最終更新日 2025-08-25

姉川の戦い(1570)

元亀元年、織田・徳川連合軍は姉川で浅井・朝倉連合軍と激突。織田軍の苦戦を徳川家康の側面攻撃が救い、勝利を収めた。この戦いは浅井・朝倉氏滅亡の端緒となり、信長包囲網形成の引き金ともなった。

姉川の戦い(1570年)に関する専門的調査報告書

序章:姉川を血に染めたもの

元亀元年6月28日(西暦1570年8月9日)、近江国姉川の河原は、数万の兵たちの鬨の声と鉄の匂い、そして流れる血で満たされた。後に「姉川の戦い」として知られるこの合戦は、天下布武を掲げる織田信長が、その覇業の途上で直面した最初の大きな試練であった。それは、かつて義兄弟の契りを交わした浅井長政との決裂が生んだ、悲劇的な戦いでもある。

一般的にこの戦いは、織田・徳川連合軍が浅井・朝倉連合軍を打ち破り、浅井・朝倉両氏の滅亡への道を決定づけた戦術的勝利として語られる 1 。しかし、その表層的な理解に留まることは、この合戦が持つ歴史的な重層性を見過ごすことにつながる。姉川の戦いは、単なる一合戦ではない。それは、戦国時代の武将たちが抱えた信義と野心の葛藤、個人の武勇が戦局を左右した中世的戦闘様式から組織的戦術が勝敗を決する近世的戦闘様式への過渡期、そして何よりも、一つの戦術的勝利がより大きな戦略的苦境を招くという戦争の普遍的な逆説を内包した、極めて象徴的な出来事であった。

本報告書は、姉川の戦いを、その前哨戦である「金ヶ崎の退き口」から説き起こし、両軍の布陣、合戦のリアルタイムな経過、そして戦後の戦略的影響に至るまで、あらゆる側面から徹底的に詳述する。逸話や伝説と史実を慎重に切り分け、多角的な視点から分析を加えることで、姉川の河原を血に染めたものが何であったのか、その深層に迫ることを目的とする。

第一章:決裂への序曲 ― 金ヶ崎の悪夢

第一節:信義と野心の間 ― 織田・浅井・朝倉の三角関係

姉川の悲劇の根源は、織田信長、浅井長政、そして朝倉義景という三者の間に結ばれた、複雑かつ脆弱な関係性にある。尾張から急速に勢力を拡大した信長は、上洛の経路を確保するため、北近江を支配する浅井長政との同盟を画策した。この同盟を強固なものとするため、信長は妹であるお市の方を長政に嫁がせた 3 。この婚姻は単なる政略に留まらず、信長と長政という二人の若き武将の間に、一定の個人的信頼関係を築く基盤となった可能性が考えられる。

事実、永禄11年(1568年)、信長が足利義昭を奉じて上洛を敢行した際、浅井長政はその先導役として重要な役割を果たし、南近江の六角氏を共に打ち破るなど、両者の協力関係は当初、極めて良好であった 5

しかし、この新しい同盟には、当初から構造的な欠陥が存在した。浅井家は、長政の祖父の代から、越前の大名である朝倉家と数代にわたる強固な同盟関係にあったのである 6 。この父祖伝来の旧交は、新興勢力である織田家との新しい同盟とは比較にならないほどの重みを持っていた。信長と長政の同盟には、「浅井家は朝倉家を攻めない」という暗黙の、あるいは明文化された了解事項があったと見られている 7 。この三者の関係は、信長が朝倉家に対して敵対行動を取らない限りにおいて、かろうじて均衡を保っていたに過ぎなかった。

第二節:金ヶ崎の退き口 ― 裏切りか、苦渋の決断か

その均衡が破られたのが、元亀元年(1570年)4月のことである。信長は再三の上洛命令を無視する朝倉義景を討伐するため、突如として大軍を率いて越前へ侵攻した 6 。この行動は、長政との約束を一方的に反故にするものであった 3

朝倉方の城を次々と攻略していた信長の下に、衝撃的な報せが届く。「浅井長政、裏切り」。長政は信長との同盟を破棄し、朝倉方に与して織田軍の背後を遮断したのである 4 。これにより織田軍は、前方の朝倉軍と後方の浅井軍に挟撃される絶体絶命の危機に陥った。

この長政の行動は、後世「裏切り」として非難されることが多い。しかし、当時の価値観に立てば、それは異なる様相を呈する。長政は、新興の義兄(信長)との信義と、父祖以来の盟友(朝倉)との旧交との間で、究極の選択を迫られたのである。約束を破った信長への不信感も相まって、彼が旧来の信義を履行することを選んだのは、戦国武将として苦渋に満ちた、しかしある意味で当然の決断であったとも言える。

信長は、木下秀吉(後の豊臣秀吉)、明智光秀、そして同盟者である徳川家康らが決死の殿(しんがり)を務める間に、わずかな供回りとともに命からがら京へと逃れた 6 。この屈辱的な敗走劇「金ヶ崎の退き口」は、信長の心に浅井長政への凄まじい復讐の炎を燃え上がらせた。なお、この時にお市の方が両端を縛った小豆袋を信長に送り、挟撃の危機を知らせたという逸話は有名であるが、その史実性については後世の創作である可能性が高い 9

第三節:復讐の炎 ― 信長の迅速なる再起

京から岐阜城へ帰還した信長は、驚異的な速さで行動を開始した。金ヶ崎での敗走からわずか2ヶ月足らずで軍備を再編し、浅井討伐のための再出陣の準備を整えたのである 4 。この迅速な動員力は、信長の非凡な組織運営能力と、長政への燃え盛る執念を物語っている。

この再起において、信長は単なる軍事力の再建に留まらなかった。金ヶ崎での危機は、彼に力押しだけでは近江を制圧できないという教訓を与えていた。彼は調略の手を伸ばし、近江の有力国衆であった堀秀村を浅井方から寝返らせることに成功する 4 。これにより、美濃と近江の国境に位置する長比城や刈安尾城が織田方の手に落ち、信長の進軍路は安全に確保された。この成功は、軍事と調略を組み合わせた信長の戦略が、姉川の戦いに向けて始動したことを示している。復讐の舞台は整った。

第二章:姉川対陣 ― 両軍の兵力、武将、そして布陣

第一節:戦場の地政学 ― 姉川、小谷城、横山城

姉川の戦いの主戦場は、その名の通り、琵琶湖の北東を流れる姉川の河原である。伊吹山地を源流とするこの川の周辺は、広大な平野が広がっており、大軍の展開に適した地形であった 11 。このような開けた場所での会戦は、兵力で優る側が圧倒的に有利となる。

浅井氏の居城である小谷城は、標高約500メートルの険しい山に築かれた難攻不落の山城であった 7 。信長は、この城を直接攻撃することが多大な犠牲を伴う愚策であると理解していた。そこで彼は、小谷城の南方に位置する支城・横山城を包囲する作戦を選択した 4 。横山城は、小谷城と南近江を結ぶ戦略上の要衝であり、浅井氏のもう一つの重要拠点である佐和山城との連絡路を確保する上でも欠かせない存在であった 13

信長のこの一手は、極めて計算された「戦略的挑発」であった。籠城して持久戦に持ち込みたいであろう浅井長政にとって、横山城の陥落は小谷城の孤立を意味するため、決して見過ごすことはできない。信長は横山城を攻めることで、長政を兵力で劣るにもかかわらず、自軍が有利な平野での野戦へと引きずり出すことを狙ったのである。

第二節:両軍の戦力 ― 兵力差の実態と諸説

姉川の戦いにおける両軍の兵力については、史料によって若干の差異が見られるものの、織田・徳川連合軍が圧倒的に優勢であったことは一致している。『信長公記』などの信頼性の高い史料を基にすると、おおよその兵力は以下の通りである。

  • 織田・徳川連合軍 : 約23,000~30,000名
  • 織田軍: 約20,000~24,000名 5
  • 徳川軍: 約5,000~6,000名 5
  • 浅井・朝倉連合軍 : 約13,000~18,000名
  • 浅井軍: 約5,000~8,000名 5
  • 朝倉軍: 約8,000~10,000名 5

この歴然とした兵力差は、両軍の戦術に決定的な影響を与えた。数で劣る浅井・朝倉連合軍は、敵の戦力が完全に集結し、組織的な攻撃態勢を整える前に、短期決戦を挑んで活路を見出す必要があった。一方、数で優る織田・徳川連合軍は、焦ることなく着実に敵を消耗させ、最終的な勝利を掴むという基本戦略を描いていたと考えられる。

第三節:決戦の布陣 ― 運命の対峙

元亀元年6月24日、信長は計画通り横山城を包囲し、姉川南岸の竜ヶ鼻(現在の茶臼山古墳)に本陣を構えた 10 。ここへ、三河から徳川家康が率いる精鋭5,000余りが合流する。家康は当初、信長と同じ竜ヶ鼻に布陣したが、後に西方の岡山(おかやま)へと陣を移した 9

一方、浅井方の小谷城にも、朝倉義景の甥(従甥説もある)である朝倉景健(かげたけ)が率いる8,000余りの援軍が到着し、城の東に位置する大依山に布陣した 8 。これに浅井長政率いる5,000余りが加わり、連合軍の士気は高まった。

信長の挑発通り、浅井・朝倉連合軍は横山城を見殺しにできず、野戦を決意する。6月27日夜、連合軍は大依山を出立し、翌28日未明、姉川を前にして北岸に布陣を完了した 14 。西の野村方面に浅井長政の軍勢が、東の三田村方面に朝倉景健の軍勢が陣を構えた。

これに対し、姉川南岸では、浅井軍と織田信長の本隊が、朝倉軍と徳川家康の軍勢が、それぞれ川を挟んで対峙する構図が完成した 5 。運命の夜が明けようとしていた。

【姉川の戦い 両軍戦闘序列表】

軍団

総大将

主要武将

推定兵力

布陣位置(対峙相手)

織田・徳川連合軍

織田信長

坂井政尚、池田恒興、木下秀吉、柴田勝家、森可成、佐久間信盛、稲葉一鉄(別動隊)

約23,000

姉川南岸・野村方面(浅井軍)

徳川家康

酒井忠次、小笠原長忠、石川数正、本多忠勝、榊原康政

約5,000~6,000

姉川南岸・三田村方面(朝倉軍)

浅井・朝倉連合軍

浅井長政

磯野員昌、浅井政澄、遠藤直経、阿閉貞征、新庄直頼

約5,000~8,000

姉川北岸・野村方面(織田軍)

朝倉景健

朝倉景鏡、前波景当、真柄直隆(十郎左衛門)、真柄直澄

約8,000~10,000

姉川北岸・三田村方面(徳川軍)

第三章:合戦詳報 ― 黎明から決着までの時間軸

午前6時頃(開戦)

元亀元年6月28日、夜明けと共に姉川の静寂は破られた。東の三田村方面で、徳川軍の先鋒、酒井忠次と小笠原長忠の部隊が鬨の声を上げ、姉川を渡り始めた 8 。対岸に布陣する朝倉軍への攻撃開始である。この動きを合図とするかのように、西の野村方面でも織田軍の鉄砲隊が火を噴き、浅井軍へ向けて一斉に攻撃を開始。ここに、姉川の戦いの火蓋が切られた。

午前7時~8時頃(織田軍の苦戦と浅井軍の猛攻)

兵力で劣る浅井軍は、緒戦に全てを賭けていた。先鋒大将を務めるは、浅井家随一の猛将と謳われた佐和山城主・磯野員昌(かずまさ)。員昌率いる精鋭部隊は、凄まじい気迫で姉川を渡河し、織田軍の陣へ突撃した 13

その勢いは凄まじく、織田軍の第一陣・坂井政尚の部隊は瞬く間に突き破られ、政尚の子・尚恒が討死 15 。員昌の部隊は止まらない。第二陣の池田恒興、第三陣の木下秀吉、第四陣の柴田勝家といった織田軍の主だった武将たちの陣を次々と突破していった 13 。この磯野員昌の獅子奮迅の働きは、後世の軍記物『浅井三代記』などで「員昌の姉川十一段崩し」として伝説化されることになる 14

この逸話には後世の創作や誇張が含まれる可能性が高いものの、磯野隊が織田軍の防衛線を実に11段にわたって突き崩し、信長の本陣まであと一歩のところまで肉薄したことは、複数の記録からうかがえる 13 。信長自身も本陣を後退させざるを得ないほどの危機的状況であり、一時は織田軍の敗色すら濃厚となった 8

午前8時~9時頃(戦局の転換点 ― 徳川の「横槍」)

織田軍が崩壊の危機に瀕していた頃、東の徳川軍の戦線では、戦局を覆す決定的な動きが生まれようとしていた。徳川家康は、対峙する朝倉軍が兵力に任せて戦線を長く伸ばしすぎ、側面の防御が手薄になっているという戦術的な弱点を見抜いていた 8

家康は、若き勇将・榊原康政に別動隊を率いさせ、姉川を大きく迂回して朝倉軍の側面に回り込むよう、密かに命令を下した 12 。この判断は、戦場全体を冷静に俯瞰していた家康の将器を示すものである。

榊原隊の攻撃は、まさに「横槍」であった 4 。全く予期していなかった側面からの奇襲を受け、朝倉軍は統制を失い、大混乱に陥った。前方の徳川本隊と側面の榊原隊からの挟撃を受け、朝倉軍はあっけなく総崩れとなり、越前方面へと敗走を開始した。この榊原康政による側面攻撃こそ、姉川の戦い全体の流れを決定づける、まさしく転換点であった。

午前9時~10時頃(決着と敗走)

朝倉軍を撃破した徳川軍は、一息つく間もなく、その勢いのまま西へ転進した。苦戦を続ける織田軍を救援するため、今度は猛攻を続ける浅井軍の側面に襲いかかったのである 10

時を同じくして、南の横山城を包囲していた稲葉一鉄(良通)らの織田軍別動隊も、本陣の危機を聞きつけて戦場に駆けつけ、浅井軍の後方から攻撃を開始した 4

正面の織田軍本隊、側面からの徳川軍、そして後方からの別動隊。三方向からの攻撃に晒された浅井軍は、磯野員昌の奮戦も虚しく、遂に持ちこたえきれずに崩壊した。長政は退却を決断し、小谷城へと敗走を開始した。

この一連の戦いは、磯野員昌のような個人の武勇が戦況を大きく動かす中世的な側面と、家康の組織的な戦術判断が最終的な勝敗を決するという近世的な側面が混在しており、戦国時代の戦闘様式が過渡期にあったことを象徴している。

午前10時以降(追撃戦と終結)

織田・徳川連合軍は、敗走する浅井・朝倉軍に対し、執拗な追撃戦を展開した。この追撃戦の最中、朝倉方の猛将・真柄十郎左衛門直隆が、刃長5尺3寸(約160cm)と伝わる大太刀「太郎太刀」を振るって奮戦し、殿として味方の退却を助けたが、徳川軍の猛攻の前に力尽き、討ち取られたという逸話が残っている 9

信長は小谷城の麓まで追撃し、城下町を焼き払ったが、城の堅固さを見て深追いは危険と判断し、軍を転進させた 5 。そして、本来の目標であった横山城へ軍を向けた。主力を失った横山城は同日のうちに降伏・開城し、木下秀吉が城番として入城した 8 。午前10時頃には大勢が決したとされるこの合戦は、織田・徳川連合軍の戦術的勝利で幕を閉じた。

第四章:戦後の動静と歴史的意義

第一節:血塗られた川 ― 甚大な被害と戦場の記憶

姉川の戦いは、両軍合わせて数時間という短期決戦であったにもかかわらず、その被害は甚大であった。戦死者は、浅井・朝倉軍が1,700名以上、織田・徳川軍が800名以上、合計で2,500名以上にのぼったと記録されている 1 。負傷者はその数倍に達したと言われ、姉川の水は将兵たちの流した血で三日三晩赤く染まったと伝えられている 3

この合戦の凄惨さは、今なお古戦場周辺に残る地名からも窺い知ることができる。徳川軍と朝倉軍が激突したとされる場所には「血原(ちはら)」、そして川には「血川(ちかわ)」という名が残り、この地で繰り広げられた死闘の記憶を現代に伝えている 1

第二節:落日の始まり ― 浅井・朝倉氏の衰退

姉川での敗北は、浅井・朝倉両氏にとって致命的な打撃となった。特に浅井氏は、磯野員昌をはじめとする多くの有力武将と主力の兵をこの一戦で失い、その軍事力は著しく弱体化した 8 。以後、両氏は完全に守勢に立たされ、織田信長の圧迫の前にじりじりと追い詰められていく。

この戦いは、浅井・朝倉両氏の滅亡への道を決定づけた、まさしく落日の始まりであった 1 。姉川の戦いから3年後の天正元年(1573年)、朝倉義景は刀禰坂の戦いで信長に惨敗して自害、そして浅井長政も居城・小谷城を包囲され、28歳(29歳説あり)の若さで自刃し、両氏は歴史の舞台から姿を消すことになる 7

第三節:勝利の代償 ― 「信長包囲網」の形成

姉川の戦いにおける織田・徳川連合軍の圧勝は、織田信長の強大さを畿内およびその周辺の諸勢力に改めて見せつける結果となった。しかし、この勝利は皮肉な結果をもたらす。信長の力が突出していることを目の当たりにした諸勢力は、単独では対抗できないという強い危機感を抱き、反信長という一点で結束する動きを加速させたのである。

この戦いは、戦争において「戦術的勝利」が必ずしも「戦略的優位」に直結しないという普遍的な教訓を示す好例である。信長は姉川という「点」での戦いには勝利したが、その結果、彼の敵は減るどころか増大し、より強固な連合体を形成するという「面」での戦略的失敗を招いた。

姉川の戦いの直後から、摂津では三好三人衆が再蜂起し、石山本願寺が信長に対して公然と敵対行動を開始 5 。さらには甲斐の武田信玄や、西国の毛利輝元などもこの動きに呼応し、後に「信長包囲網」と呼ばれる、信長の生涯で最大の危機的状況が現出するのである 8 。姉川での勝利は、信長を一時的な危機から救ったが、同時に彼をより長期的で大規模な多正面作戦へと引きずり込む、苦難の始まりでもあった。

第五章:姉川を巡る逸話と史実の検証

第一節:信長の首を狙った男 ― 遠藤直経の突入説

姉川の戦いには、数々の逸話が残されている。その中でも特に有名なのが、浅井家の重臣・遠藤直経(なおつね)が信長の首を狙って敵本陣に突入したという話である 9

この逸話によれば、直経は味方の武将の首を携え、戦功報告を装って織田本陣に潜入し、信長に肉薄したとされる。しかし、その殺気を見抜いた竹中半兵衛の弟・久作によって見破られ、討ち取られたという 9 。この暗殺計画の真偽を直接証明する史料はない。しかし、興味深いのは、古戦場跡に現存する直経の墓「遠藤塚」の位置である 9 。この塚は、信長が当初本陣を構えたとされる「陣杭の柳」から、南へ200メートル以上後退した地点にある 9 。これは、逸話の真偽はともかくとして、遠藤直経を含む浅井軍の一部隊が、織田軍の防衛線を深く突破し、信長本陣を直接脅かすほどの猛攻を加えたことの有力な傍証となりうる。

第二節:徳川史観による脚色 ― 徳川軍の功績は誇張されたか

姉川の戦いにおける徳川軍の活躍、特に榊原康政の側面攻撃が戦局の転換点となったことは事実である。しかし、江戸時代に入り、徳川家が天下を治めるようになると、初代将軍である家康の功績を称揚する軍記物が多く編纂された。その過程で、姉川の戦いにおける徳川軍の役割が、実態以上に誇張されて語られるようになった可能性が指摘されている 9

特に、「浅井軍の猛攻に崩壊寸前だった織田軍を、徳川軍の活躍『だけ』で救った」という物語は、徳川の治世を正当化するための史観(徳川史観)が色濃く反映された結果であると考えられる 9 。織田軍の奮闘や稲葉一鉄ら別動隊の貢献を考慮すると、徳川軍の功績は決定的ではあったものの、勝利はあくまで連合軍全体の力によってもたらされたと見るのが妥当であろう。

第三節:三つの合戦名 ― 誰にとっての戦いだったのか

この合戦は、一般的に「姉川の戦い」として知られている。しかし、この呼称は主に徳川方の記録に見られるものである 3 。当時、それぞれの勢力は、この戦いを異なる名称で呼んでいた。

  • 織田方 : 「野村合戦」 5
  • 朝倉方 : 「三田村合戦」 3
  • 徳川方 : 「姉川合戦」 7

この名称の違いは、各勢力が自軍が主として戦った場所の地名でこの合戦を認識していたことを示している。これは、戦国時代の「連合軍」が、現代的な意味での統一された指揮系統を持つ一体化した軍隊ではなく、それぞれが独立した指揮権を持つ軍団の集合体であったことを物語る、興味深い事実である。これらの呼称や逸話は、戦闘そのものの事実だけでなく、後の時代がその出来事をどのように記憶し、解釈し、自らのアイデンティティ形成のために利用してきたかという、「歴史の受容史」を我々に教えてくれる。

結論:姉川の戦いが残したもの

姉川の戦いは、織田信長の天下布武の過程における、極めて重要な一里塚であった。義兄弟であった浅井長政との同盟を力で断ち切り、戦術的に圧勝したことで、信長は近江における覇権を固め、その後の飛躍の足がかりを掴んだ。

しかし、本報告書で詳述してきたように、その勝利はあまりにも大きな代償を伴うものであった。この一戦は、信長の強大さを逆説的に証明し、潜在的な敵対勢力を反信長の下に結集させる引き金となった。戦術的な勝利が、より大きな戦略的包囲網を現出させたのである。この意味で、姉川の戦いは信長を最大の苦境へと導いた、皮肉な勝利であったと言わねばならない。

また、この戦いは、個人の武勇が戦場を支配した時代から、組織的な戦術と合理的な判断が勝敗を決する新しい時代への転換点としての性格も帯びていた。磯野員昌の猛攻と、徳川家康の冷静な側面攻撃命令との対比は、まさにその象徴である。

戦術、戦略、政治、そして後世の記憶に至るまで、姉川の戦いは多面的な意義を持つ。それは単なる過去の一合戦ではなく、戦国という時代の複雑性、そして戦争という行為が内包する普遍的な教訓を、姉川の血塗られた流れの中から現代に伝え続けているのである。

引用文献

  1. 姉川の戦い古戦場:滋賀県/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/dtl/anegawa/
  2. 姉川の戦い(アネガワノタタカイ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%A7%89%E5%B7%9D%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84-26456
  3. 【史跡めぐり】義兄弟が生死を懸けた姉川の戦い!あなたは織田派?浅井派? https://mediall.jp/history/12687
  4. 姉川の戦い/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/11094/
  5. 姉川古戦場 - 埋もれた古城 表紙 http://umoretakojo.jp/Shiro/Tokubetsuhen/Anegawa/index.htm
  6. 姉川の戦い~織田・徳川と浅井・朝倉が大激戦 - WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/4057
  7. 「姉川の戦い」はなぜ起こった? 合戦の経緯と主要人物をチェックしよう【親子で歴史を学ぶ】 https://hugkum.sho.jp/448951
  8. [合戦解説] 10分でわかる姉川の戦い 「弱い信長軍を救ったのは強い家康軍でした」 /RE:戦国覇王 https://www.youtube.com/watch?v=buLzuWYxJYI
  9. 歴史シリーズ「近江と徳川家康」① 姉川古戦場 - ここ滋賀 ... https://cocoshiga.jp/official/topic/ieyasu01/
  10. どこにいた家康 Vol.15 姉川古戦場 - 武将愛 https://busho-heart.jp/archives/11547
  11. 「姉川」が決戦地となった理由とは?:「姉川の戦い」を地形・地質的観点で見るpart2【合戦場の地形&地質vol.4-2】 - note https://note.com/yurukutanosimu/n/n1c086e9754ae
  12. 徳川家康の「姉川の戦い」の背景・結果を解説|家康の機転で形勢逆転した戦い【日本史事件録】 | サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト - Part 2 https://serai.jp/hobby/1123503/2
  13. ~浅井の猛将・磯野員昌~ 姉川で見せた十一段崩し - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=2tH-8qvgQPg
  14. 姉川の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%89%E5%B7%9D%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  15. 1570 姉川之戰: WTFM 風林火山教科文組織 https://wtfm.exblog.jp/15555941/
  16. 磯野員昌 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A3%AF%E9%87%8E%E5%93%A1%E6%98%8C
  17. 金ヶ崎合戦、姉川の戦いで徳川家康は一体どうした⁉ - 歴史人 https://www.rekishijin.com/26842
  18. 姉川合戦図 | デジタルミュージアム - 長浜城歴史博物館 https://nagahama-rekihaku.jp/digital-museum/70
  19. 姉川古戦場 https://gururinkansai.com/anegawakosenjo.html
  20. 史蹟 - 岐阜市 https://www.city.gifu.lg.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/005/148/chapter_4_s.pdf
  21. 姉川の戦|国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典 - ジャパンナレッジ https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=2375