、武田勝頼が腹を十文字に切り裂き、その生涯を閉じた。享年37。
朧なる 月のほのかに 雲かすみ 晴て行衛の 西の山の端 38
(朧月にかかる雲や霞が晴れていくように、私の迷いも晴れ、行く先である西の山の端、すなわち極楽浄土へと向かうのだ)
こうして、源氏の名門として甲斐に君臨し、信玄の代にその威勢を天下に轟かせた武田宗家は、天目山の麓、田野の地で完全に滅亡した。
終章:滅亡の後、そして歴史の奔流へ
武田家の滅亡は、一個の大名家の終焉に留まらず、戦国時代末期の権力構造を根底から揺るがし、次なる動乱の時代へと繋がる巨大なインパクトを歴史に与えた。
1. 残党狩りと新たな秩序
武田勝頼父子の自刃後、織田信長は武田家関係者の徹底的な殲滅を命じた。甲斐・信濃では苛烈な「残党狩り」が行われ、武田一族や旧臣の多くが命を落とした 43 。しかし、信玄の次男・海野信親の子や、七男・安田信清などは家臣に匿われて生き延び、江戸時代には高家武田家や米沢武田家としてその血脈を後世に伝えている 44 。
一方、広大であった旧武田領は、信長による論功行賞によって分割された。上野国と信濃二郡は滝川一益、甲斐国は河尻秀隆、信濃四郡は森長可、そして同盟者である徳川家康には駿河国が与えられた 17 。この新たな支配体制は、信長の武威を背景としたものではあったが、現地の国衆との関係は希薄であり、極めて不安定な火種を内包していた。
2. 本能寺への道 ― 歴史の皮肉
長年の宿敵であった武田家を滅ぼしたことで、織田信長の天下統一事業は最終段階に入ったかに見えた。この空前の大勝利は、信長自身に一種の油断や慢心を生んだ可能性も指摘されている。戦後、信長は同盟者の徳川家康を安土城に招いて盛大に饗応するなど、戦後処理と新たな秩序の構築に着手した 46 。
しかし、歴史の歯車は誰も予期せぬ方向へと回転する。武田家滅亡からわずか3ヶ月後の天正10年6月2日、京の本能寺において信長が家臣・明智光秀に討たれるという、日本史上最大級の政変「本能寺の変」が勃発したのである 46 。
信長の死という絶対的な権力の真空は、旧武田領に即座に波及した。信長から派遣されていた支配者たち(滝川一益、河尻秀隆ら)は後ろ盾を失い、その支配体制は一挙に崩壊。この主のいない広大な土地を巡り、徳川家康、北条氏政、上杉景勝が激突する新たな争乱「天正壬午の乱」が勃発する 44 。
結局のところ、天目山の戦いは単に武田家が滅んだというだけの事件ではなかった。それは、織田政権の構造的な脆さを露呈させると同時に、徳川家康が甲斐・信濃を手中に収め、後の天下人への足がかりを掴む「天正壬午の乱」へと直結する、戦国史の大きな転換点であった。一つの時代の終焉が、皮肉にも次なる動乱の時代の序章となったのである。武田勝頼の辞世の句に詠まれた「晴て行衛」は、彼自身にとっては極楽浄土であったかもしれないが、歴史にとっては、さらなる混沌の幕開けを意味していた。
引用文献
- 信玄の後継者・武田勝頼が辿った生涯|長篠の戦いで敗れ、武田氏を滅亡させた若き猛将【日本史人物伝】 | サライ.jp https://serai.jp/hobby/1124110
- 【武田勝頼】組織内外との信頼関係の構築に失敗し長篠で敗北 - 戦国SWOT https://sengoku-swot.jp/swot-takedakatsuyori/
- 御館の乱 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E9%A4%A8%E3%81%AE%E4%B9%B1
- 「御館の乱」で勝頼が犯した戦略ミスと領土再拡大 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/20328
- 御館の乱〜上杉景勝と景虎の謙信後継をめぐる跡目争い - 北条高時.com https://hojo-shikken.com/entry/2016/09/27/091750
- 武田勝頼が滅亡したのは信長と同盟を考え高天神城を見捨てたから? - ほのぼの日本史 https://hono.jp/sengoku/takeda-sengoku/katuyori-takatenjin/
- NHK大河ドラマではとても放送できない…織田信長が徳川家康に下した「武田軍を皆殺しせよ」という知略 「高天神城の688人」を見捨てた武田勝頼の末路 (3ページ目) - プレジデントオンライン https://president.jp/articles/-/70410?page=3
- 【高天神城】武田勝頼と徳川家康が争奪戦を繰り広げた城 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=3f0g-fTBvE8
- 致命傷となった高天神城落城と武田氏の滅亡 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/20330
- 高天神城の戦い&織田信長の陰謀 #どうする家康 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=eatiCoonQT8
- 新府城跡~武田勝頼が築いた新府城:韮崎市~ - 中世歴史めぐり https://www.yoritomo-japan.com/kai/sinpujyo.html
- 武田勝頼の新府城阯を歩く~山梨観光 歴史と文学の旅 https://sirdaizine.com/travel/Shinpujyou.html
- 武田勝頼を裏切った者たちの末路 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=6oGzhxZuqNE
- 1582年(前半) 武田家の滅亡 | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1582-1/
- 【山梨県】新府城の歴史 武田勝頼が築いた悲運の城 - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/1906
- 【合戦図解】甲州征伐〜迫る織田・徳川!甲斐の名門武田家滅亡の軌跡〜 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=nd4ty1cf7Dw
- 甲州征伐 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B2%E5%B7%9E%E5%BE%81%E4%BC%90
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- 仁科五郎盛信 - 武田氏最後の武将 - 信州教育出版社 https://www.shinkyo-pub.or.jp/catalog/book_catalog/bc0014.pdf
- 仁科盛信 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%81%E7%A7%91%E7%9B%9B%E4%BF%A1
- 【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】悲劇の舞台③――玉砕の舞台になった城・高遠城 https://kojodan.jp/blog/entry/2022/05/02/100000
- 高遠城跡の魅力をご紹介 - 伊那市 https://www.inacity.jp/kurashi/shogaigakushu_bunka/bunkazai/takatojyoseki.html
- 甲州征伐・天目山の戦い~武田勝頼の滅亡~ - 中世歴史めぐり https://www.yoritomo-japan.com/sengoku/ikusa/koshu-seibatu.html
- 新府城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E5%BA%9C%E5%9F%8E
- 新府城2 (山梨県韮崎市中田町 リテイク) - らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~ https://ranmaru99.blog.fc2.com/blog-entry-626.html?sp
- 山梨県甲州市・武田氏最後の激戦地~天目山の戦い - 季節の話題(長野県内の市町村) http://wingclub.blog.shinobi.jp/%E3%80%90short%20trip%E3%80%91%E5%B1%B1%E6%A2%A8%E7%9C%8C/%E3%80%90%E5%B1%B1%E6%A2%A8%E7%9C%8C%E7%94%B2%E5%B7%9E%E5%B8%82%E3%83%BB%E6%AD%A6%E7%94%B0%E6%B0%8F%E6%9C%80%E5%BE%8C%E3%81%AE%E6%BF%80%E6%88%A6%E5%9C%B0%EF%BD%9E%E5%A4%A9%E7%9B%AE%E5%B1%B1%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84%E3%80%91
- 悲曲・武田氏の末路 http://ktymtskz.my.coocan.jp/A2/Kosyu1.htm
- 鉄道唱歌にも悪しざまに唄われる小山田信茂の岩殿城 https://yamasan-aruku.com/aruku-319/
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